« 長篠の合戦!武田氏の真の敵は? | トップページ | 軍師のお仕事・出陣の儀式 »

2007年5月22日 (火)

鎌倉幕府の滅亡

 

元弘三年(1333年)5月22日、事実上の最後の執権・北条高時が自刃し、鎌倉幕府が滅亡しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

源頼朝の直系が3代で途絶えた後も、執権という形で北条政子(頼朝の奥さん)の実家・北条氏が実権を握り、鎌倉幕府という名の日本初の武家政権は続いていきました。

当然おもしろくないのは、朝廷です。

武士はあくまで、天皇や公家を護衛するガードマンであったはずなのに、いつの間にかその武士たちに指図される側に廻ってしまったのですから・・・。

そんなわけで、歴代天皇たちは、たびたびチャンスを見つけてはふたたび実権を握ろうとします。

しかし、鎌倉幕府が誕生して間もない承久三年(1221年)に後鳥羽上皇が起こした『承久の乱』(5月14日参照>>)では、まったくもって歯が立たず、逆に幕府が朝廷よりも実力がある事を世間に知らしめる結果となってしまいます。

この承久の乱をきっかけに、幕府は京都に『六波羅探題』という、「天皇家の不穏な空気チェック隊」を組織し、不穏な空気が「乱」という形になる前に「芽を摘み取る」という体制を整え、それ以降はしばらく大きな乱はなく、この間に平和な時代の常として、『平家物語』『小倉百人一首』のような文学や、『浄土真宗』『法華宗』といった仏教思想が発展し、幕府自身も『御成敗式目』など法の整備も充実する事になります。

しかし、そんな均衡を破ったのが、第8代執権・北条時宗の時代・・・文永十一年(1274年)と弘安四年(1281年)、2度に渡ってに遠く海の向こうからやって来たフビライ
   【文永の役:10月19日参照>>】
   【弘安の役:6月6日参照>>】
『元寇』と呼ばれるこの「蒙古襲来」は、「日本が占領される」という最悪のシナリオは防いだものの、その戦闘と復興に多大な費用がかかった事、命を賭けて幕府のために働いた武士たちに何の恩賞もなかった事などから、その不満がしだいに幕府への不満と化していくのです。

そんな中、正和五年(1316年)に第14代執権・北条高時が就任、文保二年(1318年)に第96代・後醍醐天皇が即位し、歴史は動き始めます。

後醍醐天皇は『正中の変(1324年)(9月19日参照>>)『元弘の変(1331年)(9月28日参照>>)2度に渡って幕府打倒を企てますが、あえなく失敗して隠岐へ流罪の身となります(3月7日参照>>)

しかし、後醍醐天皇はこの2度目の元弘の変で、運命の出会いをする事になります。
それが楠木正成です。

彼は、「悪党」と呼ばれる主君を持たない武士集団・・・言わば世間の「はみ出し者」

本来なら、天皇がかかわるような人物ではありませんでしたが、幕府を相手に武力を持たない天皇にとってこんな強い味方はありません。

正成にとっても、今まで歩いて来た日陰の道から、一気に陽の当たる場所に躍り出る絶好のチャンスです。

幕府転覆には失敗したとは言え、後醍醐天皇の2度の反乱は、徐々に幕府に陰りが見え始めた事を、世間一般に知らしめる事には成功し、幕府の土台を揺るがすには充分でした。

「機は熟した」と見て取った一年後、後醍醐天皇は隠岐を脱出します。

そんな時、またまた天皇に強い味方が登場します。

天皇の不穏な空気を鎮圧すべく鎌倉幕府から京都へ派遣された足利高氏(尊氏)です。

もちろん、この派遣された時点では、高氏は幕府側の人間・・・しかし、武勇優れる高氏は、何か天皇側に不穏な空気があるたびに、すぐに今回のようにかり出され、「あっちを押さえろ、こっちを見張れ」という高時の指図にもう、うんざり気味。

しかも、彼は清和源氏の流れを汲む源氏の坊ちゃん、あの八幡太郎義家の直系です。

北条氏がこれだけ実権を握っても、将軍にはなれず執権なのは、北条氏が平氏の血筋だから・・・豊臣秀吉が天下を取っても将軍にはなれず関白なのは、やはり源氏ではないから・・・徳川家康なんかは、将軍になるために系図をイジって過去を変えて、ちゃっかり源氏の子孫になっています。

そんな源氏の御曹司のプライドが、今の状況を許すわけがありません。

京都に着いた高氏は天皇へは攻撃せず、味方であるはずの「六波羅探題」を攻撃(4月16日参照>>)・・・高氏は後醍醐天皇に味方する決意をしたのです。

京都に行った高氏が、天皇の味方に着いた事を知った関東の武士たちの中で、幕府に不満のある者たちが、高氏の子・千寿王のもとに集まり始めます。

そして、ここに、もう一人・・・。
そんな武士たちの先頭に立って、まとめ役となった新田義貞が登場します(5月11日参照>>)

新田氏も源氏の流れを汲む名門・・・しかし、北条氏のもと、何とかある程度の地位を確保していた足利氏と違って、新田氏はかなり冷酷に扱われ押さえつけられて来ました。

義貞の中の積年の思いが、怒涛のごとくあふれ出します

しかし、そんな思いは義貞だけではありません。
彼が軍を進めて行く間に、志を同じくする武士たちが、雪だるま式に増えていきます。

そして、破竹の勢いで幕府軍を撃ち破り、いよいよ義貞は本拠地・鎌倉に迫ります。

その時にあの伝説が生まれるのです。

稲村ヶ崎から進軍しようとする軍勢の前に、大きな海が立ちはだかります。

その時、おもむろに稲村ヶ崎の岩の上に立つ義貞・・(5月21日参照>>)

岩の上から海に刀を投げ込み、一心に祈ったところ、突然、潮が引き、目の前に砂浜が現れ、新田軍はその砂浜を渡って鎌倉に入るのです。

もちろん、これは義貞の演出・・・干潮時の時間帯を事前に知っていれば、誰だってできる事・・・しかし、当時は、これによってその場にいた兵士たちの士気が上がった事は間違いないでしょう。

怒涛のごとく鎌倉に押し寄せる新田軍の兵士たち・・・激戦の末、6千人の死者が鎌倉の町を埋め尽くしたと言われます。

ついに執権・北条高時は、一族の者を引き連れて、北条氏代々のお墓のある東勝寺にて自刃します。

彼に殉じて運命をともにした幕府関係者は283人にのぼったとか・・・元弘三年(1333年)5月22日ここに鎌倉幕府は滅亡しました2012年5月22日でさらにくわしく>>)

それにしても、判官びいきの私は、こういう「○○滅亡」といった話を書くときは、どうしても滅び行く者への味方をして書いてしまう物なのですが、今日はちょっといつもと気分が違います。

別に北条氏が嫌いなわけではありません。
盛者必衰、諸行無常・・・栄華を誇った人たちが滅びるのは、いつも涙なしでは語れません。

ただ、よくこんなにうまい事、役者が揃うモンだ・・・とでも言いましょうか。
時代が人を呼ぶのか?人が時代を変えるのか?

古の時代に八方に飛び散った精霊が、見えない糸で引き合うかのように・・・「水滸伝」か、はたまた「里見八犬伝」かといったドラマチックさを感じてしまうのです。

ただ、ホンモノの歴史は読み物のようにハッピーエンドの場面で「ハイ!終了」とはいきません。
時代はどんどん流れて行きますから・・・。

結局は揃った役者同士の間で、深い溝ができてしまう事になるのですが・・・。

Kenmutamacc 今日のイラストは、
もし、今日のお話の立役者の皆さんが『八犬伝』のように「玉」を持っていたら何の文字の「玉」を持ってたんだろう?と空想にふけってみました~。

もちろん、皆さんも御意見は多々あろうかとは思いますが、とりあえず私の独断と偏見で・・・。

やっぱ、楠木さんの「忠」は譲れないところでしょう。
後醍醐天皇さんは、単純ですが「帝」で・・・。
尊氏さんも、その後の事を考えると「将」というところで・・・。
悩んだのは新田さん・・・その戦いぶりと恋への落っぷりを見ると、一途と言うか、世渡りベタと言うか・・・それは良く言えば純粋なのかな?と思って「純」という文字にしました。

それぞれに、もっとピッタリの文字があったら教えていただきたいです~。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログ内での人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 


|

« 長篠の合戦!武田氏の真の敵は? | トップページ | 軍師のお仕事・出陣の儀式 »

鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

楽しく拝見させていただきました。
さて新田氏と足利氏は八幡太郎義家の流れをくむ源氏名門である。両氏の初代たる新田義重と足利義康は、共通の父を有する異母兄弟にあたる。その両系統は領地が隣りあっていて、互いに相容れない関係となってしまった。それは、源氏の本流である源頼朝の系統が3代で滅んでしまったために、系図をさかのぼると、源義家の系統(源氏の本家)は新田氏と足利氏とになるわけです。互いにこっちが本家だと主張し、どちらにも言い分があるから決着の着く話ではなかった。そこに、武家の棟梁が必要となる事態になったのである。鎌倉幕府が滅んだあとの戦は、新田氏と足利氏の戦いといっても過言ではありません。太平記の中盤はほとんどこの両家の争いが書かれていますから。
でも結果は足利氏の勝利となったわけです。ただ新田氏はそのまま消えたわけではなく、ずっと日本史の裏側に見え隠れしているのです。
といった内容のことを私のブログで書いております。よろしかったらのぞいてみてください。ブログ名は「物語を物語る」です。

投稿: 消えた二十二巻 | 2007年5月31日 (木) 00時27分

消えた二十二巻さま・・・コメントありがとうございます。

おっしゃる通り、足利も新田の源氏の流れ・・・たしか、新田のご先祖の義重さんのほうがお兄さんで足利の義康さんが弟だったと思いますが、やはり歴史は勝者が造る物・・・足利が源氏の棟梁のような印象を受けてしまいますね~。

また、そちらのサイトで歴史の謎解きを楽しませていただきます~。

投稿: 茶々 | 2007年5月31日 (木) 12時50分

源氏将軍の滅亡した後、公家や皇族将軍でしのいで鎌倉幕府が存続されましたね。でも武家である北条家が将軍職を横取りしなかった理由は何ですか?「平氏の流れ」だからでしょうか?あえて執権職を世襲にした方が政務を仕切りやすいからですか?

大河ドラマ「北条時宗」は「現時点で(武家政権における)最高権力者が主人公としては最後の作品」と言われますが、これは厳密には正しくありません。「名誉職同然」でも(武家ではない)将軍がいるので。そういえば将軍が主人公の作品が意外と少ないですね。

投稿: えびすこ | 2010年5月 9日 (日) 09時15分

えびすこさん、こんにちは~

はてさて、どうなんでしょうね。
やはり、御家人は頼朝の臣下であって、北条の臣下ではないからでしょうかね?

そのワリには、けっこう好き放題にやってた印象がありますが・・・

投稿: 茶々 | 2010年5月 9日 (日) 13時06分

茶々さんおっは~!(2回目すみません)
今日は鎌倉幕府が滅んでしまった日なんですね…。悲しいです…。

ま、後醍醐天皇かなり好きですがww自分で「後醍醐天皇」と名前を決めたのも、いいですよね!平安時代の醍醐天皇のように、すばらしい政治をしよう!と。なんとゆうか、ずうずうしさ、あきらめの悪さがたまらないですww

そして、足利直義もかなり好きですwwそう、あえの弟くんで。尊氏は優柔不断すぎる…仲良し兄弟だったのに、部下、高師直に言われても殺すかい!って感じです。観応の擾乱…最悪ですよね!直冬~って感じ。
てか、直義は頭のいい頼朝さんタイプの、頭脳派なんて、かっこいいです!あの頼朝さんの自画像といわれる絵も直義疑惑もありますし、うん、かっこいいですよね!

また長々と…すみませんでした。

投稿: 暗離音渡 | 2010年5月22日 (土) 10時17分

暗離音渡さん、こんばんは~

箱根・竹ノ下のあたりは、尊氏・直義兄弟の息もピッタシって感じなんですけどね。

やはり、両雄は並び立たないって感じなのでしょうかね。

投稿: 茶々 | 2010年5月22日 (土) 17時55分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/6506854

この記事へのトラックバック一覧です: 鎌倉幕府の滅亡:

« 長篠の合戦!武田氏の真の敵は? | トップページ | 軍師のお仕事・出陣の儀式 »