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2007年6月30日 (土)

大江戸・旅マニュアル

 

寛永十二年(1635年)6月30日、江戸幕府の三代将軍徳川家光は、先代・秀忠の時代に定められた『武家諸法度』を改定し、新たに参勤交代の制度を定めました。

・・・て、事で昨年は、参勤交代について書かせていただきましたので(昨年のページを見る>>>)、今回は、当時の庶民の旅について書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

お風呂や、漬物桶・漬物石、はたまた茶道具まで持って旅した参勤交代と違って、庶民の旅は、かなり身軽な物・・・時代劇を見ても、ほとんど荷物は持っていません。

・・・と、気になるのは、皆が持ってる、あの『振り分け荷物』の中身ですよね。

いったい、江戸時代の人って、どんな物を持って旅をしていたんでしょうか?

振り分け荷物というのは、「竹が柳で編んだ四角い籠のような物に手ぬぐいを結びつけ、もう一方の端は風呂敷包みになっている」という形が一番一般的でした。

もっと、大ぶりの物もありましたが、東海道など、ちゃんと街道として整備されている所では、大抵の物が手に入ったので、時代劇で良く見るくらいの大きさで充分だったそうです。

中には、メモ帳筆記用具、それに扇子手ぬぐいといった身だしなみグッズ。
迷ったら困るので、日時計磁石

夜になったら必要な、ちょうちんろうそく火打石

当時のマニュアル本には、便利グッズとして「麻縄3本」と書かれています。

どうやら、木と木の間に渡して、洗濯物を乾かしたりなんぞしたようです。
木と木の間隔がまちまちなので、3本・・・という事ですね。

さらに、江戸時代だからこそ必要な物は、・・・。

当時はすべての宿屋に布団がセットになっているわけではなく、場所によっては無い所もあったようで、布団はなくてもゴロンとできますが、あのヘアスタイルですから、枕がなくては困りますよね。

旅行用の枕には、中にそろばんや鏡などが入って小物入れのように使える物や、コンパクト重視の折りたたみ式など、アイデア満載の物がたくさんありました。

しかし、旅人が最もこだわったのは、財布です。
なんせ、旅には危険が伴いますから・・・。

賊に遭ったとしても、先ほども書いたように、大抵の物は街道筋の店屋で手に入りますから、命とお金さえ残っていれば、何とかなります。

旅のマニュアル本では、最低3つの財布を用意するように、注意を呼びかけます。

一つは所持金の多くを入れておく大きな財布・・・これは、腹巻の奥にしまい込んだり、長い帯のようになっている物は腹巻を巻く時に一緒に巻き込んだりしました。
一番重要な財布です。

小銭入れは、しょっちゅう出し入れするので、紐のついた小さい財布を首からかけ、財布そのものは、フトコロの奥にしまい込みます。

そして、もう一つは、腰にぶら下げるタイプ
たいていは、巾着袋のような物でしたが、帯に着けられるようになった『早道』なる専用グッズもあったとか・・・

あと、外見は刀に見えるけれど、柄を持って抜くと、刃の部分がなく、そのあいた隙間にお金を入れる・・・なんていうアイデア商品も・・・
これなら泥棒も、「そんな商品がある」とわかっていても、財布なのか本物の刀なのかで、チョット手が出しにくいですね~
うまい事考えたもんです。

ここまで財布にこだわるのは、旅の途中もさることながら、宿屋での泥棒がメチャメチャ多かったんです。

それまでは、大きな農家が部屋を貸す・・・つまり民宿だったのが、参勤交代の制度が確立し、街道が整備されるようになって、旅人専門のいわゆる宿屋=旅篭が急激に増え始めましたが、現在のように、グループごとの個室ではなく、ほとんどが、幾人ずつかの相部屋にザコ寝状態です。

基本は素泊まりで、必要ならば食糧を持ち込んで、宿屋の台所を借りて自分で作るといった状況。

江戸中期頃になって、やっとお酒や食事を出す所が出てきますが、それでも部屋の数は、1軒に2~3部屋程度・・・7~8部屋もある宿屋なんてもう、最高級のお宿です。

そんな高級宿でさえ、混んでくると、「相部屋お願いしま~す」と言って、次の客を通される・・・

知らない者同士、みんな一緒が当たり前・・・なので、まわりには泥棒かも知れない人がウヨウヨいるので、大事な物は身につけとかないと、とんでもない事になってしまうわけです。

Hirakatakagiyayadocc 写真は、京都⇔大阪間を結ぶ京街道・枚方宿の船宿・『鍵屋』です。

創業は天正年間(1573年~92年)で、現在は資料館として、江戸の船宿の面影を今に残しています。

鍵屋は、『三十石船唄』

♪ここはどこじゃと船頭衆が問えば ここは、枚方鍵屋浦
 鍵屋浦には碇
(いかり)はいらぬ 三味や太鼓で船止める♪

と、唄われているくらい有名な宿屋です。

それでも、やはり部屋は東に六畳の客間が3部屋、台所を挟んで西に四畳半が4部屋と板の間が一つの合計で8部屋。

当時としてはかなり高級なお宿だっだんでしょうね。

ドラマの黄門さま御一行が泊まってるような、広~い縁側、長~い廊下にズラリと部屋が並んでいる・・・なんて事は、まず無かったんですね~。

そんなザコ寝状態でも、旅行費用の大半がお宿代(今のお金で3千円くらだったらしい)に消えて行くわけですから大変です。

♪お江戸~日本橋~七つ立ち~♪
って、歌がありますが、この「七つ」というのは、午前4時頃。

まだ薄暗い夜明け前の朝・4時に出立するのが常識となったのも、チョットでも距離を稼いで、目的地に着くまでに、一泊でも宿屋に泊まる回数を減らしたいという気持ちからなんです。

ドラマの黄門さまは、よく連泊してるっぽい感じですが、実際には、そんな人はほとんどいなかったでしょうね。

あ・・・でも、黄門さまは急ぐ旅ではないし、お金もたんまり持ってそうなので、心配はいらないですね。
仲間内に(元)泥棒もいるみたいだし・・・。
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2007年6月29日 (金)

平安のトレンド・イケメン僧侶に貝合わせ

 

歴史を紐解いて行くと、「いつの世も、今と変わらないなぁ~」と思う事がしばしば・・・。

先日の【江戸の媚薬・イモリの黒焼き】(5月1日参照>>)では、江戸時代に「モテたい男のファッション誌」や、「恋のテクニック集」などがあった事を書かせていただきましたが、今日も、そんな感じの豆知識・・・というよりムダ知識のお話ですが、どうぞお付き合いくださいませ。

今日は、平安時代の女性の流行物(ハヤリモノ)のお話・・・。

・‥…━━━☆

その頃の女性は、今のように気軽に出歩くという事が、なかなか出来ませんでしたし、女性にとって、外出を伴うレジャーという物がほとんどない時代でした。

しかし、そんな事ではめげません。
いつの時代も、楽しい事は自分たちで作り出していく女のパワーがございます。

当時、女性たちが自由に外出できるのは、仏教行事

その頃の仏事は、今のお葬式のような厳粛な物ではなくて、ある意味人の集まるパーティのような物。

女性は、ここぞとばかりにオシャレして、ウキウキと出かけます。

そして、何と言っても一番の目的は、イケメン坊さんのお経と講話。

なんでも『枕草子』によると、講義する坊さんは、なくべくイケメンで声が美しくないと、講式に人が集まらないのだとか・・・。

「あの人の講話が聞きたい!」
「あの人の声でお経を聞きたい!」

と、人気のある坊さんのいるお寺に女性が、わんさか集まるのだそうです。

下世話な話ですが、仏像を奉納してもらったり、お布施をもらったり・・・という事がある以上、お寺も客商売。

人気がなく、法要をやっても閑古鳥が鳴いていては、寄付金も集まりません。

・・・と、なると、お寺も弟子をとるのに、オーディションを開催したりなんかして、そりゃもう、アイドル僧侶への道は、かなりの難関だったとか・・・。

*あの法然の弟子・安楽は相当なイケメンでモテモテだったらしい・・・(2月18日参照>>)

見事オーディションを勝ち抜いたお坊さんも、そこンところは心得たもので、その美声で唄うようにお経を読み、ファンを魅了したのです。

そうなると、つのるのは恋心・・・。
「せめて、夢の中でもカレに会いたいわぁ~」
と、女性の間で流行したのが、夜寝る時に「着物を裏返しにして寝る」という方法。

こうすると、夢に愛しい人が出てくるのだとか・・・

あのモテモテの小野小町(3月18日参照>>)でさえ
♪いとせめて 恋しきときは ぬばたまの
 夜の衣を 返してぞ着る♪

と、歌に詠むほどの大流行。

しかし、夢は良い夢ばかりではありません。
時には、そんな愛しい人と別れたり・・・

いや、それくらいなら、まだしも、もっと恐ろしい悪夢を見る事もあります。

当時は、今と違って、夢を「未来のお告げ」のように受け止めていた事もあって、最悪な夢を見たときの恐怖はとてつもない物でした。

そんな時は夢とき女のもとに行きて、夢あはせて・・・』
「夢とき女」とは夢占い師
「夢あはせ(夢合わせ)とは、夢判断

つまり、占い師に相談して、「夢違(ゆめちがえ)」という、悪夢が正夢にならないマジナイをしてもらうのです。

具体的には、左手に紙で作った人形を持ち、右手に水を(ひしゃくに入れたりなんかして)持ち、東に向いて呪文を唱えます。
「アラチオノカルヤノサキニタツシカモチガヘヲスレバチガフトゾキク」

これは、「矢で狙われた鹿も、足を少し違う場所に移動すれば、逃れられるとの噂だ」という意味です。

この呪文で、悪夢を少し違った物に変えちゃいましょうって事ですね。

最後に・・・平安時代の女性の間で流行した遊び、「貝合わせ」をご紹介します。

貝合わせとは、各人がそれぞれに美しく珍しい貝を持ち寄り、その貝を見せると同時に歌を詠み、中立の立場にある審判が判定を下す・・・という物です。

歌のよしあしもさることながら、差し出した貝がいかに珍しく、いかに美しいかで勝敗が決定する事が多く、そうなると、より珍しい貝を手に入れたくなるのが人情です。

京の都は海から遠いですから、珍しい貝を手に入れるのは至難の業。

合わせの日が近づいて来ると、コネ使いまくりであっちこっちから、買ったり借りたり・・・レアな貝は、ネットで・・・もとい・・・宮廷内で、かなりの高値で取引されたとか・・・。

まさに、カードゲームの世界・・・やっぱり、光ってるヤツは高いのかしら?

あまりの熱狂ぶりに嫌気がさしたのかどうかしりませんが、平安時代の後半は、まったく違ったゲームが「貝合わせ」と呼ばれて流行するようになります。

こちらは、「一対のハマグリを二つに分けた物を360組用意して混ぜ合わせ、その中から一対の物を見つけ出す」というトランプの神経衰弱のようなゲームとなっています。

私が予想するに、最初の貝合わせは、あまりの高額な取引によって、数限りないトラブルが発生したと踏んでます。

ひょっとして「禁止令」が出てたりなんかして・・・。

ちなみに、私の高校時代には、教室内での「おいちょかぶ禁止令」が出ました。

Kaiawasecc_1 今日のイラストは、
平安後半の『貝合わせ』用の貝を・・・
中の絵柄は季節がら「蓮の花」を書いてみました。

同じ2枚のハマグリの内側に、一対になるように、源氏物語の絵や花、鳥、和歌など同じ絵を、極彩色や金箔で描きます。

それを、360組・・・合わせて720枚。
半分を「地貝」と呼び、対になるもう半分を「出貝」と呼びます。

そして、まずは「地貝」を12枚、伏せて輪に並べて、残りはさらに外側に並べていきます。

全部並べたら、ゲームをする人が、その外側に輪になって座り、対になるもう一方の「出貝」を一枚だけ、先ほどの12枚の輪の中心に置き、皆でその「出貝」の片割れを、並べた中から探すのです。

中の絵を見ずに、あくまで貝の外側の特徴を見て探します。

「これだ!」
と思ったら、右手で「地貝」を取り、「出貝」すくいあげ、小指を使ってずらしていきながら合わせます。

この時、左手を使ってはいけません。
どうしても、うまく貝が合わさらない時は、左手を袂の中に入れ、直接貝をさわらないようにするのがルールでした。

ちなみに、360組という数は一年の日数で、最初に並べる12枚は一年の月の数。
旧暦の閏月にゲームを行う時は、13枚並べたそうですよ。
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2007年6月28日 (木)

信長の判断ミス?姉川の合戦

 

元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍が、近江の浅井・朝倉連合軍と戦った合戦・・・『姉川の戦い』がありました。

・・・・・・・・・・・

その年・・・元亀元年(1570年)。
天下統一を狙う織田信長と、将軍とは名ばかりの足利義昭の間に出来始めた溝・・・(1月23日参照>>)

そして、その義昭と親密に連絡をとり、不穏な空気をかもし出す越前(福井県)朝倉義景・・・。

そんな空気を察した信長は、4月にその朝倉を攻めますが、その時、かわいい妹・お市の方を嫁にやって、すっかり味方につけていたつもりの北近江(滋賀県)浅井長政朝倉側に寝返ってしまいます(4月26日参照>>)

越前と近江から挟み撃ちされては、さすがの信長もヤバイ・・・とばかりに、義景の本拠地・一乗谷を目前に、信長はやむなく撤退しました(4月27日参照>>)

その期に乗じて、近江を落とそうと進軍する朝倉の重臣・朝倉景鏡(かげあきら)でしたが、あの信長がそのまま収まるわけがありません。

逆に信長は6月に総攻撃を開始する事を予告する気の強さ・・・その気迫にビビッたのか、景鏡は一旦越前へ戻ります。

その間に信長は、もう一人の敵・浅井の内部分裂を画策し、堀秀村を寝返らせる事に成功し、予告通りの6月、長政の本拠地・小谷城(滋賀県湖北町)への攻撃を開始するのです(6月19日参照>>)

しかし、小谷城が険しい山の上にあり、取り囲むのが困難である上、その頃には、義景の命令を受けた朝倉の重臣・朝倉景健(かげたけ)も応援に駆けつけていましたので、城攻めが難しいと判断した信長は、何とか小谷城内の兵を、おびき出して平地で戦う事を考え、まずは、6月24日、小谷城の南側にある横田城を取り囲みます。

山に囲まれたこの地で、「交通の要所にある横田城を落とされては大変だ」とばかりに長政は、小谷城を出て、姉川の支流・草野川の北岸に陣を敷きました。

もちろん、その横には応援に駆けつけた朝倉軍が・・・。

同じ頃、織田軍には徳川家康が応援に駆けつけます

しかし、浅井・朝倉が陣を敷いた草野川北岸は、横田城を取り囲む織田軍を直接攻撃するにはかなりの距離があり、結局そのままの状態で、27日には横田城は落城寸前まで追い詰められ、もはや後がありません。

長政率いる浅井・朝倉軍は、その日の夜に草野川を超え、織田軍との距離を縮めるべく、姉川の北岸へと移動します。

横田城を取り囲んだ本陣から、暗闇の中に川を渡る浅井・朝倉軍のかがり火を見た信長は、
「敵は我が術中にハマッタ・・・」と、ニヤリしたとかしないとか・・・

横田城の囲みに、丹羽長秀西美濃三人(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)を残し、自らは姉川の南岸へと移動します。

かくして、姉川を挟んで、北と南に対峙する両軍・・・
北西に朝倉、北東に浅井、南西に徳川、南東に織田。

やがて、白々と夜が明けた元亀元年(1570年)6月28日午前6時、まずは、徳川軍が姉川を渡って真向かいにいる朝倉軍に攻めかかり、合戦の火蓋が切られました。

Anegawanokassenfuzinzucc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

最初は、朝倉軍有利に戦闘が展開されます。

押され気味の家康は、全軍を投入し、大将自らも戦いの中に身を投じる間に、榊原康政の軍に迂回して川を渡らせ、朝倉軍の中で比較的手薄な側面を攻撃させます。

これが功を奏し、形勢は一気に逆転!
徳川軍は一気に朝倉軍を攻め立てます。

しかし、その東方で始まっていた浅井軍対織田軍の戦い・・・。

大量の兵で一気に川を越えて来た浅井軍に、織田軍の先鋒はあえなく崩れ、あわてて投入した第2軍も破られ、浅井軍は信長の本陣近くに迫ります。

「もはや、これまでか!」
・・・と、思った時、主君の劣勢を見かねた横田城を包囲していた西美濃三人衆らが3千の兵を率いて加勢に駆けつけ、浅井軍の側面から猛攻撃。

同時に朝倉軍を負かしつつあった徳川軍からも、一隊が浅井軍のもう一方の側面を攻め立てます。

不意を突かれた浅井軍は一気に崩れはじめ、またまた形勢は逆転されました。

戦いは午前10時をピークに9時間に及んだと言いますが、やがて、浅井軍は北へ北へと追い込まれ、ついに敗走するのです。

激烈を極めた戦闘・・・浅井・朝倉連合軍の戦死者は9千6百人・・・『信長公記』では、千百余となっていますので)真偽の程は定かではありませんが、両軍の兵士の血で姉川が真っ赤に染まったと言われています。

昨日の夜、「敵は我が術中にハマッタ」と、ほくそえんだわりには、かろうじて・・・といった感じで勝利を収めた織田・徳川連合軍・・・。

結局、敵を姉川周辺から追いやっただけで、決定的なダメージを与える事はできませんでした。

しかも、この合戦の後、「退却する敵を追撃すべき」という意見が多数出たにも関わらず、なぜか信長は、先の横田城と佐和山城を落としただけで、「それ以上の深追い禁止」の命令を出し、浅井の本拠地・小谷城を温存したまま撤収するのですが・・・

今回のこの撤収という判断・・・ひょっとしたら信長のミス?だったかも・・・。

まぁ、信長さんの事ですから、何か、凡人には計り知れない思惑があったのかも知れませんし、実際に追撃していれば、深追いし過ぎて、もっと悪い結果になっていたかも知れませんので、一概にミスとは言えないのですが・・・

とは言え、結果的に、ここで、浅井・朝倉を根絶させなかったために、同じ年の秋には、両氏が態勢を立て直して京へ攻め上り、森可成(よしなり・蘭丸の父)や、織田信治(信長の弟)といった信長にとって痛手となる人物を失ってしまう(9月20日参照>>)ばかりか、彼らの信長への抵抗は、この後、三年間も続く事になるのです。

・‥…━━━☆

姉川の合戦での逸話
【姉川の七本槍と旗指物のお話】2008年の6月28日で>>
【遠藤喜右衛門・命がけの奇策】2011年の6月28日で>>
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2007年6月27日 (水)

銀閣寺が銀箔じゃないワケは?

 

文明十五年(1483年)6月27日、京都・東山にある銀閣寺が完成しました。

・・・・・・・・・・

今年の1月に「銀閣寺初の科学的調査の結果、銀閣寺には、(はがれてしまったとかではなく)最初から銀箔が貼られていなかった事が確定された」というニュースがありました。

・・・なので、今日は、「なんで銀閣寺なのに銀箔が貼られていないのか?」というお話と、よく比較される金閣寺との違いについて書かせていただきたいと思います。

実は、私も子供の頃、「銀閣寺は、金閣寺のマネをして建てたけれど、途中でお金がなくなって銀箔を貼れなかった」という話を聞いた記憶があるのですが・・・。

しかし、歴史を紐解いて行くと、上記のような科学的調査などする以前に、銀箔が貼られていない事、貼られる予定もなかった事がわかるのです。

まず、金閣寺は室町幕府の第3代将軍・足利義満が別荘として建てた「北山殿」を、義満の死後にお寺に改めたで、正式な名前は「鹿苑寺(ろくおんじ)と言います。

鹿苑寺というお寺の中に建っている舎利殿(お釈迦様の骨を祀った建物)が、あの金箔が貼られた「金閣」という建物です。

その金閣が、あまりに有名なために通称「金閣寺」と呼ばれているのです。

・・・なので、正式名称は「鹿苑寺・金閣

これ、一時は入試のヒッカケ問題の定番として出題された事で、今ではかなり有名になりました。

対して銀閣寺は、同じく室町幕府の第8代将軍・足利義政が、やはり別荘・隠居所として建てた「東山山荘」を、義政の死後にお寺に改めた物で、こちらの名前は「慈照寺(じしょうじ)と言います。

そして、この慈照寺の中の観音菩薩を祀る建物が有名な「銀閣」・・・と言いたい所ですが、実はこれも違うのです。

先ほどの入試問題の回答でも、そして書籍などでも、「鹿苑寺・金閣」に対して「慈照寺・銀閣」正式・・・などと紹介されたりもしていますが、実は、慈照寺の御殿の名称は「観音殿」と言います。

・・・なので、日頃「銀閣寺」として紹介されるあの有名な建物の正式名称は、「慈照寺・観音殿」という事になります。

つまり、「銀閣」という名前ですらないわけですから、銀箔が貼られるどころか、その予定もなかった事が、名前を見れば一目瞭然なのです。

二つの建物が、
同じ室町幕府の足利将軍による別荘・隠居所として建てられた建物である」という事
「室町時代に花開いたかたや北山文化、かたや東山文化を代表する建物である」

・・・という所からどうしても、比較対照してしまう事で、金閣に対して銀閣というニックネームをつけられたという状況・・・本来、この二つの建物はまったく別の建物なのです。

ただし、銀閣寺のパンフレットには、「東山慈照寺」としなからも、ド真ん中にデッカイ文字で「銀閣寺」と書かれていますので、銀閣寺と呼んでも怒られはしないと思います。

なので、ここから先も、ブログ内では、通称の銀閣で呼ばせていただきます。

ちなみに、金閣寺のパンフレットには「金閣寺」とは書かれていません。

もちろん、こちらも、怒られる事はないでしょうが、どうせなら「鹿苑寺・金閣」と記憶しといたほうが良いように思います。

もちろん、建物の様式も違います。

金閣は
第一層が寝殿造、
第二層が武家造、
第三層が中国風の禅宗仏殿造
の3階建てで、二層と三層に金箔が貼られています。

銀閣は、
下層が書院造、
上層が唐様仏殿
の2階建てとなっています。

Kinkakuginkakucc

室町幕府が上り調子で、全盛期だった義満の時代に花開いた北山文化(金閣)に比べて、応仁の乱が起こり、将軍の権威にも陰りが見え始めた義政の時代に花開いた東山文化(銀閣)は、深い余韻のある幽玄や趣のある静けさといった物を生み出します。

これらは、地方へ、そして、庶民へと普及し、現在の日本建築、日本庭園の基礎がこの東山文化にあります。

床の間や四畳半、襖、畳などというのも、この東山文化が基礎となっています。

質素な中にこそ美しさを求める「侘びさび」の精神を重んじるのが東山文化・・・なので、その代表格である銀閣寺に、派手な銀箔なんて、そもそも似合うわけないのです。

個人的主観が入っていますが、金閣と銀閣の違いを一言で言わせていただくと「はんなり」対「シブイ」と言った感じでしょうか・・・。

以前、【ことばの日】(5月18日参照>>)に書かせていただきましたが、「はんなり」は、関西弁で「心地よい派手さ」の事。(「ほんのり」と間違えないでね)

それに対する「カッコイイ地味さ」を、関西では「シブイ」と言います。

これはどちらも褒め言葉・・・どちらが「はんなり」でどちらが「シブイ」かは、おわかりでしょう。

・・・と、さっき、まったく別の建物だと言っておきながら、やっぱり対比してしまう・・・この心理こそが、慈照寺・観音殿が、通称・銀閣寺と呼ばれるようになった理由なんでしょうね。
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2007年6月26日 (火)

朝鮮軍来襲!応永の外寇

 

応永二十六年(1419年)6月26日、朝鮮半島の李氏朝鮮が、大軍を率いて対馬に来襲!・・・『応永の外寇』です。

・・・・・・・・・

李氏朝鮮はもともと高麗の大臣であった李成桂が、倭寇の討伐に力を発揮した事で、国内でも勢力を拡大し、やがて高麗そのものを滅ぼして、1392年に建国した国です。

朝鮮半島は13世紀の頃から、ずっと倭寇に悩まされ続けていたのです。

倭寇とは、朝鮮半島や中国大陸の沿岸で猛威を振るった日本の海賊の、朝鮮・中国側からの呼び名です。

Wakoucc 倭寇

彼らはもともと、北九州や瀬戸内に住んでいた海の民・・・古来より海上を往来しての交易をなりわいとしていましたが、南北朝時代の頃からはそのテリトリーが朝鮮半島付近まで拡大していたのです。

しかし、彼らの中には、船団を組み、武装して港や村を襲撃し略奪行為をくりかえすやからも多くいました。

そういった海賊行為をはたらく彼らは、倭寇と呼ばれて恐れられ、高麗の滅亡を早め、明の衰退を招いたとも言われています。

・・・で、彼らの海賊行為にほとほと手を焼いた李朝鮮・・・。
何度も室町幕府に取り締まりを強化するよう要請しますが、なかなか事態は変わりませんでした。

やがて、応永十一年(1404年)、3代将軍・足利義満は、倭寇の取り締まりを強化する事を条件に明との公認の貿易を開始します。

これが、勘合貿易という物で、公認の証しの『勘合符』という、いわゆる「お墨付き」を持った船だけが往来できる・・・という物でしたが、残念ながら、効果はすぐには現れませんでした。

そんなこんなの応永二十六年・・・5月に、「大規模な倭寇が朝鮮半島を襲う」という事件が起こります。

勢いが衰えない倭寇はそのまま、翌月の6月には中国本土の遼東半島を襲います。

しかし、ここで、劉江(りゅうこう)率いる軍隊と激突!
1000人の兵を失うという大打撃を受けて敗退します。

日頃から、室町幕府のらちのあかない取締りにイライラしていた李朝鮮は、倭寇を叩きのめすには、彼らが敗戦した今がチャンスとばかりに、兵船227隻、兵員1万7千人という大軍を率いて、当時、倭寇の本拠地と思われていた対馬に来襲し、攻撃をしかけてきたのです。

これが、応永二十六年(1419年)6月26日『応永の外寇』です。

すわ!元寇の再来か!(10月19日参照>>)
と、幕府内では大騒ぎ。

しかし、もともと倭寇撃退のための進軍であって、日本を侵略するつもりではなかった(かも知れない?)朝鮮軍は、10日余り滞在しただけで、そのまま撤退し、それ以上は何事も起こりませんでした。

この時の痛手と、勘合貿易での規制の厳しさが増した事もあり、一旦倭寇は下火になって行きますが、それは、そこ・・・もともと海賊というあこぎなご職業をなさっている方々が、そのままおとなしくしている・・・なんて事があるはずもなく、日本が戦国時代に入る頃には、再び倭寇が盛んになり始めます。

しかし、今度の倭寇は前の物とは違い、「真倭」と呼ばれる日本の倭寇は少なく、ほとんど中国人自身による中国への略奪行為でした。

やがて、それら後半の倭寇も、豊臣秀吉という強力なリーダーの誕生によって、強固な禁制が行われるに至って、徐々に鎮圧される事になります。

世は戦国・・・交易と海賊が紙一重の時代とは言え、倭寇と聞くと少し耳が痛いです・・・。

今回の『応永の外寇』では、「倭寇撃退」という目的だけで、日本を侵略する事なく、母国へお帰りになったという事で・・・。
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2007年6月25日 (月)

最古の治水工事・茨田堤の物語

 

今日は、大阪に伝わる民話と、物語にまつわる史跡・茨田堤(まんだのつつみ)をご紹介します。

・・・・・・・・・・

仁徳天皇陵や応仁天皇陵といった大きな古墳が、河内に造られるようになる5世紀頃は、河内平野の大開発の時代でもありました。

近畿を中心とする豪族の中で、大和に政権をおいていた王が、徐々に河内に移動するのには、やはり、山に囲まれた盆地である奈良よりも、大きな河内平野での農業生産力の大きさによるところが大だと思われますが、その頃はまだ、大阪平野は半分海のような湿地帯・・・。

いくら広大な土地でも、たびたび洪水被害に悩まされては、その大きな農業生産力にも影響を及ぼします。

日本書紀には、仁徳天皇(1月16日参照>>)の十一年(324年?)の10月に
『北の河(淀川)の澇(こみ・浸水)を防がんとして、茨田堤(まんだのつつみ)を築く』
とあります。

古事記にも、
『秦人を役てて、茨田堤を造りたまい』
と記されています。

秦人とは、先日の交野の七夕伝説(6月23日参照)の時にも登場した大陸からやって来た(はた)の事ですが、この時の秦人は、秦氏だけ・・・という事ではなく、渡来人全般を指す広い意味だと思いますが、この仁徳天皇の時代に、淀川沿いで大規模な堤防築造が行われた事は間違いないでしょう。

これは、記録で見る限り、日本最古の治水工事です。

大陸からやって来た技術者たちによって造られた茨田堤のおかげで、広大な河内平野での農業はいっそう発展したに違いありません。

しかし・・・(ここから昔話です)

・・・・・・・・・・・

それでも淀川はたびたび氾濫を起こし、堤はたびたび決壊します。
特に、ある2ヶ所がいつも決壊して困っていました。

そんなある日、仁徳天皇は夢の中で、
「武蔵人・強頸(こわくび)、河内人・茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)二人を以って、河狛(かわのかみ)に祭らば、必ず塞ぐこと獲てむ」
という神のお告げを聞いたのです。

つまり・・・武蔵の国に住むコワクビいう人物と、河内の国に住むコロモコという人物を人柱(いけにえ)として川に捧げれは、決壊は無くなるというのです。

早速、二人の人物は呼び出されます。

二人のうちコワクビは嘆き悲しみながら、川に身を投じました。

しかし、コロモコはすぐには川へは飛び込まず、持参した瓢箪(ひょうたん)を手に持って天にかざし、こう叫びます。

Koromokocc

「おい!神さん!
俺は、今からこの瓢箪を川に投げる。
おんどれが、ホンマの神さんやねんやったら、この瓢箪を川底に沈めてみせろや!
 

もし、瓢箪が沈まんと、プカプカ浮いて来たら、それはニセモンの神さんやさかい、俺は川には飛び込まん。
ほな、いくぞ~」

と、川に投げ込みます。

当然、瓢箪は川面をプカプカ浮きながら、川下へ流れていきます。

こうして、コロモコは人柱から逃れる事に成功したのです。

・・・・・・・・・・・

もちろん、このお話が事実かどうかは確認できません。

しかし、この茨田堤の築造にも、おそらく沢山の人民が動員されたはず・・・神の権威を振るって、時には無理難題をふっかける王に、ささやかな庶民の抵抗があった事を、この物語は教えてくれます。

権力に屈しない、なにわのド根性は、すでにこの時代から芽生えていたんですね。

どころで、この「茨田」と呼ばれる場所ですが・・・、

大阪市の鶴見区には、今も茨田(まった)という地名や、横堤なんていう地名も残っていますし、風土記には、「河内の国・茨田の枚方に・・・」という記述が見えますので、おそらく、大阪市の旭区あたりから、守口寝屋川枚方のあたりの淀川沿いの広い範囲が「茨田」と呼ばれていたのでしょうね。

ちなみに、先ほどの民話に出てきた2ヶ所のよく決壊する場所は、
『時人、其の両処を号(なず)けて強頸断間(こわくびたえま)衫子断間(ころもこたえま)という』
と、日本書紀にあり、その2ヶ所が強頸断間と、衫子断間と呼ばれていた事がわかります。

その強頸断間は現在の大阪市の旭区千林あたり、衫子断間は寝屋川市太間あたりだったと言われています。

Mandanotutumioosakatizucc 決壊しては、その度に修復され、河内平野に農業の発展をもたらした茨田堤でしたが、やがて、もう少し北側に、豊臣秀吉による「文禄堤」が築造され(8月10日参照>>)、茨田堤はその役目を終えました。

現在は、門真市が守口市と寝屋川市に接するあたり(右の地図のの場所です→)に、茨田堤の名残と称される場所があります。

京阪電車・大和田駅から北東へすぐの所に、茨田堤の築造に携わった茨田宿禰が、堤の守護神として茨田氏の御先祖である彦八井耳命(神武天皇の皇子)祀ったとされる堤根(つつみね)神社があります。

Dscn3744a1000 堤根神社…右奥に大楠

その神社の裏手に、目印とも言える大きな木が2本・・・そこが茨田堤です。

横を走る道とは、明らかに高さが違うその場所は、かつてそこが堤であった事を容易に想像させてくれます。

その場所に立つと、神代の昔の伝説の舞台が、今なおこうしてその姿をとどめている事に・・・
そして、遠い昔の庶民の記憶を、昨日の事のようにいきいきと伝える民話に・・・

時の長さを飛び越えてしまうような錯覚に陥り、少なからず感動を覚えてしまうのです。

Dscn3734a1000
史跡:茨田堤
 .

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2007年6月24日 (日)

加藤清正・疑惑の死

 

慶長十六年(1611年)6月24日、あの加藤清正が疑惑の死を遂げます。

・・・・・・・・・・

加藤清正と言えばあの賤ヶ岳の合戦の七本槍(4月21日参照>>)の一人・・・。

剛勇で知られた武将で、朝鮮出兵の文禄・慶長の役(4月13日参照>>)では、伝説の域は越えないものの虎退治の逸話を残すツワ者・・・その武勇で豊臣秀吉を支えた人物です。

それは、清正が亡くなる3ヶ月前の事・・・。

京都の二条城で、徳川家康豊臣秀頼会見が行われたのです。

それ以前・・・関ヶ原の合戦(年表を参照>>)で勝利したとは言え、あくまで豊臣家の家老という立場だった家康・・・その家康が征夷大将軍に任ぜられたのが慶長八年(1603年)の2月

しかし、それは豊臣家の想定の範囲内・・・なんせ、日本の東半分を家康に任せるのは秀吉の遺言でしたから・・・(8月9日参照>>)

とは言え、一般的には、関ヶ原の合戦後には、豊臣家が一大名に成下がったという考え方が主流で、さらに、慶長十年(1605年)4月に家康が将軍職を息子・秀忠へ譲る(4月16日参照>>)事が、徳川天下の決定打のように言われています。

なので、今回は、とりあえず、通説通りにお話を進めさせていただきますと・・・そんな微妙な関係にあった徳川・豊臣両家の潤滑油として奔走したのが、加藤清正池田輝政前田利長といった豊臣恩顧の武将たちです。

彼らは、関ヶ原では徳川につきましたが、やはり、もともとは秀吉の家臣・・・秀吉恩顧の武将としては「何とか豊臣の家を存続させたい」と思うのは当然です。

そして、徳川家と豊臣家の関係修復に走り回った彼らの努力が実って、秀頼がやっと重い腰を上げた・・・それが、先ほど書いた慶長十六年(1611年)3月28日の二条城の会見(2014年3月28日参照>>)だったのです。

秀頼が到着したと聞いた家康は、自ら庭に出て出迎え、二条城の中で最高の座敷である「御成の間」に通し、二人対等の立場で礼儀を行なう事を提案しますが、逆に、秀頼がそれを断わります。

家康のほうが年長者であるし、朝廷から受けている官位が上なので、
「どうぞ上座へ・・・」
と、秀頼自らが譲り、家康の主導にて会見がおこなわれます。

この席にはもちろん、豊臣恩顧の彼らも同席していました(2008年3月28日参照>>)

それぞれの思惑絡む心の内はともかく、表面的には友好的なこの会見を実現させ、家康・秀頼のふたりを見守りながら、清正はホッと胸をなでおろした事でしょう。

ところが、その大役を果たし、領国である熊本に帰る途中の船の中での6月24日・・・清正は突然、高熱を出して倒れ、あっけなく死んでしまうのです。

死の直前には身体が黒くなり、舌が動かせなかった事から、その死の直後から「毒殺では?」と囁かれる疑惑の死となります。

江戸時代には、歌舞伎や浄瑠璃の題材となって、清正・毒殺説はかなり有名な話となりますが、死の直前の症状は、細菌性の病気の可能性もあり、真相は藪の中へ・・・と言った具合です。

しかし、不可解なのは清正だけではありません。

慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦から、慶長十九年(1614年)の大坂の冬の陣・勃発までの14年間の間に、もと豊臣方だった武将たちが、かなりの数、亡くなっているのです。

よくワカラン理由で切腹を命じられた赤松広秀(あかまつひろひで)(10月28日参照>>)を皮切りに前田玄以(5月7日参照>>)・有馬則頼・小早川秀秋(10月18日参照>>)・稲葉貞通・山岡景友・黒田如水(官兵衛孝高)(3月20日参照>>)・小堀政次・小出秀政・山内一豊(9月20日参照>>)・堀秀治・水谷勝俊・古田重勝・金森長近・田中吉政・京極高次(5月3日参照>>)・生駒一正・細川幽斎(藤孝)(8月20日参照>>)・浅野長政・堀尾吉晴・真田昌幸(6月4日参照>>)・加藤清正・松井康之・亀井玆矩(これのり)(10月5日参照>>)前田慶次郎(6月4日参照>>)・池田輝政(1月25日参照>>)・浅野幸長・最上義光(1月18日参照>>)・前田利長(5月20日参照>>)板部岡江雪斎(6月4日参照>>)織田信包(7月17日参照>>)・松浦鎮信・池田長吉以上33名です。

もちろん、この中には、失礼ながらお歳がすでに当時の平均寿命を、はるかに越えた方々もおられますし、諸説ある場合もありますので、一概に全員が疑惑の対象になるわけではありませんが、その数は異常に多い気がします。

なんせ、同じ14年間に、最初っから徳川についていた側の武将の死亡は18人程度ですから・・・。

そして、もう一つ・・・なぜか、清正死亡のこの年の翌年・慶長十七年(1612年)の頃から家康は「南無阿弥陀仏」の6文字の名号を自筆で書く事を日課とするようになるのです。

何か思うところがあったのでしょうか?

とは言え、この念仏を書く趣味(?)は、たった一年ほどで終ってしまいます。

何か、吹っ切りましたね・・・家康さん。
そろそろ、大坂の陣への下準備でしょうか?・・・。

真相は家康のみぞ知る・・・ですね。

Kiyomasatorataizicc 今日のイラストは、
やはり、清正さんの勇姿で、『加藤清正・虎退治』ですね。

虎を書くのが、こんなにも難しいとは思ってもみませんでした~。
 .

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2007年6月23日 (土)

枚方・交野ヶ原の七夕伝説と京阪電車七夕イベント

 

今日は、京阪電車の七夕イベントの情報を入手したので急遽そのお話を・・・

合わせて、枚方交野(かたの)に点在する七夕伝説ゆかりの場所も、ご紹介させていただきま~す。

・‥…━━━☆

Keihantanabatakatano2cc_1 京都⇔大阪間を結ぶ京阪電車(くわしくは【京阪電車の歴史】で>>>)

ほぼ中間あたりにある枚方市駅から別れている支線が京阪・交野(かたの)です。

この交野線の周辺には七夕伝説にまつわる史跡が点在していて、ここは「七夕発祥の地」と言われています。

Keihantanabatahatamonozinzyacc 天野川を挟んで東に、織姫を祀る「機物(はたもの)神社」
西には、その機物神社を見守るように「牽牛石」・・・。

ふたりのちょうど真ん中に架かる橋は「逢合(あいあい)橋」・・・

Keihantanabatakengyuusekicc川を下ると、「天津橋」「かささぎ橋」と続きます。

このあたりは、日本で最も古く渡来人が住んだ場所なのです。

この地に早くから人が住んでいた事は神話を見てもわかります。

藤原氏の演出によって、すっかり天皇家に取り込まれた形になってしまった饒速日命(ニギハヤヒノミコト)ですが、記紀を読んでもわかるように、神武天皇東征をして来た時にはすでに、この地に、彼は一大王国を築いていたわけです。

Keihantanabataiwafunezinzya 磐船神社には、饒速日命が降臨した時に乗ってきたという「天磐樟船(あまのいわくすふね)がご神体として祀られています。

本来、彼はもう一人の天孫だったのです。
(ニギハヤヒノミコトについては、本家HPの【消された神様たちを追う】でご覧ください>>)

やがて、古墳時代になって、多くの渡来人たちがこの地に住み、大陸の技術を伝えたのです。

機物神社は、もともと養蚕とはたおりの技術を日本に伝えた(はた)の神社。
秦者(はたもの)が機物(はたもの)に変わったのだと言われています。

そして、8世紀頃に渡来した百済(くだら)の一族も、この地に住み、様々な大陸の文化を伝えます。
彼らが建立したのが「百済寺」です。

Keihantanabatakudaraderacc 現在、百済寺の建物はなく、跡地が史跡公園となっていますが、その伽藍配置はちゃんと韓国式に配置されています。

海を越えてやって来た彼ら・渡来人たちは、遠いふるさとと同じ星空を見て、七夕伝説を語り、星に願いをかけたのでしょう。

交野には、七夕伝説以外にも、星にまつわる伝説が伝わっています。

それは、あの弘法大師獅子窟寺で祈りを唱え、その力によって北斗七星を降らせたという伝説です。

その時、3箇所に別れて星が降ったとされるうちの1ヶ所が「星田妙見宮」
そこには、その時降ったとされる「星(石?)」も祀られています。

・・・と、ここまで長い歴史の話をしましたが、
(一応歴史ブログなもので・・・)
そんな、伝説にちなんで、この京阪・交野線には、「おりひめ」「ひこぼし」と名付けられた電車が走っています。

昼間は、各駅停車の普通しかない交野線で、平日のラッシュ時にのみ走る電車です。

朝のラッシュ時に走るK特急が「おりひめ」
夕方のラッシュ時に走る準急が「ひこぼし」

そう、このふたつの電車は同時に走る事がないのです。

そこで、毎年七夕の夜に行われている京阪電車のイベント・・・。

Keihantanabatadensyacc 普段は、夕方には走らない「おりひめ」を臨時運転して、七夕の夜・・・午後7時から5分間程度、交野線の終着駅・私市(きさいち)で、「ひこぼし」年に一度の再会をするのです。

私は、このイベントが大好きです。
最後に警笛を鳴らしながら去っていく「ひこぼし」を、見送る「おりひめ」に胸がいっぱいになるくらい好きです。

・・・で、今年のこのイベント・・・。
電車好きのわが息子は、3月くらいから「今年はどうなるんだろう?」やきもき・・・。

・・・というのも、今年の7月7日は土曜日・・・つまり休日ダイヤなので、K特急も準急も走らないのです。

・・・で、今日、その情報を得たわけですが・・・
なんと!今年のイベントは「おりひめ」「ひこぼし」の、私市駅での出会いが5回もある!

休日運転なので臨時列車は走りませんが、「織姫」のヘッドマークをつけた電車が3時間、私市駅に停車。
その間に「彦星」のヘッドマークをつけた電車が5回、私市駅にやってくる・・・というわけです。

内訳は・・・18:22 19:03 19:42 20:21 20:58の5回で、各回4~9分間ほど停車するそうです。

んん?さっきまで「おりひめ」「ひこぼし」とひらがなだったのに、なんで「織姫」「彦星」と漢字表記に・・・?

と気づいたあなた・・・スルドイ!
実は、ヘッドマークが新しくなるんです。

新しいヘッドマークは、基本の色は変わりませんが、「織姫」「彦星」と漢字表記になります。
新しいヘッドマークの電車は、七夕イベントの後、9日の月曜日から登場するそうですよ。

・・・・・・・・7/7・追記(訂正)です・・・・・・・

上記の記事で、『新しいヘッドマークが、「織姫・彦星」と漢字表記になる』と書きましたが、漢字表記のヘッドマークは7月7日のイベント時のみのヘッドマークで、9日からの新ヘッドマークは、7日のイベント時のデザインをもとにしていますが、文字の表記はひらがな「おりひめ」「ひこぼし」となるそうです。

間違った情報を書いてしまって申し訳ありませんでした。
お詫びと言っては何ですが、9日からの新デザインのヘッドマークと、今年の「織姫」「彦星」の出会いの写真を掲載させていただきます。

Orihimehikobosinewhmcc
新ヘッドマーク

Orihomenikobosi2007cc 2007年の出会い
見え難いですが、この時のヘッドマークが漢字表記です。

交野周辺の史跡については、ホームページでくわしく紹介しています。
興味がおありでしたら、コチラからどうぞ>>>

関連記事と追記
京阪電車七夕イベント2008年>>
京阪電車七夕イベント2009年>>
京阪電車七夕イベント2010年>>
●残念ながら2011年以降は臨時列車が無くイベント開催がされない中、2013年のダイヤ改正により、「おりひめ」「ひこぼし」ともに廃止となりました。
 .

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2007年6月22日 (金)

史上最恐の暗号・エニグマ

 

今日、6月22日何があった日なのかなぁ~何の話題を書こうな?と、ネットサーフィンしていたら・・・

1940年・フランスがドイツに降伏
1941年・ドイツがソ連に攻撃を開始

・・・と、ありました。

手持ちの年表を見ても、1942年に連合国軍が反撃を開始するまで(これは6月22日ではありませんが・・・)、第二次世界大戦において、ドイツが優位に立っていた事が伺えます。

・・・で、「ドイツ優位」で思い出したのが、その勝利の陰にあったと言われている『暗号・エニグマ』・・・。

このブログで度々登場する『孫子』を見ても、戦いにおいて「情報」という物がいかに重要なのかはご承知の通り。

第二次世界大戦の初期に、ヒットラーの作戦がことごとく勝利に終るのは、この「エニグマ」を駆使した情報連絡網があったからなのです。

「エニグマ」とは、ギリシャ語で「謎」という意味・・・「この暗号は誰にも解かれるはずはない」という自信にあふれたコードネームです。

ヨーロッパ戦線において、「エニグマがいかに重要であったか」という事は、戦後30年間、戦勝国軍のトップシークレットとして公表される事なく、闇の中に隠し続けられていた事でも伺えます。

1974年・・・関係者の証言によって、初めてその存在が明らかとなるのです。

では、その「史上最強の暗号・エニグマ」とはどんな物だったのでしょうか?

・‥…━━━☆

まず、エニグマは一見すると、古い感じのタイプライターのような機械です。

つまり、そのタイプライターのような物で、「文字を変換して暗号にする」という事です。

手前にキーボードがあり、その向こうにランプボードという表示盤、一番奥にローターという歯車のような回転盤が3枚並んでいます。

キーボードの下と蓋にプラグがあります。

まず、ローターの位置とプラグコードのつなぎ方を最初に設定してから、キーボードに文字を打ち込むと、表示盤の一つの文字のランプが点灯・・・

つまり、送りたい文章の最初の文字が「A」だと仮定すると、キーボードに「A」と打ち込みます。

すると表示盤の「Z」のランプが点灯する・・・「A」を暗号に変換した物が「Z」という事になります。

そうやって1文字ずつ暗号化するのです。

1文字打つごとにローターが回転して、次は1回目とは違う変換の仕方をしますので、もう一度「A」と打ち込んでも、2回目・3回目は「Y]になったり「X]なったりするわけです。

複数のプラグと複数のローターがあるので、その変換の仕方は宇宙的な数になりますが、暗号文を受け取る側は、最初に設定するプラグのつなぎ方と、ローターの位置の設定を教えてもらえば、同じ機械で、暗号文をもとの文章に戻せるという事になります。
(説明ヘタですいません)

これは、現在のネットワークのセキュリティにもある「共通かぎ方式」という方式で、送り手と受け取り手が同じ「鍵」を持っていて、その「鍵」で暗号化して送信した文を、受信者が同じ「鍵」を使って平文に戻すという、

方法自体は一番単純な方法ですが、プラグとローターの組み合わせで、その変換方法が1文字ずつ無数にできる事、そしてこのエニグマという機械によって、その変換が瞬時にできる事が、最強と言われる所以です。

エニグマの出現によって、解読を心配する事なく、軍事連絡取り放題になったドイツ軍・・・ヒットラーヨーロッパ全土に数百台のエニグマを配置し、快進撃を続ける事になります。

しかし、連合国側もじっとしているわけには行きません。

何とか、エニグマの謎を探ろうと、あの手この手でスパイ活動を続ける中、ついに1940年、1台のエニグマ機をイギリスが入手するのです。

狂喜乱舞するイギリス軍関係者でしたが、本当の戦いはここからでした。

なにしろ、最初のプラグとローターの設定がわからなければ、機械を持っていても暗号は解読できません。

しかも、その設定方法は定期的に変更されるのですから・・・。

イギリスの首相・チャーチルは、一大プロジェクトを立ち上げます。

軍の暗号解読担当はもちろんの事、数学者言語学者時計職人・・・はたまたチェスの名人など、様々な分野の匠を1ヶ所に集め、昼夜を問わず、暗号の解読に挑みました。

誰もが、「今のヒットラーに一泡吹かせるには、エニグマの解読しかない!」と、決して諦めようとしなかったのです。

そんな中・・・この最強と謳われたエニグマにも、たった一つ欠点と言える部分があったのです。

それは、「A」は絶対に「A」に変換されないという事・・・つまり、「暗号化すると、必ず別の文字になる」という事です。

それが、突破口となったのかどうかは定かではありませんが、プロジェクトが立ち上がってから3年後、彼らはこの機械から意味のある断片的な文章を引っ張り出す事に成功します。

一旦、鍵が開かれると、それは、今までが嘘のよに次々と解明されて行きます。

しかし、このエニグマの解読成功は、チャーチル以下、軍の一部の者以外には秘密にされました。

ドイツ軍を安心させるため、エニグマを探るためのスパイを定期的に送り込んだり、わざと不利な方向に軍を進めてみたり・・・。

1944年3月のイギリスのコヴェントリー市への空襲も、エニグマの解読によってチャーチルは事前に知っていたけれど、あえて、避難命令を出さなかったのでは?とも言われています。

しかし、エニグマ解読の事実を隠しに隠していたおかげで、ドイツ軍は暗号がバレているとは気づかず、その動きは連合軍に筒抜け状態・・・あのコヴェントリー市への空襲の3ヶ月後に、チャーチルは「ノルマンディー上陸作戦」という史上最大の作戦を成功させるわけです。

間接的に何十万人という犠牲者を出した史上最強・・・いえ、史上最恐の暗号・エニグマの解読によって、その後の戦況が明らかに変わる事となるのは、もう皆さんご承知の通りです。

Enigmacc 今日のイラストは、
その『エニグマ機』を・・・。

機械なので、本当はもっと正確に書かなくちゃいけないのはわかっておりますが、あまりにボタンとかが細かくて・・・お許しを・・・。
 .

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2007年6月21日 (木)

正倉院・アッと驚く豆知識

 

天平勝宝八年(756年)6月21日、奈良・東大寺正倉院が建立されました。

・・・・・・・・・・・

Syousouintisikisyasincc 正倉院については、昨年の秋に正倉院展に行った時に、その感想をチョコッと書かせていただきました(10月27日参照>>)、今回は、その建立の日という事で、正倉院に関する事を豆知識風にご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

まずは、正倉院という名前・・・これは、東大寺・正倉院の固有名詞ではありません。

天平の昔から役所や社寺に付属する倉庫の事を「正倉」と呼び、回りを囲む垣根の事を「院」と呼びます。

ですから、本来、正倉院とは、「垣根に囲まれた倉庫」という意味で、他にもたくさんあったんですね~。

ただ、現在は遺構などは見つかっているものの、現存する正倉院が他になく、今では「正倉院」と言えば、この東大寺の正倉院を指すようになりました。

つぎに、
正倉院に宝物が納められるようになったきっかけは・・・第45代・聖武天皇が亡くなられた時に、奥さんの光明皇后(8月10日参照>>)天皇の冥福を祈るために、天皇が生前、力を注いで建立した東大寺と大仏に、天皇の遺品や宝物を捧げた事で、それらの宝物が東大寺の倉庫である正倉院に納められたのです。

で・・・
何と言っても正倉院の宝物が特別なのは・・・「ずっと倉庫に保管されていた」という事です。

以前も書きましたが、世界を見渡しても、1200年以上も前のお宝となると、ほとんどが遺跡から発掘された物。

土の中から掘り起こされた物と、定期的に管理されて保管されていた物とでは、その輝きが違います。

これは、世界に誇れる遺産ですね。

Syousouintisikiazekuracc ここまで綺麗に保管できたのは・・・正倉院の正倉の構造が高床式で、3角形の木を組んで造る「校倉造(あぜくらづくり)という独特の方法で、「ねずみ返し」というねずみよけも施されていました。

中は、北倉・中倉・南倉という3室に別れていて、屋根裏部屋も含めて3階建てになっています。

Syousouintisikinaibucc

でも、それだけでは、お宝は守れなかったでしょうね。

Syousouintisikikarabitucc さらに、お宝は「唐櫃(からびつ)というキャビネットのような入れ物に入れられていて、その唐櫃が、湿気を一定に保ち、害虫からも防ぐという役目を果たしていたんです。

また、火事に遭わなかったという事も奇跡ですね。

一度、鎌倉時代に雷が落ちてボヤ騒ぎがあったようですが、大仏殿の2度の火災の時も何事もなく、地震でも大きな被害に遭いませんでした。

現在、宝物は、昭和に建てられた西宝庫と東宝庫に最新の空調設備の中、厳重に保管され、正倉の中には唐櫃だけが残されています。

正倉院の宝物の管理は・・・宮内庁の正倉院事務所が管理しています。

正倉院のお宝は、本来、天皇家の所有物・・・今風に言えば「聖武コレクション」ですから、現在も、毎年10月初め頃から宝庫の扉を開けて、宮内庁の職員が一つ一つ点検作業を行い、修復が必要な物があるかどうかチェックしているんです。

そのチェックの期間を利用して、毎年秋に奈良国立博物館で正倉院展として公開しているんです。

宝物の種類は・・・まさに多方面に及んでいます。
屏風などの調度品、筆・硯といった文具、琵琶・琴・笛とった楽器、碁・双六などの遊具

弓・槍・刀などの武具や食器などの日用品仏具香料お薬まであるんです・・・もちろん文書も綺麗に保管されています。

Syousouinrusihaicc ←こちらは、以前【日本の輸入品好きは昔から】(3月8日参照>>)で描いた瑠璃杯(るりのつき)のイラスト・・・ペルシャから来たグラスです。
大きな画像はイラストギャラリーにあります。

「奈良はシルクロード(絹の道)の終着点」と言われるように、宝物の中には、ペルシャインド中央アジアを経て中国から輸入された外国製品も数多く含まれています。

この事は、正倉院に残る文書でもわかるのですが、どれが輸入品でどれが国産品なのか?という区別は、文書では明確にされておらず、様々な角度からの検証によって区別がつけられている・・・という現在進行形です。

たとえば、教科書にも載っている有名な「鳥毛立(とりげだち)女屏風」などは、中国様式の女性が描かれていることから、長年、中国からの輸入品と思われていましたが、鳥毛装飾に使用されているヤマドリの羽根が、近代の分析結果で、日本産のヤマドリの羽根である事が判明し、ごくごく最近になって「これは国産だったのです!」てな、事もあるわけです。

最後に・・・
この正倉院を開けて中を見た人は・・・先ほども書きましたように、正倉院の宝物は本来、天皇の所有物ですから、現在のように一般公開される前は、天皇家の関係者以外で「正倉の扉を開けて中を見た人」っていう人は、ごく少数なんです。

天平宝字三年(764年)に、「藤原仲麻呂の乱(9月11日参照>>)のために刀や弓などの武器が取り出される」という事がありましたが、まだ、八年しか経っていない事を考えると、この頃の武器はお宝というよりは当時の実用品なので、「開けて、見た」というのとは、また別の物だと思います。

文治元年(1185年)に、「後白河法皇が正倉の筆と墨を使って、修復された大仏を開眼する」というのもありますが、これは東大寺の公式行事ですし、法皇は天皇家の子孫なので、やはり「開けて、見た」というのとは別物ではないかと・・・・

・・・で、上記の2回を除くと・・・

  • 寛仁三年(1019年)、藤原道長が宝物を見る。
  • 至徳(元中)二年(1385年)、足利義満が宝物を見る。
  • 永享元年(1429年)、足利義教(よしのり)が宝物を見る。
  • 寛正六年(1465年)、足利義政が宝物を見て、「黄熟香(おうじゅくこう)」を削り取る。
  • 天正二年(1574年)、織田信長が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る(3月28日参照>>)
  • 明治十年(1877年)、明治天皇が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る。

・・・と、まぁ、最後の明治天皇は、子孫ですから宝物を見ようが削り取ろうが、また別格ですが、ズラリと並んだこの名前・・・まさに、時の最高権力者って感じですね~。

ところで、この歴代権力者が興味を示す黄熟香とは・・東南アジア原産の香木です。

炊くと良い香りがします。
今ハヤリのアロマですね。

正倉院の物は長さ156cm、重さ11.6㎏と大変大きく、これほどの大きさの物は珍しいそうです。

正倉院の黄熟香には、特別に『蘭奢待(らんじゃたいという名前がついているのですが、この「蘭奢待」の字・・・

よ~く見てください。
漢字の中に東大寺の文字が隠されているんです。
気づきましたか?

Syousouinkarahanacc 今日のイラストは、
正倉院の宝物によく使われている『唐花文(からはなもん)という紋様です。

皆さんよくご存知の『唐草文(からくさもん)・・・これは、花や葉っぱをつるのような曲線でつないだ紋様ですね。

唐草は、ギリシャやローマに始まってペルシャから中国に伝わった紋様です。

それに対して、この唐花は中国で発祥した東洋独自の紋様・・・花びらがいくつにも重なって咲く大きな花の紋様です。

イラストは、『紅牙撥鏤尺(こうがばちるのしゃく)という「ものさし」の唐花模様を参考に書かせていただきました。

正倉院の場所や地図はホームページでupしています・・・よろしければ、コチラからどうぞ>>
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2007年6月20日 (水)

天正遣欧少年使節の帰国

 

天正十八年(1590年)6月20日、ヨーロッパを訪問し、ローマ法王に謁見した『天正遣欧少年使節』が、8年5ヶ月ぶりに帰国しました

彼ら『天正遣欧少年使節』が日本を旅立ったのが天正十年(1582年)2月・・・そして、帰国が天正十八年(1590年)の6月20日・・・

つまり、その間に本能寺の変(6月2日参照>>)織田信長が死に、賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)に勝利した羽柴秀吉が太政大臣となって豊臣秀吉となり、その秀吉は、天正十五年に『切支丹禁止令』を発布します(6月18日参照>>)

大いなる希望を託されて出発した少年たちが、帰ってみると、もはやキリスト教は過去の物・・・時代に翻弄された『天正遣欧少年使節』の彼らはどのような人生を送ったのでしょうか?

・・・・・・・・・

天正七年(1579年)に来日したイエズス会の巡察使・ヴァリアーノ(2月23日参照>>)は、天正十年に帰国するにあたって、日本での布教活動の成果という物を母国に持ち帰りたいと思っていました。

たしかに、当時は、大友宗麟(そうりん)(11月12日参照>>)に代表されるキリシタン大名のオンパレード、特に九州は、もはやスペイン領かポルトガル領といった様相で、母国に自慢したくなる気持ちもわからないではありません。

かくして天正十年(1582年)1月28日、ヴァリアーノが半ば強引に計画を推し進める中で、当時のキリシタン大名の代表格であった大友宗麟大村純忠(すみただ)(4月27日参照>>)有馬晴信三大名の使節が、ローマ教皇のもとへ派遣される事が決定するのです。

そして、使節団に選ばれたのが、伊東マンショ千々石(ちぢわ)ミゲル正使二人。

原マルチノ中浦ジュリアン副使二人の計・四人の少年たち・・・当時、彼らはジュリアンが14歳、他の三人は13歳という若さでした。

四人は、先の三大名の親書を手に、遠くヨーロッパへと旅立つ事になるのです。

しかし、彼らの出発は、その出発の時点からすでに問題が無かったわけではありませんでした。

正使の伊東マンショは大友宗麟の甥という事で、使節団に加わっていましたが、実は甥ではなく、甥の子供・・・血縁関係ではあるものの、より薄い甥の子供を「甥」と称して行かせる所に、さすがの宗麟も、この使節の派遣に100%賛成していなかった事が伺えます。

それもそのはず、彼らが持っていった親書という物は、ヴァリアーノが勝手に製作した物で、宗麟はその内容も知らなかったのです。

一説には、その親書には、ローマ教皇への服従を示す内容が書かれてあったとか・・・。

つまり、彼らは、単なる布教活動の成果としての使節ではなく、ヨーロッパに日本が服従する意志がある事を意味する使節だったのです。

ただし、、双方の思惑がからむ問題ありの使節団ではありますが、この時代にヨーロッパを訪問した日本人がいたという事だけは、歴史に残る快挙と言えますね。

かくして、天正十年2月に長崎を出航した彼らは、マカオを経由してインドのゴアに到着。

ポルトガルのアジア進出の本拠地であったこのゴアで、ヴァリアーノと別れた一行は、再び船に乗り、アフリカの喜望峰をまわって天正十二年(1584年)8月ポルトガルのリズボンに到着します。

それから、マドリッドスペイン国王に謁見して、さらに地中海を渡り天正十三年(1585年)2月23日には、いよいよローマ教皇と謁見します。

そして、その2週間後に新教皇シスト5世戴冠式(たいかんしき)に出席して、ようやく公式の任務を無事終了しました。

その後、3ヶ月間イタリアに滞在した彼らは、いたるところでローマ市民から大歓迎を受けローマの市民権まで得て、日本という国の存在をヨーロッパ人に始めて知らしめるという事になります。

思えば、この時が彼らにとって一番幸せな時だったのかも知れません。

やがて帰国の途についた彼ら・・・途中インドのゴアで再びヴァリアーノと合流し、天正十五年・春、一路日本へと向かいます。

しかし、この航海中の天正十五年(1587年)6月18日と19日に、あの『切支丹禁止令』が発令されるわけです。
【2日連続で出された二つの『切支丹禁止令』】
【秀吉が切支丹禁止令を今日出したワケ】

天正十八年(1590年)6月20日・・・彼らは日本に帰ってきました。

秀吉に謁見するヴァリアーノと一緒に、時の最高権力者に謁見を果たした少年たち・・・。

しかし、秀吉が会ったのは、インド副王使節としてのヴァリアーノと単にヨーロッパを見て来た彼ら・・・禁止令を出した秀吉の立場として、宣教師としてのヴァリアーノとキリスト教徒としての彼らに会う事はなかったのです。

歴史に残る任務を成し遂げ、母国に帰った彼らを待っていたのは、時代の転換というあまりに悲しい運命でした。

秀吉はキリスト教徒である事さえ考えなければ、ヨーロッパをその目で見て来た彼らは貴重な存在であると判断し、伊東マンショには仕官を勧めます。

しかし、キリスト教を捨てられないマンショは仕官の話を断り、司祭の勉強をすべくマルチノ、ジュリアンとともにマカオに向かいます

千々石ミゲルは、病弱だったためマカオ留学が許されず、日本に残る事になりますが、日本で生きて行くためなのでしょうか、ここで信仰を捨て改宗します。

しかし、その後も親戚からも疎まれ、失意のままこの世を去ります。

マカオに向かった残りの三人は揃って司祭の資格を得て帰国しますが、迫害のため追放されて、九州の各地を転々とする毎日・・・。

そんな中、慶長十七年(1612年)にマンショが長崎で病死。

語学に堪能だったマルチノは翻訳の仕事などを続けていましたが、弾圧がいっそう厳しくなったためマカオに出発・・・しかし、寛永八年(1629年)に、そのマカオで病死します。

最後までキリシタンのまま日本に残ったジュリアンは、寛永十年(1633年)に捕えられ、仲間の神父とともに処刑・殉教しました。

歴史の波に呑まれて、大いなる海へと旅立った少年たちは、再び歴史の波に呑まれて、それぞれの生涯を閉じたのです。
 

Itoumansyocc 今日のイラストは、
教科書にも肖像画が載ってる『伊東マンショ』さん。

せめて、絵の中だけでも救いの手を出してさしあげたく、こんな絵を書いてみました~。
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2007年6月19日 (火)

秀吉が切支丹禁止令を今日出したワケは?

 

天正十五年(1587年)6月19日、豊臣秀吉『切支丹(キリシタン)禁止令』を発布しました。

・・・・・・・・・・

最初は切支丹に対して寛大だった秀吉が、なぜ、いきなり豹変して切支丹を禁止したのか?

その理由については、今までこのブログでも何度か書いてきました。

【切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)では、天正十五年・5月に、九州征伐に出陣し島津氏を降伏させた秀吉が、まるで、スペインやポルトガルの植民地のようになってしまっているような九州の現状を目の当たりにしたからではないか?と書かせていただきました。

付け加えて、【長崎二十六聖人殉教の日】(2月5日参照>>)では、実際にスペインの武力行使による「日本占領計画」なる物があったかも知れない状況を秀吉が読み取ったのではないか?という事を書かせていただきました。

もちろん、おおもとの理由はそこにあると思います。

最初は、国際貿易に有効だと思って寛大に接してきたものの、途中からその強大な力に脅威を感じ、一転して禁止の方向に向いたのだと思います。

しかし、それにしてもあまりにも突然の豹変ぶりです。

秀吉は、今日6月19日付けと、前日6月18日付け二つの文書を発令していますが、18日付けでは、大名・領主やその家臣に対しては禁止していますが、一般人に対しては「本人の心次第」として、それほどきびしく禁止してはいないのです(6月18日参照>>)

しかし、19日付けの文書では、第一条で日本は「神国」であるという事を強調し、第二条で領主の勝手な違反行為(知行を寄進したりする事)を禁止し、そして、第三条では宣教師の20日以内の国外追放を命じています。

ただし、四条&五条で商売のための交流に関してはOKとしています。

一応、原文は・・・(松浦文書)

  • 日本ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授候儀、 太以不可然候事。
  • 其国郡之者を近付門徒になし、神社仏閣を打破之由、前代未聞候。
    国郡在所知行等給人に被下候儀は、当座之事候。
    天下よりの御法度を相守り、諸事可得其意処、下々として猥りの義曲事の事。
  • 伴天聯、其知恵の法を以て、心ざし次第ニ檀那を持候と思召候へハ、右の 如く日域の仏法を相破る事曲事候条、伴天聯儀、日本の地ニハおかされ間敷候間、今日より廿日之間ニ用意仕り帰国すべく候。
    其中に下々伴天聯に不謂族申懸もの在のハ 曲事たるへき事。
  • 黒船の儀ハ商売の事に候間、格別候之条、年月を経、諸事賣買いたすべき事。
  • 自今以後、仏法のさまたけを成さざる輩ハ、商人之儀ハ申すに及ばず、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条、其意を成すべき事。

の五カ条なのですが・・・

先ほど書きましたように、秀吉が、九州の雄・島津氏を降伏させたのが、この年の5月・・・その時に、キリスト教一色になっている九州を目の当たりにして、禁止する事を考えたとしても、この18日と19日の文書の違いは何でしょう?

まるで、昨日までダンナのちょっとしたワガママを笑いながら許していた奥さんが、突然離婚届を差し出したような・・・それも、今すぐハンコを押せ!と・・・。

こういった場合、たいていは、「私は、今までず~っと我慢してきたのよ」ってな話になるわけですが、昨日まで我慢できていたものが、今日我慢できなくなるのには、やはり、何らかの理由があるはずです。

一歩ステップを踏み出す時に、背中を押した何かが・・・そうです、秀吉にも、それがあったんです。

先の【長崎二十六聖人殉教の日】のページにもチラッと登場した、当時、日本イエズス会の副管区長をやっていた宣教師ガルパス・コエリヨ

彼は、この『切支丹禁止令』が出る1年ちょっと前の天正十四年の春に、大坂城を訪問し、秀吉に謁見しています。

その時の秀吉は、超ご機嫌な様子で、コエリヨにかなりのリップサービスをし、コエリヨもそんな秀吉の態度を大いに喜び、会見は終始なごやかムードで行われました。

ところが、その1年後の6月19日に禁止令・・・実は、この日も、秀吉とコエリヨは会っていたのです。

つまり、秀吉はコエリヨとの会見が終ってから、すぐに19日付けの「切支丹禁止令」を作成した事になります(あくまで時系列で見ると…という事ですが)

もとをただせばその、一年前の春の会見・・・。

この時の秀吉のリップサービスというのが、「いずれ自分が明(中国)や朝鮮を征服したあかつきには、大陸での布教活動の自由を約束する」という物だったのです。

この言葉にコエリヨは大いに喜んだわけですが、まだ征服してもいない国の布教活動を約束されてうれしいものなのか?ちょっと、疑いたくなりますね。

しかも、当時のスペインはアルマダという無敵艦隊を持っていました。

事実、あるスペイン人宣教師が「明を征服するには、多くても1万人の軍隊と同規模の艦隊で充分である。」という内容の手紙を、当時、国王に送ってします。

ところが、実は、その軍隊は、現在イギリスとの交戦の真っ最中・・・

それは、500t級の船に百門の艦砲を備えていたという優秀な艦隊はあるけれど、ヨーロッパでの戦いのために「できるだけ温存しておきたい」というのがスペインのホンネだったのです。

母国の無敵艦隊の手をわずらわす事なく、日本が、勝手に征服した所を、自由に布教活動させてくれるなら、これほど楽な事はないのです。

ただし、当然ですが、これには条件がありました。

秀吉が出した条件は、大型船2隻の売却・・・それも、船員(技術者)込みで売ってくれという物でした。

先ほども出てきた無敵艦隊・・・さすがに当時の日本には、そこまでの造船技術はありません。

しかも、スペインやポルトガルはその技術を日本に知られないように、ひた隠しに隠しいましたから・・・。

秀吉は、大陸を征服するためにも、その造船技術が欲しかったのです。

・・・で、春の会見がなごやかムードで終った・・・という事は、コエリヨも会見の席で、その条件を快諾した、という事が想像できます。

ところが、この6月19日の会見で、交渉は決裂してしまうのです。

それは、コエリヨが提供しようとした船が大型の軍艦ではなく、フスタ船と呼ばれる小型の南蛮船だったからでした。

「そんな小型船でごまかされるか!」と、激怒した秀吉は・・・いえ、ひょっとしたら船の小ささに激怒したのではなく、このコエリヨの態度に、スペインが軍事的に日本を征服しようとしている事を確信し、冷静なる判断で報復措置を取った・・・という事かも知れません。

いずれにしても、この日の会見での決裂が引き金となって、『切支丹禁止令』が発令される事になるのは間違いないような気がするのですが・・・

Crosshideyosicc 今日のイラストは、
『キリスト教』のイメージだけで書いてしまいました~。

これから後、明治までの長い間、切支丹への弾圧が続くと思うと、胸に迫る物がありますが、かと言って、もしかして征服されていたかも・・・と思うと、それはそれで困りますよね~。
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2007年6月18日 (月)

本能寺の余波!神流川の戦い

 

天正十年(1582年)6月18日、主君・織田信長の死を知り、上洛を果たそうとする滝川一益と、この機に乗じて上野を奪い取ろうとする北条氏政ら後北条氏が神流川で激突しました。

・・・・・・・・・・

天正十年の3月に武田勝頼自害に追い込んだ(3月11日参照>>)織田信長

信長は上野(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)を、滝川一益に守らせる事とし、旧武田の領地を与えます。(3月24日参照>>)

甲州の脅威が無くなった信長は、今度は未だ越後(新潟県)の上杉の勢力圏内にある北陸制覇に向けて力を注ぐようになります。

それまで、先代の上杉謙信の死によって起こった後継者争い御館の乱(3月17日参照)のどさくさに紛れて、徐々に北へと進攻していった織田軍・北陸担当の柴田勝家らでしたが、ここにきて、後継者争いに勝利した上杉景勝が、北陸の最前線を死守すべく、援軍として参戦しようとします。

それを見た一益は、遠征でお留守になった景勝の本拠地・春日山城を攻める構えを見せ、慌てて本拠地へと戻る景勝。

援軍に帰られてしまい、孤立した形の北陸・魚津城(富山県)は、勝家ら北陸担当班の攻撃によって、まもなく落城します(6月3日参照)

しかし、その前日、信長が本能寺明智光秀に攻められ自刃するという本能寺の変(6月2日参照)が起こっていたのです。

厩橋城で主君の死の知らせを聞いた一益は、すぐに1万8千の軍勢を従えて上洛しようと城を出ます。

しかし、信長の死は、すぐに上野と隣接する北条氏にも伝わります。

世は戦国です。
この機に乗じて、少しでも領地を増やそうとするのは当然のなりゆき・・・。

北条氏政が一益に手紙を送って相手の出方を探る一方で、氏政の息子・氏直が上野・倉賀野(くらがの)へ進軍し、これまた相手の出方を探ります。

そして、いよいよ、天正十年(1582年)6月18日、一益が神流川(かんながわ)を渡り上野から武蔵(埼玉県)本庄原に入ったところで、北条氏政・氏直親子の率いる5万の軍勢と激突します。

最初は、一益側が優位のうちに戦闘が繰り広げられ、北条軍の名だたる武将が次々討ち取られていきましたが、そのうち数で勝る北条軍は、いつのほどからから半分くらいの軍勢が一益軍の後方へと回りこみ、前後から挟み撃ちの状態となって、徐々に形勢は逆転されていきます。

そうなると一益軍の崩れは早い。

・・・と、いうのも、最初に書いたように一益は、3月に上野・厩橋城をもらったばかり・・・

一益の率いている軍勢の中には、ちょっと前まで北条氏についていた者が、かなりの数含まれていたのです。

そんな新参者の兵たちは、一旦負け始めると、もはやヤル気はゼロ。
またたく間に敗北を喫してしまいます。

戦闘は19日まで続けられましたが、もうその頃には、一益軍は敗北に次ぐ敗北の連続で、逆に、勢いに乗る北条軍は、上野の奥地の方まで進攻して行きます。

結局、一益は、信濃(長野県)を経由して、本拠地の伊勢・長島(三重県)へ逃走するのです。

命こそ助かったものの、この合戦によって一益は、信長の家臣の中でも重きを置かれていた立場から完全に脱落する事となります。

Kannagawahouzyoucc 今日のイラストは、
『北条軍・神流川に出陣!』といった感じでしょうか・・・。

滝川さんは先日書かせていただいたばかりなので、今回はその滝川さんが目にした光景・・・武蔵に入った途端、北条氏政・氏直親子率いる5万の大軍がデ~ン!と・・・

5万も書けないので、4騎だけ・・・
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2007年6月17日 (日)

風林火山・孫子の兵法10・行軍篇

 

今日は、『風林火山・孫子の兵法』の10回目、『行軍篇』を紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

行軍篇には、かなり具体的な戦法が書かれています。
具体的な戦法というのは、一見すると現代には、もう役に立たない事のようにも見えます。

たとえば・・・
『山を絶(こ)ゆれば谷に依たり、生を視して高きに処(お)り、隆(たか)きに戦いて登ることなかれ。これ山に処る軍なり。』
「山で戦う時は、谷に沿って移動し、視界の開けた高い所に陣を敷く事。もし敵が先にそのような場所にいる場合は、こっちから攻撃してはならない」

これは、山岳地帯で戦う時の戦法です。
飛び道具が飛び交う現代の戦争や、まして、ビジネスの社会などにはまったく無関係のようにも思います。

さらに、川べりで戦う場合・・・
川を渡る時はすみやかに渡り、渡り終えたら水から遠ざかる事。
敵が川を渡ってくる時は水の中で迎え撃たず、半分が渡り終えてから攻撃を仕掛けるが、水際で戦ってはならない。
陣を敷く時は、視界の開けた高所を選び、川下から川上にいる敵を攻撃してはいけない。

そして、湿地帯での戦いは避ける事。
どうしても戦う時は、水草の茂みを選び樹木を背にして戦え・・・と続くのです。

さらに、念をおすかのように
『軍は高きを好みて下(ひく)きを悪(にく)み、陽を貴(たっと)びて陰を賤(いや)しむ。
生を養いて実に処
(お)り、軍に百疾なし。』
「陣を敷くなら、低地を避け高地に、そして日当たりの良い場所を選び日陰を避ける。
そうしておけば健康管理に役立ち、病気にならない」

しかし、ここまで読んでみると、すべての場所に共通した孫子の思想が、なんとなくわかってきます。

たしかに、一つ一つの具体的な戦法は現代の世の中では役に立たないかも知れませんが、常に敵の行動が見えやすい優位な位置にいなければならない事、不利な条件では戦わない事、兵士の健康面にも注意を払う事・・・それらを注意していれば兵士一人一人の安心感にもつながるのです。

この考え方は、現代でも通用するんじゃないでしょうか?

さらに、孫子では近づいてはいけない場所を六つ挙げています。
・絶澗(ぜっかん):絶壁に囲まれた場所。
・天井(てんせい):深い窪地。
・天牢(てんろう):3方が険しい場所に囲まれた所。
・天羅(てんら):草木が密集した場所。
・天陥(てんかん):湿地帯。
・天隙(てんげき):でこぼこした場所。

このような場所には絶対に近づかず、逆に敵をこのような場所に誘い込むようにしなさいと言っています。

やはり、ここでも危険を避けて優位に立てという事です。

言葉に出しては言っていませんが、これらの事を実現するためには、その場所の地理に精通していなければならないし、敵の行動を把握していなければならない事も、これまでの孫子を読んでくださった方なら、もうおわかりの事でしょう。

次に、行軍篇は心理戦へ突入していきます。
『敵近くして静かなるは、その険を恃(たの)べばなり。
遠くして戦いを挑むは、人の進むを欲するなり。
その居る所の易
(い)なるは、利なればなり。』
「敵が近くなのに攻めて来ないのはそこが攻め難い場所であるから。遠くにいるのに攻めてくるのは、こちらを誘い出そうとしているから。敵がそこにいるのは、そこが有利な場所だから。」

さらに、木々が動くのは敵が来たから・・・
鳥が飛び立つのは、兵が潜伏しているから・・・
土ぼこりが低く舞うのは歩兵が進攻してきたから・・・
土ぼこりが少ない量で移動しながら舞うには宿営をするから・・・

などと続きますが、要するに、物事にはすべてそうなる要因がある事を考えなければいけないという事です。
敵の行動も、自然の出来事も、なぜそうするのか?なぜそうなったのか?という事に常にアンテナを張り巡らせておかなければならないのです。

敵との心理戦はさらに進みます。
『辞卑(ひく)くして備えを益すは、進むなり。辞彊(つよ)くして進駆(しんく)するは、退くなり。
軽車先ず出
(い)でてその側に居るは、陣するなり。
約なくして和を請うは、謀るなり。
奔走して兵車を陳
(つら)ぬるは、期するなり。
半進半退するは、誘うなり。』

「敵が謙遜(けんそん)しながらも準備を整えている時は進攻してくる。
逆に強気を全面に押し出して今にも進攻するように見せる時は撤退の準備をしている。
戦車を全面に出している時は、その側で陣を固めている。
対峙している時に突然和睦を申し込んで来た時は何か謀略を企てている。
敵が慌てて戦車を並べだしたら決戦を考えている。
敵が勝敗に関係なく一進一退を繰り返すのは、誘いをかけている時である。」

敵の行動を見て、その心理を探るのは、孫子の中ではこの後も、「幹部がやたら部下に怒鳴り散らす時は疲れている」とか「水汲みに行って自分が真っ先にに飲むのは水不足」とか、もっともな事がもう少し続きますが、先ほども書きましたように一つ一つの具体例は現代にはあてはまらない事も多々あります。

現代人の私たちにとっては、一つ一つの具体例が重要なのではなく、あくまでなぜこうなったのか?の要因を探るという事が重要なのです。

そして、行軍篇の最後に登場するのは、自軍の兵士に対する心理作戦・・・そうです、部下の扱い方です。
これは役立ちそうですねぇ~。

『数(しばしば)賞するは、窘(くる)しむなり。
数罰するは、困
(くる)しむなり。
先に暴にして後にその衆を畏
(おそ)るるは、不精(ふせい)の至りなり。』
「やたら賞金や勲章を連発するのは行き詰まり、
やたら罰するのも行き詰る。
部下に散々怒鳴り散らしておいて後で嫌われるのを気にするなんてバカをさらけ出してるよなもんだ」

たはー、耳が痛いですねコリャ。
賞なんて物も、連発してたら希少価値がなくなって、もらってもうれしくないですもんね。

『卒、いまだ親附(しんぷ)せざるに而(しか)もこれを罰すれば、則(すなわ)ち服せず。
服せざれば則ち用い難きなり。
卒、すでに親附せるに而も罰行なわざれば、則ち用うべからざるなり。』

「部下と親密になっていないのに、罰則ばかり厳しくすれば、部下は心を開かない。
心を開かなければ扱い難い。
逆に親密になったからと言って違反しても罰しないでいると、これまたよろしくない」

おっしゃる通りです。

『故にこれに令するに文(ぶん)を以ってし、これら斉(ととの)うるに武(ぶ)を以ってす。』
「だから、規則違反に関して、やさしさでもって教育し、厳しさでもって統制をとる。」
飴とムチですな。

『令、素(もと)より行なわれて、以ってその民を教うれば、則ち民服す。令、素より行なわれずして、以ってその民を教うれば、則ち民服せず。令、素より行なわるる者は、衆と相得るなり。』
「そこんところをしっかり踏まえて教育すれば部下は命令に従うし、そこんところがうやむやになっていれば当然従わないわけで、上司と部下の信頼関係はそれによって生まれる。」
わけですな。

孫子に言わせれば、先の敵情視察も同時進行し、そうやって兵士との信頼関係を築きあげ、一致団結・結束を固めれば、兵の数の多い少ないはたいした問題ではないのだそうです。

孫子のおっしゃる事はよくわかりますが、実践するのはなかなか難しいですね。

理想の上司のアンケートで上位に入っているタレントさんでも、きっと本当の上司だったらうまくいかないかも・・・って思っちゃいます~。

しかし、この孫子を知っているか知っていないかでは、大違い。
心のどこかに留めておけば、いつか花咲く時が来るかも知れませんからね。

以上、今日は『行軍篇』を紹介させていただきました~

・・・・・・・・・・・・

続編はコチラ→『風林火山・孫子の兵法11地形篇』>>

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
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2007年6月16日 (土)

JR・駅からはじまるハイキング

 

今日は「史跡めぐり」のお話・・・でも、ないな・・・「史跡めぐりに行こうとしている」お話です。

この春から、JR西日本で『駅からはじまるハイキング・スタンプラリー』というキャンペーンをやっているのを聞きつけて、先日申し込んでみました。

切手540円分を同封して申し込み用紙を送ると、スタンプ帳と地図、ハイキングの心得などと一式を収納するケースが、昨日、送られてきました~。

まだ、ハイキングには行ってませんが、今日はその「送られて来た」報告です。

Ekikarasinazinacc

このキャンペーンは、ハイキングの出発点となるJRの駅に、スタンプが置いてあって、ハイキングをする度にスタンプ帳にスタンプを押して、集めたその数によって抽選でプレゼントかもらえる(キャンペーンは来年の3月31日まで)・・・という物なのですが、私としては、プレゼントもいいけど、何と言っても地図が欲しい・・・

私は『京阪奈ぶらり歴史散歩』>>というホームページを運営しているので、京都や奈良のお寺によく出かけますが、行ったあとで、デレビや雑誌などで紹介され、「あの日、こんなに近くにまで行ったのに、ここ行かなかったよ~」ってな事や、「地図持って行ったのに、道に迷ったよ~」ってな事が多々あって、ガイドブックはあればあるだけ重宝する物なので、新しいガイドブックを買うような気持ちで申し込んでみました。

Ekikaratizu50cc 早速、一つ一つ地図を拝見・・・
畿内のコースが、50もあるから、地図がこんなに分厚い!

 

 
.
法隆寺
のある斑鳩の里や、平等院のある宇治など、私が行った事のある場所もあれば、まったく知らない場所もあり、しかも説明によると、ちゃんとスタッフさんが足で歩いて作った地図・・・という事で、「ここは道が広い」とか「ここの上り坂がキツイ」なんて事も書かれてあって、なかなか魅力的な地図です。

名所・旧跡のいわれや豆知識なども載っているし、神社仏閣の歳時記や季節の花の見所まで・・・私のホームページとのかぶり具合に、テンションも最高潮です。

ほとんどのコースが、駅を出発点に2~4時間程度のコース。
中には、一時間半なんていうお気楽なコースもあれば・・・

んん?「大化の改新ゆかりの道を訪ねて」って・・・
6時間15分!
しかも、見学時間含まず・・・って、明日香村談山神社を一度に廻るのはかなりの強行突破と思えなくもありませんが、遠方から来て、次になかなか来れない人にとっては、一度に廻ってみたいという事もありますからね。

・・・で、春からすでにキャンペーンは始まっているので、一緒に送られてきたパンフレットには「人気コースランキング」なんていうのも書かれてありました。

1位:自然豊かな信長ゆかりの地を歩く(安土コース・滋賀)
2位:雄大な紀ノ川が育む田園風景(打田コース・和歌山)
3位:風情あるれる播磨の小京都(本竜野コース・兵庫)
4位:古きよき瀬戸内の港町(坂越コース・兵庫)
5位:西国札所の名刹と果樹園を歩く(粉河コース・和歌山)
6位:醍醐山科の古刹を訪ねる(六地蔵コース・京都)
7位:旧東海道と古寺探訪(石部コース・滋賀)
8位:鴨池の野鳥と田園風景(栗生コース・兵庫)
9位:金魚で有名な城下町を歩く(大和郡山コース・奈良)
10位:世界最大・仁徳天皇陵をはじめ時を刻む古墳群
                      
(百舌鳥コース・大阪)

やっぱり、ここでも「信長人気衰えず」って感じですね。
安土はまだ行ってないので、行ってみたいですね~。

おけいはん(京阪沿線)な私としては、兵庫や和歌山は駅に着くまでにかなりの時間を要するわけで、まずは、近いところで6位の六地蔵コースがねらい目ってとこでしょうか・・・。

もちろん、ハイキングと銘打ってますが、京都駅や奈良駅周辺の町屋をそぞろ歩く感じの散歩のようなコースもあります。

何と言っても、マニアな私にとって、普通のガイドブックに載っていないような場所があるのが魅力的ですね。

たとえば、河内磐船コース・・・これ、昨年、私のホームページに「七夕伝説を訪ねて」と題してupした大阪は交野(かたの)のあたりのハイキングなんですが、ガイドブックどころかくわしい地図(路地まで書いてるような)さえなくて迷いに迷いながら歩いた場所だったので、ちょっと感激です。

それにしても、このキャンペーン・・・50コース全部制覇すると、10名にデジカメが当たるプレゼントに応募できるんですが、1年間で50コース制覇する人が何人いるのかしら?
(もちろんプレゼントは5コース以上から7段階あります・・・ちなみに5コース制覇した人はマグカップに応募できます。)

Ekikaramapcc ところで、首にぶらさげて使用すると便利な「マップケース」というのもついてきますが、これを首にかけて京都の繁華街を歩くのは、ちょっと勇気がいりそうです。

ちなみに、同じ要領で、大阪環状線を散歩する『ぶらり大阪まち歩き』(切手240円分)という10コースのスタンプラリーもやってます。
私は、こちらも申し込んでしまいましたが・・・

Matiarukitizu10cc_1 ついでに言うと、大阪のほうにも「マップケース」がついてますが・・・
大阪もこれを首にかけて歩けと・・・(^-^;
北浜も道頓堀も・・・(^-^;

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私はJRのまわし者ではありませんが、「切手540円分で手に入るにしては、そこらへんのガイドブックよりいいな」と思ったもので・・・もし、良かったら【JRおでかけネット】で検索かけてみて下さい。
サイトでキャンペーンの詳細がわかります。
(遠方のかたでも、サイトにある申し込み用紙をプリントアウトして郵送すれば大丈夫・・・ちなみに私もそうしました)

とにかく、まだ地図を手にしたばかりで、全コースチェックしきれてないので、これから色々出かける先を物色したいと思います。
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2007年6月15日 (金)

小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦

 

天正十二年(1584年)6月15日、蟹江城羽柴秀吉の水軍が入城し、小牧・長久手の戦いの最終戦が開始されました。

・・・・・・・・・

本能寺の変(6月2日参照)織田信長が自刃した後、山崎の合戦(6月13日参照)明智光秀を破り、主君の仇を討った事で織田家で大きな発言権を得た羽柴(豊臣)秀吉

その後、織田家・重臣の中で最大のライバルだった柴田勝家賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で倒します。

それまでは、信長の後を継ぐのは織田家・・・秀吉はあくまでそのサポートをする織田家・家臣の立場であったものが、徐々に自らが天下取りへの方向へ向いていきます。

その事を不安に感じた信長の次男・織田信雄と、同じく秀吉だけが力をつける事をよしとしない徳川家康が手を組んで、秀吉とあいまみえた一連の戦い『小牧・長久手の戦い』と呼びます。

3月の亀山城攻防戦(3月12日参照>>)を皮切りに・・・
小牧の戦い
 (3月13日犬山城攻略戦>>)
 (3月17日羽黒の戦い>>)
 (3月28日・小牧の陣>>)

4月には長久手の戦い(4月9日参照)で、秀吉は、池田恒興森長可(蘭丸の兄)の討死という痛手を被ってしまいました。

その後は、主力同士の大きな合戦は少し控えられましたが、もちろん決着がついたわけではありません。

そんな中で、秀吉は信雄の本拠地である尾張と伊勢を分断しようと考えます。

尾張と伊勢の国境あたりにある蟹江城(愛知県蟹江町)・・・秀吉は、この城の副将である前田与十郎寝返らせる事に成功します。

主の佐久間正勝の留守中に佐久間氏を追放した与十郎は、天正十二年(1584年)6月15日蟹江城内へ秀吉方の滝川一益らを招き入れるのです。

蟹江城が秀吉の手に落ちた事を知った信雄と家康は、即行、蟹江城の周辺の砦に移動し、城のすぐ西側にある蟹江川に軍船を出して攻め立てます。

一方、水軍同士の戦闘が沖合いでも開始されます。

秀吉方の水軍を指揮する九鬼嘉隆(くきよしたか)は、家康方の提督・間宮信高こそ討ち取りますが、戦況自体は苦戦を強いられ、沖に陣取っていた秀吉方の軍船は、蟹江沖より撤退させられてしまいます。

そして、もう一方・家康の別隊が展開していた陸上の攻撃により、18日には、秀吉方の下市場城(愛知県蟹江町)落城していまいます。

当然の事ながら、軍船の撤退と下市場城の落城は、蟹江城内で奮戦する兵士にも動揺を与えます。

そこを、すかさずたたみかける織田・徳川連合軍・・・22日に蟹江城・総攻撃を決行します。

あっという間に、陥落する三の丸。

一益らは、何とか踏ん張って、この時には本丸と二の丸を守り抜きました。

しかし、運悪く季節は夏の真っ盛り(旧暦なので・・・)、ジリジリ照りつける太陽のもと、やがて城を取り囲む水路が完全に干上がってしまいます。

川に隣接した水路があってこその蟹江城・・・救援物資を補給する道も絶たれてしまうわけです。

もはや籠城する事も不可能であると判断した一益は、7月3日蟹江城を開城しました。

この『蟹江合戦』の失敗により、その後の一益は仏門に入り、信雄・家康の手に落ちた蟹江城も廃城となります。

一方、北陸の方でも、この小牧長久手に合わせて、秀吉派の前田利家と、家康派の佐々成政(さっさなりまさ)が衝突(8月28日参照>>)したりなんぞしてます。

結果的には、信雄&家康連合軍の勝利に思える、この一連の合戦・・・

しかし、5ヶ月後の11月・・・
なぜか、突然、信雄が単独で秀吉との講和を成立させてしまいます。

そもそもは、信雄に頼まれて合戦に挑んだ家康は、戦う大義名分をなくし、兵を退く事になります(11月16日参照>>)
 

Kanietakigawacc 今日のイラストは、
蟹江城で踏ん張り中の『滝川一益』さんで・・・。

やはり負け戦なので、少し思案する感じの表情にしてみました~。

この時代って、やっぱり負けると責任を感じて仏門に入ったりするんですね~。

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2007年6月14日 (木)

北陸に義仲あり!横田河原の合戦

 

治承五年(1181年)6月14日、打倒平家の気運高まる中、『北陸に義仲あり』を知らしめた横田河原の合戦がありました。

・・・・・・・・・

失敗には終ったものの、以仁王と源頼政の挙兵(5月26日参照>>)によって、おごる平家に陰りが見え始めた治承四年(1180年)

その年の8月には、先の平治の乱(12月26日参照)で伊豆に流罪となっていた源頼朝が、打倒平家の白旗を掲げます(8月17日参照>>)

頼朝挙兵のニュースを聞いて、幼い頃に木曽の中原兼遠(なかはらかねとお)に預けられていた源義仲(みなもとのよしなか)も、打倒平家の思いを熱くしていた所、奇しくも村山義直(むたやまよしなお)の助っ人という形の市原の合戦(9月7日参照>>)初陣を飾る事になりました。

信州(長野県)の反平家の武将たちを味方につけ、市原の合戦に勝利した義仲は、その勢いで亡き父の所領だった上野(群馬県)の多胡郡へと進出します。

しかし、その頃には、すでに関東一円が頼朝の支配下となっていて、これ以上進めば頼朝との衝突は免れません。

従兄弟とは言え頼朝は父を殺害した源義平(よしひら)(8月16日参照>>)の弟・・・いつか一矢を報いたい相手ではありますが、今は同族の源氏同士で争っている時ではありません。

当面の敵は平家・・・まずは打倒平家!の路線で協力体制を作っておく他はありません。

義仲は、多胡郡の武将を取り込んだ時点で、それ以上の関東進出を諦め、北陸=日本海側を制する決意を固めます。

しかし、信州の北・・・越後(新潟県)には、強大な勢力を持つ大豪族・城長茂(じょうながもち=資職・助茂)がいました。

そんな長茂のもとに、信州の動きを察知した中央から「木曽追討」の命令が下ります。

長茂にとって、最初はありがたくなかったその命令でしたが、現実に義仲が信濃の武将を次々に配下に治め、勢力を拡大しつつあるさまを目の当たりにして、「このままでは、俺ンとこも危ないんちゃうん」と思い始め、重い腰をあげます。

長茂は越後はもちろん、出羽や会津といった勢力下の武士・・・そして、先の市原の合戦で信州を追われた者たちを加えた大軍・4万(6万とも)を率いて信州に攻め込みます。

大軍を3つに分け、浜小平太橋田太郎を大将とする1万騎は筑摩越え津波田宗親(つはだむねちか)を大将とする1万騎は上田越え、そして長茂自身が大将を務める残り4万が横田河原に陣を構えたのは6月13日の事でした。

この横田河原というのは、この約400年後、武田信玄VS上杉謙信で有名なあの川中島の合戦(9月10日参照>>)の場所と同じ場所・・・やはり彼らも千曲川を挟んで、あいまみえる事になります。

依田城(よだじょう・長野県上田市)で、長茂・出陣のニュースを聞いた義仲は、落合五郎兼行(おちあいごろうかねゆき)塩田八郎高光(しおだはちろうたかみつ)をはじめ、もちろん、ともに育った乳兄弟・今井四郎兼平(いまいしろうかねひら)樋口次郎兼光(ひぐちじろうかねみつ)・・・そして、この戦いで初陣する事となった兼平と兼光の妹・巴御前(ともえごぜん)も加えた信濃・上野の兵・3千(2千とも)騎を率いて、横田河原の対岸・白鳥河原に陣をとります。

初陣の巴御前も緊張したでしょうが、さすがの義仲もこの時ばかりは神頼みで緊張しまくりだったでしょう。

なんせ、先の市原の合戦は、小競り合いに毛が生えたような物・・・今度は大豪族相手に、本格的な合戦です。
しかも、相手は4万、こちらは3千・・・。

治承五年(1181年)6月14日午前8時・・・義仲は、まず少数精鋭で千曲川を渡り、資永の大軍に挑みかかります。
その数は、わずか100騎・・・。

ところが、『源平盛衰記』によると・・・
『城太郎が四万余騎、入替へ々々戦ひけれども、百騎の勢に懸立てられ、二三度までこそ引退(ひきしりぞ)けり』

何と、100騎の兵に4万がしてやられたんだそうです。
この時、その100騎の兵は、すぐに本陣に戻った・・・とあります。

つまり、少ない人数で、突然やってきて、暴れるだけ暴れて、またたく間に帰って行ったという事・・・意表を突いたわけですね。

しかし、そんなワケのワカランやり方でも、大軍を率いる大豪族・長茂にとっては屈辱です。

長茂は、先の市原の合戦で義仲らに敗れた信濃の笠原頼直(かさはらよりなお)を呼び寄せ、「お前のメンツに賭けてアイツらぶっ潰せ!」と檄を飛ばし、85騎の精鋭を頼直に与え、今度はこちらが千曲川を渡り、義仲の陣に攻撃を仕掛けてきました

義仲方からは、上野の高山党・300騎が出撃し、これを迎え撃ちます。

この戦いは一進一退の激しい物となります。
結局、高山党は300騎が93騎に減り、対する笠原隊は85騎が42騎になりました。
ん~ちょっと長茂方が有利かな?・・・。

続いて、義仲方からは同じく上野の西行助が50騎を率いて突進。
長茂方からは富野家俊(とべのいえとし)がわずか13騎でそれを迎え撃ち、50騎が15騎に減って、13騎が9騎に減って・・・

・・・って、ちょっと待った~!
こんな、一進一退の小競り合い続けててもラチあけへんがな!
第一ちょっとずつ負けてるし・・・。
相手は4万いてますねんで!
このまま、おんなじように減っていったら絶対負けますやん!

と、おそらく義仲も思いました。

そこで、策を練ります。

信濃源氏の井上九郎光盛を呼びよせると、彼に「赤旗」を持たせ、川下から迂回(う)して資永の陣のバックに回りこませ、そこから近づけさせます。

後ろから近づいて来た「赤旗」を見た長茂は、不覚にも「上田越えを命じた津波田宗親隊がやって来た」と勘違いし、敵である光盛に向かって「早く川を渡って向こうの敵をやっつけて来い!」と檄を飛ばします(顔知らんかってなぁ)

光盛は「わかりました」と、向こうへ進攻すると見せかけておいて、突然「赤旗」を撃ち捨て、今度は「白旗」を掲げます(どこに隠し持っててん!)

そして、名乗りを挙げながら怒涛のことく攻撃!

それを対岸で見ていた義仲は「ここぞ!」とばかりに、1千500の兵を率いて一斉に川を渡り、横田河原に攻め込みます。

北と南からの挟み撃ち・・・しかも、油断している所をいきなり仕掛けられた長茂軍は、またたく間に総崩れとなってしまいます。

完璧に打ちのめされた長茂軍・・・。
越後に無事逃げ帰る事ができたのは、大将の長茂を含めわずか300騎でした。

この結果を聞いた、筑摩越え、上田越えをしていた別隊も、結局、戦う事なく越後に逃げ帰ってしまうのです。

この戦いでデビューした巴御前は、大将クラスを7騎討ち取り、義仲を大いに喜ばせたと言います。

この次の本格的な戦いとなる倶利伽羅峠の合戦(5月11日参照)で、彼女に1千余騎の兵をつけて参戦させている事を考えると、いかにこのデビュー戦での戦いぶりがすばらしかったかがわかりますね。

命からがら越後に逃げ帰った長茂・・・思わぬ負け戦に、その後は離反者が相次ぎ、やむなく長茂は、越後を捨て、会津(あいづ=福島県)へと撤退するのでした。

おかげで義仲は横田河原の戦いの後、合戦をする事なく越後を手に入れてしまうのです。

しかも、この様子を目の当たりにした越前(福井県)越中(富山県)の武士たちも、自ら義仲の傘下に入るのです。

市原の合戦で初陣したものの、義仲を一人前扱いしていなかった平家が、この一連のニュースを聞いて、源氏は頼朝だけではない事を知るのです。

横田河原の合戦はまさに木曽義仲を全国ネットに押し上げた戦いだったのです。

Tomoeuizincc 今日のイラストは、
華麗なるデビューを飾った『巴御前』のアップで・・・。

義仲は巴御前と、もう一人・款冬(やまぶき)という女武者もつれていた・・・というけれど、その人はどんな人なんでしょうか・・・。

ところで、この横田河原の合戦での「赤旗作戦」・・・。
騙し討ちとか、ズルイとか言わないでね。

義仲さまファンだから言うのではありませんが、このブログでも紹介している「孫子の兵法」でもお馴染み・・・「兵は詭道なり」(4月5日参照>>)

戦争は騙し合いなのです。

今日のお話の続きは、5月3日【倶利伽羅峠の前哨戦!越前・加賀の合戦】でどうぞ>>>
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2007年6月13日 (水)

天下分け目の天王山!山崎の合戦

 

天正十年(1582年)6月13日・・・いよいよ山崎の合戦!
天下分け目の天王山です。

今でもスポーツなどで、先行きを決定付けるような重要な試合を「天王山」と呼ぶのは、この戦いに由来する物です。

・‥…━━━☆

あの本能寺の変(6月2日参照>>)から11日め・・・

この間の明智光秀の事を、俗に三日天下と言いますが、ご覧のように三日ではありません。

ただ、羽柴(豊臣)秀吉と光秀・・・ともに畿内の武将たちに味方になるよう声をかけていた中では、「主君の仇討ち」を大義名分に掲げた秀吉には続々と集まります(6月11日参照>>)が、一方の光秀側には、筒井順慶も来ず、頼りにしていた娘・お玉(ガラシャ)の夫・細川忠興も、その父・藤孝(幽斎)参戦する事はなかったのです(6月9日参照>>)

12日に洞ヶ峠を下りた光秀は、直属の部下1万6千の兵で、秀吉軍4万に挑むべく、戦いの地・山崎へ向かいます。

光秀には、少ない兵で立ち向かう唯一の秘策がありました。

それは、大坂から京都へ向かう交通の要所・山崎で敵を向かえ撃つ事です。

Yamazakidougatougecc 先日の洞ヶ峠のページの地図(←)を見ていただいたらわかると思いますが、天王山淀川を挟んで石清水八幡宮のある男山・・・。

この二つの山が接近する狭い空間に、西岸には阪急京都線、JR東海道本線、東海道新幹線・・・そして東岸には京阪電車と、大阪⇔京都間の交通手段がほぼ同一線上を行き交います。

さすがに、道路の方は、1号線が例の洞ヶ峠越え、名神高速道路が天王山トンネルと、少しズレてはいますが、広い視野で見ると、同じ場所を通っているような物です。

それだけ、大阪から京都に向かう時、どうしても通らなければならない場所だったのです。

Tennouzansaigokukaidoucc もちろん、現在京阪電車が走っている淀川の東岸にも道はありましたが、京街道として整備されるのは、文禄堤などでわかるように秀吉が天下を取ってからの事・・・

当時はまだまだメイン道路は西岸の西国街道でした。

ここには、太古の昔から摂津の国と山背(後の山城)の国を分ける関所があり、藤原道長平家一門も、山崎を通って大坂⇔京都間を移動していました。

そんな重要な地点でありながら、山と川が接近しているため幅が狭い!

今でも阪急とJRが入り乱れて走っていますが、当時の淀川はさらに西側にあり、幅も広く、しかも、その横に大きな沼もありました。

そうです、長い前置きになりましたが、秀吉の大軍は、大軍だからこそ、ここを一気に通り抜ける事ができないのです。

「狭い空間で、しかたなく縦長になった軍を、一つ一つ崩していけば勝機はある」と、光秀は思ったに違いありません。

そのためには、秀吉軍より先に山崎に着いて、準備を整えなければなりません。

敵が、その先の広い場所へ出てしまっては勝ち目がありませんから・・・。

幸いな事に12日の時点で、敵は摂津富田、こちらは洞ヶ峠・・・川越えはあるものの、少しこちらが距離は近い。

光秀は、その日のうちに山崎に到着して、秀吉軍を迎え撃つ準備を整えます。

Tennouzanyamazakinokassenfuzinzucc_1 ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そして、いよいよ明けて天正十年(1582年)6月13日・・・

その日は雨のそぼ降るどんよりとした日でした。

狭い場所からの出口部分に扇形に先鋒を配置する光秀・・・。

やがて、秀吉軍の先鋒・中川清秀高山右近が天王山のふもとに陣を敷きます。

その後ろには羽柴秀長(秀吉の弟)、そしてもちろん秀吉も続きます。

戦闘は申の刻・・・午後4時半頃開始されました。

まずは、光秀軍の斉藤利三並河掃部松田太郎左衛門津田正時先鋒が秀吉軍の先鋒に突撃します。

しかし、さすがに、秀吉軍の先鋒・・・そう簡単に切り崩せる物ではありません。

光秀軍の先鋒は苦戦を強いられます。

その間に、秀吉軍の池田恒興加藤光泰木村隼人らが、淀川の際をすり抜けて光秀軍の東側を攻め立てます。

ここを守るのは、伊勢与三郎御牧三左衛門諏訪飛騨守といった面々でしたが、こちらは主力でなない少し手薄の軍・・・たちまち苦戦に陥ってしまいます。

そこを、すかざず秀吉軍・本隊の大部隊が、その後ろを通り抜け、天王山の東側の広い部分に出てしまいます。

戦闘の火蓋が切られてから、わずか1時間後の事でした。

本隊が広い場所に出てしまえば、後は数の問題・・・もはや戦況は見えています。

はやくも、勝利の気持ちたかまる秀吉軍・・・一方の光秀軍は敗走するしかありません。

Tennouzanhatatatematucc 約3時間ほどの戦いで勝敗は決しました

夕暮れ迫る闇に紛れて、光秀は本陣の後方にあたる勝龍寺城へと逃げ込みます。

しかし、この勝龍寺城は、城と言っても砦に毛の生えた程度の平城で、とても秀吉軍の追討を迎え撃てる城ではありません。

光秀は、夜になるのを待って、本拠地である近江・坂本城をめざして勝龍寺城を出立します。

まだ、坂本城で再起を計るチャンスはあります。

しかし、一行が山科小栗栖(おぐるす)に差し掛かった時、突然藪の中から竹槍が突き出されます。

竹槍は落ち武者狩りをしていた周辺の村人の物でした。

即座に村人を撃退して、再び近江へ向けて進む一行・・・しかし、その時、突然、光秀が落馬をしてしまいます。

見ると、脇から大量の血が・・・。
先ほどの竹槍は、光秀に予想以上のケガを負わせていました。

「もはや、これまで・・・」と悟った光秀は、その場で自刃し、付き添っていた側近が介錯をし、その首を敵に取られぬよう地中深く埋めたのです。

明智光秀、55歳・・・本能寺の変から11日目の事でした。

翌、14日には、坂本城にて、光秀の正室や子供たちが自刃し(6月15日参照>>)完全に光秀の夢は露と消えました。

このブログでは、本能寺の変の時にも、その動機に関して「戦国最大のミステリー」と書きましたが、この光秀の死に関しても腑に落ちない部分があるのは確かです。

光秀に槍をつけたのも、通りすがりの村人。

またこの後、見つからないように埋められたはずの光秀の首を発見するのも、通りすがりの村人。

光秀の最期としてはあまりにも不可解な最期です。

・・・よって、またまたミステリー・・・光秀生存説となるのですが、そのお話は10月2日の【天海=光秀説】のページでどうぞ>>

Tennouzankassenzucc

また、今日のお話の続きは6月27日【清洲会議~信長の後継者】でどうぞ>>
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2007年6月12日 (火)

入鹿暗殺≠大化の改新

 

大化元年(645年)6月12日・・・

まずは、蘇我入鹿・暗殺の一部始終から・・・

・‥…━━━☆

その日、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿では、時の天皇・第35代皇極天皇がお出ましになり、三韓(みつのからくに)からの貢物を受け取る儀式が行われようとしていました。

居並ぶ重臣たちの先頭に立つのは、当時、権力を欲しいままにしていた蘇我蝦夷(そがのえみし)大臣・・・。

Issinohenitabukinomiyacc 最後にやってきた蝦夷の息子・入鹿(いるか)が宮殿へ入ろうとすると、入り口でピエロが芸を披露し、面白おかしく(何かを)チョーダイ」のポーズ・・・「そうか、この剣を渡せと言う事か?」と、入鹿は笑いながら、ピエロに剣を預けます。

皆が揃ったところで、蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)が進み出て、三韓の外交文書を読み上げます。

自ら槍を持って宮殿の脇へ身を隠した皇極天皇の息子・中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が合図を送ると、味方の警備兵が一斉に12個ある宮殿の通用門を閉めます。

皇子の傍らには、弓矢を持った中臣鎌子(なかとみのかまこ=鎌足)が、同じく身を潜めます。

鎌子のとなりにいた海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)は、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)稚犬養連網田(わかいぬかいのむらじあみだ)に、それぞれ一振ずつ剣を手渡しながら、小声で「できるだけ迅速に斬り捨てろ」と命じます。

しかし、二人は恐ろしさのあまり、ノドがカラカラ・・・水を飲もうとしてもノドを通らない。

そうこうしている間に、石川麻呂は文書を読み終わりそうになります。

実は、川麻呂が文書を読んでいる最中に、入鹿に斬りかかる予定でしたが、先の二人の恐怖がおさまらず、グズグズしていたのです。

もう、最後の一行になってしまったのに、なかなか事が始まらないので、今度は石川麻呂が奮えだし、恐怖のために汗ビッショリになってしまいます。

その様子を見た入鹿は不審に思い「どうした?なぜ、そのように怯えているのか?」と訪ねます。

「あまりに天皇の近くにきましたので、おそれおおくて奮えが止まりません」と、石川麻呂はごまかします。

「あかん!コイツらにまかしとかれへん!俺が殺ったる!」と、中大兄皇子が躍り出んとした時・・・「蘇我大臣の御殿が、何者かの放火され炎上中!」という急使が舞い込みます。

騒然とする宮殿内・・・蝦夷は顔面蒼白になり、その場から駆け出します。

父の後を追って、入鹿が駆け出そうとしたその瞬間!

背後から何者かに刺され、血まみれになってその場に倒れ込みます。

傍らには、剣を手にした中大兄皇子と中臣鎌子・・・。

「何事か!」と、玉座におわす天皇が声を荒げますと、虫の息の入鹿は、はいつくばりながら天皇のほうを見上げて「私は無実です。よくお調べになって下さい・・・」

そう言って、その場で息絶えたのです。

さすがの二人の貴公子も、しばらくその場から動けずに立ちすくんでいたところ、「早よう、この場をお逃げなされ」という、重臣の誰かの一言にハッと我に返り、皇子と鎌子は、同志十数名とともに、多武峰(とうのみね)へと逃走します。

多武峰とは、飛鳥から細川(冬野川)沿いの渓谷を南東へ向かった場所にあり、五年前の蹴鞠の会で知り合った皇子と鎌子は、その後、多武峰で度々寄り合っては、入鹿暗殺の計画を練っていた場所・・・つまりアジトです。

その逸話から、その場所は談山神社と呼ばれる事になります。

一天にわかに掻き曇り、雷鳴轟く中を逃げる皇子と鎌子・・・それを、斬り落としたはずの入鹿の首が執拗に追いかけます。

息も絶え絶えになりながら逃げるうち、うっそうとした森の中に入り込んで、大きな木の陰に隠れて、入鹿の首をやり過ごす・・・。

Amakasinookatokubidukacc 二人を見失った入鹿の首は、ふと、燃え上がる自宅の事が気にかかります。

「父はどうしただろう」
入鹿の首は、180度方向を変え、今度は飛鳥に戻ります。

しかし、力つきて自宅の手前で落ちた所が、現在の入鹿の首塚のある場所だと言われています。

一方の皇子と鎌子・・・恐る恐るチラッと空を見上げる二人・・・どうやら入鹿の首は飛び去ったようです。
「よかった・・・」
さすがに、ここまで来たら、もう来んやろな。」
と言ったという事で、このあたりの森は「茂古(もうこん)の森」と呼ばれているのだとか・・・。

・・・・・・・・

・・・と、これが蘇我入鹿暗殺の一部始終。
これを「乙巳(いっし)の変」と呼びます。

もちろん、後半部分の入鹿の首が追っかけて来る・・・という話は作り話だという事はわかりますが、この変をきっかけに「大化の改新」なる大きな改革が行われる事になる・・・と、私は歴史の授業で習いました。

しかし、どうやら、「入鹿暗殺」と、「大化の改新」は別物のようです。

そもそも、この暗殺劇と大化の改新の事が書かれている『日本書紀』は、この事件の後、70年後に書かれた物で、しかも、編者は、物語のヒーロー中臣鎌足の子孫。

つまり・・・勝者が書いた歴史です。
とてもアヤシイ・・・。

だいたい名前がすでに怪しいです。

当時は、巨大なクジラの事を「勇魚(いさな)と呼んでいて、読んで字のごとく、勇敢な魚として良いイメージを持っていたのに対し、食すればまずく、漁場を荒らしてばかりする小型のクジラを「入鹿(いるか)と、さげすんだイメージで呼んでいたのです。

そうなるとお父さんの蝦夷もおわかりですね。
「征夷大将軍」という名前でもわかるように、当時、蝦夷は別の国で、しかも、その呼び名には自国より劣った国という差別的な意味も込められていました。

つまり、この名前は差別用語・・・二人とも本名ではありません。

あれだけ歴史に登場した蘇我氏の本家が、ここで滅亡したという事実がある以上、さすがに暗殺事件があった事は本当でしょうが、それ以外の事はどうも鵜呑みにするのは考え物のようです。

そして、その暗殺事件と大化の改新が別の物であるという根拠は、この暗殺事件の翌年に発布されたとする「大化の改新の詔(みことのり)にあります。

詔とは、要するに、政変によって改革された新しい法律ですが、その詔の副文が大宝元年(701年)に成立する「大宝律令」の丸写しの可能性が高いのです。

それは、地方の行政区域の表記が、詔では(もちろん大宝律令でも)「郡大領」と書かれているのですが、藤原宮で発掘された木簡によって、大宝律令以前には、「評督領」と表記されていた事が判明。

つまり、改新の詔は、大宝律令以降に書かれた事が可能性が高いのです。

さて、こうなったら、『日本書紀』のどこが本当で、どこが嘘なのか?徹底的に知りたくなりますね~。

もちろん、謎解きの答がすぐに出る物ではありまでんが・・・

Issinohencc 今日のイラストは、
やはり、『乙巳の変』その時・・・って感じです。

入鹿目線の絵っていうのがけっこう難しかった~
記事よりはるかに時間がかかってしまった・・・
 .

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2007年6月11日 (月)

洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀

 

天正十年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変(6月2日参照)

織田信長死亡の余波を受けて、それぞれの武将たちの行動を日を追って、徳川家康伊賀越え(6月4日参照)羽柴(豊臣)秀吉中国大返し(6月6日参照)と・・・・これまでのブログで、秀吉が6月10日の昼前に尼崎まで到着し、地元の武将に自分の味方になるよう声をかけ始めた・・・という所まで書かせていただきました。

・‥…━━━☆

秀吉の呼びかけに応じ、有岡城主・池田恒興茨木城主・中川清秀高槻城主・高山右近といった面々が、即座に秀吉側からの参戦を表明します。

これには、明智光秀はかなりのショック・・・なんせ、摂津衆と呼ばれる彼らは、むしろ光秀に近い武将たち、こうなった時にはきっと自分側から参戦してくれる物だと思い込んでいましたから・・・。

当然、光秀も秀吉同様、畿内の武将に味方になるよう声をかけていました。

そんな中の一人が筒井順慶です。

筒井順慶と言えば『洞ヶ峠』・・・。

最近は、あまり使われなくなった言い回しですが、この時の逸話から生まれた「洞ヶ峠を決め込む」という言葉があります。

Horagatougecc 現在の洞ヶ峠付近

洞ヶ峠というのは、京都府南部と大阪府枚方市の境にある峠の名前・・・現在では、国道1号線が通っていて、沿道には様々な店舗が建ち並び、とても賑やかな雰囲気ですが、以前はうっそうとした木立に囲まれ、峠特有の摩訶不思議な出来事が起こる心霊スポットでもありました。

山崎の合戦の際に、この洞ヶ峠で筒井順慶が、情勢を見て動かなかった・・・つまり、どちらか優勢な方につこうと日和見(ひよりみ)をした事から、今でも、優位な方に味方しようと情勢を観察する事「洞ヶ峠を決め込む」と言うのです。

Dougatougetizucc

たしかに、洞ヶ峠は石清水八幡宮のある男山へと連なる丘陵地・・・淀川を挟んで、向こうには天王山・・・

その天王山のふもとで、秀吉VS光秀の山崎の合戦が繰り広げられたわけですから、地形的に見れば、情勢を観察するにはもってこいの場所かも知れません。

しかし、残念ながら、この筒井順慶の逸話は、まったくの俗説で、本当の出来事ではありません。

そもそも、この洞ヶ峠は光秀のテリトリー・・・もし、本当に順慶が洞ヶ峠に登ったのなら、その時点で自動的に光秀側についた事になってしまいます。

ならば、どっからどうしてそんな話が・・・。

それは、天正十年(1582年)6月11日の事でした。

本能寺の変から9日余り・・・光秀は順慶に再三再四、参戦してくれるように誘いをかけていたにもかかわらず、未だ順慶からの返事はありません。

この日、洞ヶ峠に陣を張った光秀は、この洞ヶ峠から、大和郡山城にいる順慶に向けて、最後の出兵の催促をするのです。

そう、実は洞ヶ峠に登ったのは、順慶ではなく、明智光秀のほうなのです。

順慶がこれまで、参戦に関して返事をしなかったのは、決して日和見をして=洞ヶ峠を決め込んでいたわけではありません。

彼は返事ができなかったのです。
それは、光秀への義理・・・

Fukutiyamazyoutokooriyamazyoucc 光秀が丹精を込めて造りあげたという京都府福知山市にある福知山城

そして、順慶がいた奈良県大和郡山市にある郡山城

この二つのお城には、全国でこの二つのお城にしかない特徴が見うけられます。

順慶が信長の支援を得て大和を統一した天正八年(1580年)・・・筒井から郡山に移り住んだ順慶が、まず行ったのが城郭の整備。

それを、指導してくれたのが、光秀だったのです。

光秀は、未だ地方侍だった順慶に、一つ一つ丹念に教えてくれたに違いなく、だからこそ、何となく二つの城が、似ている気がするのかも知れません。
(まぁ、今現在の遺構は、ほとんど後世の物で、思い込みかも知れませんが…)

なので順慶は光秀に多大なる恩を感じていた?・・・しかし、世は戦国です。

義理と人情では生き残れません。
それこそ、しっかりと情勢を見極めなければ・・・。

おそらく、順慶はとっくの昔に見極めていました。
最初から秀吉につく事は、もう心の中で決まっていたに違いありません。

しかし、光秀への義理を重んじるため、彼は一部の部下を光秀の指揮のもとに向かわせ、同時に、秀吉には秀吉側につく事を誓った誓紙を送り、自分自身は大和郡山城にこもって、一歩も動かなかったのです。

翌12日、秀吉は本陣をさらに20㎞進めて、摂津富田に陣を張り、信長の三男・神戸信孝と、織田家重臣・丹羽長秀と合流します。

一方の光秀は、順慶の返事が届かぬまま洞ヶ峠をおり、合戦の地となる川向こうの山崎へ向かうのです。

・・・と、この続きはやはり、天下分け目の天王山・・・山崎の合戦のあった6月13日のページでどうぞへ>>>)
 .
 

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2007年6月10日 (日)

今川義元登場!花倉の乱

 

天文五年(1536年)6月10日、今川家のお家騒動花倉の乱で、岡部親綱が駿河方ノ上城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・・

天文五年の3月17日、今川家の当主・今川氏輝が急死しました。

先代・・・つまり、氏輝のお父さん・今川氏親(うじちか)は、当時としてはめずらしい『今川仮名目録』という法律を発布した事でも知られる名君で、しっかりと領国を治めていた人でした。

その後を継いだ正室・寿桂尼(じゅけいに)の子・氏輝が志半ばにして急死・・・しかも、同じ日に弟の彦五郎も急死するというニオイまくりの不可解な死・・・(3月14日参照>>)

そして、氏輝には子供がいなかった事から、この後継ぎを巡って、今川家のお家騒動となるわけです。

氏輝には、同じ日に死んだ彦五郎以外にも、まだ二人の弟がいましたが、三男・四男という事もあって、二人とも幼い頃に出家して、すでに僧になっていました。

その二人とは・・・正室・寿桂尼の子・梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と、側室の子・玄広恵探(げんこうえんたん)です。

氏輝の死の直後、玄広恵探は母方の福島氏をバックに今川家の後継者として名乗りを挙げます。

そうなると、当然、もと正室の寿恵尼が黙っていられるわけにはいきません。

しかも、その寿恵尼さんは、「女大名」とのニックネームをつけられるくらい、氏輝が生きていた時から、何かと政治に口出すやり手の母でした。

即座に、自分の息子・梅岳承芳を後継者に推薦します。

当時、梅岳承芳は駿河瀬古(静岡県富士市)善得寺で修行の身でしたが、同じ善得寺の僧で梅岳承芳の教育係でもあった太原崇孚たいげんすうふ・雪斎)が、その推薦を受けて、すぐさま動き始めます。

水面下で、今川の古くからの重臣たちを抱きこんで、彼らを梅岳承芳の支持へと誘い込みます。

徐々に孤立していく玄広恵探・・・。

不安を感じた彼は、当時住職をしていた照光院(しょうこういん)の近くの花倉館に籠城し、対抗する姿勢を見せます。

かくして、天文五年(1536年)6月10日・・・梅岳承芳派に属する岡部親綱(ちかつな)が、玄広恵探側につく方ノ上(かたのかみ)城を攻めるのです。

またたく間に落ちる城・・・敗走する兵を追って、岡部軍は花倉館に近づきます。

玄広恵探は、花倉館を捨てて、今度は瀬戸谷へと逃れました。

しかし、自分の母方の福島氏以外の武将が、ことごとく梅岳承芳の味方についている事を悟った玄広恵探・・・「もはや、勝利の望みはない・・・」と、自らの命を絶って果ててしまうのです。

親綱の攻撃から4日後・・・6月14日の事でした。

後継者争いに勝利した梅岳承芳・・・。

彼は、この時から、義元と呼ばれる事になります。

今川義元・・・18歳の夏でした。

そして、義元は父・氏親の時から続く敵対関係を無くすため、甲斐の武田信虎(信玄の父)の娘と結婚。

しかし、これには以前から同盟を結んでいた北条氏が黙っていませんでした。

やがて、義元は、先の太原崇孚の補佐のもと、この北条氏の2度に渡る攻撃を撃退するかたわら、織田の領地・三河をも攻略し、駿河遠江三河の三国を制する「海道一の弓取り」に成長します。

Imagawayosimotohanakuracc 今日のイラストは、
『18歳の頃の義元さん』を書いてみたつもりでございます~。
ちょっと「おぼっちゃま風」の雰囲気で・・・。

ちなみに、氏輝と彦五郎の死には、太原崇孚が関与しているとの噂もあります。

今年の大河ドラマでも、伊武さんが太原崇孚(ドラマでは雪斎の名前のほうで呼ばれてますが・・・)で、いい味を出してますね~あやしい感じがすごく良いです。

それにしても、戦国ゲームに登場する今川義元のキャラはヒドすぎる!
普通はありえないくらいカッコよくなってるのに・・・彼だけが、お気の毒な感じです。
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2007年6月 9日 (土)

一味同心・一揆へ行こう!

 

長享二年(1488年)6月9日、加賀に一向一揆が起こり、守護の富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込みました。

その後、加賀では、柴田勝家らが制圧するまでの約100年間、一向宗門徒の自治よる独立国家が営まれる事になったわけですが、そこのところの経緯は加賀一向一揆の勃発>>加賀一向一揆の終焉>>で見ていただくとして・・・

今日はちょっと趣向を変えて・・・

あなたがこの時代のある村に住んでいる村民の一人と仮定して「あなたが住んでいる惣村(そうそん)の世話好きなおっちゃんからの一揆へのお誘いという形をとって、当時の一揆の様子やその基盤となった惣村についてご紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・

「こら!
何、ボ~ッとしとんねん!
さっき太鼓が鳴っとったやろ!

さっさと行かな、鐘が鳴ってから線香が2寸燃えるうちに集会所に行っとかな欠席とみなされて、罰受けさされんねんで。

そや、これから集会やがな。
明日の一揆についてのモロモロの説明があんねんから・・・

何?お前まだ一揆の署名してへんのんかい!
はよ・・・ここに名前書くねん。

Ikkisyomeicc 太良荘の一揆については、8月21日【中世の名も無き人の名前とは?】でどうぞ>>

これはな、「傘連判(からかされんぱん)言うてな、一揆の首謀者が誰かわからんように、こーゆー感じで丸く署名すんねん。

他にも、普通に署名してから「孔子次第(くじしだい)って注釈つけて「くじ引きで順番決めました」って事を明記したり、テレビ番組のエンドロールみたいに「順不同」って言葉を付け加えたりする方法もあんねやけどな。

とにかく、一揆っちゅーのはやな、「揆を一にする」「心を合わせて行動する」っちゅーこっちゃ。

「一味同心(いちみどうしん)・・・心は同じで皆一緒、上も下もない、リーダーも協力者も、皆、同一なんや。

ワシらの「惣村」っちゅーのは、貴族や武士に頼らんと、自分らで運営して行くんや。

春の種まきから田植え、稲刈り・・・全部村人で助け合ってやって行くんや。

もちろん、法律も自分らの法律やで。

村の共有物と各個人の物の振り分けや、行事への参加や寄付についても、村民同士のモメ事も、みんな村の法律に基づいて解決するんや。

法律かて、村の誰かが勝手に決めんのとちゃうで。
番頭沙汰人(さたにん)中老乙名(おとな)てな世話役はおるけどな。

そいつらは、あくまで世話役で、決め事があるときは、今日らみたいに村人全員が集まる集会を開いてな、そこで合点(がってん・投票)をして、多分の儀(多数決)で、衆議(意志決定手続き)をするんや。

これは、絶対譲られへん決まり事なんや。

武士や貴族が、村に対して何やかんや言うてきても、寄り合いの決定で決まらんかぎりは、何も動けへんのや。

事件の検断(警察と裁判)なんかも自分らでするねんで。

こないだの、アレ、お前も知ってるやろ?
強盗殺人事件の犯人の油売り・・・逮捕して、ちゃんと決まりに基づいた裁判して処刑したがな。

村同士の闘争を解決する時には、「解死人(げしにん)ちゅーシステムもあるで。

これはな、村同士がモメて、「一触即発!こら合戦や!」てな事になった時、武力衝突を避けるための手段や。

Ikkiimaityoucc 村の代表者を一人決めて、解死人として相手に引き渡すんや。

引き渡された解死人は殺したらアカンって原則があるけど、どうしても押さえられん人間の感情で、復讐の対象にされる場合もある事はあるんやけどな。

       (今井町については7月4日のページで>>>

そのかわり解死人になった者の残った家族は村で100%保証や。

どんな事があっても村全体で守ったる!
それが、平和解決のシムテムなんや。

ついでやさかい、明日の一揆についても、教えといたるけど・・・

ほら貝を吹き鳴らしながら、何人かが道筋を歩き出しら、とにかく(くわ)を持って集合や。

竹槍でもええで。

みのは必須アイテムやな。

それから着物の色は柿色(身分の低い色とされていた)・・・背中に米俵背負うのも、今、流行ってるで!

一向一揆の場合は、「南無阿弥陀仏」て書いた「蓆(むしろ)旗」も必要やな。

広島の一向一揆なんか
『進者往生極楽・退者无間(無限)地獄』
「行けば極楽、行かねば地獄」
て書いとったらしいけど、文章長いっちゅーねんなぁ。

当日は、罵声や怒号をあびせながら、わざと乱暴狼藉を働きもって、道筋を進んで行くさかいにな。

当然やろ。

相手をビビらさなあかんねんから・・・、荒々しい雰囲気をかもし出さんと、おとなしゅーしてたらラチあけへんがな。

明日の一揆が成功したら、ワシらの暮らしはもっとようなるで~

ほな、行こか?

どこへ?て、集会やがな、アカン、もう遅刻や~!
村八分にされるがな~」

・・・・・・・・・・・・・・・・

村八分(むらはちぶ)とは・・・
決まりをやぶったために、村全体でその家をシカト(無視)する行為なのですが、当時の村では、特に重要な付き合いとして、
「誕生祝・成人式・結婚式・病気見舞い・葬式・法事・火事・出立・家の普請・水害」
の10項目を定めていました。

・・・で、村八分は、上の10項目のうち、8項目のつきあいはやめるが、2項目のつきあいは残しておくという物です。

その2項目とは葬式火事・・・。

いくら全員で無視している家でも、火事になったら村全体で消火活動にあたり、復興作業を手伝います。

その家の人が死んだ時も、死の悲しみは皆同じ・・・ともに悲しみます。

外国では、こうゆう時、たいてい100%の無視をしますが、2割のつきあいを残しているところに、日本人のちょっとした心遣いが垣間見えますね。
 .
 

参照ページ・・・6月9日:長享一揆~高尾城の戦い>>
         9月18日:正長の土一揆>>
         12月11日:山城の国一揆>>
         3月9日:加賀一向一揆の終焉>>
 .

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2007年6月 8日 (金)

鴨長明さんのご命日なので・・・

 

建保四年(1216年)閏6月8日、鴨長明が約60年ほどの生涯を閉じました。

・・・・・・・・

鴨長明(かものちょうめい)と言えば『方丈記』・・・独特のリズムで、人の世の無常を書き綴ったその文章は、ガラにも無く哲学的な物思いにふけさせられる事がしばしば・・・。

ご命日は、閏6月10日とも言われますが、とりあえずは、そんな名文を引用させていただきながら、長明さんを偲ばせていただきたいと思います。

‥…━━━☆

鴨長明は、京都・下鴨神社禰宜(ねぎ・神官)だった鴨長継の次男として生まれます。

生まれた年は仁平三年(1153年)とも、久寿二年(1155年)とも言われていますが、保元元年(1156年)には保元の乱(7月11日参照>>)が、平治元年(1159年)には平治の乱(12月26日参照)が勃発した頃で、時代は貴族から武士へと移り変わる頃・・・多感な青春時代は、平家全盛の時代でもありました。

琵琶を弾き、和歌を詠み・・・後鳥羽院の和歌所の職員にも抜擢された上に、彼の作品は『新古今和歌集』にも収められ、宮廷歌人として大いに活躍しておりました。

そんな彼の人生が一転するのが、後継ぎ問題。

Tyoumeitadasunoyasirocc神官の家系である彼のところに、下鴨神社の摂社・河合社(ただすのやしろ)神官をやらないか?という話が舞い込んできます。

ところが、その話が、なぜか、一族の鴨祐兼(かものすけかね)反対に遭い、パァになってしまいます。

しかも、どうやらこの時に、父の後を継ぐ・・・という夢が完全に断たれてしまったようです。

『つひにあととむる事を得ず』
「とうとう後を継げなかった・・・」
と、ご本人も、かなりのショックを受けて嘆いています。

この時のショックで彼は宮仕えをやめ、隠居生活をし、神官の家系なのにも関わらず仏教に入れ込み、出家までする・・・この行動にいかにショックだったのかがわかる気がしますね。

やがて、世の中が源平の合戦にあけくれた日々は源氏の勝利に終わり、源頼朝鎌倉で幕府を開きます(7月12日参照>>)

しかし、それもつかの間・・・頼朝亡き後のゴタゴタの中、他の御家人を押さえて頭角を現してきた嫁の実家の北条氏・・・(6月22日参照>>)

そんなこんなの建暦二年(1212年)、日野外山の四畳半ほどの小さな家で、俗世間と離れ自給自足の日々を送りながら、長明は『方丈記』を書いたのです。

いつでも引越しできるような簡素な住まい・・・そんな場所で、彼はめまぐるしく過ぎ去った時を振り返ります。

いくつかの戦乱の合間には、安元三年(1177年)の大火
治承四年(1180年)の辻風(竜巻?)
養和元年から二年(1181年~82年)にかけての大飢饉疫病
元暦二年(1185年)の大地震・・・。

そんな天災とともに、平清盛によって行われた福原遷都(11月26日参照>>)で、これまた荒れ放題の都の風景・・・。

様々な出来事を走馬灯のように思い浮かべながら彼はゆっくりと筆を走らせます。

『ゆく河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつむすびて、久しくとどまるためしなし。
世の中にある人と栖
(すみか)と又かくのごとし』
「川は絶え間なく流れてるけど、その水はいつも同じやない。
淀みに浮かぶ泡は、消えたと思たらまた別の所にでき、同じ状況やった事はない。
人の生活も同じやなぁ」

さらに、長明は続けます・・・
「都には、ぎょうさん立派な家が建ち並んでるけど、よくよく尋ねてみると、昔からずっとそこにあった家は“まれ”やと言う。
ある家は去年焼けて今年建ったばかり、ある家は没落して小さくなる・・・
住む人も同じ、都にはいつもたくさんの人がいるけど、昔からいてる人は2~30人のうち一人か二人や」
と・・・。

う~ん・・・空しいぞ~この世は空しすぎる・・・しかし、話はさらに加速していきます。

『朝(あした)に死に、夕(ゆうべ)に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、うまれ死ぬる人、いづ方より来りて、いづ方へか去る。』

「朝に誰かが死んだら、夕方には誰かが生まれる・・・そんな世の習いは水の泡と同じや。
生まれては死んでゆく・・・人とはどこから来て、どこへ行くんやろう」

また、そんな人の世を、長明さんは花と露にたとえて・・・
『或ひは露落ちて花のこれり。のこるといへども朝日にかれぬ。
或ひは花しぼみて露なほ消えず、消えずといへども夕待つことなし

「露が消えて花が残ったとしても、それも朝になったら枯れて、花がしぼんで露が残ったとしても、その露は夕方を待つ事なく消えてしまう」

あきませんで!長明はん!
これ、完全に更年期障害になってまんがな!

んん~っと、1155年生まれやとしたら・・・この時、57歳!
やっぱり更年期ですね。
男の人もなるらしいですから・・・。

こうして悩みに悩み抜いた長明さん・・・。

結局、答えを見出せないまま筆を置く事になります。

まぁ、テーマが重すぎるっちゃ重すぎますから・・・。

『人を頼めば、身、他の有(いう)なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。
世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。』

「人に頼ってばっかりやと自主性がなくなるし、人のために動いてばっかりやと縛られる。
世の中の常識通りにすればしんどいし、常識通りにしなければ“アイツ変わってんな”と言われる」

自問自答を繰り返しながらそれでも・・・

『今さびしきすまひ(住い)、ひとまのいほり(庵)、自らこれを愛す』
と、晩年は、四季の移り変わりや、鳥のさえずり、花の美しさを愛でる事のできる田舎生活をけっこう満喫していたようです。

人が訪れる事もないので争いごとも起こらず、自分にとっては心休まる住みかだとも言っています。

人から見たら簡素な住いだけれど・・・
魚は水にあかず、魚にあらざればその心知らず。
閑居の気味も又おなじ。住まずして誰かさとらむ』

「水の中にいてる魚の気持ちは、魚にしかわからへん。
簡素な家も同じ・・・住んでみんとその良さはわかれへんねや」

Tyoumeiseminoogawaccそうですよ、長明さん。

空しい人の世を、楽しくするのは、その人の心・・・。
楽しいと思えば、人生楽しくなるんですよ!

・・・と、前向きな気分でないと、今日のブログは終われませんがな!

最後に『新古今和歌集』に収められた長明さんの歌をご紹介させていただきます。

♪石川や
  せみの小河の 清ければ
 月もながれを 尋ねてぞすむ♪
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2007年6月 7日 (木)

高杉晋作と幕末の人々

 

文久三年(1863年)6月7日は、高杉晋作奇兵隊を結成した日、そして、その3年後の慶応二年(1866年)6月7日は、第二次長州征伐が開始された日・・・と、奇しくも二つの出来事が重なった事で、今日は高杉晋作さんを中心に、幕末の志士たちのお話を書かせていただく事にします。

・・・・・・・・・・

それにしても、この時代の志士を見てみると、その年齢の若さに驚いてしまいます~。

高杉晋作奇兵隊を結成したのは25歳の時、そして、その幹部に抜擢された伊藤博文23歳(12月16日参照>>)

彼らが、ともに学んだ松下村塾(11月5日参照>>)を開いていた吉田松陰は、この4年前、安政六年(1859年)に死刑になっていますが、その時の年齢が30歳です(10月27日参照)

余談ですが・・・小学生の頃に松下村塾を見たときは、松陰さんには大学教授のようなイメージを抱いていて、てっきりオッサンだと思い込んでいたので、ずいぶんと驚いた記憶があります。

そして、慶応二年(1866年)に第二次長州征伐が行われる少し前、同じ年の正月に、薩長同盟(1月21日参照>>)が結ばれる事になるのですが、その時の中心人物の西郷隆盛が、ちょっと年上・・・それでも当時37歳

対する長州の桂小五郎(木戸孝允)33歳

その薩長同盟の実現に奔走した中岡慎太郎坂本龍馬28歳31歳

まだまだ、個人的に驚く年齢の人々を、翌年(1867年)の大政奉還(10月14日参照)の時の年齢を基準にリストアップさせていただくと・・・

大久保利通37歳
近藤勇33歳
土方歳三32歳
山岡鉄舟31歳
徳川慶喜30歳
板垣退助30歳
大隈重信29歳
後藤象二郎29歳
西園寺公望18歳・・・明治天皇にいたっては15歳であらせられますがな。

やっぱ世の中を変える・・・となると、若い情熱が原動力となるのでしょうか?

そして、この時代の志士と呼ばれる人たちは、ほとんどが武士ですが、下級武士だった人がかなり多いですね~。

西郷隆盛や大久保利通は薩摩の「小姓組」と呼ばれた身分の低い武士・・・伊藤博文にいたっては、足軽よりさらに下の「小物」と呼ばれていた人々です。

やはり、ハングリー精神が必要なのでしょうか。

もっとも、上級の武士は藩の掟に拘束されて、「なかなか自由に行動できない」という部分もあるのですが・・・。

だからこそ、ほとんどの場合、脱藩をして浪士となって、思う存分に活躍する事が多かっんですね。

しかし、そうなると、お金の問題が・・・なんせ、無職ですからね。

藩の機密費がらナイショで出してもらったり、坂本龍馬のように海援隊を組織して会社を立ち上げ海運業を営んだり・・・「西郷さんと大久保さんなどは天保通宝を密造して大儲けした」という噂も・・・あくまで噂ですが・・・。

そんな中、お金の苦労をしなかったのが、高杉晋作です。

晋作のお父さん・高杉小忠太は、150石という中の上くらいの武士・・・大企業の部長クラスのセレブです。

しかも、彼は一人っ子。
きままにわがまま放題に育った事は容易に想像できます。

24歳の時、長州藩の代表のひとりに選ばれ、清国(中国)に行く事になった時も、品川を出航した船が途中に寄った長崎で、早くも飲めや歌えのドンチャン騒ぎ・・・日本を出る前に出張費を使い果たすというお坊ちゃまぶりを発揮します。

そこで終ると、ただのアホだけれど、さすがは、晋作・・・清国でちゃんと見る所は見ています。

「先のアヘン戦争(8月29日参照>>)で、イギリスに敗れた清国は、十年以上に渡って内乱が続き、国民はやって来る外国人に対して、なすすべもなくひれ伏し奴隷のように生きている・・・外国への対応を間違えばこんな風になってしまう・・・これは明日の日本かも知れない・・・」

ただ・・・
この時、世界を見て、明日の日本を心配した晋作くん・・・帰国と同時に、オランダ製の最新鋭の軍艦を独断で購入しちゃいます。

お代金2万両・・・さすがに藩は大慌て。
やっぱりお坊ちゃまです。

そんな晋作くん・・・今まで度々見え隠れする「親の七光」ですが、さすがに晋作を光らせるだけあって、このオヤジさん、力もあれば口も出す・・・保守的に凝り固まった頑固オヤジです。

晋作が新しい事をやろうとすると、必ず「国へ帰って来い」との呼び出しがかかり、目の前に座らせて自論を展開します。

そんな時は、もう弁解の余地などありません。

そんな事が何度も、何度も・・・晋作は、何か事あるごとに自宅に連れ戻されています。

・・・で、手のつけられない暴れん坊と称された晋作の事ですから、そんな頑固一徹の父親さんに反発して・・・と思いきや、これがけっこうお父さんには従順で頭があがらなかったんです。

一時、脱藩した時も、脱藩せざるを得なかった理由を、とくとくと並べ「親孝行できなくて申し訳ありません」という手紙を送っています。

意外と、そんな頑固オヤジが好きだったのかも・・・。

Takasugisinsakuhaka・・・で、そんな晋作さんが最後の勇姿を見せるのが、慶応二年(1866年)6月に勃発した第二次長州征伐です(6月8日参照>>)

この時、海軍総督に任命された晋作・・・晋作らしい破天荒な攻撃ぶりで縦横無尽の大活躍をします。

ところが、幕府軍がこもる小倉城を攻めた時の事(7月27日参照>>)・・・城は炎上し、敵は敗走し、戦いには勝利しましたが、その燃え上がる城を見上げながら、ハンパじゃない量の血を吐いてしまいます。

そう、晋作は肺結核に冒されていたのです。

根っからの負けず嫌いで、何とか持ちこたえて体も、もう無理でした。

病状はどんどん悪化していき、翌・慶応三年(1867年)4月14日29歳の若さでこの世を去ります。

「おもしろき こともなき世を おもしろく」
有名な晋作の時世です。

これを詠んだ時、看病していた野村望東尼(ぼうとうに・もとに)(11月6日参照>>)が、
「すみなすものは 心なりけり」
と下の句をつけ加えると、

「面白いのう」
と一言・・・これが最後の言葉だったとか・・・。

「動けば雷電(らいでん)の如し、発すれば風雨如し」
伊藤博文は、晋作の事を、こう評したと言います。

まさに、雷電の如く幕末を駆け抜けた高杉晋作でした。
 .
 

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2007年6月 6日 (水)

秀吉の大バクチ・中国大返し

 

天正十年(1582年)6月6日、この日の夕刻、備中高松城からの毛利の撤退を確認した羽柴(豊臣)秀吉が、高松城を出発・・・いよいよ『中国大返し』の始まりです。

・・・・・・・・・・・

『本能寺の変』で、明智光秀に攻められた織田信長自刃して果てたのは天正十年の6月2日早朝(6月2日参照)

「信長死す」のニュースは、織田方の各地の武将に徐々に広がっていきます。

その日のうちに、このニュースを聞いたのは、前日の堺見物から少し移動して飯盛山(東大阪市)にいた徳川家康・・・身の危険を感じた家康は、決死の伊賀越えで、所領の岡崎を目指します(6月4日参照)

次に、このニュースを聞いたのが、織田軍・中国地方担当で、備中高松城を水攻め中の羽柴(豊臣)秀吉(4月27日参照)・・・

光秀が毛利に放った密書が間違って秀吉に届くというラッキーなサプライズで、全国に地方遠征中の他の織田軍・重臣たち(6月3日参照)より、1日早い3日の夜にニュースを聞きます。

秀吉に絶好のチャンスが転がり込んできました。

その気転の良さから信長に気に入られているとは言え、織田家には古くから仕える重臣が数多くいて、彼らから見れば秀吉はまだまだ下っ端・・・しかし、ここで、主君の仇を取れば、彼らからも一目置かれる存在になる事は確か・・・。

秀吉は、まず「信長死す」のニュースが毛利に知られないように、その夜のうちに山陽道を遮断し、翌4日の朝には、毛利に休戦を申し出ます。

「そのうち信長が大軍を率いてやってくる」と考えていた毛利は、この休戦協定をあっさりと受諾・・・その日のうちに城主・清水宗治が自刃し、高松城は開城されました(6月4日参照>>)

気持ちがはやる秀吉ですが、やはり毛利軍の全面撤退を確認するまでは、この地を離れるわけにはいきません。

やがて、信長の死を知った毛利軍でしたが、もはや休戦協定を結んでしまった以上後の祭り・・・しかたなく撤退を開始します。

この間に、秀吉の腹心・黒田官兵衛は、秀吉の居城・姫路城までの帰り道の手配を整えます。

道筋に沿っての松明(たいまつ)炊き出し替え馬渡し舟など・・・先駆けを走らせて徹底させます。

また、織田家配下の武将たちが弔い合戦に出遅れるようにと、光秀側につかないようにするため、「信長は生きている」とのウソの情報を流します。

そして、毛利軍の撤退を確認した、6月6日の夕刻・・・もしもの時のために、岡山城宇喜多秀家(うきたひでいえ)を配置(8月18日参照>>)して、いよいよ出発するのです。

Tyuugokuoogaesi700a その日のうちに12㎞を走行し、夜には亀山城に到着します。

明けて、翌7日・・・この日は朝から雨模様で周囲の河川が氾濫する中ではありますが、「今日は走るゾ~!」の決意は固い。

主君の仇討ちという大義名分を掲げて己のチャンスをモノにしようとする秀吉・・・

その秀吉のチャンスは、そのままその配下に従う家臣のチャンスでもあるわけで、おのずと士気は上がり家臣たちが一丸となってそのスピードを速めます。

驚異的な80㎞を走破し、この日のうちに姫路城に到着します。

さすがに、疲れる将兵たちを見て、翌8日は姫路城にとどまり休憩・・・。

ここで、秀吉は、官兵衛に、「今回はバクチを打ってみようと思う」と相談。

官兵衛も「大バクチをお打ちなされ」と賛成し、姫路城での籠城はせず、即座に光秀を討つ決意を固めたのです。

そして、9日の早朝・・・1万5千の兵を率いて、姫路城を出陣し、まずは大坂・摂津を目指します。

一方の光秀・・・10日に、「秀吉がもうすぐ尼崎に到着する」という知らせが届き、あわてて近江(滋賀県)を出立してに向かいます。

これは、光秀にとって大きな誤算でした。

あれたけの大事を引き起こしたのですから、そのニュースはいずれ知られる事になるにしても、それぞれ遠方で遠征中の織田家の重臣たちが、大軍を率いて京に攻め上ってくるのは、早くても1ヶ月はかかると睨んでいたのです。

その間に畿内の主要部を支配下に治め、毛利の援軍と合流して・・・という青写真がすべて崩れ去りました。

まさか、200㎞離れた一番遠いところで、最強の毛利と対峙している秀吉が、たった9日で帰ってくるとは思ってもみなかったのです。

翌、11日に秀吉は尼崎に到着します。
淀川の向こうはもう大坂です。

ここで、秀吉は、茨木城主・中川恒興(つねおき)や高槻城主・高山右近といった地元の武将たちに味方になるよう声をかけます。

もちろん、それは光秀も同じ事・・・。
光秀も、畿内の武将たちに声をかけています。

そんな中・・・ここで、大和郡山城筒井順慶さんに、ご登場をしていただくわけですが、筒井順慶と言えば、皆さんよくご存知のあの逸話・・・しかし、ページが長くなりそうなので、そのお話は、その事が関連する6月11日>>に書かせていただく事にします。

それにしても、この秀吉の早ワザ・・・あまりの手際の良さに、一部では『本能寺の変』の黒幕では?との疑いが囁かれています。

もともと、中国攻めに信長の出陣を要請したのも秀吉ですし・・・。
光秀の毛利への密書も、「まちがって届く」という事がありえるのか?
ひょっとしたら、本当は秀吉への「暗殺成功報告」だったのかも知れません。

中でも私が個人的に最も疑いたくなる部分は、先にも書いた『織田家配下の武将たちが弔い合戦に出遅れるようにと、光秀側につかないようにするため、「信長は生きている」とのウソの情報を流す』という所・・・これって、信長さんの遺体が発見されていたら、まったく意味のない事なのでは?と、思うのです。

それとも、光秀の密書には、未だ遺体を確認していない事が書かれていたんでしょうか?
もっともっと、その時の史料を見てみたいですね~

もちろん、秀吉以外にも疑わしい人はたくさんいるんですが・・・
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2007年6月 5日 (火)

破竹の独眼竜・摺上原の戦い

 

天正十七年(1589年)6月5日、伊達政宗が陸奥会津の芦名盛重を破った摺上原(すりあげはら)の戦いがありました。

・・・・・・・・・

破竹の勢いで陸奥・出羽(東北地方)の平定を進めていた若き独眼竜・伊達政宗(11月17日参照>>)

天正十七年の春先には、最上氏大崎氏との講和に成功し、4月には相馬氏に向けて攻撃を仕掛けます。

この行動に不安を抱いたのが、陸奥会津(福島県会津若松市)芦名盛重(義広)です。

盛重は父・佐竹義重を結託して、伊達を攻撃しようと策を練ります。

しかし、そのたくらみは伊達側に筒抜け・・・実は、この時すでに政宗は、芦名方の重臣・猪苗代盛国(いなわしろもりくに)仲間に引き入れていたのです。

6月4日頃には、盛国の招きで、政宗自身も猪苗代城へ入ります。

そして、天正十七年(1589年)6月5日早朝・・・その裏切った盛国を討伐しようと、盛重が1万6千の兵を率いて会津を出るのです。

まずは、湯達沢(ゆだざわ)付近で、芦名方の先鋒・富田隆実(たかざね)と、伊達方の先鋒であった盛国とがぶつかり、合戦の火蓋が切られます。

この時すでに、伊達軍は、先の盛国の軍と合わせて2万3千という大軍でした。
・・・にもかかわらず、伊達軍は、先鋒も、そして、それに続く第2陣・第3陣も敗れる・・・という失態。

撤退・追撃を繰り返すうち、戦場は磐梯山猪苗代湖に挟まれた摺上原(すりあげはら)へと移ります。

Datemasamunesuriageharafuzinzucc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます。
このイラストは位置関係をわかりやすくするため個人的趣味の範囲で作成しており、必ずしも正確さを保証する物ではありません。

ここでも、しばらくは芦名方の優勢が続きましたが、やがて、満を持して政宗の本隊が登場・・・。

これをきっかけに、戦況は一気に伊達側の優勢に傾きます。

崩れてゆく自軍を立て直そうと、大将・盛重自らが先頭に立って奮戦しますが、もう流れを変える事はできませんでした。
撤退をする芦名軍・・・。

しかし、撤退するその先は川でした。
実は、盛国は事前にこの日橋川にかかる橋を落として敵の退路を断っていたのです。

逃げ道を無くした芦名の兵たちは、ある者は討ち取られ、ある者は川に飛び込み・・・溺れ、ここで、多くの犠牲者が出たと言います。

この合戦の勝利によって、伊達政宗は陸奥南部(福島県)を勢力圏内に治める事に成功し、奥州の約半分を手に入れた事になるのですが、わずか23歳で、奥州の覇王となった政宗・・・ここでプトップをかけられます。

当時、芦名氏と親交が深かった天下取り目前の豊臣秀吉「芦名を滅ぼした真意を聞きたい」との再三の上洛要請を断け・・・と、この先は11月4日のページ>>でご覧あれ!
 

Datemasamunecc 今日のイラストは、
やはり、『伊達政宗』さんを書いてみました~。

伊達政宗さんと言えば、あの有名な銅像(写真でしか見た事ないけど・・)と、大河ドラマの渡辺謙さんの印象が強すぎて・・・。
あまりのハマり役に謙さん自身も政宗を脱皮するのにご苦労されたようです。

黒っぽい色合いで統一されたシブイ鎧で、オシャレ度バツグンの元祖伊達男・・・血気盛んな『夢見る奥州の覇王』・・・というイメージで・・・。

「梵天丸も、かくありたい・・・」
↑大河の子供時代のセリフが忘れられません~
 

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2007年6月 4日 (月)

徳川家康・決死の伊賀越え

 

天正十年(1582年)6月4日、本能寺で織田信長が討たれた事を知った徳川家康が、決死の伊賀越えをした日とされています。

・・・・・・・・・

一昨日起こった『本能寺の変』(6月2日参照>>)の激震は、まさに波紋のようにそれぞれの武将に伝わっていきます。

変の前日=6月1日に魚津城を落とした柴田勝家前田利家「信長死す」のニュースが飛び込んできたのが、今日=4日である事は昨日のブログで書かせていただきました(6月3日参照>>)が、この織田軍・北陸担当部門の武将たちは、「知らせを聞いてすぐに上洛する」という事ができませんでした。

それは、彼らがいた場所は信長の勢力圏の最前線=国境に位置しているからで、こちらが信長の死を知ったように、敵もそれを知り、おのずと相手の士気は上がる事になる・・・なんせ、一番怖い人が亡くなっちゃったわけですから、このチャンスを逃すまいと敵方は必死で食い下がってきてます。

それは、北陸だけでなく、上野(こうずけ=群馬県)滝川一益(たきがわかずますや、信濃(しなの=長野県)森長可(もりながよし)甲斐(かい=山梨県)河尻秀隆(かわじりひでたか)ら、武田の滅亡後に、その旧領を与えられた彼らも同じ・・・なんせ、武田の滅亡から3ヶ月しか経ってませんから。

一益は1万8千の兵を率いて一旦厩橋(うまやばし)を出て上洛しようとしますが、信長の死を知った北条氏政(ほうじょううじまさ)氏直(うじなお)父子に攻撃され、痛い足止めを喰らっています(2007年6月18日参照>>)

主君=信長とともに弟=蘭丸(らんまる)の死を知って、鬼の形相で京へ向かう長可に立ちはだかるのは武田の残党(4月9日の真ん中あたり参照>>)・・・秀隆などは、その武田の残党に囲まれて脱出する事ができずに命を落としています(2013年6月18日参照>>)

信長傘下の武将たちの多くが、そのような状況でした。

・・・と、ここで、神業のような俊足移動をする武将がふたり・・・そう、羽柴(豊臣)秀吉徳川家康です。

秀吉は、織田軍・山陰山陽担当部門で、この時、備中・高松城を水攻めの真っ最中(4月27日参照>>)

そんな時、明智光秀が毛利の小早川隆景に送った密書が間違って秀吉の陣に届くというラッキーなサプライズによって、秀吉は勝家らより一日早い3日に信長の死を知る事になります。

そして、今日4日の早朝、信長の死を隠したまま毛利方に休戦協定を申し込みます。

このあと、信長の率いる大軍がやってくると思っていた毛利は、休戦の申し出を快諾し、高松城主・清水宗治が切腹・・・高松城は開城されます(2008年6月4日参照>>)

毛利方が信長の死を知ったのは休戦協定がなされた直後・・・。

そして、秀吉は、「主君・信長の敵討ち!」とばかりに、京に向かってまっしぐら・・・いわゆる『中国大返し』をするわけですが、それは、秀吉が出発する6日の日(6月6日参照>>)に書かせていただく事にして、今日の主役は、もうひとりの俊足・・・徳川家康です。

この頃、謀反を起こした光秀は畿内を制圧するとともに、つてのある武将に声をかけて、味方になってくれるよう連絡をとっていましたが、その光秀が最も警戒していたのは、やはり越前(福井県)の柴田勝家だったでしょうが、なんせ越前は遠い・・・

・・・で、この日、織田軍として最も近くにいたのは・・・
堺にて、四国征伐の準備をしていた信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)とそのサポートを任されていた重臣・丹羽長秀(にわながひで)・・・

この時、本能寺のニュースを聞いた信孝は、5日に、野田城(大阪市福島区)にいた光秀の娘婿の津田信澄(つだのぶずみ)を襲って殺害しますが、その後は、混乱する自軍の兵士をまとめる事ができず、なかなか思うように動けませんでした(この後、畿内に戻って来た秀吉と合流します)

そして、もう一人・・・
前日まで堺を見物していた家康です。

しかも、距離的に最も近い位置だったせいもあってか、家康は能寺の変があったその日のうちに飯盛山(大阪府四条畷市)で、誰よりも早く信長の死を知るのです。

しかし、悲しいかな家康はわずかの近臣を連れての堺見物・・・兵を持たない彼が、明智方とぶつかれば、仇を討つどころか自分の身が危ない・・・。

おそらく、街道はすべて明智軍に押さえられているはず・・・三方ヶ原(12月22日参照>>)以来のピンチです。

家康は一旦死をも覚悟しますが、家臣に説得され、とにかく山道・ウラ道を通って、鈴鹿の山を越え、岡崎へ脱出する事にします。

ちなみに、この時に説得した家臣があの服部半蔵(はっとりはんぞう)だったという話もあります。

飯盛山は、生駒山地の北端に位置する山・・・家康は、そのまま北へ進み、津田・穂谷(いずれも大阪府枚方市)から宇治(京都府宇治市へのコースをたどったと言われています。

Dscn2682a600 交野(かたの=大阪府交野市)には、本能寺のあった6月2日の夜に家康が身をひそめたと伝わる『家康ひそみの藪→』という竹やぶがあります。

伝承によれば、このあたりの村長・平井氏に連絡をとって、宇治へ抜ける道案内を依頼したとか・・・。

平井家では、たくさんの握り飯を提供し、信用のおける二人の農民を選出し、無事、大役を果たしたそうです。
*「ひそみの藪」のくわしい場所は、本家HP:歴史散歩「交野ヶ原」のページでどうぞ>>

また、一説には茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろうきよのぶ)なる京都の商人が周囲の村々に金をバラまいて、金目当ての落ち武者狩りから家康一行を守ったという話もあり・・・(茶屋家はこの功績により江戸時代を通じて徳川家の御用商人のトップに君臨したらしいです)

その後、3日には、宇治田原山口藤左衛門の館に到着し、ここで一泊・・・4日の夜には信楽(しがらき)に到着しますが、いよいよここから伊賀越え、鈴鹿越え・・・。

すべてが山道で難所続きのこのルートでも、ここが最も難所です。

山賊も怖いが明智も怖い・・・見つかりにくさを重視して、鈴鹿山脈で最も険しい「鹿伏兎(かぶと)越え」のコースを行きます。

しかし、このあたりから、服部半蔵が地元・伊賀で、声をかけた残党たちが次々と湧いて出るように集まってきます。

実は、この『本能寺の変』が起こる9ヶ月前、信長は伊賀攻めを強行しています(9月11日参照>>)

4万5千の軍勢で伊賀を包囲し、徹底的に根絶やしにしたとか・・・

その攻撃をかわして生き残った残党たちにとって、家康の祖父・清康の代から徳川(松平)家に仕える伊賀出身の服部一族は、最後の頼みの綱に思えたのかも知れません。

半蔵の呼びかけに答えてくれた者は約200人ほど・・・家康を囲むように護衛し、決死の突破作戦に協力したのです。

後に、家康が岡崎に着いてから、彼らに「仕官したい者は残れ」と言った時、この時の200人全員が残ったと言われています。

かくして、伊賀忍者たちの協力で鈴鹿の山を越えた家康は、6月6日、白子浦から出航し、船で伊勢湾を横断します。

『本能寺の変』からわずか5日後・・・家康は最大のピンチを切り抜け、無事、岡崎に戻ります。

Ieyasuigagoerootcc このイラストは、私が趣味の範囲内で作成した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません

秀吉の「中国大返し」もスゴイけど、家康の「伊賀越え」もスゴイ!
なんせ、山道ですからね・・・。

しかし、このズゴさがまたまた色んな憶測を呼ぶ事になるんですね~。

6月2日のページで、『本能寺の変』は光秀の動機が見えない事で、戦国最大のミステリーとなった・・・ような事を書きまたが、この謎をさらに大きくしているのが、秀吉と家康の行動。

秀吉に関しては、謀反の事を事前に知っていたからこそ、あの「中国大返し」ができたのではないか?
「中国大返し」については6月6日でどうぞ>>)

また、家康に関しては、彼が命からがら脱出しなければならないほど恐怖を感じた光秀なら、なぜほとんどの武将が味方につかなかったのか?

・・・などなど、
まだまだ歴史ミステリーのお話はつきませんが、記事が長くなってきましたので、推理はまた別の機会に書かせていただく事にして、とりあえず今日、6月4日は、徳川家康が伊賀越えをした日という事で、そのお話を書かせていただきました。
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2007年6月 3日 (日)

富山・魚津の攻防戦 勝家未だ信長の死を知らず…

 

天正十年(1582年)6月3日、籠城していた中条景泰らが切腹して魚津城が開城され、柴田勝家らの織田軍・北陸担当部門が北陸を制圧しました。

今日のお話は、『本能寺の変』の翌日の出来事ですが、その発端はずっと前にさかのぼります。

・・・・・・・・・・・

天正三年(1575年)、長篠の合戦で武田を破った(5月21日参照>>)織田信長でしたが、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼はなかなかのキレ者で、なおも抵抗を続けます。

そして、信長にはもう一人、目の上のタンコブがいます。
そう、越後の上杉謙信です。

この頃、一向一揆衆に占拠されていた富山城・・・謙信は本願寺と同盟を結び、事実上富山を勢力圏内に取り込んだ後、翌年の天正四年(1576年)には能登に進攻し、七尾城を陥落させます(9月13日参照>>)

この時、七尾城からは信長に対して援軍の要請出ていたにもかかわらず、織田軍が間に合わなかったとも言われています。

徐々に狭まる信長包囲網・・・。

しかし、翌・天正六年(1578年)、突然の謙信の死によって上杉家の後継者争い・・・御館(おたて)の乱が勃発するのです(3月17日参照>>)

この上杉家の内乱は、戦場こそ上越市(新潟県)あたりではありましたが、上杉の勢力圏内の武将たちが度々その内乱に駆り出されるという事態を引き起こします。

当然、越中・富山を支配する武将たちにもお声がかかるわけです。

信長にとっては絶好のチャンス!この機に乗じて事を起こします。

まずは、神保長住佐々長秋らを飛騨からの山越えで越中に進攻させ、続いて、信長の秘蔵っ子・斉藤新五(美濃の斉藤龍興の弟)を派遣・・・(9月24日参照>>)

しかし、先ほど書いたように、上杉の内乱に巻き込まれて、ここらあたりの武将は留守がち・・・留守を預かる者から見れば「今、登り調子の織田軍が攻めて来る」と聞いただけで、ビビリまくりです。

富山・魚津といった大きな城ならともかく、それを囲む支城は、ほとんど戦う前に開け渡される状況となります。

天正七年(1579年)3月には、上杉景虎の切腹によって、景勝の勝利となり、上杉のお家騒動は一応の決着が着くのですが、上杉がゴチャゴチャやってる間に、織田方は合戦らしい合戦をする事なく、越中の半分ほどを支配下に治めてしまいました。

もちろん、それは上杉の内乱だけではなく、長住の神保氏がもともと越中の名門であった事や、佐々長秋が越中の情勢に通じ、地の利を生かした行動ができたという事も大きな要因ですが・・・。

さらに、翌・天正八年(1570年)には、織田方の柴田勝家加賀一向一揆を制圧します(3月9日参照>>)

そして、運命の天正十年(1582年)・・・3月に武田氏を滅亡させた信長は、いよいよ北陸への進攻に本腰をあげます。

Toyamazyousicc 命令を受けた柴田勝家・前田利家佐々成政(さっさなりまさ)の織田軍・北陸担当班は、すぐに富山城を奪回・・・さらに、その北に位置する魚津城を取り囲みます。

4月に入ると織田軍の数は膨れ上がり、城を囲むその兵の数は4万騎に達します。

中で籠る上杉方は中条景泰以下わずかに4千足らず・・・。

5月に入って、ようやく越後から上杉景勝が、魚津城を救援しようと近くの天神山に陣を敷きますが、敵の数のあまりの多さにどうする事もできず、ただ見守るばかりでした。

そんな中、
織田方の森長可(ながよし)信濃(長野県)から(6月26日参照>>)
滝川一益(かずます)上野(群馬県)から、
留守になっている景勝の本拠地・越後の春日山城を攻めようとし始めましたから、景勝もたまったもんじゃありません。

景勝は魚津城内に籠る景泰らに向けて、城を開け渡し越後へ脱出するようにうながした書状を送り、自らは越後へ撤退します。

景勝の撤退により救援の道が断たれ、籠城も時間の問題となってしまった魚津城・・・。

景泰をはじめ、竹股慶綱(たけのまたよしつな)吉江信景蓼沼泰重(たでぬまやすしげ)らの武将は、議論の末、織田方の勧告を受け入れて開城する事を決定します。

ところが、どっこい、この降伏勧告は織田方の謀略!

相手を油断させたところで、佐々成政がいきなりの奇襲攻撃を仕掛けたのです。

「もはやこれまで・・・」と悟った景泰以下12人の武将は、天正十年(1582年)6月3日一斉に割腹し、命果てました。

ここに北陸の地は、織田信長の支配下となるのです。

・・・が、しかし・・・
そうです。
実は、この前日・・・信長は本能寺で、すでに亡くなっているのです(6月2日参照>>)

もちろん、その事はここにいる誰も知りませんでした。

城で果てた景泰らも、そして、それを取り囲んでいた柴田勝家らも・・・。

勝家・利家らが主君の死を知ったのは、翌4日の事・・・

もし、魚津城の攻防戦の決着がつく前に、信長死亡のニュースが飛び込んできていたら・・・歴史は、どう変わったのでしょうか?
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2007年6月 2日 (土)

今日はやっぱり本能寺の変

天正十年(1582年)6月2日は、戦国時代最大の名場面とも言える『本能寺の変』のあった日です。

このブログが歴史系ブログである以上、今日はやっぱり本能寺の変のお話を・・・

・・・・・・・・・・

この年の3月に甲斐の武田を滅ぼした(3月11日参照>>)織田信長にとって、その後は東方からの脅威が無くなり、彼の関心は西方の山陽・山陰へと向く事になります。

ちょうどその頃、羽柴(豊臣)秀吉の率いる織田・中国平定軍は、毛利方の清水宗治のこもる備中・高松城を包囲(4月27日参照)しながらも、なかなか落とせないでいました。

そのうち高松城には、毛利の援軍が駆けつけるであろう事が確実で、信長は自身の出陣を決意し、その先駆けとして明智光秀を援軍として派遣する事にします。

命令を受けた光秀は、5月中旬に居城の丹波・亀山城に入って出陣の準備を整え、6月1日午後10時に城を出陣します。

この日は、信長が京都・本能寺に滞在・・・嫡子・信忠は同じく京都・妙覚寺にいました。

織田家の重臣クラスの中で光秀と秀吉を除く他の者は・・・
柴田勝家越前(福井県)に、神戸信孝(信長の三男)丹羽長秀は四国征伐の準備で堺に、池田恒興も四国平定のため瀬戸内に、滝川一益上野(群馬県)に、森長可(ながよし・蘭丸の兄)信濃(長野県)(6月26日参照>>)と、それぞれが地方遠征中。

つまり、この時、京都付近にいた織田家重臣は光秀ただ一人という事になります。

Honnouzitizucc

かくして、亀山城を出陣した光秀は、行軍の途中に方向を変え、西へは向かわず老ノ坂(おいのさか)を越えて京都に入ります。

天正10年(1582年)6月2日午前6時本能寺を完全に包囲した明智軍は、一斉に攻撃を開始します。

この時、明智軍は1万3千・・・一方の本能寺にいたのは、小姓の森蘭丸や以前書かせていただいた黒人の弥介(2月23日参照>>)をはじめとする約100人程度

寺のまわりの騒がしさに気づいた信長・・・。
それでも最初は足軽同士のケンカだと思って気にも留めていませんでしたが、やがて鬨(とき)の声が上がって矢玉が撃ち込まれる事態となり謀反を確信します。

寺の周囲にうごめく旗差物(はたさしもの)を確認した蘭丸は、「水色桔梗・・・明智の勢と思われます」と信長に報告。

信長は一瞬驚きながらも「是非に及ばず」と一言・・・御殿の廊下に出て弓で応戦します。

弓が壊れたら、今度は槍で応戦・・・。

そこを、明智の先鋒・天野源右衛門(安田作兵衛)が信長に槍をつけます。

さらに、とどめを刺そうとする源右衛門に、割って入る蘭丸・・・激闘の末、蘭丸はここで討死します。

その間に御殿の奥へと入った信長は、まだ残っていた女たちに早く逃げるようにうながし、自らは手にした手ぬぐいで顔と手を清め、部屋の中央にて自刃し、その生涯を閉じました。

炎に包まれた本能寺で、信長の遺骸を発見できなたかった光秀は、その後、嫡子・信忠が籠城するニ条御所を攻めます。

その頃には、攻撃の噂を聞きつけ、京都市街に分宿していた信長の将兵・千数百人がニ条御所に駆けつけますが、やはり明智の大軍には、なす術が無く、信忠はじめ名だたる者が次々と自刃し、こちらも昼頃には明智の手に落ちました。

・・・と、ここまで、『本能寺の変』の一連の流れを書かせていただきましたが、何だかんだと、かなり詳細な部分まで記録されています。

ところが、事件の流れに関しては、これだけわかっているにも関わらず、まったく読めてこないのが光秀の動機です。

「本能寺の変で信長を攻めたのは光秀ではない」という人は、やはり少ないでしょう。

誰もが光秀の仕業を確信してやまないのに、勧進の理由がわからない・・・それゆえ、様々な憶測を呼んで、戦国最大のミステリーと言われるようになるのです。

謀反の相手が光秀だと知って信長が発する一言・・・「是非に及ばず」

この「是非に及ばず」とは、「しかたがない」「どうしょうもない」といった意味ですが、これは相手が光秀なら万全の計画のもとに事を起こしているだろうから、いまさらあがいたってしかたがない」という意味から出た言葉と言われています。

信長はそれだけ、光秀を信頼し、優秀な武将と判断していたのです。
(ドラマで、よく大勢の目の前で光秀を罵倒するシーンがありますが、あれは後世の創作です)

歴史好きの皆さんもそう思われるでしょう。
あの光秀なら、考えに考え抜いた計画を立てて本能寺に攻め入ったと・・・。

しかし、そのワリには、その後の、一連の流れがオソマツ過ぎる・・・。

あまりの無計画ぶりに、その動機として「光秀ノイローゼ説」や「不安説」まで登場し、忠実な光秀に指示をした「黒幕」がいるのではないか?・・・黒幕がいるなら、その黒幕の保護のもと、光秀は生き続けている・・・といった「生存説」もあります(10月2日参照>>)

このブログでも
本能寺・前夜>>
本能寺~信長公記より>>
その時、安土城では…>>
堺の商人・黒幕説>>
豊臣秀吉・黒幕説>>
徳川家康・黒幕説>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
突発的な単独犯>>
アンケート「本能寺の真相は?」>>
など、様々に展開しております。

・・・で、今回は・・・
遺骸が見つからなかった事によって、やはり、あります『信長・生存説』!

本能寺の焼け跡から見つかったのは、信長が着ていた着物の焼け残りだけ・・・。
光秀らが必死に探しますが、遺体は見つかりませんでした。

本能寺・炎上の炎は、遺体が消えてしまうほどすざまじいものだったのでしょうか?

信長が本能寺を鉄砲用の火薬の保管に使っていたため大量の火薬に引火し、大爆発を起こしたのでは?という説もありますが、着てた着物が焼け残ってるんなら、そんなに大した炎ではなかったようにも思いますね~。

信長配下の武士たちが、寺から遺体を運び出して持ち去った・・・という話もありますが、寺の回りはビッシリと明智軍の兵で包囲され、「遺体を担いで逃げる」というのは不可能に近かったのでは?

そして、本能寺は信長が京都に滞在する時は常に利用していた場所で、寺とは言え、堀なども造られ、ちょっとした砦のようになっていた事から噂されるのが、「抜け穴説」です。

たとえ小さくても、それが砦あるいは城郭のたぐいであれば、抜け穴くらいは造られている事は容易に想像できます。

ひょっとしたら、その抜け穴を通って信長は逃げたかも知れません。

ただ、悲しいかな、その後の歴史に信長は登場しません。

あの信長の事です。
生きているのなら、再び歴史の表舞台に登場するのは当然でしょう。
それが無い以上、やはり、「信長は本能寺で死んだ」という事になるでしょうね。
【信長の首は静岡に?】参照>>)

私は常日頃、「死に様は生き様」だと思っています。
その人の死に方が、その人の生きてきた道を表しているように思えてならないのです。

もし信長が、本能寺境内のどこかで死んだのだとしても、「この首は渡さない・・・死体は見つけさせない」といった気迫のような物が、信長の、最も信長らしい覇王としての死に様だったのではないかと思います。

Sonohinohounouzicc 今日のイラストは、
森蘭丸が見たであろう『その日の本能寺』という感じで書いてみました~。

「実際の殺人事件はごく単純な物、ミステリー小説のような入り組んだ事件は現実には起こらない」という話を聞いた事があります。

現代人が「あーだ、こーだ」と、推理を戦わせているのを見て、光秀が「もっと単純だよ」と笑ってるような気もしますが・・・

歴史好きにとっては、「それが楽しいんですよ!光秀さん」

今日のお話の続きは、明日6月3日の【富山・魚津の攻防戦 勝家未だ信長の死を知らず・・・】へどうぞ>>>
 

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2007年6月 1日 (金)

無残やな 甲の下の篠原の合戦

寿永二年(1183年)6月1日、平家・都落ちの直接原因となる『篠原の合戦』がありました。

・・・・・・・・・

10万の大軍を引き連れ、木曽(源)義仲を討ちにきた平家軍(5月3日参照>>)でしたが、先日の倶利伽羅峠の合戦(5月11日参照>>)大敗を喫してしまい、平家軍の数は、志雄山の搦め手の守りについていた残りの3万騎だけとなってしまいました。

大将の平維盛(たいらのこれもり)命からがら敗走し、加賀まで撤退。

やがて、志雄山の軍と合流し、5月24日の夜に豪雨の中を篠原・安宅まで退却します。

この篠原のあたり(石川県の片山津温泉のあたりです)は、今江木場柴山の3つの湖が連なり、そこから流れ出た川が造りあげた中州で、四方を水によって隔てられた天然の要害でした。

しかも、折からの雨であたりは洪水のようになっており、まさに攻め難さ99%!・・・もう、後が無い平家軍にとっては、何としてでも守り抜かねばならない運命の場所です。

しかし、地の利ははるかに義仲に有利でした。

木曽軍は、地元出身の林光明の案内でやすやすと浅瀬を渡り、一気に平家軍の陣営へとなだれ込みます。

それは、寿永二年(1183年)6月1日・午前の事でした。

まずは木曽軍の先鋒を務める樋口次郎兼(ひぐちじろうかねみつ)が100騎余りを率いて、平家方の先鋒・畠山能景(よしかげ)の300騎と激突。

続いて、今井四郎兼平(かねひら)落合兼行(かねゆき)根井小弥太(ねのいこやた)らが次々と突入していきます。

迎え撃つ平家軍も、藤原忠清平盛俊(たいらのもりよし)らが懸命の防戦です。

やがて、義仲、維盛の両大将自らも戦闘に参加。

昨日までの雨がウソのように晴れ上がり夏の日差しが照りつける中の死闘が繰り広げられました。

しかし、やはり平家軍には、先日の倶利伽羅峠の大勝に意気あがる木曽軍を止める事ができません。

名のある武将たちが次々と討たれ、あるいは敗走し、ジリジリと照りつける日差しが傾く頃には、戦場にはほとんど平家軍の兵は残っておらず、戦いは木曽軍の圧勝となります。

しかし、平家軍の中には、石橋山の合戦(8月23日参照>>)であの源頼朝を窮地に追い込んだ者や、富士川の合戦(10月20日参照>>)で破れ、東国を頼朝に制圧されたためにこの平家軍に加わった者も数多く、彼らにとっては、この篠原は最後の要、死に場所だと決意しての参戦・・・

たとえ、壊滅状態になって「残りの1騎になっても戦い抜く覚悟」と、奮戦を繰りかえす武将もいました。

そんな中、一つの逸話が生まれます。

信州・諏訪の住人・手塚太郎光盛は、戦闘のさなか、一人の平家軍の武将と対峙します。

すでに戦い疲れ、怪我も負っている様子でしたが、その武将は侍大将が着る錦の直垂(ひれたれ・鎧の下に着る着物)を着用し、萌黄縅の鎧(もえぎおどしのよろい・萌黄色の糸で鉄片をつなぎ合わせた鎧)を着けています。

きっと名のある武将に違いない・・・と光盛は名乗りを挙げ「そちらは、いかなるお人でありましょうか。名乗ってはいただけませんか」と訪ねます。

しかし、その武将は「わけあって名乗らへんが、木曽殿はご存知である」とだけ言い、名前を名乗ろうとはしません。

結果、光盛は武将を討ち取って、その首を義仲のもとへ持参するのです。

その首を見た義仲は息を呑みます。

それは、彼の命の恩人斉藤実盛(さねもり)だったのです。

それれは、義仲がまだ駒王と呼ばれていた2歳の頃・・・

彼の従兄弟である頼朝の兄・(悪源太)義平(あくげんたよしひら)父を殺され、彼自身の命も狙われます。

義平から、「駒王を見つけしだい殺せ」と命じられた畠山重能(しげよし)が、しばらくして彼を見つけたものの、2歳の幼児を殺す事ができず「どうしたものか」と友人に相談・・・

そして、その重能に頼まれて、駒王をつれて木曽の中原兼遠(かねとう)に預けに来た友人というのが、斉藤実盛・・・彼もまた2歳の幼児を殺す事ができなかったのです(くわしくは8月16日【義仲が木曽にいたワケは・・・】でどうぞ>>)

まさしく、命の恩人です。

しかし、義仲は不思議に思います。

自分の命を救ってくれたあの頃の実盛でさえ、白髪交じりの初老であったのに、今見るこの首の髪は黒々として、とても若々しい、本当に実盛なら70歳はとっくに越えているはずなのに・・・。

中原兼遠の長男で自分より年上の樋口兼光なら実盛の事をよく覚えているはず・・・と、義仲がかたわらにいる兼光に目をやると、兼光はすでに号泣・・・。

兼光は昔・・・
「俺が60を過ぎて戦場に出向く時は、髪を墨で黒く染めて若返ろうと思ってんねん。
白髪頭を振り乱して若い連中と先陣を争うのも大人気ないし、かと言って老人だとバカにされるのもくやしい・・・まして敵に侮られるのも嫌やし。」

という事を実盛が言っていたのを覚えていたのです。

果たしてその首を洗ってみると、黒髪はみるみる白髪となり、それはまさしくあの斉藤実盛だったのです。

実盛も、頼朝との戦いに敗れて武蔵の国を追われ、帰る場所を失っって、命を賭けてこの合戦に臨んでいた武将の一人でした。

そして、彼は錦の直垂を着用していましたが、実は彼は侍大将ではなく一介の武士だったのです。

もちろん、それは、彼が無能な武将だったからではなく、強弓・凄腕の持ち主で広く知られた武将でしたが、要領よく立ち回るタイプではなかったからに過ぎません。

しかし、もともと先祖が北陸の出身であった事から知り合いも多く、70を過ぎて役職無しの身を恥ずかしいと思い、北陸でのこの篠原の合戦を最後の戦と心に決め、「せめて最後の戦に錦の直垂を着用させていただきたい」平宗盛(むねもり)に願い出て、着用していたのでした。

「やはり、実盛であったか・・・」と、兼光に続いて義仲も号泣・・・。

あっぱれな老武者の心意気を感じながら、義仲は戦場の近くの場所に実盛を手厚く葬りました。

500年後、この古戦場を訪れた俳人が一句捧げています。

♪むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす♪

そう、あの松尾芭蕉の有名な一句は、この篠原の古戦場を訪れた時に詠んだ句なのです。

最後の防衛線となったこの合戦に敗れた平家・・・勝った義仲はさらに軍を進め、7月には京の目の前に迫ります。

そして、7月25日とうとう平家は安徳天皇を奉じて都を落ちるのです(7月25日参照>>)

Kabutonositanokirigirisucc 今日のイラストは、
ズバリ『甲の下のきりぎりす』で・・・。

私は、義仲さまのファンではありますが、やはりこの篠原の合戦での主役は斉藤実盛さんですね。

芭蕉のこの句は、金田一耕介シリーズの「獄門島」の謎解きに使われていました~。
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