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2007年6月20日 (水)

天正遣欧少年使節の帰国

 

天正十八年(1590年)6月20日、ヨーロッパを訪問し、ローマ法王に謁見した『天正遣欧少年使節』が、8年5ヶ月ぶりに帰国しました

彼ら『天正遣欧少年使節』が日本を旅立ったのが天正十年(1582年)2月・・・そして、帰国が天正十八年(1590年)の6月20日・・・

つまり、その間に本能寺の変(6月2日参照>>)織田信長が死に、賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)に勝利した羽柴秀吉が太政大臣となって豊臣秀吉となり、その秀吉は、天正十五年に『切支丹禁止令』を発布します(6月18日参照>>)

大いなる希望を託されて出発した少年たちが、帰ってみると、もはやキリスト教は過去の物・・・時代に翻弄された『天正遣欧少年使節』の彼らはどのような人生を送ったのでしょうか?

・・・・・・・・・

天正七年(1579年)に来日したイエズス会の巡察使・ヴァリアーノ(2月23日参照>>)は、天正十年に帰国するにあたって、日本での布教活動の成果という物を母国に持ち帰りたいと思っていました。

たしかに、当時は、大友宗麟(そうりん)(11月12日参照>>)に代表されるキリシタン大名のオンパレード、特に九州は、もはやスペイン領かポルトガル領といった様相で、母国に自慢したくなる気持ちもわからないではありません。

かくして天正十年(1582年)1月28日、ヴァリアーノが半ば強引に計画を推し進める中で、当時のキリシタン大名の代表格であった大友宗麟大村純忠(すみただ)(4月27日参照>>)有馬晴信三大名の使節が、ローマ教皇のもとへ派遣される事が決定するのです。

そして、使節団に選ばれたのが、伊東マンショ千々石(ちぢわ)ミゲル正使二人。

原マルチノ中浦ジュリアン副使二人の計・四人の少年たち・・・当時、彼らはジュリアンが14歳、他の三人は13歳という若さでした。

四人は、先の三大名の親書を手に、遠くヨーロッパへと旅立つ事になるのです。

しかし、彼らの出発は、その出発の時点からすでに問題が無かったわけではありませんでした。

正使の伊東マンショは大友宗麟の甥という事で、使節団に加わっていましたが、実は甥ではなく、甥の子供・・・血縁関係ではあるものの、より薄い甥の子供を「甥」と称して行かせる所に、さすがの宗麟も、この使節の派遣に100%賛成していなかった事が伺えます。

それもそのはず、彼らが持っていった親書という物は、ヴァリアーノが勝手に製作した物で、宗麟はその内容も知らなかったのです。

一説には、その親書には、ローマ教皇への服従を示す内容が書かれてあったとか・・・。

つまり、彼らは、単なる布教活動の成果としての使節ではなく、ヨーロッパに日本が服従する意志がある事を意味する使節だったのです。

ただし、、双方の思惑がからむ問題ありの使節団ではありますが、この時代にヨーロッパを訪問した日本人がいたという事だけは、歴史に残る快挙と言えますね。

かくして、天正十年2月に長崎を出航した彼らは、マカオを経由してインドのゴアに到着。

ポルトガルのアジア進出の本拠地であったこのゴアで、ヴァリアーノと別れた一行は、再び船に乗り、アフリカの喜望峰をまわって天正十二年(1584年)8月ポルトガルのリズボンに到着します。

それから、マドリッドスペイン国王に謁見して、さらに地中海を渡り天正十三年(1585年)2月23日には、いよいよローマ教皇と謁見します。

そして、その2週間後に新教皇シスト5世戴冠式(たいかんしき)に出席して、ようやく公式の任務を無事終了しました。

その後、3ヶ月間イタリアに滞在した彼らは、いたるところでローマ市民から大歓迎を受けローマの市民権まで得て、日本という国の存在をヨーロッパ人に始めて知らしめるという事になります。

思えば、この時が彼らにとって一番幸せな時だったのかも知れません。

やがて帰国の途についた彼ら・・・途中インドのゴアで再びヴァリアーノと合流し、天正十五年・春、一路日本へと向かいます。

しかし、この航海中の天正十五年(1587年)6月18日と19日に、あの『切支丹禁止令』が発令されるわけです。
【2日連続で出された二つの『切支丹禁止令』】
【秀吉が切支丹禁止令を今日出したワケ】

天正十八年(1590年)6月20日・・・彼らは日本に帰ってきました。

秀吉に謁見するヴァリアーノと一緒に、時の最高権力者に謁見を果たした少年たち・・・。

しかし、秀吉が会ったのは、インド副王使節としてのヴァリアーノと単にヨーロッパを見て来た彼ら・・・禁止令を出した秀吉の立場として、宣教師としてのヴァリアーノとキリスト教徒としての彼らに会う事はなかったのです。

歴史に残る任務を成し遂げ、母国に帰った彼らを待っていたのは、時代の転換というあまりに悲しい運命でした。

秀吉はキリスト教徒である事さえ考えなければ、ヨーロッパをその目で見て来た彼らは貴重な存在であると判断し、伊東マンショには仕官を勧めます。

しかし、キリスト教を捨てられないマンショは仕官の話を断り、司祭の勉強をすべくマルチノ、ジュリアンとともにマカオに向かいます

千々石ミゲルは、病弱だったためマカオ留学が許されず、日本に残る事になりますが、日本で生きて行くためなのでしょうか、ここで信仰を捨て改宗します。

しかし、その後も親戚からも疎まれ、失意のままこの世を去ります。

マカオに向かった残りの三人は揃って司祭の資格を得て帰国しますが、迫害のため追放されて、九州の各地を転々とする毎日・・・。

そんな中、慶長十七年(1612年)にマンショが長崎で病死。

語学に堪能だったマルチノは翻訳の仕事などを続けていましたが、弾圧がいっそう厳しくなったためマカオに出発・・・しかし、寛永八年(1629年)に、そのマカオで病死します。

最後までキリシタンのまま日本に残ったジュリアンは、寛永十年(1633年)に捕えられ、仲間の神父とともに処刑・殉教しました。

歴史の波に呑まれて、大いなる海へと旅立った少年たちは、再び歴史の波に呑まれて、それぞれの生涯を閉じたのです。
 

Itoumansyocc 今日のイラストは、
教科書にも肖像画が載ってる『伊東マンショ』さん。

せめて、絵の中だけでも救いの手を出してさしあげたく、こんな絵を書いてみました~。
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

おおお!美しい少年使節ではありませんか♪
いやあ・・なかなか素敵です。資料の絵だと、皆丸坊主?で、なんとも、学芸会で皇子様の服が似合わない一昔前の中学生のようですから、やはり髪の毛は或る方がいいですよねえ。

投稿: 乱読おばさん | 2007年6月20日 (水) 12時23分

えぇ・・?
あれ、坊主だったんですか?

私、てっきり“ぴっちりオールバック”かと思ってイラストではこんな感じにしてみたんですが・・・

まぁ、ローマで坊主にしても、「航海中に伸びる」という事で、お許しを・・・

おばさまの色っぽい少年たち・・・おばさまが書かれる美少年は色気があっていいですね~

投稿: 茶々 | 2007年6月20日 (水) 17時34分

ご無沙汰しています。
北イタリアのとある町にとっても古い劇場がありまして、そこの壁には、天正遣欧使節のことを描いた絵(レリーフ?)が当時のまま飾られています。行くたびに眺めてみるんですけど、あまりに長い時間と距離を隔てているせいか不思議な気持ちになります。
久し振りに行ってみたくなりました。

投稿: おおひら | 2007年6月20日 (水) 22時13分

おおひら様・・・お久しぶりです。

現地でご覧になっているとは、羨ましいですね~。

私も、テレビ(ふしぎ発見だったと思うんですが・・・)でチラッと見て、「ゆっくり見てみたいなぁ」と思っていたんですが・・・なかなかイタリアは遠くて・・・なんて言ったら少年たちに「飛行機あるだろ!」と怒られそうですね。

いつか行ってみたいです・・・。

投稿: 茶々 | 2007年6月20日 (水) 23時22分

伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンの計4名の天正遣欧少年使節団は、結果として、時代の波に翻弄されてしまったような気がします。ある者は、若くして病死してしまい、またある者は、捕らえられて死刑になってしまいました。それゆえに、マンショ・ミゲル・マルチノ・ジュリアンの4名は、ある意味、時代の犠牲者だったかもしれません。時の権力者となった豊臣秀吉は、キリシタンによって社寺が破壊され、僧侶への迫害、庶民への入信強制、日本人が奴隷としてインドに売られてゆくことなどの現実を知ったことで、バテレン追放令を出したのでしょう。幕府を開いた徳川家康も、金地院崇伝らの意見を取り入れて、キリシタンを弾圧しました。今でこそキリスト教は、多くの人が信仰していますが、秀吉・家康はそれぞれ、ヨーロッパ諸国の脅威を強く感じたのだと思います。あと、織田信長が、長生きしていれば、マンショ・ミゲル・マルチノ・ジュリアンの4名の人生は、きっと違った方向に向かっていたでしょうね。

投稿: トト | 2016年7月13日 (水) 11時15分

トトさん、こんにちは~

時の流れは過酷ですね。
宣教師から豊後の王と呼ばれた大友宗麟も、力弱まりましたし…

投稿: 茶々 | 2016年7月13日 (水) 16時29分

仏教の理はなかったのでしょうか。
日本の宗教景色は、基本的に紳道ですね。途中

仏教の布教が成功しています。

現代は普段の生活の基準は、仏教式に全ての社会

で当たり前になっています。翌々考えて見ました

、基本的には 神道 ですね。 天皇の存在は

日本では、不可欠ですね。歴史的にも、疑いの

予知は、ありませんですね。

それなのに、仏教は成功しています。

キリスト教 が深く迫害されて、居ることに、

不思議です。私達が知りえない、事が起きたとしか、考えられません。


利休の事件は本当に、理解出来ない事の一つ

です。単なる秀吉の我儘のような、振る舞い

だけでしょうか。宣教師 の人達が、深く

関わった様に、思われて居るようですが。

私たちの知っています、宣教師、さん達は

本当に素晴らしい、人達です。

私は宣教師に廻り会えました事は、感謝です。


投稿: ak | 2017年6月29日 (木) 09時26分

akさん、こんにちは~

私は、歴史は好きですが、宗教に関してはそれほどでも無いので、あくまで、歴史の観点から、akさんが疑問に思われている件についての自分なりの解釈をお話させていただきますが…

>基本的には神道ですね。天皇の存在は日本では、不可欠ですね。歴史的にも、疑いの予知は、ありませんですね。それなのに、仏教は成功しています。

ハイ、天皇の存在が日本で不可欠なのは揺るぎないところですが、その天皇が、ずっと神道一本だったわけでは無いですね。
山の神や海の神など自然の中に神の存在を感じる縄文や弥生の時代から全国に様々な伝説や神話が複数あったのを、日本の国の成り立ちの話とともに一つにまとめて神道の原型を作ったのは「古事記」「日本書紀」だと思いますが、その記紀が成立する以前に仏教は日本に伝わり、記紀神話が成立する天武&持統天皇の時代には、神話で現政権の正統性を説く一方で、病気治癒を願って薬師寺を建立するといった感じで神道と仏教は同時進行で、日本に根付いていったと感じてます。

以後、仏教がすっかり根付いた奈良時代から明治維新までの1000年以上に渡って、天皇は仏教徒であり、その時代の天皇様は、墳墓も寺院の敷地内にある事がほとんどです。
明治政府が神仏分離を政策の一つとしたので、維新後の天皇家は仏教から切り離され、いち時は、「天皇様が父上やご先祖のお墓参りをできない」という状況もあったようです。
なので、明治政府が寺院に対して、墳墓のある土地を寄付するよう迫ったり、廃仏毀釈を理由に無理くりで召し上げたりしています。
その後、ご存じのように、太平洋戦争後に、これまた様々な事情の変化があって現在に至っているので、今現在は、また少し違うようですが…

つまり、神道であった天皇は仏教徒でもあり、明治の世になって神仏分離するまでは、神と仏は同一視されていたので、神道と仏教の両方が、この国で生き残る事になったのだと思います。

>キリスト教が深く迫害されて、居ることに、不思議です。

日本で迫害…というか、布教活動が禁止になったのは「カトリック」であって、キリスト教を禁止したわけでは無いですね。
ただし、伝来当初のキリスト教はカトリックしかないので、秀吉の時代は「カトリック=キリスト教」のような表記になってしまいますが…

戦国時代にスペインが、カトリックの布教活動を看板にして寺社を破壊させたり、影で日本征服の動き>>を見せたり、大量の日本人奴隷を買い付けて外国に売りとばしたり>>した事で、国家の危機を感じた秀吉がカトリックの布教を禁止し、宣教師を国外退去させたのです。
秀吉亡き後に政権を握った家康は、たまたま漂着して来たウイリアム・アダムス(三浦按針)>>をかかえ込んだ時、オランダがプロテスタントである事、プロテスタントは、交易は求めるが、布教活動や政治介入などをしない事を知って、その後のヨーロッパとの交易の窓口をオランダにして、カトリックの禁止を継続したという事です。

神道にしろ、仏教にしろ、キリスト教にしろ、おおもとの経典や聖書は昔と変わらないのでしょうが、その解釈は時代とともに変化する物です。

だからこそ、様々な宗派に分かれたりするわけで…
歴史を見ていると、現在の私たちが、それに抱くイメージとは、少し違う時代もあるのかな?と感じます。

投稿: 茶々 | 2017年6月29日 (木) 15時30分

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