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2007年4月16日 (月)

足利尊氏・裏切りの要因

 

元弘三年(1333年)4月16日、再び幕府に反旗をひるがえした後醍醐天皇を討伐するため、足利高氏が京に入りました。

・・・・・・・・・

元弘三年の3月、足利高氏は鎌倉幕府から京へ出陣するよう命令を受けます。
それは、「京の六波羅探題と協力して、後醍醐天皇の一派を討伐せよ」というものでした。

31歳という当時としては遅い年齢で即位した後醍醐天皇

天皇は、即位した直後から、政権を幕府が握っている現在の情況に不満を感じ、「武家から政権を奪回し、天皇中心の政治を行いたい」と、密かに動き始めるのです。

やがて、それは正中元年(1324年)の『正中の変』(9月19日参照>>)、元弘元年(1331年)の『元弘の変』という形で表面化します(9月28日参照>>)

その両方のクーデターに失敗した後醍醐天皇は、隠岐へ流罪の身となりますが(3月7日参照>>)、すぐに島を抜け出し、またまた倒幕をしようと画策しはじめます。

・・・で、幕府は、その後醍醐天皇を討て・・・と、高氏を派遣。

元弘三年(1333年)4月16日に高氏が京にやって来た・・・というわけです。

ところが、京に入った高氏は、協力するはずの六波羅探題を攻撃(5月9日参照>>)
・・・一気に落としてしまいました。

もちろん、これは以前から後醍醐天皇の密かなお誘いに高氏が答えたわけで、天皇は大いに喜び、自分の名前・尊治の尊の一字を与え、この後、足利高氏は足利尊氏と名乗る事になるのです。

しかし、そうやって仲良く鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)わずか2年後に尊氏は、今度はその後醍醐天皇に弓を引く事になるのです。

これが、尊氏の北朝、後醍醐天皇の南朝・・・一つの国に二人の天皇という、ご存知、南北朝の時代に突入するわけですが、この2度の裏切り行為により、尊氏は「逆賊」のレッテルを貼られる事となり、天皇を護った楠木正成忠義の人となるのです。

それにしても、尊氏はなぜ、2度も裏切ったのか?

最初は幕府に・・・そして、2度目は、ともに幕府を倒した後醍醐天皇に・・・

尊氏はそんなに政権を握りたかったのか?それともただ反逆したがりなのか?

しかし、一見別々に見えるこの2度の裏切り行為・・・よく見てみると、尊氏なりの一本筋の通ったポリシーが見えてくるのです。

まず、最初の鎌倉幕府との戦い・・・

当時の鎌倉幕府は、鎌倉幕府とは言えども、源頼朝の血筋は耐え、執権だった北条氏が事実上政権を握ってるものの、14代の北条高時の代になり、坂道を転げ落ちるように幕府の権威は衰退し、配下だった地方武士たちが次々に独立し、領地を持たない武士「悪党」となって各地で暴れ回っている・・・といった状況でした。

・・・で、この北条氏・・・初代の執権・北条時政は、平貞盛から数えて6代め・・・つまり平家の子孫なわけで・・・

直系が耐えたからとは言え、頼朝が開いた源氏の幕府は、いつしか平家の幕府となっていたのです。

そこへ、登場する足利尊氏は八幡太郎義家を先祖とする名門・清和源氏の家系

源氏には、義家から数えて7代目の子孫が天下を取るという言い伝えがありましたが、7代目の時はまだ力が弱く、「私の命を縮めて3代のちに天下を取らせたまえ」八幡大菩薩に祈願して7代目が自害したと言われています。

その3代目というのが尊氏だったのです。

最初の幕府への裏切りは、平家から政権を奪回するための源氏の棟梁としての戦いだったとも言えなくもありませんが、ただ、この「3代のちに・・・」という話はちょっと出来すぎのような気かします。

しかし、この伝説は後から作られた物だとしても、尊氏の中に、源氏の棟梁としての責任感、使命感のような物があったのは確かなのではないでしょうか。

それは、部下に対する「忠義」とでも言いましょうか・・・一族の長として「部下たちに良い思いをさせてやりたい」といった感じの気持ちです。

そう考えると2度目の裏切り行為も、同じ道筋である事がわかります。

後醍醐天皇が打ち出した「建武の新政」(6月6日参照>>)が、あまりにも天皇中心で、武士に何の保障も無かった事。

「こんな政治をやられたら、かわいい部下たちは食っていけない!」と・・・。

やはり2度目も、一族の長であるという責任感、使命感が裏切り行為に走らせたのではないでしょうか。

こうして見ると、足利尊氏の2度の裏切り行為は、目上に対する「忠義」よりも、部下に対する「責任感」を重視した典型的なリーダーという、一本の線でつながる気がするのですが・・・。
 

Takauzisyutuzin1cc 今日のイラストは、
一応、尊氏さんのつもりです~。

だんだん想像が激しくなって来ている気がしますが、例の肖像画もご本人じゃないのなら、好きに想像しても良いのではないかと・・・。
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コメント

男前の尊氏じゃあありませんか!
実は弟くんのファンでして、彼が九州逃亡する時に神戸で難儀していた場所が、私の実家のすぐ近所で・・・って、まあ今は震災であとかたもないのですが、なんとなく楠木正成と足利兄弟(敵同士やがな・・)は、神戸人として好きなんですね~♪
太平記も一時ハマってました・・。

投稿: 乱読おばさん | 2007年4月17日 (火) 10時44分

>乱読おばさん様・・・こんにちは~

>楠木正成と足利兄弟は、好きなんですね~♪
わかります~
もう少し、後醍醐天皇がうまくリーダーシップをとってくれれば、尊氏VS正成の構図にはならなかったのでは?とも思いますし・・・。

私も、木曽義仲と源義経、敵同士だけど両方好きなんです。
あの世渡りのヘタさ加減に母性本能をくすぐられます~。

投稿: 茶々 | 2007年4月17日 (火) 17時31分

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