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2007年5月31日 (木)

奈良・平安の食生活 グルメの醍醐味

 

今日は奈良・平安の食生活についてのちょっとした豆知識を・・・。

・‥…━━━☆

奈良時代の食生活は、正倉院の文献や出土する木簡などで、意外と自由で豊富だった事がわかっています。

まずは主食のお米・・・これは玄米だけでなく白米も食べられていました。

野菜類も、青菜(ふき)大根茄子わらびなど、多くの種類の物が食されていました。

肉類は、鹿イノシシが主でしたが、(きじ)などの鳥系も食べられていました。

そして、やはり日本人と言えば魚介類・・・これは、もうかなりの種類です。

魚の代表格は、堅魚(かつお)烏賊(いか)
貝類では、主に(あわび)や、白貝(おう)と呼ばれる大きなはまぐりがありました。

海草もワカメアラメ・・・特に寒天原藻類が人気だったようです。

これらを調理する調味料は、すでに大豆や小豆で、(ひしお・醤油)未醤(みしお・味噌)が製造されていましたからバッチリ味付けできた事でしょう。

お米は現在のように「炊く」というよりは「蒸す」のが主流でいわゆる「強飯(こわめし)というヤツです。

野菜は、菜っ葉類は今と同じように茹でたり煮たり・・・大根や瓜などは塩漬けにして食べていたそうです。

魚はすぐに食べる時は焼いたりしましたが、主に塩漬けや干し物として保存食として重宝されていました。

汁物や和え物も豊富で、意外と現在と変わらないグルメな食生活だったようです。

中でも特筆すべきは乳製品

『医心方(いしんほう)という文献によると・・・
「牛乳を煮詰めてかゆ状にした物が“(らく”。その酪をさらに煮詰めて半固形になった物が“(そ)”」
という製造法が書かれていて、この蘇は、古代のチーズとして有名ですね。

そして、蘇にはさらに上があったようです。

『涅槃経(ねはんぎょう)という経典には、その製造法は書かれていませんが、味の深みが書かれています。

「牛乳を煮詰めて・・・乳味酪味生蘇味熟蘇味醍醐(だいご)という風にどんどん味に深みが出てくる」とあります。

もちろん『涅槃経』は経典ですから、これらの食品を紹介しているのではなく、「食品の味に深みが出るように仏教の悟りが深まっていく」という部分の例えとして使用されています。

つまり、醍醐というのは究極の味・・・なので、その物の「一番オイシイところ」という意味で、現在でも「これが○○の醍醐味(だいごみなんです」という使い方をされますよね。

奈良時代にどれだけ酪農が行われていたのかは、はっきりとした記録はありませんが、平安時代にはすでに、『延喜式(えんぎしき)で、“蘇”を全国から税金として納めるように定められていますので、けっこうな広範囲で酪農が行われていた事が伺えます。

ただし、このような豊富な食材を味わえるのは、やはり山や海の近い場所に限られていて、奈良や平安の都では、あまりグルメな食生活とは言えなかったようです。

都に住む貴族たちは、野菜も茹でや生では無理なので、漬物になりますし、魚も干物か塩漬けになってしまいます。

清少納言紫式部の日記などに、あまり食事の話が登場しないのも、やはり宮廷の食事という物があまり魅力的な物ではなかったからかも・・・

ただし、『枕草子』には、「削氷に甘葛煎(あまかずら)入れて、新しき鋺(かなまり)に入れたる・・・」という描写があり、「カキ氷」を食べていた事は書かれていますね(8月5日参照>>)

平安貴族って、ほとんど外に出ないインドア派で、食事も栄養が偏っていたようで、常に便秘に悩まされ、かなり不健康で病気がちだったようですね。

ひょっとして、今より「メタボ」が多かった?のかも・・・。

Daigocc 今日のイラストは、
「醍醐」という物を想像して書いてみました~。

を煮詰めて半固形になった物がで、そのがチーズだとしたら、熟蘇はチーズをさらに熟成させた物・・・その上をゆくのが醍醐なら「ブルーチーズ」のような物だったのかな?と・・・。

形はお餅のようにしてみました~。
ちなみに、好き嫌いが別れるブルーチーズですが、私は好きです。
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2007年5月30日 (水)

風林火山・孫子の兵法9九変篇

 

今日は、『風林火山・孫子の兵法』・・・今回は9回目『九変篇』を紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

『将、九変の利に通ずれば、兵を用うるを知る。
将、九変の利に通ぜざれば、地形を知るといえども、地の利を得ること能
(あた)わず・・・』
九変の効果を知っている将軍だけが、軍を率いる資格がある。
九変を駆使できなければその土地を知っていても地の利を得る事はできない。」

そんなに大事な「九変」とは・・・「その時々に応じて形を変える」という意味です。
言い換えれば臨機応変という事・・・。

孫子の中では色々な原則が語られます。
その原則を充分に心得ておいて、臨機応変に応用する事が重要なのです。

その原則は・・・
『・・・圮(ひ)地には舎(やど)ることなく、
(く)地には交わり合し、
(ぜつ)地には留(とど)まることなく、
(い)地には則ち謀り、
死地には則ち戦う』

「“圮地=行軍のし難い場所”には駐屯せず、
衢地=諸外国の勢力がうまく保たれている場所”では外交交渉を充実させ、
絶地=敵の領内真っ只中”には長く留まらず、
囲地=囲まれたら”策略を使って脱出を図り、
死地=危機”ならば戦うのみ」

という事です。

そして、それを臨機応変に別の視点から見てみると・・・
『塗(みち)に由(ゆ)ざらる所あり。
軍に撃たざる所あり。
城に攻めざる所あり。
地に争わざる所あり。
君に受けざる所あり』

「道には行ってはいけない道もある。
敵には攻撃してはいけない敵もある。
城には攻めてはいけない城もある。
土地には奪ってはならない土地もある。
君主の命令には従ってはいけない命令もある」

と、いう事になるのだそうです。
う~ん・・・臨機応変って難しい・・・。

また、多方面から考える事・・・「トータル・シンク」も重要だと語っています。

『智者の慮は必ず利害に雑(まじ)う。』
「デキル人は必ず利と害の両方を考える」

利益を考える時にはそれに伴う損失の事も考え、逆に損失した時はそれによる利益もしっかりと考えなくてはならないのです。

また、これは自分のところばかりではありません。
敵を降伏させるためには損害を与え、味方に抱き込むためには利益与える。

自分の利害とともに敵の利害も考えておかなくては勝てません。

そこをしっかりと押さえていれば・・・
『・・・その来たらざるを恃(たの)むることなく、吾の以って待つ有ることを恃むるなり』
「敵が攻撃してこない事を願うのではなく、敵がしてこないようにコチラ側が仕向ける」
という事ができるのです。

たとえば、敵が「これは無理だ」と思うような強固な守りを固めたりしておけば、決して攻撃される事はないのです。

そして最後に、将軍が過ちを犯す危険=間違い例として『五危(ごき)という5つを示してくれています。
『将に五危有り。
必死は殺さるべきなり。
必生は虜
(とりこ)にさるべきなり。
忿速
(ふんそく)は侮(あなど)らるべきものなり。
廉潔
(れんけつ)は辱(はずか)しめらるべきなり。
愛民は煩
(わずら)わさるべきなり』
「将軍には5つの危険がある。
必死な者は殺される。
生きようとする者は捕虜になる。
怒りっぽい者は軽視される。
まじめな者は策にハメられる。
民衆の事を考え過ぎると精神的に参ってしまう。」

こんな将軍は必ず負け戦をしてしまうそうですので気をつけなければいけません。

上記の5つは、3番目の「怒りっぽい」以外は、ある意味必要な要素であり、どちらかと言うと良い事である場合が多いのです。

戦うのなら、死を恐れず立ち向かっていかなくてはいけませんし、命を大事に考え撤退をする事も重要です。
まじめや民衆の事を考えるに至っては、「そうじゃなかったらむしろ困る」といった事柄です。

しかし、何事もバランス感覚が大事・・・わかりやすく言うと、「まじめ」なのは結構ですが「くそまじめ」では困るという事です。

こだわり過ぎると、逆にそれが弱点となるのです。
将軍に求められるのは、広く浅く・・・総合的に判断する能力であって、一つの事に集中して力を注ぐ事はかえってマイナスになる・・という事を教えてくれているのです。

これは、戦時下における将軍だけに限らず、企業のリーダーにも重要な事ではないでしょうか。

以上、今日は『九変篇』をご紹介させていただきました~。

・・・・・・・・・・・・・・

★続編はコチラ『風林火山・孫子の兵法Ⅹ行軍篇』>>

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
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2007年5月28日 (月)

曽我兄弟の仇討ち もう一人のターゲット

 

建久四年(1193年)5月28日、「日本三大仇討ち」の一つとして有名な『曽我兄弟の仇討ち』がありました。

・・・・・・・・・・・・

ちなみに「三大仇討ち」とは、最も古いのが、この『曽我兄弟の仇討ち』

次が、寛永十一年(1634年)の『伊賀上野鍵屋の決闘』・・・あの「荒木又右衛門の36人斬り」って噂されるヤツです(11月7日参照>>)

そして、元禄十五年(1702年)のご存知『忠臣蔵』でお馴染みの「赤穂浪士の討ち入り」です(12月14日参照>>)

・・・・・・・・・・

曽我兄弟とは、兄で21歳の曽我十郎祐成(すけなり)と19歳の弟・五郎時致(ときむね)の二人です。

そもそも、この兄弟の祖父・伊東祐親(すけちか)と、従兄弟同士であった工藤祐経(すけつね)が、お互いの荘園をめぐって「取った」「取らない」で、昔から、いさかいを続けていたのです。

いったんは平重盛が間に入って、折半という事で話は収まったのですが、祐経が公用で京へ行っている留守中に、祐親が、その荘園のすべてを横領してしまったのです。

・・・で、当然の事ながら、その行為に怒った祐経が、自分主催の狩りの時、その祐親の息子・・・つまり曽我兄弟のお父さんの河津祐泰(すけやす)を暗殺してしまったのです。

原因を見てみれば「横領したジッチャンも悪いやん!」と、思うのですが、こういう場合、幼い子供の心には、やはり「父を殺された恨み」しか残らない物なのでしょうね。

なんせ、兄弟はこの時3歳と1歳ですから・・・。

その後、あの富士川の合戦(10月20日参照>>)平家方についた祐親は、源氏に捕らえられますが、恩赦によって釈放されます。

しかし、敵に情けをかけられるのを「恥」と思った祐親は、間もなく自害して果ててしまいます。

こうして、父も祖父も失ってしまった兄弟は、その後、母の再婚相手・曽我祐信(すけのぶ)に育てられます。

ちなみに仇の祐経は、『富士川の合戦』では源氏方についていて、その事も兄弟の憎しみの心の拡大に影響したかも知れません。

やがて十八年の歳月が流れた建久四年(1193年)5月28日・・・その日は朝から大雨でした。

源頼朝の主催で、鎌倉の御家人たちを招いて富士の裾野で行われるはずだった巻狩り(周囲を囲って獲物を追い込む手法の狩り)は中止となり、狩りが終ってから行われるはずだった宴会が、午前中から始まり、御家人たちは真っ昼間から酔っぱらい、やがて夜になる頃には、泥酔状態のまま寝入ってしまうのです。

そこを狙ったのが、あの兄弟・・・みごと、父の仇・工藤祐経を討ち取って本懐をとげたのです。

しかし、話はここで終らない・・・。

兄弟は、父の仇を討ったその後も、屋形の奥へと進みます。

でも、さすがに泥酔しているとは言え、鎌倉武士の集団相手に、逃げおおせる事はできません。

兄・祐成は途中で新田四郎忠常に斬られてしまいます。
しかし、弟・時致はさらに奥の頼朝のもとへ・・・。

結局、時致は頼朝の所にまでは行けずに、ころあいを見計らって逃亡し、翌日捕らえられてしまうのですが、誰もが聞きたいのが、「父の仇を討った後、なぜ?頼朝のもとに向かったのか?」という疑問です。

『吾妻鏡』では、その疑問に対する時致の答えとして、
「どうせなら頼朝に拝謁して、その目の前で自殺しようと思った」と語り、
『曽我物語』では
「将軍を殺して閻魔大王への手土産にしようと思った」と言っています。

この答えはどうでしょう・・・釈然としませんねぇ。

そこで思い起こすのが、彼らの祖父・伊東祐親という人・・・。

実はこの人、頼朝が伊豆で流人の身であった時、北条時政とともに、その監視役をしていた人なのです。

しかも、頼朝は祐親の留守中に彼の娘・八重姫に手を出して、屋敷にころがり込み、男の子を生ませていました。

平家全盛の世に、源氏の子供を孫と認めるわけには行かず、二人を無理やり別れさせ、かわいい孫を涙を呑んで手にかける・・・という悲しい出来事があったのです(8月11日参照>>)。

その後、頼朝はもう一人の監視役・北条時政の娘・政子に手を出すわけですが、結局、主君である平家に義理立てせず、監視の役目を怠った事になる時政がラッキーな人生を歩み、実直に生きた祐親が貧乏くじを引いた感はぬぐえません。

もちろん、これは兄弟の立場からの見方で、北条側から見れば、時政は先見の明があったという事になりますが・・・

さらに、頼朝が挙兵してからも、祐親は石橋山の合戦(8月23日参照>>)などで活躍し、そして、先ほど書いた『富士川の合戦』後の恩赦に恥じての自害です。

そう、彼ら兄弟にとっては、父の仇が工藤祐経で、祖父の仇は源頼朝だったのかも・・・です。

十九と二十一の立派な若者になっても、彼らが御家人にもなれず不遇の人生を送らなければならなかった原因がここにあった・・・という事なのでしょうね。

彼らの『仇討ち』のターゲットは祐経ひとりではなく、おそらく頼朝もターゲットだったのです。

当然の事ながらこの後、時致は処刑される事となります。

Syoubusogakyoudaicc 今日のイラストは、
久々に花の絵を書いてみました~。

私の勝手なイメージですが・・・『曽我兄弟』って、りりしい花菖蒲かな?と・・・。
仇討ちの日は雨でしたが、星空の下、兄弟並んで・・・

ところで、今日のお話・・・いったい何人「祐」の字がつく人物が登場するんだ?
ややこしいったらありゃしない!
 

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2007年5月27日 (日)

百人一首に隠された暗号~「百人一首の日」にちなんで

 

文暦二年(嘉禎元年・1235年)5月27日、友人の宇都宮頼綱に依頼され、藤原定家自ら選んだ和歌百首を色紙に書いて嵯峨の小倉山荘の障子に貼ったと記録されている事から、この日が『小倉百人一首』が完成した日という事で、今日5月27日は『百人一首の日』なのだそうです。

・・・・・・・・・・

ご存知、『小倉百人一首』は、1番の天智天皇から100番の順徳天皇まで、約600年間に生きた百人の歌人の歌を一首ずつ色紙に書き、同じくその歌人の肖像画をを添えた物ですが、肖像画も含め、最初から百首であったのか?どうかは様々な異説が存在し、確かな事はわかっていないようです。

ただ、室町時代頃には、すでに『百人一首』という名前で呼ばれており、和歌のお手本として尊重されるようになっていました。

やがて、宮中や大名の大奥などで遊戯として用いられるようになり、江戸時代に入って上のと下の句を分けた「かるた遊び」が行われるようになって、広く一般庶民にまで流行し、その遊びは現在も受け継がれています。

歌集としての『小倉百人一首』は、室町以降、その形式をまねた『新百人一首』『続百人一首』などの歌集が発表されますが、いつの時代も、最も古いこの『小倉百人一首』が好まれ、現在でも単に『百人一首』と表記した時はこの『小倉百人一首』を指しているほど有名です。

ところで、この『小倉百人一首』については、以前から、様々な謎が指摘されてきました。

それは、何と言っても、この百首の歌の選びかた・・・この百首の中には、学者として歌人として、『歌道』という物を確立した才能を持つ藤原定家(さだいえ)が選んだとは思えないような駄作のような歌も含まれているのです。

そして、もう一つ、何度も同じ言葉・同じ情景の歌が含まれている事・・・この同じ言葉・同じ情景を詠む歌が複数ある事で、後々「カルタ遊び」として遊ぶ場合は断然オモシロイわけですが、もちろん、定家が後の時代の遊びの事を考えて選ぶはずもないわけで、さらに謎を大きくしてしまうのです。

そんな中で、正史とは違う逸話が残っています。

・‥…━━━☆

藤原定家の才能に最初に目をつけたのは、第82代天皇・後鳥羽上皇でした。

当時の学者・歌人といった人たちは、権力者にいかに気に入られるかで、その出世の道が開かれるわけですから、定家も、自分の才能を高く評価してくれる後鳥羽上皇をありがたく思って期待に応えようと頑張り、その頑張る姿に上皇も彼をより可愛く思う・・・という事が多々ありました。

そんな親しい関係にあった二人ですが、ある日、些細な事でケンカをしてしまいます。

それは、親しいがゆえの、つまらないケンカでお互いが「すぐまた仲直りできるだろう」と、たいした事ではないと思っていたのです。

ところが、お互いがつまらない意地をはっている間に後鳥羽上皇はあの『承久の乱』(5月14日参照>>)を起こしてしまうのです。

つまらないケンカ別れが永遠の別れとなってしまいました。

後鳥羽上皇は、そのまま、隠岐へ流罪の身となります。

幸か不幸か、ここしばらく上皇と接触していなかった定家は、その後も宮廷歌人としての地位を確保できる事になります。

・・・が、しかし、それは今後、上皇と連絡をとれば、仲間とみなされて処分されるかも知れないという危険もあるという事になります。

「あれほど仲が良かった自分からの連絡がない事を、上皇はどのように思っているのだろう」という不安にかられながらも、やはり定家も現在の地位を失いたくはありません。

やがて、怨みを抱いて隠岐に幽閉されている上皇の「生霊」の話や、怪奇現象の話が噂されるようになります(7月13日参照>>)

そして、ついにある日、定家のもとへ「後鳥羽上皇が亡くなった」というニュースが飛び込んで来るのです。

その話を聞いた定家は、意を決したようにスクッと立ち上がり、なにも言わず山荘にこもったのです。

何週間かして、人前に現れた彼の手には、一首ずつ和歌が書かれた百枚の色紙があった・・・それが、『小倉百人一首』だったというのです。

・‥…━━━☆

ですから、この話でいくと、『小倉百人一首』は秀歌を集めた歌集ではなく、隠岐へ流され非業の死を遂げた後鳥羽上皇に捧げた歌集だったという事になります。

もちろん、これは伝説の域を出ないお話です。

第一、実際には、『小倉百人一首』ができたのは、文暦二年(嘉禎元年・1235年)となっていて、後鳥羽上皇が亡くなったのは延応元年(1239年)というのが定説ですから・・・

ただ、先に書いた「おかしな歌の選び方」・・・これが、優れた歌を選んだのではなく、後鳥羽上皇のために選んだ百首だったのだとしたら理解できるという説があるのです。

くりかえし登場する同じ言葉・同じ情景というのも、『袖しぼる』『袖ぬらす』といった「泣いてる」あるいは「涙」をイメージするし、『舟』『船出』『旅立ち』、また『海』『海辺』といった感じの、何やら「遠い離島へ行った感」を連想させる物も多く登場します。

また、実際に隠岐へ流罪の身となった小野篁(おののたかむら)(12月15日参照>>)の別れの歌もあったりします。

はてさて、真実は藪の中ではありますが、一度、お手持ちの百人一首を、そういった別の観点から読み直してみるのも面白いかも知れませんね。

・・・と、そんな中で、百人一首には、後鳥羽上皇の歌と、御本人・藤原定家の歌も収められていますので、お二人の歌を紹介させていただきますと・・・

後鳥羽上皇の歌
人も惜(お)し 人も恨めし 味気(あぢき)なく
 世を思ふゆゑに もの思ふには

「今、思えば世の中には愛すべき人も憎い人もいるなぁ」

●定家の歌
来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
 焼くや藻塩
(もしお)の 身もこがれつつ
「松帆の浦の夕なぎで、藻塩を焼く
(塩を精製する)火のように身をこがして、来ない人を待っている」

う~ん、確かに、ウラの意味があると言われればあるような気がする歌です。

家が海辺で待ってるのは女性の恋人とは限らないわけですし、(上皇が)流罪が解かれて帰って来るのを待ってるとごじつける事もできますが、やはり、それは推測の域を出ないトンデモ説に近いもの・・・

ただ、もし『小倉百人一首』という歌集が、本当に後鳥羽上皇の鎮魂のために編集されのだとしたら、古からの数ある歌集の中で、最も人々に親しまれ、長く愛された事で、少しは上皇の魂も癒されたのではないかと思います。

定家の初恋の相手かも知れない式子(しきし・しょくし・のりこ)内親王については…【恋の歌姫~式子内親王と藤原定家】でどうぞ>>

Hyakuninissyucc 今日は、
おなじみのカルタの『百人一首』を絵にしてみました~。

わが家の百人一首は、ほぼ9割「坊主めくり」用に使用しています。

百人一首をカルタ取りにする事を思いついた人もスゴイが、「坊主めくり」のルールを考えた人もスゴイと思う・・・坊主と姫と殿の数のバランスが絶妙だ!

「坊主めくり」と言えば「三枝の国盗りゲーム」を思い出すなぁ~。
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2007年5月26日 (土)

源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦

 

治承四年(1180年)5月26日、源平合戦の幕開け・宇治の『橋合戦』がありました。
この合戦に敗れた源頼政が平等院にて自刃しています。

・・・・・・・・

治承元年(1177年)5月『鹿ヶ谷(ししがだに)の陰謀』と呼ばれる「反平家」の芽を事前に摘んだ平清盛・・・(5月29日参照>>)

やがて、娘・徳子の産んだ子供を、わずか3歳で安徳天皇として即位させ、まさに平家の絶頂期を迎えます。

しかし、絶頂期であればあるほど「打倒平家」の気運は、影で動く事になります。

やがて、同じ思いを持つ二人の人物が接触します。

本来なら天皇の座についてもおかしくないはずなのに、清盛の力によって安徳天皇が即位したために不遇な日々を送っていた後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)

そして、先の平治の乱(12月26日参照>>)で清盛に味方した事で、源氏でありながら生き残ったものの、思うようには出世できずにいた源頼政(みなもとのよりまさ)

頼政の進言により、以仁王が各地の源氏の生き残りや反平家勢力に対して、平家追討の『令旨(天皇家の人が発する命令書)を発したのは、治承四年(1180年)4月9日の事でした(4月9日参照>>)

「以仁王の令旨」は、伊豆にいた源頼朝(みなもとのよりとも)や、木曽の源義仲(みなもとのよしなか)にも届けられますが、彼らが行動を起こす前に、この令旨の事が熊野に伝わり、平家につく熊野本宮と、平家打倒を掲げる新宮との間で大騒ぎになります

慌てて御所を抜け出し三井寺に身を隠した以仁王ですが、今度はそれを聞きつけた平家が本格的に以仁王を撃つべく動き始めたのです。

Uziyorimasamiticc 三井寺で以仁王と合流した頼政は、さらに奈良へと身を隠すべく、ともに江州街道を南に下ります。

この道中、以仁王は6回落馬したと言います。

ここ何日間か、睡眠も休養もとっていなかったのです。

頼政は、以仁王を休養させようと平等院に立ち寄り、時間稼ぎのためにと、宇治橋の橋板をはがします。

これで、少しは防御できるでしょう。

一方の平家は、「以仁王が奈良に落ちてしまっては面倒な事になる」と、平知盛(たいらのとももり)を総大将に重衡(しげひら)忠度(ただのり)・・・以下、2万8千の大軍を率いて進軍してきます。

平家軍が宇治川に到着したのは、治承四年(1180年)5月26日の正午頃・・・宇治川を挟んで頼政軍。

この時の頼政の様子は『平家物語』に・・・
「源三位(げんさんみ)入道頼政は、長絹(ちょうけん)の鎧直垂(ひれたれ)に品皮縅(しながわおどし)の鎧なり。今日最後とや思はれけん、わざと甲は着給はず。」
とあります。

武士は、「最後の戦だ」と心に決めた時、甲は着けません。

「もう、この身を守るつもりはない、命を捨てる覚悟である」という意味なのです。

頼政、齢77・・・流れ速き宇治川の川音の向こうに、平家の大軍の鬨(とき)の声を聞きながら、その大いなる人生を振り返った事でしょう。

Uzigawatouzibasicc やがて、橋に押し寄せる平家軍。

橋板が無い事に気づかず、勢い余った軍勢は橋の隙間から転げ落ち、2~300騎が宇治川の急流に呑みこまれてしまいました。

しばらくの矢戦の後、いよいよ平家軍は総攻撃をかけようとしますが、降り続いた五月雨に水かさを増した宇治川を渡るにはどうしたらよいものか・・・。

その時、下野(しもつけ)の国の住人・足利又太郎忠綱という17歳の少年が進み出て、
「武蔵と上野の境に利根川という大きな川があって、そこで合戦が行われた時、上野の住人・新田入道という人物は、“馬筏(うまいかだ)という物を作って渡り、みごと敵を破りました。
我々坂東武者は、こんな川におじけずいたりしないんです。
利根川に比べてこの宇治川、速さ深さにそんなに差があるとは思えません。
さぁ、後に続いて来てください!」

と、言い終わると自らが先頭に立って馬で川の中に乗り入れました。

何人かの東国の武将が後に続きます。
“馬筏”とは、馬を筏のように並べて、お互いを助け合いながら川の中を進む術です。

『強き馬をば上手に立てよ。弱き馬をば下手になせ。馬の足を及ばうほどは、手綱をくれて歩ませよ。・・・』
という具合に、実際に、川の中で実践講習会さながらに、そのワザを伝授しつつ川を越えて行きます。

忠綱の教え方がうまいのか、ともに川を渡り始めた300騎は、またたくまに馬筏の技術をマスターし、続く平家・六波羅の本隊も、馬筏を組んでまっしぐらに川を進んで行きます。

Hasikassenuzibasicc 驚いたのは、こちらの頼政軍。

馬筏などと見た事もないワザを使って、川を渡ってくる様子を見て慌てふためきます。

なんせ、兵の数は比較になりません。

「川を渡られては、とても勝ち目はない」とばかりに、矢を射かけますが、姿勢を低くして泳いでいる馬を射落とす事はとても難しく、大軍が川を渡りきった頃には、もう、その射かける矢も残っていませんでした。

頼政軍はもう、退却するしかありません。

怒涛のごとく押し寄せる敵を何とか防ぎながら、頼政は以仁王を奈良方面に逃がし、その後、平等院の庭で覚悟の自刃をして果てました。

いつも観光のお客さんで賑わっている宇治の平等院。

鳳凰堂にはたくさんの人が目をやりますが、その庭の片隅にひっそりと「扇の芝」と呼ばれる頼政自害の地があるのは、あまり知られていません。

♪うもれ木の 花さくことも なかりしに
 身のなるはてぞ かなしかりける♪  
源頼政・辞世

平家全盛の時代に、うもれ木のように生きた源氏の勇将・源頼政・・・70を過ぎて最後に夢見た未来とは、どんなものだったのでしょうか・・・とても悲しい時世です。

そして、少ない護衛とともに、奈良方面へ逃げた以仁王・・・しかし、彼も木津川を渡る直前で平家軍に追いつかれ、頼政と同様、うもれ木のような生涯を送った気高き皇子も、ここで命を落とします。
*以仁王生存説は2009年の5月26日のページへ>>

そして、この3ヶ月後の8月には伊豆で源頼朝が(8月17日参照>>)、9月には木曽で義仲が(9月7日参照>>)打倒平家の旗揚げをするのです。
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2007年5月25日 (金)

七生報国・湊川の戦い

 

延元元年・建武三年(1336年)5月25日は、『湊川の戦い』のあった日・・・合戦の敗者・楠木正成さんのご命日でもあります。

・・・・・・・・・・・

足利尊氏楠木正成新田義貞といった味方を得て鎌倉幕府を倒し、新政権を立ち上げた後醍醐天皇(5月22日参照>>)

しかし、その『建武の新政』はわずか二年で崩れる事になります(6月6日参照>>)

後醍醐天皇自ら、「天皇中心の政治を・・・」と理想を追い求めるのはけっこうですが、鎌倉幕府の時代に政治の事は幕府にまかせっきっりだった公家たちは、いざ何かやろうと思っても、何から手をつけて良いのやらさっぱり・・・。

また、打倒鎌倉幕府の時に、たいした事もやっていない貴族たちが新政権では重要な役職に着き、貢献した武士たちには、逆にたいした恩賞もない・・・こんなもん武士たちの不満がつのらないわけがありません。

そんな建武二年(1335年)、鎌倉幕府最後の執権だった北条高時の遺児・時行が幕府復興を願って、鎌倉に攻め入り占領するという事件が起こります。

当然のように、その乱の鎮圧に鎌倉へ向かった足利尊氏・・・

乱はあっという間に鎮圧されますが、これをきっかけに尊氏は、天皇へ反旗をひるがえす事になるのです。

尊氏は京へ帰らずそのまま鎌倉で、「打倒!後醍醐天皇」を表明し、各地の武士たちに味方になるように声をかけます。

後醍醐天皇はすぐさま新田義貞を派遣し尊氏を討とうとしますが、尊氏は新田軍を撃ち破り、逆に京の攻め上ります(12月11日参照>>)

しかし、この時は、奥州から追撃してきた北畠親房、態勢を立て直した新田軍、さらに楠木正成らも加わった朝廷側総動員で立ち向かわれためにあえなく敗退・・・九州へ落ち延びます(1月27日参照>>)

やがて、九州で態勢を立て直した尊氏・・・しかも、今度は西国の武士たちを味方につけ、その数は水上2万5千、陸上1万という巨大な軍となって、西から京を目指して攻め上ります(4月26日参照>>)

この尊氏の軍を、義貞・正成らが迎え撃った戦いが、『湊川の戦い』です。

この時、後醍醐天皇は、「先に兵庫(湊川)で、足利軍を迎えうつべく陣を敷く新田軍と合流して力を合わせよ」と正成に命じますが、正成には別の秘策がありました。

それは、「数の上では断然足利軍の方が上・・・このままでは勝ち目がないと判断し、新田軍を撤退させ、天皇以下全員が一旦比叡山に退いて、その間に一方で畿内の兵を集め、一方で淀川流域を制圧し、京に入った足利軍の兵糧を絶つ。
そして、ころあいを見計らって比叡山より撃って出る

という作戦でした。

しかし、「天皇が戦う前から都を捨てて避難するというのは、かっこがつかん!」と周囲は猛反対・・・

正成はさらに、「戦は最後に勝つ事のみが重要。途中の恥は捨ててください」と食い下がりますが、結局、聞き入れてはもらえず「天が味方するものと信じて迎撃をせよ」との命令が下ります。

正成は、「天皇は、この正成に討死せよとのお考えである」と、死を覚悟して京都を出立・・・その時の息子との決別が有名な桜井の別れ(5月16日参照>>)です。

かくして延元元年・建武三年(1336年)5月25日の朝、湊川にて合戦に挑む正成

正成が湊川に到着した時には、尊氏が大船団を率いて瀬戸内海を越え、まさに上陸しようとしていた時でした。

同時に陸からは直義(ただよし=尊氏の弟)の大軍も迫って来ていました。

準備もそこそこの状態で合戦に挑む事になってはしまいましたが、そのわりには、新田軍も楠木軍も善戦します。

しかし、やはり多勢に無勢・・・そのうち新田軍が敗走し、もはや合戦の勝敗は決しました。

それでも、正成は戦い続けますが、やがて兵の数も尽き、死に場所を求めて戦場を離れ、近くのゆかりの村へ身を隠します。

自害の決意をした正成は、舎弟の七郎・正季(まさすえ)に語りかけます。

「人は、最期の時の思いによって、次に生まれ変わる世界が変るっちゅーけど、今度生まれて来る時は、お前は何に生まれ変わりたい?」

正季は笑いながら・・・
「俺は、あと、7回でも同じ人間界に生まれ変って朝敵を滅ぼしたりますよ!」

正成も、うなづきながら・・・
「俺も同じや・・・ほな、お前も俺も、もっかい生まれ変わって、次は本懐を遂げような」

この「7回生まれ変っても国に報いる」という話は、『七生報国』と呼ばれ、太平洋戦争中には、国民全員の士気を高めるために大いにもてはやされたという、もう一つの歴史も持っています。

国民を戦争に駆り出す道具に使う事には賛成できませんが、不利を承知でひたむきに戦う正成さんの姿には、判官びいきならずとも感動をしてしまいます~。

それは、先祖代々、天皇に仕えてきた名家の坊ちゃんである尊氏と、後醍醐天皇という一人の天皇に見出された楠木正成との違い・・・

同じように私領を増やしたいと願い、同じように武士の長として部下の幸せを思う中で、尊氏にとって天皇家は後醍醐天皇だけではなかったけれど、正成にとっては後醍醐天皇だけが天皇だったという事でしょう。

元弘元年(1331年)、笠置山で後醍醐天皇に初めて謁見したあの日から(8月27日参照>>)、わずか6年・・・彗星のごとく歴史の表舞台に登場した楠木正成は、この日、静かにその表舞台を降りました。

そして、正成の自刃を知った義貞は・・・と、このお話の続きは、義貞中心の【新田義貞と湊川の戦い…小山田高家の忠義】へどうぞ>>

Kusunokiminatogawacc 今日のイラストは、
『湊川で奮戦する楠木正成』・・・のつもりです。

♪忍ぶ鎧の 袖の上(え)に 散るは涙か はた露か♪

ご命日という事で・・・ご一緒に【楠木正成伝説】のお話もどうぞ>>
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2007年5月24日 (木)

万葉の恋歌・別れ歌

 

今日は、万葉集に残る数多くの歌の中で、異彩を放つ名歌を残した狭野茅上娘子をご紹介させていただきます。

彼女の歌はとにかく魅力的・・・たしか古典の教科書にも出ていたので、ご存知の方も多いかも知れません。

・・・・・・・・・

時は天平の頃・・・宮廷に仕える狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)は、女官の中でも身分の低い女嬬(じょじゅ)という身分で、帝に直接会うような事もなく、毎日雑用のような事ばかりの仕事でした

Heizyoukyousuzakumoncc しかし、そんな彼女に、いつのほどからか気になる人が・・・とこれは、あくまで想像ですが、多くの人が務める宮廷内ですから、どちらかが、あるいは、どちらもが、何かの拍子に偶然に目と目が合ったとかで、お互いに意識し始めるような事が無ければ、ただの、宮廷で働く同僚なわけですし、この時代、ただの同僚なら、男女が言葉を交わす事すら無かったでしょうから、何かしらの接点=惹き合う物があったはず・・・

あくまで、推測ですが、そう考えないと、宮廷に務める男と女官が、関係を持つに至るはずは無いですから・・・

とにもかくにも、彼女=狭野茅上娘子は女官にあるまじき恋をします(たぶん)。。。
お相手は、中臣宅守(なかとみのやかもり)。。。。

とは言え、ほとんど史料が無い二人・・・中臣宅守に関しては、中臣東人(なかとみのあずまひと)の七男で、「中臣」という姓からわかるように代々神を司る神官の家系の人で、晩年に従五位下に任ぜられたという事はわかっています。

狭野茅上娘子は、後宮(天皇の大奥のようなところ)の蔵部に仕える女嬬という事しかわかりません。

まして、この二人の関係についての公式な記録は、万葉集の目録に書かれた文章と残された二人の歌だけ・・・。
後は同じ頃の文献を読み解きながら推理するしかないのです。

万葉集・巻十五にはこうあります。
中臣朝臣宅守(なかとみのあそんやかもり) 蔵部の女嬬(じょじゅ)狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)を娶(めと)りし時勅して流罪に断じ、越前国に配(なが)
ここに夫婦別れ易く会いひ難きを相嘆きて、各々働
(いた)む情(こころ)を陳(の)べて贈答する歌六十三首』

つまり・・・
中臣宅守という人が、宮廷で女嬬をしていた狭野茅上娘子と恋に落ちて流罪となり、越前(福井県)に流された時、別れを悲しんで詠んだ63首の歌をここに収めます」
という事です。

それにしても、上記の目録の文章・・・『娶(めと)りし時勅して流罪に断じ』という事は、「二人が結ばれた事によって流罪になった」という事でしょうか?

今のところの通説では、「娘子の職業・女嬬というのが、後宮の女官である以上、彼女たちは天皇の所有物になるのだから、他の男と結ばれてしまった事で、宅守が流罪となった」という見方が一般的です。

しかし、もう少し身分の高い「采女(うねめ)は、地方豪族たちが中央の天皇家へ服従の意味を込めて、言わば献上したようなものなので、天皇以外の男性と恋愛関係になる事は禁じられていましたが、女嬬はもっともっと低い身分で、召使いのような位置にいたので、恋愛は禁じられてはいなかったのではないか?との見方もあります。

それが確かなのは、その万葉集にある「娶る」という言葉です。
二人の関係がもし、罪になるのなら、そこは「姧」の文字が使われていなくてはなりません・・・不義密通て事ですからね。

しかし『娶りし時勅して流罪に断じ』というのは、二人の関係は合法であったけれども、結婚してすぐに流罪になったという風にもとれます。

では、なぜ?彼=宅守は流罪になってしまったのでしょう。
ヒントは『続日本紀』のある記述と、『万葉集』に残る彼の歌・・・

『続日本紀』によると、天平十二年に聖武天皇の病気快復祈願の勅命(天皇の命令)で、大赦(罪を軽くする事)が行われていますが、当時、流罪で越前に滞在中の宅守は、その大赦から外されているのです。

この時、大赦から除外される罪として、「業務上横領」「故意的殺人」「計画的殺人」「ニセ金造り」「強盗・窃盗」「姦通」の六つが挙げられていますが、6つめの「姦通」は先ほどの「娶る」という表現から見て無いとするなら、残りの5つのうちどれかの罪という事になります。

そして、『万葉集』にある彼が、配所の越前から都の娘子に送った2首の歌。

♪さす竹の 大宮人は 今もかも
 人なぶりのみ 好みたるらむ♪

「都の人たちは、昔から“人なぶり”が好きだったけど、今もまだやってるのかな」
“人なぶり”とは、「悪質な噂話」とでも言いましょうか・・・執拗に人をからかったりする、言わば「イジメ」のような事です。

そして、もう一首・・・
♪世の中の 常の理 かくさまに
 なり来にけらし すえし種から♪

「自分のまいた種は自分で刈り取らなくちゃならないのは当然だからね」

この2首の歌をわざわざ彼女に送るという事は、やはり「それなりに意味がある」と考えると・・・「悪質なイジメ(噂話)によって、彼は何か事件を起こし(罰を受ける事で)その責任をとっている」という想像もできます。

突発的なケンカのような物であっても、宮廷内で刀を抜いた以上、それは「故意的殺人」とみなされます。
よって、かなり飛躍した妄想になるかも知れませんが、おそらく彼と彼女の事が明るみに出て、二人は宮廷内の噂の的となり、悪質なからかいに我慢できなくなった彼が事件を起こした?のでしょう。

そして、彼は流罪となります。

彼が越前へ旅立つ朝・・・若気の至りとは言え、罪を犯してしまった彼・・・「やっと一緒になれたのに・・・」
彼女は、都のはずれまで見送りに行ったに違いありません。

そこで、彼女は歌います
♪君が行く 道の長手を 繰りたたね
 焼き滅ぼさむ 天
(あめ)の火もがも♪
「あなたが行く長い道を、くるくると折りたたんでたぐりり寄せて、焼き尽くしてしまう天
(神様)の火があればいいのに・・・」
慟哭にも似た彼女の叫びが聞こえてきそうな一首です。

さらに、彼女は歌を送り続けます。
♪他国(ひとくには 住み悪しとぞいふ 速(すむや)けく
 早帰りませ 恋ひ死なぬ間に♪
「他国は住みにくいと言うから、早く帰ってきてね、私がこがれ死にしない間に…」

しかし、先ほどの天平十二年の大赦でも、彼は帰ってきませんでした。
♪帰りける 人来たれり 言いしかば
 ほとほと死にき 君かと思ひて♪

「罪を許されて帰ってきた人がいたって聞いたから、あなたじゃなかったけど、うれしかったわ」
他人が罪を許されたのを、自分の事のように喜ぶ・・・彼女の性格の良さがうかがえますね。

そして・・・
♪わが背子が 帰り来まさむ 時のため
 命残さむ 忘れたまうな♪

もう、解釈はいりませんよね。
文章そのまま・・・彼女は彼が帰る日の事だけを思い、生きています

この歌を最後に、二人の恋は歴史の彼方へと消え去ります。
この後、彼と彼女がどうなったのかは『万葉集』は語ってはくれません。

ただ、先ほどの大赦の翌年、天平十三年にも大赦が行われていて、この時は除外者が一人もいなかったとされている事が、わずかな希望を感じさせてくれます。

東院庭園の中臣宅守 今日のイラストは、
やっぱり『愛しの宅守さま・・・』
バックは平城宮跡に再現された東院庭園です~。
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2007年5月23日 (水)

軍師のお仕事・出陣の儀式

 

先日(5月20日)の大河ドラマ風林火山「軍師誕生」という回でした。

山本勘助を軍師に致す!」
亀治郎さん演じる晴信が、たからかに宣言し、勘助をサラッピンの陣羽織が“つば”でベチャベチャになるほど感動させたかと思えば、その後、ふたりっきりになった時には、「愛人・由布姫の心を読めなければ軍師はクビだ」と、パワーハラスメント気味なセリフをのたまわれ、あまつさえ「“しとね”の時には、あんなに心を開くのに、コトが終れば別人のように・・・」と、ゴールデンのNHKとしてはギリギリのご発言。

女心が読み取れなくては軍師失格なのか?

両津勘吉バリの一本眉の由布姫は由布姫で、「心はそなたに・・・」と、勘助に告ってるの?とも思える意味ありげな態度・・・私としては、合戦や策略を張り巡らすようなシーンが好きですが、「これはこれでおもしろいかも・・・」といった感じの回でした。

ところで、そもそも「軍師のお仕事」というのはどんな物なんでしょうか?

・‥…━━━☆

「合戦前の軍儀に出席して、意見を聞きたい」とドラマの中でも言っていましたが、そういう感じで「専門家として意見を述べる・・・あるいは計略などの作戦をたててアドバイスする」

ドラマを見ているほとんどの皆さんが、こういった『作戦参謀』のようなお仕事だと思っておられるでしょう。
私もそう思ってます。

もちろん、それはそれであっているのですが・・・ただ、実は作戦を練ったりするのは、一番重要なお仕事ではなく、あくまで2番目のお仕事なんです。

軍師のお仕事の中で一番重要なお仕事は、『戦勝祈願』・・・つまり、祈祷したり占ったりという仕事なのです。

力と力、作戦と作戦がぶつかり合う合戦の場で、「まず、神だのみかよ!」って思いますが、戦国時代はまだまだ、開戦の日や、「どの方角から攻める」などといった事を、星占いや易で決めていたんですね~。

今、朝のニュースの合間々々に流れる「今日の運勢・星占い」も、現代の企業戦士にとっては、気になるところかも知れませんし、考えてみれば、スポーツ選手などの場合、技術面とともに精神面でもバックアアップするのがコーチ・監督の役目だとすれば、軍事作戦と占いを同じ人物がこなすのも、不思議ではないのかも知れません。

とにかく、いかつい戦国武将が意外と「今日の○○座のラッキーカラーは?・・・」なんていうのをを気にしてたかと思うと、ほほえましい気もしますしね。

ですから、軍師は、例の『孫子』はもちろん、『六韜(りくとう)『三略(さんりゃく)といった兵法書に通じていなければならないと同時に、占星術や易学・陰陽道といったものも熟知していなければならなかったんです。

いや、むしろ実際には、同時というより、宗教的な側面のほうがより重視されていました。

あくまで、祈祷・儀式が最優先です。

ですから、合戦の前後に行われる様々な宗教的儀式を仕切るのも軍師の仕事です。

特に、戦に向かう前の出陣の儀式は重要です。

「勝負は時の運」・・・今でも、この言葉が使われるくらい、実力だけでは片付けられないのが勝負の世界ですから、戦国時代の武将にとって、『縁起かつぎ』の儀式は欠かせない物でした。

ます、出陣の儀式という物の中で一番有名なのは、『三献(さんこん)の儀式』と呼ばれる物です。

これは、大将が出陣の時に、「打鮑(うちあわび)」「勝栗(かちぐり)」「昆布」三品を口にして出陣していく・・・というものです。

「討(打)って、勝って、喜ぶ(こぶ)
おせち料理の言われとよく似た「語呂合わせ」です。

ただし、この三品・・・あまり消化が良い食べ物ではないので、本当に食べると戦闘中に野っ原にて、猛ダッシュで“野○○”ってな事になりかねません。

ですから、実際はほんの少し口をつけるだけだったそうです。

主だった者たちを集めて、出陣直前に歌の会を開いて、「皆で歌を詠み合う」といった事も行われていました。

儀式を仕切る・・・という事は、こんな時、さしずめ軍師は、司会者なのか?
*ゴリさんがノリノリでカラオケを熱唱し、内野さんが司会している場面を想像してしまった・・・(^o^;)

また、『大将が包丁を踏み越える』という儀式もありました。

城や屋敷の門のところに包丁を置いて、留守の間に敵が侵入しないための“まじない”であるとともに、刃物を踏み越える事で決意の固さを表すものとされていました。

Syutuzinnogisikicc 踏んではいけません・・・踏み越える(またぐ)のです。

「軍師たるもの、視聴率の先が読めぬようでは失格じゃぁ!」ってか!

個人的には、サラブレッドの由布姫の女優としての今後の成長に期待・・・。
最近だんだんあの由布姫にも慣れてきた。
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2007年5月22日 (火)

鎌倉幕府の滅亡

 

元弘三年(1333年)5月22日、事実上の最後の執権・北条高時が自刃し、鎌倉幕府が滅亡しました。

・・・・・・・・・

源頼朝の直系が3代で途絶えた後も、執権という形で北条政子(頼朝の奥さん)の実家・北条氏が実権を握り、鎌倉幕府という名の日本初の武家政権は続いていきました。

当然おもしろくないのは、朝廷です。

武士はあくまで、天皇や公家を護衛するガードマンであったはずなのに、いつの間にかその武士たちに指図される側に廻ってしまったのですから・・・。

そんなわけで、歴代天皇たちは、たびたびチャンスを見つけてはふたたび実権を握ろうとします。

しかし、鎌倉幕府が誕生して間もない承久三年(1221年)に後鳥羽上皇が起こした『承久の乱』(5月14日参照>>)では、まったくもって歯が立たず、逆に幕府が朝廷よりも実力がある事を世間に知らしめる結果となってしまいます。

この承久の乱をきっかけに、幕府は京都に『六波羅探題』という、「天皇家の不穏な空気チェック隊」を組織し、不穏な空気が「乱」という形になる前に「芽を摘み取る」という体制を整え、それ以降はしばらく大きな乱はなく、この間に平和な時代の常として、『平家物語』『小倉百人一首』のような文学や、『浄土真宗』『法華宗』といった仏教思想が発展し、幕府自身も『御成敗式目』など法の整備も充実する事になります。

しかし、そんな均衡を破ったのが、第8代執権・北条時宗の時代・・・文永十一年(1274年)と弘安四年(1281年)、2度に渡ってに遠く海の向こうからやって来たフビライ
   【文永の役:10月19日参照>>】
   【弘安の役:6月6日参照>>】
『元寇』と呼ばれるこの「蒙古襲来」は、「日本が占領される」という最悪のシナリオは防いだものの、その戦闘と復興に多大な費用がかかった事、命を賭けて幕府のために働いた武士たちに何の恩賞もなかった事などから、その不満がしだいに幕府への不満と化していくのです。

そんな中、正和五年(1316年)に第14代執権・北条高時が就任、文保二年(1318年)に第96代・後醍醐天皇が即位し、歴史は動き始めます。

後醍醐天皇は『正中の変(1324年)(9月19日参照>>)『元弘の変(1331年)(9月28日参照>>)2度に渡って幕府打倒を企てますが、あえなく失敗して隠岐へ流罪の身となります(3月7日参照>>)

しかし、後醍醐天皇はこの2度目の元弘の変で、運命の出会いをする事になります。
それが楠木正成です。

彼は、「悪党」と呼ばれる主君を持たない武士集団・・・言わば世間の「はみ出し者」

本来なら、天皇がかかわるような人物ではありませんでしたが、幕府を相手に武力を持たない天皇にとってこんな強い味方はありません。

正成にとっても、今まで歩いて来た日陰の道から、一気に陽の当たる場所に躍り出る絶好のチャンスです。

幕府転覆には失敗したとは言え、後醍醐天皇の2度の反乱は、徐々に幕府に陰りが見え始めた事を、世間一般に知らしめる事には成功し、幕府の土台を揺るがすには充分でした。

「機は熟した」と見て取った一年後、後醍醐天皇は隠岐を脱出します。

そんな時、またまた天皇に強い味方が登場します。

天皇の不穏な空気を鎮圧すべく鎌倉幕府から京都へ派遣された足利高氏(尊氏)です。

もちろん、この派遣された時点では、高氏は幕府側の人間・・・しかし、武勇優れる高氏は、何か天皇側に不穏な空気があるたびに、すぐに今回のようにかり出され、「あっちを押さえろ、こっちを見張れ」という高時の指図にもう、うんざり気味。

しかも、彼は清和源氏の流れを汲む源氏の坊ちゃん、あの八幡太郎義家の直系です。

北条氏がこれだけ実権を握っても、将軍にはなれず執権なのは、北条氏が平氏の血筋だから・・・豊臣秀吉が天下を取っても将軍にはなれず関白なのは、やはり源氏ではないから・・・徳川家康なんかは、将軍になるために系図をイジって過去を変えて、ちゃっかり源氏の子孫になっています。

そんな源氏の御曹司のプライドが、今の状況を許すわけがありません。

京都に着いた高氏は天皇へは攻撃せず、味方であるはずの「六波羅探題」を攻撃(4月16日参照>>)・・・高氏は後醍醐天皇に味方する決意をしたのです。

京都に行った高氏が、天皇の味方に着いた事を知った関東の武士たちの中で、幕府に不満のある者たちが、高氏の子・千寿王のもとに集まり始めます。

そして、ここに、もう一人・・・。
そんな武士たちの先頭に立って、まとめ役となった新田義貞が登場します(5月11日参照>>)

新田氏も源氏の流れを汲む名門・・・しかし、北条氏のもと、何とかある程度の地位を確保していた足利氏と違って、新田氏はかなり冷酷に扱われ押さえつけられて来ました。

義貞の中の積年の思いが、怒涛のごとくあふれ出します

しかし、そんな思いは義貞だけではありません。
彼が軍を進めて行く間に、志を同じくする武士たちが、雪だるま式に増えていきます。

そして、破竹の勢いで幕府軍を撃ち破り、いよいよ義貞は本拠地・鎌倉に迫ります。

その時にあの伝説が生まれるのです。

稲村ヶ崎から進軍しようとする軍勢の前に、大きな海が立ちはだかります。

その時、おもむろに稲村ヶ崎の岩の上に立つ義貞・・(5月21日参照>>)

岩の上から海に刀を投げ込み、一心に祈ったところ、突然、潮が引き、目の前に砂浜が現れ、新田軍はその砂浜を渡って鎌倉に入るのです。

もちろん、これは義貞の演出・・・干潮時の時間帯を事前に知っていれば、誰だってできる事・・・しかし、当時は、これによってその場にいた兵士たちの士気が上がった事は間違いないでしょう。

怒涛のごとく鎌倉に押し寄せる新田軍の兵士たち・・・激戦の末、6千人の死者が鎌倉の町を埋め尽くしたと言われます。

ついに執権・北条高時は、一族の者を引き連れて、北条氏代々のお墓のある東勝寺にて自刃します。

彼に殉じて運命をともにした幕府関係者は283人にのぼったとか・・・元弘三年(1333年)5月22日ここに鎌倉幕府は滅亡しました2012年5月22日でさらにくわしく>>)

それにしても、判官びいきの私は、こういう「○○滅亡」といった話を書くときは、どうしても滅び行く者への味方をして書いてしまう物なのですが、今日はちょっといつもと気分が違います。

別に北条氏が嫌いなわけではありません。
盛者必衰、諸行無常・・・栄華を誇った人たちが滅びるのは、いつも涙なしでは語れません。

ただ、よくこんなにうまい事、役者が揃うモンだ・・・とでも言いましょうか。
時代が人を呼ぶのか?人が時代を変えるのか?

古の時代に八方に飛び散った精霊が、見えない糸で引き合うかのように・・・「水滸伝」か、はたまた「里見八犬伝」かといったドラマチックさを感じてしまうのです。

ただ、ホンモノの歴史は読み物のようにハッピーエンドの場面で「ハイ!終了」とはいきません。
時代はどんどん流れて行きますから・・・。

結局は揃った役者同士の間で、深い溝ができてしまう事になるのですが・・・。

Kenmutamacc 今日のイラストは、
もし、今日のお話の立役者の皆さんが『八犬伝』のように「玉」を持っていたら何の文字の「玉」を持ってたんだろう?と空想にふけってみました~。

もちろん、皆さんも御意見は多々あろうかとは思いますが、とりあえず私の独断と偏見で・・・。

やっぱ、楠木さんの「忠」は譲れないところでしょう。
後醍醐天皇さんは、単純ですが「帝」で・・・。
尊氏さんも、その後の事を考えると「将」というところで・・・。
悩んだのは新田さん・・・その戦いぶりと恋への落っぷりを見ると、一途と言うか、世渡りベタと言うか・・・それは良く言えば純粋なのかな?と思って「純」という文字にしました。

それぞれに、もっとピッタリの文字があったら教えていただきたいです~。
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2007年5月21日 (月)

長篠の合戦!武田氏の真の敵は?

 

天正三年(1575年)5月21日は、鉄砲の出現によって、戦国の合戦を大きく変えたと言われる長篠の合戦のあった日です。

・・・・・・・・・・・・・

武田勝頼率いる無敵の「武田騎馬隊」が、織田信長徳川家康率いる「三段撃ち鉄砲隊」の前に無残に敗れる・・・先日書かせていただいた「桶狭間の戦い」(5月19日参照>>)と同様に、この合戦もドラマには欠かせない名場面です。

統制のとれた3千丁の鉄砲隊を千人ずつ3組に分けて1列ずつに並ばせ、1列めが鉄砲を撃ったら、次は2列めが・・・そして、3列めが撃ち終わる頃には、先の1列めの射撃準備が整っている・・・「蓋開けて~掃除して~弾込めて~火つけて~」(←“やすきよ”の漫才)一連の作業を終えないと撃つ事ができなかった当時の鉄砲の弱点を克服した見事な作戦。

・・・と、言いたいところですが、やはりこれも「桶狭間の戦い」同様、あまりにもドラマチックすぎるこの劇画調演出はうさん臭さ満載!

・・・ですが、その事は、おいおい話させていただく事として、まずは合戦へと向かった経緯から、今日は武田を中心にお話を進めさせていただきます。
*一般的な戦いの流れについては2011年5月21日の【決戦!長篠の戦い】でどうぞ>>

・‥…━━━☆

天正元年(1573年)あの偉大なる武田信玄亡くなり(4月12日参照>>)、その家督を継いだ四男・勝頼・・・。

そもそも、この時点で武田家にはミョーな空気が漂います。

四男・・・という事でもおわかりのように、信玄には勝頼以外にも子供がいたわけですが、勝頼以外はみんな名前に「信」の文字が使われています。

勝頼だけは例外・・・それは、もともと勝頼に武田家を名乗らせるつもりが無かったからです。

勝頼は父方の武田家ではなく、母方の諏訪家を継ぐはずだったのです。

勝頼のお母さんは、今年の大河ドラマ「風林火山」のヒロイン・・・両津勘吉バリの1本眉毛で話題のあの由布姫こと諏訪御料人と呼ばれた女性です(由布姫は小説:風林火山の中の名前です)

信玄は自分が滅ぼした諏訪の国の豪族たちに、恨みを残させず味方に取り込むためにも、諏訪の姫である諏訪御料人との間に生まれた子供に、諏訪を継がせるつもりでいました。

ドラマでもすでに、「二人の子供に諏訪を継がせる」的な事を言っていたように思います。
その子供が勝頼です。

成長した勝頼は17歳の時に、正式に諏訪を継いで「諏訪四郎」を名乗ります。

ところが、勝頼22歳の時、信玄の嫡男・義信謀反の疑いをかけられ自害する(10月19日参照>>)という事件が起こり、武田家の後継者の席が勝頼に廻ってくる事になったのです。

しかし、信玄が「勝頼を後継者に・・・」と考えても、まわりの重臣たちはそう簡単に気持ちの入れ替えができません。

「いくら武田家の血筋を引いていても、一旦諏訪を継いだ勝頼を主人と仰ぐ事はできない」と言うのです。

信玄はしかたなく、勝頼の息子・・・つまり信玄の孫の信勝正式な後継者とし、勝頼を、信勝が元服するまでの後見人とします。

信玄からすれば、「ここで無理を通すよりも、そのうち勝頼の人柄・実力を家臣たちにわかってもらい、後々タイミングを見計らって、正式に後継者に指名すれば良い」という気長な考えだったのかも知れません。

言い換えれば、今、反対している重臣たちも、勝頼の事を認める日が来るだろうと考えていた・・・それだけ、信玄にとって勝頼はデキル息子・・・自慢の息子だったのです。

武田家を滅亡へと導いてしまう事で、何かと愚将のレッテルを貼られる勝頼さんですが、本当は、偉大な父・信玄が睨んだ通りのデキル息子・名将だった・・・いや、名将になるべき素質は充分持っていたのです。

ところが、そんな勝頼と重臣たちの絆がつながる前に、先ほどの信玄の死が訪れてしまい、そのまま家督を継ぐ事になってしまったのです。

当然、信玄を神様のように崇めていた重臣たちにとって、まだ勝頼は未熟で「お屋形様」と仰ぐにはほど遠く、両者の間には大きな溝ができてしまいます。

重臣たちが、自分の事を認めていない事は勝頼自身がよく知っています。
が、しかし、すでに、もう家督は継いでいるわけですから、なるべく早く重臣たちとの溝を埋めなければなりません。

そのために、一番手っ取り早い方法は、合戦に勝ち、さらに領地を増やす事・・・偉大な父よりもっと強大な甲斐の国にするしかなかったのではないでしょうか?

そのため勝頼は、信玄が亡くなった翌年の天正二年から三年に渡って、自ら軍を率いて美濃や遠江などへ進攻をするです。

信玄も攻めあぐねた徳川家康の高天神城を落とし(5月12日参照>>)、東美濃の織田信長の支城も次々と落とし、父を越える快進撃を続けます。

そんな中の天正三年(1575年)、春・・・。

三河北部に位置する長篠城の城主・奥平貞能(おくだいらさだよし)が、自分の嫡男・貞昌(さだまさ=後の信昌)と徳川家康の長女・亀姫(盛徳院)との結婚を承諾し、事実上、徳川方に寝返ります。

その事を知った勝頼は、5月11日、この長篠城を包囲し攻撃を仕掛けるのです。

それこそ、無敵の武田騎馬隊に囲まれた長篠城・・・貞能は「自分たちだけではどうしようもない」とばかりに、同盟を結んだばかりの家康に救援を求めます

知らせを聞いた家康はすぐに出陣・・・もちろん、家康が同盟を組んでいる織田信長も救援に向かう事になります(5月16日参照>>)

長篠城の手前・・・極楽寺に陣を敷く信長。
そこより少し長篠城寄りの高松山へ陣を敷く家康。

織田・徳川連合軍は、陣と長篠城の間を南北に貫く連子(連吾)に沿って、柵と堀を構築します。
これが、有名な『馬防柵』です。

彼らが柵を構築している頃、信長・家康の進軍を知った一方の勝頼は、一部の兵を鳶ヶ巣山砦に残しただけで、ほとんどの軍勢を長篠城包囲から撤退させ、設楽原(したらがはら)へと進軍します(5月20日参照>>)

Nagasinonokassenzucc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

いよいよ天正三年(1575年)5月21日の早朝、馬防柵のすぐ後ろ(西側)に、織田・徳川連合軍の主力部隊が布陣・・・川を挟んで武田軍。

その数は、連合軍3万8千、武田軍1万5千・・・と、これはまたしても戦国武将特有の見栄張り(情報かく乱の意味もあったと思うが)で、実際には連合軍1万8千で、武田軍6千くらいだったらしい・・・。

決戦前、構築された馬防柵と軍勢の数を見て、武田の重臣たちは不利を訴え、撤収を勧めますが、勝頼は耳を傾けませんでした。

この事でも、「勝頼は無謀だった」として愚将扱いされていますが、ここは、もし撤退していても、それはそれで、「弱虫」呼ばわりされていたに違いないのです。

「偉大な父を持った二代目」というのはそういうものです。

とにもかくにも、この日の午前6時、『長篠の合戦』の火蓋が切られました。

長篠の合戦は「長篠」という名前がついていますが、戦闘は長篠城ではなく、設楽原で行われています。

武田の騎馬武者は何度となく突入を繰り返し、戦闘は午後2時頃まで続いたと言われ・・・って、ちょっと待ったぁ~!

ここで、織田・徳川連合軍は華麗なる鉄砲三段撃ちで、バッタバッタとなぎ倒したんじゃぁ?

そうなんです。
ここで、本当にあの三段撃ちが披露されていたのなら、とてもじゃないが、同じ騎馬武者が何度も突入する事は不可能ですし、戦闘が8時間も続くわけがありません。

実は、この三段撃ちが登場するのは、江戸時代に小瀬甫庵という人物が書いた『信長記』という軍記物に出てくるお話・・・軍記物は、言わば歴史小説のような物なので、もちろんフィクションも多分に含まれています。

最も事実に近いであろうと言われている『信長公記』には、この三段撃ちはもちろん登場しませんし、3千丁あったとされる鉄砲の数は、千丁だったと書いています。

しかも、当日鉄砲隊をやっていたのは、信長から声をかけられた筒井順慶らなど、近畿からかき集められた「にわか部隊」で、とても整然と三段撃ちをできるような統率のとれた部隊ではなかった事もわかっています。

たしかに、鉄砲はありました。
馬は驚いたかも知れません。

しかし、ドラマで再現されるような、信長圧勝という感じの劇的な合戦ではなく、押したり引いたりの従来の合戦とあまり変わらない・・・いや、むしろ一進一退を繰り返す激戦であったようです。

なんせ、8時間も戦闘やってますから・・・。

この長篠の合戦が、織田・徳川連合軍の大勝利の印象を受けるのは、武田の重臣であった馬場信春山県昌景内藤昌豊といった歴戦の猛者がことごとく討死した事にあると思います。

しかし、一部には、「彼らの死はある意味、自殺行為ではなかったか?」という声もあります。

先代の信玄を尊敬するあまり、勝頼の采配にことごとく不満を持っていた彼ら・・・

直前の撤退の進言にも耳を貸さなかった勝頼に対して、「自らの死を以って主君に反省をうながす諫死(かんし)という物だったのかも知れません。

しかし、勝頼さんから見れば、「やみくもに反対ばかりしないで、自分の真意をわかって欲しい」という気持ちもあったでしょう。

さっきも言いましたように、勝頼さんは、彼ら重臣たちが思っているほど愚将ではありません。

なぜなら、一般的には、こ長篠の合戦で敗れてから、すぐに武田氏が滅亡したような印象がありますが、合戦に敗れてからでも、強大な織田・徳川を敵に回しながら、少しは領地を増やし武田は7年間持ち応えています。

しかし、結局、重臣たちとの間にできた溝が埋まる事はありませんでした(4月16日参照>>)

こうして見ると、信玄亡き後の武田氏の真の敵は、織田信長でも徳川家康でもなく、武田信玄の影であったのかも知れません。
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2007年5月20日 (日)

風林火山・孫子の兵法8軍争篇

 

今日は『風林火山・孫子の兵法』の8回目=『軍争篇』・・・あの「風林火山」のフレーズが登場する章ですが、その前に、最初は、まずはあの「迂直(うちょく)の計」が登場します。

・‥…━━━☆

「迂直の計」とは、戦いの中で最も難しいであろう勝利への道を作り出す方法です。
『・・・迂(う)を以って直となし、患を以って利となすにあり』
「・・・回り道をしながら直進し、損をしながら得をする」
直訳するとこんな感じですかね?

たとえば、競争などの場合、回り道を迂回しておいて敵を油断させ足止めを食らわせておいて、こちらが速やかに行動すれば、結果的に相手より先に到着する・・・といった具合です。
ことわざで言うところの「損して得取れ」ってヤツですね。

一見こちらが損に思える事というのは、敵にとっては有利に思える事なので、当然それに食いついてきます。
そこを、速やかに裏を返し逆転する・・・
もちろん、これには、相手の事を充分調べておかなければなりません。

敵の思考や動向を知らなければ、駆け引きはできません。
敵の国の地理を知らなければ、そこへ自軍を向かわせる事はできません。
『故に兵は、詐(さ)を以って立ち、利を以って動き、分合を以って変をなす者なり』
「戦いは、敵をあざむく事で始まり、有利な方向へ動き、兵の分散と集中を繰り返しながら変化する」

『兵は詐を以って立つ』というのは、以前の『始計篇』で登場した『兵は詭道(きどう)なり』と相通ずる物・・・つまり戦争は騙し合いだという事をもう一度ここで強調しています。
もちろん、先の「迂直の計」もその騙し合いの一つ。

迂回したかと見せて直進したり、奇襲をかけたかと思えば正攻法で攻める。
陰と陽、静と動・・・そうやって騙しながら戦いを有利に導いて行くのです。

そこで、「迂直の計」の具体例として登場するのが、例の「風林火山」の一説です。
しつこいようですが、有名かつ重要な部分なので、やっぱり、ここでもう一度引用させていただきます。

『故に、
其の疾
(はや)きこと、の如く
其の徐
(しず)かなること、の如く
侵掠
(しんりゃく)すること、の如く
動かざること、の如く
知り難きこと、
(かげ)の如く
動くこと、雷霆
(らいてい)の如し。 

郷を掠(かす)むるには、衆を分かち
地を廓
(ひろ)むるには、利を分かち
権を懸
(か)けて動く。 

「迂直の計」を先知する者は勝つ。
此れ軍争の法なり。』

「なので、
疾風のように早いかと思えば、林のように静まりかえる、
燃える炎のように攻撃するかと思えば、山のように動かない、
暗闇にかくれたかと思えば、雷のように現れる。
 

兵士を分散して村を襲い、守りを固めて領地を増やし、
的確な状況判断のもとに行動する。
 

敵より先に「迂直の計」を使えば勝つ。
これが、勝利への道だ」

ただし、いくら『疾きこと、風の如く』でも、ただ単に急いではいけません。

『百里にして利を争えば、則ち三将軍を擒(とりこ)にせらる』
「百里の遠征をして勝ちを急げば、全員が捕虜になってしまう」

軍の中には、強い兵士も弱い兵士もいます。

勝ちを急ぐばかりに、昼夜を問わず行軍したりすれば、当然集団はバラけてしまいます。
重装備のまま全軍で進めば遅くなりますし、かと言って軽装備で行けば装備を運ぶ輸送集団が遅れます。

軍隊が分散されるという事は、それだけ少ない兵で戦わなければならないという事。
遠征をする時は、その危険を充分考慮して移動しなければなりません。

また、孫子では『衆を用いるの法』として、夜はかがり火と太鼓を増やし、昼間は旗を用いて兵士の指揮をとるとしています。

これは、やはり大軍をバラけさせないための方法。

兵士の目と耳に働きかけ、お互いの連絡を密にして、組織としての力を発揮させるようにしなければなりません。

次に、有能な指揮官として掌握しておかなければならない四つのポイントを挙げています。
 ★気(士気)・・・『その鋭気を避けてその情気を撃つ』
        人間、誰でも調子良い時、悪い時があります。
        戦いの場合は敵のそのリズムを読み取って、
        「敵の元気のある時を避け、士気が下がった
        所を見計らって撃って出る」
のです。
 ★心(心理)・・・『治を以って乱れを待ち、静を以って譁
        
(か)を待つ』
        コチラは「態勢を整えて、じ~と静に敵の乱れ
        を待つ」
のです。
 ★力(戦力)・・・『近きを以って遠きを待ち、佚(いつ)を以っ
        て労を待ち、飽を以って鐖
(き)を待つ』
        「有利な場所に陣取って敵を待ち、コチラは休
        息をとって敵の疲れを待ち、お腹いっぱい食
        べながら相手が飢えるのを待つ」

 ★変(変化)・・・『正正の旗を邀(むか)うることなく、堂堂の
        陣を撃つことなし』

        出ました!四文字熟語『正々堂々』の語源
        す~。
        上の3つ「気・心・力」はいずれも敵の乱れや
        弱点を突くという事ですが、弱点を見せない
        敵・・・つまり「正々堂々とした敵とは戦わな
        い」
という事です。
        これは、今まで孫子の中で何度も言われてい
        る勝算がなければ戦わない事・・・それは逃
        げる事ではなく「変化」する
という事です。

そして、いよいよ軍争篇の最後で、戦闘に際しての八つの「べからず集」を教えてくれます。
 ・『高陵には向かうことなかれ』
   「高い場所の敵を攻撃してはダメ」
 ・『丘を背にするは逆(むか)うことなかれ』
   「丘を背にした敵を攻撃してはダメ」
 ・『佯(いつわ)り北(に)ぐるには従うことなかれ』
   「わざと逃げる敵を追ってはダメ」
 ・『鋭卒には攻むることなかれ』
   「ヤル気満々のヤツを攻撃してはダメ」
 ・『餌兵には喰らうことなかれ』
   「餌に飛びついてはダメ」
 ・『帰師(きし)には遏(とど)むることなかれ』
   「帰ろうとする敵を止めてはダメ」
 ・『囲師(いし)には必ず闕(か)き』
   「囲む時は逃げ道を作っておく」
 ・『窮寇(きゅうこう)には迫ることなかれ』
   「窮地に追い込んだ敵になお迫ってはいけない」

この「べからず集」・・・。
最初の、「高地の敵」とか「丘を背にした敵」とかっていうのは、私たちの身近にはあまり関係ありませんが、意外と普段の生活の人間関係に役立ちそうな名言ですね~。

特に最後の二つなんかは、最近よく耳にするニュースなどで、びっくりするような犯罪を犯してしまう10代の若者の中には、何やら窮地に追い込まれた感がある子供たちが多いようにも思います。

囲む時はやはり逃げ道を作っておいてあげないと・・・。
「窮鼠猫を噛む」とも言いますからね。

以上、今日は『軍争篇』を紹介させていただきました~。

Sonsigenbuncc 今日は、
イラストというより、超有名なフレ-ズなので、『風林火山』の部分の原文をデザインさせていただきました~

漢字を一つ一つ見て行くと、何となく意味がわかるから、悠久の時の流れに感動しちゃいます。

・・・・・・・・・・

★続編はコチラ→『風林火山・孫子の兵法Ⅸ九変篇』>>

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
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2007年5月19日 (土)

一か八かの桶狭間の戦い

 

永禄三年(1560年)5月19日は、戦国時代でも屈指の有名な合戦・桶狭間の戦いのあった日です。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)5月19日のこの日、駿河(静岡県)の戦国大名・今川義元2万5千の大軍を西に進めておりました。

この進軍については、一説には、「義元は上洛しようとしていた」という見方もあるようですが、上洛に関しての証拠は残っておらず、また、周囲の大名にまったくその事を告げずに上洛の徒につく・・・というのも考え難い事なので、おそらくは、「隣国・織田氏との境界線をはっきりさせたい」というような物だったのだろうとも言われています(5月1日参照>>)

その証拠と言ってはなんですが、総勢2万5千の大軍・・・と言いながらも、配下の武将たちは、それぞれ重要ポイントである城や砦に出向いていて、義元の本隊の数は、全体の1割程度・・・2千か3千といったところだったと思われ、さすがに上洛するには少なすぎる気がします。

そんな中、沓掛(豊明市)から西へ移動中だった義元本隊に朗報がもたらされます。

織田方が設置していた丸根砦鷲津砦を、重臣・朝比奈泰朝(やすとも)があっという間に落城させたのです。

味方の勝利に上機嫌の義元・・・近くの桶狭間に陣を張って休憩する事にします。

一方、砦を落とされた事を知った織田信長・・・尾張・清洲城は上を下への大騒ぎになります。

しかも、実際の2万5千という数でも相当な物なのに、今川方は見栄を張って、大軍の数を4万5千との噂を流していましたから、織田方の重臣たちは「とてもじゃないが勝ち目はない」と、皆が籠城作戦を提案します。

しかし、「出撃する」という意見を曲げない信長・・・中には馬の轡(くつわ)を握り、体を張って止めようという家臣もいましたが、やっぱり決意は固かった・・・。

信長は、幸若舞(こうわかまい)『敦盛』をひとさし舞い、湯漬け(戦国時代の食べ物事情参照>>)を一杯かっ喰らって出陣するのです。

このへんはドラマでよく登場する名シーン・・・『敦盛』というのは、♪人間五十年・・・♪っていうアレです。

そして、途中、熱田神宮へ参拝して必勝祈願するとともに、そこを集合場所に味方が集まるのを待ちます。

下のイラストでもおわかりのように、攻撃されてるあっちこっちの砦に兵力を分散している事もあって、この時、信長のもとに集まったのは約2千・・・これで、今川に立ち向かうには、とてもじゃないが正攻法では無理。

したがって、「狙うは今川義元の首一つ・・・」という作戦が出来上がる事になります。

そうなると、その首がどこにあるのか?
・・・失礼・・・今、現在、義元がどこにいるのか?
正確な情報が必要になってきます。

ちょうどそこへ、梁田広正(やなだひろまさ)なる人物が、「現在、桶狭間で休憩中である」という情報を持って来ます。

「今しかない!」
信長は、自分自身が善照寺砦に留まっているように画策して、集まった2千の兵を率い、義元本隊へ奇襲をかけるべく桶狭間を目指します。

通説では、かなり北方へ迂回(うかい)して、義元の背後から山を下って奇襲したとされていますが、『信長公記』には、「善照寺砦を出てから迂回せず、中島砦へ入った後、直進した」事、義元は「桶狭間ではなく桶狭間山という山の上で休憩していた事」が書かれている事から、最近では、「迂回はせず直進した」という考えが主流になっています。

Okehazamarootcc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ただ、それだと近づく前に見つかりそうな感じがしますが、当日は雨模様で、しかも善照寺砦を出発する直前に、「急に目も開けられないような大雨になった」との話もあり、「この雨なら見つからないだろう」と、急遽、迂回を中止して直進した事も考えられます。

とにもかくにも、信長軍がすぐそばに近づくまで、義元の陣は気付かなかったわけで、先程の朝比奈泰朝の勝利に沸いていた本陣は、一瞬のうちに大混乱になります。

そして、その混乱の中、服部小平太が義元に槍を突き立て、毛利新介がその首を挙げました(2015年5月19日参照>>)

しかしながら、戦いの後、最も高い褒美を貰ったのは、槍をつけた服部でも首を取った毛利でもなく、義元が桶狭間にいる事を確認し伝えた梁田広正だった・・・なんて話も…。

この話の真偽はともかく、この作戦において、信長が情報を重視した事は確か・・・おそらく、情報がなければ勝つ事もなかったかも知れませんからね。

この桶狭間の戦い・・・「天下を狙える位置にいた大大名が、一田舎大名に合戦の場であっけなく討ち取られる」というのは、日本の合戦史上ごく希な出来事です。

それゆえ、この合戦はいつの時代もドラマチックに描かれ、信長はあくまでカッコ良く・・・義元はあくまでカッコ悪い愚将として扱われますが、義元さんの名誉のためにも・彼が消して愚将ではなかった事を、声を大にして言いたい・・・(記事が長くなるので今日はちょっと控えさせていただきます)

この合戦も、やはり「運」

もちろん、その運をつかんで天気を味方につけて、奇襲作戦を成功させた信長はスゴイですし、この作戦に気付かなかった事は義元の失敗にほかなりませんが、それはあくまで結果論であって、信長が作戦を決めた段階ではやはり「一か八かの賭け」であった事は確かです。

先日、書かせていただいた「大坂夏の陣」(5月7日参照>>)でも、真田幸村「徳川家康の首さえ取れば・・・」決死の突入を試みたというのがありました。

結局、その時は幸村は討ち取れなかったわけです(討ち取ったという噂もありますが・・・)が、勝ち目のないような戦に対して、「大将の首を取れば、戦況が変るかも・・・」という、一か八かの賭けをするという事は多々あったでしょう。

いや、ひょっとしたら、その首を討ち取ったのも、たまたま・・・信長にとっては、やって来た大物を、なんとか命がけでかく乱させようと試みたところ、たまたま豪雨によって、すぐそばまで近づく事ができ、たまたま近づいた集団に大将の義元がいた・・・という感じだったのかも知れません。

しかし、それが、たとえ、たまたまの賭けであっても勝った限りは「勝者」です。

歴史を読み解いていくと、時々、「歴史は勝者が書く物」だと思わされる事があります。

勝った信長は、やはり、あくまでカッコ良く・・・
負けた義元は、やはりカッコ悪く・・・
そこには、この戦いで義元が敗北する事によって自由を得た松平元康(徳川家康)「自分の過去のエピソードをよりカッコ良く・・・」という思惑も多分に絡んでいるように思います。
(その日の家康については2008年5月19日でどうぞ>>)

今川義元が名将であった事は、彼の首が討ち取られた後の家臣の戦いぶりでも垣間見る事ができます。

主君の死を知った後も、今川軍はすぐには撤退せず、しばらくの間戦い続けるのです。

中でも鳴海城主岡部元信は、主君・義元の首級を奪い返すまで撤退せず抗戦を続け、みごと奪い返してから駿河に戻っています。

その間「主人を返せ!返せ!」と必死の形相で戦っていたと言います。
よほど、家臣に慕われていた名将だったのであろう事が伺えますね。

ドラマなどで描かれる義元の最期のセリフは地団駄を踏んで「くやしい~」て言ってるようなイメージですが、私のイメージの義元さんは「合戦とは常に誰かが勝って誰かが負ける物なのだ」というクールな感じのセリフを吐きそうな気がします。
(今年の大河の谷原義元に影響され過ぎか?)

結局この戦いに負けた今川氏は没落の一途をたどり、信長は一気に全国ネットの舞台へ躍り出る事になります。

*桶狭間にある二つの古戦場については2011年の5月19日でどうぞ>>
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2007年5月18日 (金)

五稜郭開城!蝦夷共和国 最後の日

 

明治二年(1869年)5月18日、箱館・五稜郭が陥落し、箱館戦争が終結しました。

・・・・・・・・・・

慶応四年(明治元年・1868年)正月の鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争・・・新政府軍は、日本を北上する形で制圧を進めていきます。

   ★これまでの戊辰戦争の経緯は、
     サイドバーの【幕末・維新の年表】で>>

江戸城・無血開城の時に、徹底抗戦を主張していた榎本武揚(えのもとたけあき)は、最新鋭の軍艦・開陽丸など8隻の船を率いて江戸を脱出し(8月19日参照>>)、途中で、会津戦争の生き残りたちを収容しつつ北上し、約2千8百人の人々とともに蝦夷(北海道)へ向かいます。

その中には、新撰組土方歳三元彰義隊渋沢成一郎もいました。

10月下旬に蝦夷に上陸した彼らは、新政府軍が箱館(函館)に設置した府知事を攻撃し、五稜郭を占領(10月20日参照>>)

続いて江差・松前(福山)を制圧し、松前城を攻略・・・12月には、五稜郭を本拠地として蝦夷共和国を設立します(12月15日参照>>)

この蝦夷共和国に関しては、後に、榎本が「ちょっと抵抗してみたかっただけ・・・」などと、あいまいな返答しかしなかった事から、彼が本当に造りたかった物、本当の目的などが、今となっては謎となってしまいましたが・・・

彼の理想はともかく、設立当初のこの独立国家は、「共和国」という理想にはまだ遠い未熟な物だったようです。

役職者を投票で決めた・・・と言いますが、3千人近くいた人々の中で、投票をしたのはその1~2割程度にとどまり、全員に選挙権があったようではありませんし、国家の中心となる人物を徳川家の血筋から選ぼうとしていたり、まだまだ幕府を引きずっている感がぬぐえませんね。

榎本に従って来た人々も、新政府軍に追われて居場所が無くなり、「未開のこの地を開拓して安住の地にしよう」くらいで、明確な理想像があったようには思えません。

そんな、あいまいな感じの独立国家でしたが、新政府軍はすぐには攻撃を仕掛ける事はできませんでした。

それは、榎本が江戸を脱出する時に率いた船が、現時点で日本にある最新鋭の軍艦であった事・・・それによってこの時の榎本らの海軍の力は、新政府軍のそれとは比べ物にならないくらい高かったのです。

しかし、春を待たずにその最新鋭の軍艦・開陽丸は座礁して大破してしまいます。
青函間の制海権を握れなくなった榎本軍。

やがて、翌年の明治二年(1869年)4月、新政府軍は北海道の雪解けを待って、青森に8千の兵を集結させ、いよいよ攻撃を開始します

もはや海軍が使えない榎本軍、こうなったら地上戦で歴戦の勇士の活躍にしか期待は持てません。

しかし、いくら激戦を生き残ってきた精鋭たちとは言え、所詮は多勢に無勢・・・榎本軍は次第々々に撤退を繰り返し、1ヶ月後には、五稜郭の周辺のみとなってしまいます(4月29日参照>>)

しかも、頼みの綱の「弁天砲台」の大砲はゲリラによって破壊され、新政府軍の最前線はもう目の前です。

5月11日、新政府軍は、函館総攻撃を開始(5月11日参照>>)、翌日、榎本のもとに最後通告である「降伏勧告書」を送ります。

受けた榎本は、新政府軍・参謀の黒田清隆(8月23日参照>>)「降伏勧告書」の返事を送るのですが・・・。

黒田は、面識はないものの、以前から榎本の知識と才能を高く評価していて、「このままだと、この戦争で貴重な人材を亡くしてしまう」と、再三再四榎本に対して降伏を呼びかけていた人物でした。

しかし、黒田のもとに届いた榎本の返事は「NO!」・・・返書には、「最後の一兵まで戦い抜く覚悟である」事が書かれてありました。

そして・・・そのうしろに少しの空白の後、追記がありました。

「この返書に添えた2冊の本は、僕がオランダ留学をした時、持って帰って来た本で、これから先の海軍や商船にはなくてはならない重要な本です。
このまま兵火によって失われてしまっては、日本の損失となります。
あなたなら、この本の価値をわかっていただけると思うのでさしあげます」

返書に添えられていた2冊の本は、国際法の原本でした。

たしかに、日本が開国して、これから世界を相手にしなければならない時、必要となる内容です。

この事に感激した黒田は、この返書を持って来た榎本軍の使者に酒5樽を渡し、「必要なら、武器や食糧も届ける」と言ったと言います。

しかし、明治二年(1869年)5月18日ついに五稜郭は陥落。

全員討死を覚悟していた榎本も、残り少なくなった兵を見て、新政府からの「降伏勧告」を受け入れ、ここに、箱館戦争・・・そして、昨年から続いた戊辰戦争が終結したのです。

先ほども書いたように「ちょっと抵抗してみたかっただけ・・・」としか言わなかった榎本さんですが、この2冊の本のエピソードを聞くかぎり、彼の頭の中には、きっと未来の独立国家の構想が湧き上がっていた事でしょうね。

このお話の続きは、榎本さんのご命日に書いた
10月26日【榎本武揚,五稜郭の後は・・】でどうぞ>>

また、この五稜郭開城のために尽力した医師・高松凌雲ついて・・・
2009年5月18日【函館戦争で敵味方の区別なく・・・医師・高松凌雲】もどうぞ>>

Goryoukakucc 今日のイラストは、
『函館・五稜郭』で・・・

大阪城の近所で生まれ育った私は、小さい頃はお城と言えばみんなあんな形かと思っていたので、初めて五稜郭の写真を見た時は、その形のユニークさに驚いたものです。

一度見ただけで忘れられない印象でした・・・と言いながらまだ行った事ないんですけどね。
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2007年5月17日 (木)

忍者・間宮林蔵 樺太発見の後に・・・

 

文化六年(1809年)5月17日、前年から樺太探検を行っていた間宮林蔵が、シベリアと樺太とが海をへだてている事を証明し、樺太が島である事を確認しました。

この海は、「間宮海峡」と名付けられ、現在も世界地図にその名を残しています。

・・・・・・・・・・・

もちろん、樺太(カラフト)が島である事は、間宮林蔵が発見するず~っと前から、アイヌ民族の人たちは知っていましたし、当時の中国でも確認していましたが、コロンブス「アメリカ大陸発見」と同様に、こういうのは、世界地理の立場から、学問的に証明してみせて初めて「発見・確認」となるので、やはり「間宮林蔵が間宮海峡を発見した」という事でよいのではないかと思います。

Mamiyatizucc_1 間宮林蔵(まみやりんぞう)は、あの『大日本沿海輿地全図』を作成した伊能忠敬(いのうただたか)(9月4日参照>>)から天文学・地理学を学びました。

忠敬から測量器具などを譲り受けている事からもわかるように、かなり優秀な弟子だったようです。

当時の日本は、ロシアとの関係上、このあたりの地理をしっかりと確認しておかないと「いつの間にか北海道がロシア領になっていた」って事にもなりかねない状況で、北方への関心が一気に高まっていた時期だったのです。

また、世界的な地理の分野でも、樺太が島なのか?半島なのか?という事が論争されていた時でもありました。

そんな中で、二年に渡る決死の探検の結果、樺太が島である事を確認した事は、非常に貴重な発見と評価され、彼が発見した海も「間宮海峡」と命名され、まさに歴史に名を残す偉大な探険家として知られる人物となるわけです。

彼は、その偉業を成し遂げた後、しばらくの間、北海道と江戸を行ったり来たりの生活を続けていましたが、50歳頃からは、江戸に落ち着いて深川でひっそりと生活をしておりました。

しかし、彼が54歳の時、人生を変える一大事件が発覚します。
それは、日本史上でも有名な「シーボルト事件」です。

シーボルは文政六年(1823年)に来日したドイツ人医師で、長崎にて「鳴滝塾」を開き、診療のかたわら、高野長英伊藤圭介などに医学を教え、多くの優秀な人材を育てた人物です。

そんなシーボルトは、故国・オランダが運営する「東インド会社」の依頼もあり、また彼自身が日本を大好きな事もあって、日本滞在中は趣味と実益を兼ねて、様々な品物を日本研究の成果として集めていました。

やがて、文政十一年(1828年)シーボルトは帰国の途につきますが、残念ながら彼の乗った船が嵐に遭い、長崎湾内で座礁してしまうのです。

その事故がきっかけで、その積荷の中に、シーボルトの所持品として、あの伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』があった事が発覚するのです。

当時に限らず、今でも詳細で正確な地図は軍事機密とされるくらいです。

まして、鎖国制度下の日本では、外国に地図など持ち出して良いわけがありません。

当然、シーボルトは一年間の足止めをされた後、国外追放となり、あの地図が誰からシーボルトの手に渡ったのか?が厳しく追及される事になります。

やがて、幕府天文方・高橋景保なる人物が逮捕されます。

景保は、シーボルトの持っていたロシアのクルーゼンシュテルノン提督の書いた『世界周航記』という本がどうしても欲しかったんですね~。

その本には、彼にとって未だ知らぬ北方領土の事がくわしく書かれていたのです。

つまり、景保はその本と、忠敬の地図を交換したわけです。

逮捕された景保は、「祖国を外国へ売り渡すに等しい行為」との非難を受け、獄中にて病死します(覚悟の自決とも)(2月16日参照>>)

この景保という人は、林蔵の恩師でもありました。

林蔵を樺太探検の一員として推薦してくれたのは、他ならぬ景保その人だったのです。

ところが、どっこい、実はシーボルトに地図を渡したのが景保である事を幕府にチクッたのは、実は、林蔵だったのです。

でも、「恩を仇で返すなど、なんて悪いヤツだ!この、裏切り者!」と、彼を非難するのは、勘弁してあげてください。

彼は、裏切ったのではなく、職務を遂行しただけ。

実は、探検家としての林蔵は、仮の姿・・・探検家は彼の副業で、本職は公儀隠密・・・つまり、「忍者=スパイ」が本職だったのです。

ただ、いくら職務に忠実だっただけとは言え、やはり恩師を売った彼の行為は非難の対象とされ、それ以降、林蔵は陰の世界で忍者としてのみ生きていく事となります。

天保元年(1830年)には、僧の姿で薩摩に潜入・・・鹿児島城に襖の職人として入り込み、鹿児島城の詳細な見取り図を幕府に提出しています。

天保七年(1836年)には、石州浜田(島根県)に、物乞いの姿で潜入し、竹島を本拠地として密貿易を繰り返していた廻船問屋・会津屋八兵衛を捜査・逮捕しています。

しかし本業の隠密で、このような輝かしい実績を残しても、裏切り者としての汚名は返上できず、彼に対する世間の目は厳しいものでした。

幼い頃は、活発でおしゃべり、明るくてひょうきんな少年だった林蔵は、陰に生き、陰に死んでゆく宿命を背負ったまま、天保十五年(1844年)2月26日江戸深川で孤独な死を迎えたと言います。

時に70歳・・・晩年はとても無口な人だったという事です。

それにしても、「隠密=忍者」って公表されちゃっても、まだ活動できるもんなんすかね~

密貿易してる商人はともかく、薩摩藩は「公儀隠密データベース」のような物は持ってなかったんでしょうか?

まぁ、写真ないからなぁ~。

なんせ、林蔵さんは、忍法で言うところの「七方出(しちほうで)という、変装術の名人だったようなので・・・。

それにしても、仮の姿の副業で歴史に名を残す偉業を成し遂げちゃった事には驚きですが・・・。
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Mamiyanomamiyacc 今日のイラストは、
やはり「間宮海峡の間宮林蔵」で・・・。

何となく「裏稼業」があると思うと、ものすご~く美形を想像してしまいます~。
忍びの術を心得たニヒルな探検家・・・

背はけっこう低かったそうです・・・小柄なのは忍ぶには持ってこいですな。
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2007年5月16日 (水)

信長 最大のピンチ!対・長島一向一揆戦

 

元亀二年(1571年)5月16日、織田信長が、自身に対抗した長島・一向一揆に対して攻撃を仕掛けました。

・・・・・・・・・・・

室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長(9月7日参照>>)は、元亀元年(1570年)正月に義昭に対して5か条の掟書を提出(1月23日参照>>)し、その関係に亀裂が生じ始めます。

自分をないがしろにする信長に反抗を強める義昭も含めて、徐々に周囲には、「反・信長包囲網」が敷かれていきます。

6月に姉川の合戦(6月28日参照>>)に敗れながら、その後も抵抗を続ける越前の朝倉義景と近江の浅井長政

そして、彼らを援助し続ける比叡山・延暦寺。

さらに、7月になると、信長の上洛で一旦なりをひそめていた三好三人衆が、再び動き始めます。

それを、影で支えるのが、浄土真宗の総本山・石山本願寺です。

8月になって、信長は石山本願寺と三好三人衆のつながりを断つべく、本願寺十一世・顕如(けんにょ)に、本願寺(現在の大阪城公園内にあった)の明け渡しを要求し、本願寺を包囲します。

しかし、当然、あっさりと明け渡すわけにはいかない本願寺・・・ここに、10年に及ぶ石山合戦が勃発したのです。

9月に入って、顕如は、諸国の本願寺門徒に対して、ともに抵抗するように決起を要請しました(9月12日参照>>)

その檄は、伊勢長島の願証寺の一向宗門徒にも届きます。

伊勢長島は、木曽川長良川揖斐川という3本の川が合流して伊勢湾に流入するデルタ地帯。

川の中州を堤防が輪のように囲んでいる事から、輪中(わじゅう)地帯と呼ばれていました。

もともと、その地域の人々は水防の点からもお互いの協力体制が強固で、地域の結集が固かった所に加えて、願証寺という共同のシンボルを得て、そこには、本願寺門徒による一大集団組織が出来上がっていたのです。

当時すでに、尾張にいて濃尾平野を支配下に押さえていた信長も、この願証寺を中心に結集する一向一揆には手を焼いていて、石山本願寺からの決起要請が来る来ないに関わらず抵抗勢力として位置づけていました。

そんな感じで、信長に反発し続けていた長島の一向宗門徒たちが、伊藤重晴を攻撃して長島城を奪い、やがて11月に入って、信長の弟・信興を、尾張・小木江(おぎえ)城に攻め、信興を自殺に追いやり、伊勢の滝川一益を敗走させる・・・という出来事が勃発します。

信長の最重要ターゲットが、石山本願寺から長島に代わった瞬間でした。

信長は、朝廷などを介して一旦石山本願寺や浅井・朝倉の両氏と講和を結び、明らかに戦略の変更をするのです。

そして、翌年元亀二年(1571年)5月16日5万という大軍を以って、この長島の一向宗・門徒を攻撃します。

しかし、長島・一向一揆は、総指揮をとっていた柴田勝家を負傷させ、彼らをわずか数日で撤退させてしまいます。

この時、殿軍(しんかり)をつとめた勇将・氏家卜全(直元)一揆衆に追われ、あえなく討死してしまいます。

やがて、天正元年(1573年)に、浅井・朝倉両氏を倒した信長は、その年の9月に6万の大軍を率いて、伊勢の各城を落とした後、再び長島一向一揆を攻撃します。

しかし、この2度目の挙兵は、逆に奇襲を受け林通政が討ち取られてしまったうえ、信長自身も「あわや」という場面に遭遇するという、信長最大のピンチを経験する戦いとなってしまいます(10月25日参照>>)

しかし、負けず嫌いが想像に難くない信長さんですから、このまま終るわけがありません。

まして、天下を狙うなら、なおの事、抵抗勢力は排除しなくてはなりません。

もちろん、今度は「三度目の正直」とばかりに全面的に作戦変更。

長期戦を意識をして、翌年の天正二年、信長は3度目の長島攻めを開始する事になりますが、そのお話は、対・長島一向一揆戦が終結する9月29日のページでどうぞ>>
 

Nobunagahouimouisiyama 長島一向一揆に、手痛い敗北をした頃が、信長さんにとっては最も敵の多い時期じゃないでしょうか?

この後、武田信玄上杉謙信の死という、信長さんにとってはラッキーな事も含めて、一つずつ敵を潰していく、怒涛の挽回戦が始まります。
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2007年5月15日 (火)

三行半:みくだりはん~江戸の離婚事情

 

明治六年(1873年)5月15日、法律で妻からの離婚請求権が認められるようになりました。

・・・・・・・・・・・・

・・・って事は、「それまで認められていなかった」って事になるんですね~。

現在では、民放上のもろもろの規定にのっとって離婚手続きが行われ、自分勝手で一方的な離婚は夫にも妻にも認められてはいないわけで、どんな場合でも夫婦の合意に基づいていなければなりません。

そもそも、日本では大宝元年(701年)の「大宝律令」以来、2000年の長きにわたって、男性は妻を一方的に離婚する事ができました。

しかし、「一方的に・・・」と言っても、さすがに理由は必要なようで、大宝律令では、
  ・子供がいない
  ・淫乱
  ・しゅうとを大事にしない
  ・おしゃべりである
  ・手癖が悪い
  ・嫉妬深い
  ・悪い病気を持っている

の、七つの条件をあげていますが、以前【結婚の歴史】(1月27日参照>>)でも書かせていただいたように、奈良時代や平安時代頃までは「通い婚」でしたから、男性が通って来なくなって自然消滅・・・的な場合も多々ありました。

女性は、結婚に至るまでの拒否権はあるものの、その先は、やはり男性が主導権を握っていたようです。

やがて、江戸時代になってようやく、現在のような「一つ屋根の下で、一生涯・・・」という、はっきりした結婚形態が確立されるわけですが、正式に結婚する・・・という事は離婚する時も正式な物が必要になるわけで、そこで登場するのが「離縁状」・・・俗に言う「三行半(みくだりはん・三下り半)というヤツです。

Mikudarihan

この離縁状は、お茶で墨をすって3行半の正式な文章を書く事で「離縁状=三行半」と呼ばれるようになるわけですが、文字の書けない人は、3行半の縦線を書き、爪印を押すだけでもOKとされました。

でも、やっぱりこれも男性側の一方的な物。

・・・となると、夫が女房に三行半を突きつけて、即、離婚成立・・・で、妻は泣く泣く実家に帰り・・・という時代劇にありがちな光景を想像してしまいますが、実際にはそんな甘い物ではありません。

この三行半を書くときの決まりとして、まず妻の妊娠中は「ダメ」という事が一つ。

そして、当時、結婚する時は100両ほどの持参金を妻が持っていくのが常識だったのですが、離縁する時は、その妻の持参金をそっくりそのまま返す、という事が義務付けられていましたので、ちょっとでも使っちゃった場合は、その金額をなんとか工面するまで離婚はできませんし、もし、守らなければ重い罰に処せられる事になります。

しかも、この時代、三行半を書いていないかぎり、次の結婚はできませんでしたし、三行半は、この世にたった一枚しかない正式な離婚届で、夫から妻のもとに渡って保管するのは妻です。

男性が新恋人と結婚しようとした時、前妻が「ワタシ三行半もらってませ~ん」と、貰った三行半を隠してしまえば、男は再婚できないばかりか、もう一回持参金返却をさせられるか、実刑を受ける事になるのです。
(この時代コピー機ないからなぁ)

一見、男に有利に思える三行半ですが、使い方によっちゃ、けっこう女性の味方でもあったんですね。

しかし、この持参金返却制度・・・三行半を書かずに奥さんのほうから勝手に家を出てった場合、お金は返却しなくて良い事になっていましたから、中には、持参金欲しさに結婚し、金を使い果たして離婚したいけれど持参金を返せない、あるいは返したくないため、奥さんにイケズしたり暴力を振るったりして、わざと奥さんのほうから家を出るように仕向けるヤカラもいたそうです。

そして、この時代は奥さんの方から三行半を書けない代わりに縁切り寺(駆け込み寺)(5月8日参照>>)というのがありましたが、これも、時代劇などのイメージでは、夫の横暴に耐えかねて命からがら傷だらけで駆け込み・・・というのを想像してしまいますが、実際には、他に男ができたので、今の夫と別れたい・・・という妻もかなりの数いたそうです。

・・・というのも、江戸時代は平均して女性の数が男性の3分の1ほどしかいなかったので、男社会でありながらも、けっこう女性はモテモテで、かなりのわがままがまかり通っていたようなのです。

幕末には、この人口比率が逆転し、完全に男性中心の男女関係になってしまいますが、それまでの江戸時代は、意外にも、今の私たちが想像する以上に女性が強かったのではないかと思いますね。
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2007年5月14日 (月)

承久の乱勃発で北条政子・涙の演説

 

承久三年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇公家勢力の回復を狙って起こした内乱・『承久の乱』が勃発しました。

・・・・・・・・・・

源頼朝が鎌倉幕府を開いて、その組織の中に「地頭」という役職が設けられました。

この「地頭」というのは、全国の荘園や国衙領(公領)で、土地の管理や税の徴収、治安維持などを行う役職です。

最初は、お公家さんを上に立てて、うまく行っていた地頭と公家の関係でしたが、幕府も10年・・・20年・・・と続いて行く中、徐々にその力関係が崩れて行くのです。

地頭は領民から年貢を徴収し、それを京都にいる公家の領主に納入するわけですが、年貢の徴収は地頭の小手先次第で、それを領主に収めるのも地頭の小手先次第・・・という事で、公家や朝廷にとって唯一の収入源である税金が、地頭によって左右される事になってしまいます。

そうなると、本来幕府より上に位置する朝廷や公家と、幕府・地頭との力関係が逆転するような事になり、当然お公家さんたちは不満ムンムンとなるわけです。

これは、もう、地頭VS領主でななく、幕府VS朝廷という争いになって行くのは必然です。

やがて、幕府反対の雰囲気が高まってきて、朝廷内でも幕府寄りだった九条兼実(かねざね)失脚すると、ますます幕府反対運動が盛んになっていきます。

そんな中で、後鳥羽上皇が院政を開始して自分の警備隊を中心に武力を強化し、比叡山の僧兵とも手を組み始めます。

そんな時、鎌倉幕府・第3代将軍の源実朝が暗殺されるという事件(1月27日参照>>)が起こり、頼朝の直系が耐えてしまう中、御家人同士の勢力争いも起こるというヤバイ展開に・・・

ここで、「今が絶好のチャンス!」と思った後鳥羽上皇は、一気に幕府の最大勢力である北条氏をぶっ潰そうと、時の執権・北条義時(頼朝の奥さん・政子の弟)追討の院宣(天皇の正式命令)を発したのです。

承久三年(1221年)5月14日・・・『承久の乱』の勃発です。

院宣が出された以上、義時は朝敵(国家の敵)となるわけで・・・この時代、なんだかんだ言ってもまだ、朝廷の権威という物はかなりの物でした。

あくまで、幕府は朝廷の下であり、その朝廷が「敵」と見なした相手は、必然的に幕府の「敵」になるわけですが、今回の場合は、その幕府の「敵」が幕府の最高権力者の執権なわけで・・・。

上皇は、「朝廷の味方になって朝敵=義時を討って勝利したあかつきには望みのままに褒美を与える」などと書いた書状を各地方にばら撒きます。

幕府内の御家人としては、天皇に弓をひくなど、とうてい考えられない反面、そうすれば、直属の上司の執権にはむかう事になるわけで、もう、幕府内は上を下への大騒ぎです。

ところが、ここであの有名な北条政子『泣きの名演説』が繰り広げられるのです。

彼女は、御家人たちを集め、今は亡き頼朝との出会いから話し始め、いかに苦労して幕府を開いたかを切々と語り、その頼朝の恩に報いるにはどうすべきかなど、涙ながらに訴え、武士たちのハートをガッチリとキャッチ!

結局、朝廷側の思惑とはうらはらに、上皇のもとに集まった兵力は予想外に少なく、逆に、京へ上った幕府軍は19万という大軍になるのです。

こうなったら、上皇側に勝ち目はありません。

あわてて上皇は院宣の取り消しを発表しますが、もう後の祭りです。

1ヶ月後に乱は終息を向かえ、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇(第84代天皇)佐渡(12月28日参照>>)それぞれ配流され、土御門上皇(第83代天皇)は自ら土佐(10月11日参照>>)下りました。

当然ですが、朝廷側に味方した武士の所領は没収され、幕府のために戦った御家人たちに分配される事になります。

その国の国家元首の敵であるはずの義時が、国家権力を以って国家元首に処分を下す・・・このありえない出来事に対して幕府は「天皇御謀反」という、またまたありえない大義名分を主張しました。

「謀反」というのは本来、目下の人間が目上の人間に行う反逆です。

国家の最高権力者である天皇が、言わば部下に対して謀反とは・・・。

このありえない大義名分がまかり通ってしまう事でもおわかりのように、この乱によって、後鳥羽上皇の「北条ぶっ潰し作戦」の失敗どころか、かえって今まで以上に北条氏はその権力を強固な物にしてしまうのです。

今回、朝廷に味方した者には西国の武士が多かったため、その所領が鎌倉武士の物となり、幕府が西へ勢力を広げる結果となってしまいました。

そして、さらに、幕府は、京に「六波羅探題(ろくはらたんだ=京都守護)を置き、朝廷をしっかりと監視する事にもなりました。

自ら墓穴を掘ってしまった後鳥羽上皇は、この後の20年間を隠岐で過ごし、60歳でこの世を去りました(7月13日参照>>)

Amasyougunzyoukyuucc 今日のイラストは、
『涙の演説』をする尼将軍・北条政子さんで・・・。

彼女の演説に感動して涙した武士も大勢いたとか・・・。
男性諸君は女の涙に弱いからなぁ~。
特に、おぼこい東国の武士なんかイチコロだったでしょうね。
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2007年5月13日 (日)

風林火山・孫子の兵法7虚実篇

 

今日は、『風林火山・孫子の兵法』の7回目『虚実篇』を紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

『虚実篇』は、この一つ前の章・『兵勢篇』で重要だとされた集団で力を発揮するために必要な4つの条件の中の一つ・・・「虚実」について説明しています。

『孫子曰く、およそ先に戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いつ)し、後れて戦地の処りて戦いに趨(おもむ)く者は、労す。
故に善く戦う者は、人を致して人に致されず。』

「敵より先に戦場に行き、敵を迎え撃てば余裕を持って戦える。逆に遅れて行けば、戦いは苦しくなる。
だから、名将は人を致して人に致されず

「人を致して人に致されず」とは、「相手に左右されず自分が相手を左右する立場に立つ」という事・・・つまり、主導権を握るという事ですね。

・・・で、具体的にはどうやって主導権を握るのか?

敵にある行動を起こさせるためには「そうすれば有利だ」と思わせなければならず、逆に、行動を起こさせたくなければ「そうすれば不利になる」と思わせれば良いわけです。

敵の準備が万全で余裕がありそうなら策略を張りめぐらせてかき乱し、食糧が充分なら道を断って飢えさせる・・・。

そして、自分たちは・・・
『その趨(おもむ)かざる所に出(い)で、その意(おも)わざるところに趨く』
「敵がすぐに行けないような場所に進撃し、敵が思いつかない方向へ攻撃する」

敵のいない場所であるなら、どんなに長い距離を行軍しても疲れませんし、敵の守っていない場所なら攻撃して必ず落とせます。
逆に、相手が攻撃しない場所なら守備についた時、必ず守り抜けます。

この戦法を巧みに操れば、相手はどこを守ってよいかわからなくなり、どこを攻撃してよいか混乱します。

そうなると、相手から見てコチラの軍は・・・
『微なるかな微なるかな、無形に至る。
神なるかな神なるかな、無声に至る』

「姿は見えず、音は聞こえない」
という事になり、コチラの思惑通りになる・・・というわけです。

このように、コチラから見れば相手の動きが手に取るようにわかり、相手から見ればコチラがどう動くかわからないように仕向けておけば、コチラは戦力を集中する事ができ、相手は戦力を分散するしかない状況になり、ますます主導権を握れるのです。

つまり、相手はどこから攻撃されるかわからないわけですから、当然、各アブナイ所を全部守備しなければなりません。

たとえば、その守らなければならない場所が10ヶ所あったとしたら、兵を10に分けて守る事になります。
コチラと相手のもともとの戦力がほぼ同じの時の場合、その10ヶ所のうちの1ヶ所に、コチラの戦力をまるまる使うとすれば・・・
『これを十を以ってその一を攻むるなり』
「10の戦力で1を攻撃するという事になる」
その場所に関しては相手の10倍の戦力で攻撃できる事になります。

この作戦は、もとの戦力が同じでなかった場合にも使えます。
たとえば、小さな企業が大企業に挑む場合・・・まともに戦っては勝ち目があるわけがありませんから、コチラは大企業の「ここだ!」と思う一点に狙いを定め、一点集中攻撃をかけるわけです。

アイデアで勝負?サービスで勝負?技術で勝負?・・・とにかく、何か一つ相手に勝る物に戦力のすべてを賭けて勝負すれば、勝機が見出せるかも知れません。

どんなに強大な相手でも必ず守りが薄い場所があり、つけ込む隙がある物なのです。

「ここが狙い目」という「時と場所」を定める事ができたなら、たとえどんなに遠くまで遠征しても勝てるし、それを見抜けなかったら戦力が分散され、お互いに協力し合う事もできないようになるのです。

『・・・兵多しといえども、また奚(なん)ぞ勝敗に益せんや・・・勝は為すべきものなり。敵衆(おおし)といえども、闘うことなからむべし』
「兵の数がいかに多かろうと、勝敗を決定する要因にはならない・・・勝利は人が造る物である。(なぜなら)敵の数がいかに多くても、(コチラの作戦によって)それを戦えないようにする事ができるからである」
言ってくれますね~孫武さん。
それならかよわい私たちも勇気が湧いて来る・・・という物です。

主導権を握ったら、今度はコチラの態勢です。

『・・・兵を形するの極は、無形に至る・・・その戦い勝つや複(ふたた)びせずして、形に無窮に応ず』
「・・・究極の戦の形は無形である・・・コチラの戦闘態勢は相手の態勢によって無限に変化する」

人は、勝利を収めた時のやり方がベストだと思いがちです。
ですから、次に戦う時もまた、同じ態勢で挑んでしまいがちですが、「それはまちがいだ!」と孫子は断言します。

勝利に至る態勢を見つけ出すには・・・
 ・現時点での状況を分析し、コチラと相手のどちらが有利か
  を見極める。
 ・探りを入れて相手の出方を見る。
 ・相手の動きを見て地形のポイントを見極める。
 ・相手の動きを見て敵の強味と弱味を探る。
この結果によって、コチラはどのような態勢をとるのかを判断するわけで、その態勢は常に変化するわけです。

いったん組織ができあがってしまうと、それを崩すのは勇気のいる事です。
まして、その態勢で一度成功しているならなおの事。
しかし、孫子は、相手によって、いつでも再構築できる柔軟な態勢こそが理想であるとしています。

態勢は水の流れように変化させなければならない物・・・水が高い所を避け低い方へ低い方へ流れていくように・・・
『実を避けて虚を撃つ・・・兵に常勢なく、水に常形なし』
「充実した部分を避けて守りの薄い所を攻撃する・・・水に一定の形がないように、戦い方にも決まった形はない」

以上、今日は『虚実篇』をご紹介しました。
次の機会には、いよいよ「風林火山」の登場する『軍争篇』をご紹介させていただきます。
 
 

続編はコチラ→風林火山・孫子の兵法Ⅷ軍争篇』>>

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
 

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2007年5月12日 (土)

織田信長さんのお誕生日なので・・・

 

天文三年(1534年)5月12日は、あの織田信長さんのお誕生日です。

もう、これだけの有名人ですから、皆さんもよくご存知だとは思いますが、お誕生日だという事なので、改めて信長さんの人となりを少しご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・

尾張の戦国大名・織田信秀次男(三男とも)として生まれますが、お母さんの土田御前が信秀の正室であるため嫡男という事になり、2歳という若さ(若いを通りこしてる)で那古屋城主となります。

生まれた時から“かんしゃく持ち”で、授乳中に、その乳首を噛み切ってしまうため、乳母が何度も交代したと言います。

ひとりだけ例外がいたそうですが、その乳母は若くてメチャッメチャ美人だったらしく、ちっちゃくてもそうゆうところは、しっかり押さえてるんですね(2009年4月11日の前半部分参照>>)

吉法師と呼ばれた少年時代は、ワル仲間のボスとして、相撲や戦争ごっこをして尾張の隅々をあばれまわり「うつけ者」と呼ばれていたのは有名な話です。

しかし、今となっては、この「うつけ」がただの「うつけ」でなかった事はもう、皆さんご承知の通りです。

仲間を引き連れて領内を走りまわったのは、その地理を知るため・・・
戦争ごっこでは、戦の駆け引きを覚える・・・

近所の子供同士でケンカをした時などは、あらかじめ味方になりそうなのを選りすぐってお金を渡し、事前に味方につけておいてから勝負に挑んだというエピソードも残っています。

そんな当時の信長のファッションも有名ですね。

髪をお茶の道具の茶せんのように結って、ペラペラの着物の片袖を脱いで、腰には火打石や革袋をぶらさげ、近くの柿や瓜などを物色しては歩きながら食べ、立ったまま餅を食べ・・・と、殿様としてはあるまじき行動の数々・・・。

しかし、その奇抜なファッションも、腰の袋には戦闘時の必需品が入れられ、荒縄で巻いた刀の柄は血で手がすべらないようにするため・・・と、その“いでたち”がいかに実戦的であったかという事もご存知の通りです。

とかく、信長さんと言えば、最大のライバルとなった弟・信行殺害(11月2日参照>>)したり、比叡山を焼き討ちして(2006年9月12日参照>>)、女・子供・僧を含む3千人を殺害した・・・などという逸話が先行して、神仏をも恐れぬ「魔王」のイメージがつきまといます。

あの「鳴かぬなら・・・」のホトトギスの歌もそうですが、ドラマなどでも、たいてい信長さんがすき放題にやって、まわりの家臣がビクビクしてるような感じに描かれています。

しかし、別に信長さんは神仏を恐れないから、あるいは無心論者だから比叡山を焼き討ちしたわけではないのです。

伊勢神宮石清水八幡宮に大金を寄進したり、浄土宗や禅宗といった宗教にも好意的に接しています。

その事を考えると、神仏だから・・・というのではなく、「天下を治めるにあたっての壁になる相手だから排除する」という考え方・・・

姉川の合戦(6月28日参照>>)で敗れた浅井・朝倉が比叡山へ逃げ込み、かくまう比叡山は「神仏には手を出せないだろう」と余裕を決めこむ・・・そのような態度が彼には許せなかったのですよ。

信長さんの考えは、宗教否定ではなく、政治と宗教は別物・・・政教分離の考え方で、現在では、むしろ正統です。

しかも、近年の調査で、もし本当に伝えられる通りの比叡山焼き討ちがあったとしたら、当然残っているべき焦土(土が焼けた跡)層が確認できない事や、出土品に戦国時代の焼け残り品や人骨が見あたらない事などから、そのような大規模な焼き討ちは無かったのでは?という事も言われています(2007年9月12日参照>>)

たしかに、敵対した相手のこもる堂塔を攻撃したのは確かでしょうが、噂ほどの強烈な物ではなかった可能性が大で、どうやら焼き討ちの話は「あの人ならやりかねない」という想像のもとに書かれた話のようです。

そうなると、信長さんへの見かたが随分と変りますね。

最後に、彼の人となりがわかる手紙をご紹介しましょう。

それは、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)の奥さん・おね(ねね)さんに宛てた手紙で、彼女が信長のもとにご機嫌うかがいにやって来た事を大変喜んで書いた物なのですが、この手紙の中で、秀吉の事を「ハゲネズミ」と呼んでいる(ハゲネズミと呼んでいるのは、この手紙の1回だけ)事もあって、ご存知のかたも多いかと思います。

その手紙で信長は、ねねさんの事を、「以前より十倍は美しくなった」と褒め、「こんな美人の奥さんがいるのに、浮気をするなんて言語道断!
あのハゲネズミめは許し難い・・・」
と、ねねさんの味方をする一方で、「だからと言って嫉妬していきり立ってはいけない。
妻として10個言うべきところを、7~8個にとどめておいて、この手紙を藤吉郎に見せなさい。」

手紙を見せれば、夫婦ゲンカをせずに秀吉への忠告になるだろう・・・という事です。

とても、神仏を恐れぬ「魔王」という姿からは想像できないやさしい手紙です。

ますます、信長さんの印象が変わりますね。

私は、黒人の弥介さん奴隷として扱わず、家臣としてかかえた(2月23日参照>>)・・・というエピソードにこそ、信長さんの人となりが垣間見えるような気がします。

Nobunagabirthdaycc 今日のイラストは、
やはり、『若き日の織田信長』さんで・・・

最近よく見る「好きな歴史上の人物ランキング」のようなテレビ番組でも、ほぼ1位をキープ中の信長さん・・・やはり、その行動力が一番の魅力でしょうか。
 .

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2007年5月11日 (金)

義仲・圧勝!倶利伽羅峠の合戦

 

寿永二年(1183年)5月11日、数ある源平合戦の中で、源氏が平家を逆転するキーポイントとも言える『倶利伽羅峠の合戦』がありました。

・・・・・・・・・・・

先日の『般若野の合戦』のページ(5月9日参照>>)で、砺波山に登った平家軍・本隊が、ふもとに源氏の白旗がなびいているのを確認したところまで書かせていただきました。

「さて、どうする・・・」と平家軍の総大将・平維盛

しかし、一方の木曽(源)義仲の作戦は、この時すでに決行されていたのです。

寿永二年5月11日の夜・・・まだ、あたりが漆黒の闇に閉ざされる前に、義仲は少しの兵を平家軍の正面へとぶつけます。

何度か繰り返される小競り合い・・・。

やがて、夜も更けると、その少数の兵は義仲軍・本隊へ撤退します。

これは、平家軍に「今夜の攻撃はあきらめたな・・・」と思わせるための作戦です。

その間に、夜の闇に紛れて、平家軍を取り囲むように砺波山周辺に布陣する義仲軍・・・樋口次郎兼光の3千騎、今井四郎兼平の2千騎、小室太郎の3千騎、巴御前の1千騎。

彼らは、倶利伽羅峠を挟んで北と南・・・じっくりとその時を待ちます。

義仲の思惑通り、「次の攻撃は明日であろう」と判断した平家軍は、警戒しつつも軍装を解いて、山上で一晩を明かす事にします。

行軍の疲れもあって、夜も更けると寝入ってしまう者も数多くいました。

そんな、あたりが寝静まった頃・・・夜の闇を引き裂くように山中に響き渡る鬨(とき)の声・・・続いてほら貝を吹き、太鼓を鳴らし、一斉に鏑矢(かぶらや)を射かけたのは、北と南に分かれた義仲・搦手(からめて)

四方を岩に囲まれた山上で、まさか正面の降り口以外から攻めて来る事はないだろうと予想していた平家軍は、暗闇の木々の間から見える無数の白旗にびっくり仰天です。

たしかに、闇の中だと、赤旗より白旗のほうがグッと目立ちますわな。

搦手からの鬨の声を待っていた義仲率いる本隊・3万騎も、一斉に鬨の声を挙げ、追い討ちをかけます。

山中に轟きわたる鬨の声に不意をつかれた平家軍は、もはや右往左往して逃げ惑うばかりです。

「見苦しいぞ!騒ぐな戻れ!」と大将が叫んでも、規律を失った兵士を止める事はできません。

『源平盛衰記』によれば、この時、500頭の牛の角に松明をくくりつけ平家軍を追いやった有名な『火牛の計』という作戦が書かれていますが、これは中国の『史記』に登場するお話なので、おそらくはフィクションでしょうが、それに類似するような敵の不意を突いた奇襲作戦を決行した事は確かでしょう。

東から攻め寄せる義仲の本隊。
西からやってくる義仲の搦手軍。
北には、切り立った岩壁・・・。

唯一、逃げ道がありそうな南に向かって平家の兵士たちは殺到します。

もちろん、それは義仲の作戦・・・南側には倶利伽羅谷という深い切立った谷が口を開けていました。

しかし、暗闇のため、そこに谷がある事には兵士たちは気付きません。

「この先に道があるのだろう」と、皆が争うように進み、次々と谷底に転落して行ったのです。

『火牛の計』はフィクションだと書いておきながら引用するのも何なんですが・・・

『源平盛衰記』によれば、その時の状況を
「父落とせば子も落とす、主落とせば郎党も落とす。馬には人、人には馬、上が上に重なって・・・前に落とす者は今落とす者に踏殺され、今落とす者は後落とす者に押殺される」
といった状況だったと・・

『源平盛衰記』が書かれたのは、この『倶利伽羅峠の合戦』から64年後の宝治元年(1247年)ですが、その頃にはまだ当時の惨劇が確認できる状態で、このあたり一帯は「地獄谷」と呼ばれていた事が記されています。

結局、義仲はこの奇襲作戦で、まともに刃を交える事なく、平家の大軍を打ちのめしたのです。

一方、志雄山にいた平家軍の搦手軍は、この倶利伽羅峠の惨劇の様子を聞いて、軍を進める事を諦め、12日には撤退を開始します。

大将の維盛も、命からがら逃げ出し加賀まで撤退・・・志雄山の軍と合流しますが、本隊が壊滅状態となった今、砺波山に行かなかったこの3万の軍勢が平家軍の本隊となるわけです。

勝利に勢いづく義仲軍・・・。
このまま手を休めるわけには行きません。

次は、篠原・安宅で両軍はぶつかる事になりますが・・・
その『篠原の合戦』6月1日の【無残やな甲の下の篠原の合戦】でどうぞ>>

Yosinakakurikaracc おとといの義仲さまは、ちょっと遠目だったので、今日はアップで・・・
するどい目つきで、気合入った感じにしてみました。

フィクションかも知れないけれど、倶利伽羅峠に『火牛の計』は、やはり欠かせません。
 

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2007年5月10日 (木)

空前のヒット!「鉄道唱歌」のプロモーション

 

明治三十三年(1900年)5月10日、『鉄道唱歌』第一集が発行されました。

・・・・・・・・・・・

鉄道唱歌は、全5集・334番からなる、鉄道路線の駅や沿線の観光名所を歌い込んだ数え歌のような歌です。

第1集の東海道篇の一番の歌詞
♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・・・♪
というのは、よく知られていますね。

昭和六十二年(1987年)、奇しくも国鉄が民営化されたその年に、『全国わが町音頭』(県別・市町村別に3355番まであるらしい…)という歌に、そのトップの座を譲りましたが、それまでの90年間は「日本一長い歌詞」だった事でも有名です。

国鉄時代からJRの特急・急行の車内アナウンスの時のチャイムとして使用され、私などは、このメロディを聞くだけで旅情をかき立てられるものです。

・・・で、その誕生物語ですが・・・

事の起こりは、明治二十八年(1895年)、平安遷都1100年を記念して開催された「京都博覧会」。(4月1日参照>>)

会場までの交通手段として、日本で初めて電車(路面電車)(2月1日参照>>)が走った事でも知られているこの博覧会に出かけた市田元蔵さんなる人物が、博覧会からの帰り道、月琴に合わせて「街頭演歌」を歌う・・・今で言う「路上ライブ」を目にします。

聞こえてきた歌は「汽車の旅」という歌で、「東海道線の地理や歴史を汽車の進行に合わせて歌いあげる」という物でした。

「これは、いける!」と元蔵さん。
そのアイデアをいただいて、早速、国文学者の大和田建樹(たてき)に作詞を依頼・・・作曲は、大阪師範の多梅稚(おおのうめわか)に依頼します。

この時、この話を聞いた大和田さんの親友で東京音楽学校教授の上真行(うえさねつら)も作曲を引き受けたため、曲は2種類の物が競演・・・という事になりました。

・・・て、これはパクリって事にはならないんですかね。

歌詞も曲も新しいから、著作権はクリアでも、「東海道線の地理や歴史を汽車の進行に合わせて歌いあげる」というアイデアに知的所有権のような物は発生しないんでしょうか?

平成の世なら問題になりそうですが・・・。

とにもかくにも、こうして、明治三十二年(1899年)に『鉄道唱歌』第1集・東海道が刊行されるのです。

ところが、まだ売れる前の段階で、なんやかんやと、もと手がかかり過ぎて、元蔵さん、この時点で破産しちゃいました~。

・・・で、この元蔵さんから、その『鉄道唱歌』の売れ残り本や、版権のすべてを三木佐助という人物が買い取ったのです。

この三木佐助さん・・・文明開化の時代にいち早く西洋楽器店を開店し、大儲けをした人物で、「豪商佐助」なんてニックネームで呼ばれていました。

そして、この佐助さんが、娘婿の西野虎吉の協力のもと、翌年の明治三十三年(1900年)5月10日に、2度目の『鉄道唱歌』第1集を発行するのです。

しかし、最初の市田元蔵さんの失敗でもわかるように、ただ発行しただけでは、これほどのヒットにはならなかった・・・

実は、この『鉄道唱歌』のヒットの影には、2度目の発行の時に、虎吉さんが行ったプロモーションによる宣伝効果があったのです。

まず、最初のプロモーションは、10人一組の楽団を編成し、東京や大阪の中心部で、演奏しながら行進・練り歩く・・・という路上ゲリラライブを実施。

これが、かなり受けて、曲の認知度アップに一役買いました。

その時は、多梅稚の作曲の物と上真行の作曲の物、2曲を代わる代わる演奏していましたが、路上ライブの時点で、すでに人気があったのは、多梅稚の作曲したほうの曲で、現在皆さんがご存知の『鉄道唱歌』は、多梅稚の曲のほうです。

その後、同じ年の9月~11月にかけて、第2集~第5集刊行され、『鉄道唱歌』はさらに人気をあげていきます。

この時代、もちろんCDなんてありませんから、本が今で言うところの歌詞カードで、その本の売れ行きが歌のヒットの度合いという事にまりますから、テレビやラジオというメディアのない事を考えると、そうそう全国的なヒット曲などどいう物が生まれるわけではありません。

しかし、「まだまだ、いける!」と踏んだ虎吉さん・・・。

今度は、1組を20人という倍の人数の楽隊を編成し、汽車の車両を貸し切っての生演奏大会を開催しながら、東海道本線~山陽本線・・・果ては九州まで、しかも各駅ごとにビラをまいての宣伝活動。

その派手なパフォーマンスがまたまた話題を呼んで、さらに売れて行きます。

結局、明治の終わり頃には、その発行部数が1千万部を突破します。

さらに、時代を超えて昭和の頃まで、そのヒットは続くわけですから、「およげ!たいやき君」も「女のみち」もまっ青です。

つくづく「CMって大事なんだなぁ」っと感じさせられますね~。

Kisyapopocc 今日のイラストは、
『鉄道唱歌』には、ふさわしくないかも知れませんが、パステルでメルヘンな汽車を書いてみました~。
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2007年5月 9日 (水)

義仲・快進撃の幕開け!般若野の合戦

 

寿永二年(1183年)5月9日、北陸に攻め込んで来た平家軍と、木曽義仲軍の先発隊・今井兼平の軍勢が般若野で激突した「般若野の合戦」がありました。

・・・・・・・・・・

平家打倒を目標に旗揚げをして、北陸を制圧した木曽(源)義仲に対して、平維盛を総大将に10万の大軍を率いてやってきた平家は、4月26日の越前(福井県)燧城(ひうちがじょう)をかわきりに、5月3日に加賀(石川県)を落とし、いよいよ越中(富山県)を目の前にしました(5月3日参照>>)

そのニュースを越後(新潟県)で聞いた義仲は、平家軍をこれより先に進ませてはならないとばかりに、木曽・四天王のひとり今井兼平5千の兵をつけて先発隊として派遣します。

一方の平家・・・北陸には不慣れな彼らは、先の越前・加賀の合戦で平家方に寝返った越前・平泉寺の長吏(ちょうり)斎明の案内に頼り、さらに進みます。

しかし、さすがに長年住み慣れた土地、斎明の采配はスルドイ。

彼の意見は・・・
「越中と越後の境に寒原という難所がある。今、越後にいる義仲がここを越えて越中に入ってしまえば後々面倒な事になるので、先に寒原に兵を派遣し、越中を押さえてしまおう
という物です。

先ほども言いましたように、地の利の無い維盛は、その進言を受け入れ、早速、越中前司盛峻5千の兵をつけて越中へと向かわせます。

Kurikarakurehacc_1 しかし、砺波を越え、小矢部川までやって来た盛峻が見た物は、前方の呉羽山にはためく源氏の白旗だったのです。

そう、先発隊の今井兼平は、越後から親不知・神通川を疾風のごとく駆け抜け、すでに越前・加賀の合戦を戦ったの軍勢と合流し、敵が狙いを定めるであろう場所に陣を敷いていたのです。

やむなく盛峻は、呉羽山のふもと・般若野に陣を敷きます。

やがて、寿永二年(1183年)5月9日の午前6時・・・兼平の軍が怒涛のごとく呉羽山を下り般若野へ押し寄せた事によって「般若野の合戦」の火蓋が切られます。

全軍一斉ではなく、お互いが2~300騎ずつを入れ替わり立ち代り・・・寄せたり返したり・・・といった状況の乱戦は午後2時頃まで続きました。

しかし、一進一退の戦況だったものの夕方頃には、平家方は2千余りの負傷者を出し、小矢部河原まで撤退を余儀なくされてしまいます。

結局、残る3千騎足らずの兵は再び砺波山を越えて、加賀の本隊へと逃げ帰る事となり、兼平は見事!越中の死守に成功しました。

般若野での敗退を知った維盛は、次の合戦には、今回の全軍を以って対応する事を決定し、10万の大軍を二手に分けて進軍を始めます。

総大将・平維盛自身が率いる本隊・7万の兵は、加賀と越中の国境・砺波山を目指します。

そして、平通盛率いる搦め手の3万の軍は、北側を迂回して能登に入り、やはり加賀と越中の国境にある白雄山を目指します。

この時の平家の赤旗・赤じるしは、緑の山々を真っ赤に染め、まるで紅葉のようになったと言います。たしかに・・・10万ですからね~。

一方、その頃の義仲は越後からの帰り道、途中途中で兵を集めながら越中に入り、何とか5万ほどの兵を確保しました。

そして、平家の大軍が二手に別れ、その本隊が砺波山に向かっている事を知った義仲・・・砺波山を越えて砺波平野に入られると、広い場所での合戦となり、兵の数が少ない義仲方は完全に不利になります。

平家に砺波山を降りさせてはならず!・・・と、まずは、砺波山の越中側の降り口である日宮林(ひのみやばやし)に先発隊の陣を敷き、これ見よがしに源氏の白旗を掲げます。

やがて、砺波山山頂に到着する平家軍・本隊・・・彼らはふもとになびく源氏の白幡を目の当たりにします。

このまま、すぐに砺波平野に向かって下るのはとても無理です。
「さて・・・どうするか」
あたりは、もうすっかり夜の闇に閉ざされていました。

時は、寿永二年5月11日、いよいよ木曽義仲最大の見せ場「倶利伽羅峠の合戦」の火蓋が切って落とされようとしています。

・・・が、そのお話は、やはり合戦のあった5月11日のページでどうぞ>>>

Yosinakatomoekurikaracc 今日のイラストは、
「砺波山に登った平家がふもとを見下ろせば・・・」って感じですかね。
人物は当然、木曽義仲巴御前

義仲さまの表情は「もう、倶利伽羅峠の作戦は充分に考え抜いた・・・さぁ!来い!」っていう顔にしました。

もちろん、実際には山の上から見て、表情なんてわかりませんが・・・。

巴御前の冠も、本当は最後の合戦の時だけかぶったようですが、美しいのでかぶってもらいました。
  

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2007年5月 8日 (火)

大坂夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説

 

慶長二十年(1615年)5月8日、大坂城が炎に包まれ落城豊臣秀頼淀殿母子が自刃・・・ここに豊臣家は滅亡し、冬と夏の二度に渡った「大坂の陣」は終結しました。

・・・・・・・・・・

昨日の正午から始まった大坂夏の陣の大坂城・総攻撃(2007年5月7日参照>>)

その前日には、真田幸村隊&毛利勝永(2015年5月7日参照>>)
松平忠直隊を突破し、徳川家康本陣になだれ込んで「あわや」という場面があった事を書かせていただきましたが、反対側の松平隊から見れば、こちらも真田隊を突破して「大坂城へなだれ込んだ」という事になります。

幸村が目の前の松平隊より家康本陣を目指したように、松平隊も大坂城へ突入する事を重視したのでしょう。

松平隊は京橋口から二の丸へ入り、本丸への一番乗りの功名を挙げています(9月8日参照>>)

徳川方が大坂夏の陣で討ち取った首は1万3千余りと言われていますが、その内4千近くがこの松平隊の功績で、その中には上記のページで書かせていただいたように真田幸村(信繁)も含まれています。

前日、家康じいちゃんに「ふがいない!」と叱られた忠直君・・・名誉回復になったようです。

豊臣方は最後の要として、本丸の守りを固めていましたが、結局そこも破られ、豊臣秀頼とその母・淀君は、天守閣の北側に位置する山里曲輪(やまざとくるわ・山里丸)の隅矢倉という備品倉庫に逃げ込みます。

最後の矢倉にまで従ったのは、わずか27人だったと言いますが、秀頼の妻・千姫がおじいちゃんの家康に「秀頼と淀君の助命」を願い出る約束をして大坂城を脱出(2月6日参照>>)していますから、そこに一縷の望みを託していたのかも知れません。

Natunozinyamazatokuruwacc しかし、助命嘆願が聞き入れられないまま、正午頃には井伊直孝の軍勢が矢倉に鉄砲を撃ち込み、この矢倉自体が炎に包まれ、中にいた秀頼と淀君は自刃するのです(秀頼自刃の場所については山里曲輪以外にも説があります…異説については6月27日のページ参照>>

天下を取った秀吉の夢も、難攻不落の大坂城も、わずか二代で跡形もなく消え去る事になりました。

戦い終わって、当然、徳川方は秀頼の死体を捜すわけですが、これが、どうもはっきりしません。

なんせ、最期の矢倉が炎上してますから、死体はどれも黒こげで男女の判別すらできない状態です。

結局、父・秀吉から受け継いだ「吉光(よしみつ)の太刀のそばにあった遺体を秀頼のものと判断する事になりました。

同じような事が、昨日討ち取られた真田幸村にも起こっていました。

その首を見た幸村の叔父は「似ているが本人かどうかわからない」と言っていたのです。

結局、この首も、身につけていた兜が決め手となって、幸村であるとの判断が下されるわけですが・・・やはり、どちらも確実とは言い難いもの・・・

・・・で、予想通り、ここに登場するのが、秀頼・幸村生存伝説です。

このブログにも、いくつかの「英雄生存伝説」を書いてきました。
   ・源為朝の琉球王伝説>>
   ・安徳天皇・生存説>>
   ・源義経のジンギスカン伝説>>
   ・朝比奈三郎義秀>>
   ・西郷隆盛・生存説>>
そして、明智光秀=天海説>>

どれもこれも、滅び行く者への同情、「ここで死なせたくない!」願う人々の思いが、そのような伝説を作りあげていくのだと思います。

秀頼に関しては、落城わずか1ヶ月にして、その噂は幕府にまで届くようになります。

さらに1ヶ月後の7月の終わり頃には、「重臣5~6名とともに、薩摩にいるとの具体的な報告まで寄せられるようになります。

さらに、巷では・・・
♪花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田がつれて 退きものいたり加護(かご・鹿児)島へ♪
という歌まで流行しはじめます。

・・・と、この辺までは、他の生存伝説と同様に、何となく庶民の願望が込められた生存伝説なのですが、ここから徐々に他の生存伝説とは、少し違った物に変っていくのです。

やがて、薩摩には、その後の秀頼に関する噂がひろまるのですが(秀頼の墓とされるお墓もあります)、その噂によると薩摩での秀頼は「酒に溺れ、飲んだくれては暴力を振るうとんでもない男で、誰も彼を相手にする者はいなかった」というのです。

これは、臭いますね~。
明らかに、最初の生存伝説と、薩摩での生存伝説は別物になってます~

おそらく、最初の伝説はいつのほどからか庶民から湧き上がった自然発生的な伝説で、摩での伝説は、最初の伝説を利用した徳川幕府が流した噂ではないか?と私は睨んでます。

最初はやはり、豊臣家への思い・・・特に大阪は、太閤下水(HP【太閤下水と豊臣の石垣】参照)などの公共工事にも見られるように、きっちりと整備されたすばらしい城下町であったために「太閤さん」への思いはひとしおだったはずです。

そんな思いをぬぐい去るために徳川幕府は、京都や大阪の豊国神社(秀吉を神と祀る神社)をぶっ潰し東照宮(家康を神と祀る神社)を各地に建て(4月10日参照>>)徳川の人気回復に必死になっています。

そんな中に登場する秀頼生存説・・・幕府の誰が考えたかは知りませんが、人間の心理を突いたうまい作戦を考えついたものです。

徳川の世に不満を持って、「豊臣の世ならもっと良い時代になっていたかも・・・」なんて夢を描く人々にとって、一番、豊臣を諦めさせるには、「秀頼が死んで豊臣が滅亡した」とするよりも、「秀頼は生きているけど、役に立たないどうしようもない人間だ」とするほうが、よっぽど効き目があります

この秀頼生存伝説が、他の生存伝説と趣が異なるのは、倒された者が倒した者にとっていかに脅威であったか?の一語に尽きると思います。

もちろん、それは、家康VS秀頼・・・というよりは、徳川VS豊臣という構図の物なのですが、とにかく、徳川にとって、秀頼が華々しく散るよりも、つまらない男として生き長らえてくれたほうが、楽だったという事ではないでしょうか?

最近では、天草四郎は秀頼の息子で、「島原の乱」は豊臣の最後の反乱・・・というおもしろい仮説(2月28日参照>>)まで登場しています。

う~ん、でも、大阪城大好き茶々としては、燃え盛る大坂城から、抜け穴を通って脱出していてほしいなぁ~(◎´∀`)ノ。
 

この時、炎の大坂城から脱出した
・秀頼の妻:千姫のお話2月6日のページへ>>
・秀頼の娘:天秀尼のお話08年5月8日のページへ>>
・秀頼の息子:国松と求厭のお話11年10月17日へ>>
・淀の侍女・お菊:お菊物語10年5月7日のページへ>>
 

「大坂の陣」関連のイロイロについては、左サイドバーの『大坂の陣の年表』>>のリンクからまとめてどうぞ!
 .

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2007年5月 7日 (月)

大坂夏の陣・大坂城総攻撃!

 

慶長二十年((1615年)5月7日、世に言う大坂夏の陣で、大坂城・総攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・・

前日の
道明寺誉田の戦い>>
河内若江の合戦>>
八尾の戦い>>
と、そうれぞれの侵入口にて野戦を展開した豊臣方・・・その後、徳川方は、大軍で大坂城を包囲します。

戦いは籠城戦となりました。

この時点で徳川方は15万、豊臣方は5万5千の軍勢だったと言われています。

Oosakanatunozinfuzinzucc_1 ↑画像をクリックしていただけば、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

徳川家康本隊は天王寺口から、秀忠隊は岡山口から総攻撃をかける事を決め、天王寺口では本多忠朝、岡山口では前田利常がそれぞれ先鋒を努めます。

対する豊臣方は、天王寺口を真田幸村(信繁)毛利勝永大野治長が守りを固め、岡山口には大野治長の弟・大野治房が配置に着きます。

戦闘が開始されたのは正午頃

まずは、徳川方の天王寺口先鋒・本多忠朝隊と豊臣方の天王寺口の先鋒・毛利勝永隊とが火蓋を切ります(2015年5月7日参照>>)

それが合図かであったように、岡山口でも戦闘が開始されます。

真田幸村の率いる3千の兵に対抗したのは、松平忠直隊・1万3千。

実はこの松平忠直、前日の八尾の合戦」(冒頭のリンク参照>>)の際、藤堂高虎隊・井伊直孝隊の激戦を目の当たりにして、ビビッてしまい一歩も動けなかった事で、おじいちゃんの家康にエライ怒られてしまい、今日は心機一転、汚名返上とばかりに、はりきって前のほうに布陣していたのですが・・・それにしては、相手が真田隊とは・・・運が良かったのか悪かったのか・・・。

なぜなら、この日の真田幸村は捨て身の勝負を賭けていたんです。
それは、徳川家康の首を取る事

これだけ不利な条件で戦う以上、何かがないと状況をくつがえす事は不可能です。
幸村は、総大将の家康の首さえ取れば戦局は変るのでは?と睨んでいたのです。

この時点での多くの大名たちは、勝算がある家康に味方しているだけ・・・状況がくつがえされたなら、その時点で、寝返る者もいるやも知れません。

とにかく前へ前へ進んで、家康の本隊へ・・・。

そんな真田隊は、あれよあれよという間に、みごと松平隊を突破!
その後ろにいた家康本陣へと突入します。

「こちらは15万の大軍・・・まさか、自分自身が直接敵とぶつかる事はないだろう」と高見の見物のつもりで布陣していた家康は大慌て・・・

家康の周辺にいたお歴々たちも、みんな家康を守る事なんかそっちのけで自分自身が逃げるのに精一杯です。

この時の状況は、徳川方の武将たちもこぞって「敵ながらあっぱれ!」真田幸村を絶賛しています。

そりゃもう、彼らが国許へ送った手紙や日記などが「幸村=英雄伝説」を作ったとも言えるくらいの絶賛です。

島津家久「真田日本一の兵、古の物語にも無いほどの勇士」と言い、細川忠興「真田・後藤、古今にこれなき・・・」と、昨日の「道明寺の合戦」で散った後藤とともに絶賛。

また、この時、頑張って家康を守った大久保彦左衛門忠教(ただたか)「三方ヶ原依頼の負けっぷりの崩れっぷり」と、いかに家康が危険だったかを語っています。

幸村と家康との直接対決は3度あったと言います。
一度は、家康も切腹を覚悟したとか・・・。

しかし、結局、幸村は家康の首を取る事はできませんでした。
しかも、3度の対決で3千の軍勢はほとんどいなくなり、幸村自身もケガをしてしまいます。

Yukimurasaigonohicc さすがの幸村も、昨日からの立て続けの激戦に疲れ果てていたのかも知れません。

人目を避けられる場所で、わずかの者たちとともに、負傷した兵士に薬を与えていた所を、たまたま通りがかった松平忠直の家臣・西尾久作という名もなき一兵士の手にかかって命を落とします。

享年49歳・・・現在、四天王寺の近くにある安居神社に、「真田幸村最期の地」の碑があります。

どころがどっこい、徳川家康の墓と伝えられるお墓も、大阪・堺市は南宗寺の境内にあるんです(7月10日参照>>)

寺の伝説によれば、この前日の時点で、後藤又兵衛の槍でケガをし、この南宗寺に運ばれた家康でしたが、到着した時はすでに亡くなっていたというのです。

しかし、先ほどの幸村の考えでもわかる通り、家康が死んだとなれば、戦況がどのように変るか予想がつきません。

そこで、側近たちが影武者のひとりをホンモノとして天下が治まるまでその死を隠した・・・というのです。

もちろん、これはあくまで仮説ですが、家康死亡説自体は、かなり以前から囁かれていて、よく知られている話です。

ところで、豊臣方の総大将である豊臣秀頼は、どうしてたんでしょうか?
大坂城内で震えてたんでしょうか?

いえいえ、秀頼さんの名誉のためにも・・・彼もちゃんと出陣しています。
甲冑を着けて、槍を持って・・・大坂城の桜門までですが・・・。

秀頼が桜門まで来た時には、すでに味方の総崩れの状態で、その報告を受けて・・・それでも秀頼は、「死を覚悟して撃って出る」と言ったそうですが、重臣たちに止められて、また、御殿まで戻っと言います。

しかし、もうこの頃には城にも火の手が上がっていて、結局この後は、その火の手を避けながら一夜を明かす事となります。

そして、明日、その秀頼にとっても大坂城にとっても、運命の日がやって来るわけですが・・・そのお話は、明日へどうぞ>>
 

★この日大坂城から脱出した淀殿付きの侍女のお菊物語については10年5月7日のページへ>>

本家HPの「歴史散歩」では、幸村最期の地「安居神社」や、真田丸跡と真田の抜け穴のある「真田山公園」などの上町台地を巡っています。
地図もありますので、よろしければコチラからどうぞ>>
 

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2007年5月 6日 (日)

大坂夏の陣・開戦!

 

元和元年(慶長二十年・1615年)5月6日、大坂夏の陣が開戦されました。

・・・・・・・・・・・

慶長十九年(1614年)12月、豊臣方と徳川方の講和が成立し、大坂冬の陣が和睦(12月19日参照>>)という形で一応の終結を見ました。

しかし、その後、徳川家康は約束に反して大坂城の外堀までを埋めたててしまい、豊臣秀吉が築いた難攻不落の大坂城は、文字通りの裸城になってしまいました。

年があらたまって慶長二十年。
家康は豊臣秀頼に、「冬の陣から大坂城内に居る浪人者をすべて排除する」か、「秀頼が大坂城を出て一大名として他国へ国替えする」かの二者択一・究極の選択を迫って来ます。

そんなもん、どっちも選べるわけがありません。
ほとんどの大名が徳川方についた今となっては、お金で雇った浪人者は豊臣方の主力部隊ですから。

一方の国替えも、天下取りの後継者であった自分が、家康の言いなりになるなど・・・

・・・て、ゆーか。
家康は、はなからどっちもOKできない事をわかっていて無理難題をふっかけているわけです。

なんせ家康の目的は、「豊臣ぶっ潰し」ですから、変にOKされて命永らえてもらってはかえって不都合・・・案の定、家康の思惑通り、「豊臣方で新たに浪人者を募集している」「徳川が埋め立てた堀を再び掘り起こしている」などの情報が、家康のもとへ舞い込んできます。

慶長二十年は途中で元和元年と改められ、家康は九男・義直の結婚式を口実に4月4日に駿府を出発(この日を“大坂夏の陣開戦”とする場合もあります)して名古屋に向かい、そのまま戻らずに京都・二条城に入ります。

そして26日には、秀忠と大坂攻めの軍儀を行い、出陣の日を5月3日に決定します。(3日が雨だったため後に5日に延期されます)

一方の豊臣方でも4月13日徳川を迎え撃つための軍儀が開かれています。

この時も真田幸村は、冬の陣の時と同様、出撃の案を提出します。

幸村の意見は、
「以前は難攻不落であったが、今の城の状況では籠城は無理。
しかも相手はこちらの何倍もある20万の大軍。
一刻も早く秀頼に上洛してもらい、伏見城をおさえ、宇治・瀬田に全軍を集結させ、京都の徳川を迎え撃つ・・・そうすれば、味方になって参戦してくる者も出て運が開けるだろう」

という物でした。

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)後藤基次(ごとうもとつぐ)らもこの意見に賛成しましたが、やはり冬の陣と同様に、重臣たちに反対され、結局、またまた基本・籠城作戦をとる事になります。

やがて5月5日、家康・秀忠は出陣するのですが、実はその前の4月29日、和泉南部の樫井(かしい)という場所で、紀州の浅野長晟の軍勢と、大野治房の軍勢がすでにぶつかり合っています(4月29日参照>>)

・・・なので、「大坂夏の陣の開戦の日」は、その4月29日を「開戦の日」とする場合も、そして、家康が出陣した5月5日を「開戦」とする場合もありますが、このページでは、主要メンバーがぶつかり合った「道明寺・誉田(こんだ)の合戦」「八尾・若江の合戦」のあった5月6日を「開戦の日」とさせていただきました。

さて、大坂城内の軍儀では、籠城作戦に決定したものの、最初から籠城だけしていては勝ち目がないと考えた真田幸村毛利勝永後藤基次は、5日の夜に密談をかわし、その日に出陣して、いよいよ大坂に向かって来る徳川軍が、大和路から大坂に入る場合に必ず通るであろう道沿いで、待ち伏せして襲撃する作戦を練ります。

翌6日、彼らは単独で出陣します。
まずは、後藤基次が夕べの手はず通りに、道明寺付近に到着します。

この付近は道幅も狭く、入り組んでいるため、ここで襲撃すれば必ず大混乱になるであろうと予想したのです。

基次は2千800の兵を率いて、道明寺西から藤井寺へと進みますが、まだ真田隊・毛利隊はやって来ません。

実は、この日は大変な濃霧で、真田幸村と毛利勝永は、夜が明けた事に気づかず寝坊し、しかも、出立してからも思うように軍を進める事ができず、かなり遅れてしまっていたのです。

とりあえず、二人を待ちながら、徳川の動きを探るため偵察隊を派遣した基次・・・

帰って来た彼らの話によると、敵はもうすぐ目の前にやって来ているとの事。

もはや、待ってはいられません。

おそらく、真田隊・毛利隊も、すぐ近くに来ているに違いありませんし、単独でも、徳川軍を食い止めなければ・・・と、基次は撃って出る決意をします。

Dscf0957a800 道明寺合戦の激戦地に建つ戦没者供養塔(柏原市立・玉手山公園内)

「道明寺・誉田の合戦」はこうして始まりました。

やがて、ようやく道明寺に到着する真田隊と毛利隊・・・

しかし、彼らが見たのは、基次の壮絶な討死でした(2008年5月6日参照>>)。

しかも、援軍として駆けつけていた薄田兼相(すすきだかねすけ)までもが、すでに討死し(2009年5月6日参照>>)、幸村にあるまじき手際の悪さで、大きな犠牲を払ってしまいました。

しかし、嘆いてはいられません。
続いてやって来る徳川軍を、迎え撃たなければ・・・

すると、やって来たのはあの伊達政宗の軍です。
幸村は正面からぶつかる事を避け、「槍ぶすま作戦」を決行します。

「槍ぶすま作戦」とは、槍を持った兵を進路上に隠れさせておいて、敵が近づいて来たところを、一斉に槍をそろえて突き出す・・・という作戦。

この作戦は成功し、伊達隊には多くの犠牲者が出て、逃げ出す者が続出しました。

一方、この日、八尾・若江のあたりでも激戦が行われていました。

「八尾・若江の合戦」を繰り広げていたのは、木村重成が率いる4千700の兵と、長宗我部盛親の率いる5千の兵でした。

実は彼らは幸村らと同じく、大和路から大坂へ入って来る家康の主力部隊を、やはり道明寺付近で襲撃すべく出陣したのですが、途中、木村隊が若江付近で井伊直孝の部隊に、長宗我部隊が八尾で藤堂高虎の部隊に遭遇し、その場で戦闘がはじまった物でした。

この戦いでは、木村重成が討死(2011年5月6日参照>>)
長宗我部盛親は討死こそしなかったものの、やはり戦いに敗れて敗走します(2010年5月6日参照>>)

「八尾・若江の合戦」の戦況を聞いた大坂城の大野治長は、その時、未だ伊達隊と奮戦中の幸村にも、大坂城に戻るように支持を出し、結局、真田隊の退却で、この日の戦闘は幕を閉じたのです。

家康は、先の冬の陣でかなりの痛手を被り、思いのほか長引いた事をかなり気にしていたようで、前回の反省を踏まえて「今回は3日でケリをつける」と言っていたと言います。

短期の城攻めに賭けた家康・・・
決死の覚悟で守る豊臣方・・・
明日5月7日は、いよいよ大坂城総攻撃が開始されます。
(続きをどうぞ>>)
 

「大坂の陣」関連のイロイロについては、左サイドバーの『大坂の陣の年表』>>からまとめてどうぞ!
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2007年5月 5日 (土)

額田王を巡る三角関係2

 

天智七年(668年)5月5日、琵琶湖の東岸・蒲生野で、盛大な狩りが催されました。

ここで、額田王と大海人皇子のあの名場面が展開されます。

・・・・・・・・・

朝鮮半島情勢が悪化し、半島への出兵と日本の守りを固めるため、斉明天皇以下、主だった者を乗せた軍船が難波を出航したのは斉明七年(661年)の事でした。

その九州行きの船の中で、斉明天皇の息子・中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)が、弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)元カノ額田王(ぬかたのおおきみ)相手に、三角関係?の歌を詠んだお話は以前書かせていただきました(1月6日参照>>)が、その後、三人の関係はどうなったのでしょうか?

その旅先の九州で斉明天皇が亡くなり(7月24日参照>>)、百済を助けて出兵した白村江の戦い(8月27日参照>>)に敗退した後、中大兄皇子と大海人皇子は兄弟団結して、敗戦の復興や対外政策に当たったに違いありません。

天智六年(667年)に、その対策の一環として都を飛鳥から近江(滋賀県)に遷した(3月19日参照>>)、その近江朝廷の基礎も定まり、ようやく平安な日々が訪れるようになった翌年の正月、中大兄皇子は天智天皇として即位します(1月3日参照>>)

この間の額田王と言えば・・・
♪君待つと 我がひ居れば 我が屋戸の
 簾
(すだれ)動かし 秋の風吹く♪
「恋しいあなたを待っていたら、簾が動いたので“来た~っ”て思ったら風やったわ」

この額田王が詠んだ歌には「近江天皇(天智)を思ひて」という注釈がつけられている事でもわかるように、額田王はもう、すっかり天智天皇のカノ女に納まった感がありました。

この歌と対比するように、もう一つの歌があります。

♪風をだに 恋ふるはともし 風をだに
 来むとし待たば 何か嘆かむ♪

「ぬか喜びさせる風にイラついてるみたいやけど、ウチにはそんな風さえも来ないわよ」

この歌は、額田王の姉・鏡王女(かがみのおおきみ・姉ではないという説もありますが、姉としたほうが昼ドラ的でオモシロイ)が詠んだ歌。

実は、もともと天智天皇の彼女だったのは、鏡王女だったのです。

♪妹(いも)が家も 継ぎて見ましを 大和なる
 大島の嶺
(ね)に 家もあらましを♪
「君の家が、一番高い大島(高安山)のてっぺんにあったら、いつでも見ていられるのにな」

♪秋山の 樹(こ)の下隠り逝く水の
 われこそ益さめ 御思いよりは♪

「落葉の下の隠れて流れていく水のように表に出せへんけど、アンタが思ってる以上に私はアンタの事が好きなんよ」

上の歌が天智天皇の歌で、下の歌が鏡王女の歌・・・こんな感じで二人はラブラブだったんですね。

ところが、ここに来て天智天皇は、弟=大海人皇子との間に十市皇女(とおちのひめみこ)という女の子まで生んじゃってる額田王に夢中・・・

結局、鏡王女は、あの中臣鎌足(なかとみのかまたり)と結婚する事となるのです。

そんな中、天智天皇が即位した天智七年(668年)の5月5日の節句の日に、琵琶湖の東岸の蒲生野(がもうの)の皇室ご料地で、盛大な「狩り」が開催されたのです。

「狩り」と言っても、いわゆるすぐに頭に思い描く武士のような「狩り」ではなく、男性は馬に乗って春新しく生え変わった鹿の角を取ったり、女性は紫草のような薬草を取ったりという風流な物で、言うなれば「野外レクレーション」、今で言えば、お花見か野外バーベキューパーティといった感じでしょうか。

そして、日が徐々に傾きはじめ、イベントもそろそろおひらきになろうかという頃、女同士で草を摘んでいた額田王のそばに、向こうのほうから大きく手を振って駆け寄って来る男性が一人・・・それは、元カレ・大海人皇子ではありませんか。

♪あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
 野守
(のもり)は見ずや 君が袖振る♪
「夕陽に染まる紫野を歩いていると、あなたが手を振ってくる(アカン!って、そんな大胆な事)野原の番人に見られてしまうやんか!」

♪紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
 人妻故に われ恋ひめやも♪

「紫草のように綺麗な君を好きやなかったら、もう、人妻になってんのに、こんなに恋しいと思うわけないやろ」

もちろん、上の歌が額田王の歌で、下の歌がそれに返した大海人皇子の歌ですが、万葉集に残るこの有名な歌・・・イイですね~。

万葉人のおおらかな雰囲気・・・男らしく大胆な大海人皇子の行動に、少女のようにとまどう額田王。

ふたりの状況が見事に映像として浮かびあがってきますね~。

まるで、たまたま彼氏と入ったレストランで、元カレがウエイターをやってたような・・・。
そして、彼氏の死角から、自分たちにだけわかる合図を送ってくる元カレ・・・。

「何やってんのよ!」と、目線でたしなめる彼女ですが、本気で怒っているわけではありません。

そうです。
二人のこのやりとりを見られてはいけないのは、野原の番人なんかじゃありません。
天智天皇・・・その人です。

天皇の目を盗んだ忍ぶ恋にしては、とてもさわやかな感じがするのは、二人が若い頃いい恋をして、いい別れかたををしたからでしょうか?

・・・と、ここまでは、私が理想とするドラマのような解釈の仕方をしてみましたが、実際のこの二人の歌の解釈については、よりをもどした三角関係の歌・・・というよりは、狩りの後行われた宴会の席で披露された余興なのだろうというのが、現在の一般的な見方になっています。

たしかに、この頃、天智天皇も大海人皇子も額田王も皆40歳前後・・・当時の平均寿命から見れば、けっこうなお年寄りです。

真剣に恋だの愛だのを語るようなお年頃ではない気もします。

まして、そんな「オバさん」に対して「紫のにほへる妹」などと、10代の乙女のような表現は、冗談まじりのイヤミでしか言えないのではないかとも思います。

ただ、私の個人的で大胆な仮説を許していただけるならば・・・

以前は兄弟で力を合わせて政治を行っていた天智天皇と大海人皇子でしたが、この頃になってどうやら天智天皇は成長した自分の息子・大友皇子に皇位を譲りたいと思うようになり、大海人皇子を政治の表舞台から締め出した感があります。

実際、大海人皇子はその手腕を思うように発揮できずにウップンたまりまくりで、別の宴会の席でも、泥酔して槍を振り回して大暴れする・・・といった事があったようです。

その胸につかえた「思いのたけ」を、宴会の席で吐き出させてあげようと額田王は大海人皇子に歌をプレゼントしたのでは?とも思うのです。

彼女の歌に答える形で歌った大海人皇子・・・この人妻とは額田王の事ではなく、この国の事・・・自分の手から離れてしまったこの国です。

たしかに、この時、額田王は天智天皇のカノ女ですが、額田王の生涯を通しての行動を見てみると、着かず離れず大海人皇子をサポートしている気がするのです。

皇位継承をめぐって有間皇子が謀反の罪を着せられ死刑になった時(11月10日参照>>)「あなたも将来の天皇候補なんだから気をつけて」とも解釈できるような歌を大海人皇子に送っています。

そして、やがて起こる大友皇子と大海人皇子の後継者争い壬申の乱(6月25日参照>>)の時も、大友皇子と結婚した十市皇女が、「吉野にいる父親に琵琶湖の名産を献上する」と称して、鮎の腹を裂いてその中に近江側の動きを記した密書を入れて送った・・・とされていますが、ここには当然、娘・十市皇女と一緒にいた額田王が関与しているはずです。

額田王が、大海人皇子から天智天皇に気持ちを伝えさせるために、この日の宴会で、この「あかねさす・・・」の歌を詠んだのだとするのは、ちょっと飛躍しすぎですが、ドラマにするならオモシロイと思うんですが・・・。

Akanesasu2cc 今日のイラストは、
やはり『あかねさす・・・』の名場面で・・・

恋多き額田王は、持統天皇の時代に宮廷歌人の座を柿本人麻呂に譲った後、60歳くらいで天武天皇の息子・弓削皇子と歌を交わします・・・たぶん恋ではありませんが・・・
 .

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2007年5月 4日 (金)

風林火山・孫子の兵法6兵勢篇

 

今日は、『風林火山・孫子の兵法』の6回目、『兵勢篇』を紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

『兵勢篇』では、まず、戦いは個人ではなく、集団で力を発揮させる事の重要性を説いています。

兵の人数が多くなれば、それだけ戦力が増すわけですが、たとえ大軍団になっても、それが小部隊のように統制がとれていなければ、力は発揮できないと、孫子は言います。

そして、集団で力を発揮させるために必要な四つの条件を出してくれています。
それは・・・
  一、分数
  一、形名
  一、奇正
  一、虚実

この四つのうち、「分数」「形名」は軍の組織に関する事で、「奇正」「虚実」戦略に関する事です。

まずは、「分数」「形名」について・・・

「分数」とは分母と分子が・・・ではなく、軍の組織・編成の事。
そして、「形名」とは軍の指揮系統の事。
この二つは、それこそ、分母と分子のように、お互いが影響し合うような関係なのです。

大部隊が集団で力を発揮するためには、軍令(指揮命令系統)が確立されている事が重要です。
将軍の合図一つで一進一退、一糸乱れぬ行動をとってもらわなければなりません。

その軍令が確立されるためには、軍律(軍内の法律)が整っていて、手柄に対してはちゃんと賞賛し、規律を乱したら処罰するといったような、公正な賞罰が行われている事が必要です。

要するに、軍律が整っていれば、軍の組織・編成が確立され、軍の組織・編成が確立されれば、軍令も確立されるという事です。
軍律と軍令の確立の重要性は、この章意外でも、今までの章に何度も登場しています。

次に、「奇正」とは、古代中国の軍事用語で、「正」は常識的な事を指し、「奇」はその反対・・・つまり、特殊な物や変った物を意味します。
約2千年前の『孫臏(そんびん)兵法』という兵法書には、「“形”で“形”を制するのが“正”、“無形”で“形”を制するのが“奇”」という説明がされています。
例の「陰と陽」、「静と動」ってヤツですね。

孫子では、
『およそ戦いは、正を以って合し、奇を以って勝つ』
「対峙する時は正攻法で、勝つ時は奇襲で」
と語られます。

さらに続けて・・・
『・・・五色は五に過ぎざるも、五色の変は、勝げて観(み)るべかざる・・・戦勢は奇正に過ぎざるも、奇正の変は、勝げて窮むべかざる・・・』
「色の原則は、赤・青・黄・白・黒の五色だが、その組み合わせで無限に色が作れるように、戦いの原則は奇と正の二つであるがその組み合わせによる変化は無限である。」
「奇」と「正」の組み合わせによって、縦横無尽に変化する攻撃は、誰も予測する事ができません。

そして、この『兵勢篇』では、「奇正」の使い分けとともに「勢いに乗る」事の重要性も説いています。

『善く戦う者は、その勢いは険にして、その節は短なり』
「良い戦い方とは、勢いに乗じて一瞬で力を発揮する」
せき止められていた水が開放された時、怒涛のごとく流れて行く・・・あるいは、キリキリといっぱいまで引き絞った弓が、一気に放たれる・・・というような例を挙げて説明してくれています。

そして、もちろんこの「勢いに乗る」というのは、組織全体で・・・全軍の力を一つにまとまて、勢いに乗らなければなりません。
『善く戦う者は、これを勢に求めて、人に責めず』
「兵士一人一人の行動に期待するのではなく、勢いに乗る事を重視する」
う~ん・・・言ってる事はよくわかりますが、なかなか勢いに乗るのは難しい・・・しかも、組織全員で・・・。

・・・で、やはり難しいと、書いてるご本人も思ったのか、ちょっとだけヒントをくれています。
『これに形すれば、敵必ずこれに従い、これに予(あた)うれば、敵必ずこれを取る』
「こうすれば敵は必ず動き、それをちらつかせば、必ず食いついて来る」
このような相手が食いつきような餌をばら撒いておいて・・・

『利を以ってこれを動かし、卒を以ってこれを待つ』
「敵をこちらの思うように動かしておいて、主力部隊を繰り出して一気に波に乗る機会を待つ」
なるほど・・・そうすれば波に乗れるわけですね。

もちろん、その前に事前準備として、以前の『謀攻篇』で登場した『彼を知り己をを知れば・・・』の情報収集能力を発揮して、どんな餌に食いついて来るのかを見極めておかなければならないのですが・・・。

結局この章のまとめとしては、
『・・・乱は治に生じ、怯(きょう)は勇に生じ、弱は彊(きょう)に生ず。
治乱は数なり。勇怯は勢なり。彊弱は形なり。』

(戦争の中では・・・)平静はすぐに混乱に変り、勇気はすぐに怯えに変り、強者はすぐに弱者に変る。
混乱するかしないかは軍の統制力で決まり、怯えるが怯えないかは軍の勢いで決まり、弱者になるかならないかは軍の態勢で決まる」

混乱を避けるために「分数」と「形名」を確立し、勢いに乗るために「奇正」を繰り出し、弱者にならないために事前の準備をしっかりする・・・という事ですな。
う~ん、言うはやすし行うは・・・ですね。
やはり、理解はできますが、実行は難しい・・・。

・・・で、最後に「虚実」についてですが、「虚実」は今日ご紹介した『兵勢篇』の次に『虚実篇』というのがあって、そちらの章でくわしく説明されています。
(虚実篇へはコチラから↓
『風林火山・孫子の兵法Ⅶ虚実篇』>>

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
 

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2007年5月 3日 (木)

倶利伽羅峠の前哨戦!越前・加賀の合戦

 

寿永二年(1183年)5月3日、北陸一帯で繰り広げられていた、倶利伽羅峠の合戦の前哨戦とも言うべき越前・加賀の合戦で、平家軍が加賀を制圧しました。

・・・・・・・・・・・

その3年前・・・治承四年(1180年)は、まさに激動の年でした。

それまで「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた平家に対して、4月には以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)平家追討の令旨(りょうじ=天皇家の人の命令)を発し(4月9日参照>>)、その後、失敗はしたものの源頼政とともに挙兵しました(5月26日参照>>)

そして、8月に源頼朝(8月17日参照>>)、9月に木曽義仲(9月7日参照>>)相次いで打倒平家の旗揚げをします。

頼朝は、石橋山(8月23日参照>>)を経て富士川(10月20日参照>>)へと太平洋側から徐々に西へと迫りはじめます。

その翌年に、大黒柱の平清盛を亡くした(2月4日参照>>)平家は、徐々にその権勢に陰りが見え始めてきますが、一方で、横田河原(6月14日参照>>)を経て北陸・日本海側から西へと進軍しかけていた義仲と、かの頼朝との間に源氏の長をめぐっての不穏な空気が流れはじめました

しかし、この寿永二年(1183年)が明けてまもなく、頼朝の長女・大姫と義仲の長男・義高の結婚(7月14日参照>>)によって、源氏同士の争いを回避した両者には、いよいよ打倒平家の気運が高まってきます。

特に、結婚とは名ばかりで、人質同然に息子を鎌倉側に渡した義仲にとっては、頼朝より先に平家を討ち、上洛する事こそ源氏の棟梁へと結びつく道でした。

そのため都では、「義仲が東山・北陸道を押さえ五万の兵を率いて今にも攻めて来る」との噂が囁かれるようになります。

・・・で、平家は、各地に救援を要請した後、寿永二年(1183年)4月17日朝8時、清盛の孫・平惟盛を総大将に10万の大軍が北陸道をめざして京の都を出発します。

ここに来て、頼朝や義仲がいる東国や北陸から馳せ参じる者は、ほとんどいなかったものの、九州・四国や山陽・山陰・近畿といった各地には、まだまだ平家の呼びかけに答えてくれる者が沢山いたおかげでこれだけの大軍を編成できたのです。

しかし、近畿地方は前年からはげしい飢饉でもあり、そんな大軍の兵糧を準備する事ができず、軍は近隣の村々から略奪を繰り返しながら、琵琶湖の西側と東側に分かれて北に進むという、周辺の人々にとっては大迷惑な挙兵となったのです。

そうやって進んだ平家軍でしたが、26日にはいよいよ越前(福井)に到達します。

越前はすでに木曽義仲の支配下にあり、今庄には燧城(ひうちがじょう)義仲陣営の最前線として建てられていましたが、この時は義仲自身は越後(新潟)にいました。

留守をあずかるのは、信濃の仁科守弘、加賀の林光明倉光成疋田俊平富樫仏誓そして、越前平泉寺の長吏(ちょうり)斎明ら、合わせて5千騎余り

平家の10万に対してはあまりにもわずかな数・・・そこで、彼らも考えます。

燧城は、四方を山に囲まれ城郭の前には能美川新道川が流れる天然の要害・・・もともと、難攻不落と言われたこの山城に、鉄壁のバリケードを仕掛けます。

城壁に沿って走る二本の川の合流地点に、柵を立て水をせき止めて、人工の湖を造ったのです。

作戦はみごと成功!さすがの平家の大軍も容易に進撃する事ができません。

湖を前に、なす術のない10万の大軍・・・ところが、この10万という大軍を目の当たりにして、その数の多さにビビッた男が一人・・・。

それは、越前平泉寺の長吏斎明・・・斎明は、「これだけ歴然とした数の差では勝ち目がない」と考え、人工の湖を落として突破口を作る方法を記した密書を矢に結びつけて、平家の陣に射送ったのです。

やがて、両軍は睨みあったまま夜を迎えます。

平家はその夜のうちに、わずかの人数で密かに仕掛けの場所へ行き、柵を切り崩し湖の水を落としたかと思うと、そのまま朝を待つ事なく大軍で燧城に攻めかかります。

大軍に湖を越えられてしまえば、さすがにこの少人数では太刀打ちできません。

義仲軍は退却を余儀なくされ、今度は同じ越前の河上城で籠城作戦をとりますが、やはりここでも圧倒的な数に押され、やむなく加賀に後退しました。

越前は落とされたものの、何とか加賀は死守しようと、林光明を中心に加賀・三条野に陣を立て、押し寄せる平家軍を迎え撃ちます。

しかし、平家軍には、ちゃっかりと寝返ったあの斎明が先頭に立ち、案内役を買って出ています。

数は多いわ、元・身内に手の内バラされるわでは、到底勝ち目はありません。

5月2日には、篠原・安宅に設けていた防御線も破られ、ついに、林光明・富樫仏誓の居城も落とされてしまいます。

こうして、加賀の地に平家の赤旗がひるがえったのは、寿永二年(1183年)5月3日の事でした。

大軍に押され、終始、逃げ惑うしかなかった義仲軍でしたが、その時、直江津にいた当の義仲がこの話を聞いて黙っているわけがありません。

すぐに、木曽・四天王のひとり、今井兼平6千の兵をつけて先発隊として出陣させ、もちろん自分自身も出陣の準備をします。

平家が勝利の美酒に酔いしれていた頃、兼平は親不知の海岸をひた走り、神通川を越え、やがて、先の合戦で富山まで撤退していた最前線の義仲軍と合流するのです。

いよいよ義仲軍の巻き返しの始まりですが、さぁ、どうする?兼平くん・・・

義仲の本隊が到着するまで、何としてでも富山を死守しなければ・・・と、この続きは、次の合戦のあった日、5月9日義仲・快進撃の幕開け!般若野の合戦でどうぞ>>

Heikeakaityoucc 今日のイラストは、
平家の赤旗と家紋にちなんで『赤い蝶』を散りばめてみました~

アゲハ系じゃない蝶もいますが、絵的にキレイかと思いまして・・・
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2007年5月 2日 (水)

幕府を揺るがす和田合戦

 

建保元年(1213年)5月2日、鎌倉幕府始まって以来の激烈な市街戦和田合戦が勃発しました。

・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を開いたご存知・源頼朝が亡くなったのは建久十年(1198年)1月(12月27日参照>>)・・・

まだ、幕府の完成形立を見ないままの死でした。

大黒柱であった頼朝の死によって、ともに平家を倒し幕府を開いた御家人たちのバランスが徐々に崩れ始めて行くのです(4月12日参照>>)

突出したリーダーを失った中で、お互いの利害関係が複雑に入り組んでいきます。

頼朝の奥さん・政子の実家の北条氏・・・
頼朝の息子で二代将軍・頼家の奥さんの実家の比企一族・・・

頼朝と苦楽をともにして来た有力な重臣たちは、皆、なんだかんだで幕府の実権を握りたい。

そんな「幕府実権握りレース」の最初の脱落者はあの梶原景時・・・頼朝の死後、わずか1年めにして、仲間内からの「チクリ攻撃」によって失脚(1月20日参照>>)したのを皮切りに、比企能員(ひきよしかず)(9月2日参照>>)畠山重忠(6月22日参照>>)と、ここに来て策略に長けた補佐役として実力をつけていた政子の父・北条時政と政子の弟・義時によって、次々と葬り去られます。

やがて、父=時政に変わって第2代執権となった義時ですが(1月6日参照>>)執権が時政から息子・義時に変っても、自分たち=北条氏以外の有力御家人を制圧したい気持ちは変わらず・・・

で、次にターゲットにされたのが、頼朝が伊豆で打倒平家の旗揚げをした時から、その右腕として活躍した武闘派の重臣・和田義盛を長とする和田一族です。

将軍・実朝が、その義盛を気に入ってる事も快く思っていなかった義時は、何とか和田氏を失脚させる方法はないか?と思っていた矢先、またとない絶好のチャンスがやってきます。

前将軍・頼家の遺児・千寿を担ぎあげて、北条氏を倒そうと企んだ信濃の住人・泉親衡の謀反が発覚し、次々とその反乱に関与していた者の名前がバレていく中に、義盛の息子・四郎義直五郎義重そして、甥の胤長の名前があったのです。

このニュースを聞いて、あわてて将軍・実朝のもとへ行き、これまでの自分の功績を上げながら、何とか息子たちを許してくれるよう平謝りする義盛・・・

義盛の誠意が通じて二人の息子は罪を許される事になりますが、この事件を絶好のチャンスと見ている義時は、「甥の胤長が謀反の首謀者だ」として譲りません。

義時は、義盛が一族90人とともに幕府へ出むき、「何とか免罪を・・・」と南庭に座り込んでいる中を、これ見よがしに縛り上げた胤長を引きずり出し、そのまま陸奥の国に流罪にしてしまいます・・・と、これは、義盛に恥をかかせて武闘派で策略ベタの彼を怒らせようとする義時の作戦か?

まんまと義時の挑発に乗ってしまった義盛は、自ら幕府に反旗をひるがえす決意をし、同族の三浦義村に相談します。

義村は即座に同意。

三浦氏の援助の約束をとりつけて、ついに義盛は建保元年(1213年)5月2日午後4時、兵を動かすのです。

大将の義盛以下、長男・新左衛門常盛とその子・新兵衛尉朝盛入道実阿・・・続いて、義盛の三男・朝比奈三郎義秀(9月2日参照>>)、四男・四郎左衛門尉義直、五男・五郎兵衛尉義重、六男・六郎兵衛義信、七男・七郎秀盛の、7人の息子たち。

そして、土屋大学助義清大庭次郎景兼などの同士など、総勢150騎・300人余りが集結しました。

ところが、その中には義盛が一番頼りにしていたはずのあの三浦義村の姿はありません。

実は、義村は直前になって幕府側に寝返り、義盛の挙兵の事もすでに、義時にバラしてしまっていたのです。

義村の裏切りで、命拾いした義時は、早速、近くにいる御家人たちを集めて出陣要請・・・遠くにいる者には加勢の手紙を書き、自分自身も戦闘の準備をします。

そうとは知らない義盛は、いくら待っても三浦軍が現れないため、しかたなく、三手に分かれ、一隊は幕府に、残り二隊は義時の邸宅に向かわせます。

この時の邸宅は、かの義時が戦闘準備で幕府に出向いていますから、留守の邸宅内にはたった50人の武士しかおらず、邸宅のほうはあっさり全滅しますが、幕府の南側では、予想通り激烈な戦闘がはじまります。

なんせ、和田軍はリーダーが武闘派ですから、その息子たちも仲間も、いずれ劣らぬ一騎当千の武者たちです。

中でも、三男・朝比奈三郎義秀は、2枚重ねの大鎧に星甲をかぶり、九尺の鉄棒をうち振るい、鬼神のごとき大活躍。

名のある武将を次々と討ち取り、幕府の四方を取り囲んで火を放ち、午後6時頃には、あわやという状況にまで攻め寄せました。

しかし、時間が経つにつれ、幕府側には次々と遠方からの御家人が到着し、討ち取っても討ち取ってもまた新手が登場してきます。

日付が変って5月3日の明け方になるとさすがの和田軍の精鋭たちにも疲労の色が見えはじめ、その様子を見た義盛は、一旦休養をとるべく、少し海側へ退却します。

そこを、すかさず橋を落とし、道を封鎖し、幕府の周囲の守りを固める幕府軍・・・これを受けて和田軍が崩れはじめたところに、また新手が登場。

起死回生を狙って、もう一度攻め込もうとする義盛でしたが、行く道、行く道には義時の息子・泰時をはじめとする幕府軍がすでに陣取り、そこから先の市街地へは一歩も入れまいという強固な構えで、どうしても突破できません。

そして、午後6時頃になって、和田軍の名だたる武将が次々と討たれ、敗色の色が濃くなる中、とうとう、息子・四郎義直の討死の知らせを聞いた義盛・・・「もはや、命生きても甲斐なし!」と叫びながら敵陣に突っ込んで67歳の生涯を閉じます。

やがて、武勇優れた息子たちも、次々と父の後を追うように討死して行き、和田合戦=和田義盛の乱は、集結しました

和田氏の滅亡によって、これから先の北条氏は、ますます執権政治の基礎を固めて行く事になります。

一方、義盛を裏切った三浦義村は「友を喰らう三浦犬」と陰で罵られる事になりますが、考えようによっちゃぁ、先を見る目があった・・・とも言えます。

武勇を誇るだけが武士ではありません。
戦略、策略に長けるのも、武士の誇り・・・これが世渡り上手という物なのかも知れません。

ところで、この和田合戦で一つの伝説が生まれます。

討死した義盛の息子たちの中で、三男・朝比奈三郎義家だけは生き残り「時節を見計らって、必ず本懐を遂げてみせる」と、残党とともに数隻の船に分乗し、安房の国に落ちていった・・・というのです。

英雄の証し、生存説がある義家は、和田一族の中でも最も人気のある武将・・・「母親があの木曽義仲の愛妾の女武者・巴御前である」という伝説まで存在しますが、ここで書くと、さらに長くなりそうなので、また別の機会にさせていただきます。

Asahinayosihidecc 今日の、イラストは、
やはり、一番人気の『朝比奈三郎』で・・・

んん・・たぶん本当はもっと豪傑・・・って感じで書かないと『鬼神』には見えないですわね~。

義秀くんの『星甲』・・・ちょっとわからなかったので、イラストでは源頼光の星甲というのを参考に書かせていただきました~
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2007年5月 1日 (火)

江戸の媚薬・イモリの黒焼き

 

今日5月1日は、『源氏物語』の中で、ある女性から光源氏に「扇」をプレゼントした事から、「こ(5)(1)の語呂合わせで、『扇の日』という記念日なのだそうです。

何か、「風が吹いたら桶屋が儲かる」みたいな発想・・・て感じが、なきにしもあらずですが、まぁ、記念日作っても誰が損をするわけでもないですし、それはそれで結構な事です。

・・・で、せっかくなら、こちらも「風が吹いたら桶屋が儲かる」的な発想をさせていただく事にして、「恋」のお話・・・から、江戸時代に流行した「恋ぐすり」のお話をやらかしてみたいと思います。

・・・・・・・・・

江戸は文化・文政の時代(1804年~1829年)・・・この頃は、『東海道中膝栗毛』『南総里見八犬伝』など文学の発達からも読み取れるように、特筆するような大乱もなく、人々はおおむね平和な生活を送っていました。

明日の生き死にの心配がなくなると、いつの時代も人間の興味は同じ・・・おしゃれと恋愛にうつつをぬかすようになるんですね~。

女性がおしゃれや恋愛に興味を持つのは、だいたい想像できますが、江戸時代のオトコノコも今と変らずやっぱり、おしゃれや恋愛に興味を持っていたっていうのは、少し意外な感じがもしますが、すでにこの頃には、男性向けのファッション誌も登場し、ヘアスタイルや着物・帯まで、今時のモテ男ファッションを紹介しています。

当時、「艶書(えんしょ)と呼ばれたラブレターのマニュアル本などには、恋文の書き方はもちろん、人知れず渡す方法や、周りに人がいて読みづらい時の裏ワザ・・・さらに、ご親切にも、うまくいった時の「夜のテクニック集」のおまけつきで、もう、いたれりつくせりって感じです~。

そして、いよいよ登場するのが「恋ぐすり」・・・媚薬というヤツですな。

何と言っても、江戸・両国にある「四つ目屋」という薬屋の「長命丸」が大流行!

とは言え、当時は「長命丸は日が暮れて買う」というフレーズが流行ったと言いますから、さすがに、真昼間から堂々と購入する物ではなかったようで、もちろん、店側も、そこんところはちゃんと解っていて、店先を暗くしたり、店員と顔を合わさず買えるよう工夫されていたと言いますから、なんか、店の前ではなく、横っちょに隠れるように置いてある「アレ」の自動販売機のようで、笑っちゃいます。

・・・で、その用法は・・・
「事を行わんとする2時間前、口中にふくみてよく噛みくだき、唾にてときて、よく塗るべし・・・」
つまり塗り薬ですね・・・塗る場所はご想像におまかせしますが・・・。

2時間前って・・・
なんか、タイミング計るの難しそうだな・・・(^-^;。
そもそも、君ら男子は、2時間で女の子をそのシチュエーションに誘いこめるかどうかの自信はあるのか?

とは言え、さすがにその効能は・・・
「鼻息で、その効能書きをふき飛ばし・・・」
「もがくこと神(しん)のごとし・・・」なのだそうです。
なんか、スゴそうです・・・。

しかも、この長命丸・・・
『江戸買物案内』なる文献には、
「諸国御文通にて御注文の節は箱入封付きにいたし差し上げ申すべく候。飛脚便りにても早速御届け申上ぐべく候」とあり、

なんと!全国ネットの通販まで・・・さすがに金利・手数料は負担してくれないだろうけど、ジャ●ネットも真っ青の、まさに飛脚便!!!

・・・と、これは、媚薬と言っても「刺激剤」のような薬ですが、もう一つ大流行した物に「イモリの黒焼きというのがありました。

こちらは、正真正銘の「恋ぐすり」・・・いわゆる「惚れ薬」という物です。

これは、飲んだり塗ったりする薬ではなくて、粉にして相手にふりかけるのだそうです。

すると、「自分の事を好きになってくれる」というので、どちらかと言えば、フェロモン満載の香水?って事になりますかしら。

にわかには信じがたい話ですが、長年培われた生活の知恵というのは、意外と現代科学にあてはまる物も数多くあり、あなどれないのも確かです。

その製法は、
「雄と雌のつがいのイモリを、青竹を切った物の両方から入れる・・・すると竹の節に邪魔されてつがいの恋人同士は会えません。
・・・で、そのまま竹ごと黒焼きにする」

というのです。

「恋しいのに会えない」というイモリの思いが効果となって現れる・・・というのですが、もちろん、自分で作るわけではありません。

これもちゃんと粉にした物が、漢方薬として薬屋さんに売ってるんです。

はたして、効果があるのかないのか・・・今の「ラッキーカラー」とか「ラッキーアイテム」とかっていうのと変らない気がするんですけどね。

気の持ちようってヤツですかね。

最後に一つ・・・当時流行の川柳を・・・
♪惚れにくい 顔が来て買う 惚れ薬♪

ハハハ・・・まるで、「サラリーマン川柳」のようです。
いつの時代も変らないなぁ~。

Ainokataticc 今日のイラストは、
ハートをあしらって『いろいろな愛のカタチ』を表現してみました~。
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