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2007年6月14日 (木)

北陸に義仲あり!横田河原の合戦

 

治承五年(1181年)6月14日、打倒平家の気運高まる中、『北陸に義仲あり』を知らしめた横田河原の合戦がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

失敗には終ったものの、以仁王と源頼政の挙兵(5月26日参照>>)によって、おごる平家に陰りが見え始めた治承四年(1180年)

その年の8月には、先の平治の乱(12月26日参照)で伊豆に流罪となっていた源頼朝が、打倒平家の白旗を掲げます(8月17日参照>>)

頼朝挙兵のニュースを聞いて、幼い頃に木曽の中原兼遠(なかはらかねとお)に預けられていた源義仲(みなもとのよしなか)も、打倒平家の思いを熱くしていた所、奇しくも村山義直(むたやまよしなお)の助っ人という形の市原の合戦(9月7日参照>>)初陣を飾る事になりました。

信州(長野県)の反平家の武将たちを味方につけ、市原の合戦に勝利した義仲は、その勢いで亡き父の所領だった上野(群馬県)の多胡郡へと進出します。

しかし、その頃には、すでに関東一円が頼朝の支配下となっていて、これ以上進めば頼朝との衝突は免れません。

従兄弟とは言え頼朝は父を殺害した源義平(よしひら)(8月16日参照>>)の弟・・・いつか一矢を報いたい相手ではありますが、今は同族の源氏同士で争っている時ではありません。

当面の敵は平家・・・まずは打倒平家!の路線で協力体制を作っておく他はありません。

義仲は、多胡郡の武将を取り込んだ時点で、それ以上の関東進出を諦め、北陸=日本海側を制する決意を固めます。

しかし、信州の北・・・越後(新潟県)には、強大な勢力を持つ大豪族・城太郎資永(じょうたろうすけなが)がいました。

そんな資永のもとに、信州の動きを察知した中央から「木曽追討」の命令が下ります。

資永にとって、最初はありがたくなかったその命令でしたが、現実に義仲が信濃の武将を次々に配下に治め、勢力を拡大しつつあるさまを目の当たりにして、「このままでは、俺ンとこも危ないんちゃうん」と思い始め、重い腰をあげます。

資永は越後はもちろん、出羽や会津といった勢力下の武士・・・そして、先の市原の合戦で信州を追われた者たちを加えた大軍・4万(6万とも)を率いて信州に攻め込みます。

大軍を3つに分け、浜小平太橋田太郎を大将とする1万騎は筑摩越え津波田宗親(つはだむねちか)を大将とする1万騎は上田越え、そして資永自身が大将を務める残り4万が横田河原に陣を構えたのは6月13日の事でした。

この横田河原というのは、この約400年後、武田信玄VS上杉謙信で有名なあの川中島の合戦(9月10日参照>>)の場所と同じ場所・・・やはり彼らも千曲川を挟んで、あいまみえる事になります。

依田城(よだじょう・長野県上田市)で、資永・出陣のニュースを聞いた義仲は、落合五郎兼行(おちあいごろうかねゆき)塩田八郎高光(しおだはちろうたかみつ)をはじめ、もちろん、ともに育った乳兄弟・今井四郎兼平(いまいしろうかねひら)樋口次郎兼光(ひぐちじろうかねみつ)・・・そして、この戦いで初陣する事となった兼平と兼光の妹・巴御前(ともえごぜん)も加えた信濃・上野の兵・3千(2千とも)騎を率いて、横田河原の対岸・白鳥河原に陣をとります。

初陣の巴御前も緊張したでしょうが、さすがの義仲もこの時ばかりは神頼みで緊張しまくりだったでしょう。

なんせ、先の市原の合戦は、小競り合いに毛が生えたような物・・・今度は大豪族相手に、本格的な合戦です。
しかも、相手は4万、こちらは3千・・・。

治承五年(1181年)6月14日午前8時・・・義仲は、まず少数精鋭で千曲川を渡り、資永の大軍に挑みかかります。
その数は、わずか100騎・・・。

ところが、『源平盛衰記』によると・・・
『城太郎が四万余騎、入替へ々々戦ひけれども、百騎の勢に懸立てられ、二三度までこそ引退(ひきしりぞ)けり』

何と、100騎の兵に4万がしてやられたんだそうです。
この時、その100騎の兵は、すぐに本陣に戻った・・・とあります。

つまり、少ない人数で、突然やってきて、暴れるだけ暴れて、またたく間に帰って行ったという事・・・意表をついたわけですね。

しかし、そんなワケのワカランやり方でも、大軍を率いる大豪族・資永にとっては屈辱です。

資永は、先の市原の合戦で義仲らに敗れた信濃の笠原頼直(かさはらよりなお)を呼び寄せ、「お前のメンツに賭けてアイツらぶっ潰せ!」と檄を飛ばし、85騎の精鋭を頼直に与え、今度はこちらが千曲川を渡り、義仲の陣に攻撃を仕掛けてきました

義仲方からは、上野の高山党・300騎が出撃し、これを迎え撃ちます。

この戦いは一進一退の激しい物となります。
結局、高山党は300騎が93騎に減り、対する笠原隊は85騎が42騎になりました。
ん~ちょっと資永方が有利かな?・・・。

続いて、義仲方からは同じく上野の西行助が50騎を率いて突進。
資永方からは富野家俊(とべのいえとし)がわずか13騎でそれを迎え撃ち、50騎が15騎に減って、13騎が9騎に減って・・・

・・・って、ちょっと待った~!
こんな、一進一退の小競り合い続けててもラチあけへんがな!
第一ちょっとずつ負けてるし・・・。
相手は4万いてますねんで!
このまま、おんなじように減っていったら絶対負けますやん!

と、当然、義仲も思いました。

そこで、策を練ります。

信濃源氏の井上九郎光盛を呼びよせると、彼に「赤旗」を持たせ、川下から迂回(う)して資永の陣のバックに回りこませ、そこから近づけさせます。

後ろから近づいて来た「赤旗」を見た資永は、不覚にも「上田越えを命じた津波田宗親隊がやって来た」と勘違いし、敵である光盛に向かって「早く川を渡って向こうの敵をやっつけて来い!」と檄を飛ばします(顔知らんかってなぁ)

光盛は「わかりました」と、川向こうへ進攻すると見せかけておいて、突然「赤旗」を撃ち捨て、今度は「白旗」を掲げます(どこに隠し持っててん!)

そして、名乗りを挙げながら怒涛のことく攻撃!

それを対岸で見ていた義仲は「ここぞ!」とばかりに、1千500の兵を率いて一斉に川を渡り、横田河原に攻め込みます。

北と南からの挟み撃ち・・・しかも、油断している所をいきなり仕掛けられた資永軍は、またたく間に総崩れとなってしまいます。

完璧に打ちのめされた資永軍・・・。
越後に無事逃げ帰る事ができたのは、大将の資永を含めわずか300騎でした。

この結果を聞いた、筑摩越え、上田越えをしていた別隊も、結局、戦う事なく越後に逃げ帰ってしまうのです。

この戦いでデビューした巴御前は、大将クラスを7騎討ち取り、義仲を大いに喜ばせます。

この次の本格的な戦いとなる倶利伽羅峠の合戦(5月11日参照)で、彼女に1千余騎の兵をつけて参戦させている事を考えると、いかにこのデビュー戦での戦いぶりがすばらしかったかがわかりますね。

しかし、このお話は、まだここで終れません。

命からがら越後に逃げ帰った資永・・・しかし、その資永の息子は義仲軍の手に落ち、捕えられてしまうのです。

絶体絶命!・・・と思いきや、義仲は彼をそのまま無傷で越後へ送り届けるのです。

その時の、資永の心中を書き記した物を、私は知らないので、その心の内はわからないのですが、なんと資永は、そのまま越後を退いてしまうのです。
(息子の命を助けた義仲に感動したのかな?)

当然、その後ガマには義仲が・・・。
つまり、義仲は横田河原の戦いの後、合戦をする事なく越後を手に入れてしまうのです。

しかも、この様子を目の当たりにした越前(福井県)越中(富山県)の武士たちも、自ら義仲の傘下に入るのです。

市原の合戦で初陣したものの、義仲を一人前扱いしていなかった平家が、この一連のニュースを聞いて、源氏は頼朝だけではない事を知るのです。

横田河原の合戦はまさに木曽義仲を全国ネットに押し上げた戦いだったのです。

Tomoeuizincc 今日のイラストは、
華麗なるデビューを飾った『巴御前』のアップで・・・。

義仲は巴御前と、もう一人・款冬(やまぶき)という女武者もつれていた・・・というけれど、その人はどんな人なんでしょうか・・・。

ところで、この横田河原の合戦での「赤旗作戦」・・・。
騙し討ちとか、ズルイとか言わないでね。

義仲さまファンだから言うのではありませんが、このブログでも紹介している「孫子の兵法」でもお馴染み・・・「兵は詭道なり」(4月5日参照>>)

戦争は騙し合いなのです。

今日のお話の続きは、5月3日【倶利伽羅峠の前哨戦!越前・加賀の合戦】でどうぞ>>>
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

 
 何で高山党を馬鹿にする必要があるのですか?
  
 第一義仲がそんな事を思った根拠はあるのですか?

 そこら辺の武士達よりも高山氏は立派な武士です。

投稿: PKO | 2009年1月19日 (月) 22時47分

PKOさん、こんばんは~

私としては、まったくバカにしているつもりはありませんが、どのあたりでどのように??
大阪弁がバカにしているように聞こえるのでしょうか?

ただ、私は大阪生まれの大阪育ちなので大阪弁しかしゃべれませんので、セリフ回しなどは特に、他の言葉ではうまく書けないのです。

愛しの義仲様のお味方の軍勢なのですから、バカになどするはずもありません。

>第一義仲がそんな事を思った根拠はあるのですか?
・・・これについては、そう言われてしまっては、歴史ブログは書けません。

現在進行形である麻生総理だって、その心の内にどのような思いを描いてらっしゃるのかは、当の本人にしかわかりませんから、歴史上の人物の心の中など、知る手立てはありません。

しかし、歴史上の事実だけをツラツラ書き綴っても、それは、歴史教科書と同じになってしまいます。

それなら、ブログなんか読まずに教科書を読んだほうがマシです。

歴史の流れを理解しやすいように、かつ、読みやすいように、いい意味でおもしろく、そして、自分の中の「この時はこうだったんじゃないか?」という風な思いを付け加えて書いてこそ、歴史ブログだと思っていますのでご理解ください。

ちなみに、義仲の胸中については、一進一退の戦いを続けていたという事実、さらに、数の上ではコチラが多く負けているという事実、そして、ここで作戦を変更するという事実を踏まえて、本文のように解釈いたしました。

また、余談ではありますが、私は、歴史上の人物が全員好きなので、「○○は愚将だ」とか「ろくな死に方してない」とか、特定の人物ををコケ落すような内容は書かない方針でいますし、過去も書いていないつもりです(大阪人としてツッコミを入れる事はありますが・・・)。

もし、方言を使った事で、そのようなニュアンスに聞こえたのでしたらお詫びするしかありませんが、私は方言を誇りに思ってますし、なまりは国の手形だと思っております。

投稿: 茶々 | 2009年1月20日 (火) 00時41分


 こちらこそ、ありがとうございました。
 
 
 話は変わりますが、高山党と、義仲はどういった関係だったのでしょうか?(義仲の父の代から高山党とは知り合いという事は知っております。)

 ある意味で、高山党は義仲に「従えた」というのではなく、「昔からの仲で味方になった」というのが妥当だと、私は思うのですが、管理人さんはどうでしょうか?

投稿: PKO | 2009年1月20日 (火) 22時37分

PKOさん、再びコメントありがとうございます。

そうですね・・・
それこそ、根拠は?と聞かれると困りますが、一連の流れを見ると、やはり、情勢の変化を見る目があったという事ではないでしょうか?

戦乱の世においては、とても重要な事ですが、「この時は、義仲に風が吹いている」といった感じの事を敏感に読む力のあるとでも言いましょうか・・・

この後、義仲が不利になる頃には、すでに鎌倉方についていますし、鎌倉幕府内では、次々と御家人が没落していく中で、見事、生き残っていますよね。

やはり、それは、先を読む力があっての行動だと思うのですが・・・

投稿: 茶々 | 2009年1月21日 (水) 01時27分

イラストは茶々なのでは...?

投稿: ゆうと | 2012年4月16日 (月) 17時48分

ゆうとさん、こんばんは~

記事を書いた時に巴御前として描いたイラストを、自分のプロフィールに使用しています。

投稿: 茶々 | 2012年4月16日 (月) 20時30分

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