加藤清正・疑惑の死
慶長十六年(1611年)6月24日、あの加藤清正が疑惑の死を遂げます。
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加藤清正と言えばあの賤ヶ岳の合戦の七本槍(4月21日参照>>)の一人・・・。
剛勇で知られた武将で、朝鮮出兵の文禄・慶長の役(4月13日参照)では、伝説の域は越えないものの虎退治の逸話を残すツワ者・・・その武勇で豊臣秀吉を支えた人物です。
それは、清正が亡くなる3ヶ月前の事・・・。
京都の二条城で、徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われたのです。
それ以前・・・関ヶ原の合戦(9月15日参照)で勝利したとは言え、あくまで豊臣家の家老という立場だった家康が、征夷大将軍に任ぜられたのが慶長八年(1603年)の2月。
それでも秀頼側の人々は、将軍職は家康一代かぎりで、次は豊臣家に回ってくる物だと楽観的に考えていました。
その希望的な思いが見事に砕かれたのが、慶長十年4月・・・家康は将軍職を息子・秀忠へ譲るのです。
これで、完全に徳川が将軍家で、豊臣は一大名、という事がはっきりします。
やがて慶長十二年3月、家康は自分の居城・駿河城の普請を秀頼に命じます。
それでも、まだ豊臣家は納得できず、家康の呼び出しに秀頼が答える事はなかったのです。
そんな時、徳川・豊臣両家の潤滑油として奔走したのが、加藤清正・池田輝政・前田利長といった豊臣恩顧の武将たちです。
彼らは、関ヶ原では徳川につきましたが、やはり、もともとは秀吉の家臣・・・家康の天下となった今、妙な意地を張り続けていては命取りです。
たとえ、一大名としてでも生き残ってさえいれば、また、新たな展望が開かれる時が来るかも知れませんから、秀吉恩顧の武将としては「何とか豊臣の家だけでも残したい」と思うのは当然です。
そして、徳川家と豊臣家の関係修復に走り回った彼らの努力が実って、秀頼がやっと重い腰を上げた・・・それが、先ほど書いた慶長十六年3月28日の二条城の会見(3月28日参照>>)だったのです。
この席で、家康は先に杯を干し、その杯を秀頼に与え、次に秀頼が杯を干す・・・という事が行われました。
これは、完全に上司と部下の関係を示す行為・・・秀頼は初めて、徳川の下につく事を認めた事になるのです。
この席にはもちろん、豊臣恩顧の彼らも同席していました。
内情はともかく、表面的には友好的なこの会見を実現させ、家康・秀頼のふたりを見守りながら、清正はホッと胸をなでおろした事でしょう。
ところが、その大役を果たし、領国である熊本に帰る途中の船の中での6月24日・・・清正は突然、高熱を出して倒れ、あっけなく死んでしまうのです。
死の直前には身体が黒くなり、舌が動かせなかった事から、その死の直後から「毒殺では?」と囁かれる疑惑の死となります。
江戸時代には、歌舞伎や浄瑠璃の題材となって、清正・毒殺説はかなり有名な話となりますが、死の直前の症状は、細菌性の病気の可能性もあり、真相は藪の中へ・・・と言った具合です。
しかし、不可解なのは清正だけではありません。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦から、慶長十九年(1614年)の大坂の冬の陣・勃発(10月10日参照)までの14年間の間に、もと豊臣方で、途中から徳川についた武将たちが、かなりの数、亡くなっているのです。
死亡順に名前を並べさせていただきますと・・・
前田玄以・有馬則頼・小早川秀秋・稲葉貞通・山岡景友・小堀政次・小出秀政・山内一豊・堀秀治・水谷勝俊・古田重勝・金森長近・田中吉政・京極高次・生駒一正・細川藤孝・浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正・松井康之・亀井玆矩(これのり)・池田輝政・浅野幸長・最上義光・前田利長・松浦鎮信・池田長吉、以上27名です。
もちろん、この中には、失礼ながらお歳がすでに当時の平均寿命を、はるかに越えた方々もおられますので、一概に全員が疑惑の対象になるわけではありませんが、その数は異常に多いです。
なんせ、同じ14年間に、最初っから徳川についていた武将の死亡は18人ですから・・・。
そして、もう一つ・・・なぜか、慶長十七年の頃から家康は「南無阿弥陀仏」の6文字の名号を自筆で書く事を日課とするようになるのです。
何か思うところがあったのでしょうか?
しかし、この念仏を書く趣味(?)は、たった一年で終ってしまいます。
何か、吹っ切りましたね・・・家康さん。
そろそろ、大坂の陣への下準備でしょうか?・・・。
真相は家康のみぞ知る・・・ですね。
今日のイラストは、
やはり、清正さんの勇姿で、『加藤清正・虎退治』ですね。
虎を書くのが、こんなにも難しいとは思ってもみませんでした~。
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コメント
初めまして。何処からどう巡ってきたのか分かりませんが「今日は何の日」に辿り着きました。学生の頃から城巡りが好きできっかけは海音寺さんの小説「加藤清正」でした。何て義に厚いお方だろうと。後に知った真田信繁、素晴らしすぎます。
indoor-mama様。これから頻繁に参上させて頂きます。
投稿: 虎之助 | 2008年12月19日 (金) 10時02分
虎之助さん、はじめまして。
加藤清正さん・・・ファンは多いですね~
もちろん、真田信繁さんも・・・
私は、大阪城の近くで生まれ育ったので、最後まで大阪城を守ってくれた真田さんへの思いはひとしおです。
・・・と、言いながらも、誉田で刃を交えた伊達政宗もキライではないという節操のないブログですが、今後ともよろしくお願いします。
投稿: indoor-mamai | 2008年12月19日 (金) 10時24分
江 姫たちの戦国で「七本槍」が登場するのは春からだと思いますが、今年の加藤清正役は誰でしょうね?関が原以降の出来事も詳しく触れると思うので、この会談も触れると思います。
今年は熊本が注目されますね。地元では「清正公没後400年」と言う事で、供養の式典があるでしょうね。
投稿: えびすこ | 2011年1月21日 (金) 20時43分
えびすこさん、こんばんは~
天地人では完全スルーでしたね。
今度は、登場するのかな?楽しみです。
投稿: 茶々 | 2011年1月22日 (土) 02時04分