« 今日は、寺田屋事件~薩摩九烈士 | トップページ | 天平の陰陽師・吉備真備 »

2007年4月24日 (火)

柴田勝家とお市の方の最期

 

天正十一年(1583年)4月24日、越前北ノ庄城は炎に包まれ、柴田勝家とその妻・お市の方が自刃して果てました

・・・・・・・・・

先日の賤ヶ岳の合戦で、越前北ノ庄城への撤退を余儀なくされた柴田勝家(4月21日参照>>)

逃げ帰った勝家を追う様に、羽柴(豊臣)秀吉軍が北ノ庄城下に入ったのは、天正十一年(1583年)4月22日の事でした。

その日のうちに二の丸・三の丸を落とし、勝家らが籠城する本丸を取り囲み、翌・23日には本丸へ総攻撃を開始します。

その日の夜、勝家は生き残ったわずかな兵と近親者を集めて、今までの苦労をねぎらい、ささやかな宴会を開いたのです。

宴会が終わり、夜も更けて、妻・お市と二人っきりになった勝家は、お市に脱出を勧めます。

お市は、主君・織田信長の妹ですから、おそらく、秀吉にも手厚く迎えられるに違いありません。

しかし、お市の方は夫の勧めを拒んで、共に死ぬ事を選んだのです。

戦国という時代に翻弄された彼女・・・思えば、落城を経験するのは初めてではありませんでした。

織田信長の妹として生まれたお市は、18歳の時、近江(滋賀県)の小谷城主・浅井長政のもとに嫁ぎます。

この結婚は政略結婚ではありましたが、二人は仲むつまじく、長男・万福丸茶々小督(おごう・江)という三人の娘を授かります。

しかし、その幸せな生活は長くは続かず・・・兄・信長が、浅井氏と同盟関係にあった朝倉義景越前・一乗谷城を攻めたのです(4月26日参照>>)

浅井と朝倉の同盟関係は強固な物で、たとえ相手が妻の兄であっても、崩れるものではありませんでしたから、長政は当然朝倉に見方する事になります。

この時は、挟み撃ちを恐れて撤退した(4月27日参照>>)信長でしたが、やがて元亀元年(1570年)の姉川の合戦(6月28日参照>>)をかわきりに、織田VS浅井・朝倉連合軍の戦いも本格的に・・・。

その後、たびたび京の近くまで進攻して信長を苦しめた浅井・朝倉でしたが(11月26日参照>>)、やはり信長の巧みな戦術・戦略には勝てず天正元年(1573年)8月20日朝倉氏が滅亡・・・(8月6日参照>>)

続いて28日には、浅井の小谷城が落城し、長政は自刃(8月27日参照>>)・・・長男・万福丸は串刺しの刑になりました。

この時も、お市は、夫・長政とともに自害する事を望みましたが、娘たちがまだ幼く、長政に「お前は生きろ!生きて娘たちを育ててくれ」と説得され、三人の娘たちとともに兄・信長のもとへ行ったのでした。

やがて、天正十年(1582年)6月、あの本能寺の変で信長と嫡男の信忠が自刃した事で、織田家の後継者に勝家が信長の三男の神戸(かんべ=織田)信孝を推す一方で、次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)を味方につけた秀吉が嫡孫の三法師(さんほうし)を推した事から勝家VS秀吉の構図が出来上がってくるのです。

お市が勝家のもとに嫁いだのは、その後継者決めの会議=『清洲会議』(6月27日参照>>)の後の事。

先の小谷城が落城した時、その小谷城攻めを指揮していたのが秀吉だったという事で、秀吉を憎んでいたという話もありますが、彼女自身が、「後継者には信孝を・・・」との希望があったとも言われ、そこのところは彼女自身にしかわかりません。

とにかく、その結婚は、勝家が61歳、お市は36歳くらいの時・・・勝家にとっては、初めての正室だったそうで、しかも以前書いたようにお市は織田家臣たちのマドンナだったようですから、勝家は大喜びでかなり大事にされたようです。

彼女の心の内はともかく、「望まれて嫁ぐ」というのは、ある意味幸せですからね。

しかし、結婚した翌年に賤ヶ岳の合戦・・・そして、今は秀吉軍に北ノ庄城の本丸を包囲されてしまいました。

話は最初に戻ります・・・
宴会の後、三人の娘たちを逃がし、勝家とお市は最期をともにする覚悟をしたのです。

翌24日、再び始まった秀吉軍の総攻撃。

兵士たちの荒々しい声が響きわたる中、勝家は、「許してくれ・・・」と言いながら、お市をそばに引き寄せその胸を刺し、自分自身も切腹すると同時に、仕掛けておいた火薬に点火・・・北ノ庄城は炎に包まれます。

ここに、勝家62歳、お市37歳(?)の生涯を閉じました。

秀吉にひきとられたお市の三人の娘たち・・・茶々は秀吉の側室・淀殿として秀頼を生み、初は京極家に嫁ぎ、小督は徳川家康の三男・秀忠に嫁ぎます。

その後の歴史を見ると、彼女たちも戦国の世に翻弄され、心ならずも敵味方に分かれるという母と同じような道をたどる事となります。

最後に、お二人の時世を・・・

お市
♪さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の
 別れをさそふ 郭公
(ほととぎす)かな♪

勝家
♪夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を
 雲井にあげよ 山郭公♪

Kitanosyouenzyou2cc 今日のイラストは、
数々のドラマで描かれてきた勝家とお市の方の最期のシーンで・・・

本当は、勝家さんは62歳・・・頭は白髪まじりでしょうし、肖像画を見たところ、天パー気味でモッサとヒゲのあるオジサマでしたが、やはり名シーンは美しく・・・

『北ノ庄炎上』という感じで・・・

★辞世の句の意味などは2010年2月23日【柴田勝家&お市・最後の宴~北ノ庄城・炎上前夜】で>>このページと、内容がかぶってますがお許しをm(_ _)m
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログ内での人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 今日は、寺田屋事件~薩摩九烈士 | トップページ | 天平の陰陽師・吉備真備 »

戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

おはようございます。
今日は「ドラマ」なイラストですね~♪
やはり、こういうシーンはカッコいいかも。

投稿: 乱読おばさん | 2007年4月24日 (火) 10時16分

>乱読おばさん様・・・
おはようございます。
ホントはいつも、その日書いた出来事のワンシーンのような絵を書きたいのですが、なかなかうまく描けずにいます・・・
今日はわりと、いい感じに書けました。

投稿: 茶々 | 2007年4月24日 (火) 12時37分

茶々様お初です。
柴田勝家公は豪傑無骨者感から取っ付きにくかったのですが、福井住みということもあり、調べて行くうちに、こちらに流れ付きました。
以前より好きな武将の利家公を嫌いになったり、于用曲折致しましたが、茶々様のhpで納得いたした所存であります。すべては勝家公の情の厚さゆえの結果というところでしょうか。只、北ノ庄に戻ったのは、お市の方に会いたかった、という想いであった(であって欲しいという個人的意見)と思います。と言うのも利家公にあった時、お市の方への想いが無ければそこまで安寧に立ち振る舞えなかったと思えたからです。辞世の句には泣けました。
近いうちに、柴田神社へ参拝に赴こうかと思います。

投稿: せん | 2013年5月12日 (日) 20時59分

せんさん、はじめまして。。。

そうですか…福井ですか、、、
福井だと、やはり、北ノ庄に勝家公…
あ、でも朝倉や継体天皇も…

歴史が古いとイロイロと楽しみですね。

投稿: 茶々 | 2013年5月13日 (月) 12時42分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/6193467

この記事へのトラックバック一覧です: 柴田勝家とお市の方の最期:

« 今日は、寺田屋事件~薩摩九烈士 | トップページ | 天平の陰陽師・吉備真備 »