諸行無常・平清盛の死
養和元年(1181年)2月4日、平家全盛の時代を築き、栄華を極めた平清盛が亡くなりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平清盛が亡くなる前の年・治承四年(1180年)は、まさに運命の年でした。
都を京都から福原に遷して、海外貿易によってこの国を変えようという夢の実現に奔走していた清盛。
しかし、この年の近畿地方は大変な飢饉で、なかなか思うように事は運びません。
そんな中4月には、以仁王(後白河法皇の息子)が「平家追討の令旨(天皇家の命令書)」を発し、5月には源頼政とともに反旗をひるがえします(ブログ:5月26日参照)。
その戦いに圧勝した清盛は、半ば強制的に自分の孫・安徳天皇を即位させ、6月には福原に都を遷しますが、当然、その事に心から賛同する公家はほとんどいませんでした。
やがて、8月には伊豆で源頼朝が(ブログ:8月11日参照)、9月には北陸で木曽(源)義仲が(ブログ:9月7日参照)相次いで挙兵します。
飢饉にあえぐ平家と、東国で力をつけてくる源氏・・・。
10月には対頼朝との富士川の合戦で、平家は大敗をしてしまいます(ブログ:10月20日参照)。
結局11月には、わずか半年で福原を捨て、もとの京都へ都を戻します(ブログ11月26日参照)。
富士川の合戦での孫・惟盛の大将ぶりに、苛立ちさえ感じていたに違いない清盛。
体制を立て直し、自らが出陣する覚悟を決めていました。
ところが、準備も整い、明日はいよいよ出陣・・・という時、清盛は突然発熱するのです。
その発病がいかに突然で、まわりの人たちをアタフタさせたかは、平家物語にもよく現れています。
『比叡山より千手井の水を汲み下し、石の船にたたえ、それに下りて給え給えば・・・』
とにかく、比叡山から霊験あらたかな水を汲んできて石の船に入れるとすぐにお湯になってしまい、もしやと思って筧の水を体にかけてみると、焼けた石や鉄の上のようにたちまち蒸発して、炎となった黒い煙が部屋中に渦を巻いた・・・というのです。
さすがに、この表現はオーバーですが、それだけ、まわりの緊張感が伺えます。
体は、火のように熱く、清盛はただ「熱い、熱い」と叫ぶばかりで、清盛の寝ているまわり四~五間(10mたらず)くらいは、看病する人すら暑さに耐えられなかったそうです。
そんな苦しみの中でも清盛は、源氏追討の兵を挙げるように、息子・宗盛に命じ続けますが、ほぼ一代で平氏を武門のトップにまで上らせた、言わば「たたきあげ」の清盛に対して、坊ちゃん育ちの二代目・三代目は、病気に苦しむ父親をおいて、合戦をする事ができなかったんですね~。
初代ワンマン社長の会社で、よくある光景です~。
清盛は枕元に宗盛を呼んで、遺言とも言える言葉を残します。
「保元・平治の乱からこれまで、幾度となく合戦で勝利し、恩賞にも預かり、天皇の外戚となって太政大臣にまでなった・・・もう、何も思い残す事はない・・・ただ一つの無念は兵衛佐(頼朝)の首を見れなかった事・・・俺が死んでも供養はするな!堂塔もいらん!すぐに兵を挙げ頼朝の首をはねて、墓前に供えろ・・・それが、一番の供養だと思え!」
この遺言のためでしょうか、清盛のお墓と言われる物は今もありません。
栄華を誇った六波羅蜜寺の本堂の横に、ひっそりと「平清盛公之塚」が建っていますが、これはお墓ではなく供養塔です。
そして、2月4日のこの日、清盛は死を迎える事になります。
発熱から、5日めの事でした。
平家物語には、『・・・悶絶躃地(もんぜつびゃくち)して、遂にあっち死にぞし給いける。馬・車のはせちがう音、天もひゞき大地もゆるぐ程なり・・・』と、あります。
「あっち死」とは熱死という意味・・・熱い熱いと叫び、狂ったように苦しんで亡くなった清盛を、慌てふためく平家の人々はどのような思いて看取ったのでしょう。
東から迫る頼朝・・・北から来る義仲・・・大きな柱を失った平家は、この日から坂道を転げ落ちるかのように落日へと向かって行くのです。
←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします
「 源平争乱の時代」カテゴリの記事
- 先んずれば制すー保元の乱(2006.07.11)
- 保元の乱に散った藤原頼長の悲しい末路(2009.07.14)
- 全盛の平家に一矢報いた以仁王~その生存伝説(2009.05.26)
- 衣川の合戦~義経・主従の最期(2009.04.30)
- 逆賊・平清盛を追討せよ~「以仁王の令旨」下る(2009.04.09)

コメント