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2007年4月30日 (月)

義経と牛若は同一人物か?

 

文治五年(1189年)閏4月30日、奥州・藤原氏の藤原泰衡が衣川・高館を攻撃、敗れた源義経は妻子とともに自刃しました。

・・・・・・・・・・

不和になった兄・頼朝の追っ手をかわしながら、奥州の藤原秀衡(ひでひら)を頼って、平泉まで落ち延びた義経御一行・・・(11月13日参照>>)

追われる身の彼らを秀衡が大歓迎し、中尊寺の東側の丘に高館という城塞まで造り、迎え入れてくれたのは文治三年(1187年)2月の事・・・

しかし、それからわずか8ヶ月後の10月に、一番頼りにしていたその秀衡が66歳で病死してしまった事から、「反逆者の義経をかくまっていると、攻撃するゾ~」という頼朝からのプレッシャーに屈した若き後継者・泰衡(やすひら=秀衡の息子)義経の館に攻撃・・・

義経主従が奮戦するも多勢に無勢・・・やがて敗色が濃くなる中、義経は持仏堂にて妻と娘とともに覚悟の自殺をしたのです(2009年の4月30日参照>>)

義経31歳・・・あの平家を破った絶頂期からわずか四年の事でした。

しかし、苦渋の決断で義経に刃を向けた泰衡も、結局その後、頼朝に討たれてしまい奥州藤原氏も滅亡する事になります。(8月10日参照>>)

その後、滅び行く者への哀れさが判官びいきを呼んで、「義経は北海道へ逃げた」「大陸に渡ってジンギスカンになった」などと「義経=ジンギスカン説」(12月30日参照>>)まで生まれる事になるのですが、本日は義経さまのご命日という事で、もう一つの伝説・・・いや仮説について・・・。

それは、鞍馬を下り、京を出た牛若丸(遮那王)と、源氏の大将として京に戻った義経は、はたして同一人物なのか?というお話・・・。

・‥…━━━☆

そもそも・・・
正史と思われる信頼のおける書物に義経が登場するのは、頼朝の命を受けて木曽義仲を討ちに、京にやって来る(1月16日参照>>)あたりからで、それ以前の事は、どうしても伝説の域を超えない物・・・

義経の事に関する書物で一番くわしいのは、やはり室町時代に書かれた『義経記』で、現在、お芝居やドラマで描かれる義経像は、ほぼこの『義経記』の義経なのですが、その『義経記』でさえ、鞍馬を出た牛若丸が奥州・藤原氏のもとへ行くくだりを確認しているのは、金売り吉次という商人ただ一人・・・。

金売り吉次は、奥州で金を買いつけ京の都で販売をしていた人で奥州と京を行ったり来たりの生活・・・たしかにある程度手広く商売をしていたようですが、なんせ商人ですから、その素性がはっきりしません。

奥州から、京の都の様子を探るために派遣されていたスパイという事も充分に考えられる人物です。

もう一人、鞍馬山で牛若丸に「打倒!平家」をそそのかすしょうもんぼうというお坊さんが登場しますが、この人は頼朝・義経兄弟の父・源義朝(1月4日参照>>)の乳兄弟であった鎌田正清(正家)という実在の人物の息子で、出家前は田正近(まさちか)と名乗っていた人物だという事ですが、この正近が登場するのは『義経記』のみ・・・

ちなみに、その正清の息子という事では、『源平盛衰記』鎌田盛政(もりまさ)光政(みつまさ)という兄弟が出てきますが、こちらはこちらで『源平盛衰記』にしか登場せず『吾妻鏡』では、正清には、男子がいなかったとされています。

ただ、一昨年の大河ドラマをご覧になったかたは「弁慶がいるんじゃないの?」とお思いでしょう。

ドラマでは、「家来にしてくれ」と、何度も鞍馬山の牛若丸のもとに来ていましたが、当然、正史と考えられている書物にはその事は登場しませんし、その出会いの場面が一番早いであろう『義経記』でさえ安元二年(1176年)の6月=鞍馬を出てから2年後なので、一旦奥州へ行ってから、再び京へ潜入していた頃という事になってます。

もし、牛若丸と義経が別人だとするならば、鞍馬を出た牛若丸がそのまま消え、もう一人義経を名乗る人物が奥州から登場するこのタイミングで、入れ替わっているわけですから、奥州から京に戻って来た義経に出会っても、鞍馬の牛若丸と会った事にはなりません。

って事で、結局は、鞍馬の牛若丸と奥州の義経の両方を知っている人は、やっぱり金売り吉次だけ・・・アヤシイなぁ~

アヤシイと言えば、鞍馬では学問ばかりしていた(坊さんになれと言われているんだから当然なんですが・・・)はずの牛若丸が、たった数年で頼朝の前に現れた時には、ものすごい奇襲作戦や戦法を編み出す武将になっているのもニオイますね。

その違和感を消すために、「真夜中の鞍馬山で天狗に武芸を習った」とか、「陰陽師・鬼一法眼の兵法書を盗んだ」などの伝説を付け加え、つじつまを合わす事になってます。

一方で、義経が最初から秀衡の家臣だったとすると、秀衡が義経に与えてくれた佐藤継信・忠信兄弟が、命を賭けて義経を守ろうとする行動にも納得がいきますし、秀衡が死ぬ間際に残した「これより先は義経を主君と仰ぎ、皆で頼朝を倒せ」という遺言も納得できます。

もちろん、逃亡者の彼を大歓迎で受け入れるところも・・・・

そして、何より兄・頼朝のあの冷たい仕打ち、執拗なまでの追っ手が、頼朝が義経の事を奥州からのスパイだと感づいた結果の行動であるならば、ものすご~く理解できちゃいます。

私の予想としては・・・
「京の都にスパイとして派遣していた金売り吉次から、鞍馬にいた義朝の息子・牛若丸がいなくなった事(あるいは吉次が誘い出して始末した)を聞いた秀衡が、自分の家臣(または身内)を、頼朝の弟・義経だと称して、鎌倉方の様子を探るスパイとして送り込みます。

しかし、さすがは秀衡が選んだ精鋭たち(佐藤兄弟も含まれます)

みごとな戦術で平家を滅亡させ、都では大人気!後白河法皇のハートもゲット!

こうなったら、鎌倉方の様子を探るだけじゃなく、この勢いで源氏自体を頼朝からのっとる方向に路線を変更します。

しかし、その変化に気付いた頼朝・・・「本当に弟なの?」という、はなからの疑惑が確信に変り、源氏を揺るがす一大事とばかりに徹底的に排除する行動に出る。」
という感じです。

・・・と、これはあくまで仮説です。

個人的には、私も「判官びいき」・・・戦術にあれだけ長けていながら、なんだか世渡りベタなところが何とも魅力的ですから、ドラマにするなら、やっぱりそっちのほうがいい!

という一方で、したたかでウラのある義経も見てみたい気もしますが・・・。
 

Yositune8soutobi2cc 今日のイラストは、
やっぱ義経さまと言えば『八艘飛び』の勇姿!

大好きなので、イラストにもリキ入りました~

「別人説」本家HPでも展開中・・・よかったらコチラからどうぞ>>
 .

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2007年4月29日 (日)

風林火山・孫子の兵法5・軍形篇

 

さて、今日は『風林火山・孫子の兵法』の5回目、軍形篇をご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

「軍形篇」には、孫子の底辺に流れる理想の勝ち方が書かれています。

孫子が言うには、
『勝は知るべくして、なすべからず』
「勝つ事を予想する事はできるが、必ず勝つとは限らない」
のだそうです。

たしかに、戦に勝つか負けるかは「相手しだい」とも言えます。
しかしながら、それは「一か八かの賭けをする」という意味ではありません。

必ず勝つ方法はありませんが、必ず負けないようにする事は可能です。
とにかく万全の態勢で、自軍の守りを固める事・・・そうすれば、少なくとも負ける事はありません。

そして、
『先ず勝つべかざるをなして、以って敵の勝つべきを待つ』
「先に、守りを固めておいて、敵のくずれを待つ」
負けさえしなければ、そのうち、相手の態勢が崩れる時、スキを見せる時が来るものです。
その時にすかさず、攻撃を仕掛けるのです。

『九地の下に蔵(かく)れ、九天の上に動く・・・』
「守りについた時は身を隠し、攻撃する時はすかさず動く・・・」

いつ攻めるのか?・・・この判断が勝利への鍵なのです。

ただし、孫子の言うところの「守りを固める」の「守り」というのは、単に「軍の守り」だけではありません。
戦争の勝敗は五つの要素で決まるのだそうです。

『兵法は、一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝。』
「度とは、国土の広さ。
量とは、資源の量。
数とは、人の数の事。
称とは、戦力。
戦力は勝敗を決める。」

つまり、国土の広さによって資源の量の多い少ないが決まり、資源の量によって人口の多さが決まり、人の人数が多ければ戦力が増し、戦力の差が勝敗を決める・・・という事です。
国レベルかよ!って思ってしまいますが、孫子ではとにかく国の経済や治安がしっかりしている事、そのためには国を治める君主がしっかりしている事を重要視します。

『勝兵は先ず勝ちて而(しか)る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む』
「勝つ者は、先に勝ってから戦い、負ける者は戦ってから勝つ方法を模索する」
孫子に言わせれば、「勝敗はもう戦う前に決まっているようなものなのだ」というのです。

ですから、
『善く戦う者は勝ち易(やす)きに勝つ者なり。故に善く戦う者は勝つや、智名なし、勇攻なし。』
「名将は、勝ちやすい者に勝つ。だから名将は勝ったとしても、その名を知られる事はないし、賞賛もされない。」

普通、人々に絶賛されるような勝ち方をした人をすばらしい将軍だと思いがちですが、孫子からしてみれば、そういう勝ち方は最善の勝ち方ではないのだそうです。

本当の名将は、「事前にしっかりと準備を整え、勝てると思える戦いに、無理なく自然に勝つ」
だから、それが当然の事であって、あえて人々から賞賛される事はないのです。

誰もが片手で持てそうな荷物を持ったとしても、皆は当然だと思います。
それが、とてつもなく思い荷物であったとしても、普通の荷物のように持ち上げれば誰も気づきませんよね。
そんな感じで、勝利をモノにしてしまうのが名将なのです。

孫子の底辺に流れる理想は、こういった安全で自然な勝ち方・・・それは、事前の確かな準備と、総合的な判断力をもって、成す事ができるのです。

以上、今日は「軍形篇」をご紹介しました。
次の「兵勢篇」へは下のリンクからどうぞ↓
これから先はいよいよ具体的な戦い方に入っていきます。
 

★続編はコチラ→『風林火山・孫子の兵法Ⅵ兵勢篇』>>

Sonbu2cc 今日のイラストは、
『孫子』関係の本に登場する孫武さんのイラストは勇ましいのが多いので、「戦の合間のやすらぎのひととき」なんてのを書こうと思ったら女の人みたいになっちまったです~(ToT)。

まぁ、「軍師は強くなくてもいい」というとこらへんでお許しを・・・

追記:ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
 

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2007年4月28日 (土)

鬼子母神のお話

 

毎月28日は、鬼子母神の縁日・・・という事で、今日は鬼子母神について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・

「恐れ入ります・・・恐縮します」と言うところを「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神」という、昔懐かしいダジャレで有名な東京入谷鬼子母神堂をはじめ、多くの信仰を集めている鬼子母神は、一般的には、出産や保育の神様・・・時には盗難よけの神様として、各地で祀られています。

鬼子母神は、もともとインドの神様で、サンスクリット語で「ハーリティー(Hariti)」と言い、それを音訳して「訶利帝(かりてい)と呼ばれたり、意訳して「鬼子母神(きしもじん・きしぼじん)と呼ばれたり、「鬼女」と言われる事もあります。

『雑宝蔵経』第九では、彼女は老鬼神主・般闍迦(はんじゃか)=パーンチカ(Pancika)の奥さんで、かなりのべっぴんさん・・・しかも、子供が一万人!(←どんだけ産んでんねん!)

ただし『鬼子母経』では、子供は天上に500人、世間に500人の合わせて千人・・・となっていますが、とにかくメッチャたくさんの子供がいたわけです。

しかし、彼女は「鬼女」・・・主食は人間の子供なのです。

そして、子育ては体力が勝負・・・彼女は自分のかわいい子供たちを育てるために、せっせと人間の子供をさらってきては食べていたのです。

恐れおののいた人々は、彼女の事をお釈迦様に相談します。

お釈迦様は人々の訴えを聞いて一計を案じ、彼女が、旅に出ている隙に、彼女がわが子の中でもたいへんかわいがっている末っ子嬪伽羅(ひんぎゃら)を、鉢の底に隠したのです。

7日間の旅から帰って、嬪伽羅がいない事に気づいた彼女は、気も狂わんばかりに探し回りますが、どこを探しても見つかりません。

困り果ててお釈迦様のところに訪ねていきますと、お釈迦様は物静かに、やさしく彼女を諭します。

「お前には、1万人の子供がいるのに、たった一人の子供を失っただけで、そんなに取り乱すとはどーゆーこっちゃ。
人間には、お前ほどたくさんの子供は産む事はできひんねんで。
そのかわいく尊い命を、お前は奪ってたんやで~。」

彼女は子を持つ親の心を知り、「嬪伽羅が無事に戻るのであれば、必ず世の子供たちの守護神になろう」と誓い、その後は人間の子供を食べる事をやめ修行に励んだので、保育の神様として崇められるようになったのです。

鬼子母神は『法華経』を大事にする事、大事にする者を護ると誓っている事から『法華経』を経典とする日蓮宗では、特にこの鬼子母神が崇拝されています。

懺悔した鬼子母神は、とても美しい天女として描かれます。

ふところには、赤ちゃんを抱き、やさしく左手を添えて、右手には「ざくろ」を捧げ持ちます。

この「ざくろ」は、その味が人間の肉に似ているので、人間の子供を食べるのを我慢するために好んで食べた物だと言われたりもしますが、それは鬼子母神の名誉のためにも、「間違い」である事を知っていてあげて下さい。

本当の理由は・・・「ざくろ」の実は中にたくさんの種を持っていて、それぞれがまた「ざくろ」に成長して実をつけるという、子孫がたくさん増えるという意味が一つ。

そして、その実は固い外皮に覆われて大事に守られている事から、子供を守るという彼女の思いがこめられている、という意味とで「ざくろ」を持っています。

彼女が持つ「ざくろ」は「吉祥花(きっしょうか)と呼ばれます。

また、鬼子母神の「鬼」という文字・・・

鬼子母神という名前に用いる時だけ、この「鬼」という字の上の点をを取って
Kisibozinmozicc_1
と表記します。

実際には無い文字ですが、改心して頭の角が無くなったという意味でこの字を使うのだそうです。

Kisibozincc_1 今日のイラストは、
やはり『鬼子母神』で・・・

鬼女ではなく、慈愛に満ちた女神の姿で・・・
 .

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2007年4月27日 (金)

備中高松城・水攻め

 

天正十年(1582年)4月27日、織田信長の命を受けて、中国地方の攻略を進めていた羽柴秀吉が、備中高松城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・・・

天下目前の織田信長・・・天正十年(1582年)の3月に甲斐武田を滅亡させ(3月11日参照>>)、いよいよ残る強敵は中国地方のみとなってきます。

その頃、信長の命を受け中国地方の平定にあたっていた羽柴(豊臣)秀吉は、天正八年(1580年)に播磨・三木城を(3月29日参照>>)、翌・九年(1581年)に稲葉・鳥取城を落とし(7月12日参照>>)、いよいよ、この天正十年(1582年)の4月に備中(岡山県・西部)までたどり着きます。

途中、備前・岡山城主・宇喜多直家(うきたなおいえ)味方に加わり(10月30日参照>>)、士気上がる秀吉軍は高松城に狙いを定め、この天正十年(1582年)4月27日に包囲を完了・・・総攻撃を開始したのです

しかし、高松城では勇将・清水宗治が難攻不落の籠城作戦。

・・・なので、守りは固く、多数の犠牲を払いながらも、城を落とせないため、「力技はムリ」と判断した秀吉は、先の三木城や鳥取城と同じように、長期戦に持ち込んで落とす作戦に変更します。

そして、5月に入ってまもなくの7日、堤防の構築を始めたのです。

この高松城は、足守川沼沢池広い湿地帯に囲まれた自然の要害・・・そのぶん、土地も低い上に、季節は今まさに梅雨に入ろうとしています。

「堤防を築き、水の出口を無くせば、足守川の流れと雨水が一緒になって、あたりは人口の湖になるに違いない」

案の定、梅雨に入って雨が降り出すと、またたく間に城は湖中に孤立状態になってしまいました。

その頃には、吉川元春(毛利元就の次男小早川隆景(同じく元就の三男)といった武将たちが毛利から援軍として駆けつけて来ますが、湖中に沈んだ城を目の前にして、もはや、なす術がありません。

しかたなく、毛利方は、交渉人安国寺恵瓊(えけい)秀吉側に派遣して講和の交渉にあたりますが、これがなかなかうまくいかない・・・。

そんなこんなの6月3日の夕方・・・神は秀吉に味方したのでしょうか・・・

前日、本能寺で信長を自刃に追い込んだ明智光秀(6月2日参照>>)が、毛利方の隆景に送った密書を持った使いの者が、道を間違えて秀吉の陣に迷い込み、ウロウロしているところを見つけられてしまいます。

密書を見て主君の死を知った秀吉・・・気が動転して泣き叫ぶ秀吉の前に、ニンマリと笑いながら近づく腹心・黒田官兵衛・・・

「どうすんの?これから・・・。うまくやらなきゃね」
一刻も早く畿内へ立ちかえり、織田家内で株を挙げる絶好のチャンスを逃がしてはならないとばかりに進言します。

まずは、「信長死す」の情報が毛利方に伝わらないように街道を封鎖し、その間に講和の条件として「城主・清水宗治の自刃と備中・美作(岡山県東北部)・伯耆規(ほうき・鳥取県西部)を譲る事」というのを提出しました。

兵糧も底を突き、もはや落城寸前だった高松城を目の当たりにしていた毛利側は、あっさりとその条件を受け入れ、翌日の6月4日には、湖上に浮かべられた小舟の上で宗治は自刃して果てます(6月4日参照>>)

その様子を、はやる気持ちを抑えながら見つめる秀吉・・・しかし、まだ毛利軍の撤退をその目で確認するまでは、その場を動けません。

そんな時、やっとここで、毛利方は「信長死す」の情報を知るのです。

「そんなん詐欺やんけ!」と、怒り狂った次男の元春は、帰る準備の秀吉軍に総攻撃をかけようとしますが、逆に弟に、「兄ちゃん、書面に署名捺印した以上、書類は正等で、講和は成立や!それを破ったらこっちが不利になるがな」と、さとされ、しかたなく陣を解き、軍を引き揚げはじめました。

毛利軍の撤退を確認した秀吉・・・もう、待ってはいられません。

織田家一番の家臣・柴田勝家よりも、同盟者の徳川家康よりも、先に主君の仇を討てたなければ・・・。

念のため、高松城外に浅野長政(秀吉の義弟)を、岡山城に宇喜多秀家を配置して、いよいよ京を目指して猛スピードで進軍を開始します。

これが、世に言う秀吉の『中国大返し』なのですが・・・ここから先のお話は6月6日の【秀吉の大バクチ・中国大返し】でどうぞ>>

Takamatuzyoumizuzemecc_1 今日のイラストは、
やはり『備中高松城・水攻め』という事で、湖上に孤立する高松城を・・・

地図を見てみますと、人工の湖を囲むように秀吉軍が陣取り、秀吉・本陣と秀長が湖の南東に陣を敷いています。

毛利軍はその西側と南西側の位置に陣を敷いています。
確かに、京都から来たら、かなり迂回しないと先に秀吉軍にぶつかっちゃうって感じがします~。
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2007年4月26日 (木)

手筒山・金ヶ崎城の攻防戦

 

元亀元年(1570年)4月26日、足利義昭を奉じての上洛を果たした織田信長が、越前の朝倉氏を攻撃した手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦がありました。

・・・・・・・・・・

「手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦」・・・少し聞きなれない合戦ですが、これは、織田信長が、自身の妹・お市の方の最初の結婚相手・浅井長政と戦う事になる有名な姉川の合戦(6月28日参照>>)へと結びつく、越前・朝倉氏攻めの戦いです。

この二年前、室町幕府最後の将軍となる足利義昭を奉じての上洛を果たした信長・・・(9月7日参照>>)

そんな、信長にとっては、将軍・義昭はあくまで飾り物・・・そんな義昭をダシに、各地の戦国大名に上洛を勧めていたのです。

つまり・・・「将軍に挨拶に来い」=「自分にも挨拶に来い」という事。

しかし、それを拒み続けていたのが、越前朝倉義景だったのです。

しかも、その頃から、ともに上洛した義昭に対して、信長は「天下の事は俺にまかせて口出しせんといてな」などと、義昭に注文をつけはじめましたから、義昭も黙ってはいられず、各地の大名に相談しはじめます。(1月23日参照>>)

・・・で、そんな、上洛を拒んでいる事と、義昭と何やら相談している事を察知した信長が、「やられる前にやってやる!」とばかりに朝倉を攻めたのが、今回の「手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦」です。

この戦いには、徳川家康をはじめとする東海の武将や、近畿の武将も動員され、その軍勢の数は10万以上だったと言います。

信長は完全に、この戦いで朝倉を潰すつもりでいたのでしょうね。

これに対して、朝倉義景は本拠地・一条谷から援軍部隊を手筒山城と金ヶ崎城に派遣しますが、それでも朝倉軍の総数はわずか1万。

元亀元年(1570年)4月26日・・・織田軍の攻撃に対して、数のわりには頑張った朝倉軍でしたが、所詮、多勢に無勢・・・勝ち目はありません。

結局、籠城をあきらめて、城主・朝倉景恒城を開け渡します。

このまま、朝倉を潰す気満々の信長は、明智光秀木下(豊臣)秀吉に、二つに城を預けて、義景のいる一乗谷を目指します。

ところが、そんな信長のもとへ急なお知らせが・・・。

そうです。
妹・お市の方の夫・浅井長政が朝倉に味方したのです。

もちろん信長は、浅井と朝倉が長年の同盟関係を結んでいる事は知っていました。

いえ・・・だからこそ、かわいい妹を嫁がせて、自分の味方につけたつもりでいたのです。

しかし、信長が思っていた以上に、その同盟関係は強固な物でした。

浅井は北近江(滋賀県)、朝倉は越前(福井)・・・地理的に完全に挟み撃ちです。

信長は一乗谷を一旦あきらめ、撤退を決意・・・世に言う「金ヶ崎の退き口」です(4月27日参照>>)

この時の撤退で、秀吉が殿軍(しんがり:最後尾の軍)を勤め奮戦した話は有名ですね。

撤退する軍の殿軍というのは、かなり危険な任務・・・これで、秀吉は随分と株を上げました。

ところで、「大事な妹を嫁にやったのに、裏切りやがって!」と、浅井の態度に激怒した信長・・・このあと、長政の本拠地・小谷城へと攻撃。

あの壮絶な姉川の合戦(6月28日参照>>)へと突入していくわけです。

もちろん、この日、命拾いした朝倉も、浅井とともに姉川の合戦へと進んで行く事になります。

Asakuramokkoucc 今日のイラストは、
朝倉氏の家紋・『木瓜(もっこう)紋』を、着物柄風な感じにしてみました~。

木瓜とは、もともと木ではなく地に造られた「鳥の巣」を表しているのだそうです。

外側の囲みのような物が鳥の巣。
内側の花のような物が卵を表現しているらしい
・・・そう言われてみれば、そのように見えますね。
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2007年4月25日 (水)

天平の陰陽師・吉備真備

 

天平七年(735年)4月25日、遣唐使として唐に渡っていた吉備真備が帰国し、持ち帰った唐の書物などを聖武天皇に献上しました。

・・・・・・・・・・

吉備真備(きびのまきび)・・・彼の名前は、あまりご存知ないかも知れませんが、陰陽師・安倍晴明や、源義経武田信玄が持っていたという噂の兵法書『虎の巻』・・・なんていうのはご存知ですよね。

その、陰陽道の知識や兵法の知識を中国から持ち帰り、日本に広めた第一人者がこの吉備真備なのです。

彼が持ち帰った陰陽道の『秘伝書』は安倍晴明に伝わり、『虎の巻』は鞍馬に伝わり、義経が・・・信玄が・・・というわけです。

そんな吉備真備は、その名前が示すように、現在の岡山県、吉備の国の出身・・・下道朝臣圀勝(くにかつ)という下級官人の子供として生まれ、後に大学で学問に励みます。

その後、霊亀二年(716年)、23歳の時に入唐留学生に選ばれ、翌年遣唐使として唐に渡りました。

そして、唐で儒学・律令・礼儀・軍事などを学んで、13年後に帰国し、この天平七年(735年)4月25日持ち帰った書物などを献上・・・というわけです。

その功績で、「正六位下」という位を授かり、大学助に任命されます。

その後、同期で唐に留学した親友・玄昉(げんぽう)とともに徐々に政治手腕を発揮していきます。

しかし、順調に出世街道をまっしぐらと行く真備でしたが、当時の最高権力者・藤原仲麻呂とは、なぜかそりが合わなかったのです。

そのため、天平勝宝二年(750年)から十年間、筑前や肥前といった地方勤務を命じられ事実上、左遷されてしまいます。

やがて、天平宝字八年(764年)、「孝謙上皇+道鏡」VS「淳仁天皇+藤原仲麻呂」皇位継承争いで、最高権力者の座を追われそうになった仲麻呂が反乱を起こします(9月11日参照>>)

その時に中衛大将として乱の鎮圧に大活躍した真備は、勲二等を授けられみごと出世街道に復帰。

称徳天皇(乱に勝利した孝謙上皇がもう一度天皇に復帰)+道鏡」政権下で、異例の出世をしていきます。

天平神護二年(766年)には右大臣、さらにその3年後には正二位に・・・この時、真備の上には、法王の道鏡と左大臣の藤原永手がいるのみ・・・政界3番手の実力者となります。

奈良時代には、学者として出世する人がほとんどいなかった事を考えると、彼がいかに優秀であったかがわかります。

結局、神護景雲四年(770年)に称徳天皇が亡くなり、道鏡が失脚すると、彼も右大臣の職を辞めますが、その時、真備は76歳・・・もう充分でしょう。

唐の文化を深く吸収し、律令制度に儒教の教えを組み込みながら整備した真備の政治手腕は、歴史的に見てもかなり評価できるでしょう。

・・・と、ここまでは真備の表の顔。
実は、彼の陰陽師としての顔を垣間見せてくれる、中国でのエピソードが残っています。

「遣唐使として唐に留学中の頃、真備が優秀なのを妬んだ唐人学生が、「鬼が出る楼」に彼を閉じ込めました。

しかし、その鬼の正体は、かつてその楼で餓死した安倍仲麻呂の怨霊で、その怨霊と意気投合した真備は怨霊から様々な秘術を教わります。

そして、その秘術で、膨大な史料を暗記したり、囲碁を360手先まで読んでみせたり、太陽と月を封じて世界を暗闇にしたりしたので、唐人学生たちは負けを認めて楼から出しました。」

・・・と、いうのですが・・・オカシイ・・・。
真備と仲麻呂はたしか同じ船で唐に留学したはず・・・つまり二人は同期生。

真備が唐で学生として学んでいた頃は仲麻呂も学んでいたはず(8月20日参照>>)・・・生きてるやん!

そうなると、帰国してからも呪術師として活躍し、空中を自在に飛ぶ「飛行の術」で人々を驚かした・・・という話も、当然アヤシイですが、まぁ、そこは深く追求しないほうがロマンという物でもあり・・・

しかし、「陰陽道や兵法を日本にもたらした」というのは本当のようですし、やはりその道に長けていたのは事実でしょう。

その事がいつしか神格化されて、逸話に尾ひれがついて、先ほどの「鬼」の話なんかが語られるようになったのでしょうね。

Kibimakibicc 今日のイラストは、
やはり、今日のタイトル通り『天平の陰陽師・吉備真備』で・・・。

優秀な政治家でもそれはそれでカッコいいのでございますが、やはり陰陽師・・・としたほうがミステリアスでカッコよさ倍増です~
 .

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2007年4月24日 (火)

柴田勝家とお市の方の最期

 

天正十一年(1583年)4月24日、越前北ノ庄城は炎に包まれ、柴田勝家とその妻・お市の方が自刃して果てました

・・・・・・・・・

先日の賤ヶ岳の合戦で、越前北ノ庄城への撤退を余儀なくされた柴田勝家(4月21日参照>>)

逃げ帰った勝家を追う様に、羽柴(豊臣)秀吉軍が北ノ庄城下に入ったのは、天正十一年(1583年)4月22日の事でした。

その日のうちに二の丸・三の丸を落とし、勝家らが籠城する本丸を取り囲み、翌・23日には本丸へ総攻撃を開始します。

その日の夜、勝家は生き残ったわずかな兵と近親者を集めて、今までの苦労をねぎらい、ささやかな宴会を開いたのです。

宴会が終わり、夜も更けて、妻・お市と二人っきりになった勝家は、お市に脱出を勧めます。

お市は、主君・織田信長の妹ですから、おそらく、秀吉にも手厚く迎えられるに違いありません。

しかし、お市の方は夫の勧めを拒んで、共に死ぬ事を選んだのです。

戦国という時代に翻弄された彼女・・・思えば、落城を経験するのは初めてではありませんでした。

織田信長の妹として生まれたお市は、18歳の時、近江(滋賀県)の小谷城主・浅井長政のもとに嫁ぎます。

この結婚は政略結婚ではありましたが、二人は仲むつまじく、長男・万福丸茶々小督(おごう・江)という三人の娘を授かります。

しかし、その幸せな生活は長くは続かず・・・兄・信長が、浅井氏と同盟関係にあった朝倉義景越前・一乗谷城を攻めたのです(4月26日参照>>)

浅井と朝倉の同盟関係は強固な物で、たとえ相手が妻の兄であっても、崩れるものではありませんでしたから、長政は当然朝倉に見方する事になります。

この時は、挟み撃ちを恐れて撤退した(4月27日参照>>)信長でしたが、やがて元亀元年(1570年)の姉川の合戦(6月28日参照>>)をかわきりに、織田VS浅井・朝倉連合軍の戦いも本格的に・・・。

その後、たびたび京の近くまで進攻して信長を苦しめた浅井・朝倉でしたが(11月26日参照>>)、やはり信長の巧みな戦術・戦略には勝てず天正元年(1573年)8月20日朝倉氏が滅亡・・・(8月6日参照>>)

続いて28日には、浅井の小谷城が落城し、長政は自刃(8月27日参照>>)・・・長男・万福丸は串刺しの刑になりました。

この時も、お市は、夫・長政とともに自害する事を望みましたが、娘たちがまだ幼く、長政に「お前は生きろ!生きて娘たちを育ててくれ」と説得され、三人の娘たちとともに兄・信長のもとへ行ったのでした。

やがて、天正十年(1582年)6月、あの本能寺の変で信長と嫡男の信忠が自刃した事で、織田家の後継者に勝家が信長の三男の神戸(かんべ=織田)信孝を推す一方で、次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)を味方につけた秀吉が嫡孫の三法師(さんほうし)を推した事から勝家VS秀吉の構図が出来上がってくるのです。

お市が勝家のもとに嫁いだのは、その後継者決めの会議=『清洲会議』(6月27日参照>>)の後の事。

先の小谷城が落城した時、その小谷城攻めを指揮していたのが秀吉だったという事で、秀吉を憎んでいたという話もありますが、彼女自身が、「後継者には信孝を・・・」との希望があったとも言われ、そこのところは彼女自身にしかわかりません。

とにかく、その結婚は、勝家が61歳、お市は36歳くらいの時・・・勝家にとっては、初めての正室だったそうで、しかも以前書いたようにお市は織田家臣たちのマドンナだったようですから、勝家は大喜びでかなり大事にされたようです。

彼女の心の内はともかく、「望まれて嫁ぐ」というのは、ある意味幸せですからね。

しかし、結婚した翌年に賤ヶ岳の合戦・・・そして、今は秀吉軍に北ノ庄城の本丸を包囲されてしまいました。

話は最初に戻ります・・・
宴会の後、三人の娘たちを逃がし、勝家とお市は最期をともにする覚悟をしたのです。

翌24日、再び始まった秀吉軍の総攻撃。

兵士たちの荒々しい声が響きわたる中、勝家は、「許してくれ・・・」と言いながら、お市をそばに引き寄せその胸を刺し、自分自身も切腹すると同時に、仕掛けておいた火薬に点火・・・北ノ庄城は炎に包まれます。

ここに、勝家62歳、お市37歳(?)の生涯を閉じました。

秀吉にひきとられたお市の三人の娘たち・・・茶々は秀吉の側室・淀殿として秀頼を生み、初は京極家に嫁ぎ、小督は徳川家康の三男・秀忠に嫁ぎます。

その後の歴史を見ると、彼女たちも戦国の世に翻弄され、心ならずも敵味方に分かれるという母と同じような道をたどる事となります。

最後に、お二人の時世を・・・

お市
♪さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の
 別れをさそふ 郭公
(ほととぎす)かな♪

勝家
♪夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を
 雲井にあげよ 山郭公♪

Kitanosyouenzyou2cc 今日のイラストは、
数々のドラマで描かれてきた勝家とお市の方の最期のシーンで・・・

本当は、勝家さんは62歳・・・頭は白髪まじりでしょうし、肖像画を見たところ、天パー気味でモッサとヒゲのあるオジサマでしたが、やはり名シーンは美しく・・・

『北ノ庄炎上』という感じで・・・

★辞世の句の意味などは2010年2月23日【柴田勝家&お市・最後の宴~北ノ庄城・炎上前夜】で>>このページと、内容がかぶってますがお許しをm(_ _)m
 .

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2007年4月23日 (月)

今日は、寺田屋事件~薩摩九烈士

 

文久二年(1862年)4月23日、薩摩藩士同士による抗争事件、世に言う『寺田屋事件』がありました。

・・・・・・・・・

大正時代になって京津電車京阪電車が開通するまで、三十石船は京都⇔大阪間の交通の花形でした。

Fusimimatinamicc 大阪側は天満橋にある八軒屋船着場。
そして、京都側は伏見の船着場。

さらに、京都・大阪間を陸路で行く京街道でも結ばれ、伏見という場所はまさに交通の要所で、多くの船宿が建ち並び大変な賑わいをみせていました。

そんな伏見にある一軒の船宿・寺田屋は、薩摩藩邸が近い事もあって当時、薩摩藩の定宿でした。

事件は、文久二年(1862年)の4月23日、夜明け前に起こります。

当時の日本はまさに、幕末の動乱期・・・幕府か尊王かで真っ二つに意見か分かれていた頃・・・。

そんな中で薩摩藩・藩主の父・島津久光は、『公武合体』を強く推していました。

『公武合体』とは、「14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の結婚をきっかけに、天皇家と幕府が協力して政治をやって行こう」という考えです(8月26日参照>>)

島津久光は、その『公武合体』派の中心人物でした。

しかし、薩摩藩の中にも、「もう幕府を見限りこれからは天皇を中心に・・・」という尊王派の若者が数多くいたのです。

4月23日、寺田屋に集まっていたのは、そんな尊王派の薩摩藩士たちでした。

この日、有馬新七(2011年4月23日参照>>)と薩摩藩の仲間、そして諸藩の尊王派の志士たちは、関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義襲撃する相談をしていたのです。

しかし、その事はすでに薩摩藩にバレていて、彼らを説得すべく薩摩藩から派遣されたのが、奈良原繁以下9名の藩士たちでした。

Teradayasatumacc 真夜中の寺田屋の玄関を入ったすぐの部屋で、奈良原は何とか有馬たちに薩摩藩邸に来るように説得しますが、押し問答から、やがて斬り合いになり、宿の中は大騒ぎに・・・。

そして、有馬ら尊王派のうち7人が死亡し2人が負傷、討手の方もひとりが死亡しました。

2階にも、尊王派の志士たちがいましたが、奈良原が刀を捨てて説得に当たり、残りの彼らは投降しました。

Teradayasatumanaibucc 結局、負傷の2名は翌日に切腹を命じられ、諸藩の志士たちはそれぞれの藩に送られました。

実は、『公武合体』を推し進めるために邪魔だった薩摩藩内の尊王派を始末する計画は以前からあったようで、この日、彼らが集まろうが集まるまいが、暗殺を計画しようがしまいが、「邪魔者は消す」というダンドリになっていたのだという事も囁かれています。

この事件で一気に公武合体派に凝り固まった薩摩藩・・・島津久光は、その政策を推し進めるべく江戸に向かって旅立ちました。

ところが、その江戸への旅の帰り道、久光は予期せぬ事態に遭遇します。

久光のお供をしていた侍が、イギリス人を殺害してしまうというあの『生麦事件』(8月21日参照>>)です。

この事件にタンを発する一連のイギリスとの抗争(9月28日参照>>)、久光もそして薩摩藩も、それまでとはま逆の『開国・討幕派』に変ってしまうのです・・・いや、その後の状況でもおわかりのように、長州と組んでむしろ討幕の先頭に立つようになります。

事件の直後は、藩の方針に反発した反逆者として扱われていた有馬たち9名は、結局、藩の方針が変ったという事で、むしろ先駆けをした英雄・『薩摩九烈士』として、その汚名を返上する事ができました。

Dscn3594ac900 現在、伏見の大黒寺に彼ら「九烈士」のお墓が整然と並んでいます。

 .

この墓碑の文字は西郷隆盛自らの筆による物で、明治になってこのお墓が建てられた時、西郷は涙を流しながら彼らの冥福を祈ったと言います。

幕末の動乱の頃には、「何で?ここで死ななきゃいけないの?」と納得のいかない出来事が数多くありますが、この寺田屋事件もその一つではないかと思います。

汚名を返上し「英雄」と讃えられた事がせめてもの救いですね。

*2008年2月5日付けで、京都市は『現在の寺田屋は明治以降に再建されたもの』との鑑定結果を発表しました・・・上記の寺田屋の部屋に関する部分等は、あくまで寺田屋側の説明としてご理解ください
 

Kinnounosisicc 今日のイラストは、
『勤皇の志士』ってこんな感じかなぁ~っと思って書きました。

寺田屋・大黒寺のくわしい場所や地図はHPにupしていますので、興味がおありでしたらコチラからどうぞ>>
 .

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2007年4月22日 (日)

なぞなぞのルーツ?室町の謎かけ

 

今日は、歴史のお話・・・というよりは、『コラムっぽい感じで、室町時代に流行した「謎かけ」遊びについて書かせていただきます。

「謎かけ」と言えば、落語家さんたちがよくやる「○○とかけて、○○と説く、その心は・・・」というのを思い出しますが、室町時代に流行した“謎かけ”というのは、「なんぞ、なんぞ」と問いかけて、その答えをせまる・・・という、まさに、今で言う“なぞなぞ”のような物を「謎かけ」と呼びました。

・‥…━━━☆

『後奈良院御撰何曽(ぎょせんなぞ)という物に、こんな問いかけがあります。

「上を見れば下にあり、下を見れば上にあり、
母のはらをとをりて、子のかたにあり」とは、なんぞ?

もちろん、答えは「一」ですが、これって、今でも“なぞなぞ”の問題として時々登場しますよね。
他にも・・・

「道風(とうふう)が、みちのく紙に山といふ字を書く」とは、なんぞ?

これは、「道風」から「みちのく=道を退かせ」て「紙=上」に山という字を書くので答えは「嵐」

もう一つ・・・
「海の道、十里に足らず」とはなんぞ?

これは、「海の道=浜辺」で、「十里に足らず=十里に満たないという事で九里」・・・で、浜辺が九里→浜九里→はまくり→はまぐり→・・・って、バンザ~イ、バンザ~イ(モーレツしごき教室・大喜利風)

ところで、この『御撰何曽』の中には、今では通用しない「謎かけ」もあります。

「母には二たびあひたれども父には一たびもあはず」とは、なんぞ?

これ・・・、答えは「くちびる」なのですが・・・

「母」「父」という言葉を発する時に、「母」の場合は2度くちびるが合うが、「父」の場合は一度も合わない・・・という事ですが、意味わかりませんよね。

現在は「母」の発音は「はは=HAHA」と発音し、ハ行は「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ=HA・HI・HU・HE・HO」というH音の発音をします・・・って、今書いて気付きますが、フは、「HU」と「FU」の2種類ありますね~。

そう、こういう風に当時のハ行は、現在のフ=FUと同じようにF音で発音していたんです。
つまり、「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」は、「ファ・フィ・フ・フェ・フォ=FA・FI・FU・FE・FO」と発音していました。

ですから、「母」は「ハハ」とは発音せず「ファファ」って言ってたんですね。
・・・で、「母」と言う時は、「くちびるが2回合わさる」
となるわけです。

この発音の違いは、やはり時代をさかのぼればさかのぼるだけスゴくなって行くわけで、奈良時代には、ハ行がF音だったのはもちろんの事、母音が「ア・イ・ウ・エ・オ」の5つだけではなく、8音あったと言いますから、きっと奈良時代の人が英語を習ったら、現代人よりはるかにネイティブな感じでしゃべれたんじゃないでしょうか。

もし、時代劇を本当にその時代にしゃべっていた言葉でやったとしたら、きっと字幕スーパー出さないとわからないんじゃないかと思います。

少し話がそれましたが、以前「小野篁」のページで書いた嵯峨天皇のクイズ
「子子子子子子子子子子子子」は、何て読むか?
答えは小野篁のページで>>)

とか、

定子中宮が出して清少納言が答えた
「高炉峰(中国の山の名)の雪は、いかに?」
答えは中宮・定子と清少納言のページで>>)

なんていうのも、“なぞなぞ”だと言えばそう言えなくもない気がしますが・・・。

それにしても、ハ行がF音の発音だったって事は、現在JとZが混ざっているザ行なんかも、違う発音だったんでしょうね~。

Marikomacc 今日のイラストは、
『なぞなぞ』・・・で、思いつく物がなかったので、『遊び』というワードから、『鞠と独楽』を書いてみました~。
 .

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2007年4月20日 (金)

美濃のマムシは二人いた

 

弘治二年(1556年)4月20日は、『長良川の戦い』のあった日です。

この戦いは、あの「美濃のマムシ」と呼ばれた斉藤道三と、長男・義龍との戦いで、道三はこの合戦で討死していますので、今日は斉藤道三のご命日でもあるわけです。

・・・・・・・・

斉藤道三と言えば、「国盗り物語」でも知られるように、下克上の見本のような人・・・彼は出世するたびに名前を変え、その数は合計19個・・・19個も名前があったら順番とか忘れそうですな~。

道三はもともと、京都は妙覚寺日善の弟子でしたが、坊さんをやめ、油商・奈良屋に婿入りし、油商人となってしょっちゅう美濃の国に出入りしていました。

そんな時、美濃常在寺の住職となっていたかつての妙覚寺時代の同僚・日護と再会・・・思い出話に花が咲く中、その日護の推薦で、美濃の実力者・長井長弘の家臣となります。

商売でつちかった愛想の良さで、鷺山城主・土岐頼芸(ときよりよし)と仲良くなった道三は、頼芸をそそのかしてクーデターを決行。

頼芸の兄で、当時美濃の国主をしていた土岐政頼を追放して、頼芸が国主となります。

その後、お世話になった長井長弘を暗殺して長井氏をのっとり、その次に守護代・斉藤利長が病死すると、斉藤氏ものっとってしまいます。

やがて、先ほどの頼芸も追放して、道三自らが美濃の主となるのです。

戦国の世とは言え、恩ある人を次々と倒してのし上がった事で、道三は「梟雄(きょうゆう)「蝮(マムシ)というニックネームで呼ばれる事となります。

道三には、正室・深芳野(みよしの)の産んだ長男・義龍・・・側室・小見の方が産んだ次男・孫四郎と三男・喜平次という三人の息子がいました。

ちなみに、織田信長に嫁いだ濃姫(帰蝶)は、側室・小見の方の産んだ子供です。

道三はこの中で、孫四郎か喜平次に自分の後を継がせたいと思っていました。

この事から、義龍は土岐義芸の子供ではないか?という説もあります。

しかし、そんな父親の心の内を知った義龍・・・さすがに「はい、そうですか」と納得はできません。

いや、納得できないどころではありません。
もう、怒り爆発です。

先手必勝とばかりに、古くからの重臣を味方につけ、次男・三男を殺害し、さっさと当主の座に着いてしまいました(10月22日参照>>)

弘治二年の4月・・・鷺山城で息子たちの悲報を聞いた道三は早速戦闘モードに入り、美濃国内の武将に呼びかけますが、重臣たちが皆、義龍側についているため、道三の声に応じたのはわずか3000人足らずでした。

これでは、「まともに戦えない!」と、急遽、娘婿の織田信長に救援を要請します。

この時の道三の手紙には、「助けてくれたら美濃を譲る」とまで書かれていたと言います(4月19日参照>>)

しかし、信長の軍はなかなかやって来ない・・・そんな中、一方の義龍は高らかに父・道三を討つ決意を表明し、義龍のもとには、1万7千の軍勢が集結します。

「もう、待てない」と、道三は不利を承知で討って出ます。
これが、弘治二年(1556年)4月20日・・・長良川の戦いです。

長良川を挟んで刃を交える父と息子・・・。
激戦の末、やはり数の多さには勝てず道三は旧家臣の長井忠左衛門と小牧源太に討たれました(くわしくは2012年4月20日参照>>)

一方、道三を救援できなかった信長は、この後「義父の弔い合戦」と称して美濃に狙いを定める事に・・・(9月14日【墨俣の一夜城・建設中】参照>>)

どころで、この日、63歳でお亡くなりになった美濃のマムシこと斉藤道三・・・最初にも書きましたように、一介の油売りから、わずか十数年で、美濃一国の大名に成り上がったその国盗りの物語で下克上の見本と言われていましたが、現在はそうでないというのが定説となっています。

それは岐阜県が古文書の点検をしていて発見した近江の守護大名・六角承(ろっかくじょうてい)が、自分の息子と義龍の娘の結婚を阻止しようと六角の重臣たちに宛てた書状(1月13日参照>>)の中にありました。

そこには、斉藤道三の父について、「彼は、もと妙覚寺の坊主で、還俗(一度出家した人がもとの一般人に戻る事)して西村と名乗り、その後、美濃土岐氏家中の長井氏のもとで出世し、スキを見て長井新左衛門と名乗った。その息子の道三が長井の領地を奪い・・・」と書かれています。

つまり、長井を名乗るあたりまでは、道三のお父さんの話・・・という事になります。

この事は、書状の日付が道三が亡くなってからわずか四年後という日付である事や、他にも同じ内容の古文書が見つかっている事から、ほぼ確定という事で、どうやら「美濃のマムシ」は、道三ひとりの事ではなかったようです。

ただ、事実は事実として、ドラマやお芝居になるなら、一代でのし上がるほうが面白いので、小説の世界では今のままのほうが良いと思いますがね。

Namidousancc 今日のイラストは、
斉藤道三の家紋『立波』をアレンジしました~

「マムシ」にしようかと、色々と写真を見まくっていましたが、何かきしょくわるくなってきてやめました~マムシさんゴメンナサイ
 .

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2007年4月19日 (木)

風林火山・孫子の兵法4・謀攻篇

 

今日は、『風林火山・孫子の兵法』の4回目・・・謀功篇を書かせていただきます。

4回目という事で、まだのかたは、やはり1回目から読んでいただくとうれしいので、まずはコチラへ→風林火山・孫子の兵法 >>>

・‥…━━━☆

謀功(ぼうこう)篇には、「風林火山」の一説と同じくらい有名な名言が二つ登場します。

まずは、
『およそ兵を用うる法は、国を全うするを上となし
国を破るはこれに次ぐ・・・・
この故に、
百戦百勝は善の善なるものにあらず。
戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり

「戦争というのは、相手を傷つけないで、降伏させるのが良い
相手をやっつけて降伏させるのは、その次・・・
だから、百回戦って百回勝っても、それは良い事ではなく、戦わないで降伏させるのがベストである」

これは、国単位の事だけではなく、軍もそして兵士ひとりひとりに関しても同じ事です。
なるべく相手を傷つけずに・・・できるなら戦わず屈服させる・・・まさに名言ですね。

19世紀始めのプロシアの将軍・クラウゼビッツが、その著書『戦争論』の中で、「戦争はあくまで手段であり、目的は政治的な諸関係・・・手段は決して目的を離れてはいけない」という事を書いています。
言葉は違いますが、孫子の言ってる事も同じ事・・・以前のページでも書きましたが、これは孫子の根底に流れるテーマのような物です。

ただ、戦う以上は勝たなければなりません。
勝たなければその政治的目的を達成する事もできません。
・・・ならば、どうやって最も理想に近い形で相手を屈服させる事ができるのか?
孫子という兵法書は、その理想とそれを達成するための方法や条件を、各章で語っていると言えるでしょう。

・・・で、続けて具体的に説明してくれます。
『故に上兵は謀を伐(う)つ、その次は交を伐つ、
その次は兵を伐つ、その次は城を攻む、
城を攻むるの法は、巳
(や)むを得さるがためなり』
「だから、一番良いのは戦いが始まる前に相手の意図を読み取って事前に対策をうつ事、次に同盟関係を断って孤立させる事、その次が戦う事、その次が城を攻める事、
城を攻めるのは、仕方が無い時にやる最終手段である」

孫子は、「城攻めをするには、その武器の準備だけで3ヶ月はかかり、兵士が身を隠す土塁を築くのにもさらに3ヶ月を要する上に、無能な将軍が怒りにまかせて、餌にアリが群がるように兵士に城攻めをさせたなら、兵士の3分の1を失ってもなお、城は落とせないだろう」と言っています。

まさに、大坂冬の陣の【真田丸の攻防】(12月4日参照>>)を思い出しますね。
この時、徳川家康は城攻めによって多大な痛手を被り、急遽、ジワジワと相手をビビらせ、講和へ持ち込む作戦に変更しています。(12月19日参照>>)

そして、次に戦い方の原則・・・
『十なれば、則(すなわ)ちこれを囲み、
五なれば、則ちこれを攻め、
倍すれば、則ちこれを分かち、
敵すれば、則ちよくこれと戦い、
少なければ、則ちこれを逃れ
(し)からざれば、則ちこれを避く』
(自分の兵力が相手の)
10倍あれば囲み
5倍なら攻撃をし、
2倍なら、分断して、
互角なら頑張って戦い、
劣勢だと見たら退却し、
勝ち目がないほど差があれば戦うな」

自分トコの兵力を無視して戦いに挑んでは、敵の思う壺です。
俚諺(りげん)にも「三十六計、逃げるに如かず」とあるように、退却の時の判断ほどリーダーの資質を問われる物はありません。
「逃げる」という事は、敗北を意味するのではなく、「次に勝利するための準備で、積極的な作戦である」と認識しましょう。

なので、理想に近い勝ち方とは・・・
『人の兵を屈するも、戦うにあらざるなり。
人の城を抜くも、攻むるにあらざるなり。
人の国を毀
(やぶ)るも、久しきにあらざるなり。
必ず全
(まつた)きを以って天下に争う。』
「戦わずして勝ち、
攻撃せずに城を落とし、
長期戦に持ち込む事なく、
無傷のまま天下を取る」

これが、優れた指導者の完璧な勝ち方なのです。

この時の指導者というのは将軍の事。
ところが、ここに、「君主」という人がいます。
いくら将軍が優秀でも、君主との関係がうまくいってなければ、敗北を喫すると孫子は言います。

君主と将軍・・・司令官と参謀・・・最高責任者と現場責任者。
トップと補佐役の関係は現在の企業においても、とても重要な問題です。
どこまでの権限を与え、どこまでの責任を取ってもらうのか?

孫子では、君主はその将軍が優秀かどうかをあらかじめ判断して将軍とすべきであって、一旦「優秀な将軍」と判断したからには、個々の作戦にいちいち口出ししないのが得策だとしています。

君主の口出しは、軍の行動範囲を狭めるだけでなく、軍内部に混乱を招き、不信感が募るだけだと言っています。
地震対策本部だけ設置しておいて、ゴルフや飲み会に興じるのも、あながち間違いとは言えないのかも・・・って、←それとこれとは別・・・いけません!

そして、謀攻篇の最後に、まとめとして、5つの条件を出して、それに当てはまっているかどうか、それができるかどうかで、戦いに勝てるかどうかの判断をするようにと教えてくれます。

  1. 敵と自分の戦力を比べ、戦うべきかどうかの判断ができる。
  2. その兵力に応じた戦い方ができる。
  3. 君主とその配下が心を一つにしている。
  4. こちらは準備万端整え、相手の不備につけ込む。
  5. 将軍が優秀で、君主がその指揮に干渉しない。

以上の5項目が勝利を収めるための条件・・・これを一言でまとめると、
彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず
「敵を知り、自分を知っていれば百戦しても負けない」

謀攻篇、二つ目の名言です。
孫子では、この後に
「敵を知らず自分を知っていれば戦いは五分五分、敵を知らず自分の事も知らなければ必ず負けるだろう」
というのがつきますが、もうそれは言われなくてもわかりますよね。

・・・と、以上今日は謀攻篇を紹介させていただきました。
 

★続編はコチラ→【風林火山・孫子の兵法Ⅴ軍形篇】>>

Kibamusyacc 今日のイラストは、
さすがに4回目ともなると『風林火山・孫子の兵法』というテーマに沿った絵もそろそろネタ切れ・・・で、誰という事ではなく、『騎馬武者』という感じで書いてみました~。

・・・・・・・・・・

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
 

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2007年4月18日 (水)

葛飾北斎のご命日なので

 

嘉永二年(1849年)4月18日は、あの葛飾北斎さんのご命日。

・・・・・・・・・・

葛飾北斎と言えばあの「富嶽三十六景」を思い出しますが、富嶽三十六景は天保二年(1831年)から天保四年にかけて製作された作品で、この時、北斎はすでに70代の前半・・・けっこう歳をとってからの作品なんですね~。

熟した年齢だからこそ、「不滅の傑作が生まれた」とも言えますし、この頃に数多くの傑作を生み出している事から、ひょっとしたら、この70代が一番充実していた頃かも知れません。

北斎は、宝暦十年(1760年)9月23日に江戸に生まれます。

母親は、あの「四十七士討ち入り」(12月14日参照>>)の時、吉良上野介を護って戦った小林平八郎の孫娘だそうですが、父親は誰かはっきりしません。

幼名を時太郎と言い、後に鉄蔵と名乗りますが、父親が不明な事でもわかるように、その少年期は謎に包まれています。

彼の足跡がはっきりし出すのは、安永七年(1778年)、19歳で浮世絵師・勝川春章入門して、本格的に画家の道を歩み始めてから・・・。

入門の翌年には早くもその才能が認められ、師匠の一字をもらって「春朗」という号で画家デビューを果たします。

主に役者絵などを手掛けながら、勝川一門を背負う画家に成長しますが、寛政四年(1792年)師匠の春章がこの世を去ったのをきっかけに、勝川一門から離脱します。

北斎が35歳の時でした。

一門を出てからは、他の流派に入門したり、職人に接触したりと紆余曲折を繰り返す中、可侯(かこう)不染居(ふせんきょ)画狂人雷震(まんじ)・・・などなど、ものズゴイ数の改名をくりかえします。

これは、お金に困った北斎が、わずかな収入を得るためにその名前を売っていた・・・という事もありますが、名前の数たけ作風もあり、その止まらない才能の変化と見る事もできます。

寛政十年(1798年)、40代に入ってやっとこさ北斎という名前に落ち着いた頃、彼の人生の中の一つの絶頂期がやってきます。

北斎は、この頃を中心に数々のイベントを興行しています。

江戸音羽護国寺では120畳の大きさの紙に大きな達磨(だるま)の絵を書きました。

「あまりに大き過ぎて、見ている人からは何が書いてあるのかわからず、本堂に登った人だけが達磨だと確認できた」と言います。

その後も馬や布袋の大画を描いたかと思えば、一粒のお米に2羽のスズメを書いたりして、人々を驚かせます。

名古屋西掛院達磨の絵を描いた時は、護国寺の反省を踏まえて、紙を滑車で吊り下げ、見物人全員に絵が見えるようにして大評判となりました。

長くつないだ紙に青い線をひき、足の裏に朱肉をつけた鶏を走らせ、青い線を川に鶏の足跡を紅葉に見立てて「立田川の風景なり」と、将軍・徳川家斉の前でやって見せた有名なエピソードもこの頃です。

やがて、北斎は弟子たちとともに、おびただしい数の作品を手掛け、葛飾派という流派を確立し、最も充実した70代をむかえますが、この頃になってもまだ、その画風は変貌し続けます。

80歳で描いた「西瓜図」や、90歳で描いた「雪中虎図」などには、どこか現代アートにも通じる不思議空間が漂っています。

そんな、葛飾北斎・・・「雪中虎図」を描いた3ヶ月後の嘉永二年(1849年)4月18日、90歳の大往生でした・・・と書きたいところですが、ご本人はまだまだ「志半ば」だったようです。

臨終の際、大きく息をして、「あと10年生きさせてくれれば、真の画工になれたのに・・・」と言って息をひきとったと言います。

いくつになっても、さらに新しい物を求め、変貌していくその画風こそが、天才の天才たるゆえん・・・と言ったところでしょうか。

Fugakukaiseicc 今日のイラストは、
《富嶽三十六景・凱風快晴》・・・やっぱり、北斎と言ったらコレでしょう。

んん?何ですと《神奈川沖浪裏》を書け!」と・・・
そんな、ごむたいな・・・

追記:北斎が、その絵に込めた謎・・・2011年4月18日【北斎からの挑戦状?北斗信仰と八つ橋の古図】もどうぞ>>
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2007年4月17日 (火)

奈良に始まる福祉の歴史

 

天平二年(730年)4月17日、光明皇后が貧困の病人に薬を提供する場所・施薬院を設立しました。

今日はこの光明皇后の悲田院施薬院に始まる日本の福祉の歴史について・・・想像以上に、福祉が充実しているので驚きますよ。

・・・・・・・・・・・・・

国立の社会福祉施設・・・と聞くと、近代になってから登場する物のように思いますが、、意外にも日本には、すでに奈良時代に福祉施設が設置されていました。

聖徳太子が四天王寺内に設置した・・・という説もあるようですが、これは伝承のみで、実際にあったかどうかは定かではありませんので、確固たる事実としては、やはり奈良時代の光明皇后の手による物が日本初と言えると思います。

光明皇后は、あの東大寺を建立した聖武天皇の皇后で、藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>)の娘・・・皇族以外で初めて皇后となった人です。

噂によれば、たいへん美人だったようですが、文献では『聡明で慈愛に富も、仏を敬う・・・』と書いてあるだけで、顔のよしあしには触れられていません。

でも、仏教を大切にしていたのは、本当のようで、写経の創始者でもあり、興福寺の五重塔や西金堂などを建立したり、聖武天皇が病に倒れた時は新薬師寺も建立しましたし、各地に国分寺を建設する原案を出したのも彼女でした。

その仏教精神の慈愛というところから、数々の福祉施設も設立したのです。

まずは、養老七年(723年)に悲田院(ひでんいん)という物を設置します。

これは、貧困者や孤児などを収容する福祉施設。

最初に興福寺内に建てられ、その後、東大寺や大安寺などの各寺院にも設置されました。

そして、天平二年(730年)4月17日の施薬院です。

こちらは、やはり貧困な病人を対象にした薬を与える施設・・・と言っても「薬屋さん」というよりは、「病院」あるいは{療養所」といった感じです。

Houkkezikarafuro2cc 奈良の法華寺に、今も残る「浴室(からふろ)は、病気療養者のための入浴施設で、ここでは、「光明皇后自らが千人の病人の垢を流した」と言われています。

また、それらの費用は、皇后様用の生活費と、父・不比等の遺産でまかなわれ、福祉施設用の別の税金は取らなかったというところh¥がスゴイ。
(皇后さまの生活費が税金と言えば税金ではありますが…)

これらの施設は、平安時代にも受け継かれ、京の都には国の直営の悲田院が東西2ヶ所にあり、諸寺院や都以外にも何ヶ所か設けられていたそうです。

施薬院も、その頃には医師や役人も常駐するようになり、「京内の貧窮者・病人・孤児を悲田院・施薬院に収容せよ」というお触書も現存している事から、平安時代までは、しっかりと存在し運営されていた事がわかります。

しかし、その後、中世になるとその存在はうやむやになり、一旦は無くなった状態になりますが、天正年間(1573年~1592年)に豊臣秀吉によって再興され(12月10日参照>>)再び国費での施薬院が設置されました。

ただ、国費ではなく、僧の力での福祉施設なら、鎌倉時代にも存在しました。

僧・忍性(にんしょう)(7月12日参照>>)によって建てられた鎌倉極楽寺の施薬院と、同じく忍性が建てた奈良「北山十八間戸」です。

極楽寺の施薬院は先ほどから登場している施薬院と同じ意味の施設ですが、北山十八間戸は少し意味合いが違います。

こちらは、不治の病に犯された人が余生をおだやかに過ごす最後の場所として建てられました。

Kitayama18cc 最初は、東大寺の北側にある般若寺のさらに北東の山奥にあったので、「北山」・・・と呼ばれていましたが、その初代の建物が戦国時代の真っ只中の永禄十年(1567年)に焼失してしまったため、江戸・寛文年間(1661年~1672年)に現在の場所に再建されたのです。

現在、北山十八間戸があるのは、般若寺から奈良坂を少し下った所・・・ここからは、奈良市街が一望できます。

東大寺・大仏殿や、興福寺の塔が眺められるこの場所は、きっと、昔の人にとっても、心落ち着く場所だったんでしょうね。

また、享保七年(1722年)、江戸・小石川の御薬園に建てられた養生所も、当時は「施薬院」と呼ばれ貧窮者の治療が行われていました。

Karafurocc 今日のイラストは、
光明皇后の「浴室」の伝説にちなんだ絵を書いてみました~。

法華経を深く信じていた光明皇后は、病人たちの病気療養のために作った浴室で、自らが千人の垢を流す願をたて患者ひとりひとりを洗い流してあげていましたが、千人めにやって来たのは、膿にまみれた病人でした。

皆がそばに寄るのさえためらったにもかかわらず、皇后は、その垢を流したばかりか、患部から膿を吸い取ったのです。

その瞬間、患者の姿は、みるみる阿閦(あしゅく)如来のお姿に変ったと言われています。
(千と●●の…)

浴室のある法華寺と北山十八間戸のくわしい場所や地図は本家:HP【京阪奈ぶらり歴史散歩】で紹介しています・・・

法華寺のある佐保路>>
北山十八間戸のある奈良坂>>
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2007年4月16日 (月)

足利尊氏・裏切りの要因

 

元弘三年(1333年)4月16日、再び幕府に反旗をひるがえした後醍醐天皇を討伐するため、足利高氏が京に入りました。

・・・・・・・・・

元弘三年の3月、足利高氏は鎌倉幕府から京へ出陣するよう命令を受けます。
それは、「京の六波羅探題と協力して、後醍醐天皇の一派を討伐せよ」というものでした。

31歳という当時としては遅い年齢で即位した後醍醐天皇

天皇は、即位した直後から、政権を幕府が握っている現在の情況に不満を感じ、「武家から政権を奪回し、天皇中心の政治を行いたい」と、密かに動き始めるのです。

やがて、それは正中元年(1324年)の『正中の変』(9月19日参照>>)、元弘元年(1331年)の『元弘の変』という形で表面化します(9月28日参照>>)

その両方のクーデターに失敗した後醍醐天皇は、隠岐へ流罪の身となりますが(3月7日参照>>)、すぐに島を抜け出し、またまた倒幕をしようと画策しはじめます。

・・・で、幕府は、その後醍醐天皇を討て・・・と、高氏を派遣。

元弘三年(1333年)4月16日に高氏が京にやって来た・・・というわけです。

ところが、京に入った高氏は、協力するはずの六波羅探題を攻撃(5月9日参照>>)
・・・一気に落としてしまいました。

もちろん、これは以前から後醍醐天皇の密かなお誘いに高氏が答えたわけで、天皇は大いに喜び、自分の名前・尊治の尊の一字を与え、この後、足利高氏は足利尊氏と名乗る事になるのです。

しかし、そうやって仲良く鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)わずか2年後に尊氏は、今度はその後醍醐天皇に弓を引く事になるのです。

これが、尊氏の北朝、後醍醐天皇の南朝・・・一つの国に二人の天皇という、ご存知、南北朝の時代に突入するわけですが、この2度の裏切り行為により、尊氏は「逆賊」のレッテルを貼られる事となり、天皇を護った楠木正成忠義の人となるのです。

それにしても、尊氏はなぜ、2度も裏切ったのか?

最初は幕府に・・・そして、2度目は、ともに幕府を倒した後醍醐天皇に・・・

尊氏はそんなに政権を握りたかったのか?それともただ反逆したがりなのか?

しかし、一見別々に見えるこの2度の裏切り行為・・・よく見てみると、尊氏なりの一本筋の通ったポリシーが見えてくるのです。

まず、最初の鎌倉幕府との戦い・・・

当時の鎌倉幕府は、鎌倉幕府とは言えども、源頼朝の血筋は耐え、執権だった北条氏が事実上政権を握ってるものの、14代の北条高時の代になり、坂道を転げ落ちるように幕府の権威は衰退し、配下だった地方武士たちが次々に独立し、領地を持たない武士「悪党」となって各地で暴れ回っている・・・といった状況でした。

・・・で、この北条氏・・・初代の執権・北条時政は、平貞盛から数えて6代め・・・つまり平家の子孫なわけで・・・

直系が耐えたからとは言え、頼朝が開いた源氏の幕府は、いつしか平家の幕府となっていたのです。

そこへ、登場する足利尊氏は八幡太郎義家を先祖とする名門・清和源氏の家系

源氏には、義家から数えて7代目の子孫が天下を取るという言い伝えがありましたが、7代目の時はまだ力が弱く、「私の命を縮めて3代のちに天下を取らせたまえ」八幡大菩薩に祈願して7代目が自害したと言われています。

その3代目というのが尊氏だったのです。

最初の幕府への裏切りは、平家から政権を奪回するための源氏の棟梁としての戦いだったとも言えなくもありませんが、ただ、この「3代のちに・・・」という話はちょっと出来すぎのような気かします。

しかし、この伝説は後から作られた物だとしても、尊氏の中に、源氏の棟梁としての責任感、使命感のような物があったのは確かなのではないでしょうか。

それは、部下に対する「忠義」とでも言いましょうか・・・一族の長として「部下たちに良い思いをさせてやりたい」といった感じの気持ちです。

そう考えると2度目の裏切り行為も、同じ道筋である事がわかります。

後醍醐天皇が打ち出した「建武の新政」(6月6日参照>>)が、あまりにも天皇中心で、武士に何の保障も無かった事。

「こんな政治をやられたら、かわいい部下たちは食っていけない!」と・・・。

やはり2度目も、一族の長であるという責任感、使命感が裏切り行為に走らせたのではないでしょうか。

こうして見ると、足利尊氏の2度の裏切り行為は、目上に対する「忠義」よりも、部下に対する「責任感」を重視した典型的なリーダーという、一本の線でつながる気がするのですが・・・。
 

Takauzisyutuzin1cc 今日のイラストは、
一応、尊氏さんのつもりです~。

だんだん想像が激しくなって来ている気がしますが、例の肖像画もご本人じゃないのなら、好きに想像しても良いのではないかと・・・。
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2007年4月15日 (日)

京阪電車の歴史

 

明治四十三年(1910年)4月15日、京阪電車が運転営業を開始しました。

・・・・・・・・・・

このブログをご覧いただいている方の中には、お気づきの方もおられましょうが、私はかなりの「おけいはん(京阪電車に乗る人の事)です。

京阪電車なしでは、西へも東へも行けません。
利用している・・・というだけでなく、京阪電車のファンでもあります。

Keihankyuukoucc 関西在住の方はおそらく一度は京阪電車を利用された事がおありでしょうが、遠方で京阪電車の事を、あまりご存知ない方のために、少しご説明させていただきますと・・・京阪電車は、その名の通り京都~大阪間を結ぶ電車。

しかし、大阪駅や京都駅という中心の駅に直結するJRや阪急とは違い、大阪側は経済の中心・淀屋橋駅から、京都側は下鴨神社御所も近い出町柳駅まで、淀川から鴨川の東岸沿いを行くという独自の路線を走る電車です。
まさに、現代の「三十石船」

さらに、枝分かれして近江琵琶湖へと路線が続くかと思えば、平等院で有名な宇治へも行き、飛鳥時代に百済からやって来た渡来人が多く住んだ交野(かたの)・私市(きさいち)へも乗り入れているという歴史好きの私にとっては、もうなくてはならない電車なのです。

そんな京阪電車が始動したのは、明治三十九年(1906年)・・・まずは11月19日に東京商業会議所において京阪電気鉄道株式会社創立総会が開催され、京阪電気鉄道株式会社が設立されました。

その後、電力発電所の建設から車両の注文、運転手の養成・・・などなど、様々な準備を進め、ようやく明治四十三年(1910年)4月15日、天満橋ー五条間で運輸営業開始という日を迎えたのです。

当日、各駅前にはアーチがしつらえられ、紅白の垂れ幕が飾られた駅構内を、豪華絢爛な飾りつけをした美しい花電車が颯爽と通る・・・いや・・・通らなかったんですね~これが・・・。

まず朝の9時頃に、淀ー八幡の間で車軸のメタルが焼けて停車
続いて11時には野田橋付近で脱線事故発生
電車が立ち往生する中、停電も発生するという散々なスタート。

新聞にも、『京阪間五時間・遅いことはなはだしい』と書かれ、何事もオーバーに表現する大阪人には、「何ちゅー電車や、歩いた方が速いがな」と言われる始末。

しかも、大阪市電との連絡が未完だったため、その後も、お客は結局は市電を利用して大阪駅へ出てしまうため、客足も思うようにのびませんでした。

しかし、サービス精神旺盛な京阪電車・・・まずは、蒸気船との契約で駅への足を確保。

その後、駅の増設小児運賃半額、主要駅への待合室の設置などのサービスを始め、沿線では淀川納涼大会や、鵜飼遊覧船などのイベントを開催します。

そこへ、ラッキーな出来事が到来します。

淀川沿岸で行われた陸軍特別大演習に参加された時の皇太子殿下(後の大正天皇)が、毎日のように京阪電車を利用・・・しかもその間、事故がゼロだったところから、創業当時の汚名を一気に返上する事ができました。

しかも、その年、香里園で開催された「菊人形」が大評判を呼び、京都や大阪からお客が殺到するのです。

さらに、営業が順調になる中、支線の宇治線を増設した直後、明治天皇が崩御され、その御陵が伏見桃山城跡に決定し、御陵への参拝客が殺到する事となります。

やがて、五条ー三条間の路線を延長した途端、大正御大典で御所二条城一般公開され、またもや長蛇の列ができるほどの大盛況。

京阪電車・黄金時代を迎える事になります。

しかし、さすがの京阪電車も第二次世界大戦では、政府の方針で阪神・阪急電車と合併したりなどの紆余曲折の道を余儀なくされます。

そして、戦後はどこの私鉄も経験したように、1からの復興・・・という形になるのです。

そんな京阪電車・・・大正三年に日本初の急行電車を走らせたのをかわきりに、やはり日本初の超特急関西初のテレビカーと、時代の先端をひた走っています。

現在のダブルデッカー(2階建て車両)も、今や京阪電車の名物で、2階からの景色は実に快適です。

しかも、そんな快適な特急に特急券無しで乗れるのもうれしい。

世界最長級の複々線を持つ路線は、特急・急行と普通電車との連絡もハンパなくスゴイです。

以前、某私鉄沿線にある友人宅に行くのに、路線図を見ながら「フンフン・・・ここで急行から普通に乗り換えて○○分くらいやな・・・」と思って、家を出たところ、平日の昼間という事もあってか、急行と普通の乗り換えに20分も待たされ、おおいに予定が狂った事がありました。

京阪は、特急や急行が駅に到着すると、すでに反対側で普通電車が待ってる状態・・・たとえラッシュの時間帯でなくても、乗り換えに時間がかかった事など一度もありません。
とても、スムーズです。

さらに、京阪沿線は、「大助・花子」「ますだおかだ」「中川家」「雨あがり」「FUZIWARA」・・・など、お笑いのレベルも高い。

遠方に住んでいて、まだ一度も京阪電車に乗った事がないかた・・・今度、関西に来られた時は、是非、京都ー大阪間を京阪電車で移動してみて下さい。
1両につき数組の素人漫才を見る事ができるでしょう。

また、特急に乗れば、気にしてないふりをしながら、さりげなく補助席をキープし続けるという「匠のワザ」を目の当たりにする事もできます。

ただし、京阪利用者の9割は枚方市民・・・とのもっぱらの噂ですので、「枚方」と書いて「ひらかた」と読む事だけは覚えておいてくださいね。

Keihanrwcc 今日のイラストは、
やはり『京阪ダブルデッカー』

場所は、樟葉橋本間にある『戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)橋本砲台場跡』です。

沿線には、電車のよく見える場所や、美しい景色の名所は多々ありますが、個人的にはこの場所が一番好きです。(くわしい場所や地図は本家HPでどうぞ>>>

砲台場跡の石碑の向こうには桜並木があり、その向こうに京阪電車が見えます。
電車が走る場所が少し高くなっているので、この場所から川は見えないのですが、線路の向こうには淀川が流れ、対岸には天王山が見えます。

戊辰戦争と山崎の合戦・・・日本を揺るがした2度の天下分け目の戦いの場所を、颯爽と走る京阪電車の勇姿・・・。

イラストに関しましては、鉄道ファンの方から見れば「1両めに2階建てはない」「窓の数が違う」「パンタグラフがおかしい」など、数々の指摘がございましょうが、絵として見てわかりやすいように、変えましたので、そこのところは広いお心でご覧くださいませ。
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2007年4月14日 (土)

風林火山・孫子の兵法3・作戦篇

 

今日は、『風林火山・孫子の兵法』の3回目、『作戦篇』を紹介させていただきます。

ネタに困ると登場し、勝手にシリーズ化している感のある『風林火山・孫子の兵法』ですが、大河ドラマで毎周々々、あれだけ「孫子」「孫子」と連呼されれば、つい書きたくなってしまうのです~。

まだ、以前のページを読んでいただいていない方は、そちらから読んでいただけるとうれしいです。

武田信玄の旗のもととなった「風林火山」の一説の意味などは一回めのページで、ドラマで山本勘助がしょっちゅう口にする『兵は詭道なり』の意味はⅡで書いています。

・‥…━━━☆

・・・で、「作戦篇」には、戦争全般に関する方向性や心がけといったような事が書かれています。

『およそ兵を用うるの法は
 馳車千駟
(ちしゃせんし)、革車千乗(かくしゃせんじょう)
 帯甲
(たいこう)十万にて 千里に糧を饋(おく)
 則(すなわち)内外の費・・・』

「だいたい戦争というものは、
戦車千台、輸送車千台、
兵を10万も動員して、千里の遠方に兵糧を送る・・・」

まだまだ、たくさんの例を出して説明してますが、とりあえず「戦争には膨大な費用がかかる」という事を力説してくれています。

負ければ当然ですが、勝ったとしても、国の財政、国力の低下をともなうのが戦争なのです。
長引く戦争で兵士の士気は衰え、経済が悪化すれば、それに乗じて近隣の国から攻められないとも限りません。

・・・ならば、どうしたら良いのでしょうか?

『・・・故に兵は拙速(せっそく)を聞くも、
 いまだ巧の久しきを睹
(み)ざるなり』
「とにかく早いのは聞くが、長期は知らない」

つまり、「戦争するなら短期決戦ですばやく片付けろ」という事です。
長期戦に持ち込んで成功した例を聞いた事がない・・・と孫子は言います。

そう言えば、日本が経験した中で、長期で泥沼化してしまった第二次世界大戦に比べて、勝利を収めた日露戦争が、短期決戦であったような印象がします。

そして、短期決戦と・・・もう一つ、戦争の費用を抑える意味があります。

孫子では、「戦争で最も出費が多くなるのは、軍需物資の輸送である」としています。
装備は自分の国でまかなうとしても、糧秣(兵糧とまぐさ)や武器弾薬(孫子の時代は主に矢でしょうが・・・)といったいわゆる消耗品の調達にかなりのお金がかかるのです。

国の税収の6割・7割が軍事費に投入されるような事態になると、民衆は不満をかかえますし、後にはさらに税金を上げる・・・という結果にもなります。

『故に智将は務めて敵に食(は)む』
「優れた将軍は、兵糧などを敵地で調達する」
・・・のだそうです。
敵地で調達する物資は、自分の国から運んだ場合の20倍の価値があると言います。

もちろん、これは敵地の民衆から略奪するという意味ではありません。
ちゃんと交渉をして、正等な値段で買い上げるという事です。

ただし、戦いの結果に得た「戦利品」は別です。
いえ、むしろ、敵の軍そのものが持っている武器や兵糧といった物は、どんどん奪って来い!・・・といった感じです。

ですから、たとえば敵の戦車を10台奪って来たような兵士には、まずその手柄を褒め、その功績に見合う恩賞を与える・・・そしてその事は、この「作戦篇」で最も重要なテーマへとつながって行きます。

『敵を殺すものは怒なり。
 敵の利を取るものは貨なり』

そのまま、直訳すれば
「敵を殺そうと思うのは怒りの気持ち。
敵の物を奪おうと思うのは恩賞がもらえるから・・・」

という事ですが・・・孫子は兵法書なので、このようなちょっと怖い表現になっていますが、要するに、「やる気を出させるためには、成果に見合った正統で公平な評価をしなければいけない」というビジネスの世界の人事管理に通じる事なのです。

そして、孫子はこう続けます。
『その旌旗(せいき)を更(か)え、
 車は雑
(まじ)えてこれに乗り、
 卒
(そつ)は善くしてこれを養う。
 これを敵に勝ちて強を益
(ま)という・・・』

先ほど、たとえ話の中で出てきた奪った敵の戦車・・・この奪った戦車も軍旗を自分たちの物に付け替えて、味方の兵に乗り込ませ、次からの戦力とするのです。
そして、捕虜にした敵の兵士は、危害を加えたりせず、むしろ手厚くもてなし、こちらの味方に引き入れるのです

つまり、兵士そのものも現地調達。

これが、「勝ってさらに強くなる」という事。
まさに、より少ない軍事費で、軍はますます強大になって行くのです。

この理論をちゃんと理解している将軍であれば、その人は信頼に値する人物なのだそうです。

最後に、「作戦篇」で最も重要なことば・・・
『兵は勝つことを貴(たつと)び、久しきを貴ばず』
もう、意味はわかりますよね、「短期決戦をしろ、長期戦はするな」という事です。

以上、今日は作戦篇をご紹介しました。
 

続編はコチラ→【風林火山・孫子の兵法Ⅳ・謀攻(ぼうこう)篇】>>

Sonbucc_1 今日のイラストは、
『孫子』を書いたと言われている『孫武』さまで・・・

世界史は、あまり得意ではないのでまったくの想像です。
今まで、おじいちゃんっぽい孫武さんしか見た事がないので、「どうせ想像で書くなら・・・」と、若い男前にしてみました~。

・・・・・・・・・・・・・

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
 

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2007年4月13日 (金)

文禄の役・釜山上陸

 

文禄元年(1592年)4月13日、第一次朝鮮出兵=文禄の役で、豊臣秀吉が派遣した第一軍が朝鮮半島・釜山に上陸しました

・・・・・・・・・

この文禄元年に一度、そして慶長二年(1597年)にもう一度。
二度に渡って行われる豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・

以前も書かせていただいたように(3月26日参照>>)、この朝鮮出兵に関しては、様々な理由が考えられるわけですが、どれを取っても納得がいきませんね。

その本当の理由は謎に包まれたままではありますが、とにもかくにも秀吉が大陸への出兵に関して、具体的に行動を起こしはじめたのは、天正十五年(1587年)の頃とされます。

(中国)への出兵の際に協力してもらえるよう、朝鮮の李氏と交渉を始めるのです。

その命を受けたのが、小西行長宗義智(そうよしとも)

宗義智は、当時、朝鮮半島と盛んに交易を行っていた対馬厳原(いずはら)城主で、小西行長の娘婿でした。

とは言え、領内の経済を朝鮮半島との交易に依存している義智は、やはり秀吉の意向をそのまま伝える事をためらっていたようです。

やがて、小田原を落とし、奥州征伐を終えて、天下統一の大事業を成し遂げた秀吉・・・その頃、やっと義智は、「朝鮮から使節団を送る」という約束を取り付けます。

しかし、この使節団は、「秀吉の意向を承諾する」という意味の使節団ではなく、単なる「天下統一の祝賀」の使節団だったのです。

結局、秀吉は大陸への出兵を決断し、自らが前線本部の肥前名護屋(佐賀県)へ行き、朝鮮出兵を開始するのです。

第一軍=宗義智・小西行長
第二軍=加藤清正・鍋島直茂
第三軍=黒田長政・大友義統
第四軍=島津義弘・豊久
第五軍=福島正則・長宗我部元親
第六軍=小早川隆景・立花宗茂
第七軍=毛利輝元
第八軍=宇喜多秀家
第九軍=羽柴秀勝・細川忠興

以上9軍からなる秀吉軍は、合計15万8千という大軍でした。

文禄元年(1592年)3月4日に渡海を開始した第一軍は、4月13日釜山に上陸・・・即座に釜山(プサン)城を攻略し、北方にある東莱(とんね)城をも落し、そのまま北進・・・

続いて、第二軍、第三軍と次々上陸した秀吉軍は、それぞれ、向かうところ敵なしの状態で北上を続けます。

5月には首都・漢城(ハンソン・京城)を落とした後、加藤清正率いる第二軍はさらに北上を続け、現在のロシアのあたりまで、兵を進めます。

しかし、この頃から、李舜臣(りしゅんしん=イ・スンシン)率いる朝鮮水軍が『亀甲船(コブッソン)と呼ばれる前後がよくわからない軍船で藤堂高虎の水軍がを襲撃しはじめたのと同時に、陸上でも一揆衆がゲリラ戦を展開・・・

やがて長期になればなるほど、遠征している側は糧の手配もままならない状態になり、落とした漢城を守るので精一杯・・・軍内部の武将からも講和が叫ばれるようになり、結局、秀吉は休戦命令を出す事になります。

それでも強気の秀吉・・・講和の条件として、「明国皇女・李氏王子・大臣を人質に差し出せとか、朝鮮南部を譲れ」などの無理難題の7か条を突きつけますが、そんなもん相手方が受け入れるはずもありません。

その外交交渉に奔走した小西行長とその軍師・内藤(小西)如庵ではありましたが、結局、最終的に交渉は決裂し、やがて慶長の2度目の出兵となるわけですが・・・

とりあえず、続きのお話は2012年4月18日【文禄の役~休戦協定と加藤清正】でどうぞ>>
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2007年4月12日 (木)

武田信玄公の命日なので

 

天正元年(1573年)4月12日は、武田信玄さんのご命日・・・で、今日は信玄公について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・

「京を制する者は天下を制する」
足利義昭を奉じて、いち早く上洛を果たし、天下に最も近い位置をキープした織田信長(9月7日参照>>)

信長より13歳年上の自分にとって、「これがラストチャンスかも知れない」と、はりきって甲斐を出発し、京へ向かう武田信玄(12月12日参照>>)・・・

途中、三方ヶ原徳川家康を破り(12月22日参照>>)、いよいよ一歩先行く信長との決戦を控えたある日、信玄は突然の高熱に襲われます。

今回の上洛を諦め、一旦甲斐へ帰る事にする信玄でしたが、容態は悪くなる一方です。

意識が朦朧とする中、後継者の勝頼を病床の枕元に呼び、彼はこう言います。
「私は、だいたいの事はなしどげたが、上洛を果たせなかった事が心残りだ・・・私が死んだ事がわかれば、敵は必ず攻めてくるだろうから、3年間はこの死を隠すように」

そして、彼は、天正元年(1573年)4月12日、53歳で無念の最期となったのです。

死因については、野田城で受けた鉄砲の傷が原因?(1月11日参照>>)とも言われていますが、一般的には病死・・・たびたび高熱を出し、吐血の記録もあるところから、肺結核ではないか?と言われています。

応仁の乱以来、幕府の権威は地に落ち、群雄割拠する戦国時代に突入・・・誰もが天下を夢見る中、突出した強さを見せる織田信長ですが、実は信長が一番恐れていたのが、武田信玄と上杉謙信でした。

信長は極力二人との決戦を避けていた形跡があります。

おそらく、この信玄上洛のニュースを聞いた時も、彼の事ですから、一応、表には出さないものの、内心はけっこうビビッていたかも知れません。

三方ヶ原で、一戦交えた家康も、生涯を通して一番尊敬する武将は信玄だったようです。

強さでは、誰にもひけをとらなかった信玄が、なぜ天下を取れなかったのか・・・それは、一言で言うと、よく言われる「時代が信長を選んだ」という事になりますが、それは、歴史の偶然ばかりではありません。

まず、それぞれの武将の年齢差です。

先に書きましたように信玄の没年が53歳。
この時、ライバルの上杉謙信は44歳、信長が40歳で家康が32歳。
やはり、突出して信玄は世代が上である事がわかります。

そして、もう一つ。
年齢差ではない大きな違いがあります。
それは、タイプの違い・・・と言うべきでしょうか。

漠然とした言い方で申し訳ありませんが、この信玄と信長の間に、戦国武将のタイプの違いを示す目に見えぬ線のような物を感じるのです。

信玄は、中世の権威などを重んじるいわゆる「昔かたぎ」
信長とは4歳しか違わない謙信でも、毘沙門天に帰依したり・・・という「昔かたぎ」が垣間見えます。

それに、対して信長は、良くも悪くも新しい発想をし、新しい物を取り入れる「ニュータイプ」です。

ここに、戦国武将の世代交代があるように思うのです。

時代はやはり、「ニュータイプのリーダーを選んだ」という事が言えるのではないでしょうか。

信玄の後を継いだ勝頼は、その遺言通り、3年後に父の葬儀を行います(4月16日参照>>)、おそらく、すでに周囲に信玄の死はバレていたでしょう。

しかも、カリスマの大黒柱を失った武田家をまとめる苦労・・・ご存じのように、今後の勝頼には、それが大きくのしかかる事になります。

Singenkoicc_1 今日のイラストは、
『恋に落ちて窓辺で物思いにふける信玄公』
有名な男性へのラブレター(7月5日参照>>)から受けた印象で、オチャメにカワイく書いてみましたが・・・ファンの方に怒られるかも・・・
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2007年4月11日 (水)

江戸城無血開城~山岡鉄舟・奔走

 

慶応四年(明治元年・1868年)4月11日、ご存知、江戸城が無血開城となりました。

・・・・・・・・・・・

この年の正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕府(1月9日参照>>)・・・錦の御旗を掲げる新政府軍は官軍となり、徳川家は賊軍=朝敵となります。

勢いづいた新政府軍はそのままどんどん東へ進み、いよいよ江戸総攻撃を3月15日と定めます。

そんな中の3月9日・・・駿府にいる西郷隆盛に会うため、ひとりの男が江戸から駿府(静岡)へと向かいます。

彼の名前は山岡鉄舟(鉄太郎)・・・彼は勝海舟から重要な役目を頼まれていたのです。

それは、江戸を戦火から救う事・・・無益な戦を避ける交渉をする事でした。

運良く隆盛に面会が叶った鉄舟・・・彼は、徳川慶喜にはすでに戦闘のに意志がない事、江戸を舞台に戦争が勃発すれば、多くの犠牲者が出る事などを必死で訴えました。

鉄舟の必死の形相に心打たれた隆盛は、江戸総攻撃をしない条件として、六つの事を提案しました。

  1. 徳川慶喜を備前藩に預ける事
  2. 江戸城を明け渡す事
  3. 軍艦をすべて差し出す事
  4. その他の兵器もすべて差し出す事
  5. 江戸城内に住む家臣はすべて向島に移る事
  6. 官軍に抗戦した者を処分する事

以上の六つの条件でした。

もはや、無条件降伏に等しいこの条件を、鉄舟は幕府の代表として即座に承諾しましたが、一つだけ「譲れない」とだだをこねた条件がありました。

それは、一つめの「徳川慶喜を備前藩に預ける」という条件です。

備前藩は、外様大名。

今風に言えば、のっとり・・・あるいは吸収合併した元ライバル会社に預けられるような物です。

そんな事になったら、慶喜の身の安全も保障できるものじゃありません。

「西郷さん、もしアンタの主君が同じ立場だったら、こんな事、アンタは承諾しますか?」

鉄舟は、あくまで食い下がり、武士にとっていかに主君が大切であるかを熱弁します。

もともと、武士道精神満々の西郷さん・・・彼の主君を思う気持ちに、またまた心打たれます。

しかし、この「備前藩預かり」は、新政府としても、最大に譲った結果でした。

「条件6」にもあるように「抗戦した者は徹底的に処分」という事をうたっています。

慶喜は、その代表者なわけですから、新政府内でも「処分しろ!」という声が飛び交う中、やっとの事で「預かり」という決定をしたのですから・・・。

結局、その場で鉄舟の申し出を断る事も、承諾する事も避け、条件1については「自分に任せてくれ」とだけ答えるに留まり、鉄舟は、六つの条件を持って江戸へと戻りますが、それでも充分な成果です。

なんせ、それまで、幕府は新政府の言い分すら聞いた事がなかったわけですから・・・。

江戸でこの会見の一部始終を聞いた海舟は、直前に迫る江戸総攻撃を前に、隆盛と会う事を望みます。

それが、3月13日14日の2日間に渡って江戸薩摩藩邸で行われた、有名な「勝海舟と西郷隆盛の会見」なのです(3月14日参照>>)

もちろん、ここでも海舟が慶喜に戦闘の意志がない事を切々と訴えます。

そして、会談二日目の14日、隆盛は、3月15日の江戸総攻撃を中止する・・・という決定を下します。

2日間かけて、平和裏に解決したこの話し合い・・・実は海舟は事前に裏工作を仕込んでいました。

その四年前、第二次長州征伐に関してのグダグダ感満載の幕府の態度に、「一言文句を言ってやろう」と、当時、事実上の海軍の責任者であった海舟に、血気盛んな隆盛が会いに行った時の事。

逆に、「・・・なら、薩摩がやれ!」とゲキを飛ばされたのです。
「幕府には、もうそんな力がない・・・薩摩ほどの藩なら何もせず文句ばっかり言うのではなく、君らが何とかしろ!これからは、君らの時代だ!」

この言葉を聞いて、隆盛はすでにこの時に海舟に惚れこんでいたのです。

これは、裏工作というよりは、ひとえに「海舟の人の心を掴むうまさ?」といったところでしょうが、海舟には、この時に隆盛が自分に好印象を持った事がわかっていたでしょうから、一つの裏工作と言えなくもないわけです。

また、この会談の日、もしもの事があった時には・・・と江戸湾内に幕府海軍の軍艦を集結させて難民の救済とともに攻撃も可能な状態にしており、さらに上野には彰義隊も・・・

そのうえ、欧米列強が江戸総攻撃に反対していた事も少なからず影響しました。

イギリス公使・パークスは、薩摩へ「謹慎している将軍を討てば、国際的な批判を受けるだろう」と釘を刺しました。

それぞれの気持ちと裏工作が絡まったとは言え、とにもかくにも、慶応四年(明治元年・1868年)4月11日、江戸城は平和的に無血開城され、江戸は戦火から救われる事となるのです。

2008年4月11日の記事
【江戸城無血開城・最後までお城に残ったのは、今年話題のアノ人】もどうぞ>>

Nisikinomihatacc
今日のイラストは、
今も首相官邸にあるという『錦の御旗』を書いてみました~。
 

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2007年4月10日 (火)

神になった徳川家康

 

元和三年(1617年)4月10日、静岡・久能山に葬られていた徳川家康の遺霊が、日光山に改葬されました。

・・・・・・・・・・・

あの徳川家康がこの世を去ったのは、元和二年(1616年)4月17日76歳の時・・・息子・秀忠将軍職を譲り、豊臣の滅亡を見届けてからの事でした。

その遺骸は、「唯一神道」という神式で、静岡の久能山に葬られたのです。

しかし、その同じ年のうちに、日光に新たな建物が建築され始め、翌・元和三年(1617年)4月10日には、遺霊が日光に移され、「山王一実神道」という神式で、もう一度、葬儀が行われるのです。

いったい、このドタバタ劇は何なんでしょう?

実は、ここで家康が死んだ事により、徳川幕府内の権力の力関係が大きく変った事が伺えるのです。

晩年、死を覚悟した家康は、三人のお気に入りの人物を、病床の枕元に呼びます。

ライバル・大久保忠隣を追いやり、事実上、幕閣のトップの座にいた本多正純

そして、金地院崇伝(こんちいんすうでん)と、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)という家康の二人のブレーン。

死の間際に、この三人の前で、家康が何を話したのかは、それぞれの言い分が食い違うため定かではありませんが、ここで注意しなければいけないのは、この中で正純と崇伝が大の仲良しという事。

そして、天海は、息子・秀忠とつながり、その秀忠のお気に入りは土井利勝(としかつ)という人物。

つまり、家康にとっては、三人ともがかわいい部下だったかも知れませんが、彼ら同士の中ではすでに、微妙な溝ができていたのです。

家康が死んだすぐ後・・・その時点でのトップだった正純が、仲良し崇伝と仕切っておこなった一連の葬儀・・・。

しかし、それが終った直後から、天海がイチャモンをつけ始めます

天海は、
「葬儀は山王一実神道でやってくれ」
「三年以内に日光に葬ってくれ」

・・・と、これが家康の遺言であると言い出すのです。

本当に遺言なら、正純や崇伝も聞いてても良さそうなものですが、正純たちは「何て事を・・・気でもふれられたか!」と、まったくの全面否定。

しかし、もはや家康は過去の人・・・現在の将軍は秀忠です。

秀忠が「天海の勝ち~!」との判定をくだせば、それがまかり通ってしまうのです。

遺骸を葬るにあたって駿府は家康のゆかりの地ですから、久能山という土地柄はわからなくもありませんが、日光というのは、家康とどういう関係があるのか?、明確な答えはありません。

東照宮がなぜ日光に・・・?
という疑問の答えはここにあったのです。

つまり、日光という土地柄がどーのこーのではなく、幕府内の権力の交代が、日光という場所に東照宮を建てさせたのではないでしょうか。

もう一つ、家康を神様として祭るにあたっての神号です。
これも、権力者同士でモメました。

崇伝は「権現は明神より位が下なので明神のほうが良い」と言い、天海は「豊臣秀吉が豊国明神なので、こちらは権現のほうが良い」と、意見は真っ二つ。

・・・が、しかし、やはりここでも天海の勝利。
家康は、神号・東照大権現となるのです。

家康の死後に起こった権力交代劇・・・それを裏付けるかのように、その6年後、本多正純は所領の宇都宮城を没収され、出羽国へ配流の身となり、逆に天海は三代将軍・家光の代まで権力を握る事になるのです。

ところで、この日光東照宮と時期を同じくして、幕府は、家康を神と崇めるべく、各地に東照宮を建立しているのですが、その中で大阪にも東照宮が建てられたのをご存知でしょうか。

死に際しての逸話では家康が遺言として「わが家の敵は西国にあり、わが遺骸を西に向けるべし、永く鎮護せん」と言ったとか・・・。

それで東照宮が西を向いている・・・という話がまことしやかに語られていますが、その家康が敵とみなした西国の中でも、豊臣ゆかりの大阪は特別でした。

Kawasakitousyouguucc 秀吉の死後、なんとか、その影を消そうと秀吉を神と祀る豊国神社を破却した家康(7月9日参照>>)の遺志を受け継いで、「幕府は特別に力を入れて東照宮を建立した」という話が残っています。

大阪の東照宮は「川崎東照宮」と呼ばれ、現在の造幣局の近くにありました。

明治になって壊され、現在その場所には小学校が建っていますが、実はその「川崎東照宮」こそが、江戸末期に起こった、近い将来の幕府崩壊を予感させるような出来事・・・徳川を震撼させたあの大塩平八郎の乱(1月19日参照>>)の集合場所だったというのは、とても皮肉な話です。
 

Aoiieyasucc 今日のイラストは、
徳川家のお話・・・という事で、『葵の葉っぱ』を散りばめて幻想的な感じに仕上げてみました~。
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2007年4月 9日 (月)

天下は何処・長久手の戦い

天正十二年(1584年)4月9日は、羽柴秀吉VS織田信雄と徳川家康が戦った『小牧・長久手の戦い』の中の長久手の戦いがあった日です。

・・・・・・・・・・・・

本能寺の変織田信長が自刃した後(6月2日参照)山崎の合戦明智光秀を倒し(6月13日参照)、その後、織田家の重臣だった柴田勝家賤ヶ岳の戦い(4月21日参照>>)で破った羽柴(豊臣)秀吉の勢いに、恐れを感じ始めていた信長の次男・織田信雄徳川家康の力を借りて秀吉に抵抗します。

天正十二年3月に起こった亀山城攻防戦(3月12日参照>>)を皮切りに・・・
小牧の戦い(3月13日犬山城攻略戦>>)
       
(3月17日羽黒の戦い>>)
        (3月28日・小牧の陣>>)
と、本日の長久手の戦い

そして、6月から7月に起こる蟹江城・攻防戦・・・これら一連の「秀吉VS信雄+家康」の戦いは、ベースが同じであるところから、ひとまとめにして「小牧・長久手の戦い」と呼ばれています。

3月の羽黒の戦いで家康に不意をつかれ、命からがら戦線から離脱した森長可(森蘭丸の兄)(3月17日参照>>)は、何とか敵に一矢報いようと、名誉回復のチャンスを狙って、「家康の本拠地である三河に奇襲をかけたい」と秀吉に申し出ます。

最初は、その作戦に反対していた秀吉でしたが、親友でもある池田恒興の賛成もあって、甥の三好(豊臣)秀次を大将にして、その作戦の決行を決意します。

ただし、秀次はこの時、実戦経験がほぼゼロだったので、あくまで名目上の秀吉の代理・・・事実上は池田恒興が総指揮を取っています。

4月7日池田恒興之助(ゆきすけ)親子の軍を先頭に、森長可関成政(長可の義兄)軍、堀秀政軍と続き、最後尾に秀次軍という順で次々と南東の三河目指して出陣します。
総勢1万6千という大軍でした。

しかし、実はすでにこの時点で、勝敗が決していたと言っても過言ではない状況だったのです。

家康が小牧長久手に集注している間に、本拠の三河を衝く奇襲作戦のはずで出撃した彼らでしたが、この事は近くの領主である丹羽氏次によって、すでに徳川方にも織田方に伝えられていたのです。

知らせを聞いた家康+信雄連合軍は、事実上の大将である池田軍への攻撃を避け、最後尾の三好軍に狙いを定めます。

かくして天正十二年(1584年)4月9日の午前・・・進軍する三好軍を捉えた信雄&家康連合軍。

一気にたたみかける攻撃に、実戦経験無しの秀次は大慌て、まだ勝敗も決しないうちに、彼は軍を見捨てて戦線を離脱してしまいました。

将を失った軍は崩れるのも早い・・・兵たちはたちまちのうちに敗走していきます。

この三好軍の異変は、すぐ前を行く秀政に伝えられます。

秀政は、逃走する三好軍の兵を追って、連合軍もやって来ると見て、進軍を止め、迎え撃つ準備をします。

敵を充分にひきつけておいて、鉄砲で一気に総攻撃をかける・・・この作戦は見事成功!

家康+信雄連合軍側の追撃は、ここでストップされます。

しかし、残念なのは、この事を先頭を行く池田軍に報告できなかった事・・・もし、自分たちの奇襲作戦が敵にバレていると知ったら、この先の恒興の行動も変わっていかかも知れません。

なぜなら、ちょうどこの頃、池田軍が尾張・岩崎城の近くを進軍していた時、その城から鉄砲が放たれたのですが、彼らがめざすは三河・・・ここでは、あまり時間を費やすべきではなかったにもかかわらず、敵がすぐ近くに迫っているとは思っていなかったせいでしょうか、恒興はここで進軍をやめて、池田全軍を岩崎城の攻撃へと投入してしまうのです。

やがて、間もなく岩崎城は池田軍の手に落ちますが、そんな事をやってる間に池田軍・森軍が、家康+信雄連合軍に包囲されてしまうのです。

もはや、ここで戦うしか道がない恒興と長可。

もとより一矢報いて名誉挽回をはかりたい長可は奮戦し、敵方に斬り込みますが、鉄砲で撃たれ討死

負け戦を悟った恒興も敗走しようとしますが、馬を探している間に家康の家臣に槍で突かれ、やはり討死してしまいます。

その後、恒興の息子・之助も、長可の義兄・成政も討たれてしまい、秀吉こそ無傷ではあったものの、多くの重臣を失う大敗を喫してしまうのです。

堀さん・・・ひとこと連絡してあげてよ~って思いますが、混乱する合戦のさなかには、その時々の状況というものもあり、なかなか難しいですからね。

この続き・・・
●森長可の遺言2008年4月9日>>)
●本多忠勝の後方支援2011年4月9日>>)
も、ご一緒にどうぞ。

そして、
まだまだ続く小牧長久手の戦いの最終戦となる蟹江城攻防戦については
6月15日【小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦】でどうぞ>>>

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2007年4月 8日 (日)

鶴岡八幡宮・静の舞

 

文治二年(1186年)4月8日は、源義経の生涯の中でも屈指の名場面、有名な『鶴岡八幡宮での静の舞』のあった日です。

・・・・・・・・・・

源義経の愛妾・静御前が、兄・頼朝との不和で都を追われた義経(11月3日参照>>)と、雪の吉野山別れた後に捕えられ(11月17日参照>>)鎌倉に護送された(3月1日参照>>)のは、文治二年の3月の事でした。

義経の行方を問われる静御前でしたが、知らない事は答えようもありません。

答えようがない以上、頼朝としてもこれ以上はどうしようもなく、彼女を京へ帰すしかないわけですが、この時、彼女は妊娠6~7ヶ月の身重でした。

もちろん、義経との子供です。

敵将の子供を放置しておいては命取りになる事を一番良く知っているのは頼朝自身・・・なんせ、あの平治の乱・終結の時、捕まった自分が殺されていたら(2月9日参照>>)、平家の滅亡はなかったかも知れないわけですから・・・。

「生まれた子供が男の子なら、その命は無いものと思え」と言い渡され、静は出産の日まで、この鎌倉にとどまる事となります。

そんな中、「静御前がせっかく鎌倉にいるのだから、その舞が見たい」という声が聞かれるようになります。

なんせ彼女は、昨年の飢饉の最中の「雨乞い神事」で、ただひとり雨を降らせる事ができた「神に届く舞」を舞える白拍子。

その時に、後白河法皇から「都一」のお墨付きもいただいています。

「出産すれば京に帰ってしまう」となれば、鎌倉の武士にとっては、そんな日本一の舞を見れるチャンスは今をおいては無いわけで、そんな声があがるのも当然でしょう。

最初は、断っていた静でしたが、鶴岡八幡宮への舞いの奉納・・・となると神事が絡む事。

いつまでも断り続けていては、八幡大菩薩様のご機嫌をそこねる事にもなりかねません。

・・・で、結局、文治二年(1186年)4月8日頼朝・政子夫妻をはじめ、鎌倉の御家人たちや大勢の見物客の中、彼女は舞を舞う事になったのです。

『義経記』によりますと、この時彼女が最初に舞ったのは、《しんむじょう》という、当時一般的に白拍子がよく舞う曲でした。

たしかに、それはすばらしく、その玉のような声は遠く雲間に立ち上り、そのしなやかな体はそよ風とともに動き、その美しい手は緑の葉のようにひるがえった・・・と言いますが、何か「おざなり」の物足りなさを感じる物でした。

それは、彼女の心が入っていなかったからに他なりません。

その事は、静自身が一番よくわかっていました。

このまま終ってはプロとしてのプライドが許しません。

やはり、自分の思いのこもった歌で舞を舞おうと決意します。

少しの間をおいて、シ~ンと静まりかえった中、彼女はふたたび歌いはじめます。

♪吉野山 嶺の白雪 ふみわけて
 入りにし人の 跡ぞ恋しき

 しづやしづ しづのをだまき 繰り返し
 むかしを今に なすよしもがな♪

あの吉野山で、愛しい義経と別れた時の情景を歌った歌・・・さっきとは比べ物にならない感動が、見る人々を魅了します。

日本一の舞を一目見ようと境内に溢れかえった人々は、声一つ出せなかったと言います。

そんな緊張を破ったのが頼朝でした。

「鶴岡八幡宮の神前で舞う以上、《鎌倉万歳》の歌を歌うべきであるのに、謀反人・義経を恋慕う歌を歌うとは何事か!と怒り爆発。

しかし、その頼朝を止めたのが、ご存知政子夫人・・・。

「私も、昔、流人やったアンタに恋をして、まわりのみんなに反対されて・・・あの嵐の夜、家出同然でアンタのとこに行ったんやないの。(8月17日参照>>)
石橋山でアンタがドジ踏んでもた時は、生きてるんやら死んでるんやら・・・連絡もつけへんまま何日も待ってたんよ!
今の静御前はその時の私と一緒やんか。
こんな時に、愛しいオトコの事を心配せーへん女なんかオンナとちゃうわ!」

後日の、あの尼将軍ぶりを予感させる見事な言いっぷりでピシャリ!

頼朝は、すごすごと、祝儀を出すはめに・・・。

ところで、身重の体をおして、ここで「義経恋し」の舞を舞った静御前を、ドラマやお芝居などでは、貞女の鏡、悲恋のヒロインのように描かれる事が多いのですが、以前から静御前の登場するページで、何度も書いていますように、私の彼女に対するイメージは悲劇のヒロインではありません。

先ほども少し書きましたように、彼女はプロとしての意地でこの舞を舞ったのだと思います。

気持ちの入らない舞でお茶を濁すなどもってのほか、力(リキ)の入った100%の舞を舞ってみせなきゃプロとしての名がすたる・・・「しづやしづ・・・」の歌は恋の歌というより、誰もが賞賛する「時の将軍」の前で切った一世一代の『タンカ』ように思います。

私は、舞を舞い終わった時の彼女の表情は、絶対「どやがお」をしていた・・・と踏んでます。

なぜなら、この静の舞いがあった日の少し前、鎌倉武士の若い連中が、の女見たさに静の館にほろ酔い気分で押し寄せ、飲めや歌えの大騒ぎをした事がありました。

その時、最初のうちは慣れない鎌倉武士たちを、プロらしく見事に盛り上げ楽しませていた彼女ですが、酔いがまわって彼らがズにのり出し、ベタベタ体を触りまくり、やれ「夜の相手をしろ」などとふざけた事をぬかす段階になると、
「ウチを誰やと、思ておいでや。
鎌倉殿の弟・判官義経の妻どすえ。世が世ならアンタら下っ端はそばにも寄られん日本一の白拍子や!
えぇかげんにさらせ!ボケ!」

と一喝。

「えぇかげんにさらせ!ボケ!」というのは、私のつけたしですが、きっぱりと言ったのは本当です。

そんな彼女が、プロとしての舞台で、さめざめと泣きながら舞を舞ったとはとても思えないのです。

今度、ドラマで、この「静の舞い」のシーンを見る時は、是非舞い終わった後「どやがお」の静御前を見てみたいものです。

Sizukafuecc 今日のイラストは、
当然の事ながら、静御前で・・・。

やっぱ一流は、一通りの芸事はマスターしているのではないかと・・・きっと、笛もうまかったんだろうという予想のもとに、以前全身を書かせていただいたので、今日はアップで描いてみました。

今日のお話の続きは7月29日【静御前男児出産】へどうぞ>>
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2007年4月 7日 (土)

琵琶湖疏水の完成

 

明治二十三年(1890年)4月7日、琵琶湖の水を京都へ引く『琵琶湖疏水』が完成し、同時に日本初・世界で2番目の水力発電所も作られました。

・・・・・・・・・・・・・

維新が成って、都が京都から東京に遷された事で、京都の町の人口や産業が衰退をし始めていました。

明治十四年(1881年)に第3代目の知事に就任した北垣国道(きたがきくにみち)は、何とかこの事態を打開し、京都の経済の復興を計ろうと起死回生の案を打ち出します。

それは、かつて、あの平清盛の・・・そして、あの豊臣秀吉の念願でもあった夢のシステム・・・琵琶湖から京都への運輸水路の開発です。

それが完成すれば、舟運の発達はもちろんの事、都市部の飲料水も確保、家屋密集地の防火や衛生管理にも役立ち、周辺の田畑も潤います。

発表しちゃった以上、これはもう、後には退けないプロジェクト・・・失敗の許されない大事業です。

工事担当者に、当時工学大学を卒業したばかりの田辺朔郎(たなべさくろう)技師(9月5日参照>>)や、嶋田道生測量師らを抜擢し、市民らの協力も得て、明治十八年(1885年)に工事が着工されました。

Biwakososuicc その工事は、最も困難とされた大津・山科間に立ちはだかる山を貫くトンネル工事はじめ、疏水に関わる工事すべてが、明治の最先端技術を駆使した物で、近隣住民の驚きもひとしお、工事の見物人が後をたたない・・・といった状況だったそうです。

やがて、着工から五年近く経った明治二十三年(1890年)4月7日、就労者400万人、125万円という膨大な費用をかけて大津の琵琶湖取水地点から鴨川落合まで11.1㎞の疏水が完成したのです。

この大事業を成し遂げた田辺技師は、まだ28歳の青年でした。

工事の中でも、画期的だったのはインクライン(傾斜鉄道)の建設・・・先ほども書いたように、琵琶湖と京都の間に立ちはだかる山は、当時の旅人にとっても貨物の運搬にとっても、最大の難所だったのです。

インクラインとは、その難所の高低差を、「滑車で巻き上げるワイヤーロープにつないだ軌道上の台車に舟を乗せて、人や荷物を舟ごと運んでしまおう」というものでした。

Sosuiraincc そして、この疏水とインクラインの工事の途中には、清盛にも秀吉にも想像すらできなかった方向転換があったのです。

それは、工事真っ只中の明治21年、アメリカ・コロラド州のアスペン銀鉱山を視察した田辺技師らの発案によって、蹴上(けあげ)水力発電所を建設し、水力利用のつもりだったインクライン計画を電力利用に変える事。

もし、電気動力で走るケーブルカーを、「電車」の仲間と位置づけるなら、ある意味これが、日本初の電車と言えるかも知れません。

舟をそのまま乗せるとは言え、車輪が軌道の上を走るわけですから・・・。
(インクラインのくわしい仕組みについては、本家HP「京都歴史散歩」で紹介しています・・・コチラからどうぞ>>>)

Sosuimunadomaricc そして、その発電の一部を利用する事によって、疏水完成後には、京都の町に明かりがともり、日本初の路面電車も走る(2月1日参照>>)ことになり、京都の産業は一気に近代化へと向かいます。

やがて、明治二十七年(1894年)には、疏水が伏見にまで延長され、琵琶湖と淀川が結ばれるに至って、近江から大阪が舟によって直結。

この事は、事実上、北陸から大阪へも直結・・・という事になり、物資や旅人の往来で、大変な賑わいを記録しました。

しかし大正時代に入って、京津電車京阪電車が開通し、大正十年には国鉄山科トンネルの開通とともに現在の山科駅が開設されたため、人の足としての疏水の役目は終わりました。

Sosuidouzoucc その後も貨物の輸送は行われていましたが、それもやはり時代とともに陸上輸送へと移り変わり、昭和二十六年(1951年)、砂を積んだ三十石舟が通ったのを最後に、貨物運輸としての任務も終えました

でも、運輸業からは引退したものの、疏水の水は、現在でも水道用水など現役で活躍中です。

この琵琶湖疏水事業は、日本の重要な工事を外国人の設計監督に頼っていた明治の初め頃に、日本人のみの手で行われた誇れる一大事業です。

現在は、近代の遺産として12箇所が国の史跡に指定されています。

Sosuisuirokakucc その史跡の一つに、水路閣という建造物があります。

これは、南禅寺の境内を突っ切る全長93mのレンガ造りのアーチ式水道橋。

「亀山上皇ゆかりの由緒ある古寺に水道橋を通す」という案を出すほうも出すほうですが、上皇の分骨所のある南禅院を、南禅寺・法堂から分断・・・つまり南禅寺の境内のド真ん中を通るという大胆な設計を許可したお寺の心意気にも拍手を送りたいですね。

Nanzenzizekkeicc 今日のイラストは、
カワイイ感じで・・・、やっぱり南禅寺と言えばこれでしょう

お寺の境内のイメージとは合わないかも知れませんが、『水路閣』のあのアーチの形は芸術品です。

きっと平成の世に石川五右衛門が三門の上に上ったとしてもやっぱり「絶景かな~」って言うでしょうね。

疏水沿いの哲学の道、琵琶湖疏水のくわしい場所などは本家:HPでご確認ください>>>
 .
 

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2007年4月 6日 (金)

京都御所の一般公開に行ってきました!

 

今日は、4月4日から始まった京都御所の春の一般公開に行ってきました~

Gosyokoukaicc

・‥…━━━☆

今出川口から入ったので、御所の北側はいつものこんな感じでしたが、御所の西側に行くと、地下鉄・今出川駅からの見物の人がどわっと押し寄せ、さすがに入場口の『宣秋門』のあたりは人人人・・・。

「平日でこんなだと土日はどうなるんだろう」って感じでした。

門を入って、『御車寄』(おくるまよせ)を過ぎたら、見えて来るのは、『諸大夫(しょだいぶ)の間』
Gosyosyodaibunomacc
ここは、正式に参内した人の控えの間で、身分の違いによって待つ部屋が違っていました。
襖絵にちなんで、一番手前が『桜の間』、次が『鶴の間』、そして一番向こうが格の高い人が控える『虎の間』です。

Gosyosisindencc そして、もう一つの御車寄を過ぎて塀に囲まれた中が『紫宸殿』
重要な儀式を行う御所の中では最も格式の高い正殿です。
高床式宮殿建築です。

「左近の桜」がきれいに咲いているのが見えますね。

Gosyoseiryoudencc そこを、過ぎると見えて来るのが『清涼殿』
平安時代は、ここが天皇の日常生活された場所。
少し小さくはなっているものの平安時代の寝殿造りの様式を残しています

Gosyokogosyocc 次は、小御所』
皇太子の元服に儀式や、将軍との対面に使用されたそうです。
寝殿造りから書院造りへ移行する時代の建物様式です。

Gosyoonuwacc こちらは、『小御所』の前にあるお庭です。
池を中心にした回遊式の庭園で、手前の石は舟遊びをする時に、そこから舟に飛び移るための石です。
ステキです・・・優雅です・・・

Gosyootunegotencc そして、御常御殿』
こちらは、室町時代以降の天皇が日常生活をおくられた場所です。
中には15のお部屋があって、もう完全に書院造りですね。

平安京に遷都した桓武天皇の住まいであった内裏は、もっと西のほうにありましたが、火災に遭い、そしてその後の戦乱などで、またまた建物が失われました。

現在の京都御所は、元弘元年(1331年)に光厳天皇が即位してから明治の初めまで、御所として使用されていたのです。

しばし、平安の世にタイムスリップしたような気持ちでした~。
ただ、やっぱり人の多さが・・・でしたね。
自分もそのひとりなので文句は言えませんが・・・。

最後に、御所内のお庭にはあまりありませんでしたが、出口の『清所門』の近くにあった満開の桜のアップの写真で・・・。

京都御所の春の一般公開は日曜日までやってます。

Gosyosakracc

本家HP:京都歴史散歩「京都御所」では、さらにくわしく順路など紹介していますので、よろしければコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)
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2007年4月 5日 (木)

風林火山・孫子の兵法2・始計篇

 

今日は、ふたたび孫子について書かせていただきます。

先日書いた【風林火山・孫子の兵法】(3月11日参照>>)で、武田信玄の旗のもとになった有名な「風林火山」の意味や、「孫子」についてだいたいの事はわかっていただけたでしょう。(まだのかたは、そちらから先に読んでいただくとありがたいです)

・‥…━━━☆

孫子は、13篇からなる兵法書です。

  1. 始計(しけい)
  2. 作戦篇
  3. 謀攻(ぼうこう)
  4. 軍形篇
  5. 兵勢篇
  6. 虚実篇
  7. 軍争篇
  8. 九変篇
  9. 行軍篇
  10. 地形篇
  11. 九地篇
  12. 火攻篇
  13. 用間篇

以上の13篇・・・先日も書きましたが、「風林火山」は7の軍争篇から引用されてします。

・・・で、今日は、順番からいって最初の「始計篇」について・・・

始計とは、読んで字のごとく、始めのはかり事・・・つまり戦争に向かう心得や事前の準備という事です。

『兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず』
「戦争は国家の一大事で、国民の生死、国家の存亡にも関わってくるのだから細心の注意を払って検討に検討を重ねなければならない」

戦争は、何も生み出しません。
亡くしていくばかりです。

孫子は、まず冒頭にこの言葉を持ってきて、戦争を安易に起こしてはいけない事、重大だからこそ事前に充分な検討が必要なのだという事を教えてくれています。

これは、冒頭に語っているという事でもわかるように、孫子において最も重要な事、言わば「テーマ」のような事柄です。
「戦争はできればしないほうが良い」という事は「孫子」の根底に流れる思想と言うべき物でしょう。

そして、次に、戦争に突入するかどうかの判断をするための具体的な基本条件を挙げていきます。
『故に、これを経(はか)るに五事を以ってし、これを校(くら)ぶるに、計を以ってして、その情を索(そと)む。一に曰く、二に曰く、三に曰く、四に曰く、五に曰く。』
「道・天・地・将・法の五つの事に関して、それが整っているかどうかで判断をする」

「道」というのは、道理・・・つまり「大義名分」です。
その戦争にちゃんとした大義名分があれば、国民も納得し賛成してくれるはず。
そうすれば、「主君と生死をともにする」という気持ちにもなる物です。

「天」というのは、時期の事。
天候や季節の事も含めて、今がその(戦争する)時なのかどうなのか?という事を判断するのです。

「地」というのは、まさに「地の利」
地域の広さや地形を考え、どの場所で事を起こすか?などの判断をするのです。

次に「将」というのは、大将の器量・・・つまり、国の君主が立派かどうか、信頼に値する人物なのか、法令を守って賞罰などを公平に行っている人なのか・・・いくらいろんな条件が整ってても、肝心の大将が情けなくては、勝てる戦も勝てませんから・・・。

最後に「法」・・・これは、軍のよしあしの事です。
軍の編成や、軍需物資の管理、適材適所への配置など、強い・・・という事も当然ですが、いくら一人一人が強くても、チームワークがなってないとダメですから軍のまとまりも考えなくてはなりません。

・・・で、相手と自分を見比べて、これらの基本的な条件をどちらが満たしているかで、勝てるか勝てないかの判断をするわけです。
「勝てない戦争はしない」というのが孫子の鉄則ですから、おのずと戦争をするかしないかの決定も判断する事になります。

ただし、この基本の条件に関しての判断はあくまで、事前準備での判断。
実際には、「時々の状況を判断して臨機応変に対処しなければならない」と、孫子はおっしゃる・・・難しい事を・・・そこを一番教えてほしいのに・・・孫子曰く、それは実践経験で身につける物なのだそうです。

そして、最後に始計篇・準備段階でのしめくくり『兵は詭道なり』
この言葉、先日の大河ドラマでも、山本勘助が連呼してましたね。
これは、この孫子の始計篇に登場する言葉なのです。

これ、昔、最初に聞いた時、「機動戦士ガンダム」機動かと思ってました。
「兵はフットワークが軽くなくてはいけない」という意味なのかな?なんて・・・。
この時の「キドウ」って「機動」ではなく「詭道」なんですね。

「詭道」の「詭」は、いつわるとか騙すとかという意味・・・つまり「正道」の反対です。
「兵」というのも、この時は「兵士」という意味ではなく、「戦争」の事です。
つまり、『兵は詭道なり』とは「戦争は騙す事」という意味です。

少し長いですが、好きな部分なので引用させていただきます。
『兵は詭道なり。
故に能なるも不能を示し、用なるも不用を示し、
近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、
利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、
実にしてこれを備え、強にしてこれを避け、
怒にしてこれを撓
(みだ)し、卑にしてこれを驕(おご)らせ、
(いつ)にしてこれを労し、親にしてこれを離す。
その無備を攻め、その不意に出ず。』

「戦とは騙す事。
できるのにできないふりをしてみたり、いるのにいらないように見せたり、
近いのに遠くに見せたり、遠いのに近くに見せたり、
有利だと思わせて誘い出し、混乱させてやっつける、
充実している敵には準備を整え、強い敵とは戦いを避け、
挑発して掻き乱しといて、低姿勢に出て油断させる、
休養をとっている者は疲れさせ、親密にしている者同士を引き離す、
無防備なところを攻めて、意表をつく。」

でも、やっぱり、基本はこうだけど、その時々で臨機応変に・・・っていうのが、ここでもつくんですよね~。
そこんとこが、一番知りたい~!

孫子の中でも「これらの事を知っている武将はたくさんいるが、真に理解している人は少ない」とも言っています。

やっぱり、読むだけではだめか~って事ですね。
真に理解するには、まだまだ経験を積まなければ・・・。

・・・て、事で、今日は孫子の「始計篇」を紹介させていただきました~。

Kibataicc 今日のイラストは、
大河ドラマのオープニングの雰囲気で『武田の騎馬隊』を書いてみました~。

たいぶ昔の「独眼竜政宗」のオープニングもそうでしたが、乗馬の上手なかたが連なって行軍する姿は、本当に美しいですね。

もちろん俳優さんでも乗馬のお上手なかたはおられますが、団体となるとどうしても乱れてしまいます。
オープニングはきっと、乗馬のうまい集団のかたたちなんでしょうね~実にキレイです。
毎週見入ってしまいます。

・‥…━━━☆

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
 

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2007年4月 4日 (水)

本当はオトナの一寸法師

 

今日はおとぎ話についてお話させていただきます。

一寸法師という昔話・・・かなり有名なお話なので、皆さんもよくご存知じでしょうが、背丈が一寸(3㎝)の小さなヒーロー。

・‥…━━━☆

一般的なお話では・・・

子供のいない老夫婦が神様に願って生まれた子供・・・一寸法師が、立身出世を願って京の都へ行って貴族に仕えていたところ、ある日、お姫様のお寺参りのお供の時に鬼が現れ、姫を襲います。

Issunbousiscc 小さい一寸法師が、大きな鬼の口から腹の中に入って、中から針で猛攻撃!

降参した鬼が置いていった「打ち出の小槌(こづち)を振ると、一寸法師の体はぐんぐん大きくなってりっぱな若者になり、お姫様の婿になる・・・というお話です。

付け加えますと、老夫婦が「子供が欲しい」と願った神様は住吉大社

法師は、お椀の舟に箸の櫂(かい)そして、針の刀を持って大阪から淀川をさかのぼり、伏見から上陸し京の都に向かう・・・という設定になっています。

これは、「御伽草子」にある一寸法師のお話を子供向けの「おとぎ話」にした物。

そもそも、この「おとぎ話」というのがクセ者です。

「おとぎ」とは「御伽」・・・つまり、夜、寝床に一緒にいてお相手をする事です。

戦国時代の大名には、そのそばに仕え、夜な夜な主君の話し相手を務める「御伽衆」と呼ばれる人たちがいて、最近の出来事や、昔からの言い伝えなどを物語風に話して聞かせたのです。

それが、御伽衆が語った「御伽話」としてまとまって行き、江戸時代に「御伽草子」として確立されるのです。

つまり、中東の「千夜一夜物語=アラビアンナイト」と同じです。

アラビアンナイトがそうであるように、この「御伽話」も本来は、完全に大人向けのお話・・・一寸法師も、今のような勧善懲悪のヒーロー物語ではなかったのです。

「御伽草子」の一寸法師は・・・

老夫婦(・・・と言っても、40歳過ぎですが…)の間に生まれた一寸法師が、12~3歳になっても、まったく背が伸びない事を両親が不思議にの思い「あの子は化物の子供かもしれない」「どこかへ捨ててしまおう」と、夜中にこっそり相談しているのを彼は立ち聞きしてしまいます。

親にそんな風に思われている事を知った以上「こんな家にいてられるか!出ていったる!」と彼は家出を決意!

もう、すでに、このへんからダーティなイメージ。

仮面ライダー1号かデビルマンのような、私好みの暗い過去を持つヒーローの誕生です。

京に上った一寸法師はその風貌から三条の宰相という貴族に気に入られます・・・と言っても、おそらくはペット扱い、もしくは物めずらしさからだったと思われますが、今のところはそのコンプレックスを逆手に利用するしかありません。

ところが、その宰相には、13歳になる美しい姫がいて、彼は彼女に一目惚れ・・・「何とか、この女をモノにしたい」と考えます。

そして、ある夜、祈祷などに使用する神聖な米を用意して、姫の寝室に侵入し、ぐっすり眠っている姫の口元にその特別な米を何つぶかくっつけました。

そして、翌朝、「姫が神聖な神の米を盗んで食べた」と宰相に訴えたのです。

当時の神仏に対する恐れというのは、今とは比べ物になりませんから、当然宰相は「神の物に手をつけるとは、何という娘だ!」と激怒して、姫を即座に勘当してしまいます。

わけもわからず、泣く泣く屋敷を出る姫・・・。

「してやったり」と一寸法師は、大阪で姫と結婚しようと、ともに舟に乗り込みますが、途中で嵐に遭い、見た事もない島にたどり着いてしまいます。

そこが、鬼の住む島で、姫を奪おうとした鬼を例のごとく退治して、「打ち出の小槌」で・・・という、皆さんご存知のめでたしめでたし・・・となるわけです。

ところで、この御伽草子の「一寸法師」自体も、もちろん作り話でしょうが、その端々に、そのもととなった真実が見え隠れしているのです。

まず、最初に「一寸法師という名前・・・。

本来、「子供に見える」という事ならば、「一寸童子」と呼ばれてもよさそうなのに、あえて「法師」。

「法師」とはお坊さんの呼び方ですよね。

昔話の絵本では、侍のような姿で描かれている一寸法師ですが、この「法師」という呼び方でわかる通り、彼は侍ではなく、「法師」の類に入れられる職業だったのです。

しかし、お寺で修行した話は出てきませんから、お坊さんではなく、祈祷師、あるいは陰陽師・・・といったたぐいの職業ではないでしょうか。

当時は、こういった人たちも法師の仲間でした。

そうすれば、彼が祈祷に使う神聖な米を持っていた事もうなずけます。

そして、プラス、彼は鍼灸師でもあったのではないか?という事も感じられます。

それは、彼の持っていた刀がわりの針です。

これが、いわゆる縫い針ではなく、鍼灸に使う針だったかも・・・

この時代、原因不明の病気は何か悪い物が体に入って起こると考えられていて、そういう場合は僧侶と祈祷師と陰陽師と医者・鍼灸師が、セットになって治療にあたるというのが普通でした。

その原因のわからない悪い物を鬼と表現する事も、周知の通りです。

つまり、この一寸法師の物語は、無名の陰陽師が、その祈祷と鍼灸の技術で、有力な貴族の姫を病気から救った事によって名声を得た話が、徐々に変化した物ではないかと思えるのです。

きっと私たちが想像する以上に、一寸法師はオトナだったんでしょうね。

Issunbousibcc 今日のイラストは、
きしょくわるさ満載の『一寸法師』で・・・。
ダーティなヒーローにはそそられます~。

小さいほうのイラストは、昔話っぽくかわいく書いてみました~。
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2007年4月 3日 (火)

義長の自刃で大内氏・滅亡

 

弘治三年(1557年)4月3日、長門長福寺で大内義長が自刃し、戦国の雄・大内氏が滅亡しました

・・・・・・・・・・・・・

平家滅亡(3月24日参照>>)・・・
奥州藤原氏滅亡(9月3日参照>>)・・・
そして三木城の別所長治(3月29日参照>>)・・・
と、このブログで「滅亡」という単語を書くたびに、盛者必衰・諸行無常・・・と、物悲しい気持ちになるものですが、今日の大内氏の滅亡・・・

この大内氏の最後の人となった大内義長さんほど、涙を誘われる人はいませんね。

それは、たぶん彼が年若き少年であったという事と、彼の意志とは無関係に、時代に翻弄され、天下を狙う大人たちに押しつぶされた犠牲者のように思えるからかも知れません。

大内氏は、鎌倉から室町にかけて力をつけ、あの応仁の乱の頃には中央にも影響力を持ち、管領代にまでのし上がった戦国大名です。

ただし、大内義長は大友義鑑の息子で九州の生まれ・・・あの北九州一帯に君臨した大友宗麟の弟なのです。

そんな彼が、大内義隆の養子となって後に大内義長(いっぱい改名していてややこしいので、今日は義長で通させていただきます)と名乗るわけですが、義長が養子になる以前に、義隆には晴持という養子がいました。

しかし、天文十一年(1542年)に義隆が尼子氏の富田城を攻めた時の帰り道、不運にも晴持は溺死してしまいます。

そして、「後継ぎがいなくなった」という事で、義長が義隆の養子となるわけですが、どうやら義隆は、死んだ晴持を随分と可愛がっていたらしく、義長さんのほうはあまり可愛がられてはいなかった?ようです。

そんな中、義長が養子になって2~3年で、なんと、義隆に実子・義尊が誕生してしまいます。

ホンモノの後継者が生まれた事によって、義長は養子を解消され、大友家へ戻される事となります。

こうして、大友家に戻った彼に心地よい居場所があったのかどうか・・・すでに、ここでお気の毒度が満載ですが、彼の苦難はまだまだ序の口です。

やがて、大内家で義隆が家臣たちと衝突を繰り返す中、重臣の一人である陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)がクーデターを起こし、主君・義隆を自刃に追い込み、新しい当主として義長を呼び寄せたのです(8月27日参照>>)

再び大内家に戻る義長・・・しかし、その当主の座は完全に飾り物でした。

実権はクーデターを決行した家臣たちの物で、彼には単なる操り人形としての役割しかなかったのです。

そして、すぐそばには、この混乱を絶好のチャンスと見て取った大物がいました。
そう、あの毛利元就です。

水面下で様々な策略を張り巡らせた元就は、弘治元年(1555年)厳島の戦い(10月1日参照>>)晴賢を破り、晴賢は討ち死にしてしまいます。

晴賢という大黒柱を失った大内家・・・義長がいくら統率を取ろうとしても、もともと彼を飾り物としてしか見ていない大内の家臣たちは、家臣同士で争う事となります。

何度も中に入って争いごとをやめさせようと奮闘する義長でしたが、その甲斐もなく・・・で、そんな中では元就とも、まともに戦えるわけもありませんが、各地で敗戦を経験しながらも、勝山城にて何とか耐えていました。

そんな時、元就から勝山城・開城の要請が届きます。

それは、内藤隆世は、陶晴賢と組んでクーデターを起こした罪人なので死んでもらうが、義長は大友家からやってきた飾り物主君なのだから、隆世が自害し、勝山城を開城すれば、義長は助けよう」という物でした。

様々な意見が渦巻く中、結局、隆世は自害し、城を明け渡し、義長は長門(山口県)長福寺に移るのです。

しかし、翌日、長福寺は毛利軍に取り囲まれます。
その要求は義長の自害・・・。

元就の計略にまんまとハメられてしまった義長・・・弘治三年(1557年)4月3日、長福寺にて自刃し果てました

権勢を誇った大内氏はここに滅亡するのです。

♪誘ふとて 何か恨みん 時きては
 嵐のほかに 花もこそ散れ♪

「こうして死ぬ事になっても、恨む事なんて何もないよ・・・たとえ嵐が来なくても、時が来れば、いずれ花は散ってしまうものなんだから・・・」

死を目前にした20歳に満たない少年に、このような時世の歌を詠ませてしまうとは、戦国とは、何とせつない時代なんでしょう。

Sakuratirucc 今日のイラストは、
やはり時世の歌からイメージして『桜散る』の雰囲気で書いてみました~
 

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2007年4月 1日 (日)

将軍・義政の贅沢猿楽興行

 

寛正五年(1464年)4月1日、京都・糺河原将軍・足利義政主催「勧進猿楽」の興行が行われました。

・・・・・・・・・・

室町幕府八代将軍・足利義政が、政治をかえりみず文化・風流にうつつをぬかし、庶民の苦しみそっちのけで、銀閣寺などの造営に力を入れていた話は、もう有名ですよね。

まぁ、おかげで東山文化という和の極みが確立された・・・という事は、後から考えれば良かったかも知れませんが、当時、生きていた人々にとっては、はた迷惑な話です。

しかも義政さんは、何事も派手にやらねば気がすまない性格で、事あるごとに盛大なイベントを行うのが大好きだったのです。

その盛大なイベントの中の一つが、この寛正五年(1464年)4月1日に行われた「勧進猿楽」の興行だったのです。

「勧進」というのは、以前も書きましたが、本来、社寺の修復などの寄付を募ったりする事で、猿楽や能などに「勧進」がつくという事は、今で言うところの「チャリティ・コンサート」のような物だったわけですが、この頃には、すでにその言葉の意味は無視されつつあり、権力者が芸能などの興行を催して、それを身内だけではなく、庶民にも見せる事を「勧進」と呼ぶようになっていました。

「権力者が一般庶民とふれあう機会」と言うと聞こえは良いですが、当時の権力者という人たちは皆、税金で食ってるわけですから、その贅沢なイベントの費用は結局庶民の税金に跳ね返って来る・・・という、アリガタ迷惑な事になっていたのです。

ところで、その「勧進猿楽」は、4月1日を初日に、7日と10日の合計3度行われました。
Tadasugawara 場所は、糺河原(ただすがわら)

この京都・糺河原というのは、加茂川と高野川の合流地点で、現在では京阪電車の出町柳駅から橋を渡ってすぐのあの川に挟まれた葵公園のあるあたりです。

その河原に円形の舞台を作り、そのまわりに六十間と言いますから100m余りはある豪華な桟敷(さじき)をしつらえて、将軍・義政富子夫妻を始め、細川勝元山名宗全(3月18日参照>>)といった当時のトップ集団が豪華絢爛なとびっきりの衣装に身を包み列席するという、そこいらのイベントとはわけが違うものスゴイ物でした。

・・・と、なんで、こんなイベントごときの話がくわしくわかるかと言いますと、実はこのイベントに行きたくてたまらなかったのに行けなかった人の日記が残っているからなのです。

その人の名は大乗院・尋尊(じんそん)と言います。

この大乗院・尋尊という人は、高級貴族で学者の家に生まれ、最終的には奈良興福寺大乗院門跡・大僧正という地位に着くわけですが、あくまでそれは家柄が良いから・・・。

美しい庭を造ったり、文化的には貢献もしていますが、歴史上「何をやった」と特筆するほどの偉人ではないように思いますが、とにかくメッチャくわしい日記を残している人なのです。

この人のお父さん・一条兼良(かねら)という人も日記を残していて、この人たちのおかげで、この時代の生活ぶりや事件のあらましなどが、ものすごくよくわかる事ができ、後世の歴史好きから見ると大変ありがたいお人なのです。

そして、この尋尊さんも、将軍に負けず劣らずの派手好きのイベント好き・・・

そんな彼が、将軍主催のイベントに参加しないなんて事があるはずがありません。

何日も前から、心ウキウキ・・・彼の住む奈良から京都まで、わざわざ猿楽を見に出かける予定を組んでいました。

しかし、彼は高級貴族・・・将軍様だって豪華絢爛のお衣装でお出ましなのですから、自分もそれなりの物を整えて行かなくてはなりません。

衣装はもちろん、牛車の準備、自分専用の桟敷の準備、なんでか知らないけど茶道具の準備・・・で、彼はその費用を捻出するため、臨時の税を徴収する事にします。

しかし、当時はすでに正規の年貢さえとどこおりがちのご時世・・・思ったとおり、荘園の農民は猛反対!

「お前の贅沢な見栄張りに、付き合ってられるか!」と言ったかどうか知りませんが、とにかく抗議殺到です。

あげくの果てには、仲間の興福寺の僧たちからも反対され、結局、この日の「勧進猿楽」を諦めなければならなくなったのです。

「無念である・・・」と、この日の日記をしめくくる尋尊さん。

くやしさ余って、あれやこれや書いてくれたおかげで、将軍・義政の贅沢三昧が後世にまで記録される事となったわけですから、まぁ貢献したっちゃぁ~貢献した事になりますわね。

Takiginoucc 今日のイラストは、
『薪能』のイメージで・・・。

幽玄の世界ですね~
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