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2007年2月23日 (金)

織田信長とモザンビークの黒人・弥介さん

 

天正九年(1581年)2月23日、来日中の巡察師・ヴァリアーノ神父が織田信長と謁見し、信長さんが初めて黒人さんと対面しました。

・・・・・・・・・・・

日本人が多くの外国人と接するようになったのは、やはり天文十二年(1543年)の種子島・・・ポルトガル人が漂着して、鉄砲を伝えた(8月25日参照>>)時からです。

もちろん、それまでも外国人は来日していましたが、ほとんど中国人朝鮮人で、見た目には日本人と、そんなに変らない東洋系の人々でした。

しかし、この鉄砲伝来をきっかけに、ポルトガル人はもちろん、スペイン人イタリア人といった見た目にも明らかに外国人の人たちが続々とやって来るようになるのです。

やがて、6年後の天文十八年(1549年)に、あのフランシスコ・ザビエルが来日(7月3日参照>>)し、本格的にキリスト教の伝道活動を始めます。

これらのヨーロッパの人たちは、日本に来航する船の水夫として、アフリカの黒人奴隷を連れている事が珍しくなく、当然、日本の人々も、彼らを目にする事となります。

現在残る最初の黒人さんの記録は、天文十五年(1546年)に薩摩の山川港に入港した船に乗っていた黒人さん

とにかく、何日もその噂で持ちきりで、大勢の人が何キロも離れた村から見物に訪れ、大変な騒ぎだったようです。

そして、今回のヴァリアーノさん。

天正七年(1579年)に来日して、九州の各地を巡り、その後、堺から京の都に入り、天正九年には京都の南蛮寺(教会)に滞在していました。

このヴァリアーノさんが、黒人を連れていたために、近所は大騒ぎ・・・南蛮寺の門前には見物人が押し寄せ、けが人が続出。

この事が、信長さんの耳に入り、「会ってみたい」という事になり、天正九年(1581年)2月23日この日の謁見・・・となったわけです。

生まれて初めて黒人さんを見た信長さん。
どうしても、その肌の色が信じられません。

疑問に思った事は何でも自分で確かめないと気がすまない性格の信長さんですから、
「墨を塗ってるかも・・・」と、とうとう、タライを持ってきてゴシゴシと体を洗う事になりました。

しかし、当然の事ながら洗っても洗っても、肌の色は変りません。

ここで、誤解のないように、付け加えておきますが、信長さんが黒人さんの体を洗わせた行為・・・決して差別的な意識があった訳ではありません。

信長さんは、今まで見た事がなかったから不思議に思って、そんな行動に出ただけです。

その証拠に、一目でこの黒人さんを気に入った信長さんは、即、ヴァリアーノ神父から彼を譲り受けますが、ヴァリアーノ神父が奴隷として扱っていた彼を、ちゃんと、側近として従者の列に加えています。

Yasukecc

その黒人さんは、アフリカ・モザンビークの出身で、身長182cmの大きな体格。

しかも、力も強く、相当頭も良かったみたいで、この時すでにカタコトの日本語を話していたらしく、信長さんはますます気に入って、「弥介・・・弥介」と呼んで、おおいにかわいがり、どこに行くにも連れて行ったと言います。

森蘭丸さんと同じくらいかわいがっていたみたいですよ。

・・・で、この弥介さん。
当然の事ながら、本能寺の変(6月2日参照>>)の時も、信長さんのそばにいました。

もちろん主君を守って戦いますが、信長さんが、本能寺に火を放って自刃した後、本能寺を脱出。

二条御所にこもっていた信長の息子・信忠のもとへ馳せ参じ、今度はここでも戦い続けます。

しかし、朝になって、「もはやこれまで・・・」と信忠以下、家来たちが自害し始めた頃、たまたま彼に近づいた明智光秀の家臣が降伏をうながすと、素直に刀を渡し、それに応じました。

光秀は、「彼は状況を知らないし、日本人でもないのだから、処刑せずに国に送り返せ」と言ったとそうです。

しかし、ここで、弥介さんの消息はピタリと無くなります。

殺されはしなかったものの、その後の行方はわかりません。

光秀が命じたように国に帰ったのか?
そのまま日本のどこかで暮らしたのか?

大河ドラマか、お正月のスペシャルな時代劇かは忘れましたが、チラリと弥介さんらしき人物が登場していたドラマもありましたが、その時もセリフすら無かったような気がします。

本能寺の変のシーンになると、あれだけ森蘭丸が登場するのですから、たまには弥介さんの登場するドラマも見てみたいですね。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

おお! これまた興味のある話。弥介さん、その後どこかで生きていた痕跡をどこかに残してないかな?想像すると眠れません(笑)しかし、びっくりしたんでしょうね、当時の日本人は。見物でケガ人発生ですか。野次馬は今も昔も変らないですね。

投稿: さときち | 2007年2月25日 (日) 00時38分

さときちさん、おはようございます。

私も、弥介さんのその後が、メチャメチャ気になります。

当時だと普通にしてても、ものすごく目立ちますから、なかなかこっそりと暮らす事は難しかったでしょうね。

誰か外人の神父さんのもとにでも身をひそめたんでしょうか?

光秀=天海や義経=ジンギスカンみたいに、実は誰々でした~的な話に展開すれば楽しいんですけどね。

投稿: 茶々 | 2007年2月25日 (日) 06時11分

竹中直人が豊臣秀吉役で出ていたドラマに確
か結構、弥介が出ていたと思います。確か、
そのドラマでは、本能寺の変で、殺されたよ
うな気がします。

投稿: | 2007年9月18日 (火) 22時03分

おお。そうでしたか・・・弥介さんの出ていたドラマがあったのですね。
知りませんでした~。

ドラマだとそういう事もアリですね・・・以前、巴御前が木曽義仲と一緒に死ぬドラマもありましたからね。

ドラマの場合は監督さんの意向で、ドラマチックな演出にしていただければ良いですからね。

投稿: 茶々 | 2007年9月18日 (火) 23時31分

とおりすがりですが、面白くてつい読みふけってしまいました。

現在モーニングで連載中の漫画『へうげもの』に弥助、結構重要な役どころで出ておりましたよ。

投稿: あんでっど | 2007年10月15日 (月) 23時58分

あんでっど様・・・
コメントありがとうございます。

おお・・・やっぱり漫画は侮れませんなぁ。

「花の慶次」にしろ、「るろ剣」にしろ少年誌でも、けっこうマニアな人がクローズアップされてたりしますからね。

「へうげもの」は名前しか聞いた事ありませんでしたが、気になってきました・・・。

投稿: 茶々 | 2007年10月16日 (火) 00時30分

 こんにちわ~♪
今頃なんですが、今日の記事の中で、こちらにリンクはらせて頂きりました。なにしろ、このイラストが可愛いもので♪
私も蘭丸と並べればよかったかも~♪
 弥介さん・・その後どうしたんでしょうね。京都の南蛮寺にいた司祭と一緒に九州に行ったかなあ?(この司祭がルイス・フロイスに手紙を送っているんですよね。本能寺の変の詳しい話をしたのは弥助さんかなあ?)
マニラのヴァリニャーノのところにもどったのかしら? 西洋人にはいい待遇してもらえるとは思いませんが・・。

投稿: 乱読おばさん | 2007年10月27日 (土) 15時10分

乱読おばさんさま、コメントとリンクありがとうございます~。

ルイスに本能寺の事を話したのはやっぱり彼でしょうかね~。
信長の比叡山の焼き討ちにしても大坂夏の陣にしても、けっこう町の噂を拾い上げたりしたふしが見えますからね。

その後がやっぱり気になります・・・

投稿: 茶々 | 2007年10月27日 (土) 15時24分

本能寺の変関係の本では、弥助の存在は重く見られているようです。それゆえにか、「口封じのために秀吉に殺されたにちがいない」という結論に。
光秀が協力を期待していた細川氏あたりが信長暗殺計画を秀吉に漏らし、秀吉が来たことで、光秀に協力的だった公卿が秀吉になびいていってしまった…この時期弥助が司祭に会ったのだろうと本の著者たちも述べていますが、その後政権奪取に着手する秀吉にとって都合の悪いこと(信長様は秀吉をあまり評価していない、とか)を弥助が握っているとされて抹殺されたのではないか。読んでいるうちに自分の無知を思い知らされました。
本能寺で戦死するのとどっちがいいのか。
生き延びて(多分外国で)実は誰々でした~だったらいいのですが。

ところで、『へうげもの』のアニメは三成が水攻めをしていた回を見ただけです。最初から見たいと思ったりするけど気力が続かない……

投稿: りくにす | 2012年8月16日 (木) 00時00分

りくにすさん、こんばんは~

本能寺の新説&異説は、後を絶ちませんものね~

ところで、「信長様は秀吉をあまり評価していない」という話の出どころは、どのような文献なのでしょう?
その本の著者の方が、何を参考にして、そのように思われたのかが知りたいです。

投稿: 茶々 | 2012年8月16日 (木) 00時23分

茶々様、こんばんは。
いま、津本陽さんの本を読んでいますが、弥助さんは出てきません。
お尋ねの本は、
『本能寺の変 四二七年目の真実』明智憲三郎著 プレジデント社
『「本能寺の変」本当の謎-反逆者は二人いた』円堂晃著 並木書房

…なのですが、同時期に読んだもんでどっちだか忘れました。黒人さんへの言及は両方にあったと思ったのですが。
どちらも光秀視点だし「光秀が本能寺に進軍したのは信長の命令」とか、「本能寺到着後光秀が勝手にターゲットを信長に変更」とか似たような内容だし…光秀びいきか、朝廷好きかぐらいの違いはありますけど。
内容を確認したかったのですが、残念ながら2冊とも図書館で貸し出し中でした。

光秀によって南蛮寺に送られた弥助に当時の有力者たちが聞きたがったことは、信長家臣団の中での秀吉の地位だった、と言うことだったと記憶しています。弥助は信長側近で唯一の生き残りですから。
ところで「信長外人説」の本が紹介されています!
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/hirosilk/honnojibooks.htm

投稿: りくにす | 2012年8月20日 (月) 22時32分

りくにすさん、こんばんは~

色々と情報ありがとうございましたm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2012年8月21日 (火) 02時15分

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