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2007年2月22日 (木)

聖徳太子・死因の謎

 

推古三十年(622年)2月22日、聖徳太子が49歳でお亡くなりになりました。

・・・・・・・・・・・

聖徳太子に関しては、このブログでも何度か書かせていただいておりますが(1月26日参照>>)、今日はご命日という事で、その死の謎を中心に書かせていただきたいと思います。

こと、聖徳太子の生涯と、大化の改新(乙巳の変)(6月12日参照>>)は、古代史の中でも、何やら違和感の残る謎多き出来事・・・。

これは、ひとえに、「蘇我一族の歴史を消したい藤原一族のなせるワザ」と言えなくもないわけですが、おかげ様で、あーだこーだと推理の花も咲くわけで、ある意味、感謝ですね。

ところで、聖徳太子の死因についてですが・・・公には伝染病にかかって亡くなった事になっています。

その伝染病は、前年の暮れに太子の母親を死に追いやり、最愛の妻・膳部妃(かしわでのひ)を襲い、妻が死んだ次の日に、太子はこの世を去るのです。

『日本書紀』には、厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子の事)が斑鳩の宮で亡くなり、皆悲しんだ』という事が書かれているだけで、なんともあっさりした、そっけないくらいの書き方です。

Syoutokutaisicc 聖徳太子の偉業として、あれだけのすばらしい業績を並べ立てておきながら死因も書かないあっさりぶり・・・「何だそりゃ!12月が近づいて最後まで収まりきれない事に気付き、慌てていろんなエピソードを削り始めた大河ドラマか!」って感じです~。

こうなると、これは「実際に偉業を成し遂げたのがこの日死んだ本人ではなかった」か「公表できない死に方」だったか、のどちらかではないかと思うわけです。

まず、前者の場合・・・
『日本書紀』は、ご存知のように、敵・蘇我氏を倒して頂点にのし上がった藤原一族の書いた歴史ですから、蘇我氏のやった悪い事はそのまま蘇我氏のやった事として記録し、蘇我氏のやったすばらしい偉業は・・・「そう、ここに一族が断絶しちゃったちょうど都合のいい皇子がいるから、この人がやった事にしときましょう」って、なったのではないでしょうか?

この時、聖徳太子が亡くなってから、すでに100年近くの年月が経っている事を考えると、有名人じゃ無かったために、死に関するちゃんとした記録がないので、やむなく、こんな書き方になっちゃった・・・という事ではないでしょうか?

次に、やっぱり気になるのは後者の「公表できないような死に方だった」場合です。

これは、いろんな事が考えられます。

まず、平安時代に書かれた『聖徳太子伝暦』・・・これは、太子の事に関して、かなりくわしく書かれているものの、荒唐無稽な神話のような話も混じっていて、どこまで信用できる物かは計りかねますが、とにかく、これによると、太子は生前、自分の墓を造る際に、「○○年の春に死ぬから工事を急げ」などと指図をしています。

そして、死ぬ前夜、妻の膳部妃を呼び寄せ、「僕は、今夜あの世へ行くから、一緒に行こう」と誘うのです。

それから、膳部妃を沐浴させて身を清め、その後、自分も沐浴して、同じベッドに入り、翌朝、遺体で発見されるのです。

この通りだと、明らかに自殺・・・しかも彼女との心中という事になります。

この事が無視できないのは、今も残る聖徳太子のお墓に、この膳部妃が一緒に埋葬されているからです。

当時、太子には身分のりっぱな奥さんが、膳部妃以外に、三人いました。

膳部妃は、太子が三輪明神でひっかけた恋人・・・当然一般人です。

並み居る正室と側室がいるにもかかわらず、一般人の彼女が同じお墓に埋葬されているのは、この心中事件が本当の事だから?・・・という事も考えられます。

・・・で、次に自殺ではなかった場合・・・他殺って事になると・・・

これは、まず、太子が死んで一番得をする人を考えなければなりませんが・・・そうなると、33代・推古天皇の後に天皇になる田村皇子=34代・舒明天皇か?

しかし、田村皇子は、30代・敏達天皇→31代・用明天皇→32代・崇峻天皇と3代続く兄弟天皇の一番兄である敏達天皇の孫で、太子は弟の用明天皇の息子。

血筋としては、やはり長男が優先・・・て事になると、そんなに急がなくても、いずれ皇位は回ってきそうです。

しかも、田村皇子は、太子の建立したお寺を、バトンタッチしてさらに大きくする・・・といった太子に敵意を持っているとは思えない行動をしているので、可能性は薄いように思います。

では、太子とともに政治を行った推古天皇蘇我馬子の仲良しコンビはどうでしょう?

たしかに、始めは三人で仲良く政治をやっていたのが、途中からおかしくなってきますから、敵意を持っていた事も考えられます。

しかし、その途中からおかしくなってきた時点で、太子は、都の飛鳥から離れた斑鳩の宮(法隆寺の夢殿のあたりにあった)に引きこもってしまいますから、ここで、もう推古天皇と馬子の勝ちが決定したような物です。

政治の表舞台から身を引いて、斑鳩に隠居した太子をあえて殺害する必要があったとは考え難いのではないでしょうか?

では、彼ら以外で聖徳太子が邪魔になった人はいるのでしょうか?

遠く異朝に目を向けてみましょう。

「日出(い)ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」という手紙をに送って煬帝(ようだい)怒らせてしまった話は有名ですが、

これは、駆け引き無しの失態なのか?
計算ずくのハッタリなのか?
一か八かの賭けだったのか?

しかし、煬帝は「そんな手紙な二度と見たくない!」と怒った・・・というわりには、その後、何かをしてきた形跡はありません。

怒りの返事を、遣隋使の小野妹子に持たせたくらいの事しかしてませんね。

ただ、この返事の手紙は、妹子が途中で紛失したため、内容はよくわかっていませんが・・・(7月3日参照>>)

「煬帝さんお怒り」の文章だったため妹子がわざと失くしたフリをした・・・という説もありますが、とにかく、それによって日本を攻めるなどという事もなかったのです。

なぜならば、当時の隋にとって、身近にせまる“目の上のタンコブ”が、他にあったからです。

それは、朝鮮半島情勢

新羅百済高句麗がせめぎあう朝鮮半島に睨みを効かせるためには、その向こう側にある小さな島国・日本と「仲良くしておく必要がある」と思っていたのではないでしょうか?

煬帝は、高句麗と小競り合いを起こしたかと思うと、逆に、百済と高句麗に「日本と協力して新羅を討て」と言ったりしています。

朝鮮半島の情勢をかなり気にしていた様子が伺えます。

そして、朝鮮半島の国の中での注目は新羅・・・その昔、朝鮮半島にはもう一つ、任那(みまな)という国があったのです。

任那も他の国と同様、日本に使者と貢物を定期的に送っていたのですが、太子の時代、その任那は新羅に統合されてしまっていました。

にもかかわらず、太子は新羅に、任那の分と合わせて2カ国分の使者と貢物を要求していたのです。

朝鮮半島の各国にとっては、隋の後ろ盾がある日本には、容易に敵対心をあらわにする事はできなかったようで、新羅は素直に2カ国分の使者と貢物をしばらくは続けていたようです。

しかし、時代は変ります。

太子が亡くなる4年前、煬帝が死に、隋が滅び、唐が起こります。

当然、国が変れば、新しく外交関係を築きあげなければなりません。

そんな中、推古三十年(622年)2月22日聖徳太子が亡くなるのです。

そして、その翌年、新羅は「今後は、任那の分の使者と貢物は中止する」と通告してくるのです。

果たして、この事は、聖徳太子の死と関わりがあるのでしょうか?
個人的には、かなり臭いますが・・・。

最後に、残るは事故死ですが、もうこれは考え出したらきりがありません。
なにしろ偶然が伴う物ですから・・・。

歴史という物は、誰もその目で確認する事ができない以上、「絶対」という事はありえません。

新しい発見があれば、それを踏まえてもう一度考え直すと、当然今までの見解とは変ってきます。
教科書だって書き換えられます。

小学校の頃、教科書で見た聖徳太子を病死として疑わなかったあの日から、新たな情報を得るたびに、私の中の太子は紆余曲折の人生を繰り返します。

「お前の意見には一貫性が無いのか!」と言われそうですが、そこのところは、「一貫性が無いのではなく、柔軟なのだ」という寛大なお心でお願いします。
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コメント

歴史は想像の余地があるからおもしろいもの。聖徳太子の死の原因も色々あるのですね。さときち的には結構あっけない死ではなかったかと推測しますが。(妄想ですw)
「聖徳太子じゃない像」ですかw 昔と今とでは教科書全然違うんです。ビックリ。

投稿: さときち | 2007年2月22日 (木) 23時24分

さときちさん、こんばんは~。

今、教科書はどんどん変っていってるみたいですね。
「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」も、幕府の成立をどの時点で成立とするのか?で、1192年ではなくなりますからねぇ。

まぁ、私が習った頃は「富本銭」も発見されてない頃ですから・・・。

教える方も大変でしょうね。

投稿: 茶々 | 2007年2月23日 (金) 00時47分

はじめまして。
「聖徳太子死因の謎」。興味深く読ませていただきました。
最後の、「一貫性がないのではなく、柔軟なのだ」というのは大切ですよね。立場が違えば見方も変わってきますし。
太子に関しては『悪徳の聖人 聖徳太子』なんて本もあるくらいですしね。
どれだけ研究が進んだとしても、現実にどうだったかなんて、中々言いきれませんよね。
重要なのは何故そう考えられているのかを考えること。だと思います。
そうゆう勉強のし方をすれば、歴史を面白いと感じることが出来るはず。
「歴史は暗記科目」と言いきる学生が多いと、少し寂しさを感じます。
ちょっと話がずれましたか・・・?
とりとめもなく、失礼しました。

投稿: じお | 2007年4月 3日 (火) 18時27分

>じお様・・・
はじめまして、コメントありがとうございます~。

>「歴史は暗記科目」と言いきる学生が多いと、少し寂しさを感じます。

おっしゃる通り、勉強としての歴史は教科書に書いてある事がすべてで、書いてない事を書くと×になってしまいます。

本来、歴史という物は、そんなに簡単に○×をつけれる物ではありませんからね~。

謎を解く楽しさは、皆共通・・・ホントの歴史はとってもオモシロイと思うんですけど・・・

投稿: 茶々 | 2007年4月 3日 (火) 20時01分

宿題の新聞に一部引用してもよろしいでしょうか?

投稿: 加藤 | 2014年6月 2日 (月) 02時33分

加藤さん、こんばんは~

宿題ですか~頑張ってくださいね。
こんなんでよろしければ使ってください。。

投稿: 茶々 | 2014年6月 2日 (月) 02時47分

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