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2007年3月26日 (月)

豊臣秀吉の朝鮮出兵の謎

 

文禄元年(1592年)3月26日、朝鮮出兵の指揮をとりやすい肥前(佐賀)に向かうため、豊臣秀吉が京都を出発しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じの文禄の役です。

それにしても・・・
豊臣秀吉は、この無謀とも思える朝鮮出兵を、なぜ、実行したのでしょうか?

実は、これだけの一大事にもかかわらず、多種多様な意見があって、その原因は大きな謎となっているんです。

たしかに、人並み外れた名誉欲や征服欲を持ち、体力にも衰えを感じはじめた上に、寵愛していた長男・鶴松が亡くなるなど、という事が重なった・・・と言えない事もないですが、いくら老いたとは言え、数々の激戦をこなし、天下人にまでなった人物です。

墨俣の一夜城(9月14日参照>>)中国大返し(月13日参照>>)などの、あの計画性と機動力も持っていたわけですし、一介の百姓からのし上がって、名誉も充分な程に得ているはず。

そんな秀吉の心の中が読み取れるかも知れない一通の書状が残っています。

それは、この朝鮮出兵を実行する七年前の一つの事件・・・

天正十三年(1585年)に起こったその事件によって処分した加藤作内(さくない)に対する処分理由や事件の経緯を書きつづった書状の中にあります。

その事件とは、最初は三十石の侍であった作内を、秀吉がたいそう気に入り、何かと取り立てて最後には美濃・大垣城を任すまでになりますが、多くなりすぎた家臣を養うため、その作内が「蔵入地(くらいりち)」に手をつけてしまった・・・というものです。

重要な要所であった大垣城の「蔵入地」には、いざ出陣!という時のため緊急の兵糧が納められていたのです。

この「蔵入地」というのは、直轄・・・つまり、ここの兵糧というのは、大垣城・作内の物ではなく、秀吉傘下全体の兵糧という事ですから、大垣だけのために使ってしまっては、「業務上横領」って事になります。

・・・で、激怒した秀吉が、作内の大垣城主を解任・・・という事になるのです。

その書状は
「石高の低い侍やった作内を取り立てて、大垣城を預けるまでにしたったのに、自分の家来のために蔵入分にまで手ぇつけるとは・・・。
俺は、あいつのためやったら日本はもちろん、
(中国)の国まで平定したろと思てたのに・・・。
分相応の家来を召抱えとったらえぇモンを、それ以上の家来を養おうとするさかい・・・ホンマなさけないやっちゃ」

・・・てな内容です。

しかし、この事件には、加藤作内の個人的な性格による物ではない、秀吉傘下の武将に共通する重大な事が秘められているのです。

それは、領地の問題です。

先ほども書いたように、大垣城は軍用の要所です。

重要な場所であればあるほど、その守りを強固にしなくてはならないわけで、作内も何も個人的な趣味で家来を増やしたわけではありません。

主君・秀吉の事を思えばこそ家来を増やし守りを固めようとしたのです。

これが、戦国の世なら近隣の領地を攻めて、奪った隣の国の領地を活躍した家来に分け与える事ができますが、秀吉の天下となった以上、それはもうできません。

そうなると、召抱えた家来の食いぶちが足らなくなったら、公共の米に手をつけるしか方法が無かったわけです。

これは、皆同じ・・・もはや、秀吉自身にも、その家臣たちにも、自分の家来に分け与える領地が、この日本には無くなってしまっていたのです。

この頃の秀吉にとって一番怖かったのは、自分の傘下の武将同士が領地を求めて争うという内紛状態になる事ではなかったかと思います。

そこには、そんな混乱を狙っている外国勢力もあったかも知れませんしね(10月12日参照>>)

続きのお話はブログ:4月13日【文禄の役・釜山上陸】へどうぞ→
 

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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんばんは。

大垣城の事、加藤作内(光泰)の事などが書かれてましたので、TBさせて頂きます。

確かに、茶々さんが仰るように、

もう国内では領地を与えられないから、新しい領地を求めて海外出兵したんだ

―という考え方と、

戦国の争乱を通して、昂騰し切った各大名家の軍事力を鎮静化しちゃおう

―とする意味合いがあったのではないでしょうかね?

投稿: 御堂 | 2007年3月26日 (月) 21時43分

御堂さん、TBとコメントありがとうございます~。

>戦国の争乱を通して、昂騰し切った各大名家の軍事力を鎮静化しちゃおう

そうですね。
それ、書いてませんでしたね。

おっしゃる通り、そのおかげで朝鮮出兵に関わらなかった徳川家康の軍事力が温存される事となり、その後の展開にも少なからず影響があったわけですからね。

投稿: 茶々 | 2007年3月26日 (月) 22時29分

なるほど~。日本では規模が小さかったのでしょうか。

それにしても、みんなの食料を勝手に使っちゃいかんね(^_^;)

投稿: 見習い大工 | 2007年3月28日 (水) 19時21分

見習い大工さん、こんばんは~。

こうしてみると、天下を取るのも大変だけど、それを維持するのも大変なんだなぁ~って思いますね。

そうすると、徳川300年はスゴイ!

投稿: 茶々 | 2007年3月28日 (水) 22時28分

豊臣秀吉が、朝鮮出兵を引き起こした理由が、秀吉個人の野望や私利私欲だという認識の方が、私の中では強いかもしれません。ただし、世界各国の情勢を踏まえた上で、植民地支配を回避するためであったとすれば、違う見方もできるような気がします。あと、織田信長が生前に、朝鮮出兵を計画していて、それを秀吉が、実現させようと言われているらしいのですが、真実はどうだったのでしょうか?

投稿: トト | 2016年2月16日 (火) 09時58分

トトさん、こんにちは~

>織田信長が生前に、朝鮮出兵を計画していて、それを秀吉が、実現させようと…

そういう見方もある事は存じておりますが…さぁ、どうでしょうねぇ
何が真実かは、後世の我々にはわかりませんからね~
歴史という物は、真実を追求していく事はできますが、「これが正解だ」との決定を導き出す事は不可能な物ですから…

なので、あくまで私の個人的な見解を述べさせていただくという事ならば…

大陸で布教活動をしたかった宣教師たちが、信長に「唐入り」を勧めていた事は確かでしょう。
宣教師たちによる布教活動が、スペインやポルトガルによる植民地化につながる事は、彼らの本国への手紙によって明白ですから、彼らが植民地化したい国同士がドンパチやる方向へ持って行こうとするのは当然の事だと思います。

しかし、この時点での信長は、未だ天下統一していないわけですから、宣教師たちの話に「それ、ええなぁ」と思ったとしても、まだまだ具体的には考えられなかったのでは?

その後、信長が夢半ばで倒れた後を引き継いだ秀吉にも、宣教師たちが囁き、同じように「それ、ええなぁ」と思って実行したとすれば、それは信長の夢を継いだ事にもなりますが、秀吉は晩年にスペイン側の野望を知る事になり、一気にキリスト教禁止の方向へ舵を取りながらの朝鮮出兵…

途中で秀吉が亡くなってしまうため、唐入りはできませんでしたが、日本が簡単に占領できないほどの軍事力を持った国である事をスペインやポルトガルに見せる事はできたんじゃないか?と思います。

その後、天下を取った家康が、新教国のオランダへと更なる舵取りを行い、スペインやポルトガルからの脅威を払しょくしたのでは?と考えております。

投稿: 茶々 | 2016年2月16日 (火) 16時29分

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