青葉の笛~一の谷の合戦
寿永三年(1184年)2月7日は、源平合戦の中でも名高い一の谷の合戦のあった日です。
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前年、木曽義仲によって京を追われ、西海に逃走していた平家(7月25日参照>>)。
その後、源頼朝と義仲の対立によって源氏同士がモメている間に、屋島から少し戻り、かつて平清盛が一時都を構えた福原(現在の神戸・11月26日参照>>)に落ち着いていました。
しかし、粟津で義仲を討ち取った(1月20日参照>>)範頼・義経の源氏軍は、大阪・摂津に入り、いよいよ次のターゲット=平家に狙いを定めます。
平家軍は一の谷に西の城郭を構え、生田の森(現在の生田神社)を正面大手口として守りを固めます。
対する源氏軍は、範頼が5万6千の兵を率いて大手・生田の森から、義経が2万の兵を率いて搦手(からめて)一の谷から攻めかかる作戦とし6日の明け方には準備を整え、配置につきます。
そして、寿永三年(1184年)2月7日の朝早く、一の谷・西の城郭から歴史に残る合戦の火蓋が切って落とされるのです。
それにしても、この一の谷の合戦は、平家物語でも屈指の名場面揃い・・・。
生田の森の激戦・・・
一の谷の大将・忠度(ただのり)の最期・・・
そして、義経の鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし・・・
今回は何をチョイスしようか?と迷ったあげく、やはりどうしても外せない名場面・青葉の笛で知られる美少年・敦盛の最期と決めました~。
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朝6時頃始まった一の谷の合戦も、5時間程で終盤にさしかかり、次々と平家の名だたる武将が討ち取られ、すでに勝敗は目に見えていました。
西の城郭に一番乗りの名乗りをあげた熊谷次郎直実は、「もはや負けが決まった平家軍・・・こうなったら、名のある武将が海へ逃げようとするに違いない」と考え、もう一つ手柄をたてようと、海岸へ馬を進めました。
浜辺へたどり着くと、今まさに一人の武者が、波打ち際から沖の船へめがけて、馬で海に入った所に出くわしました。
『練緯(ねりぬき)に鶴ぬうたる直垂(ひれたれ)に、萌黄匂いの鎧を着て、鍬形(くわがた)打つたる甲の緒をしめ、金(こがね)作りの太刀をはき、二十四差いたる切班(きりふ)の矢を負い、滋藤(しげどう)の弓持って、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いて、乗ったる武者ただ一騎』・・・長いファッションチェックですが、とにかく、高級なブランド品に身を包んで、名馬に乗っためちゃめちゃカッコイイ武将が、そこにいたわけです。
「そこにいるのは、名のある大将軍だろ?敵に後ろを見せて逃げるなんて、カッコ悪いッスよ。引き返して来いよ~」
この直実の呼びかけに答え、その武者は海から引き返して来ます。
岸にあがろうとするところを、直実はガシッ!と組み、相手もろとも浜辺の上にころげ落ちます。
そして、サッと体を返し、相手の上に回り、上から押さえつけて首を切ろうと、刀を大きく振り上げます。
ふと、自分の下に組み敷かれている武将の顔を見た直実・・・その人は、年の頃なら16~7歳・・・顔には薄化粧をほどこした匂うような美少年。
あまりの美しさに、どこに刀を突き立ててよいかわからない・・・。
しかも直実には、同じ年頃の息子がいます。
その息子が、今日の一の谷の合戦で少しばかりケガをした・・・
「そんなちょっとしたケガでも親(自分)は心を痛めるのに、もし、この人を討ったら、その親はどんなに悲しむ事だろう・・・」
直実は心を決めました。
「もう、すでに勝敗は決まった・・・アンタを斬ったところで、負ける戦に勝つわけもなく、斬らなかったからと言って、勝つ戦に負ける事もない。命はお助けする、名前を教えてくれ」
そう言って刀を引っ込めました。
「そう、おっしゃるアナタはどなたです?」
若武者が聞きます。
「俺は、たいしたヤツじゃない・・・武蔵の国の熊谷次郎直実というモンだ」
「なら、僕はアナタにとって良い相手だと思いますよ。思うところがあって名乗る事はしませんが、僕の首を取ったら誰かに尋ねてみるといい、きっと僕を知ってる人がいるから・・・」
その気品ある立ち居振る舞いに、直実はますます彼を殺せなくなり、その場を立ち去ろうと、後ろを向きました。
直実は愕然とします。
振り向いたその先に、土肥実平(どいさねひら)と梶原景時(かじわらかげとき)の二人が50騎ばかりの兵を引き連れてやって来るのが見えたのです。
もう、無理です。
二人っきりなら何とかなりますが、大勢の武者たちの前で、多分大将クラスの武将をそのまま見逃すわけにはいきません。
若武者の方に振り返った直実の目には、もう涙があふれて止まりません。
「申し訳ない。見逃そうと思ったが、こうなったら俺が見逃しても、誰かがアンタの首を取るだろう。どうせ、誰かの手にかかるなら、この直実が討つ」
そう言って、もう後先わからず、無我夢中で刀を振り下ろしました。
直実はしばらくの間、そこに立ちすくんで泣いていましたが、ようやく我に返り、その若武者の首を包もうと着物を脱がせました。
すると、その若武者が腰の所に、錦の袋に包んだ笛をさしているのを見つけたのです。
直実はふと、昨日の夜の事を思い出します。
昨日の夜、決戦を間近にひかえ、不穏な空気に包まれていたこの一の谷一帯・・・。
その時、どこからともなく、美しい笛の音が聞こえてきたのです。
夜空に響くその笛の音は、そこが戦場である事を忘れさせ、源氏にも平家にも分けへだてなくひと時のやすらぎを与えてくれたのです。
「ゆうべの笛の音は、この人だったのか・・・。東国から来た源氏の武将は何万といるが、戦場に笛を持って来るようなヤツはいない。なんと、気品あふれる人だろう」
『・・・当時味方に東国より上ったる勢、何万騎かあるらめども、軍(いくさ)の陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈(じょうろう・身分の高い人)は、なおもやさしかりかり』
直実はこの事をきっかけに、武士の空しさを知り、仏門に入る決意をするのです。
後に首実検で、この若武者は、平清盛の弟・経盛の息子の敦盛であった事がわかるのでした。
滅び行く者のあわれ・・・涙をさそう名場面です。
一の谷の合戦で捕えられた平重衡については【ブログ:3月10日:重衡と輔子】へどうぞ→
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コメント
敦盛の遺体は、父の平経盛に届けられた、当時経盛は淡路島の福良(現在の南あわじ市)に住んでおり、港の中の小さなお椀を伏せた様な島で荼毘に付した、その煙が上がったことより,以来その島を「煙島」と呼ぶようになった、今もその島の頂上に墓が残されている。伝説ではその島に生える竹には節が無いー笛には節が無いからーと伝えられたが、これはマユツバでしょう。
以上蛇足ながら、一の谷のその後として書いてみました。
投稿: yusaku | 2007年2月 9日 (金) 17時36分
yusakuさん、コメントありがとうございました~。
そうなんですか?
須磨公園に胴塚が、須磨寺に首塚があるので、てっきり源氏の手によって埋葬されたのかと、思っていました~
ちゃんと、お父さんの所に届けられていたんですね。
よかったです~。
投稿: indoor-mama | 2007年2月 9日 (金) 19時05分