« 鶴岡八幡宮・静の舞 | トップページ | 神になった徳川家康 »

2007年4月 9日 (月)

天下は何処・長久手の戦い

天正十二年(1584年)4月9日は、羽柴秀吉VS織田信雄と徳川家康が戦った『小牧・長久手の戦い』の中の長久手の戦いがあった日です。

・・・・・・・・・・・・

本能寺の変織田信長が自刃した後(6月2日参照)山崎の合戦明智光秀を倒し(6月13日参照)、その後、織田家の重臣だった柴田勝家賤ヶ岳の戦い(4月21日参照>>)で破った羽柴(豊臣)秀吉の勢いに、恐れを感じ始めていた信長の次男・織田信雄徳川家康の力を借りて秀吉に抵抗します。

天正十二年3月に起こった
小牧の戦い(3月13日犬山城攻略戦>>)
       
(3月17日羽黒の戦い>>)
        (3月28日・小牧の陣>>)
と、本日の長久手の戦い

そして、6月から7月に起こる蟹江城・攻防戦・・・これら一連の「秀吉VS信雄+家康」の戦いは、ベースが同じであるところから、ひとまとめにして「小牧・長久手の戦い」と呼ばれています。

3月の羽黒の戦いで家康に不意をつかれ、命からがら戦線から離脱した森長可(森蘭丸の兄)(3月17日参照>>)は、何とか敵に一矢報いようと、名誉回復のチャンスを狙って、「家康の本拠地である三河に奇襲をかけたい」と秀吉に申し出ます。

最初は、その作戦に反対していた秀吉でしたが、親友でもある池田恒興の賛成もあって、甥の三好(豊臣)秀次を大将にして、その作戦の決行を決意します。

ただし、秀次はこの時、実戦経験がほぼゼロだったので、あくまで名目上の秀吉の代理・・・事実上は池田恒興が総指揮を取っています。

4月7日池田恒興之助(ゆきすけ)親子の軍を先頭に、森長可関成政(長可の義兄)軍、堀秀政軍と続き、最後尾に秀次軍という順で次々と南東の三河目指して出陣します。
総勢1万6千という大軍でした。

しかし、実はすでにこの時点で、勝敗が決していたと言っても過言ではない状況だったのです。

家康が小牧長久手に集注している間に、本拠の三河を衝く奇襲作戦のはずで出撃した彼らでしたが、この事は近くの領主である丹羽氏次によって、すでに徳川方にも織田方に伝えられていたのです。

知らせを聞いた家康+信雄連合軍は、事実上の大将である池田軍への攻撃を避け、最後尾の三好軍に狙いを定めます。

かくして天正十二年(1584年)4月9日の午前・・・進軍する三好軍を捉えた信雄&家康連合軍。

一気にたたみかける攻撃に、実戦経験無しの秀次は大慌て、まだ勝敗も決しないうちに、彼は軍を見捨てて戦線を離脱してしまいました。

将を失った軍は崩れるのも早い・・・兵たちはたちまちのうちに敗走していきます。

この三好軍の異変は、すぐ前を行く秀政に伝えられます。

秀政は、逃走する三好軍の兵を追って、連合軍もやって来ると見て、進軍を止め、迎え撃つ準備をします。

敵を充分にひきつけておいて、鉄砲で一気に総攻撃をかける・・・この作戦は見事成功!

家康+信雄連合軍側の追撃は、ここでストップされます。

しかし、残念なのは、この事を先頭を行く池田軍に報告できなかった事・・・もし、自分たちの奇襲作戦が敵にバレていると知ったら、この先の恒興の行動も変わっていかかも知れません。

なぜなら、ちょうどこの頃、池田軍が尾張・岩崎城の近くを進軍していた時、その城から鉄砲が放たれたのですが、彼らがめざすは三河・・・ここでは、あまり時間を費やすべきではなかったにもかかわらず、敵がすぐ近くに迫っているとは思っていなかったせいでしょうか、恒興はここで進軍をやめて、池田全軍を岩崎城の攻撃へと投入してしまうのです。

やがて、間もなく岩崎城は池田軍の手に落ちますが、そんな事をやってる間に池田軍・森軍が、家康+信雄連合軍に包囲されてしまうのです。

もはや、ここで戦うしか道がない恒興と長可。

もとより一矢報いて名誉挽回をはかりたい長可は奮戦し、敵方に斬り込みますが、鉄砲で撃たれ討死

負け戦を悟った恒興も敗走しようとしますが、馬を探している間に家康の家臣に槍で突かれ、やはり討死してしまいます。

その後、恒興の息子・之助も、長可の義兄・成政も討たれてしまい、秀吉こそ無傷ではあったものの、多くの重臣を失う大敗を喫してしまうのです。

堀さん・・・ひとこと連絡してあげてよ~って思いますが、混乱する合戦のさなかには、その時々の状況というものもあり、なかなか難しいですからね。

この続き・・・
●森長可の遺言2008年4月9日>>)
●本多忠勝の後方支援2011年4月9日>>)
も、ご一緒にどうぞ。

そして、
まだまだ続く小牧長久手の戦いの最終戦となる蟹江城攻防戦については
6月15日【小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦】でどうぞ>>>
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログ内での人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 鶴岡八幡宮・静の舞 | トップページ | 神になった徳川家康 »

戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

この戦いで池田恒興を討ち取った永井直勝なのですが、出自がよく分かっていませんよね

長田重元の手元で養育された事は間違いないようですが、「同胞の弟」という何ともボカした表現で記録が残っているようです。

知人の歴史マニアは「同胞=双子」ではないかと推察、親戚に双子が生まれたため弟として引き取ったのが永井直勝(なので長田重吉の子?)で、長田尚勝、永井白元が長田重元の子というややこしい自説を述べておりましたw

この長田一族も本能寺の変から運命が暗転していますよね。。やはり世の乱れがないなら、ない世の中の方が良いようです

投稿: ほよよんほよよん | 2015年11月13日 (金) 00時07分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

歴史上の人物には、出世前の事がよくわからない人が多いですね。

投稿: 茶々 | 2015年11月13日 (金) 03時20分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/6024392

この記事へのトラックバック一覧です: 天下は何処・長久手の戦い:

« 鶴岡八幡宮・静の舞 | トップページ | 神になった徳川家康 »