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2007年6月12日 (火)

入鹿暗殺≠大化の改新

 

大化元年(645年)6月12日・・・

まずは、蘇我入鹿・暗殺の一部始終から・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

その日、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿では、時の天皇・第35代皇極天皇がお出ましになり、三韓(みつのからくに)からの貢物を受け取る儀式が行われようとしていました。

居並ぶ重臣たちの先頭に立つのは、当時、権力を欲しいままにしていた蘇我蝦夷(そがのえみし)大臣・・・。

Issinohenitabukinomiyacc 最後にやってきた蝦夷の息子・入鹿(いるか)が宮殿へ入ろうとすると、入り口でピエロが芸を披露し、面白おかしく(何かを)チョーダイ」のポーズ・・・「そうか、この剣を渡せと言う事か?」と、入鹿は笑いながら、ピエロに剣を預けます。

皆が揃ったところで、蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)が進み出て、三韓の外交文書を読み上げます。

自ら槍を持って宮殿の脇へ身を隠した皇極天皇の息子・中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が合図を送ると、味方の警備兵が一斉に12個ある宮殿の通用門を閉めます。

皇子の傍らには、弓矢を持った中臣鎌子(なかとみのかまこ=鎌足)が、同じく身を潜めます。

鎌子のとなりにいた海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)は、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)稚犬養連網田(わかいぬかいのむらじあみだ)に、それぞれ一振ずつ剣を手渡しながら、小声で「できるだけ迅速に斬り捨てろ」と命じます。

しかし、二人は恐ろしさのあまり、ノドがカラカラ・・・水を飲もうとしてもノドを通らない。

そうこうしている間に、石川麻呂は文書を読み終わりそうになります。

実は、川麻呂が文書を読んでいる最中に、入鹿に斬りかかる予定でしたが、先の二人の恐怖がおさまらず、グズグズしていたのです。

もう、最後の一行になってしまったのに、なかなか事が始まらないので、今度は石川麻呂が奮えだし、恐怖のために汗ビッショリになってしまいます。

その様子を見た入鹿は不審に思い「どうした?なぜ、そのように怯えているのか?」と訪ねます。

「あまりに天皇の近くにきましたので、おそれおおくて奮えが止まりません」と、石川麻呂はごまかします。

「あかん!コイツらにまかしとかれへん!俺が殺ったる!」と、中大兄皇子が躍り出んとした時・・・「蘇我大臣の御殿が、何者かの放火され炎上中!」という急使が舞い込みます。

騒然とする宮殿内・・・蝦夷は顔面蒼白になり、その場から駆け出します。

父の後を追って、入鹿が駆け出そうとしたその瞬間!

背後から何者かに刺され、血まみれになってその場に倒れ込みます。

傍らには、剣を手にした中大兄皇子と中臣鎌子・・・。

「何事か!」と、玉座におわす天皇が声を荒げますと、虫の息の入鹿は、はいつくばりながら天皇のほうを見上げて「私は無実です。よくお調べになって下さい・・・」

そう言って、その場で息絶えたのです。

さすがの二人の貴公子も、しばらくその場から動けずに立ちすくんでいたところ、「早よう、この場をお逃げなされ」という、重臣の誰かの一言にハッと我に返り、皇子と鎌子は、同志十数名とともに、多武峰(とうのみね)へと逃走します。

多武峰とは、飛鳥から細川(冬野川)沿いの渓谷を南東へ向かった場所にあり、五年前の蹴鞠の会で知り合った皇子と鎌子は、その後、多武峰で度々寄り合っては、入鹿暗殺の計画を練っていた場所・・・つまりアジトです。

その逸話から、その場所は談山神社と呼ばれる事になります。

一天にわかに掻き曇り、雷鳴轟く中を逃げる皇子と鎌子・・・それを、斬り落としたはずの入鹿の首が執拗に追いかけます。

息も絶え絶えになりながら逃げるうち、うっそうとした森の中に入り込んで、大きな木の陰に隠れて、入鹿の首をやり過ごす・・・。

Amakasinookatokubidukacc 二人を見失った入鹿の首は、ふと、燃え上がる自宅の事が気にかかります。

「父はどうしただろう」
入鹿の首は、180度方向を変え、今度は飛鳥に戻ります。

しかし、力つきて自宅の手前で落ちた所が、現在の入鹿の首塚のある場所だと言われています。

一方の皇子と鎌子・・・恐る恐るチラッと空を見上げる二人・・・どうやら入鹿の首は飛び去ったようです。
「よかった・・・」
さすがに、ここまで来たら、もう来んやろな。」
と言ったという事で、このあたりの森は「茂古(もうこん)の森」と呼ばれているのだとか・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、これが蘇我入鹿暗殺の一部始終。
これを「乙巳(いっし)の変」と呼びます。

もちろん、後半部分の入鹿の首が追っかけて来る・・・という話は作り話だという事はわかりますが、この変をきっかけに「大化の改新」なる大きな改革が行われる事になる・・・と、私は歴史の授業で習いました。

しかし、どうやら、「入鹿暗殺」と、「大化の改新」は別物のようです。

そもそも、この暗殺劇と大化の改新の事が書かれている『日本書紀』は、この事件の後、70年後に書かれた物で、しかも、編者は、物語のヒーロー中臣鎌足の子孫。

つまり・・・勝者が書いた歴史です。
とてもアヤシイ・・・。

だいたい名前がすでに怪しいです。

当時は、巨大なクジラの事を「勇魚(いさな)と呼んでいて、読んで字のごとく、勇敢な魚として良いイメージを持っていたのに対し、食すればまずく、漁場を荒らしてばかりする小型のクジラを「入鹿(いるか)と、さげすんだイメージで呼んでいたのです。

そうなるとお父さんの蝦夷もおわかりですね。
「征夷大将軍」という名前でもわかるように、当時、蝦夷は別の国で、しかも、その呼び名には自国より劣った国という差別的な意味も込められていました。

つまり、この名前は差別用語・・・二人とも本名ではありません。

あれだけ歴史に登場した蘇我氏の本家が、ここで滅亡したという事実がある以上、さすがに暗殺事件があった事は本当でしょうが、それ以外の事はどうも鵜呑みにするのは考え物のようです。

そして、その暗殺事件と大化の改新が別の物であるという根拠は、この暗殺事件の翌年に発布されたとする「大化の改新の詔(みことのり)にあります。

詔とは、要するに、政変によって改革された新しい法律ですが、その詔の副文が大宝元年(701年)に成立する「大宝律令」の丸写しの可能性が高いのです。

それは、地方の行政区域の表記が、詔では(もちろん大宝律令でも)「郡大領」と書かれているのですが、藤原宮で発掘された木簡によって、大宝律令以前には、「評督領」と表記されていた事が判明。

つまり、改新の詔は、大宝律令以降に書かれた事が可能性が高いのです。

さて、こうなったら、『日本書紀』のどこが本当で、どこが嘘なのか?徹底的に知りたくなりますね~。

もちろん、謎解きの答がすぐに出る物ではありまでんが・・・

Issinohencc 今日のイラストは、
やはり、『乙巳の変』その時・・・って感じです。

入鹿目線の絵っていうのがけっこう難しかった~
記事よりはるかに時間がかかってしまった・・・
 .

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コメント

わ~! 入鹿さんだ~!
って、手だけかいっ!・・とつっこみ入れてみたりして。でも、まあ相手が中大兄だから許すわ。けっこう好きなんですね~私。入鹿さんも、カマ子(すごい名前だ!)さんもね~♪
 まあ、日本書紀は色々資料を寄せ集めているみたいなので、なかなかの難物で、だからこそ楽しいですね。

投稿: 乱読おばさん | 2007年6月12日 (火) 09時38分

おばさま・・・こんにちは~

最初は入鹿さんの手を血まみれに、皇子には返り血バンバンするつもりだったのですが、書けば書くほど変になり、すべてを消して血は剣の先っぽだけにしました。

血のしたたる感じをカッコよく描くのは難しいですね。

「日本書紀」は神武天皇と崇神天皇・・・ハツクニシラススメラミコトが二人いる時点で、寄せ集めまるだしですが、そこがおもしろいんですね。

投稿: 茶々 | 2007年6月12日 (火) 14時06分

695年に畿内大和の豪族が九州王朝の天皇を殺害し皇権を簒奪した下克上のクーデターであり、一方では藤原氏の政権掌握の功績は記述したいが、他方では皇権簒奪の事実は隠匿したいという欲求から生まれた年代・背景を改竄した記事でしょう。

投稿: パパイヤ | 2007年6月28日 (木) 15時37分

パパイヤ様・・・コメントありがとうございます。

九州王朝かどうかはわかりませんが、ここで、政権交代のクーデターがあった事は確かでしょうね。

もちろん、その前にも何度か・・・
崇神天皇、応神・仁徳天皇、継体天皇など、最低でも3~4回・・・ホントはもっとでしょうね。

今や、日本が単一民族で万系一世だと思う人は少なのではないでしょうか・・・。

投稿: 茶々 | 2007年6月28日 (木) 18時15分

大化の改新                                   
蘇我氏一族の石川麻呂までも参加した大化の改新すごいですよね。
その後の天智天皇の政治はどうかと思いますが・・・。
みなさんはどう思われますか

投稿: もか | 2011年6月12日 (日) 19時28分

もかさん、こんばんは~

そうですね…
天智天皇の政治を考えるうえで、その史料がほぼ「記紀しかない」というところがネックだと思います。

アレは天武天皇のために、その子孫と藤原氏が書いた歴史ですので、滅ぼした相手(天智&弘文)の事を、どこまで忠実に書き残しているのかが微妙な気がしますね。

まだまだ研究の余地がありそうです。

投稿: 茶々 | 2011年6月13日 (月) 01時54分

今夜の世紀のワイドショーで取り上げます。この政変はある意味で、「天上の虹」のおかげで世間に浸透した感じですね。

投稿: えびすこ | 2011年8月22日 (月) 08時27分

えびすこさん、こんにちは~

「天上の虹」は読んだ事ないので、世間への浸透うんぬんは、私にはわかりませんが、ラテ欄にある「授業で最初に習う大事件」というのは、同感ですね。

投稿: 茶々 | 2011年8月22日 (月) 11時36分

今期末の勉強をしているので超分かりやすかったです♪
また勉強に使わせてもらいます☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

投稿: 初カキコ☆ | 2011年11月29日 (火) 20時16分

初カキコ☆さん、こんばんは~

今、このあたりを勉強中ですか?
お役にたててウレシイです( ̄▽ ̄)

投稿: 茶々 | 2011年11月29日 (火) 23時55分

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