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2007年7月31日 (火)

風林火山・孫子の兵法13・火攻篇

 

今日は、『風林火山・孫子の兵法』の13回目、『火攻篇』をお送りします。

・‥…━━━☆

『孫子曰く、およそ火攻に五あり』
孫子は「火攻めの種類は五種類ある」と言います。

  1. 人を焼く
  2. 蓄えた兵糧を焼く
  3. 輸送物資を焼く
  4. 倉庫を焼く
  5. 陣営を焼く

この5つで、発火装置などの準備はもちろん。
時期も重要だと言っています。

その時期は、(き・みぼし)」「壁(へき・まめぼし)」「翼(よく・たすきぼし)」「軫(しん・みつうちぼし)(←これらは星座の名前です)に、月がかかる空気の乾燥した時期。
なぜなら、これらの星座が月にかかる時は、必ず風が吹き荒れるから・・・だそうです。

一瞬、占いの神頼みのようにも思えますが、これは下駄を投げて明日の天気を占うのは違う、れっきとした統計学・・・星の動きを見て、暦を計算した、どちらかと言えば天気予報に近い物です。

「箕」「壁」「翼」「軫」というのは、古代中国で、天体の位置や動きを知るために考え出された『二十八宿』という天体観測方法に用いられる星座の中の4宿です。

まず、天を東西南北の四つの方向の分け、東は蒼龍西は白虎南は朱雀北は玄武四神(四つの聖獣がそれぞれの方角を守っている)をあてはめ、それぞれの方角をさらに七分割・・・で、全部合わせて二十八宿。
それぞれの方角にある星座を使って方向を見るワケです。

この28の星座を使って、天体観測をして暦を計算する方法は日本にも伝わり、高松塚古墳の石室内の天井にも、この天体図が書かれています。

↓こちらは、高松塚古墳の天体図・・・二十八宿についてはいつかくわしく書きたい
Sonnsiyoutakamarudukatentaizucc 孫子ご指定の星座には、ピンクの付けました~。

さらに、陰陽道風水にも使用され、平城京平安京、果ては江戸の町まで、東西南北の四神に守ってもらえるように設計されていて、平城京や平安京の南の門を『朱雀門』と呼ぶのも、この四神に由来する物です。

話が『四神』の方にそれちゃいましたが、とにかく、あてずっぽうではなく、理にかなった火事の起きやすい日を狙ってる・・・って事です。

ただし、統計学は確率なので、あくまで、100%ではありませんが・・・。
それは、現在の天気予報も同じ事です。

そして、火攻篇は、それぞれの場面に対する臨機応変な攻撃の仕方へと移ります。

『およそ火攻は、五火の変に因りてこれに応ず』
火攻めの時の攻撃法に関して「五種類の場面がある」としています。

  1. 敵陣に火の手があがった時・・・外側から素早く攻撃して追い討ちをかける。
  2. 火の手があがっても敵陣が静まりかえっている時・・・そのまま待機して様子を観察し、攻め時を見極め、チャンスが無ければ攻め込まない。
  3. 敵陣の外側から火を放つ事が可能な時・・・内応者(敵に潜入している味方)の放つ火の手を待つ事なく、チャンスがあるのなら、外側から火を放つ。
  4. 風上に火の手があがった時・・・風下から攻撃してはならない。
  5. 昼間の風は長く続くが、夜の風はすぐにやむので、その点に注意しなければならない。

以上、の事に充分と配慮して臨機応変に攻撃法を考えなければならないのです。

孫子は火攻めと対照させるように水攻めについても書いています。
『火を以って攻を佐(たす)くる者は明なり。水を持って攻を佐する者は強なり。』
「水攻めは火攻めと同じくらい有効である」と・・・。

ただし、水攻めの場合は、あくまで敵の補給路を断つ事に専念すべきで、決して、すでに蓄えてある物資を奪おうとしてはなならい・・・としています。

さて、今までは何やら、火攻め・水攻めと現代人の私たちには、あまり関係のないような話題でしたが、最後に、現在でも応用可能な重要な語句が登場します。

『戦勝攻取してその功を修めざるは凶なり』
「たとえ戦争に勝っても、その目的を達成できなければ、負けたのと同じである」

戦争という物は戦うために戦っているわけではありません。
何らかの目的があって戦いに挑んでいるわけですから、その目的が達成できなければ意味がありません。

ですから、有能な大将は・・・
『利にあらざれは動かず、得にあらざれば用いず、危にあらざれば戦わず』
「有利な状況でなければ動かず、必勝の作戦しか用いず、よほどの事が無い限り戦わない」
そして・・・
『怒りを以って師を興すべからず・・・憤(いきどお)りを以って戦いを致すべからず。利に合して動き、利に合せずして止む』
「怒りにまかせて軍事行動を起こしてはいけません。有利だと思えば行動し、不利だと見れば撤退する。」

人間、どうしても感情が先立ってしまいます。
また、勢いにまかせて突っ込んでしまう、という事もあります。
そういう場合、撤退すると臆病者呼ばわりされる事だってあります。

先日、このブログに書かせていただいた【キスカ撤退作戦】(7月29日参照>>)においても、霧の晴れ間を見て撤退した木村司令官「臆病者」というレッテルを貼られ、かなりの批判を受けたと言います。

しかし、結果的に見れば、その勇気ある撤退が、キスカ島の守備隊の命も、そして木村司令官自身の命も救う事になったわけですから・・・。

孫子は言います。
『怒りは以って複(ま)た喜ぶべく、憤りは以って複た悦(よろこ)ぶべきも、亡国は以って複た存すべからず、死者は以って複た生くべからず』
「怒りやいきどおりは、時が経てばいつか喜びに変わるけれど、亡くした国や死んだ人は、もう戻っては来ないのだ」と・・・。

大将(長)たる者、この事を肝に銘じてこそ、国が安定し、人が力を発揮できるものなのです。

反対者をクビにして刺客まで放っておきながら、ほとぼり冷めたら復帰させて「まずは、お帰りなさい」なんて言ってたら、そりゃ票も取れないって・・・。
あっ!そうか・・・途中で長が変わったから仕方ないのか~・・・て、もうちょっとうまい方法を考えないとね。

・・・て、事で今回は、孫子の兵法『火攻篇』をご紹介しました~。

・・・・・・・・

続編はコチラ『風林火山・孫子の兵法・最終章・用間篇』>>

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
 .
 

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大坂の陣の年表

このページは、大坂の陣の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりませんので、年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Kamonsanadacc



 

・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1598 8 18 豊臣秀吉が死去
【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】
【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】
1605 5 10 家康の上洛要請を秀頼が拒否
【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】
1611 3 28 家康と秀頼が二条城で会見
【会見で家康が感じた事】
【二条城で出された饅頭は・・・】
【二条城の会見と軍師・白井龍伯】
1614 5 20 前田利長・没
【加賀百万石~前田利長・毒殺疑惑】
7 17 織田信包・急死
【病死か?毒殺か?織田信包の急死】
7 21 方広寺・鐘銘事件
【家康のイチャモン・方広寺の鐘銘事件】
7 26 家康が大仏開眼供養の中止を命令
【秀吉の京の夢…幻の方広寺・大仏殿】
8 20 方広寺・鐘銘事件で最後通告
【方広寺鐘銘事件・片桐の交渉空しく】
10 7 毛利勝永ら有名浪士が大坂城に入城
【大坂の陣~毛利勝永の入城】
高山右近がマニラに追放される
【高山右近、神に召される】
10 9 真田幸村、九度山を脱出する
【幸村が九度山を脱出し大坂城へ…】
10 大坂城での軍儀
【真田幸村の必勝作戦!】
10 23 徳川秀忠が江戸を出陣
【「江」と大坂の陣直前の秀忠の手紙】
11 5 大坂方が平野郷を焼き討ちする
【平野焼き討ちと「みしかよの物かたり」】
徳川方の来襲に大坂方が城へ帰還
【冬の陣・直前~その時、大坂城内は?】
11 16 ~29日大坂冬の陣~野田福島の戦い
【初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い】
11 26 大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い
【激戦!冬の陣~鴫野・今福の戦い】
12 4 真田丸の攻防
【大坂冬の陣,真田丸の攻防】
【真田幸村と松平直政】
12 12 熊野・北山一揆
【熊野・北山一揆in大坂の陣】
12 16 徳川方の大筒が大坂城天守閣に命中
【家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係】
塙団右衛門が夜襲をかける
【夜討ちの大将・塙団右衛門in冬の陣】
12 19 大坂冬の陣の和睦成立
【大坂冬の陣・講和成立】
【浅井三姉妹の次女・初と大坂の陣】
1615 3 19 姉と兄に手紙を出す
【真田幸村、最後の手紙】
4 19 家康が大野治純をして治長の負傷を問う
【かりそめの講和が破れ夏の陣へ…】
4 24 家康が大蔵卿局を帰阪させる
【交渉人~淀殿の乳母=大蔵卿局】
4 26 夏の陣・大和郡山城の戦い
【戦端を切った大和郡山城の戦い】
4 28 夏の陣・紀州一揆
【樫井の戦いに連動した紀州一揆】
4 29 大坂夏の陣・樫井の戦い
【豊臣滅亡を決定づけた?樫井の戦い】
【私はカモメ~塙団右衛門・樫井の戦い】
4 30 後藤又兵衛の大和口要撃作戦を採用
【大和口要撃作戦~道明寺誉田の戦い】
5 1 後藤又兵衛が平野へ出陣
【真田幸村の平野・地雷火伝説】
5 5 夏の陣・前夜、木村重成が兜に香を…
【露と消え…木村重成の夏の陣・前夜】
5 6 大坂夏の陣
【大坂夏の陣・開戦!】
道明寺・誉田の戦い
【後藤又兵衛基次・起死回生の夏の陣】
【奮戦!薄田隼人~IN夏の陣】
若江の戦い
【若江に散った四天王=木村重成】
大坂夏の陣・八尾の戦い
【夏の陣・八尾の戦い~ちょっとイイ話】
5 7 総攻撃開始・幸村討死
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】
【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦】
【渡辺糺と母・正栄尼の最期】
【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】
【大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語】
5 8 大坂夏の陣・終結
【夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説】
【自害した淀殿の素顔と生存説】
【大坂城から脱出した秀頼の娘は?】
【唯一の脱出成功者・明石全登】
【「秀頼自刃・山里丸の遺構発見」の…】
5 15 長宗我部盛親・斬首
【起死回生を賭けた大坂夏の陣】
5 21 佐野道可(内藤元盛)・切腹
【毛利の存続を賭けた「佐野道可事件」】
5 23 秀頼の遺児・国松が処刑される
【事実はドラマより~秀頼の子供たち】
5 27 増田長盛が自刃
【五奉行・増田長盛…最後の大仕事】
6 11 島津忠恒の「真田日本一の兵」発言
【「真田日本一の兵」by忠恒の心の内は】
6 27 大野治胤が処刑される
【灰になっても…大野治胤の壮絶最期】
7 9 徳川家康が豊国神社の破却を命令
【豊臣の影を払拭…豊国神社・破却】
番外編 【真田丸はどこにあった?】
【千姫・ご乱行の真相】
【落城記念~大阪城の怖い話】
【黒田一成と岩佐又兵衛と夏の陣屏風】
【真田信繁討死~そして幸村伝説へ】
【茶臼山、立入禁止令】
その後の大坂城 【秀吉の怨念?大阪城の不思議な話】
【西方の最前線~江戸時代の大阪城】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
【天下人が成しえた城割の重要性とは?】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【忍者の教科書『万川集海』】
【戦国武将と茶の湯の流行】
【政略結婚と女性の役割】
【戦国女戦士の必須アイテム「薙刀」】
【戦国から江戸の城の変貌】
【親兄弟が敵味方に分かれて戦う事】

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2007年7月30日 (月)

夏バテに鰻は万葉の昔から・・・土用の丑の日にちなんで

 

今日は、『土用の丑の日』
なんだかんだ言いながらも、きっちりウナギを買い込んで参りました~。

「土用」というと、何だか夏のイメージがありますが、実は年4回あります。

もともと中国から伝わったあの『五行説』
宇宙や運命が「木・火・土・金・水」の五つの元素から成り立っているとするアレです。

そして、二十四節季(くわしくは10月8日参照>>)の中の、立春・立夏・立秋・立冬の日の前の18日間は、五行説の「土」が活発に活動する時期であるとして、その期間を「土用」と呼び、その期間内にある「丑」の日が「土用の丑の日」という事です。

ちなみに、今年は8月8日が立秋です。

・・・で、この土用の丑の日にウナギを食べるようになったいきさつが、平賀源内(11月21日参照>>)宣伝コピーだというのは有名な話で、いまさら・・・って感じですが、一応、書かせていただくと・・・

夏の暑い真っ盛り、人々の食欲はどうしても、冷たいそうめんとか、あっさりしたそばへと向き、ウナギ屋はてんで商売になりません。

・・・で、困ったウナギ屋の主人が、マルチな天才・源内先生に相談した所、その場にあった紙に、サッサ~と『土用の丑の日』と、書いたのです。

要するに、これは、販売促進ポスター。

この『土用の丑の日』というポスターを店頭にかかげて、「土用の丑の日はウナギを食べよう!キャンペーン」をはれ!と・・・。

そして、このキャンペーンが大ハヤリ!

各ウナギ屋が夏にはポスターを貼るようになり、今じゃ、年中行事のように土用の丑の日には、ついついウナギを食べてしまうんですよね~。

しかし、この夏場にウナギが売れない・・・というのには、「暑い」という以外に、もう一つ理由があったんです。

それは、「夏場のウナギはマズイ」という事を江戸の市民が知っていたからなのです。

もちろん、今では養殖技術も発達して、年中おいしいウナギが店頭に並んでいますが、江戸時代のウナギは、ほぼ天然物・・・。

当時は、冬眠準備のために、たくさん餌を食べる冬場のウナギが脂がのっていて、最高にオイシイとされていました。

それと、産卵のために川を下る頃の秋。
そして、大好物の川海老を食べまくる食用旺盛な春。

ですから、何にも無い夏場のウナギには、人々は見向きもしなかったワケです。

・・・で、源内先生の考えた『体力の落ちる夏の季節に、栄養たっぷりのウナギを食べようキャンペーン』で、夏場のウナギも売れるようになって、めでたし、めでたし・・・

・・・なのですが、実は、「体力の落ちた夏場にウナギを食べる」というのは、万葉の昔からあった習慣なんですね~。

あの『万葉集』の編者である大伴家持(おおとものやかもち)が、その『万葉集』に自分自身の歌を載せています。

♪石麻呂(いわまろ)に 吾物申す 夏痩(なつやせ)
 よしと云ふものそ 鰻
(むなぎ)とり食(め)せ♪

石麻呂というのは家持の友人。

彼が、げっそりと痩せてしまったので、「夏痩せにはウナギが良いって言うから食べてみなよ」と、励ますというか、からかうというか、そんな感じの歌です。

まぁ、当の石麻呂さんも

♪痩す痩すも 生けらばあらむ はたやはた
 鰻を取ると 川に流るな ♪

「痩せてる、痩せてるって・・・なんぼ痩せとっても、命はあんねんからほっといて!鰻を取りに行って、川に流されたら死んでまうやないかい!」
なんて返してますから、心配はなさそうですが・・・

博学の源内先生・・・おそらく万葉集はご存知のはず。
(江戸時代はごく普通の庶民でも読んでたらしいですから…)

ウナギ屋の主人から相談を受けた時、この家持の歌を思い出したのでしょうね。

キラ~ン★「これは使える!」と、ひらめいた!

しかし、たとえ家持のパクリ・・・いや、オマージュであったとしても、おかげで夏のウナギは大ヒット商品となり、300年ほど経った今でも、ほぼ原型のままの『土用の丑の日』というポスターが使用されているなんて・・・「源内先生、さすが!」って感じですね。

そんな源内先生は、もう一つ・・・大ヒット映画ならぬ、大ヒット浄瑠璃とのコラボ商品も販売しちゃってます。

そのお話は10月23日【新田義興の怨念?神霊矢口の渡し】でどうぞ>>

Doyounousiyakamoticc 今日のイラストは、
元祖の大伴家持さんに、『土用の丑のうな重』を体験していただきました~。

ん~おいしそ~!今夜が楽しみだ!
.

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徳川家康の年表

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*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Ieyasukamonnenpyoucc_2

・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1535 12 5 森山崩れ~井田野の戦い
【祖父・松平清康殺害「森山崩れ」】
1543 8 27 三木城の戦い(松平内紛)
【松平広忠VS松平信孝~三木城攻防戦】
1547 8 2 今川の人質に出されるが織田に奪われる
【少年・徳川家康の命の値段】
1549 3 6 父・松平広忠が死亡
【流浪となって次世代へ繋いだ家康の父】
11 6 安祥城の戦い(人質交換)
【信長&家康に今川と絡む運命の糸】
11 27 家康・今川の人質となる
【徳川家康は四人いた?説】
1558 2 5 初陣~寺部城の戦い
【徳川家康の初陣~三河寺部城の戦い】
1560 3 18 長女・亀姫誕生
【宇都宮釣天井の仕掛け人】
5 19 桶狭間の戦い
【一か八かの桶狭間の戦い】
【桶狭間の戦い~その時、家康は…】
1563 9 5 ~64年2月 三河一向一揆
【三河一向一揆~徳川家臣が真っ2ツ!】
1566 12 29 松平から徳川に改姓
【天下取りにパーフェクト?家康の改名】
1567 5

27

長男・信康が信長の長女・徳姫と結婚
【信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫】
1568 12 今川領・遠江に進攻開始
【信玄・駿河に進攻~薩埵峠の戦い】
12 27 ~翌年5/17まで掛川城攻防戦
【今川氏滅亡~掛川城・攻防戦】
1569 3 27 気賀堀川城一揆
【徹底根絶やし~気賀堀川城一揆】
1570 4 26 越前・朝倉氏との戦いに参戦
【手筒山・金ヶ崎城の攻防戦】
6 28 姉川の合戦
【信長の判断ミス?姉川の合戦】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
1572 7 22 信長の小谷侵攻に参戦
【山本山城の戦いと虎御前山城構築】
10 3 武田信玄が甲斐を出陣
【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
10 13 一言坂の戦い
【家康に過ぎたる~忠勝・一言坂の戦い】
10 14 ~12/19二俣城・攻防戦
【信玄・二俣城を攻略】
10 22 伊平城・仏坂の戦い
【井伊・伊平城の仏坂の戦い】
12 22 三方ヶ原の戦い
【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】
三方ヶ原で夏目吉信が討死
【家康の影武者となって討死…夏目吉信】
12 23 信玄が三方ヶ原の戦いの首実検を行う
【三方ヶ原の後~犀ヶ崖の戦い平手の死】
1573 1 11 三方ヶ原に勝利した信玄が野田城を攻撃
【武田信玄最後の戦い~野田城・攻防戦】
1574 4 5 武田に内通した大賀弥四郎を処刑
【家康を鬼にした?大賀弥四郎の処刑】
5 12 第二次高天神城の戦い
【武田勝頼が高天神城を奪取】
1575 4 21 武田勝頼軍が長篠城を囲む
【いよいよ始まる長篠城・攻防戦】
5 16 救援要請をした鳥居強右衛門が磔になる
【史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商】
5 18 織田・徳川連合軍が設楽原に到着
【設楽原で準備万端…どうする?勝頼】
5 21 長篠の合戦
【決戦!長篠の戦い】
【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】
8 24 諏訪原城が落城
【徳川VS武田~諏訪原城の戦い】
1579 8 29 正室・築山殿を殺害
【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!】
9 15 嫡男・信康を自刃させる
【なぜ信康を殺さねばならなかった?】
1581 3 22 第三次・高天神城の戦い
【武田滅亡へのカウンドダウン~高天神城】
1582 2 9 信長の甲州征伐、開始
【織田軍怒涛の進撃~甲州征伐開始】
2 20 依田信蕃が田中城を開城
【家康が見込んだ殺すに惜しい男・信蕃】
3 1 武田方の穴山梅雪が織田&徳川に降る
【裏切った穴山梅雪…運命の分かれ道】【穴山梅雪を寝返らせた大久保忠世】
3 11 武田氏・滅亡
【武田勝頼、天目山に散る】
【天目山…武田勝頼の最期】
4 4 信長の安土帰還を接待
【書状と安土帰陣と息子・勝長の事】
5 29 堺を見物する
【本能寺の変~家康・黒幕説について…】
6 2 本能寺の変で織田信長が自刃
【本能寺の変~『信長公記』より】
【家康、暗殺計画説】
6 2 ~7日・伊賀越えで岡崎に帰る
【徳川家康・決死の伊賀越え】
6 13 秀吉と光秀の山崎の合戦
【天下分け目の天王山!山崎の合戦】
6 18 織田信忠の重臣・河尻秀隆が死亡
【本能寺の余波に散る重臣・河尻秀隆】
10 29 徳川と北条の和睦
【天正壬午の乱で井伊の赤備え誕生】
1584 3 6 織田信雄が重臣3名を殺害
【小牧長久手へ…信雄の重臣殺害事件】
3 12 小牧長久手~亀山城の戦い
【小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い】
3 13 小牧長久手の戦い~犬山城攻略戦
【秀吉VS家康・小牧長久手の戦い】
3 17 小牧長久手の戦い~羽黒の決戦
【森長可の屈辱】
3 19 小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防
【小牧長久手~峯城&松ヶ島城攻防戦】
3 22 小牧長久手の戦い~岸和田城・攻防戦
【小牧長久手~岸和田城・攻防戦】
3 28 小牧長久手の戦い~小牧の陣
【秀吉VS家康の睨み合い~小牧の陣】
4 9 長久手の戦い
【天下は何処・長久手の戦い】
【鬼武蔵・森長可~遺言に託された願い】
【ヒデヨシ感激!本多忠勝の後方支援】
4 29 小牧長久手~美濃の乱
【秀吉VS家康…美濃の乱】
6 15 蟹江城攻防戦
【小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦】
8 28 北陸版・小牧長久手の戦い
【末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲の連携】
11 15
16
秀吉と信雄の講和が成立
家康が小牧山の陣を撤収
【決着…信雄の単独講和に退く家康】
11 21 家康が次男を人質に出し秀吉と講和
【結城秀康~その運命の分かれ道】
11 23 佐々成政が「さらさら越え」に出発
【佐々成政の北アルプスさらさら越え】
1585 8 2 上田城・神川の合戦
【真田の勝利と石川の寝返り】
11 13 石川数正が秀吉に降る
【石川数正・出奔の謎】
1586 4 28 家康が秀吉の妹・旭姫と結婚
【秀吉の妹・旭姫の悲しみ】
10 27 大坂城に赴き秀吉と会見
【負けたのに勝?人たらし秀吉の離れ業】
1589 12 10 小田原攻めの軍儀に参加
【小田原攻め開始~軍儀の内容は?】
1590 3 29 秀吉の小田原征伐に参戦
【小田原征伐開始・山中城落城】
【小田原征伐・オモシロ逸話】
4 2 秀吉とともに小田原城を包囲する
【秀吉VS北条の持久戦・小田原城包囲】
5 22 本多忠勝、北条の支城・岩槻城を落す
【攻めに耐えた!水の要塞・忍の浮城】
7 5 小田原城・開城
【小田原城・開城への道】
【城攻めの秀吉VS北条得意の籠城】
7 13 北条の旧領・関八州への転封
【秀吉の失策?小田原城での論功行賞】
【徳川家康…江戸転封の発想の転換】
8 1 家康・江戸に入る
【八朔と家康・江戸入府】
【家康はなぜ?江戸城を選んだか】
1591 11 4 北条氏直が死去
【北条氏直の肌の守りと督姫と】
1592 3 17 朝鮮出兵の先発の二番隊として出陣
【伊達男・政宗の出陣in文禄の役】
1593 1 26 朝鮮出兵・碧蹄館の戦い
【家康を朝鮮に行かせなかったのは?】
1595 6 10 孫・松平忠直が誕生する
【暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!】
1596 7 16 本多重次・没
【家康の兄代わり~鬼作左が一筆啓上】
10 28 酒井忠次・没
【徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?】
1598 7 15 秀吉が諸大名に忠誠を誓う誓詞を要求
【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】
8 9 病床の秀吉が家康らに遺言する
【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】
8 18 豊臣秀吉・没
【なにわのことも夢のまた夢】
11 20 慶長の役・終結
【慶長の役~悲惨な戦の残した物は】
1599 3 4 加藤清正ら7名が石田三成を襲撃
【徳川家康・天下へのシナリオ】
9 27 家康が大坂城・西の丸に入る
【家康の大坂城入りと「大河ドラマ・江」】
1600 3 16 ウィリアム・アダムス(三浦按針)が日本に漂着
【そしてヤン・ヨーステンの名は・・・】
3 23 小西行長らが朝鮮と講和のため捕虜送還
【朝鮮出兵後関係改善に尽くした宗義智】
4 1 上杉景勝が上洛を拒否
【関ヶ原の幕開け~上杉景勝・上洛拒否】
4 14 直江兼続が西笑承兌に返書を送る
【本物?ニセ物?直江兼続の「直江状」】
5 12 ウィリアム・アダムス(三浦按針)らと会見
【三浦按針ことウィリアム・アダムスのその後】
5 17 芳春院(まつ)が江戸へ向かう(20日とも)
【前田利家の妻・まつの江戸下向の謎】
7 11 大谷吉継が石田三成に賛同
【関ヶ原への決意~大谷吉継と石田三成】
7 14 大谷吉継が北陸諸将の勧誘に…
【関ヶ原へ向けて…北陸・越後が動く】
7 15 毛利輝元・広島城を出陣
【西軍総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算】
7 17 大坂城への入城を拒み細川ガラシャ昇天
【花と散る~細川ガラシャの壮絶最期】
7 18 高取城の攻防
【関ヶ原最初の戦い…高取城の攻防】
7 19 ~8/1 伏見城・落城
【伏見城攻防戦と養源院の血天井】
7 21 真田昌幸・幸村親子が西軍に降る
【兄は東に父・西に~真田・犬伏の別れ】
~9/13田辺城・攻防戦
【たった500人で関ヶ原の勝敗を左右?】
7 22 直江兼続が越後一揆を扇動
【直江兼続・越後一揆を扇動】
7 24 家康の会津征伐軍が小山に着陣
【「小山評定」前夜…家康と花房職之】
7 25 小山評定
【老獪・家康…西へUターンの小山評定】
伊達政宗が白石城を攻略
【伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原】
信幸の沼田城が昌幸・幸村の入城拒否
【あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助】
8 1 伏見城落城
【伏見城・落城…鳥居元忠の本望】
8 5 石田三成から真田昌幸への手紙
【三成&真田昌幸&上杉景勝の連携】
8 8 浅井畷の合戦
【北陸の関ヶ原・浅井畷の合戦…】
8 10 東軍・先鋒が岡崎城へ入る
【迫る関ヶ原!先鋒進軍の時家康は…】
8 12 秀忠が伊達政宗に協力を要請
【関ヶ原の合戦と伊達政宗】
8 16 遠山友政が河尻秀長の苗木城を奪取
【河尻VS遠山の関ヶ原~苗木城・開城】
福束城攻防戦
【関ヶ原~福束城攻防戦】
8 19 関ヶ原~南美濃攻防戦
【高須城&駒野城&津屋城の戦い】
8 22 加賀野井城&竹ヶ鼻城攻防戦
【竹ヶ鼻城攻防戦に散る杉浦重勝】
~23 岐阜城・落城
【信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い】
8 25 伊勢安濃津城・開城
【東海の関ヶ原・安濃津城の攻防戦!】
9 1 ~3郡上八幡城の戦い
【稲葉VS遠藤の関ヶ原~郡上八幡城】
家康が江戸城を出陣
【関ヶ原に~徳川家康が江戸城を出陣】
9 2 信濃上田城攻防戦・開始
【真田のゲリラ戦法炸裂!上田城攻防戦】
9 7 西軍主力部隊・関ヶ原南宮山に着陣
【いよいよ間近の関ヶ原!西軍主力着陣】
徳川秀忠が上田城攻略を断念
【真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い】
【中山道で関ヶ原に向う秀忠の任務は?】
9 9 上杉の執政・直江兼続が最上領に侵攻
【関ヶ原の前に!直江兼続・最上に侵攻】
9 10 大友義統が杵築城を攻撃
【黒田VS大友~石垣原へ杵築城攻撃】
9 13 九州にて石垣原の合戦・勃発
【関ヶ原で天下を狙う第三の男】
【豊後奪回を狙う男・大友義統石垣原】
鳥羽城の戦い
【九鬼嘉隆&守隆・父子の関ヶ原】
9 14 関ヶ原の合戦・前夜祭
【~前哨戦・杭瀬川の戦いと三成の決断】
【~小早川秀秋の長い夜】
【豊臣の五奉行~それぞれの関ヶ原】
9 15 関ヶ原の合戦
【天下分け目の関ヶ原】
【ともに命を賭けた戦場の約束】
【討死上等!関ヶ原に散る猛将・島左近】
【島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳】
直江兼続が長谷堂に到着
【長谷堂の戦い~直江兼続・孤軍奮闘!】
9 16 関ヶ原の合戦・反省会
【朝まで生合戦】(このページはフィクション)
関ヶ原を脱出した島津義弘が大坂へ・・
【敵中突破の「島津の背進」】
直江兼続が長谷堂城へ総攻撃
【直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い】
9 17 佐和山城攻め
【関ヶ原の後始末・佐和山城攻め】
大垣城の二の丸・三の丸が開城
【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
伊予の関ヶ原~三津浜の戦い
【毛利の伊予出兵~宍戸景世の関ヶ原】
9 19 小西行長・自首
【「キリシタンゆえ自害はできぬ」】
9 20 家康が大津城に入る
【勲功1番の戦い~京極高次の関ヶ原】
9 21 石田三成が捕まる
【石田三成、逮捕!】
9 23 安国寺恵瓊が捕まる
【戦国のネゴシエーター・恵瓊の失敗】
9 27 福知山城攻防戦
【細川VS小野木の福知山城攻防戦】
10 1 三成・行長・恵瓊が死刑に
【石田三成、斬首!】
【石田三成はそんなに嫌われていたの?】
直江兼続が長谷堂から撤退開始
【自刃まで考えた~兼続の長谷堂・撤退】
10 2 富来城が開城
【九州の関ヶ原~富来城が開城】
10 3 長束正家が自刃
【関ヶ原・水口岡山城の戦い】
10 5 鳥取城・総攻撃
【関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略】
10 10 岩村城が開城
【西軍・田丸直昌の岩村城が開城】
10 12 九鬼嘉隆・自刃
【戦国水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃】
10 14 黒田如水が小倉城を落す
【小倉城開城で黒田如水が北九州制圧】
10 17 加藤清正が宇土城・八代城を制圧
【九州の関ヶ原~加藤清正の動き】
10 20 鍋島直茂らが久留米城を攻撃
【生き残りをかけた鍋島直茂の関ヶ原】
10 28 赤松広秀(斎村政広)を切腹させる
【豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀】
11 3 筑後柳川城・開城
【立花宗茂・最後の関ヶ原】
12 5 浦戸一揆・終結
【土佐・一領具足の抵抗】
おたあジュリア、江戸城に入る
【悲劇の人・おたあジュリア】
後陽成天皇の智仁親王への譲位を拒否
【2人の天下人に翻弄された智仁親王】
1601 2 1 井伊直政を近江佐和山城に国替え
【近江佐和山城~三成から直政へ】
秀吉の文禄堤に4宿を設け東海道を整備
【東海道は五十七次!】
8 24 上杉景勝に大幅減封・決定
【領地が1/4~上杉家・大幅減封の危機】
9 28 毛利輝元が息子・秀就を江戸へ人質に
【関ヶ原敗戦での毛利の転落】
11 28 30万石に減封の上杉景勝が米沢入城
【関ヶ原後の上杉は?景勝の米沢入城】
1602 2 1 徳川四天王の一人・井伊直政・没
【徳川の斬り込み隊長・井伊の赤備え】
4 11 家康が島津の所領を安堵
【見事なネバり勝ち!島津義久の関ヶ原】
5 1 諸大名に二条城の築城を命令
【二条城・・・その動乱の歴史】
5 7 豊臣五奉行の一人・前田玄以・没
【ただ一人生き残った運命の別れ道】
6 11 藤堂高虎が今治に築城開始
【戦国随一の築城術~藤堂高虎】
10 18 小早川秀秋・没
【わずか2年で早死・小早川秀秋の苦悩】
1603 2 12 伏見城にて征夷大将軍の宣旨を受ける
【徳川家康・征夷大将軍への道】
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたか?】
7 28 孫・千姫が豊臣秀頼と結婚
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
8 6 宇喜多秀家が伏見へ護送される
【意外に快適?八丈島での宇喜多秀家】
京都・知恩院を永代菩提所とする
【三門の特別公開と知恩院の七不思議】
1604 彦根城・築城開始
【彦根城に菊は咲かない?人柱の伝説】
1605 4 16 三男・秀忠が2代将軍となる
【将軍・秀忠誕生~縁の下の基礎造り】
5 10 家康の上洛要請を秀頼が拒否
【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】
1606 4 19 柳生宗厳・没
【男・柳生宗厳68歳で掴んだ大きな1歩】
5 14 榊原康政・没
【歯に衣着せぬ…徳川四天王・榊原康政】
1607 2 17 駿府城の天下普請を開始
【豊臣の最期を見据える家康の駿府城】
2 20 江戸城本丸にて阿国歌舞伎上演
【女歌舞伎の禁止令】
3 5 四男・松平忠吉・没
【関ヶ原の先陣を飾った松平忠吉】
1609 4 4 駿府城で肉人に遭遇
【徳川家康の未知との遭遇】
10 19 重臣・石川家成が死去
【家康様一筋…無二の忠臣・石川家成】
1610 10 18 本多忠勝・没
【家康と供に半世紀…四天王・本多忠勝】
1611 3 28 豊臣秀頼と二条城で会見
【会見で家康が感じた事】
【二条城で出された饅頭は・・・】
【二条城の会見と軍師・白井龍伯】
4 11 後水尾天皇・即位
【後水尾天皇・徳川相手に王の意地】
6 24 加藤清正が没す
【加藤清正・疑惑の死】
1612 2 25 秀忠の正室・江に訓誡状を送る
【戦国からの脱却…将軍・家光誕生】
3 21 岡本大八事件・キリシタン禁止令を出す
【岡本大八事件と徳川キリシタン禁止令】
6 4 前田慶次郎・没
【人気の慶次郎・爺ちゃんでもカッコイイ】
1613 1 25 池田輝政・没
【「西国の将軍」と称された池田輝政】
4 25 大久保長安・没
【江戸初期の謎・大久保長安の懲罰事件】
6 16 「禁中並公家諸法度」を発布
【後水尾天皇・徳川相手に王の意地】
6 24 「笹の才蔵」の異名を賜った可児才蔵・没
【笹の才蔵~愛宕にまつわる死の予言】
8 6 花火を観賞する
【花火の歴史】
1614 1 18 友好関係にあった最上義光・没
【策士策に溺れる・謀略の将・最上義光】
5 20 前田利長・没
【加賀百万石~前田利長・毒殺疑惑】
6 3 板部岡江雪斎・没
【世渡り上手な外交軍師・板部岡江雪斎】
7 17 織田信包・急死
【病死か?毒殺か?織田信包の急死】
7 21 方広寺・鐘銘事件
【家康のイチャモン・方広寺の鐘銘事件】
7 26 家康が大仏開眼供養の中止を命令
【秀吉の京の夢…幻の方広寺・大仏殿】
8 20 方広寺・鐘銘事件で最後通告
【方広寺鐘銘事件・片桐の交渉空しく…】
9 21 中井正清が宇治川開削計画を上申
【築城の匠~家康専属大工・中井正清】
10 7 毛利勝永ら有名浪士が大坂城に入城
【大坂の陣~毛利勝永の入城】
高山右近をマニラに追放
【高山右近、神に召される】
10 11 駿府を出陣・大坂冬の陣勃発
【真田幸村の必勝作戦!】
10 23 息子・秀忠が江戸を出陣
【「江」と大坂の陣直前の秀忠の手紙】
11 5 徳川方の来襲に大坂方が城へ帰還
【冬の陣・直前~その時、大坂城内は?】
11 16 ~29日大坂冬の陣~野田福島の戦い
【初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い】
11 26 大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い
【激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い】
12 4 真田丸の攻防
【大坂冬の陣,真田丸の攻防】
【真田幸村と松平直政】
12 12 熊野・北山一揆
【熊野・北山一揆in大坂の陣】
12 16 塙団右衛門が夜襲をかける
【夜討ちの大将・塙団右衛門in冬の陣】
徳川方の大筒が大坂城天守閣に命中
【家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係】
12 19 大坂冬の陣の和睦成立
【大坂冬の陣・講和成立】
【浅井三姉妹の次女・初と大坂の陣】
1615 4 19 家康が大野治純をして治長の負傷を問う
【仮初の講和が破れ大坂夏の陣へ…】
4 24 家康が大蔵卿局を帰阪させる
【交渉人~淀殿の乳母=大蔵卿局】
4 26 夏の陣・大和郡山城の戦い
【戦端を切った大和郡山城の戦い】
4 28 夏の陣・紀州一揆
【樫井の戦いに連動した紀州一揆】
4 29 大坂夏の陣・樫井の戦い
【豊臣滅亡を決定づけた?樫井の戦い】
【私はカモメ~塙団右衛門・樫井の戦い】
4 30 豊臣方が大和口要撃作戦を採用
【又兵衛要撃作戦~道明寺誉田の戦い】
5 1 後藤又兵衛が平野へ出陣
【真田幸村の平野・地雷火伝説】
5 6 大坂夏の陣・道明寺・誉田の合戦
【大坂夏の陣・開戦!】
若江の戦い
【若江に散った四天王=木村重成】
大坂夏の陣・八尾の戦い
【八尾の戦い~ちょっとイイ話】
5 7 大坂夏の陣・総攻撃開始
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】
【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦】
【渡辺糺と母・正栄尼の最期】
【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】
【大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語】
5 8 大坂夏の陣・終結
【大坂夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説】
【自害した淀殿の素顔と生存説】
【脱出した秀頼の娘は・・・】
【唯一の脱出成功者・明石全登】
5 15 長宗我部盛親・斬首
【起死回生を賭けた大坂夏の陣】
5 21 佐野道可(内藤元盛)・切腹
【毛利の存続を賭けた「佐野道可事件」】
5 23 秀頼の遺児・国松を処刑する
【事実はドラマより~秀頼の子供たち】
5 27 増田長盛が自刃
【五奉行・増田長盛…最後の大仕事】
6 11 古田織部を切腹させる
【家康暗殺計画は本当にあったのか?】
6 11 島津忠恒の「真田日本一の兵」発言
【「真田日本一の兵」by忠恒の心の内は】
6 13 徳川幕府が「一国一城令」を発布
【天下人だけが成しえた城割の重要性】
6 27 大野治胤を処刑する
【灰になっても…大野治胤の壮絶最期】
7 7 徳川幕府が「武家諸法度」を発布
【武家諸法度…元和偃武に徳川の基礎】
7 9 徳川家康が豊国神社の破却を命令
【豊臣の影を払拭…豊国神社・破却】
救出された千姫のその後
【千姫・ご乱行の真相】
智積院を復興
【智積院と長谷川等伯・障壁画】
1616 4 17 徳川家康・没
【徳川家康・その死のまぎわに・・・】
【南宗寺の無銘の塔~家康のお墓説】
1617 4 10 静岡・久能山の家康の遺霊を日光へ
【神になった徳川家康】
番外篇 膨大な家康の遺産
【日本の輸入品好きは昔から】
【でるか?徳川埋蔵金伝説】
徳川家の家紋について
【徳川家だけなぜ葵?家紋のお話】
徳川時代の大阪城について
【秀吉の怨念?大阪城の不思議な話】
【徳川政権・西方の最前線~徳川大坂城】
【多聞櫓と千貫櫓の特別公開】
天海=明智光秀説について
【黒衣の宰相・天海=明智光秀説】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
【大手橋と近世城下町の町割】
【殺戮か?完全主義か?戦国との相違】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【忍者の教科書『万川集海』】
【古文書の虚偽と真実】
【戦国武将と茶の湯の流行】
【北野大茶会~秀吉と「茶の湯御政道」】
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2007年7月29日 (日)

キスカ撤退作戦・成功!

 

昭和十八年(1943年)7月29日、日本軍が『キスカ島・撤退作戦』を決行!
見事、全員が無事の帰還を果たします。

・・・・・・・・・

昭和十七年(1942年)6月にあった太平洋戦争の転換点とも言えるミッドウェー海戦

この海戦は、日本軍の多くの空母と、多くの優秀なパイロットを失い、その後の戦況に多大な影響を与えた敗戦でした。

映画などにもなって、皆さんもよくご存知のミッドウェー海戦ですが、実は、この時、もう一つの作戦も実行されていました。

それは、「アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を占領する」というものでした。

こちら↓は、縮尺無視のつたない地図ですが、これで大体の位置はわかっていただけるかと思います。
Kisukatizucc アリューシャン列島は、その名の通り「島」ではありますが、点々とたどって行けば、アメリカ本土に直結する場所にあります。

「ここを、攻略される事で、アメリカは、このアリューシャン列島に食いついてくるに違いない。その間にミッドウェーを・・・」

そうです。
この作戦は、ミッドウェー作戦を成功させるための、言わば「おとり作戦」・・・

空前の大艦隊を率いて挑むミッドウェー作戦を、何が何でも成功させるためのサポートをする事が目的の『アッツ島・キスカ島攻略作戦』だったのです。

そして、日本軍はアッツ島とキスカ島を、あっさりと攻略します。

・・・と、言うのも、実は、この時、すでに日本軍の暗号は解読され、本来の目的がミッドウェーである事を、アメリカ軍は知っていたのです。

かくして、ミッドウェー作戦は決行され、アッツ島とキスカ島は、その目的を果たす事なく、海戦は大敗に終ってしまうのです。

先にも書きましたように、ミッドウェーでの敗戦以降、日本軍は太平洋の各地でことごとく敗退してしまいます。

確かに、アリューシャン列島はアメリカ本土へ直結していますが、もともとミッドウェー作戦のための「おとり作戦」で、ここから本土へ進攻する作戦は、最初っから無かったワケですから、日本軍の注目は、負け戦の続く南方戦線へと移り、アッツ島とキスカ島は、守備隊のみが駐留するという孤立状態となってしまいます。

やがて、昭和十八年(1943年)5月、キスカ島の西隣りにある「アッツ島の守備隊が全滅する」という事態になります。

そこで、急きょ、まだ無事なキスカ島の守備隊を、救出する作戦を決行するのです。

しかし、現在の主体は南方・・・それほど大きな戦力を、ここに費やすわけにはいきませんから、軽巡洋艦3隻を含む駆逐艦・計16隻で向かいます。

頼みの綱は、北太平洋に時々発生する濃霧。
わずかの艦隊で、この作戦を成功させるには、天気を味方につけるしかありません。

一方のアメリカ軍は戦艦2隻を含む計・30隻を用意して、キスカ攻略の準備を始めます。

やがて、7月15日・・・キスカ島に向かう途中、頼みの霧が徐々に薄れて来た事に気づいた司令官・木村昌福(まさとみ)少将は、大いなる決断をします。

撤退です。
「運を天にまかせて勢いで突っ込む」という事を、彼はしませんでした。

そのため、この時には臆病者」というレッテルを貼られてしまうのですが・・・。

やがて、一旦、千島列島の占守島に帰った後、再び出撃します。

昭和十八年(1943年)7月29日・・・今度はバッチリ濃霧です。

いや、それどころか、アメリカの船1隻すら見当たりません。

木村少将率いる艦隊は、まったくの無傷のまま、一発の攻撃も受けずに、島に残っていた守備隊・5000人を収容し、無事帰還を果たすのです。

キスカ攻略の準備をしていたはずのアメリカ軍はどうしたのでしょう?
準備が間に合わなかったのでしょうか?

いえいえ、実は、もう撃をした後だったのです。

3日前の26日、アメリカ軍のレーダーが敵艦隊をキャッチします。
「それ!来た!」とばかりに、即、発進!

大量の爆弾を投じて、そこに猛烈な攻撃をしかけていたのです。

しかし実際には、当日、その海域には日本軍の艦隊は存在しませんでした。

つまり、アメリカ軍は、誰もいない所に猛攻撃を仕掛け、大量の爆弾を使ってしまったために、次の攻撃の準備が整わず、29日当日は、キスカ島の警戒を解いていたのです。

アメリカ軍のレーダーがなぜ26日に反応したのか?については、濃霧が原因では?との推測はあるものの、決定的な解明には至っていません。

誤作動の原因は、未だ、謎のままですが、とにかく15日に木村少将が『勇気ある撤退』をしていなければ、艦隊も、そして、キスカ島に残っていた兵士たちも、全滅していた事は確かでしょう。

この出来事が、負け戦の続く日本軍の士気を高めたのは言うまでもありません。

それにしても、お国柄の違いと言うか・・・欧米の場合、こういう「孤立してしまった戦地の兵士を救出する」という事は、ほとんど行われません。

それは、「見殺しにする」という意味ではなく、「軍が救出しない」変わりに「兵士も投降する事を恥としない」という考え方があるからです。

日本の場合、「捕虜になる事は恥」という気持ちがどうしても根底にある以上、「孤立した戦地の兵士を救出しない」となると、イコール死を意味する事になってしまいます。

ですから、何としてでも、助けなければならなかったのです。

しかし、このキスカ島撤退の頃から、戦況はどんどん悪くなります。

「負け」の色が濃くなると同時に、「救出」の二文字が消え、いつしか「玉砕」の二文字が、日本軍を支配して行くようになるのは、もう、皆さんご承知の通りです。
 .

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2007年7月28日 (土)

大江戸第三セクター・永代橋のお話

 

元禄十一年(1698年)7月28日、江戸・隅田川に永代橋が完成しました。

・・・・・・・・・

永代橋は、隅田川の最も下流に位置する橋で、当時の将軍・徳川綱吉の50歳を記念して、「深川の渡し」という渡し舟で通行していた場所に架けられました。

江戸湾に近く、多くの船が行き来するため、橋はかなり高く、そして大きく造られていて、高い建物がなかった江戸時代には、かなり見晴らしが良く、そういう意味でも名所だったようです。

ところで、『里見八犬伝』で有名な滝沢馬琴『兎園小説余録(とえんしょうせつよろく)には、次のような記述があります。

『橋の南北の詰に板壁の小屋をしつらひて、番人二人居り、笊(ザル)に長き竹の柄をつけたるを持ちて、武士、医師、出家、神主の外は、一人別に橋を渡る者より二銭ずつ取りけり。人を渡らんとすれば、くだんの笊を差し出すに、その人銭を笊に投げ入れて渡りけり』

つまり、この橋は有料だったのです。

当時、有料の橋は、隅田川に架かる大橋大川橋・・・そして、この永代橋の3つでした。

・・・と、言うのも、これらの橋は度々洪水に襲われ、火災なども頻繁に発生しており、その度に幕府は膨大な費用をかけて修復にあたっていたのですが、幕府の財政が苦しくなった享保四年(1719年)、とうとう幕府は「その維持が困難である」として永代橋と大橋の廃止を決定したのです。

しかし、この橋は、すでに地元住民にとっては無くてはならない物・・・それが重要な役目を果たしている事は、皆が承知していた事でしたので、当然の事ながら地元住民からは「反対!」の声が上がります。

「そこまで言うのなら・・・」
と、幕府が出した答えが、「橋の維持と管理を地元住民にまかせる」・・・つまり、橋の民営化を図ったのです。

第三セクターとなった以上、赤字では成り立っていきませんから有料=「通行料」を徴収した、ってワケです。

まさに、昨今の「○○民営化」、「聖域なき改革(ちょっと古い)ってな感じでしょうね。

「武士、医師、出家、神主以外は・・・」という特権階級があるのは、さしずめ新幹線に議員さんがタダで乗れたりなんかするのと同じ感覚かな?

それ以来、約百年ほど続いた「有料・永代橋」も、文化四年(1807年)の崩落事故によって廃止されます。

文化四年8月19日・・・その日は、八幡祭の日でした。

しかも、前回、モメ事が傷害事件に発展したため、12年間も中止されていた八幡祭がやっと復活したという事もあって、一目、神輿(みこし)を見ようと、予想外の人の数が永代橋に殺到!

そのために、橋は真ん中から無残にも崩れ落ちます。

さらに、その事に気づかないたもとの人々は、それでも前へ前へと押し寄せ、押された最前列の人が橋の壊れた部分から転げ落ち・・・といった形で、とどまる事を知りません。

その時、一人の武士が、壊れた橋の真ん中部分に躍り出て、刀を抜き「近づいた者は斬り殺すぞ~!」と叫びながら、大きく刀を振り回しました。

「キャー!」と、彼を遠巻きに見る人々・・・そのまま彼は橋のたもとの方へ移動し、群衆はやっと橋が壊れている事に気づいて、前へ押す行為をやめるのです。

しかし、その時すでに1500人以上の老若男女が犠牲になってしまっていました。

「火事と喧嘩は江戸の華」と言って、火の恐怖には慣れっこだった江戸市民も、さすがにこの大事故は恐ろしかったようで「橋落事件」として長く語り継がれる事になります。

・・・かと言って橋が無ければやっぱり不便。

結局また、永代橋は架け変えられたのですが、その橋も明治の頃には、すでにボロボロになっていて、明治三十年(1897年)に、鉄製の近代的な橋に生まれ変わる事になります。

私は関西の人間なので、実際には見た事ないのですが、現在の永代橋は、ドラマのロケでよく登場するあの青い橋ですよね。

Eitaibasiherocc 今日のイラストは、
『永代橋のヒーロー』という感じで書かせていただきました~。

最初は昼間の景色にするつもり(お祭りなので・・・)だったのですが、そう言えば、「今日は隅田川の花火大会だわ!」
・・・と、いう事で、バックを花火にしてみました~
 .

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2007年7月27日 (金)

全員討死!岩屋城の激戦

 

天正十四年(1586年)7月27日、九州全土を手に入れようとする島津氏が、大友氏の筑前・岩屋城を攻略しました。

・・・・・・・・・・・・

天正十三年(1585年)の3月~4月には紀州を、6月~7月には四国を平定し、着々と天下統一への道を歩んでいた豊臣秀吉でしたが、九州地方は未だ手付かずでした。

逆に、その前年の沖田畷(おきたなわて)の戦い(3月24日参照>>)肥後(熊本県)龍造寺氏を破った薩摩(鹿児島県)島津氏が、まさに九州全土を手に入れんと破竹の勢いです。

そして、この天正十四年(1586年)7月・・・いよいよ島津氏は本格的に筑前(福岡県)攻めに取りかかるのです。

7月14日、まずは、筑前・岩屋城への攻撃が開始されます。

この時の島津軍には、先の沖田畷の合戦で敗れた龍造寺氏を引き継いだ鍋島直茂秋月氏も加わり、その兵力は10万とも言われ(実際にはこの半分以下くらいだと思われますが・・・)戦国九州での合戦においては最大級の動員数となります。

一方の岩屋城を守るのは、大友方の岩屋城主・高橋紹運(しょううん・鎮種)以下、760名余りだったと言います。

大友氏は、あの天正六年(1578年)の耳川の戦い(11月12日参照>>)に敗れて以来、大友宗麟(そうりん)がキリシタンの王国を夢見た頃の勢いはすでになく、衰退の一途をたどっていました。

城の兵たちは、それこそ決死の覚悟で戦いに挑みますが、この兵力の差は、どうしようもなく、とてもじゃないが、太刀打ちできません。

しかし紹運は、島津方が出した開城の申し出を断り続け、わずかな兵で2週間も抵抗をしたのです。

やがて天正十四年(1586年)7月27日・・・自らが生き残っているわずかな兵を率いて、玉砕覚悟で城の外に討って出ます。

そして、壮絶な死闘の末、紹運たちは全員討死となるのです。

岩屋城を落とした島津方の大将・島津義弘(よしひろ)は、そのままの勢いで、紹運の息子・立花宗茂(むねしげ)のいる筑前・立花城に攻めかかります。

しかし、ここで宗茂は踏ん張り、なんとか立花城を死守します。

そして、この時、立花城を守り抜いた宗茂は、さらに翌年、宗麟の要請を受けて(4月6日参照>>)九州へ乗り込んできた豊臣秀吉の力を借りて、筑前攻めから豊後(大分県)攻めへと方向転換した島津を撃退し、大友氏の本拠地・豊後を守りぬきます。

そのまま、秀吉傘下となった宗茂は、秀吉の九州征伐に大いに貢献する事となるのです。

大友氏は、宗麟の息子・大友義統(よしむね)の代に改易となってしまいますが、宗茂は九州征伐での功績を買われ、大友氏から独立した大名となるという大出世を果たします(11月3日参照>>)

現在、岩屋城跡には『嗚呼壮烈岩屋城跡』と書かれた石碑が建っているそうですが、壮絶な最期をとげた紹運さん・・・自慢の息子の大出世に、少しはお心が晴れたでしょうか?

♪かばねをば 岩屋の苔に 埋みてぞ
 雲居の空に 名をとどむべき♪

 -高橋紹運・時世ー

Iwayazyouatocc 今日のイラストは、
紹運さんの時世を聞いて描いたイメージから『岩屋城跡』を書いてみました。

強固な山城だったという岩屋城・・・紹運さん、あなたの名前は、この平成の世にも残りましたよ。
 .

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豊臣秀吉の年表

このページは、豊臣秀吉の生涯の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。

年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました(青文字=閏月)

Kamontoyotomicc



 

・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1537 1 1 1月1日誕生日説
【豊臣秀吉・1月1日誕生日説】
1561 8 3 浅野長勝の養女・おね(ねね)と結婚
【秀吉の結婚+おまけクイズ・おねの?】
1566 9 12 ~15日の3日間で一夜城を建設?
【墨俣の一夜城凸建設中!】
1567 8

15

搦め手を攻めた稲葉山城が陥落
【信長・天下への第1歩~稲葉山城・陥落】
1570 4 26 越前撤退で殿(しんがり)を務める
【手筒山・金ヶ崎城の攻防戦】
6 28 姉川の合戦
【信長の判断ミス?姉川の合戦】
1571 5 6 箕浦の戦い
【信長&秀吉VS浅井~箕浦の戦い】
9 3 近江一向一揆~金ヶ森の戦い
【信長と近江一向一揆~金ヶ森の戦い】
1572 7 22 小谷侵攻で虎御前山城の指揮官に
【山本山城の戦いと虎御前山城構築】
1573 7 18 槇島城の戦い
【槇島城の戦い秘話~1番乗り梶川宗重】
8 20 越前・朝倉氏討伐
【朝倉氏滅亡とともに一乗谷は・・・】
8 27 北近江・浅井氏の小谷城を攻略
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】
10 17 浅井長政の嫡男・万福丸が処刑される
【万福丸の処刑~浅井長政と息子たち】
信長に手紙で禿げネズミと呼ばれる
【織田信長さんのお誕生日なので・・】
1574 1 20 富田長繁の桂田長俊攻め
【信長VS越前一向一揆~桂田攻め】
3 19 長浜城へ入る
【豊臣に生まれともに眠った秀吉の城】
1577 10

3

信貴山城の戦い
【久秀~男の意地の信貴山城の戦い】
10 23 羽柴秀吉の但馬攻略
【但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い】
11 29 信長の命で播磨上月城を攻撃
【信長の山陽戦線~秀吉の上月城攻め】
12 1 秀吉の中国攻め~福原城の戦い
【黒田&竹中が迫る福原城の戦い】
1578 3 29 別所長治の三木城包囲
【三木の干殺し~別所長治の籠城戦】
4 3 三木城の支城・野口城の戦い
【野口城の戦い・青麦合戦】
5 4 秀吉が上月城の支援に向かう
【信長に見捨てられた上月城…奮戦空し】
5 14 上月城に大砲が撃ち込まれる
【毛利VS尼子…上月城の大砲争奪戦】
6 27 秀吉が播磨神吉城を攻撃
【秀吉の中国攻め~神吉城攻防戦】
7 3 秀吉・撤退で上月城が孤立・尼子氏滅亡
【山中鹿之介奮戦!上月城の攻防】
9 10 三木城攻防戦で谷大膳が討死
【三木城・籠城戦~秀吉と谷大膳の話】
1579 6 13 竹中半兵衛が陣中で病死
【流星のごとく駆け抜けた天才軍師】
10 16 有岡城・開城
【有岡城・落城~如水と半兵衛と息子】
10 30 宇喜多直家が信長に降伏する
【謀略の達人・直家~本当はイイ人?】
1580 1 17 三木城が陥落
【三木の干殺し~別所長治の籠城戦】
4 1 秀吉が播磨英賀城を攻撃
【中国攻め~播磨英賀城の戦い】
4 24 秀吉が播磨宍粟郡に侵攻
【秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期】
6 15 祝山合戦
【宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦】
1581 7 12 毛利方の篭もる鳥取城を包囲
【鳥取城の攻防戦~秀吉の兵糧攻め】
10 25 開城した鳥取城の城将・吉川経家が自刃
【鳥取の干殺し~吉川経家の決断】
1582 4 27 備中・高松城への攻撃開始
【備中高松城・水攻め】
5 7 備中・高松城へ水攻め開始
【備中高松城・水攻めと吉川元長】
6 2 本能寺の変で織田信長が自刃
【本能寺の変~『信長公記』より】
【本能寺の変・秀吉黒幕説】
6 4 備中・高松城を落す
【備中高松城・落城~清水宗治・自刃】
6 6 毛利の撤退を確認し高松城を出発
【秀吉の大バクチ・中国大返し】
6 9 光秀が幽斎に同調を求める書状を送る
【明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道】
6 11 秀吉軍・摂津富田へ移動
【洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀】
【光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…】
6 13 山崎の合戦
【天下分け目の天王山!山崎の合戦】
6 15 安土城が炎上する
【安土城・炎上】
【明智秀満の湖水渡り】
6 27 清洲会議
【清洲会議~信長の後継者】
7 8 近江で初の検地を行う
【太閤検地と刀狩】
10 15 信長の葬儀を行う
【後継者へ~秀吉演出の信長の葬儀】
12 11 長浜城を包囲
【賤ヶ岳の前哨戦~長浜城攻防】
1583 3 9
11
柴田勝家が北ノ庄を出陣
秀吉が佐和山城に入り合戦準備
【秀吉VS勝家・一触即発の賤ヶ岳前夜】
4 20 賤ヶ岳の合戦・開戦
【決戦!賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し】
4 21 賤ヶ岳の合戦
【賤ヶ岳…鬼玄蕃・佐久間盛政の奮戦】
【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】
引田表の戦い
【長宗我部元親・讃岐を平定】
4 23 前田利家が秀吉軍の先鋒として出陣
【賤ヶ岳の合戦~前田利家の戦線離脱】
柴田勝家が北ノ庄城で最後の酒宴を催す
【勝家&お市~北ノ庄城・炎上前夜】
4 24 越前の北ノ庄城を攻撃・柴田勝家自刃
【柴田勝家とお市の方の最期】
【福井・九十九橋の怨霊伝説】
5 2 織田(神戸)信孝・自刃
【報いを待つのは秀吉か?信雄か?】
5 12 佐久間盛政、処刑
【「鬼玄蕃」佐久間盛政の最期】
8 18 宇喜多VS毛利の境目合戦
【難攻不落の矢筈城と草刈重継】
大坂城築城に伴い下水が整備される
【江戸の上水・大坂の下水】
1584 3 6 織田信雄が重臣3名を殺害
【小牧長久手へ…信雄の重臣殺害事件】
3 12 小牧長久手~亀山城の戦い
【小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い】
3 13 小牧長久手の戦い~犬山城攻略戦
【秀吉VS家康・小牧長久手の戦い勃発】
3 17 小牧長久手の戦い~羽黒の決戦
【森長可の屈辱】
3 19 小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防
【小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防】
3 22 小牧長久手の戦い~岸和田城・攻防戦
【小牧長久手~岸和田城・攻防戦】
3 28 小牧長久手の戦い~小牧の陣
【睨み合い~膠着・小牧の陣】
4 9 長久手の戦い
【天下は何処・長久手の戦い】
【鬼武蔵・森長可~遺言に託された願い】
【ヒデヨシ感激!本多忠勝の後方支援】
4 11 長久手で戦死した恒興の母に手紙を出す
【池田恒興の母に送った秀吉の手紙】
4 17 九鬼嘉隆が秀吉の配下となる
【九鬼嘉隆と長久手~もう1つのシナリオ】
4 29 小牧長久手~美濃の乱
【秀吉VS家康…美濃の乱】
6 15 蟹江城攻防戦
【小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦】
6 大坂城に果心居士を招く
【秀吉を驚愕させた幻術師:果心居士】
8 28 北陸版・小牧長久手の戦い
【末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲の連携】
10 14 前田利家が鳥越城を攻撃
【利家VS佐々成政~鳥越城の攻防】
11 15
16
織田信雄と講和成立
徳川家康が小牧山の陣を撤収
【決着…信雄の単独講和に退く家康】
11 21 家康が次男を人質に出し秀吉と講和
【結城秀康~その運命の分かれ道】
11 23 佐々成政・さらさら越えに出発
【佐々成政の北アルプスさらさら越え】
1585 3 21 ~4/22 紀州征伐
【紀州征伐と根来寺の数奇な運命】
3 28 太田城・攻防戦を開始
【秀吉の紀州征伐~太田城攻防戦】
4 16 丹羽長秀・没
【丹羽長秀・人生最後の抵抗】
7 26 四国を平定する
【一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏】
8 10 金森長近が飛騨攻略
【金森長近の飛騨攻略作戦】
8 20 飛騨松倉城が落城
【飛騨松倉城の人柱伝説】
8 29 越中征伐で佐々成政が降伏
【富山城の戦いin越中征伐】
8 6 富山城の佐々成政を処分
【武勇の佐々成政が秀吉に降伏】
11 13 家康の重臣・石川数正が傘下に・・・
【石川数正・出奔の謎】
1586 4 6 大友宗麟が救援を要請
【宗麟の秀吉への救援要請in大坂城】
4 28 秀吉の妹・旭姫と家康が結婚
【秀吉の妹・旭姫の悲しみ】
5 4 秀吉のお伽衆となっていた荒木村重・没
【荒木村重・謀反の真意は?】
6 14 秀吉の要請を受けて上杉景勝が上洛
【上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事】
9 9 滝川一益・没
【滝川一益の人生波乱万丈】
9 18 島津討伐に向け仙石秀久が府内に着陣
【どん底からの復活・仙石秀久】
10 27 上洛した家康と大坂城で会見
【負けたのに勝?人たらし秀吉の離れ業】
11 15 島津討伐の小倉陣中で吉川元春が死去
【小倉の陣中で…吉川元春の最期】
11 25 戸次川の戦い
【秀吉の九州征伐開始~戸次川の合戦】
12 12 島津が大友配下の鶴崎城に総攻撃
【鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼】
12 19 太政大臣に任命され豊臣の姓を賜る
【豊臣姓に秘められた秀吉のコンプレックス】
秀吉が方広寺に大仏建立を計画
【秀吉の京の夢…幻の方広寺・大仏殿】
1587 4 17 高城・根白坂の戦い
【島津・背水の陣~高城・根白坂の戦い】
6 18 「天正十五年六月十八日付覚」を発布
【二つの『切支丹禁止令』】
6 19 キリシタン禁止令を発令
【秀吉が切支丹禁止令を今日出したワケ】
7 10 ~12/2肥後国人一揆に鎮圧軍を派遣
【佐々成政の失態~肥後・国人一揆】
10 1 北野大茶会
【北野大茶会~秀吉と「茶の湯御政道」】
1588 4 14 聚楽第に後陽成天皇を招く
【後陽成天皇と豊臣秀吉in聚楽第】
5 14 佐々成政・切腹
【黒百合事件と呪いの黒百合伝説】
7 8 刀狩り令・海上賊船禁止令を発布
【太閤検地と刀狩】
【瀬戸内水軍の全盛期と没落・村上武吉】
1589 10 23 北条が真田の名胡桃城を奪取する
【小田原攻めのきっかけ・名胡桃城奪取】
11 芦名氏を滅ぼした伊達政宗を呼び出す
【仙道七郡掌握~伊達政宗に迫る影】
11 24 秀吉が北条に宣戦布告
【小田原征伐!秀吉の宣戦布告状】
12 10 小田原攻めの軍儀を開く
【小田原攻め開始~軍儀の内容は?】
12 29 智仁親王との猶子関係を解く
【2人の天下人に翻弄された智仁親王】
1590 3 29 小田原征伐を開始する
【小田原征伐開始・山中城落城】
【小田原征伐・オモシロ逸話】
4 2 小田原城を包囲する
【秀吉VS北条の持久戦・小田原城包囲】
4 5 伊達政宗が小田原参戦に遅れる
【政宗・毒殺未遂事件は本当か?】
5 27 堀秀政が陣中で病死
【大器が満たぬうち…秀政・無念の病死】
5 29 石田三成が館林城を攻略
【館林城・攻防戦と「狐の尾曳伝説」】
6 5 伊達政宗が小田原に到着する
【決死の死装束~政宗の小田原参陣】
6 9 石田三成が忍城攻略のため堤防を築く
【攻めに耐えた!水の要塞・忍の浮城】
6 16 忍城攻めの堤防が決壊する
【忍城…留守を守った成田夫人と甲斐姫】
6 20 天正遣欧少年使節が帰国する
【天正遣欧少年使節の帰国】
【戦国の活版印刷と世界最古の印刷物】
6 23 八王子城・陥落
【最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦】
【八王子城の怖い伝説】
6 26 小田原攻め対の城・石垣山一夜城・完成
【秀吉・もう1ツの一夜城~石垣山城の謎】
7 5 後北条氏が降伏し小田原城を攻略
【城攻めの秀吉VS北条お得意の籠城】
【小田原城・開城への道】
7 13 家康に北条の旧領・関八州を与える
【秀吉の失策?小田原城での論功行賞】
【徳川家康…江戸転封の発想の転換】
11 24 葛西・大崎一揆で孤立の木村親子を救出
【独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆】
1591 1 19 京都・七条堀川に寺地を寄進(西本願寺)
【時代とともに~東西・二つの本願寺】
1 22 弟の豊臣秀長・没
【豊臣政権の要~大和大納言・秀長の死】
2 4 伊達政宗が一揆の弁明に来る
【政宗、起死回生の弁明劇】
2 28 千利休に切腹を命じる
【利休・切腹の謎~握っていた秘密とは】
9 4 九戸の乱で九戸氏を滅亡へ
【九戸の乱~東北の雄が散る】
9 22 長男・鶴松の病死で秀次を関白に
【殺生関白・秀次の汚名を晴らしたい】
11 4 北条氏直が死去
【北条氏直の肌の守りと督姫と】
1592 3 17 朝鮮出兵の先発隊が九州に向けて出陣
【豪華絢爛!伊達男・政宗の出陣】
3 26 朝鮮出兵の指揮をとるため肥前に出発
【豊臣秀吉・朝鮮出兵の謎】
4 13 朝鮮へ派遣した第1軍が釜山へ上陸
【文禄の役・釜山上陸】
6 15 ~17 梅北の乱(梅北一揆)
【歴史のifを思う…謎多き梅北の乱】
7 20 京への帰還中、船が座礁する
【「三本の矢」の毛利を救った4本目の矢】
11 24 本願寺顕如・没
【信長を一番困らせた男~本願寺・顕如】
1593 1 5 蠣崎慶広が蝦夷地の支配を認められる
【世渡り上手~蠣崎慶広の生き残り】
1 26 碧蹄館の戦い
【泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い】
【秀吉が家康を渡海させなかったのは?】
4 18 文禄の役で休戦協定が成立
【文禄の役~休戦協定と加藤清正】
8 3 淀殿が男児出産(後の秀頼)
【豊臣秀頼・出生のヒミツ】
1594 2 27 秀吉、吉野にて花見を開催
【勝利の聖地・吉野の花見の意味は?】
3 7 伏見城の築城を開始する
【秀吉亡き後の大坂城と伏見城の役割】
【幻の伏見城~徳川は何を恐れたか?】
8 24 石川五右衛門・処刑
【浜の真砂の五右衛門が歌に残せし・・・】
伏見城築城にともなう文禄堤の造営
【東海道は五十七次!】
1595 2 7 蒲生氏郷・没
【信長と秀吉を魅了した戦国一のイイ人】
7 15 甥・秀次が謀反の罪で切腹
【殺生関白・秀次の汚名を晴らしたい】
【豊臣秀次一族の墓所~瑞泉寺】
7 16 秀次事件に連座~熊谷直之が切腹
【熊谷直之と7人の小姓たち】
7 22 藤堂高虎を召抱える
【斬り込み隊長・築城名人~高虎の転身】
1596 7 16 本多重次・没
【家康の兄代わり~鬼作左が一筆啓上】
9 1 2度目の朝鮮出兵を決意する
【悲劇の人・おたあジュリア】
10 28 酒井忠次・没
【徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?】
12 11 成田氏長・没
【成田氏長と甲斐姫と「のぼうの城」と】
1597 2 5 長崎で26人のキリスト教徒を処刑
【長崎二十六聖人殉教の日】
5 4 木幡山伏見城の天守閣が完成
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたか?】
6 12 小早川隆景・没
【自らの死後も見据える智略の将=隆景】
10 13 宇都宮国綱を改易処分にする
【パワハラ改易?不運続きの宇都宮国綱】
12 22 慶長の役・蔚山城攻防戦
【死守はしたけれど・・・蔚山城攻防戦】
1598 1 10 上杉景勝に会津転封を命ず
【秀吉の置きみやげ~上杉の会津転封】
3 15 京都・醍醐寺で花見の宴を催す
【桜花絢爛!醍醐の花見に行ってきた】
7 15 秀吉が諸大名に忠誠を誓う誓詞を要求
【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】
8 9 病床の秀吉が家康らに遺言する
【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】
8 18 豊臣秀吉・没
【なにわのことも夢のまた夢】
11 20 慶長の役・終結
【慶長の役・終結~悲惨な戦の残した物】
番外編 【地球分割支配と秀吉の朝鮮出兵】
【秀吉の怨念?大阪城の不思議な話】
【大阪の昔話~大坂城の虎】
【秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床】
【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
【医療福祉を復活させた施薬院全宗】
【「日本無双」と言わせた男…宮部継潤】
【徳川家康の豊国神社・破却】
【豊臣秀次と近江八幡~八幡堀巡り】
【「豊臣期大坂図屏風」を見てきました~】
【祝80周年・昭和の大阪城天守閣・復興】
【映画「のぼうの城」の感想】
【大阪城の怖い話】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
【天下人が成しえた城割の重要性は?】
【大手橋と近世城下町の町割】
【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【忍者の教科書『万川集海』】
【古文書の虚偽と真実】
【戦国武将と茶の湯の流行】
【政略結婚と女性の役割】
【戦国女戦士の必須アイテム「薙刀」】
【戦国から江戸の城の変貌】
【娼妓解放令と三英傑の人身売買禁止】
【「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事】

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2007年7月26日 (木)

もう一つの忠臣蔵・四谷怪談~幽霊の日にちなんで~

 

文政八年(1824年)7月26日、江戸は『中村座』で、鶴屋南北・作の『東海道四谷怪談』が初上演されました。
・・・という事で、今日は『幽霊の日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・

最近では、少なくなりましたが、以前には夏になると必ず、テレビの深夜映画劇場でお目にかかったお岩さん

この鶴屋南北(つるやなんぼく)・原作の『東海道四谷怪談』は、江戸時代の上演当時も、初演と同時に大評判となり、記録的はヒットとなった作品です。

今まで何度となくドラマ化・映画化もされて、たぶん若い方でもご存知でしょう。

しかも、実際にあった話をモデルにしている事から、その撮影現場でもお祓いをしないと祟りが起こるなどとして、今でも、役者さんやスタッフさんがお祓いを受けているシーンが芸能ニュースなどで報じられますよね。

確かに実際にあった話のようです。

ただし、元禄初期の1687年・・・四谷怪談が上演される100年以上も前の出来事・・・にも関わらず、名主が奉行所に報告書を提出したのは、文政十年の1827年

何じゃそら!って気もしないではありません。
なんせ、すでに四谷怪談は上演され大人気になってから後の事ですからねぇ~。

ヤラセとは言いませんが、かなりニオイます~。
しかし、一応奉行所に報告書出しているんだから、「事実」という事にしときましょう。

しかも、実際の事件では、主人公のお岩さんが「もとからブサイク」という事なので、そのあたりにかなり信憑性があります。

作り話なら、お芝居のように美人という設定になるでしょうからね。

・・・で、その奉行所への報告書によれば・・・

四谷左門町の同心・田宮伊織(たみやいおり)の娘・は、ブサイクな上に性格もひがみっぽく、それでいて強情で、しかも家がお金持ちなもんで高ビーと・・・良いトコ無しの娘。

・・・な、もんで、誰も婿には来てくれないといった状況でしたが、お金持ちならお金持ちなりに、そのお金目当てで近づいて来る男は、いつの世にもいるもので、それが、仕事らしい仕事もしていない浪人の伊左衛門(いざえもん)という男だったのです。

伊左衛門は、うまい事入り婿になって、田宮家の後を継ぐ事になります。

ところが、伊左衛門の友達である与力・伊藤貴兵衛(きへい)という男が、奥さんがいるにも関わらず、愛人を作ってその愛人が妊娠してしまいます。

処理に困った貴兵衛は、その愛人・を伊左衛門に押し付けますが、この琴という女がメチャメチャ美人。

「こうなったら、琴を嫁にして、自分は田宮家に居座ったまま、岩のほうに出てってもらおう」と考える伊左衛門。

もちろん、友人の貴兵衛も100%協力体制。

伊左衛門は、酒にバクチにやりたい放題に遊びまくり、家に寄り付かず、たまに帰った時には岩にドメスティック・バイオレンスの嵐です。

当然、夫婦生活に悩み出す岩に対して、夫の友人として、相談に乗るふりをして近づく貴兵衛・・・「一旦、家を出て、少し距離を置いてみたら?」なんて、やさしく岩を諭します。

・・・で、岩が家出をしている間に、伊左衛門は琴を家に引き入れ、どさくさ紛れに祝言を挙げてしまいます。

その事を知った岩は、家に戻り、タダでさえものすごい形相をさらにものずごくして怒り爆発!

罵声をあびせるだけあびせて、そのまま行方不明となってしまいます。

その後、伊左衛門は突然亡くなり、田宮家は断絶。

 

貴兵衛のほうも養子が死刑となり、本人も無残な死に方をした・・・という事だそです。

んん?
お岩さん、殺されてないやん!

しかも伊左衛門は勝手に死んで、貴兵衛の養子が死刑・・・って、何か犯罪をやらかしたんだろうし、貴兵衛本人も無残な死に方・・・って、人間、死ぬ時は大抵悲しい・・・まして江戸時代なんだから、死ぬ時に、幸せな死に方のほうが少ないんじゃないかしら?
健康保険もないし、福祉もそれほど発達してるとも思えないし、まわりは刃物ぶらさげて町歩いてるし・・・。

これって、どこが事件なの?

当時は話題にならなかったこの事件を、『四谷怪談』がヒットした事によって、名主が事件を洗いなおして奉行所に報告したらしいけど・・・そりゃぁ話題にならないでしょう。

もっと悲惨な事件がたくさんあった中で、これじゃぁ、事件と呼べるのかどうか・・・。

ところで、皆さんは、『四谷怪談』と聞いたら、どのシーンを、一番に思い出しますか?

戸板の一方に、殺した奥さんの死体をくくりつけ、もう一方に誤って殺した下僕の死体をくくりつけて川に流す・・・。

「流れて行った」と思ったら、また足元に奥さんの死体・・・慌てて、棒か何かで向こうへやろうとすると、板がひっくり返って、男のほうの死体がグァ~ン!
てところではありませんか?

・・・実は、この部分が事実なのです
しかも、初上演された頃の、とれたてホヤホヤの最新ニュース!

ある男が、妻の浮気に腹を立て、妻と不倫相手の男を殺して、戸板の表裏にくくりつけて、早稲田川に流した・・・という事件があったのです。

作者の鶴屋南北は、このニュースをいち早く芝居に取り入れ、「戸板返し」なる仕掛けを編み出します。

舞台の上に「どんでん返し」のような仕掛けを造り、男と女の死体が瞬時に入れ替わるという、当時としては画期的な仕掛けです。

そりゃぁ大評判にならないはずはありません。

しかも、準備段階からスタッフにケガ人が続出し、「事実をもとにした・・・」というフレコミから、「お岩の祟り」の噂も・・・

実は、これも南北の計算・・・どんでん返しをはじめ、さまざまな仕掛けをほどこした舞台裏は、とてつもない迷路のようになっているうえ、あちこちから突起物が出たり、床に高低差があったり・・・と、ただでさえ危ないのに、「舞台が暗いから」と、舞台裏にもほとんど灯り無し・・・そりゃぁ、ケガ人も続出しますって。

ケガ人が出れば出るほど、興行が評判になるのも、南北さんにはお見通しです。

そして、もう一つ、南北はこの『東海道四谷怪談』に、大ヒットする要素を盛り込んでいたのです。

それは、『裏・忠臣蔵』とでも言いましょうか・・・まさに、もう一つの忠臣蔵なのです。

お芝居のほうの男の主役である民谷伊衛門(たみやいえもん)は、国元で汚職をしてしまったために浪人になってしまった赤穂の浪士、という設定なのです。

そして、女性の主人公お岩さんのお父さんも赤穂藩士、例の殿のご乱行で藩がお取り潰しになって、浪人となって江戸で貧乏生活を続けていたという事になってます。
忠臣蔵については12月14日のページ参照>>

南北の四谷怪談では、お岩さんはお金持ちではないかわりに、絶世の美女として登場します。

美人でやさしくて従順なお岩さんが、夫・伊衛門の身勝手な欲望のために毒薬を盛られ、醜く変わり果て、最後には殺される・・・哀れであればある程、その復讐の炎は怨念と化し、激しく燃え上がるのです。

この表と裏の忠臣蔵・・・江戸時代には、2本立てで上演されていました。

勧善懲悪・明快なヒーローである大石内蔵助
影を持つダーティーなヒーローである民谷伊衛門

江戸の人々は、この二つの忠臣蔵を、同時に楽しみ、その光と影の見事な演出に魅了されていたのです。

Yotuyakaidancc 今日のイラストは、
その物ズバリ『四谷怪談のお岩さま』で・・・。

モロに顔を書くより怖いのではないかと、こんな感じの絵にしてみました~・・・って、言うか、とてもじゃないが怖くて、顔は書けましぇ~ん。
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2007年7月25日 (水)

平忠度の都落ち~平家物語~

 

寿永二年(1183年)7月25日、北陸での大敗を報を受け、木曽義仲がすぐそばに迫っている事を知った平家一門は、都での戦を避け、わずか6歳の安徳天皇を奉じて、西海へと落ちのびます

昨年の今日は、【平維盛の都落ち】(2006年7月25日参照>>)を書かせていただきましたので、今日は、同じく『平家物語』から「忠度の都落ち」をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・

平忠度(ただのり)は、あの平清盛の末弟・・・

一門の中でも、文武両道に優れた人で、大将を務めた一の谷の合戦(2月7日参照>>)では、その死に際して、「敵も味方も関係なく泣き悲しんだ」というくだりから、その人柄の良さも伺える人物です。

彼の都落ちのシーンは、やはり平家物語の屈指の名場面で、謡曲や浄瑠璃にもなっている有名な物語です。

この日、彼は、一門と一緒に、一旦、都を出ますが、自分を含めたわずか七騎で、再び戻って来るのです。

それは、五条に住む藤原俊成(ふじわらのとしなり)という人物に会うため・・・。

忠度は、その歌の才能でも知られた人でしたが、実はそんな彼の歌の師匠が俊成なのです。

忠度が、俊成の邸宅の前に来ると、門がビッシリ閉ざされています。

「忠度です!」
彼が、思いっきり大声で名乗ると、門の中では「平家の落人がやって来たぞ~」と大騒ぎです。

慌てて
「大した事ではありませんが、三位殿(俊成のこと)に申し上げたい事があるので帰ってきました。門を開けなくてもよろしいんで、このそばまで来ていただいて、お話を聞いてください」
と叫びます。

それを聞いた俊成は「彼なら大丈夫」と、門を開きます。

忠度は、そのふところに、巻物を持参していました。

そこには、自分が日頃、書き溜めた百余りの歌が書きとめられていたのです。

彼は、歌の道が大好きでした。

俊成を師匠と仰いで歌の道に入り、その楽しさに目覚め、毎日のように師匠の邸宅へ通った日々・・・しかし、ここ2~3年は、合戦にあけくれ、この邸宅へも通えない日々が続いていたのです。

しかし、その間も、合間をみては、書き綴った歌の数々を、俊成に見せたくて彼は舞い戻ってきたのです。

忠度は、歌の書かれた巻物を俊成に渡しながら言います。

「世は乱れ、もはや平家の運命も先が見えていましょう。
しかし、この世が静まれば、再び撰集のご命令が出るかも知れません。
その時には、生涯の名誉のため、この中から適当な歌を選んでいただいて、たとえ一首でも歌集の端っこに加えていただいたら、墓場の影から喜んで先生をお守りしますよ。」

そう、実は以前、朝廷から俊成に「新しい歌集を作るように」との命令が出ていたのですが、この源平の合戦で、その話は立ち消えとなっていたのでした。

「こんな大切な品を預かったからには、決してムダにはせぇへんで~。わざわざ戻って来て届けてくれるやなんて・・・俊成・感激!」
と俊成が言うと、

「これで、西海の海に沈もうが、野山で朽ち果てようが、思い残す事はありません。」
と忠度・・・

ササァ~っと馬に乗り、甲の緒をしめて、西へ向かって馬を進めます。

暗闇の中に消え行くその後姿を見つめる俊成・・・
すると、立ち去りながら口ずさむ忠度の歌が聞こえてきます。

♪前途はほど遠し。思いを雁山(がんざん)の暮雲に馳す♪
「この先の前途は遠い。その途中、暮雲のたなびく雁山を越えるかと思うと、なおさら悲しい」

この歌は、朗詠集にある「送別の歌」・・・この後半には、
♪後会の期は遥なり♪
「この後、いつ会えるかわからない」
という歌詞が出てくるのですが、その部分は歌わずに去っていくところが、カッコイイ~。

俊成ならずとも、涙がドワ~っと出るシーンです。

ずいぶん経ってから、俊成は『千載集』という歌集を作ります。

その中には、『故郷の花』という題名で、一首の歌が収められています。
♪さざ波や 志賀の都は 荒れにしを
 昔ながらの 山桜かな♪

「昔の志賀の都は荒れてしまったけれど、長良山の山桜は昔のままに咲いている事だろう」

源氏の世となった時、平家は朝敵(天皇にはむかった国家の敵)・・・賊軍となります。

そのため、この歌は、歌集には「よみ人知らず」として収められています。

忠度が朝敵になってしまったため、たくさんの秀作の中から、たった一首しか収められなかった事を、俊成は最後まで嘆いていたと言います。
 

Tadanorimiyakooticc 今日のイラスト、
やっと書けました~涙涙・・・の別れのシーン!

もう少し絵がうまければねぇ~一幅の名画のよう・・・と言いたいところなんですが・・・。
うまくなるように、練習に励みますです。
 .

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2007年7月24日 (火)

河童忌なので、河童のお話

 

昭和二年(1927年)7月24日は、作家・芥川龍之介さんのご命日です。

・・・・・・・・・

後世にまで残るすばらしい作品を残して、子供たちに『人生は死に至る戦いなることを忘れるべからず。従って汝らの力の恃(たの)むことを忘る勿(なか)れ。汝の力を養うのを旨とせよ』という遺書を残して、35歳という若さで服毒自殺をはかった芥川龍之介

その代表作にちなんで、この日を『河童忌』と言うのだそうです。

・・・て事で、今日は『河童』のお話を・・・
(芥川龍之介の話でなくてすいません<(_ _)>)

・‥…━━━☆

河童って・・・そう、河童ほど有名な妖怪はいないんじゃないかと思うくらい有名な妖怪。

緑色の身体をして背中に甲羅、頭に皿を乗せ、手足には水かきがついている・・・どこかユーモラスで憎めないそのキャラクターは、日本全国にその伝説を残し、「カワタロウ」「ミヅチ」「カワウソ」「カワランペ」など、180種以上にも及ぶ名前で呼ばれているそうです。

あの柳田国男先生がおっしゃるには「水の神が落ちぶれて妖怪となったもの」・・・なのだそうですが、確かに、神様のように人に幸せを与えてくれるかと思えば、妖怪のようにイタズラをしたり、時には、人を死に追いやる事も・・・。

しかし、こんなに有名かつ全国ネットでそのイメージが定着している河童さんですが、今ひとつそのルーツがはっきりしません。

中国の河の神様「河伯」が日本に伝わったという説が有力ですが、中国には「河伯」の姿がどのようなものなのかは残っていませんし、肝心の「頭にお皿」というのも、どうやら日本独自の物のようです。

また、明治の頃に神戸で総領事となっていたポルトガルの文学者・ベンセスラオ・デ・モラエスという人は、あの鉄砲伝来以来、様々な物がポルトガルから輸入された事によって、ポルトガル語がそのまま日本語として使われている事に大変興味を持ち、その分類をした本を書いているのですが、その中には、あの有名な「天ぷら=テンペロ」「金平糖=コンフェイト」「煙草=タバコ」に混じって、「河童=カーパ」という単語が書かれています。

・・・って事は、河童はポルトガル語?
ポルトガルにも河童はいるの?

もしかしたら雨合羽=アマガッパの事?
でも、文字は確かに『河童』となっているそうで、それならやっぱり、妖怪のカッパの事なんでしょうかね。

河童は、人や馬を水中に引き入れたり、水中で尻子玉(昔、お尻にあると信じられていた玉)を抜いたり、誰かれ無しに相撲を挑んで田畑を荒らしたり・・・。

しかし、トイレに潜んで女性のお尻を触った時には、人間に捕まって片腕を斬られてしまい、「もう、しません」と証文を書かされ、斬られた腕を返してもらう代わりに、その斬られた腕が元通りに治るという妙薬の作り方を伝授したりもしています。

また、「助けてくれたお礼に」と、お酒の湧き出る徳利を置いて帰り、その徳利をもらった酒びたりの男が、もらった途端にピタッと酒を断って、まじめに働き出した・・・なんていう善行の伝説も残っています。

この良い事の伝説は、なぜか九州に多く、九州には妖怪としてではなく、水徳の神・安産の神・水難除けの神として河童を祀る神社もあるそうです。

久留米水天宮には、その近くを流れる筑後川に住んでいた河童の総大将が、水天宮の祭神にさとされ、イタズラをやめて神様の子分になった・・・なんていう伝説も残っています。

ちなみに、水天宮の祭神って、源平の壇ノ浦の合戦で、海のもくずとなった安徳天皇(3月24日参照>>)なのですが・・・神代の昔の伝説ではなく、けっこう最近の話なんですね~と思ってしまいました。

もう一つ。
門司天疫神社には、海御前(あまごぜん)という女性の河童の神様が祀られているのですが、実はコチラも壇ノ浦の平家関連のお話です。

壇ノ浦の合戦に敗れ、やはり身を投げた能登の守教経(のりつね)の奥さんが、その死後に河童の総元締となり、河童のイタズラをやめさせて河童の被害が激減した事から、この地方の人々が感謝して、神と崇めたのだそうです。

こうしてみると、やはり河童は妖怪というより神様に近いような気がしますね。

河童が「キュウリ好き」(お寿司のカッパ巻きの由来になった)というのも、水神信仰と結びついている証拠ですし、水霊が嫌う「金物」を河童も嫌うという事なので、どうやらと河童は水神様の子供(童)いうのが、本当の姿なのかも知れませんね。

イタズラは、子供ゆえの「若気の至り」ってとこでしょうか。

Kappacc 今日のイラストは、
かわいい『河童ちゃん』を書いてみました~。

天気の良い日は「甲羅干し」って感じで・・・。
 .

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2007年7月23日 (月)

切腹のルーツは五穀豊穣の祈り?

 

天武元年(672年)7月23日、前日の瀬田合戦に敗れた大友皇子が、山崎の地で自害し、古代最大の内乱・壬申の乱が終結しました。

・・・・・・・・・・・

壬申の乱は、第38代・天智天皇の息子・大友皇子(おおとものみこ)と、同じく天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)が、次の天皇の座をめぐって争った・・・つまり甥っ子と叔父さんとの後継者争いです。

壬申の乱の経緯については、それぞれ「その日」の日づけで書いておりますので・・・

・・・と上記のリンクからご覧いただくとして・・・

合戦に敗れた大友皇子・・・一旦、瀬田から逃走するのですが、逃げ切れないと思って敗戦の翌日・・・つまり、天武元年(672年)の今日・・・7月23日自害するわけです。

・・・で、この大友皇子・・・その自害の方法が「首吊り自殺」なんです。

「合戦に敗れて自害」と聞くと、ついつい「自刃=切腹」を思い浮かべてしまいますが、よくよく考えれば、それは、時代劇などで見る「武士の敗戦」の場合で、大友皇子は武士ではありませんし、武士が歴史の舞台に登場するのは、まだまだ先の事ですから、落ち着いて考えれば当然なんですが、一瞬「えっ?首吊りなの?」っと思ってしまいますね。

では、いったい、いつ頃から切腹が行われるようになったのでしょう?

この先、「切腹の話題」という事で、少々グロテスクな表現もあるかと思いますが、話題が話題なので、それも歴史の一つという事でお許しを・・・。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

以前の【源為朝・琉球王伝説】(3月6日参照>>)で、保元の乱で敗れた源為朝(みなもとのためとも)が、伊豆大島に流された後、その伊豆大島でも謀反をくわだて、やがて追い詰められて切腹し、これが日本最初の切腹である・・・という事を書かせていただきました。

たしかに、今、皆さんが「切腹と聞いて、思い浮かべる、いわゆる「武士の切腹」というのは、この為朝さんが最初だと思います。

貴族が自分の身を守るために、武芸に優れた者たちを集め、親衛隊としてそばにおき、やがて起こった天皇の後継者争いで、自分の親衛隊を使って合戦をする・・・この為朝が関わった保元の乱は、武士が朝廷の内紛に参加した初めての大きな戦いです。

「武士が、政権を左右するのだ」という事を知らしめた、まさに、武士の時代の到来を見せつけた乱が保元の乱なのです。

やがて、初めての武士政権である鎌倉幕府の頃に、主君と部下の固い絆を中心とする「もののふの道」なる物が誕生してきます。

それは、個人の損得ではなく、武士団としての名誉のため、主君との主従関係のためには、命を惜しまず戦うという事が美徳とされる道・・・つまり、「死を恐れない」という事。

こうして徐々に「武士道」なる物が確立されていく中で、切腹は、「自分は死を恐れない。このような苦痛にも耐えてみせる」という勇気を見せるための手段として、武士の美しい死に方のように扱われる事になります。

『武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり』
これは、江戸時代に成立した有名な武士道論書『葉隠』(10月10日参照>>)の一文です。

では、なぜ斬る場所が腹なのか?

という事に関しては、前5千円札でお馴染みの新渡戸稲造(にとべいなぞう)が、その著書『武士道』の中で、「古代信仰の中で、人の魂は腹にあるとされていたから・・・」という感じの事を書いています。

もちろん、『武士道』という観点からの理想を言えば、そういう精神が根底にあった事も確かですが、現実の問題として、「切腹ではなかなか死ねない」という事実もあります。

テレビの時代劇の切腹のシーンなどでは、武士が切腹し、コテンと横になった感じのところでカット!となって、次のシーンに移る事が多々ありますが、現実には、そんなにあっさりとはいかないものです。

先の為朝の場合も、切腹では死にきれず、側にいた敵が首を落として絶命・・・となっています。

それこそ、時代劇の切腹シーンでも横に介錯人がいて、お腹を斬った後、介錯人が介錯をして・・・というシーンの場合もありますよね。

実際には、その介錯で絶命する・・・というのが圧倒的に多かったのです。

ですから、江戸時代の後半には、切腹といっても、実際にはポーズだけというケースも多くなります。

切腹する人が、刀を手にした時点で介錯をしたり、刀をお腹に当てた時点で介錯をしたり・・・たとえば、あの赤穂浪士なんかも、討ち入りの後、最終的に切腹の処分になった事は皆さんもご存知でしょうが、全員が実際にお腹を斬ったわけではないのです。

本当に切腹したのは大石内蔵助以下数名だけで、残りの人たちは、扇子などを刀に見立てたりして、切腹の儀式を再現し、最終的には介錯で絶命しています。

こうして見てみると、切腹が死ぬ事を目的とした行為ではない事が、うっすらとわかってきます。

では、切腹は何のための行為だったのでしょうか?

戦国では、武田滅亡の時に高遠城に籠った信玄の息子=仁科盛信(にしなもりのぶ)・・・(3月2日参照>>)
織田信長亡き後、その息子の神戸信孝(かんべのぶたか)・・・(5月2日参照>>)
さらに、幕末では、あの堺事件で・・・・
「切腹をした時に斬ったお腹から腸を出して投げつけた」という話があります。

いずれも、切腹に追い込まれた経緯の中に強烈な怨みを持った人物の切腹ですが、実は、これが、切腹の本来の姿なのです。

それは、「武士=切腹」という形ができあがるずっと以前に、農耕民族の儀式として、日本人の心の奥深くに潜んでいた行為なのです。

『播磨風土記』には、それこそ日本最古の切腹のお話が書かれています。

それは、神代の昔、淡海神という女神が、夫の花浪神の浮気に腹を立て、自分のお腹を裂いて内臓を露出させた後、沼に身を投げたというのです。

その播磨には、昔、鹿のお腹を裂いて取り出した腸を田畑にまいて、五穀豊穣を願うという儀式があったと言います。

もちろん、このような儀式がおこなわれていたのが、播磨だけではない事は、あの『古事記』を見ても明らか・・・

須佐之男命(スサノヲノミコト)が、高天原を追われるくだりで、食物を司る女神・大気津比売神(オホゲツヒメノカミ)を殺す話が出てきますが、この殺された女神の頭から蚕が生まれ、目から稲種が生まれ、耳から粟、鼻から小豆、お尻から大豆、そして大事な所からは麦が生まれたとなっています。

この記述からも、肉体と五穀豊穣が密接な関係にあったのが、播磨という一地方だけではない事がわかります。

先の鹿の内臓を田畑に捧げる儀式は、「飢饉に襲われる=五穀豊穣の神に見放される」という事で、肉体をさらけ出し、いけにえとして捧げ、神様にアピールする事によって、もう一度、神のご加護にあずかろうという考え方から来ているものではないかとされています。

もちろん、そのアピールは、五穀豊穣の神以外の神にも向けられる場合も・・・

『播磨風土記』の淡海神の場合は、愛する夫・花浪神という神に見放された事へのアピール・・・それは、自らの肉体をいけにえにする事で、より、強力なアピールと化します。

そこから考えて、武士の場合は勝利の女神に見放された事へのアピール・・・という事なのではないでしょうか?

その行為に苦痛がともなう事から、やがて、死を恐れぬ武士道精神の証しのようなものへと変化していったのだと思いますが、本来は、切腹とは、お腹を裂いて、内臓を取り出して、相手に見せつける行為・・・それは死ぬという行為とは別の物だった???

そして、その相手とは、場合によっては深い怨みを伴う、自分の思いが通じなかった相手・・・時には敵であり、時には愛する人であり、時には神様であるという事なのではないでしょうか?

Inahogokokuhouzyouseppukucc 今日のイラストは、
ちょっと季節は早いですが、五穀豊穣の祈りを込めて『秋の稔り』を・・・。

話題は切腹でしたが、切腹の場面を書くのはちょっと怖いので、神代の昔の本来の目的であったこっちを書かせていただきました~
 .

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2007年7月22日 (日)

木曽(源)義仲の年表

 

このページは、木曽(源)義仲の生涯の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログにupし次第、順次加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Kamonyositunecc



 

・・・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1155 8 16 父・義賢が殺され、中原兼遠に預けられる
【義仲が木曽にいたワケは・・・】
1160 1 24 父を殺した義平が平家に斬首にされる
【世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平】
1167 2 11 平清盛・太政大臣に就任
【清盛の異常な出世~天皇ご落胤説】
1180 5 以仁王の令旨を受け取る
【源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦】
9 7 初陣・市原の合戦
【義仲・初陣!市原の戦い】
1181 2 4 平清盛・没
【諸行無常・平清盛の死】
6 14 横田河原の合戦
【北陸に義仲あり!横田河原の合戦】
1183 5 3 平家が義仲追討のため北陸へ・・・
【倶利伽羅峠の前哨戦!越前・加賀の合戦】
5 9 般若野の合戦
【義仲快進撃の幕開け!般若野の合戦】
5 11 倶利伽羅峠の合戦
【義仲・圧勝!倶利伽羅峠の合戦】
6 1 篠原の合戦
【無残やな 甲の下の篠原の合戦】
7 25 平家が都落ちをする
【平家、都落ち】
7 28 義仲・京に入る
【木曽義仲・堂々の入京】
10 1 水島の戦い
【義仲・初の敗戦~源平・水島の戦い】
11 18 義仲・法住寺殿を焼く
【木曽義仲・法住寺殿を焼く】
1184 1 11 義仲・征夷大将軍になる
【征夷大将軍・木曽義仲】
1 16 頼朝の弟・範頼と義経が義仲を追討に来る
【義仲追討に義経が動く】
【宇治川の先陣争い】
1 21 木曽義仲・粟津にて討死
【木曽の最期】
【巴御前~木曽義仲からの最後の使命】
4 息子・義高が殺される
【頼朝の愛娘・大姫のお話】

 

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2007年7月21日 (土)

家康のイチャモン・方広寺鐘銘事件

 

慶長十九年(1614年)7月21日は、大坂の陣の引き金となった徳川家康の難くせ・・・『方広寺鐘銘事件』の起こった日です。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)の前後では、「合戦はあくまで豊臣家の内紛であり、徳川家が豊臣家を滅ぼす戦いではない」というポーズをとっていた徳川家康

そうでないと、天下人である豊臣家に謀反をはたらいた事になって、配下の武将たちは全員敵にまわっちゃいますからね。

しかし、おそらくは、家康の心の中には、豊臣を滅ぼすための青写真ができていたはず・・・

やっと重い腰をあげた豊臣秀頼と、慶長十六年(1611年)に二条城での会見(3月28日参照>>)した家康・・・その前後には、なぜか、関ヶ原の合戦で東軍に寝返った武将たちが次々とこの世を去り(6月24日参照>>)、神妙にも「念仏を書く」という趣味に没頭する家康さんでしたが、きっと、この間も、何とか豊臣家をぶっ潰す方法を模索していた事でしょう。

海千山千を越えて来た家康にとって、秀頼なんて若ぞうは目じゃありません。
怖いのは、秀吉の遺産・・・。

一つは、実際にある物質的・金銭的な遺産。
そして、もう一つは、形の無い「秀吉という人物像の影」という遺産です。

家康は、関ヶ原で東軍に寝返った武将に、法外な恩賞を与えつつ、影では疑惑の死に追いやりながら、形の無い遺産のほうを徐々に消して行きますが、これには少々時間がかかります。

一方の、金銭的な遺産・・・これは、天下人の常として、戦国の世で荒れ放題になっているお寺や神社の修復を次から次へと秀頼がやって行く事になるのですが、あまりにも莫大な遺産はなかなか減らず、これにも時間がかかりそう・・・(^-^;

京都などのお寺を散策していると、「南北朝の動乱や応仁の乱で焼失した伽藍を、秀頼が再建」というのをよく見かけます。
いかに、たくさんの神社仏閣の復興を手掛けたかがよくわかりますね。

Dscn3530a800 方広寺(方広寺への行き方は、本家HP「京都歴史散歩:七条通を歩く」へどうぞ>>

そんな中の一つが、京都の方広寺・・・もちろん、方広寺の大仏造営はもともと豊臣家の発案、この事業は豊臣家の悲願(7月26日参照>>)でもありました。

関ヶ原の後に、その秀吉の遺志を継いで再開された方広寺の大仏造営が、慶長十七年(1612年)にようやく完成し、慶長十九年(1614年)には梵鐘も完成し、いよいよ大仏開眼供養の準備に・・・となったある日、二条城の庭でくつろぐ家康の耳元である人物が囁きます。

「大仏殿の鐘楼の鐘銘(鐘に書いてある銘文)にイチャモンつけたらどうでっしゃろ?」
「鐘銘に?何と・・・?」
「ワテこないだ、方広寺の鐘を見て来ましてん。ほな、そこに『国家安康』て書いてぁ~りますねん。これ、使えまっせ~。」
「どういう風に?」
『国家安康』とは、『家康』の2文字を分断して、家康さんを呪った呪文の言葉やっちゅー事で・・・。」
「なるほど・・・」

家康に、この助言をした人こそ、『黒衣の宰相』と称される怪僧・天海です。

彼は、関ヶ原の合戦を終えた家康の前に、突如現れた謎の人物・・・その時すでに70歳を越えていたという老僧です。

しかも、家康だけではなく、秀忠家光徳川三代のブレーンとして、強大な発言力を持った人物。

後に家康が亡くなった時、一旦、久能山の葬られていた遺霊を、彼の一言で日光に移されたという事実を見ても、その影響力がわかるというものです(4月10日参照>>)

そんな大物なのに、家康に出会う前の、その前半生がまったく謎に包まれている事から、『天海は明智光秀ではないか?』という噂まで登場していますが、そのお話は天海さんのご命日である10月2日のページでどうぞ>>

・・・で、『駿府記』7月21日の条には、
『伝長老・板倉内膳両人これを召す。仰せにいわく、大仏鐘銘に関東不吉の語あり、上棟の日も吉にあらずと、御腹立云々』
と、あります。

家康はその『国家安康』の文字を「家康の名を分断している呪いの言葉」とし、もう一つその横に書いてあった『君臣豊楽』の文字を「豊臣を主君として楽しむ」という意味だ・・・という解釈ができるとして、京都五山の僧侶たちを使って批判させるのです。

そして、秀頼に「謝りに来い!」というワケです。
しかし、そんなイチャモン丸出しの難くせに秀頼が誤るわけがありません。

いや、むしろ家康にしてみれば、謝ってもらっては困るのです。
なんせ、豊臣をぶっ潰すきっかけを探しているんですから・・・。

その証拠に、その呪いの言葉が書かれたはずの方広寺の鐘は、今も、その呪いの言葉が書かれたまま現存するのですから・・・。

本当に鐘に書かれている言葉が呪いの言葉だと思っていたのなら、すぐにでもぶっ潰すはずです。

しかし、ぶっ潰されたのは、鐘のほうではなく、豊臣家のほう・・・これをきっかけに、家康は更なる無理難題を引っさげて、最終的に冬と夏の大坂の陣(11月29日参照>>)へと突入する事となるのですが、この続きのお話は、更なる展開があった「その日・=8月20日」へどうぞ>>>

Houkouzinosyouroucc

京都・方広寺への行きかたやくわしい地図は本家HP京都歴史散歩「七条通りを行く」でどうぞ>>>
 .

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源頼朝の年表

 

このページは、源頼朝の生涯の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログにupし次第、順次加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Kamonyositunecc



 

・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1159 12 9 平治の乱・勃発
【乱を引っ掻き回した藤原信頼】
12 26 頼朝の初陣・平治の乱
【平治の乱・終結】
1160 1 4 父・義朝の最期
【サウナで謀殺!無念・源義朝の最期】
1 24 兄・義平が斬首される
【世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平】
2 9 近江にて平家方に捕まる
【少年・源頼朝を逮捕!死罪から流罪へ】
1167 2 11 平清盛・太政大臣に就任
【清盛の異常な出世~天皇ご落胤説】
1180 4 27 以仁王の令旨が届く
【源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦】
8 17 頼朝・伊豆にて挙兵する
【伊豆に白旗!頼朝挙兵】
8 23 石橋山の合戦
【頼朝敗走・石橋山の合戦】
8 27 衣笠城の合戦
【この命、頼朝公に捧ぐ~三浦義明の合戦】
9 3 頼朝が葛西清重に参陣要請
【頼朝に味方した秩父平氏・葛西清重】
10 6 頼朝・鎌倉入り
【源頼朝・鎌倉で再起】
10 20 富士川の戦い
【源平激突!富士川合戦】
10 21 弟・義経と対面する
【頼朝・義経黄瀬川の対面】
11 4 金砂城の戦い
【源平争乱…金砂城の戦い】
1181 2 4 平清盛・没
【諸行無常・平清盛の死】
1183 12 20 上総介広常を暗殺
【奥州制覇を狙う頼朝に消された広常】
1184 1 16 弟・範頼と義経を義仲追討に向かわせる
【義仲追討に義経が動く】
【宇治川の先陣争い】
1 21 弟・義経が木曽義仲を討つ
【木曽の最期】
2 7 一の谷の合戦
【生田の森の激戦】
【鵯越の逆落し】
【忠度の最期】
【青葉の笛】
1185 2 19 屋島の合戦
【屋島の合戦・扇の的の後に・・・】
【弓流し】
3 24 壇ノ浦の合戦で平家滅亡する
【潮の流れと戦況の流れ】
【壇ノ浦・先帝の身投げ】
【平知盛の最期】
5 24 義経を腰越に留める
【義経の腰越状】
6 21 平宗盛が斬首される
【愛溢れる敗軍の将~平宗盛】
10 11 義経の屋敷を襲わせる
【義経危機一髪!堀川夜討ち】
11 3 弟・義経が都を出る
【義経都落ち】
11 17 静御前を吉野で捕える
【静御前・吉野にて捕まる】
12 20 吉野山で義経を追う
【佐藤忠信・吉野山奮戦記】
1186 3 1 静を鎌倉へ呼び寄せる
【静御前の白拍子なる職業】
4 8 鶴岡八幡宮での静の舞い
【鶴岡八幡宮・静の舞】
5 12 源行家が斬首される
【寄らば大樹の陰も最後に~行家・斬首】
7 29 静御前が男の子を出産
【静御前・男児出産】
8 15 鶴岡八幡宮で西行に会う
【武士?僧侶?ストーカー?スパイ?謎の西行】
9 21 佐藤忠信を討つ
【みちのくの勇者・佐藤忠信の最期】
1187 2 10 義経が奥州の藤原秀衡のもとへ逃げ込む
【義経を受け入れた奥州・藤原秀衡の思惑】
1189 4 30 藤原泰衡が義経を討つ
【衣川の合戦~義経・主従の最期】
6 26 藤原泰衡追討の院宣を要求
【頼朝が『泰衡追討の院宣』を要求】
8 10 頼朝・藤原泰衡を攻める
【阿津賀志の戦い~進む頼朝VS防ぐ泰衡】
9 3 藤原泰衡が家臣に殺害される
【奥州・藤原氏の滅亡】
奥州征伐の帰り道で・・・
【ほおずき市の起源は頼朝さん】
1190 12 1 源頼朝が右近衛大将・権大納言に任じらる
【右近衛大将を3日で辞任した頼朝の思惑】
1192 7 12 頼朝・征夷大将軍に任命される
【鎌倉幕府の誕生は…いつ?】
1193 5 28 曽我兄弟の仇討ち
【曽我兄弟の仇討ち・もう一人のターゲット】
8 17 範頼を殺害する
【頼朝は平凡な弟の何が怖かったのか?】
1195 3 7 頼朝暗殺を計画した平(藤原)景清・没
【平家の生き残り・平景清】
1197 7 14 頼朝の娘・大姫が逝く
【頼朝の愛娘・大姫のお話】
【大姫の死にまつわる疑惑】
1198 12 27 頼朝死亡
【頼朝の死因をめぐる疑惑】
番外編 【義経と牛若は同一人物か?】
【八幡太郎義家が冷遇されたワケは?】

 

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2007年7月20日 (金)

平清盛と平家物語の年表

このページは、平清盛と平家物語の時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

平家物語(流布本)に書かれている出来事については、その題名を表記させていただきましたが、軍記物である平家物語は、史実とされる事とは異なる内容が書かれている場合もあり、ページの内容は必ずしも平家物語に沿っているわけではなく、歴史の通説となっている内容を重視している場合もあります。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。

年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事をupし次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

・・・・・・・・・・・・

出来事とリンク 平家物語
1131 11 23 平忠盛・暗殺計画発覚
【殿上闇討~物語の始まり】
殿上闇討
1135 8 21 忠盛の海賊討伐の功で清盛昇進
【忠盛の海賊退治で清盛が昇進】
1153 1 15 平忠盛が没す
【清盛の父・平忠盛が死す】
1156 7 2 鳥羽天皇・崩御
【乱のキッカケを作った天皇の死】
7 11 保元の乱
【武士時代の幕開け・保元の乱】
【天皇・摂関・源平…それぞれの】
1158 清盛が大宰大弐になる
【清盛と日宋貿易】
1159 12 9 平治の乱・勃発
【乱を引っ掻き回した信頼】
12 15 平治の乱で信西が晒し首に
【「さらし首」となった信西】
12 25 平治の乱で二条天皇が脱出
【清盛の天皇救出劇】
12 26 平治の乱・終結
【平治の乱・終結】
1160 1 4 源義朝・没
【サウナで謀殺!義朝の最期】
1 17 常盤御前が都落ち
【美女・常盤御前…と信長?】
1 25 義朝の長男・義平を斬首
【悪源太義平の最期】
2 9 義朝の三男・頼朝を逮捕
【頼朝逮捕・死罪から流罪へ】
1164 8 26 崇徳天皇・崩御
【崇徳天皇怨霊伝説】
12 17 三十三間堂で落慶法要
【三十三間堂の建立】
1167 2 11 清盛・太政大臣に就任
【平清盛・天皇ご落胤説】
【暴君≠清盛・もう一つ顔】
1170 8 6 源為朝・自刃
【源為朝・琉球王伝説】
1171 2 14 祇王・没?
【祇王と仏御前】
祇王
12 14 平清盛の娘・徳子が入内
【建礼門院・平徳子の入内】
鹿谷
1172 2 10 娘・徳子が高倉天皇の中宮に
【女性の助力で清盛・頂点へ】
6 11 清盛・厳島神社に法華経を奉納
【平清盛と厳島神社】
1176 7 8 建春門院・平滋子が死去
【平家の盛と衰を導いた女性】
1177 5 29 鹿ヶ谷の陰謀
【悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀】
鹿谷
1179 3 2 鬼界ヶ島に流された俊寛が死亡
【鬼界ヶ島に~俊寛悲しい最期】
足摺・有王
僧都死去
11 17 治承三年の政変
【ブチ切れ清盛のクーデター】
大臣流罪
法皇被流
1180 4 9 以仁王・平家討伐の令旨を発す
【逆賊・平清盛を追討せ】
源氏揃
5 10 以仁王の令旨が頼朝に届く
【頼朝の強力ブレーン・文覚】
文覚荒行
勧進帳
5 26 以仁王・源頼政の挙兵
【幕開け・宇治の橋合戦】
【以仁王・生存説】
【源頼政の鵺退治】
 
橋合戦
 
8 17 頼朝が挙兵
【伊豆に白旗!頼朝挙兵】
早馬
8 23 石橋山の合戦
【頼朝敗走・石橋山の合戦】
8 27 衣笠城の合戦
【三浦義明の合戦】
9 7 木曽義仲・初陣
【義仲・初陣!市原の戦い】
廻文
10 6 頼朝鎌倉入り
【源頼朝・鎌倉で再起】
10 20 富士川の戦い
【源平激突!富士川合戦】
富士川
11 4 源頼朝が佐竹氏を破る
【源平争乱…金砂城の戦い】
11 16 福原から都を戻す
【全盛からの転機~福原遷都】
【わずか半年の都・福原】
都還
12 28 南都焼き討ち
【故意?失火?重衡の焼き討ち】
【僧兵~僧侶の武装と堕落】
奈良炎上
1181 1 14 高倉上皇・崩御
【峰の嵐か松風か・天皇悲恋】
小督
2 4 平清盛没
【諸行無常・平清盛の死】
入道死去
3 16 墨俣川の戦い
【平家圧勝~墨俣川の戦い】
祇園女御
6 14 横田河原の合戦
【義仲あり!横田河原の合戦】
横田河原合戦
1183 5 3 平家・義仲追討へ
【前哨戦!越前・加賀の合戦】
北国下向
5 11 倶利伽羅峠の合戦
【圧勝!倶利伽羅峠の合戦】
倶利伽羅
藍落し
6 1 篠原の合戦
【甲の下の篠原の合戦】
実盛最期
7 25 平家都落ち
【維盛の都落ち】
【忠度の都落ち】
【経正の都落ち】
 
維盛都落ち
忠度都落ち
経正都落ち
青山沙汰
10 1 水島の戦い
【源平・水島の戦い】
 
水島合戦
11 18 木曽義仲・法住寺殿を焼く
【木曽義仲・法住寺殿を焼く】
法住寺合戦
1184 1 11 義仲・征夷大将軍に
【征夷大将軍・木曽義仲】
征夷将軍
院宣
1 16 義仲追討
【宇治川の先陣争い】
宇治川先陣
1 21 木曽義仲討死
【木曽の最期】
【巴御前・最後の使命】
 
木曽最期
2 7 一の谷の合戦
【生田の森の激戦】
【義経の鵯越の逆落とし】
【忠度の最期】
【青葉の笛】
 
一二の懸け
二度の懸け
逆落
忠度最期
敦盛
2 14 平通盛の妻・小宰相が入水
【ともに一つの蓮の上】
小宰相身投げ
3 10 平重衡・鎌倉へ護送
【平家の公達・平重衡と輔子】
海道下り
3 28 平維盛が入水自殺
【誇りと責任…維盛の決断】
維盛入水
1185 2 16 義経・屋島へ出航
【めざせ!屋島嵐の船出】
逆櫓
勝浦合戦
2 19 屋島の合戦
【佐藤嗣信の最期】
【扇の的の後に・・・】
【弓流し】
嗣信最期
那須与一
弓流し
3 24 壇ノ浦の合戦
【潮の流れと戦況の流れ】
【壇ノ浦・先帝の身投げ】
【安徳天皇・生存説】
【平家の勇将・平教経の最期】
【平知盛の最期】
 
壇ノ浦合戦
先帝身投げ
 
能登殿最期

内侍所都入
5 24 義経・腰越状を託す
【義経の腰越状】
腰越
6 21 平宗盛・斬首
【愛溢れる敗軍の将~宗盛】
大臣殿誅伐
6 23 平重衡・斬首
【捕らわれた敵将との恋】
千手前
重衡斬られ
10 11 義経・襲われる
【義経危機一髪・堀川夜討ち】
土佐坊斬られ
10 24 鎌倉・勝長寿院の落慶法要
【男・高綱のパフォーマンス】
11 3 義経・都落ち
【義経都落ち】
判官都落ち
1186 6 2 平頼盛が没す
【生き残った清盛の弟・平頼盛】
1192 11 25 熊谷直実が出家する
【戦いの空しさに出家した猛将】
1195 3 7 平(藤原)景清・没
【頼朝暗殺を計画した平景清】
1199 2 5 清盛の曾孫・六代が斬首
【生きさせては貰えなかっ…】
六代斬られ
1213 12 13 建礼門院徳子没
【建礼門院・平徳子の忌日】
大原御幸
女院死去

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2007年7月19日 (木)

伏見城攻防戦と養源院の血天井

 

慶長五年(1600年)7月19日、徳川家康が留守にした伏見城を、石田三成の命を受けた毛利秀元・小早川秀秋らが攻撃・・・あの関ヶ原の合戦へ向けての、武力闘争が開始されました。

・・・・・・・・・

慶長三年(1598年)8月18日、あの豊臣秀吉この世を去りました(8月18日参照>>)

五大老五奉行に任命した彼らに、わずか6歳のわが子・秀頼の将来を託して(8月9日参照>>)の死でした。

しかし、徳川家康はこの時すでに60歳前・・・一刻も早く、天下を手中に収めたい。

おそらくは、家康は、「このまま、豊臣傘下の大名として生きるのではなく、自分こそが次に天下を握る者なのだ」と、心の奥底では考えてはいたのでしょうが、秀吉の死の寸前、五大老として制約をかわした以上、あからさまな裏切りに行為に走っては、周囲の反感を買うだけです。

なんせ、まわりにいるのは全員、豊臣の家臣なワケですから・・・。

しかし、秀吉という大黒柱を失った豊臣家には、秀吉とともに合戦で血と汗を流してきた武闘派と、天下を取ってからの政治をサポートしてきた文治派との間に、大きな溝ができ始めていました。

家康はそこに目をつけ、福島正則加藤清正ら武闘派の面々を味方に引き入れつつ(3月4日参照>>)、豊臣氏の持ち城であった伏見城に居座り続け、『重要事項は五大老・五奉行の協議で決定する』という先の誓約を破り、重要事項を独断で決定し始めたりします。

もちろん、これは家康の、相手をブチ切れさせるための作戦です。

家康としては、ここで一発合戦をぶちかまして、一気に天下を掌握したいけれど、戦を仕掛けるには大義名分が必要です。

それがないと、ただの謀反になってしまいます。

もちろん、文治派のリーダー的存在の石田三成は、これらの家康の態度に難色を示し、一触即発の緊張した状態となりますが、さすがは文治派、なかなかその「一触」を仕掛けてはきません。

そこで、家康は、自分が居座り続けている伏見城を、留守にする事にします。

「自分が、伏見城にいなければ、その間に、何か仕掛けて来るに違いない」と睨んだのです。

ちょうど、その頃、五大老の一人・越後(新潟県)上杉景勝が無断で領国へ帰り、その後「五大老なのに、ちっとも京へやって来ない」という出来事があり(4月1日参照>>)、この行為を「謀反にあたる」という理由をつけて、家康は景勝の本拠地・会津城(福島県)へ向かうのです。

そう、はっきり言って、伏見城は「おとり」となったのです。

伏見城の留守を預かるのは、本丸の鳥居元忠・内藤家長、三の丸の松平家忠・松平近正、以下、1800名ほど。

家康の未来のために、捨て駒となった彼らの前に、慶長五年(1600年)7月19日、予想通り、三成の命を受けた毛利秀元小早川秀秋が現れ、伏見城に猛攻撃を仕掛けるのです。

豊臣方の軍勢は4万以上の大軍。

それでも、連日連夜の猛攻撃に、櫓一つ落ちなかったのは、やはり、捨て身の彼らの命の重さによる物でしょうか。

25日には宇喜多秀家が、29日には石田三成自らが出馬し、さらなる猛攻撃を仕掛けます。

最終的には、伊賀の忍びの者を使い、城のあちこちへ放火する作戦に出る豊臣勢。

さすがの伏見城・防衛隊も、同時多発の放火には対処できず、とうとう豊臣方の城内への侵入を許してしまいます。

攻撃開始から14日目の8月1日午後、伏見城は落城しました。

三の丸の松平家忠は討死・・・城将を務めていた鳥居元忠は、その場に生き残っていた約300名とともに、本丸の廊下にて自刃します。

この、伏見城の攻防戦をかわきりに、三成は畿内やその周辺へと軍勢を展開させ、天下分け目の関ヶ原に突入(9月15日参照>>)していく事になります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところで、京都・東山区、三十三間堂から道を挟んだ東側に養源院というお寺があります。

Yougenintitenzyoucc このお寺は、秀吉の側室・淀殿が、小谷城の合戦で破れて亡くなった父・浅井長政二十一回忌に建立したお寺です。

その後、火災に遭って一部焼失したのを、淀殿の妹で、二代将軍・徳川秀忠に嫁いだ小督(於江与・江)が、落城した伏見城の遺構を移築して再建し、以後、徳川家の菩提所となったお寺です。

この養源院の本堂の廊下の天井には、伏見城・落城の時に、鳥居元忠以下の将士たちが、最後に自刃した廊下の板の間・・・彼らの血に染まった板が使用されていて、『血天井』と呼ばれています。

私は、この話を聞いた時、「なんで、そんな血に染まった板を再利用するんやろ?コワイがな」と思っていました。

不謹慎ですが、最初、このお寺に訪れる時は、怖い物見たさ・・・というか、心霊スポットにでも行くような気持ちでした。

しかし、行ってみて、お寺のかたの説明を聞いてるうちに考えが変わりました。

戦国に生きた人々と現在の私たちの死に対する感覚がまったく違うという事を知ったのです。

明日をも知れない戦国の世で、城を守るために自刃した彼らの霊は、尊敬の対象にはなっても、怖がる存在ではないと言う事。

だからこそ、英雄の事を忘れないために血に染まった廊下を保存し、「足で踏むなどもったいない」と天井にあげたんです。

最初、天井に人の形を見つけた時は驚きました。

説明を聞くまでもなく、顔の向き、手足の方向・・・鳥居さんのその日の姿はっきりをわかるからです。

しかし、最後には怖いなどという感覚はまったくなくなりました。

Yougeninsugitoecc 先日の大河ドラマで、千葉真一さん演じる板垣が、主君の盾となり、槍となって死ぬ事は『武士(もののふ)の誉れ』と言って、壮絶な最後を遂げました。

もちろん、あれはドラマですが、戦国に生きる人々にとって、そのような心情がある事をあらためて知らされました。

徳川の世になった後、この養源院の天井を見上げた武士たちは「彼らのこの血があったからこそ、今の世があるのだ」と、その手を合わせた事でしょう。

 

養源院へのくわしい行き方や地図は、本家ホームページ:京都歴史散歩に掲載しています。よろしければコチラからどうぞ>>>
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2007年7月18日 (水)

ネバる!足利義昭~ボロは着てても心は将軍

 

天正元年(1573年)7月18日、室町幕府・第十五代将軍・足利義昭が篭もる宇治・槇島(まきしま)城を、織田信長が攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月に、不遇の生活を送っていた室町幕府・第十二代将軍・足利義朝(よしはる)の息子・足利義昭を奉じて上洛した織田信長(9月7日参照>>)

上り調子の信長の支援を得て、翌10月に第十五代室町幕府の将軍となった義昭は、年下の信長を「御父」と呼んで大喜び。

しかし、世の中そんなに甘かありません。
なんせ、信長にとっては、自分こそが天下を狙っている?のですから・・・。

自分が名ばかりの将軍で、結局、実権は信長が握っている事に気づいた義昭は、何とかこの状況を打開しようと、反・信長派の武将や寺院に接触し始めます。

そんな義昭の行動は予想済みの信長さん。

元亀元年(1570年)1月には、「天下の事は俺がやるから、アンタは口を出さずおとなしくしててね」なんて内容の『信長朱印条書』なる掟状を義昭に送りつけ(1月23日参照>>)ふたりの仲は完全に決裂してしまいます。

それでも、信長が言うようにおとなしくしていれば良かったのかも知れませんが、将軍として天下に号令したい義昭は、以前不遇の時代に身を寄せていた越前(福井県)朝倉義景に急接近。

それを察知した信長は、4月に朝倉を攻撃(4月23日参照>>)、さらに6月には、朝倉に味方した近江(滋賀県)浅井長政を加えた連合軍を姉川の合戦で撃破します(6月28日参照>>)

しかし、そんな中、信長討伐に、あの石山本願寺も加わり(11月24日参照>>)、全国の一向宗門徒も立ち上がり(5月16日参照>>)、反・信長派の包囲網が完成するかに見えました。

「これならいける!」と思った義昭は、先の越前の朝倉や、中国地方の雄・毛利などの援軍を期待しつつ、天正元年(1573年)2月20日信長に反旗を翻します(2月20日参照>>)

この時は、一旦和睦するものの、義昭は諦めず・・・3が月後の7月、またまた反・信長の狼煙(のろし)を挙げました。

しかし、実は反・信長派の一番の実力者だった武田信玄が、この4月に死去(4月12日参照>>)していたために頼みの武田氏は動かず、それ以外の武将もすぐには動きませんでした。

逆に、迅速に反応したのは信長です。
(ありゃりゃ・・・反応しちゃいましたか~)

天正元年(1573年)7月18日義昭の篭もる宇治・槇島城を包囲し、攻撃を仕掛けたのです

一気に攻め寄せられた義昭(戦闘の様子は2012年7月18日参照>>)・・・結局2歳の息子を人質に出して降伏し、翌19日に京の都から追放されました。

ここで、あの足利尊氏から十五代続いた室町幕府が滅亡・・・と言いたいところですが、いやいや、最後の将軍・義昭さん・・・まだ、粘ります。

そもそも将軍職というのは、天皇から任命されるもの・・・そして、自分で辞任するか、何かの理由で解任されないかぎり、事実上の力の「ある・なし」とは関係なく将軍は将軍なのです。

つまり、一応、室町幕府は、この時点では、まだ存在した事になります。
(あくまで、一応ですが・・・)

京都を追われた旅の途中で一揆の襲撃を受けて、持っていた宝物をすべて奪われ、命からがらのみじめな姿で、河内(大阪)若江城三好義継のもとに身を寄せた義昭さん(11月16日参照>>)

さぞや、身も心もボロボロで、泣き暮らしたんじゃ・・・と思いきや、まだまだ、やります!

毛利の勢いを借りて京に復帰し、信長から人質を奪い返そうとしますが、あえなく失敗・・・今度は、紀伊(和歌山)由良護国寺に身を寄せます。

それでも、毛利の支援を諦めきれない義昭は、毛利へラブコールを送り続けます。
しかし、その頃は未だ、信長VS石山本願寺戦の真っ最中!

たしかに、毛利は石山本願寺を影で支えてはいましたが、あくまて信長と真っ向から対決しているのは本願寺・・・この時点での信長との直接対決を避けたい毛利は、義昭のラブコールとやんわりと断り続けます。

そんな毛利の態度にシビレを切らした義昭さん・・・たまらず、自らが動いて、毛利の領地であった備後(広島県)の鞆(とも)に移り住み、そこからまたまた全国の大名へ向けて『信長討伐令』を出します。

しかし、このタイミングで、信長が最も恐れていた越後(新潟県)上杉謙信が亡くなり、石山本願寺も降伏(8月2日参照>>)という事態になって、『信長討伐令』はどこへやら・・・。
(まったくタイミングの悪い人やなぁ~)

しかも、信長の命を受けた織田軍・中国地方平定班の羽柴(豊臣)秀吉が、西へ西へとやって来ます。

「あかん!もうあかん!信長の天下やぁ~!」
・・・と、思った瞬間、信長は本能寺の変で、家臣の明智光秀に襲われ自刃します(6月2日参照>>)

「やった~!」と、心の中で、Vサインをした義昭さん。
でも、その信長を倒した光秀は秀吉に倒され(6月13日参照>>)、よくよく考えてみれば、目の上のタンコブが信長から秀吉に代わっただけ・・・。

その後、織田家内でのライバルだった柴田勝家を倒し、やがて毛利もその傘下に治め、もはや事実上、天下は秀吉の物となります。

しかし、悲しいかな秀吉には、力はあっても名誉と地位と身分がありません。

そこで秀吉は「義昭さんの猶子(契約的な養子)にしてよ~、そしたらボク、次の将軍になれるから~」と、義昭に熱烈なラブコールをしますが・・・義昭さん、ここはきっぱり「NO!」の返事。
(プライド高いなぁ)

やがて、関白になった秀吉のはからいで、義昭はやっと京に戻り、天正十六年(1588年)に、やはり秀吉のお情けで槇島・1万石を頂戴し、ここで、やっと出家して将軍職を引退します。

たとえ、どこで放浪生活をしようとも、この日まで、京都五山への法帖頒布など、慣例的な将軍の仕事は続けていたというから、その根性はまさに将軍!

つまり、厳密に言えば、この時点で室町幕府が滅亡・・・って事になりますかね。

結局、義昭さん本人はこの後、慶長二年(1597年)まで、ご健在あそばし、61歳の時、大坂にて病に倒れ、その生涯を閉じられました

♪ボロは着てても、心は錦~♪
きっと最後まで、将軍としてのプライドは捨ててなかったんでしょうね。

Asikagayosiakifukutucc 今日のイラストは、
『足利最後の将軍・義昭さん』

本人は大マジメなので、笑っちゃいけないんだろうけど、落ちぶれても落ちぶれても一行に下がらないプライドの高さ、あまりの粘り強さに、思わず顔がほころびます~。

昨年の大河の三谷さんのイメージと相まって、こんな感じの絵になっちゃいました~
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2007年7月17日 (火)

風林火山・孫子の兵法12・九地篇

 

今日は、『風林火山・孫子の兵法』の12回目、『九地篇』をご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

『九地篇』では、まず、戦場となる9種類の地域と、それに応じた戦い方が書かれています。

ややこしいですが、前回のは「地形」、今回は「地域」・・・地形+状況と言ったところでしょうか。

『孫子曰く、兵を用いる法に、散地有り、軽地有り・・・』

  • 散地・・・自国の領内にある戦場となる場所
    ここでの戦いは避け、味方の団結を強めましょう。
  • 軽地・・・敵地の入り口付近
    ここに長居は無用です。連携を密接にして素早く行きましょう。
  • 争地・・・そこを獲得すれば有利な場所
    敵が先に獲得していれば攻撃してなダメ。敵の背後に回ります。
  • 交地・・・敵味方の両方が進攻しやすい場所
    部隊を孤立させないよう連絡を密に取り、守りを固めます。
  • 衢地(くち)・・・諸国と隣接し、そこ押さえれば周囲にも睨みを効かせる事のできる場所
    外交交渉を重視する事。同盟関係を結ぶのも大事です。
  • 重地・・・敵の真っ只中
    必要なものは現地調達。量も充分に・・・。
  • 圯地(ひち)・・・道が険しく行軍が難しい場所
    さっさと通過しちゃいましょう。
  • 囲地(いち)・・・道が狭く、撤退するには迂回しなければなら ないような場所
    自ら退路を断って、決死の覚悟で奇抜な作戦を用います。
  • 死地・・・速やかに戦わなければ生き残れない場所
    速やかに戦いましょう。生き残れませんから・・・。

・・・と、まぁ、ごもっともな事が書かれています。
わかりきった事と言えば、わかりきった事ですが、いつの時も基本を押さえておくのは大事ですから・・・。

しかし、もし、敵が万全の準備をして整然とやってきたら・・・

その時は、
『先んずその愛する所を奪わば、則(すなわち)聴かん』
「まずは、敵の最も重視しているモノを奪う事」
もちろん、それは、形ある「モノ」とは限りませんが・・・。

そして、それにはスピードも重要。
『人の及ばざるに』「気づかれないうちに」
『虞(はか)らざる道に』「思いもよらない道を」
『戒(いまし)めざる所を』「思いもよらぬ方法で」
攻撃するのだそうです。

たしかに・・・おっしゃる事はよくわかりますが、「思いもよらぬ道を思いもよらぬ方法で・・・」
簡単には、思いつきませんからねぇ~、なんせ思いもよらないんですから・・・
悲しいかな、凡人には、なかなか意表をつく方法は考えつきません。

次に、登場するのは、敵地での戦い方・・・上記で言うところの『重地』での作戦です。

ここでは、上記にある通り、必要な物は現地調達。
それも、充分なくらい余裕を持って調達します。

敵の領内の奥深くに進攻した場合は、兵は一致団結して、普段の力以上のものを発揮してもらわないとヤバイ事になりますから・・・。

兵には、たっぷりと休養をとり、充分に食事をして、鋭気を養ってもらって、戦力を温存しておかないといけません。

そして、いざ、戦いの時には、ここが敵地の真っ只中であるが故に、勝たねば退路が無い事を悟らせて、窮地に追い込んでしまうのです。

充分に休養をとった後に窮地に追い込まれた兵士たちは、「拘束しなくても団結し、要求しなくても全力を尽くす」のだそうです。

孫子は、「上手な戦とは、『卒然(そつぜん)のようなものだ」と言います。

卒然とは、蛇の事。
その頭を撃てば尾で反撃をし、尾を撃てば頭で反撃して、胴を撃てば首尾ともに襲い掛かってきます。

この蛇のように軍を動かす事ができれば、戦上手と言えるのですが、では、その方法とは?
『呉人(ごひと)と越人(えつひと)と相悪(にく)むも、その舟を同じくして済(わた)り風に遇うに当たりては、その相救うや左右の手のごとし』
「呉と越、敵同士の二つの国の人であっても、同じ舟に乗って嵐に遭遇して、舟が危ないとなれば、お互いが協力して左右の手のように動くはずだ」

そうです。
良く聞く四文字熟語・『呉越同舟』です。
またまた、『孫子』が出典の金言です。

これは、単に陣地を同じにしたり、一緒に戦うといった意味ではなく、敵味方一丸となって・・・という事です。
このように、敵国同士を協力させるためには、政治の力が必要。
強者と弱者を協力させるには、地の利が必要だと説いています。

思想や政治、地の利をうまく利用すれば、全軍を、あたかも一人の人間のように扱う事ができるのです。

これは、某国がよく使う手ですね。
内政がヤバくなると、海外に敵国を作って危機感をあおり、皆がそっちを憎むように持っていって、国民の注意をそらす・・・っていうアレです。

ところで孫子は、この『九地篇』では、「兵士に全力を出させるためには死地に追い込んで戦わせる」という事を、何度も強調します。

「末端の兵に任務の説明をする時は、有利な事だけ教えて、不利な事は内緒にしておく」とか、「命を賭けさせるためには、法外な恩賞も必要だし、無謀な命令を下す事も必要だ」とか、血も涙もないような事をおっしゃる。

『地形篇』では、
『卒を視(み)ること嬰児(えいじ)の如し・・・卒を視ること愛子の如し・・・』
「赤ちゃんのように、わが子のように愛さなければ、兵士は将と生死をともにしようとは思わない」
と言っておきながら、ここでは、「わざと退路を断てば、誰もが死ぬ気で戦う」などと書かれているのです。

たしかに、敵に対しては、「囲む時は逃げ道を作っておいて窮地に追い込むような事はするな(軍争篇)と、敵を必死にさせないための方法を書いていますから、必死にさせるためにはその反対で、「退路を断って窮地に追い込む」のでしょうが、どうも、冷た過ぎる気がして、この箇所については、個人的には好きになれません。

まぁ、兵法ですから、戦争の仕方ですから、そこンとこは仕方がないのかも知れません。

どのみち、現代では「命を賭けて戦う」「勝つなら死んでも良い」なんていうのは通用しませんし、末端の兵も、大将も、君主も、命の重さは同じですから、ここは、命ではなく、「精神的に追い込む」という解釈をするのが正解だと思っています。

そして、最後に、敵地での作戦の集大成のような名言で、この章は締めくくられます。

敵地で戦う時は、まず関所を封鎖し、敵の連絡網を断ち、すみやかに軍儀して、敵が最も重視している部分を見極め、決定したら行動を開始します。

最初は、わざと敵の思うツボにはまったように見せかけて、隠密裏に、静に・・・そして、チャンスと見てとれば、先ほど見極めた敵の一点に兵力を集中して、先制攻撃をかけるのです。

『始めは処女のごとくにして、敵人、戸を開き、後には脱兎(だっと)のごとくして、敵、臥(ふせ)ぐに及ばず』
「始めは処女のように振舞って敵えお油断させ、その後逃げるウサギのようにすばやく攻撃を仕掛ければ、もう敵は防げない」

これも、「始めは処女のごとく、後に脱兎のごとし」というよく知られた名言ですね。

以上、今日は『九地篇』を、紹介させていただきました。

・・・・・・・・・・・

続編はコチラ→『風林火山・孫子の兵法13火攻篇』>>
 

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
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2007年7月16日 (月)

半年に一度・地獄の釜開き~閻魔大王のお話

 

今日、7月16日は、半期に一度のバーゲン・・・ではなく、半年に一度「地獄の釜開き」

1月16日と、7月16日『閻魔斎日』と言って、地獄の釜の蓋が開いてエンマ様も地獄の鬼もお休み・・・で、「地獄の釜開き」と呼ばれたり「亡者の骨休み」と呼ばれる地獄の定休日なのです。

地獄に落ちたが最後、永遠に苦しむものだと思っていましたが、年に2回は休ませていただけるんですね~(安心してる場合か!)

・・・て、事で、今日はエンマ(閻魔)様について、色々と書いてみたいと思います。
*ちなみに、毎月16日は閻魔さまの縁日となっています

・‥…━━━☆

エンマ様はご存知のように、死んだ人の霊魂を支配して、その生前の行いに対して、審判をし、賞罰を与えるという裁判官のような役どころをする地獄の王・・・閻魔大王とも呼ばれます。

しかし、最初はエンマ様は地獄の王ではなかったのです。

エンマ様は古代・インドのお生まれ・・・そこでは「ヤマ」と呼ばれていました。

そのヤマという名前には双子という意味も含まれていて、妹を「ヤミー」と言い、二人の間に最初の人類が誕生したとされました。

その後、亡くなってから、人類最初の死者として、天上界へ行き、王として天上を支配するという事になり、信仰の対象となり崇められていました。

古代インドでは、エンマ様は天上界の王だったのです。

最初は、天国の王とされていたものが、時代が経つにしたがい、「最初の死者として死者の国を支配する」というところから、しだいにその居場所が地獄へと変わって行き、インドから中国へ伝わるうち、道教の影響を大きく受ける事になります。

梵語の『ヤマ』を漢音訳で、琰魔・炎摩・夜摩などと表記され、閻魔となります。

道教と結びついた事によって、冥界で死者に善悪の審判を下す10人の中の一人となったエンマ様・・・今でも仏教では『仏神十王』という10人の裁判官が、現世での罪の重さの判決を下す事になっています。

十王の名前をあげておきますと・・・、
・初江王(しょこうおう)
・秦広王(しんこうおう)
・宋帝王(そうていおう)
・五官王(ごかんおう)
・変成王(へんせいおう)
・太山王(たいさんおう)
・平等王(びょうどうおう)
・都市王(としおう)
・五道転輪王(ごどうてんりんおう)
・閻羅王(えんらおう・閻魔王)
以上の十王です。

仏教の世界では、人が死んだら、まず、葬頭河(そうずか・三途の川)を渡りますが、浅瀬と深淵と橋の3通りの渡り方があります。(深淵はちょっと・・・)

3通りあるけれど、どの方法をとっても行き着く先は同じ場所。
(・・・なら、全員橋にしてほしい・・・)

そして、渡った所に、衣領樹(いりょうじゅ)と呼ばれる大きな木が立っていて、その木のたもとに、奪衣婆(だつえば)懸衣翁(けんえおう)という鬼が待っています。

そこで、奪衣婆が死者の衣服を剥ぎ取って、懸衣翁に渡し、懸衣翁が、その衣服を衣領樹の枝にかけて、その垂れ下がり具合で罪の増減を定めます。

そして、諸官庁が建ち、十王が待つ初江(しょこう)という場所で、裁判が行われるのです。

初江王が裁判長で、その他の九王が判事という役割ですが、その中でも閻魔王は、検事的な役割を荷っています。

このように、仏教世界では10人の裁判官だったのが、日本に伝わって民間信仰に移行する際に、この10人の王の中で、なぜか閻魔王がピックアップされる事になって、10人の役割を一手に引き受ける形となったのが、現在、一般によく知られているエンマ様・・・という事になります。

『閻魔斎日』が1月と7月の年2回という事になったのも、日本の民間信仰の影響を受けていると思われます。

日本では、畑作と稲作の年2回収穫が行われる事から、何かと年2回という分け方をするという風習が古くからあったのだそうです。

そこで、日本に古来からあるお正月にやってくる「年神様」の信仰(2月3日【節分・豆まきの起源と鬼】参照>>)に対して、仏教で年6回ある「魂祭(たままつり)の一つのお盆が、お正月と一対になるように、設定されたのではないでしょうか?

お盆には、あの世の御先祖様が帰って来るのだから、当然、あの世の裁判所もストップしてるはず、そして、この日本人の根底にある年2回という観念から、お盆とお正月だけは、何もかもお休み~。

さすがの、地獄の釜の蓋も開放されるのだから、働きづめの奉公人も、いびられっぱなしの嫁も、年2回は開放される「薮入り」というお休みの日が生まれ、奉公人は田舎に帰ったり先祖の墓参りをしたり、エンマ様の縁日に行ったり・・・そして、嫁は実家に帰ったり・・・。

・・・と、すっかり、日本人の生活の中に溶け込んで行ったんですね。

とにかく、インドで生まれて、中国を旅して、長い時をかけて、日本にたどりついたエンマ様は、日本の民間信仰と、ものの見事にミックスされて、今も地獄の大王として睨みを利かす事になったようです。

最近は、すっかり労働形態も変わって、「薮入り」なんていうのは過去の事。
今じゃ、お休みは盆と正月だけじゃありませんからね~。

嫁も、実家に帰りっぱなし・・・

ひょっとしたら、地獄の釜の蓋も開きっぱなし・・・てな事は、
・・・さすがにありませんよね~。

Enmacc 今日のイラストは、
そのものズバリ!『閻魔大王さま』で・・・

なんか、顔がデカくなってしまった・・・アラレちゃんに出てくる「ニコちゃん大王」みたい・・・

閻魔大王のもう一つのお顔・・・お地蔵様については【1月24日:お地蔵様のお話】へどうぞ>>
 

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2007年7月15日 (日)

殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい!

 

文禄四年(1595年)7月15日、豊臣秀吉の甥・羽柴秀次が謀反の罪により切腹・・・享年28歳、わずか4年間の関白の座でありました。

・・・・・・・・・

羽柴(三好・豊臣)秀次は、豊臣秀吉の姉・とも三好吉房(みよしよしふさ)との間の長男として、永禄十一年(1568年)に生まれます。

16歳の時、秀吉の身内の一人として参加した賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)初陣となります。

翌年の小牧・長久手の戦い(4月9日参照>>)では、渋る秀吉を説得して自らが総大将となって挑みますが、徳川家康に手玉に取られ、命からがら逃げ帰るという散々な結果となります。

でも、「若さゆえ勝ちを急ぐ、若さゆえ血気にはやる」というのは、誰もが一度は通る道でもありますので・・・

まして、彼は秀吉の身内という「七光」を背負っています。
「自分の地位が、七光ではなく、実力が伴う物だという事を証明したい」という、思いが強くあったかも知れません。

何の実力もないままに、七光の輝く椅子にどっかりと腰をかけて平気でいられる人物よりは、マジメで純粋だった事は確かです。

その後、18歳になった秀次は四国平定を成し遂げ、この時に近江・四十三万石を賜って、近江八幡の城下町の基礎を築きます。

天正十八年(1590年)、秀次23歳の時の小田原攻め(7月5日参照>>)では、支城の一つ・山中城を攻め落とす大活躍!

その功績が認められて、尾張・伊勢など百万石をもらい、清洲城を居城とします。

・・・と、この翌年、秀次に一つの転機が訪れます。

秀吉と淀君の間に生まれた長男・鶴松が、わずか3歳で亡くなってしまうのです。

ご存知のように、正室のねねさんとの間にも、他の側室との間にも、秀吉は子供を持っていません。

望んで・・・望んで・・・やっと生まれた待望の男の子を失い、その時の秀吉のショックは相当なものでした。

当時、秀吉は56歳・・・年齢が年齢ですから、「もう、子供は望めない」と思ったのか、秀次を養子に迎え、豊臣を名乗らせ(それまでは三好秀次でした)、関白職を譲って、聚楽第に住まわせます。

これは、もう完全に彼を後継者として認めたという事になります。

やがて文禄元年(1592年)の朝鮮出兵(4月13日参照>>)では、出陣せず、京都で留守を預かっています。

そして、その翌年、いよいよ秀次・人生最大の運命の時がやってきます。

文禄二年(1593年)の8月、淀君が二人目の男の子・後の秀頼を出産するのです(8月3日参照>>)

ここから、秀次はまるで別人のようにその人物像が豹変します。

通説によれば、秀吉に実子が誕生した事で、現在の地位に危機感を抱いた秀次は、心神に異常をきたし、これより後、とんでもない行動に出るのです

秀次は、「弓・鉄砲の稽古だ」と言って村へ出ては、罪のない領民を的にして射殺したり、妊婦を見つけてはその腹を裂いたり、あげくの果てに殺生禁止の比叡山へ出かけては狩りを楽しんだり・・・と、狂乱の一途をたどります。

もちろん、家臣への無理難題、暴力などは日常茶飯事。
人々は、そんな秀次を恐れ、彼を『殺生関白』なるニックネームで呼ぶようになるのです。

そんな秀次の乱行は、やがて秀吉の耳に入る事になります。

文禄四年(1595年)7月3日、秀吉の命で使者として聚楽第にやって来た石田三成が、秀次に詰問・・・

5日後の7月8日には、官位を剥奪され、即、高野山へ追放。

そして、さらに一週間後の文禄四年(1595年)7月15日「謀反」の罪により切腹・・・という事になるのです。

・・・って、えぇ?謀反?、罪は「ご乱行」じゃなかったの~?

そうです。
上記の文章の「通説によれば・・・」という部分から続くご乱行の数々・・・そのご乱行が秀吉の耳に届いて・・・という事のはずなのに、いつしか罪が「謀反」に変わっちゃってます。

この謀反の内容については、蒲生秀行への改易命令を、秀吉に無断で秀次が握りつぶした」とか、「諸大名に対して、秀吉ではなく自分に忠誠を尽くすよう連判状を回した」とか、囁かれていますが、いずれも証拠らしい証拠は残っていません。

さらに、秀次が親しくしていた公家・山科言経(ときつね)の日記には『彼が謀反を企てるなどありえない』と書かれています。

友人・言経によれば、「彼は、能や茶道にも通じ、古典文学にも親しみ、連歌を好む風流も持ち合わせ、何より血を見る事がキライで、争いごとを好まない人物だった」と言うのです。

そう、友人に言わせれば、最初のご乱行もありえない事なのです。

「罪の無い領民を的にして・・・殺生関白と呼ばれ・・・」とありますが、この領民というのは、当然、秀次が治めていた城下町・近江八幡の人々という事になるはずです。

しかし、道路や下水を整備し、琵琶湖からつながる水路=八幡堀(はちまんぼり)を切り開き、楽市楽座を設けて経済を発展させた秀次は、近江八幡の人々にとって、秀次は現在でもなお、名君なのです。

近江八幡の領民の中で、彼の名君ぶりを後世に語り伝えた人はいても、彼のご乱行を後世に語り伝えた人など、誰一人としていないのです。

ただ、秀吉の後継者(秀頼)が生まれた事によって、秀次が変わった・・・という記述は残っています。

それは、秀次の持病であった喘息の治療をしていた医師・曲直瀬玄朔(まなせげんさく)という人の書いた『医学天正記』という本に書かれています。

それによると、「喘息の発作がひどくなり、咳が止まらず、うつぶせに寝る事すらできなかった」というのです。

これは、かなり信頼できる書物と言えるでしょうから、秀次が、やはり秀頼の誕生で恐怖心を抱いていたのは確かでしょう。

しかし、それは、「自分の地位が脅かされる」恐怖心ではなく、「自分の命が危ないかも知れない」という恐怖心ではなかったでしょうか?

秀吉は、先の朝鮮出兵(文禄の役)の際に、「大陸を征服したあかつきには、時の天皇・後陽成(ごようぜい)天皇(中国)の帝王になってもらい、秀次をの関白にしてやる」と言っていたと言います。

しかし、そんな朝鮮出兵を、秀次は最後まで反対をしていました。

彼が若い頃、てがらを焦ったのは、あくまで自分の実力を認めてもらいたい一心であって、「秀吉の後継者」という地位が欲しかったわけではないと思うのです。

百歩譲って、そこから恐怖心をつのらせたとしても、「持病の発作がひどくなる=その影響が内に出る」タイプであって、恐怖心を外へ向けてご乱行あそばすタイプの人ではなかったはずです。

彼は、まさに時代の犠牲者となってしまったのでしょう。

秀頼の誕生で、誰よりも恐怖心を抱いたのは秀次ではなく、他ならぬ秀吉です。

彼が整備した近江八幡という城下町の発展ぶり、領民たちからの評判高さ、公家からも一流の文化人として扱われる秀次が、将来、わが子・秀頼の最大のライバルになるであろう事を恐れた秀吉が、誰よりも恐怖におののいたのです。

その結果が・・・
「殺生関白・豊臣秀次、謀反の罪で切腹」
という結果を生み出したのでしょう。

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秀次が構築した八幡堀(滋賀県近江八幡市)

秀次さんにも、こんな場所で、ゆったりと舟遊びなんぞしながら、老後を過ごしていただきたかったですね~。

秀次の墓所~瑞泉寺>>
秀次事件に連座した熊谷直之の逸話>>
も合わせてどうぞm(_ _)m

★追記
不肖茶々…2015年4月に近江八幡へ行って参りました~
その時のお話は【豊臣秀次と近江八幡~八幡堀巡り】でどうぞ>>  

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続きを読む "殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい!"

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2007年7月14日 (土)

織田信長の年表

このページは、織田信長の生涯の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。

年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログにupし次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Kamonodacc



 

・・・・・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1534 5 12 信長誕生
【織田信長さんのお誕生日なので】
1542 9 19 第1次小豆坂の戦い
【義元を支えた名参謀・朝比奈泰能】
1544 9 23 井ノ口の戦い
【織田・朝倉連合軍VS斉藤道三】
1547 8 2 父・信秀が今川の人質の家康を奪う
【少年・徳川家康の命の値段】
9 22 加納口の戦い
【信長&濃姫の結婚へと向かわせた戦い】
1549 1 17 犬山衆の織田信清が謀反
【犬山衆・謀反~織田信秀と信長と信清と】
2 24 斉藤道三の娘・濃姫と結婚
【こつ然と姿を消す信長の正室・濃姫は?】
11 6 兄・信広が人質となる安祥城の戦い
【信長&家康に今川と絡む運命の糸】
1551 3 3 父=織田信秀が死去
【信長の父ちゃん~織田信秀】
1552 4 17 三の山・赤塚の合戦
【当主・織田信長の最初の戦い~赤塚】
1553 1 13 傅役・平手政秀が自刃
【織田信長の傅役・平手政秀の死】
4 20 舅・斉藤道三と会見
【斉藤道三×織田信長…正徳寺の会見】
1554 1 24 村木城(砦)の戦い
【若き信長の村木城(砦)の戦い】
1555 4 20 清州城を乗っ取る
【織田信長、清州城を乗っ取る!】
6 26 弟・秀孝が射殺される
【秀孝射殺事件~その処置に問題あり?】
11 26 叔父・織田信光が殺害される
【信長が指示?謎が謎呼ぶ織田信光・殺害】
1556 4 19 義父・斉藤道三が遺言状を書く
【道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状】
4 20 義父・斉藤道三が死亡
【長良川の戦い~斎藤道三の最期】
【美濃のマムシは二人いた】
8 24 稲生の戦いで勝利
【信長の大声で勝利?稲生の戦い】
1557 10 27 正親町天皇が即位
【天皇の権威復活~正親町天皇と信長】
11 2 弟・信行を暗殺
【織田信長が信行を暗殺】
1560 5 1 今川義元が出陣命令を発する
【今川義元・出陣の理由は?】
5 19 桶狭間の戦い
【一か八かの桶狭間の戦い】
【二つの桶狭間古戦場】
【名を挙げた毛利良勝と服部一忠】
11 24 沢城の戦い
【キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防】
1561 5 14 美濃侵攻~森部(森辺)の戦い
【VS斉藤~森部の戦い…利家の復帰】
5 23 美濃十四条の戦い
【VS斉藤龍興…美濃十四条の戦い】
1562 11 1 織田信賢を追放して尾張統一
【信長の前に散る尾張守護代・織田信賢】
【ミジメな上洛を力に変えて~尾張統一】
1564 2 6 竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取る
【竹中半兵衛稲葉山城乗っ取り事件】
1565 8 28 美濃侵攻~堂洞合戦
【織田信長の美濃侵攻~堂洞合戦】
10 4 足利義昭が上杉謙信に上洛を要請
【「僕を京都に連れてって」義昭の上洛希望】
1566 9 13 生駒吉乃が死去
【信長、最愛の女性~生駒吉乃】
9 15 墨俣の一夜城完成?
【墨俣の一夜城凸建設中!】
1567 5 27 長女・徳姫が家康の長男・信康と結婚
【信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫】
8 1 美濃三人衆が信長に内応
【美濃三人衆内応~信長・稲葉山城へ】
8 15 稲葉山城・陥落
【信長・天下への第一歩~稲葉山城・陥落】
1568 9 13 観音寺城の戦い
【信長の上洛を阻む六角承禎】
9 7 上洛のため美濃を発つ
【足利義昭を奉じて~信長の上洛】
9 28 三好三人衆を攻撃
【信長の登場で崩壊する三好三人衆】
10 18 室町幕府15代将軍に足利義昭を擁立
【第15代室町幕府将軍・足利義昭 就任】
【足利義昭擁立で初登場!謎の明智光秀】
1569 1 9 軍資金を拒んだ堺の町を攻撃
【本能寺の変と堺の関係】
2 2 義昭御所の築造開始
【本圀寺の変からの二条御所の築造】
3 2 副将軍への誘いを拒否する
【信長が副将軍を断り「銭ゲバ」と化す?】
4 8 京都での宣教師の居住と布教を許可
【信長とキリスト教~神になろうとしたか?】
1570 1 23 足利義昭に「五ヶ条の掟書」を示す
【信長、義昭に掟書を示す】
4 26 朝倉の手筒山・金ヶ崎城を攻撃
【手筒山・金ヶ崎城の攻防戦】
4 27 金ヶ崎から撤退を開始
【危機一髪~金ヶ崎の退き口】
5 19 甲津畑にて杉谷善住坊に狙撃される
【逃げる織田信長を狙撃した杉谷善住坊】
6 4 野洲川の戦い
【背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い】
6 19 浅井討伐に信長が岐阜城を出陣
【いよいよ姉川…小谷に迫る信長と家康】
6 28 姉川の合戦
【信長の判断ミス?姉川の合戦】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
【遠藤喜右衛門・命がけの奇策in姉川】
8 26 野田福島の戦い 勃発
【信長VS三好の野田福島の戦い】
9 12 野田福島戦に石山本願寺が参戦
【信長VS顕如の野田福島の戦い】
9 20 宇佐山城の戦い
【信長を支えた森可成・討死】
10 22 武藤友益らが織田信長に反旗を翻す
【信長&秀吉の前に散る若狭武田氏】
11 21 弟=織田信与が自刃
【長島一向一揆の小木江城攻め】
11 26 堅田の戦い
【信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い】
1571 3 4 東福寺で茶会を開催
【戦国武将と茶の湯の流行】
5 6 箕浦の戦い
【信長&秀吉VS浅井~箕浦の戦い】
5 16 対・長島一向一揆戦の勃発
【対・長島一向一揆戦】
9 3 近江一向一揆~金ヶ森の戦い
【信長と近江一向一揆~金ヶ森の戦い】
9 12 比叡山焼き討ち
【信長の比叡山焼き討ち】
【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】
【殺戮か?完全主義か?戦国との相違】
1572 3 2 遠山景任の岩村城を武田方に奪われる
【岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断】
7 22 小谷侵攻~山本山城の戦い
【山本山城の戦いと虎御前山城構築】
10 3 武田信玄が甲斐を出陣
【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
12 22 三方ヶ原の戦いに援軍を送る
【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】
12 23 信玄が平手汎秀の首を信長に送る
【三方ヶ原・その後~犀ヶ崖の戦い平手の死】
1573 2 20 足利義昭の謀反に対し織田軍が出陣
【信長の意見書に将軍・義昭が反旗】
4 4 上京焼き討ち
【信長の「上京焼き討ち」の謎】
7 3 琵琶湖を渡る大船が完成
【琵琶湖の水運と織田信長の大船建造】
7 18 足利義昭の籠る槇島城を攻撃
【槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重】
【ネバる!足利義昭・ボロは着てても・・】
8 6 ~20日越前征伐
【朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の・・・】
8 14 刀禰(根)坂の戦い
【生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興】
8 28 北近江・浅井長政を倒す
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】
【落城の生き残り~海北友松の熱い思い】
8 29 浅井長政が片桐直貞宛てに感状を書く
【浅井長政・最後の手紙】
10 17 浅井長政の嫡男・万福丸が処刑される
【万福丸の処刑~浅井長政と息子たち】
10 25 第二次長島一向一揆戦
【信長ピンチ~第二次長島一向一揆戦】
11 16 三好義継が切腹~若江城の戦い
【信長の前に散る…三好義継が切腹す】
12 26 謀反した松永久秀の多聞城を攻略
【久秀の2度目の降伏~多聞山城の戦い】
【信長をも魅了した松永久秀の築城センス】
1574 1 12 瀬戸に焼物の特権を与える
【信長が保護した瀬戸物の長き道のり】
1 20 富田長繁の桂田長俊攻め
【信長VS越前一向一揆~桂田攻め】
2 5 武田勝頼に明智城を奪われる
【信玄の死後に勝頼が動く~明智城陥落】
3 28 東大寺・正倉院の蘭奢待を削り取る
【信長の蘭奢待・削り取り事件の真意は?】
5 12 第二次高天神城の戦い
【武田勝頼が高天神城を奪取】
9 29 対・長島一向一揆戦の終結
【長島一向一揆の終結】
1575 2 18 越前一向一揆戦で富田長繁が討死
【先走り過ぎた若き猛者・富田長繁の最期】
3 16 今川氏真と対面
【敵も時代も恨まず…今川氏真の後半生】
4 21 高屋・新堀城の戦いが終結
【石山合戦~高屋・新堀城の戦い】
武田勝頼軍が長篠城を囲む
【いよいよ始まる長篠城・攻防戦】
5 16 救援要請をした鳥居強右衛門が磔になる
【史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商】
5 18 織田・徳川連合軍が設楽原に到着
【設楽原で準備万端…どうする?勝頼】
5 20 武田勝頼は進発し酒井忠次が奇襲作戦に
【勝敗を決定づけた?鳶ヶ巣山砦・奇襲】
5 21 長篠の合戦
【決戦!長篠の戦い】
【長篠の合戦!武田氏の真の敵は?】
【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】
6 7 信長傘下を表明した備前常山城が落城
【女戦士・鶴姫の勇姿~常山女軍の戦い】
8 12 越前一向一揆戦
【織田信長VS越前一向一揆】
11 28 織田信長が息子・信忠に家督を譲る
【信長も認めた~暗愚ではない織田信忠】
1576 1 15 波多野秀治が寝返る
【八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけ?】
2 23 安土城の築城に着手
【1人=100文で見学OK!信長の安土城】
3 17 上杉謙信が富山に侵攻開始
【信長の動きを受け~謙信が富山侵攻】
5 3 天王寺合戦
【織田信長VS石山本願寺~激戦!天王寺】
5 18 本願寺顕如と上杉謙信が和睦
【北陸争奪戦~謙信と信長と顕如と…】
5 24 前田利家が越前一向一揆平定
【越前一向一揆虐殺「呪いの瓦」】
7 13 第一次木津川口海戦
【信長を悩ませた村上水軍】
8 4 上杉謙信が飛騨へ侵攻
【織田の物には…~謙信の飛騨侵攻】
11 25 三瀬の変で北畠氏を倒す
【織田信長の三瀬の変…北畠の最後】
1577 2 22 雑賀攻め開始
【雑賀攻め~孝子峠の戦いと中野落城】
3 15 雑賀攻め~終結
【鉄砲を駆使した雑賀の風雲児・鈴木孫一】
9 13 上杉謙信が七尾城を攻略
【七尾城・攻防~上杉謙信の「九月十三夜」】
9

18

手取川の戦い(23日とも)
【謙信VS信長~1度きりの手取川の戦い】
10

3

嫡男・信忠が信貴山城に着陣
【松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い】
10 10 信貴山城の松永久秀が自爆
【乱世の梟雄・松永久秀~運命の日爆死!】
10 23 羽柴秀吉の但馬攻略
【但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い】
10 29 明智光秀が籾井城を落とす
【明智光秀の丹波攻略戦~籾井城の戦い】
11 29 羽柴秀吉が播磨上月城を攻撃
【信長の山陽戦線~秀吉の上月城攻め】
12 1 秀吉の中国攻め~福原城の戦い
【黒田&竹中が迫る福原城の戦い】
1578 1 29 家臣の妻子を安土に移すよう命じる
【織田信長の夢半ば~安土城下の事…】
2 29 相撲大会を開催
【織田信長と相撲大会】
3 13 上杉謙信・没
【謙信・暗殺説~容疑者・信長&直江兼続】
3 29 別所長治の三木城を包囲
【秀吉包囲網・三木城籠城戦】
【三木の干殺し~別所長治の籠城戦】
4 3 秀吉が三木城の支城・野口城を攻撃
【野口城の戦い・青麦合戦】
5 4 秀吉が上月城の支援に向かう
【信長に見捨てられた上月城…奮戦空し】
5 14 上月城に大砲が撃ち込まれる
【毛利VS尼子…上月城の大砲争奪戦】
6 27 秀吉が播磨神吉城を攻撃
【秀吉の中国攻め~神吉城攻防戦】
7 3 上月城攻防戦
【山中鹿之介奮戦!上月城の攻防】
7 8 本願寺が雑賀衆に信長迎撃を要請
【雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは・・】
9 24 月岡野の戦い
【織田VS上杉の越中争奪戦~月岡野】
9 30 鉄甲船の観艦式を開催
【信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場】
10 21 荒木村重が謀反
【荒木村重・謀反の真意は?】
10 22 長連龍が越中へ逃走
【ヤルからには徹底的…長連龍の復讐劇】
11 4 毛利と本願寺に信長との講和の勅命
【天皇への信長の態度は強圧的ではない?】
11 6 第二次木津川口海戦
【信長VS石山本願寺~第2次木津川口海戦】
12 8 有岡城の戦いで万見重元が討死
【たった一度の合戦~信長の側近・仙千代】
1579 5 19 丹羽長秀が玉巻城を攻撃
【織田軍による福知山攻略戦】
5 27 安土宗論
【法華宗VS浄土宗の安土宗論】
6 13 竹中半兵衛が陣中で病死
【流星のごとく駆け抜けた天才軍師】
7 16 徳川家康に妻子殺害の命令を下す
【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!】
【なぜ信康は殺さねばならなかったのか】
8 9 明智光秀が黒井城を攻略
【「丹波の赤鬼」赤井直正と明智光秀の…】
10 4 月岡野の戦いで上杉勢に勝利
【越中争奪戦~月岡野の戦い】
10 16 有岡城・開城
【有岡城・落城~如水と半兵衛と息子たち】
10 24 明智光秀が丹波平定を報告
【明智光秀と丹波・福知山の明智藪】
10 30 宇喜多直家が降伏する
【謀略の達人・宇喜多直家~本当はイイ人?】
12 16 荒木村重の妻子を処刑
【有岡城の戦い~荒木村重・妻子の処刑】
1580 1 17 別所長治・自刃、三木城開城
【秀吉包囲網・三木城籠城戦】
3 2 ~7/2=花隈城の戦い
【荒木村重VS池田恒興~花隈城の戦い】
3 9 柴田勝家らが金沢御坊を攻撃
【金沢御坊・落城~加賀一向一揆の終焉】
4 1 秀吉が播磨英賀城を攻撃
【秀吉の中国攻め~播磨英賀城の戦い】
4 24 秀吉が播磨宍粟郡に侵攻
【秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期】
6 15 祝山合戦
【宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦】
8 2 対石山本願寺戦・終結
【石山合戦・終結~石山本願寺炎上】
8 19 信長の命で筒井順慶が筒井城を破却
【信長・秀吉・家康だけが成しえた城割とは】
11 17 柴田勝家が鳥越城を落す
【加賀一向一揆・完全終結と政教分離の話】
1581 2 23 黒人・弥介と対面
【織田信長と黒人さん】
2 28 御所東門外にて馬揃えを行う
【織田信長主催の一大イベント=御馬揃え】
7 12 鳥取城攻防戦・開始
【鳥取城攻防戦~秀吉の兵糧攻め】
7 24 佐久間信盛・没
【ともに30年~佐久間信盛の悲惨な末路】
9 3 ~9/11第二次天正伊賀の乱
【信長の伊賀攻め~第二次天正伊賀の乱】
9 8 瑞泉寺・井波の合戦
【佐々成政の越中一向一揆攻め】
10 2 高野攻めの先陣が根来に着陣
【織田信長の高野山攻め】
10 25 開城した鳥取城の城将・吉川経家が自刃
【鳥取の干殺し~吉川経家の決断】
1582 2 天正遣欧少年使節の派遣
【天正遣欧少年使節の帰国】
2 9 甲州征伐、開始
【織田軍怒涛の進撃~甲州征伐開始】
2 20 依田信蕃が田中城を開城
【家康が見込んだ殺すに惜しい男・信蕃】
3 1 武田方の穴山梅雪が織田&徳川に降る
【裏切った穴山梅雪…運命の分かれ道】
【穴山梅雪を寝返らせた大久保忠世】
3 2 高遠城が陥落し仁科信盛が自刃
【勝頼の唯一の味方・高遠城の仁科盛信】
3 11 勝頼が自刃し武田氏が滅亡
【武田勝頼、天目山に散る】
勝頼夫人・自害
【内に秘めた烈女魂~北条夫人桂林院】
3 24 諸隊を労い兵糧を支給
【武田滅亡後…論功行賞と訓令発布】
3 魚津城を包囲する
【富山・魚津城の攻防戦】
4 3 武田の残党を助けた恵林寺を攻撃
【織田信忠の恵林寺焼き討ち炎上事件】
4 4 公家への書状を書き帰還の途につく
【書状と安土帰陣と息子・勝長の事】
4 27 秀吉が備中高松城攻め開始
【備中高松城・水攻め】
5 7 備中・高松城への水攻め開始
【備中高松城・水攻めと吉川元長】
5 28 明智光秀が愛宕山で連歌会を催す
【連歌会の句は本能寺の意思表明か?】
5 29 安土城を出て本能寺へ入る
【本能寺の変と堺の関係】
徳川家康が堺を見物
【本能寺の変~家康・黒幕説について・・・】
6 1 本能寺にて茶会を催す
【天正十年6月1日~本能寺・前夜】
6 2 本能寺の変で自刃
【本能寺の変~『信長公記』より】
【今日はやっぱり本能寺の変】
【その時、安土城では…】
【数時間のタイム・ラグを埋める物は?】
【本能寺の変・秀吉黒幕説】
【逃亡で「人でなし」~織田長益の歩く道】
【信長の首は静岡に?】
【光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…】
【家康、暗殺計画説】
~7日・家康の伊賀越え
【徳川家康・決死の伊賀越え】
6 3 魚津城・落城
【富山・魚津城の攻防戦】
6 4 秀吉が備中・高松城を落す
【備中高松城・落城~清水宗治・自刃】
6 6 秀吉が高松城を出発
【秀吉の大バクチ・中国大返し】
6 8 本田・北方合戦
【稲葉一S安藤の本田・北方合戦】
6 9 光秀が幽斎に同調を求める書状を送る
【明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道】
6 11 秀吉軍・摂津富田へ移動
【洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀】
【光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…】
6 13 山崎の合戦
【天下分け目の天王山!山崎の合戦】
6 15 安土城が炎上する
【安土城・炎上】
【明智秀満の湖水渡り】
6 18 神流川の戦い
【本能寺の余波!神流川の戦い】
河尻秀隆が死亡
【本能寺の余波に散る重臣・河尻秀隆】
6 26 森長可が大森城包囲
【森長可の東濃制圧前半戦…】
6 27 清洲会議
【清洲会議~信長の後継者】
7 3 森長可が加治田城を攻撃
【森長可の東濃制圧後半戦…】
10 15 秀吉が信長の葬儀を行う
【後継者へ~秀吉演出の信長の葬儀】
番外編 アンケート結果
【あなたが信長なら誰にバトンを渡す?】
【安土城・炎上】
【明智秀満の湖水渡り】
【本能寺の余波に散る重臣・河尻秀隆】
【清洲会議~信長の後継者】
【伝説に彩られた常盤御前…と信長?】
【リアル「信長のシェフ」~料理人・坪内某の話】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
【大手橋と近世城下町の町割】
【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【忍者の教科書『万川集海』】
【古文書の虚偽と真実】
【僧侶の武装と堕落】
【政略結婚と女性の役割】
【戦国女戦士の必須アイテム「薙刀」】
【戦国から江戸の城の変貌】
【娼妓解放令と三英傑の人身売買禁止】
【「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事】
【北野大茶会~秀吉と「茶の湯御政道」】

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源義経の年表

 

このページは、源義経の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログにupし次第、順次加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Kamonyositunecc

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1159 12 9 平治の乱・勃発
【乱を引っ掻き回した藤原信頼】
12 26 平治の乱・終結
【平治の乱・終結】
1160 1 4 父・義朝の最期
【サウナで謀殺!無念・源義朝の最期】
1 17 母・常盤御前とともに都落ち
【伝説に彩られた都一の美女・常盤御前】
1 24 長兄・義平が斬首される
【世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平】
2 9 兄・頼朝が平家方に捕まる
【少年・源頼朝を逮捕!死罪から流罪へ】
1167 2 11 平清盛・太政大臣に就任
【清盛の異常な出世~天皇ご落胤説】
1176 6 17 五条大橋の名場面です
【義経・弁慶、運命の出会い】
1180 10 21 兄・頼朝と対面する
【頼朝・義経黄瀬川の対面】
1181 2 4 平清盛・没
【諸行無常・平清盛の死】
1184 1 16 京に入った義仲を追討する
【義仲追討に義経が動く】
【宇治川の先陣争い】
1 21 木曽義仲を討つ
【木曽の最期】
2 7 一の谷の合戦
【生田の森の激戦】
【鵯越の逆落し】
【忠度の最期】
【青葉の笛~】
9 14 郷御前と結婚
【夫・源義経との最期を選んだ郷御前】
1185 2 16 屋島へ向けて摂津を出航
【めざせ!屋島~嵐の船出】
2 19 屋島の合戦
【佐藤嗣信の最期】
【扇の的の後に・・・】
【弓流し】
3 24 壇ノ浦の合戦・平家滅亡
【潮の流れと戦況の流れ】
【壇ノ浦・先帝の身投げ】
【平知盛の最期】
5 24 腰越状を大江広元に託す
【義経の腰越状】
10 11 堀川の屋敷を襲われる
【義経危機一髪!堀川夜討ち】
11 3 義経一行、都を出る
【義経都落ち】
11 17 静御前が吉野で捕えられる
【静御前・吉野にて捕まる】
12 20 吉野山での逃亡劇
【佐藤忠信・吉野山奮戦記】
1186 3 1 静御前・鎌倉に送られる
【静御前の白拍子なる職業】
4 8 静御前、鶴岡八幡宮で舞う
【鶴岡八幡宮・静の舞】
5 12 源行家が斬首される
【寄らば大樹の陰も最後に~行家・斬首】
7 29 静御前が男の子を出産
【静御前・男児出産】
9 21 佐藤忠信・死亡
【みちのくの勇者・佐藤忠信の最期】
1187 2 10 奥州の藤原秀衡のもとに到着
【義経を受け入れた奥州・藤原秀衡の思惑】
1189 4 29 武蔵坊弁慶・討死
【武蔵坊弁慶=架空人物説について・・・】
4 30 妻子とともに衣川にて自刃
【衣川の合戦~義経・主従の最期】
【夫・源義経との最期を選んだ郷御前】
番外編 【義経=ジンギスカン伝説】
【義経と牛若は同一人物か?】

 

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2007年7月13日 (金)

新井城の攻防!北条早雲・相模を制覇

 

永正十三年(1516年)7月13日、戦国の風雲児・北条早雲が相模の平定を完成させた新井城攻防戦がありました。

・・・・・・・・・・

生まれも育ちもはっきりしない北条早雲・・・。

本名は伊勢新九郎長氏で、出家して早雲に・・・そして、息子・氏綱の代から北条と名乗りはじめるので、厳密に言えば北条早雲という人物はいないのですが、通常この名前で通っていますので、このブログでも北条早雲で通させていただきます。

そんな氏素性のはっきりしない早雲が、妹のコネを使って今川氏に入り込んだのが50歳・・・この時から彼は、歴史の表舞台に登場します。

やがて、早雲64歳の明応四年(1495年)、相模・小田原城(神奈川県小田原市)を攻略して、後に北条氏の拠点となる城を手に入れました(2月16日参照>>)

それから二十年間・・・コツコツとやって、相模(神奈川県)一帯をほぼ手に入れますが、新井城(神奈川県三浦市)を拠点とする三浦氏にだけは、まだ、手を出せていませんでした。

当時の三浦氏の当主は三浦義同(よしあつ)・・・

しかし、80歳を越えた早雲・・・そろそろ人生の総仕上げとばかりに、三浦氏に狙いを定めます。

永正九年(1512年)頃から、三浦氏が保持していた相模・岡崎城(神奈川県平塚市)への攻撃を繰り返し、たまらず義同は、嫡男・義意(よしおき)とともに、相模・住吉城(神奈川県逗子市)へ脱出(8月12日参照>>)・・・さらに、拠点の新井城へ移動し、籠城作戦に出ます。

しかし、さすがは早雲。

もともと若い頃から、石橋を叩いても渡らないような周到な性格の上に、これだけの年を重ねれば、「血気にはやる」などという事はなく、相手が籠城を決めたのなら、こっちはじっくりと絶好のチャンスを待つ作戦に出ます。

やがて、永正十三年(1516年)(長・・・!よく、4年も待ったなぁ)7月、関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉朝興(ともおき)が、新井城を救援すべく動き始め、これをチャンスと見て取った早雲も、やっと動き始めます。

とは言え・・・いざ、動き始めたら、これ、また、素早い!

早速、朝興の身を確保!

とりあえずは、新井城に若干の援軍が到着しましたが、肝心の「ヌシ」が捕虜の状態となってしまっては、その先の計画はすべて白紙状態です。

しかも、その間に新井城の兵糧は尽きてしまいました。

勢い覚めやらぬ早雲の軍勢は、新井城の兵糧の「ある・なし」を知ってか知らずか、そのままの勢いで、永正十三年(1516年)7月13日(もしくは7月11日)新井城へ突入します。

この時の北条軍の総攻撃は、凄まじいもので、多くの三浦の将兵の血で、あたりの海は真っ赤に染まり、それ以来この場所を「油壺」と呼ぶようになったと言われています。

城内に篭もっていた義同・義意父子も、この状況を目の当たりにして、「もはや、これまで・・・」と、覚悟の自刃で果てました。

ここに、早雲念願の、相模制覇を成し遂げたのでした。

鎌倉時代に執権となった北条氏と区別するため、後北条氏と呼ばれる早雲の北条氏は、この後、豊臣秀吉に小田原城を落とされる(7月5日参照>>)までの約70余年・五代に渡って君臨し、戦国の歴史にその名を残す事になります。

早雲自身は、2年後、息子に家督を譲り、その翌年、88歳で、当時の平均年齢を考えると、大往生と言える死を遂げました(8月15日参照>>)

Houzyousouunhata3dcc 今日のイラストは、
んん~、やっぱり、80歳を過ぎた現役バリバリのジィチャン武将というのが、なかなかイメージできない~・・・て、言うか、カッコ良いお年寄りを絵にするのが難し~い。

さしずめ、今、再びインディージョーンズを撮ってるハリソン君みたいな感じかな?
それでも、まだ若いがな!

・・・て、事で『後北条家の旗』をデザインしてみました~
 .

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2007年7月12日 (木)

鳥取城攻防戦~秀吉の兵糧攻め

 

天正九年(1581年)7月12日、毛利方が篭もる鳥取城を、羽柴秀吉率いる織田軍・中国地方担当が包囲しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長の命によって、中国地方を攻略していた羽柴(豊臣)秀吉

天正六年(1578年)3月から、二年近くの歳月をかけて、やっと落とした別所長治の居城・三木城(兵庫県)(3月29日参照>>)

その三木城を攻略しつつ、秀吉は但馬(兵庫県・北部)や因幡(鳥取県・東部)の平定を続けていました。

三木城の攻略にメドがついた頃、秀吉は、当時の鳥取城主だった山名豊国に、「因幡一国の領地を保証するから織田方に加わらないか?」という誘いをかけていたのです。

山名豊国は、あの応仁の乱で西軍の将だった山名宗全(3月18日参照>>)の子孫・・・かつては、山陰十数国をその手に治め、日本を東西真っ二つに分けた大乱を指揮した名門も、今はその面影はありません。

自らの力を見て取った豊国は、あっさりと織田方に組みする事を承諾しようとしますが、山名の重臣たちは、そんな豊国の意見に猛反対!

城の明渡しを阻止すべく、毛利方の吉川元春(毛利元就の次男)に救援を求めます。

毛利にとっても、落ちぶれたとは言え、かつて権勢を振るった名門・山名氏が織田方に下ったとなれば、中国地方の情勢にどのような影響があるかわかりませんから、見過ごすわけにはいきません。

早速、天正九年(1581年)の3月、元春は毛利方の吉川経家鳥取城に差し向け、新たな城主となった経家は、支城・丸山城を構築し、防衛を強化・・・徹底抗戦の構えを見せます。

鳥取城が毛利方に属したと知った秀吉は、自分の配下と知られないように家臣を商人に化けさせたり、あるいは商人自身を丸め込んで「京が米不足なので高値でも良いから譲ってくれ」と、鳥取城内の米を相場の数倍の値段で買い集めさせます。

もちろん、秀吉の作戦だとは知らない城内の武士たちは、今、現在、防衛強化の軍資金が必要なのと、秋になったら年貢が入って来るだろうという安心感から、一部を除いてほとんどの備蓄していた米を売ってしまいました。

かくして、秋の収穫が始まる前に、秀吉は姫路城を出撃・・・天正九年(1581年)7月12日に、鳥取・丸山の二城を包囲を完了するのです。

城を囲む秀吉の軍勢は3万
この囲みは、他に類を見ない厳重な物でした。

それは、城と毛利との連絡を遮断するため・・・特に兵糧なんぞ運び込まれては、せっかくの事前の米買占めが意味をなさなくなってしまいますからね。

一方の鳥取城を守るのは、山名の旧臣と経家の軍勢・2千程度。

しかも、そのうちの5分の1程を、雁金山の砦の防衛に派遣していましたが、秀吉が鳥取城を包囲した時点では、すでにその砦は落ちてしまっていました。

もちろん、鳥取城内はすぐに兵糧不足となりますが、毛利方も鳥取城の兵糧不足は、聞かなくても予想できますから、自慢の水軍を要して、海上からの兵糧運び込み作戦を決行・・・文字通りの助け舟を出します。

しかし、秀吉にとってはそれも計算済み。
海上には、秀吉配下の水軍を配備し、毛利の水軍を撃破してしまいます。

それでも経家は「何とか冬を越せば、毛利の援軍が来てどうにかなる」と思っていたのですが、日に日に兵糧の欠乏は目を覆う状態となっていきます。

経家の父・経安の日記には、
『或るは牛馬を食とし、或るは人を服す』
とあります。

しかし、そんな中でも秀吉側は、弟・羽柴秀長但馬を攻略させるという余裕。

やがて、10月下旬になって、いよいよ、これ以上の籠城は不可能と判断した経家は、10月24日、秀吉に城の開城を申し出ます。

開城が決定した時、秀吉は、経家を毛利との交渉カードとして使うつもりでしたが、経家本人が自刃を強く希望したため、翌10月25日に切腹・・・4ヶ月近くに及んだ鳥取城攻防戦は、終結を迎えました。

助け出された末端の兵士たちは衰弱のため、自力で立ち上がれないほどだったと言います。

鳥取城を手に入れた事で、当然、毛利はその勢力圏を後退させられ、これからの合戦の舞台は、さらに西の備前(岡山県・東南部)や備中(岡山県・西部)へと移動する事になります。
 

Hideyosizinnbaoricc 今日のイラストは・・・・
と、そう言えば、このブログに度々登場する秀吉さんのイラストを、まだ書いたことがないですね~。

でも、秀吉さんと言えばどうしても天下を取ってからのオッサンのイメージしか湧かなくて・・・どうせ書くなら若くてカッコ良く書きたいし・・・

・・・て、事でイメージが湧くまでご本人のイラストはパス!

今日は、京都の高台寺にある『秀吉さんの陣羽織の模様』をデザインさせていただきました~
 .

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2007年7月11日 (水)

お中元の起源と歴史~なぜ中元に贈り物をするの?

 

ただ今お中元シーズン真っ只中ですね~。

「ボーナスも出たし、家族みんなでお買い物に出かけて、帰りにお中元を吟味しよう」ってな感じですかね。

ところで、お中元って何?
なんで、贈り物を贈るの?

・・・って、事で今日は、『お中元の起源と歴史』についての豆知識です。

・・・・・・・・・・・・

そもそも、お中元というのは、7月15日の事。

1月15日の上元10月15日の下元とともに「三元」と呼ばれる年中行事の一つなのです。

古代に中国から伝わった7月15日の中元の日は、贖罪(とくざい・しょくざい)・・・つまり、今まで犯した罪を償う日として、その日一日、庭で焚き火をする習慣がありました。

そして、7月15日は、もう一つ・・・孟蘭盆会(うらぼんえ・お盆)という行事があります(8月13日参照>>)

地方によっては、1ヶ月遅れの8月に行いますが、記録によれば推古天皇十四年(606年)、7月13日~16日にかけて、宮中で初めてお盆の行事が行われています。

つまり、昔々の時代には、お盆の行事とお中元の行事が、同じ日に平行して行われていたのです

やがて、室町時代になると、お盆の行事が死者を迎えて、その魂を供養するのに対し、お中元の行事は「生身玉」あるいは「御めでた事」と呼ばれ、「今生きている事を喜ぶ」「無事を祝う」という、生きている人のための行事に変わっていきます。

朝廷や武家の間では、親戚や知人の家に訪問し合って、交流を深め、お互いの無事を喜ぶ・・・といった事が盛んに行われるようになるのです。

やがて、江戸時代になると、その風習はもっと盛んになりますが、そうなると、交際範囲の広い人は、中元の日の一日だけでは対応しきれなくなってきます。

・・・かと言って、知らん顔するわけにはいきませんから、そういう人は中元の日の前後に、贈り物をしたり、手土産を持って挨拶に行くようになるのです。

江戸時代のお中元の人気商品はうどんそうめん・・・やはり、お盆の時にお渡しするのが理想とされていました。

明治維新後は、使者を使って贈り物を届けて礼をつくす・・・といった形になり、その期間も7月の上旬頃から・・・と、現在のような形になっていきます。

そして、いつしか、その贈り物の品物自体の事を中元と呼ぶようになり、本来の意味は歴史の彼方に消え去り、「親しい人、お世話になった人にお中元を贈る」という事になったわけです。

でも、親しい人や日頃お世話になってる人は別ですが、中には日頃、御無沙汰していて、お中元を送る事によって、お互いの無事を確認してる・・・なんて、仲の人もいるかも・・・

もし、そんな関係の人がいるなら、ある意味、それが本来のお中元の姿かも知れません。

さらに、その御無沙汰を反省し、ご挨拶する事によって、少しでも日頃の無礼をつぐなえるなら、なお本来のお中元罪を償う・・・という事になるでしょうね。
 

Yuureizucc
今日のイラストは、
お盆も近いという事で・・・

円山応挙のようにはいきませんが『幽霊図』・・・自分で書いてても、ちょっと怖い~

今では、季節が違うだけで、ほぼお中元と同じ形になってしまったお歳暮ですが、その由来はまったく違います・・・そのお話は12月20日のページで>>
 .

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2007年7月 9日 (月)

異常気象と富士山信仰

 

1615年7月9日=旧暦で慶長二十年6月1日、江戸一帯に雪が降るという異常現象がありました。

・・・・・・・・・・・

現在、気象庁に残る正式な観測記録での、最も遅い時期に降った雪は、昭和十六年(1941年)6月8日の北海道・根室での観測記録です。

太平洋戦争の勃発した年ですね・・・何やら因縁めいた物を感じてしまいますね~。

異常気象というと、本来は科学で割り切れる物。

きっと、どこかにその原因となる物があるはずなんですが、今現在でも、異常気象というと、つい悪い出来事と結びつけてしまいますね。

この科学が発達した現代でもそうなんですから、江戸の人々は、「驚いた」というより「恐怖」を感じた事でしょうね。

旧暦では、慶長二十年6月1日・・・

新暦になおすと、1615年の7月9日ですから、まさに今の・・・夏のこの時期に、江戸一帯に雪が降ったというのですから・・・・。

1ヶ月前の5月の始め(新暦では6月4日)、あの大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした(5月8日参照)ばかりの徳川幕府・・・夏の陣のページにも書いたように、この頃にはすでに、豊臣秀頼生存の噂もチラホラ出始めた頃。

さすがの徳川幕府のサムライも、大江戸の町民たちも、恐怖におののいた事でしょう。

それを裏付けるかのように、すぐさま本郷(東京都文京区)富士神社が建立され、毎年6月1日に例祭が行われるようになったのです。

雪が降ったから、富士神社・・・
天変地異と富士山信仰・・・

実は、「富士山の神様は女神なので、女性が富士山に登ると天変地異が起こる」という伝説があって、長い間、富士山は女人禁制だったわけで・・・

天変地異が起こる→富士山の神様怒ってる→鎮めるために富士山に参拝しなくちゃ→でも、江戸から遠くていけないわ→富士神社建立という事なのでしょうね。

その富士山の女神というのは、天孫降臨のニニギノミコト(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)と結婚するコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売・木花開耶媛)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ある日、サクヤヒメが日向の国の海岸を歩いていた時、ニニギノミコトがその美しさに一目ぼれ。

そして、いきなり「ボクは君を妻にして、一緒に寝たいんだけど、どう?」と、直球にも程がある誘い方で彼女に猛アタック!

「あの・・・お父さんに聞いてみないと・・・」とサクヤヒメ。
(そりゃぁ、そうやろ!いきなりOKするワケないがな!)

・・・で、早速、世の男性諸君が、皆、経験する緊張の一瞬。
「娘さんを、ボクにください」
と、父親のオオヤマツミノカミ(大山津見神・大山祇神)にご挨拶に行ったところ、メッチャ喜んだオオヤマツミさんは、「姉のイワナガヒメ(石長比売・磐長姫)も・・・」と、姉妹ふたりともをお嫁さんに出しちゃいます。
(バーターにされたイワナガヒメが気の毒だ)

しかし、このイワナガヒメがメチャメチャブサイクだったため、ミコトはサクヤヒメだけをそばに置いて、イワナガヒメを実家に送り返してしまいます。

実は、イワナガヒメにはその名が示す通り、岩のように頑丈に末永くという意味が込められていました。

しかし、そのイワナガヒメを返し、サクヤヒメだけを手元に置いたニニギノミコト。

イワハガヒメは「あなたの子孫は、きっと花が散るようにはかない命になる事でしょう」
と、捨てゼリフを残して去って行きます。

かたや、サクヤヒメは一夜にして妊娠し、即日出産のきざし・・・。
当然のごとく
「それ、オレの子とちゃうんちゃうん?」
と疑うミコトに、
「そんな疑うんやったら、、ウチが出産する時、産屋に火つけたらええがな!ホンマモンの神の子やったら、焼けんと無事に生まれて来るさかい。ウチの潔白、証明したるっちゅーねん!」
と、いきまくサクヤヒメ。

はたして姫は、ホデリノミコト(火照命)ホスセリのミコト(火須勢理命)ホヲリノミコト(火遠理命)の三人子供を、無事に出産します。

長男のホデリノミコトは海幸彦、末っ子のホヲリノミコトは山幸彦で、このお二人の昔話(2月8日参照>>)は有名ですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、記紀神話ではこんな風に登場するコノハナサクヤヒメ・・・

山の神であるオオヤマツミの娘である事。
美しい姿かたち。
出産の時に火を鎮めた。
・・・というところのイメージから、富士山の神様となったのです。

「富士山を崇拝する」という信仰は、あの修験道の始祖・役小角(えんのおづね)(5月24日参照>>)が始めたとされていますが、本格的になったのは中世の頃からで、室町時代の末期・戦国時代の頃から登山が盛んなり、東国一帯に、その信仰が広がっていきました。

まずは、麓と山頂にサクヤヒメを祀る神社が建てられ、浅間(あさま)大神として崇拝されるようになります。

「あさま」という言葉は信州の浅間山、伊勢の朝熊(あさま)に代表されるように火山と何かしらの関係のある言葉。

それが、後に仏教の浅間菩薩(せんげんぼさつ)と一緒になって、いつしか浅間(せんげん)神社と呼ばれるようになります。

しかし、盛んになった富士登山ですが、富士山は日本一高い山ですし、先ほども書いたように江戸からはけっこうな距離で、登山するには7日ほどかかり、しかも途中には、厳しい箱根の関所があります。

関所を越える通行手形も、申請すれば誰にでも出してくれるという物でもありませんから、一生に何度も行けるものでもありません。

それで、冒頭の雪の日以降も、ますます盛んになる富士山信仰で、「登りたいけど登れない」という人のために、江戸市中に浅間社を建てて、境内には富士山の溶岩でミニチュア富士山を造って、その小山に登れば参拝したと同じ事とされたのです。

江戸の各地に造られたミニ富士山では、旧暦の6月1日に白衣に身を包み、金剛杖をついて、「六根清浄」と唱えながら、小山に登って登拝したのです。

今では、地球は、最初の大きな氷河期の後、小さな氷河期と小さな温暖期を繰り返しているのだという仮説が囁かれていて、縄文時代の半ば頃から弥生時代頃までは寒冷期で、その後、卑弥呼邪馬台国の頃から大和朝廷の支配が進む西暦500年頃までは温暖期・・・

そこから、大宝律令が制定される西暦700年頃までは再び寒冷期で、次ぎの奈良時代・平安時代・鎌倉時代温暖期が続き、その後、室町時代の1400年前後から小氷期に入って、その寒い期間が昭和の初め頃まで続く・・・(7月3日参照>>)

つまり、この江戸の始めは小氷期の真っただ中だったとの考えもあるとか・・・
 

Konohanasakuyacc 今日のイラストは、
やはり『木花之佐久夜毘売』で・・・

やっぱ、一目見て「寝てみたい」と思うんだから、色っぽくないと・・・と思って色っぽく書いてみました~。
 .

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2007年7月 8日 (日)

「質屋の日」に質屋の歴史

 

7月8日は、「しち(7)(8)の語呂合わせで、『質屋の日』(全国質屋組合連合会が制定)という記念日なのだそうです。

・・・て事で、今日は『質屋の歴史』を書かせていただきます。

・‥…━━━☆

質屋が誕生する前に、そもそも、借金・・・そして、借金に利子がつく・・・という制度はいつの時代からあったのでしょうか?

実は、これが想像以上に古い・・・

日本では弥生時代・・・

外国では、四大文明が起こるもっと以前、人が農業という物を始めた初期の頃から、「春の種まきの時、知人に種子を貸してもらったら、収穫時には借りた分より多く返す」という習慣は存在していたそうで、貨幣が誕生する以前から「利子」という物が存在していた事がわかります。

やがて、古代・ギリシャや古代・ローマの時代になると、哲学者たちは、皆、思い悩みます。
「命のない金という物が子を生んで良いものか?」と・・・。

多くの宗教で「利子」「悪」とされました。
『旧約聖書』にも、「利を取りて金を貸すべからず」と記され、シェイクスピア『ベニスの商人』なんかを見ても、「貸し金業=悪」という考えが浸透しているのがわかります。

しかし、ほとんどの宗教で禁止されてはいても、金に困ると「なんとかせねば」と思うのは人の常・・・となると、人はいつの時代でも「抜け道」というのを考えるもので・・・

たとえば、お金のない人が、お金持ちに自分の持っている1万円くらいの品物を、10万円で買ってもらって、一定の期限内に、その品物を20万円で買い戻す・・・

たしかに、これなら「利子」ではありません。

こうして、戒律を守るための策として、質屋という物が誕生しました。

やがて、宗教改革があり、資本主義経済が発達するにつれて、「貸した物に利子がつくのは当然」という考え方に変化して行き、貸し金業も正統な商売とみなされるようになりますが、一旦生まれた質屋という商売も、平行して生き残って行くのです。

一方、日本では・・・
歴史上、宗教的な面で「利子」が戒律として、規制されたのかどうかは存じないのですが(ご存知のかたは教えてください)質屋の歴史は、かなり古いです。

奈良時代や平安時代には、すでに園地や宅地などを質入してお金を借りている記録があり、『大宝律令』では、その利息の最高額を規制しているくらいですので、けっこう盛んであり、かつ問題も生じていた事がわかります。、

ただ、当時は専門の質屋さんではなく、貴族や寺院などが、兼業で貸付をやっていたようで、先の外国の時と同様、「お金持ちのところに借りに行く」という感じの物だったようです。

やがて、鎌倉時代になって『無尽銭(むじんせん)と呼ばれる商売としての質屋が誕生します。

室町時代には『土倉』という名前に変わりますが、当時は酒屋が質屋も兼業する事が多く、そういう場合は『酒屋土倉』と呼ばれました。

『質屋』という名称になるのは、やっぱり江戸時代から・・・この頃には、時代劇でよく見るお馴染みの光景の質屋となります。

ところで、当時の質屋さんの目印でもある『将棋の駒』・・・
これは、「店の中に歩いて入ると向こうで金に成る」というところから使用されるようになりました。

江戸時代は、かなりユニークな品物の質入れも多くあったそうで、伊勢の旅館「井戸」を質入した話や、ある歌人「露」という字を質入したなんていう話が残っているそうです。

お金を返すまで、歌に「露」という字が使えない・・・というワケですね。
いったい金額はいくらだったんでしょう?気になります~。

やがて、明治時代には『一六銀行(1+6=7)というニックネームで親しまれ、けっこう繁盛しました。

現在では、お店の前には、ブランド品がズラリと並んで、昔の質屋さんのイメージとは違った店構えのお店もよく見かけますね。

「お金を借りる」というよりは、「地球にやさしい&もったいない」という最近の風潮からリサイクルショップとして利用されている方も多いんじゃないでしょうか?
 .

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2007年7月 7日 (土)

星月夜の織姫~七夕に寄せて~大阪・池田の民話

 

7月7日・・・やっぱり今日は『七夕』のお話ですかね~。

昨年の今日は、古代には七夕祭りと格闘技大会がセットになっていて、この夜に日本最古の格闘技が行われた事を書かせていただきました~(2006年7月7日参照>>)

今日は、昔はどんな風な七夕祭りだったのか?・・・そのルーツと、織姫にまつわる大阪の昔話をご紹介します。

・‥…━━━☆

もちろん、七夕の由来と言えば例の織女牽牛のお話・・・
「天帝の娘・織女が天の川のほとりで、毎日まじめに機織をする姿を見て、川の西に住むこれまたまじめな牽牛と結婚させた所、恋にうつつをぬかし、まったく機織をしなくなってしまったため、怒った天帝が織女を川の東に連れ戻し、年に一度の七夕の夜にだけ会う事を許した」
というのが一般的に知られるお話です。

この伝説が、古墳時代にやってきた大陸からの渡来人たちによって日本に伝えられ、『ナヌ(ノ)カノヨ』というお祭りになって宴を催すようになり、セットで格闘技も行われるようになったのが七夕の始まりです。

「七夕」と書いて「タナバタ」という名称になったのは平安時代の頃からで、あの笹飾りは江戸時代になって登場します。

門戸に立てた葉竹に、歌などを書いた短冊や、帳面や筆、算盤(そろばん)や硯などを飾り・・・って笹折れるがな!と、思ったら、算盤や硯は張り子の造り物を飾っていたそうです。

寺子屋などでも、弟子たちが、五色の色紙に詩歌などを書いて供えた・・・というように、本来「字がうまくなりますように・・・」というのが、七夕に願う願い事だったのです。

このように、七夕の行事として詩歌を献上する・・・という所から、7月の和風月名を『文月(ふみづき・ふづき)』と呼ぶようになったのだとか・・・。

・・・で、今日は、七夕の夜にふさわしいだろうと思い、大阪の池田市に伝わる民話・「星月夜の織姫」をご紹介させていただきます。

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今から500年ほど昔、摂津の国豊島郡(くにとしまごおり・現在の池田市・豊中市・箕面市あたり)の大広寺というお寺に牡丹花肖栢(ぼたんかしょうはく)という歌人がいました。

ある日、肖栢は友人宅での歌会の帰り道、いつもは通り過ぎる猪名野(池田市)五社神社でしたが、この日はふと境内にある古墳を覗いてみたくなり、立ち寄ってみる事にしました。

このあたりは「秦郷(はたごう)と呼ばれる梅の名所で、かつて(5世紀頃)は渡来人・秦氏の治める土地で、神社の境内には、日本のソレとは違う変わった形の古墳があって、「誰の古墳かは知らないが一度調べてみたいもんだ」と普段から思っていたのです。

神社の林を抜けて、古墳の入り口にやって来て、腰をかがめて古墳にもぐりこみます。

古墳の中は、真っ暗で何も見えず、ピタピタと水のしたたる音のみがして、何やら死の世界へ閉じ込められたような、ちょっと身震いするような・・・

やがて、水のしたたる音が、ハタハタ・チキチキパタンというリズミカルな音に変わっていったかと思うと、肖栢の顔の上を薄絹がフヮッとなで、何やらかぐわしい香りが漂い、気づくと目の前に、あざやかな薄物をまとった美女が二人立っているのです。

「何者じゃ?」
「私たちは、応仁天皇さまの昔、百済(朝鮮)の国から参りました呉織(くれはとり)綾織(あやはとり)と申す者でございます」

肖栢は、その名前に聞き覚えがありました。
今いるこのあたりの秦郷を治めていた秦氏の始祖とされる織姫の名前です。

肖栢は、日本人は渡来人たちに、機織をはじめ染色、鏡や石や太刀の細工、船の造り方などたくさんの技術を教わったにもかかわらず、最近は、渡来人を帰化人としてさげすむ者が数多くいる事に、常日頃から少し腹立たしい思いがしていたのです。

彼女たちは、そんな気持ちを持っている肖栢にある願い事があって現れたのでした。

「どうか、私たちの話を聞いてくださいませ・・・」

昔・・・彼女たちが、織姫として仕事をしていた頃。
ある夏の日、天子(天皇)さまに捧げる布を朝までに織り上げるよう命令が下ったのです。

彼女たちは一生懸命織り続けましたが、夜になってもまだ、仕上がりません。

あたりは真っ暗になって、とうとう糸を織る手元も見えなくなって折り続ける事ができなくなりましたが、明日の朝までに仕上げなければ、咎めを受ける事になるかも知れません。

「どうしようか?・・・」
と、悩んでいる時に、近くの五月山の上をつっつ・・・っと星が流れるのが見えました。

流れ星が消える前に願い事を唱えればきっと叶うという言い伝えを思い出し、思わず彼女たちは「お願いです、布を織り上げさせてください」と、手を合わせました。

すると、真っ暗だった空に、みるみるうちに星が満ちて、満天の星空となって、彼女たちの手元を星が明るく照らします。

星の助けによって彼女らは布を織り上げる事ができたのです。

そんな彼女たちが、星の夜に布を織った織殿(おりどの・機織をする部屋)が、今は、枯葉に覆われ荒れ放題・・・彼女たちの願いは、肖栢に辻ヶ池のほとりにあったその織殿の跡を訪ねてもらい、和歌など、絵などに残して欲しい・・・という物でした。

「どうぞ、お願いしたします」
・・・と、言うと、彼女たちの姿は闇の中に吸い込まれていきました。

「待ってくれ!この古墳は誰の墓なんじゃ?教えてくれ~!」
と、肖栢はあわてて訪ねましたが、その自分の大きな声でハッと我に返りました。

古墳の外に這い出すと、どうやら肖栢は、長い時間眠り込んでいたようで、あたりはもうすっかり明るくなっていました。

何かに導かれるようにフラフラと歩き出した彼は、梅林を越え、川のほとりを下り、呉織に聞いた辻ヶ池のほとりにやってきました。

すると、岸辺を覆うように生えた葦(アシ)の茂みの中に、何やら光る物が見えます。

身体さえ隠してしまうような葦をかきわけ、そこに近づいてみると、大きな石が横たわっています。

表面のドロをぬぐい落とすと、かすかに「星御門」という文字が見てとれます。

「そうか・・・ここが一夜で白妙(しろたえ)の布を織り上げた織殿か・・・」

肖栢は、葦に風がそよぐのを感じながら・・・「ここを星御門と呼んで、渡来の織姫たちの事を、後の世の人に伝えよう」と心に決めたのです。

その場所は、今も池田にあるという事です。
 

Hosidukiyonoorihimecc 今日のイラストは、
「星月夜の織姫」にちなんで、『満天の星空に故郷の大陸を思う織姫』を書かせていただきました~。

衣装は高松塚古墳の飛鳥美人で・・・。
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2007年7月 6日 (金)

古事記をSFとして読めば・・・

 

養老七年(723年)7月6日は、『古事記』を編さんした太安万侶さんのご命日です。

・・・・・・・・・・

以前の記事【太安万侶が古事記を作る】(1月28日参照>>)で書かせていただきましたように、太安万侶という人物に関しては、『古事記』の序文に「太安万侶(おおのやすまろ)が献上します」という部分に名前が登場するだけで、その実在すら疑われていたところ、偶然にもお墓が発見された事で、ご命日も、そして、実在の人物であった事も判明したわけです。

しかし、それまで「その実在すら疑われていた」という事は、それだけ太安万侶に関する史料が無いという事で、その人物像というのは、ほとんどわかっていないのが現状です。

そんな安万侶が編さんした『古事記』・・・ご命日にちなんで、今日はその『古事記』を別の視点から読み取って行きたいと思います。

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プロフィールを見ていただけば、お解かりいただけますように、私は歴史好きであると同時に不思議好きでもあります。

気がついた時には、歴史と同様に、不思議な事(心霊・超能力含む)、宇宙の事、星の事が大好きでしたが、小さい頃は、歴史と宇宙は別の物・・・この二つが結びつくなんて考えもしていませんでした。

ところが、中学生だったか高校生だったかの頃、それまで『日本の神話』という類の本で、断片的に読んでいた「天岩戸」の話「ヤマタノオロチ」の話を、初めて『古事記』という形で読んだ時に、私の中で、歴史と宇宙が結びつきました。

『古事記』をSF的に読んでみると実におもしろいんです。

まず、冒頭に・・・
『天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並獨神成坐而。隱身也。』
「天も地もない始めの時。高天原という所に神が現れる。天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ・天の中央で宇宙を統一する神)。次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ・宇宙を生成する神)。次に神産巣日神(カミムスビノカミ・同じく宇宙を生成する神)。この三柱の神々は配偶者を持たない単独の神。その姿を見せる事はない」

これは、まさに太陽系の成り立ちではありませんか?
中央で太陽が生まれ、次にそのまわりで複数の惑星が誕生する・・・。
産巣(むすび)とはまさに産み出す事です。

もちろん、今現在の科学でも太陽系の成り立ちには様々な説がありますので、これが正解ってわけじゃありませんが、安万侶がいた時代の人々が「天も地も何も無い時・・・」「何も無い所から産まれる・・・」なんて事を考えていたという事だけでも驚きませんか?

今の私たちは考える前に教わります。
太陽の事、惑星の事・・・地球は太陽系の中の惑星の一つで、太陽の周りを回っているのだと・・・。

しかし、そのような事前の知識がないまま、混沌とした世界が誕生していくような過程を想像して書ける物なのか・・・と、驚きます。

そして、その次に続くのは・・・
『次國稚如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時。如葦牙因萌騰之物而。成神名。宇摩志阿斯訶備比古遲神。次天之常立神。此二柱神亦獨神成坐而。隱身也。』
「形のない地上は水に脂(あぶら)が浮いたような状態。水中をくらげが流れて行くような中、水辺の葦(あし)が芽吹いて萌え上がっていくような物があった。そこから神が現れる。宇摩志阿斯訶備比古遲神(ウマシアシカビヒコヂノカミ・地上から天へ指し登る神)。次に天之常立神(アメノトコタチノカミ・天そのものを現す神)。この二の柱神も配偶者を持たない単独の神。その姿を見せる事はない。」
ドロドロしたマグマの様子に加え、「天に向かって萌える」という描写は、まるで火山の噴火を連想させます。

以上は、天に現れた神で、この後、地上に次々と神が誕生します。

生まれてきた大地を表す国之常立神(クニノトコタチノカミ)
脂が固まって広い沼になる事を表した豊雲野神(トヨクモノカミ)
沼地が固まって草が生え育っていく様子を表した角杙神(ツノギヒノカミ)活杙神(イクグヒノカミ)
大地の表面が整った事を表す淤母陀琉神(オモダルノカミ)
大地が整った喜びの声「あやにかしこし」を表した阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)

まるで、徐々にマグマが冷え、海から大地が現れ、そこに植物が誕生していく様子のように思えます。

・・・で、これらの神々の最後に登場するのが、皆さんよくご存知の伊邪那岐神(イザナギノカミ)伊邪那美神(イザナミノカミ)です。

いざなう=誘う・・・つまり、お互いが協力して、出来上がった大地に国を造り、物を生み出して行く・・・

『国産み』と言いますが、私は、イサナギとイザナミは産んだのではなく、国を造った・・・つまり、人々が集団生活をし、村になり、やがて国家になっていった事の描写ではないかと思っています。

このイザナギとイザナミがそれまでに登場した神様と種が異なるように思うのは、それまでの神様が、地球の成り立ち・・・つまり自然現象だったのに対し、彼らが人類だからなのではないでしょうか?

それを、裏付けるかのように、イサナギとイザナミは神としては初めて男女の交わりをし、その子・天照大御神(アマテラスオオミカミ)、その孫・天邇岐志国邇岐志天津日高子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシアマツヒダカヒコホノニニギノミコト)と続き、そのニニギノミコトが天孫降臨をして、天皇家の祖となるわけですから・・・。

さらに、皆さんよくご存知の天岩戸隠れ・・・弟・建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)の悪行に怒った太陽神・アマテラスが天岩戸に隠れてしまう話です。

これは、皆既日食を描写した物であるとか、国を治めていた女王が亡くなり、一旦国が荒れ、再びカリスマ性のある次の女王が現れるまでの状況を描いた物であるというのが一般的な見方ですが、これをSF的に読み解くと、これまた非常におもしろいのです。
ここから先は、緑が一般的な話紫の文字がSF的読み方です。

・・・・・・・・・

アマテラスがお隠れ=仮死状態?になって、さぁ困った八百万(やおよろず)の神様は会議を開いて「どうしたものか?」と話し合います。

そこへ登場する思金神(オモヒカネノカミ)・・・このオモイカネさんは、皆が困った時に質問をする神様で、必ず明確な答えを出し、皆がその意見に従う・・・という立場の神様なのですが・・・思金=考える金属?・・・まさにスーパーコンピュータ!

あらゆるデータを蓄積し、こんな時どうすれば良いか?という答えを瞬時にして導き出してくれるのです。

この時も、華麗なる女王復活のために、各担当者に指示を与えます。

まず、闇夜に鳴く長鳴鳥(ながなきどり)を集めて一斉に鳴かせます=仮死状態の人への声かけ?

鍛冶の名人・天津麻羅(アマツマラ)に特別の岩と鉄で手術道具(メスとか)の準備?を作らせます。

次に、伊志許理度売命(イシコリドメノミコト)鏡=人工心臓?を作らせ、玉祖命(タマノヤノミコト)500の勾玉をつけた長い玉飾り=輸血用チューブ?を用意させます。

さらに、天児屋命(アメノコヤネノミコト)布刀玉命(フトタマノミコト)に、天の香久山に住む牡鹿の骨で鹿卜(しかうら)を行わせ、この策略が正しいか=手術のシュミレーション?を占わせました。

結果が「良し」と出たので、香久山に生える榊の木を根こそぎ掘り出して=輸血用の血液を確保?、そこに先ほどの玉飾りと鏡を装着してフトタマノミコトが捧げ持ち、そばにはアメノコヤネノミコトと、力持ちの天手力男神(アメノタヂカラヲノカミ)が準備万端整えた所で、男まさりの女神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)が登場します。

ウズメは、天岩戸の前に、中がうつろな台=ベッド?を設け、そこに登って足拍子おもしろく=一定のリズムで?音が鳴り響くように踊った=心臓マッサージをした?のです。

外の騒がしさが気になったアマテラスは、閉めきっていた岩屋戸を少し開き=快復の兆し?、何があるのかと顔を出したとき、フトタマとコヤネが先ほどの鏡を差出し=人工心臓装着・手術?、同時にタヂカラヲがその力強い腕でアマテラスの手を取って岩屋戸の前に引き出します=ひょっとして電気ショックなんかもしてるかも?

すかさず、フトタマが岩屋戸の入り口にしめ縄を張りめぐらして=縫合?「もう、二度とお戻りになりませんように」とつぶやいて、めでたしめでたし・・・

・・・・・・・・・・

・・・と、いかがでしたか?『古事記』のSF的読み解き

まだまだ、ヤマタノオロチも天孫降臨も、SF的発想で読んでみるとおもしろいです~。

最後まで読んでくださったかた、長い妄想におつき合いくださってありがとうございました~。
 

Amanotorifunecc 今日のイラストは、
天孫降臨の時の『天鳥船』を、SFっぽく書いてみました~。
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2007年7月 5日 (木)

城攻めの天才・秀吉VS北条お得意の籠城作戦

 

天正十八年(1590年)7月5日、小田原城で籠城していた北条氏政・氏直親子が、豊臣秀吉に降伏を申し出ました。

・・・・・・・・・・・

天正十三年に四国を、天正十五年に九州の制圧を終えた豊臣秀吉・・・これで、西日本はすべて勢力下に治めた事になります。

残るは関東と奥州・・・もう天下は目の前です。

それでも、すぐに攻める事はせず、相模(神奈川県)一帯を治める後北条氏の当主・北条氏直が上洛し、「秀吉の傘下に収まる」と表明する事を待っていた秀吉でした。

しかし、そんな中、北条の領土の中にポツンとある真田昌幸上野名胡桃(なぐるみ)を北条方の猪俣邦憲(くにのり)が攻めた(10月23日参照>>)事をきっかけに、秀吉は北条討伐=小田原征伐を決意し、天正十八年(1590年)の3月20万という大軍を率いて出陣するのです。

3月29日に、駿河山中城(静岡県)
4月20日に、上野松井田城(群馬県)
5月22日に、武蔵岩付城(埼玉県)
6月14日に、武蔵鉢形城(埼玉県)
6月24日に、伊豆韮山(にらやま)(静岡県)
(3月29日参照>>)

・・・と、北条の支城を次々と落としていく一方で、4月初旬から本拠地・小田原城の包囲を開始(4月3日参照>>)、すぐ近くの石垣山に攻撃用の城を構築(6月26日参照>>)しています。

ここまで、短時間に次々と北条の支城を落とせたのには、もちろん秀吉の巧みな作戦や攻撃の手腕もあったでしょうが、北条は北条で、「防御体制を本拠地の小田原城一点に絞っていた」という事も影響しているでしょう。

小田原城は広大な城郭を持つ強固な城・・・北条は、今まで何度もこの城に籠城し、勝利を収めていました。

北条にとって、この小田原城での、籠城作戦は得意中の得意だったのです。

以前、上杉謙信に攻められた時も、1ヶ月以上にわたって耐え抜きました。
武田信玄に包囲された時も、この城は落ちる事はありませんでした。

その都度北条は、この強固な城に篭もり、敵の補給路をかく乱し、敵が兵糧に苦しんで撤退すると、即座に失地を回復するという作戦で勝利を収めていました。

今回も、城に新たな修復を行い、15歳から60歳の百姓・商人・職人など領民を総動員して軍備を整え、領内の支城の城主を小田原城に集め、この城の防衛に主力を注いでいたのです

しかし、残念ながら、今度ばかりは上杉や武田を追い返した時のようにはいきませんでした。

北条のお得意が籠城なら、秀吉のお得意は城攻め・・・このブログでシリーズ的にご紹介している『孫子の兵法』(4月19日参照>>)でも、強調して語られる「城攻めの難しさ」

しかし、そんな難しい城攻めを、秀吉は、その知恵と金を使って、直接攻撃する事なく、見事に攻め落とすのです。

鳥取城(7月12日参照>>)では、城攻めにかかる前に、近江や敦賀の商人を使って、「京が米不足なんで、相場より高く買わせていただきますから、どうぞ譲ってください」と、城内の米をごっそりと買い集めさせておいて、その後、兵糧攻めを開始し、4ヶ月で城を落としています。

備中(岡山県)高松城を水責め(4月27日参照>>)にした時も、堤防構築に多額の報酬を支払って近隣の農民を手伝わせています。

兵だけでの作業なら、かなりの時間がかかったでしょうし、農民を強制的にかりたてても、積極的には協力してはくれませんから、これまた短時間での構築には至らなかったでしょう。

そんな城攻めの天才は、今回の小田原城攻めでは、直属の九鬼水軍だけでなく、毛利の水軍も動員して、まず、海上の補給路を遮断します。

そして、各地の20万石の蔵入り米を、駿河の清水港に集めて、敵側に回さないと同時に自軍の兵糧を確保します。

さらに、黄金10万両で、伊勢から駿河にかけての東海諸国の市場の米を買占めました

さぁ、どうする?北条・・・
これでは、籠城ではなく、幽閉・・・城に閉じ込められてしまったような物です。

小田原城内では、支城主たちを集めて、延々と会議が繰り返されます。

いつまで経っても結論が出ない長~い話し合いを『小田原評定』と呼ぶのは、この時の小田原城内の会議に由来するもの・・・。

天下の軍勢プラス兵糧を確保した秀吉に対して、いくら話し合っても名案が出るはずもありません。

やがて、一人・・・また一人と投降者が出始め、城内の士気も下がりっぱなしです。

そして、ついに天正十八年(1590年)7月5日氏政・氏直父子が降伏を申し出たのです。

氏政と氏輝(氏政の弟が7月11日に城下で自刃し、小田原城は開城されました(2008年7月5日参照>>)

当主・氏直と、氏規(氏政の弟)は高野山へ追放され、ここに北条早雲(8月15日参照>>)に始まった後北条氏は五代で滅亡する事になりました。

この後、秀吉は、そのまま奥州へと向かいます(11月24日参照>>)
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2007年7月 4日 (水)

歴史の闇に消えた橘奈良麻呂の乱

 

天平宝字元年(757年)7月4日、時の権力者・藤原仲麻呂の暗殺計画『橘奈良麻呂の乱』が発覚し、首謀者らが逮捕されました

・・・・・・・・・・

時は花の天平真っ盛りの頃・・・

東大寺の大仏や全国各地の国分寺で有名なあの聖武天皇の後に、聖武天皇の娘・第46代孝謙天皇即位します。

彼女は、その聖武天皇を父に、光明皇后を母に持つ、サラブレッドの中のサラブレッドです。

しかし、歴代の女帝が、天皇の奥さんであったり皇太子の奥さんであったり、先の天皇が亡くなった時、次に天皇になるべき皇子がまだ幼いために、その皇子が成長するまでの中継ぎとして即位したのに対し、この孝謙天皇は、天皇になるべくしてなった天皇なのです。

Tennouketofuziwarakekeizu 母の光明皇后は、藤原一族の出身で初めて皇后になった人・・・つまり、それまで皇后という位には天皇家の血を引く女性しか、なった事がなかったわけで、藤原氏としてはこのチャンスを逃すわけにはいかなかったのです。

その事は、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた(つまり孝謙天皇の弟です)(もとい)皇子わずか生後2ヶ月で、皇太子にしてしまう事でもうかがえます。

しかし、その基皇子は1歳の誕生日を待つことなく亡くなってしまうのです。

しかも、そんなタイミングで、聖武天皇の別の夫人・県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)に男の子・安積(あさか)親王が生まれます。

さらに、その後、天然痘の流行で藤原四卿と呼ばれた藤原不比等息子たち四人(光明皇后の兄さんたち)が次々と亡くなってしまいます。

このままでは、他家の皇子に天皇の座を持っていかれるのも時間の問題。

あわてた藤原氏は、史上初の女性皇太子・安倍内親王(後の孝謙天皇)を立てるのです。

「あわてた藤原氏」と書きましたが、はっきり言って、この藤原氏は光明皇后その人です。

強靭でたくましい意欲を持ったこの力強い皇后は、晩年病気がちな聖武天皇をトップとする朝廷とは別の皇后宮職(こうごうぐしき)なる組織を拡大した、もう一つの朝廷を造りあげていたのです。

本来なら、宮廷内の一組織であった皇后宮職が、実は実権を握っていたのです。

初の女性皇太子を立てたのも、健康のすぐれない聖武天皇に譲位をうながしたのも光明皇后でした。

そして、この皇后宮職の長官をつとめていたのが、皇后が頼りにしていた亡き藤原四卿の長男・武智麻呂の息子・藤原仲麻呂です。

皇后が、今の藤原家の中で最も聡明で政治力に富むと目をかけているかわいい甥っ子です。

仲麻呂は階級を飛び越えて昇進し、それまで大仏造営の主導権を握っていた僧正・玄昉(げんぽう)大宰府に左遷され、仲麻呂お気に入りの行基(ぎょうき)大僧正になります。

しかも、反・藤原派の希望の星だった、あの安積親王は17歳の若さで突然の死亡・・・もちろん、その死には仲麻呂の暗殺説なる物も浮上しますが、それは、あくまで疑わしいだけなので、ここでは「突然死」という事にしておきます。

もはや、朝廷内を光明皇后と仲麻呂が牛耳っているのは明らかでした。

もちろん、その事はさずがの聖武天皇も気づき、かつ心配だったようで、皇后と仲麻呂に勧められて孝謙天皇に位を譲る時も、そのまわりを固める大臣たちの人選は、聖武天皇の意図が感じられる藤原四卿・橘氏・大伴氏ほか、古くからの名族出身の者をまんべんなく配置した物でした。

そして、それらの大臣を従えて、孝謙天皇が即位するのです。

しかし、事実上すべての実権を握ってしまっている仲麻呂・皇后コンビには、そんな人選は何の効果もありません。

おもしろくないのは、反・藤原氏の人々です。

特に、それまで中心になって朝廷を動かしていた橘諸兄(たちばなのもろえ)(11月11日参照>>)は、今回の新天皇での人事でも左大臣というトップの位に任命されているにも関わらず、すべての権限が皇后宮職にある現状に、不満を抱いていたのは明らかです。

各人の重苦しい空気が立ち込める中、やがて、天平勝宝四年(752年)、大仏開眼という一大イベントがやってきます。

まだ大仏は完成には至っていませんでしたが、聖武上皇の病状が思わしくなく、予定を早めての大仏開眼・・・女帝・孝謙天皇はこの大イベントで、天皇としての役目を一つ果たしました。

しかし、その夜・・・
今まで、あやつり人形のように心の内がまったく読み取れなかった孝謙天皇が、ここで初めてその心情をあらわに見せ、大胆な行動に走ります。

『是の夕(ゆうべ、天皇は大納言藤原朝臣仲麻呂の田村ノ第に還(かえり、ここを御在所となされた』
と、『続日本紀』にあります。

「是の夕」とは、大イベントのあった日の夜。
「田村ノ第」とは仲麻呂の邸宅。

つまり、孝謙天皇はその日から、仲麻呂の家に転がり込んだ・・・という事です。

どうやら、仲麻呂は叔母さんの光明皇后だけでなく、その娘の孝謙天皇のハートも射止めたようです。

もちろん、こちらは男と女の関係・・・

仲麻呂は女帝にとって、12歳年上の頼れる従兄弟。
しかも、彼女は21歳で皇太子になったため、一生独身で暮らさなければならないという宿命を背負っていました。

天皇の座を受け継ぐのは男系男子・・・最近問題になったので、もう、皆さんもご存知でしょうが、彼女が子供を生んで、その子供が皇位につけば、問題の女系天皇となってしまうわけです。

とは言え、純心無垢な環境で育ってきたお嬢様・女帝だって、年頃になれば恋をします。

しかも、免疫のないぶん、その溺愛ぶりも相当な物で、仲麻呂にはすでに奥さんも子供もいましたが、そんなもん、おかまい無しでございます。

もちろん、仲麻呂も大いに打算あり・・・これで、自分の天下がさらに強くなるわけですから・・・。

やがて、聖武上皇が56歳の生涯を閉じる日がやって来るのですが、上皇は遺言として「次の皇太子には道祖王(ふなどおう・天武天皇の孫)にせよ」と言い残して亡くなります。

もちろん、先ほども書いたように孝謙天皇は、一生独身でいなければなりませんから、「子供を生む」という事はありませんので、当然、天皇家の誰かから皇太子を選ばなくてはならないのですが、実はこの道祖王という人は、仲麻呂が次期天皇になって欲しい人物ではなかったのです。

あまりに傍若無人に事を運ぶ光明皇后と仲麻呂に、一矢を報いた感じの聖武天皇・・・これは、後にモメる事を完全に承知した上の遺言ですね。

それでも、しばらくはおとなしくしていた仲麻呂。

しかし、天下であると言っても、やっぱりちょっとは気を使う相手だった表向きトップの左大臣・橘諸兄が亡くなった直後、彼はモロに行動を表します。

天平宝字元年(757年)3月、孝謙天皇は、大臣たちの意見を無視して道祖王を皇太子から廃し、他にも天皇家の地を引く皇子が何人かいるにも関わらず、独断で大炊王(おおいおう)皇太子に決定します。

もちろん、彼は孝謙天皇が望む人物ではなく、仲麻呂が望む人物です。

大炊王は舎人親王(11月14日参照>>)の息子で、仲麻呂の息子の嫁の再婚相手・・・血縁ではないものの、田村の邸宅に一緒に住むという間柄で、彼の意のままになる人物でした。

さらに、仲麻呂は紫微内相(しびないしょう)という新しい役職を作って、自身がその地位に着きます。

これは、宮廷や都を守る近衛軍と、地方諸国の軍、さらに防人など・・・つまり、現在で言うところの警視総監と防衛省長官を兼ねたような、国内の武力を一手に管理する役職です。

この一件で、とうとうブチ切れたのが、父・諸兄を亡くしたばかりの橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)です。

もちろん、不満を持つ反対派は彼の声かけに応じ、6月の始めから2度に渡ってクーデタ計画の会合を開きます。

そして、3度目の会合・・・6月29日の夕方、大胆にも太政官院の庭・・・つまり宮廷内で密談をするのです。

決行の日は7月2日。
まずは、仲麻呂邸を攻撃し仲麻呂を暗殺。
そして皇后宮職に押し入り光明皇太后の持つ鈴璽
(れいじ・駅鈴と天皇印)を奪い、現天皇と現皇太子を廃し、他の皇子から天皇を選出する・・・。

しかし、宮廷内でクーデター計画とは・・・あまりにも無防備すぎましたね~。

当然の事ながら、この計画は事前にバレてしまいます。

クーデターを決行するはずだった7月2日の夜に仲麻呂への密告が入り、クーデターは中止。

翌3日の夜に、首謀者とおぼしき人物らが、孝謙天皇のいる仲麻呂の邸宅に呼び出されます。

そのメンバーは、先に皇太子になっていた道祖王や黄文(きぶみ)といった天武天皇の孫である次期天皇候補の皇子と、大伴古麻呂(おおとものこまろ)多治比犢養(たじひのうしかい)小野東人おののあずまびと)加茂角足(かものつのたり)といった、昔からの名門の家柄の面々・・・そして、一番の首謀者である橘奈良麻呂です。

でも、この時は、
「お前たちは私の親族・・・謀反を考えているなんて噂は信じられない。きっと何かの間違いだと思うので罪には問いません。信じています。」
という光明皇太后の意見により、彼らは何のお咎めも無く返されます。

しかし、これは皇太后のまったくの独断・・・仲麻呂は納得していませんでした。

翌日の天平宝字元年(757年)7月4日彼らは再び逮捕されるのです。

そして、自白を強要する(むちうち)で、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多治比犢養、小野東人、加茂角足の6人が、命を落とします。

処罰は「死刑」となってますが、「死ぬまでムチ打ち」というのは、「死刑」って言うのとは違う?気もしますが・・・。

ともかく、彼ら以外にも、死刑、流刑など4百人以上が処罰されました。

ところが、思議な事に、この事件の事が書かれいる『続日本紀』には、一番の首謀者である奈良麻呂の名前が無いのです。

その事から、奈良麻呂は死刑にならずに流罪になったとか、後に嵯峨天皇に嫁いだ奈良麻呂の孫娘=橘嘉智子(たちばなのかちこ)(5月4日参照>>)が、名前を排除したとか、様々な説が囁かれています。

しかし、この状況で一番の首謀者が死刑にならないという事は、とても考え難いです。

この事件は、現在の教科書にも『橘奈良麻呂の乱(あるいは変)と、しっかりと記されている政界を揺るがした大事件・・・しかし、ひょっとしたら、仲麻呂の仕業によって、奈良麻呂の名前が消されたのかも知れません。

仲麻呂は、自分を脅かした最大のライバル・橘奈良麻呂を歴史という舞台から引きずりおろし、その存在自体をこの世から抹消し、彼という人物がいなかった事にしたかったのかも・・・

事件の記事に首謀者の名前が無い・・・とてもミステリアスです。
 

そんな、仲麻呂も・・・盛者必衰。
このお話の続きは、9月11日【盛者必衰~藤原仲麻呂の乱】へどうぞ>>
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2007年7月 3日 (火)

山中鹿之介奮戦!上月城の攻防

 

天正六年(1578年)7月3日、毛利軍に包囲された上月城で籠城していた尼子勝久が自害し、山陰に勢力を誇った尼子氏が滅亡しました。

・・・・・・・・・・・

南北朝時代に活躍した佐々木道誉を祖として、出雲(島根県)一帯を治めていた尼子氏は、永禄九年(1556年)に、安芸(広島県)毛利元就に攻められ、一旦滅亡してしまいます(11月28日参照>>)

しかし、そんな事(そんな事と言っても滅亡しちゃってるんですが・・・)で諦めきれない不屈の人・山中鹿之介(鹿介幸盛)

彼は、16歳で初陣する際に、
(御家の為になら願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
と、三日月に誓ったエピソードで知られる重臣で、尼子十勇士の一人。

彼は、その時、誓った通り、何度叩きのめされても、再び立ち上がり尼子氏を支えます。

一度、毛利方の捕虜となった時も、「ちょっと、ゲリ気味なんで・・・」と、宵の口から明け方にかけて、170回もトイレを所望。

最初は警戒していた見張り役が、呆れかえって油断したところを、ウ●コまみれになって汲み取り口から脱出するという離れワザをやってのけた人物です。

そんな鹿之介が、先の尼子氏滅亡から二年後の永禄十一年(1558年)、京都で僧となっている尼子氏の血を引く人物を還俗(一度出家した人が一般人に戻る事)させ、新たな当主とします・・・それが、尼子氏最後の人となる尼子勝久です。

この時から、波乱万丈の人生を送った鹿之介とともに、尼子氏にも新たな流転の歯車が回り始めます。

それから、一国一城を夢見て出雲の各地を転々としながら、何度か合戦に挑みますが、一度滅んだ尼子氏の旧臣たちだけでは、今や中国地方最強となった毛利に太刀打ちできるはずもありません。

天正五年(1577年)、鹿之介は、勝久をつれて京都へ行き、もう一人の最強の人物・織田信長援助を求めます。

当時、天下統一へ向けて、各地平定の真っ最中の信長は、彼らを織田軍の中国地方平定担当・羽柴(豊臣)秀吉の傘下とし、上月城(こうづきじょう・兵庫県)の城番を命じます(11月29日参照>>)

とりあえずは城を貰った勝久でしたが、まもなく上月城は宇喜多直家(秀家の父)に奪われてしまいます。

翌年・天正六年(1578年)の3月、秀吉の協力のもと総攻撃をかけて、再び城を奪い返し、もう一度上月城へ入った勝久

奪われた城にまたまた同じ勝久ら尼子一族を配置するのは、毛利に刺激与えるための信長と秀吉の作戦だったのです。

・・・というのも、この上月城は、織田にとって対・毛利の最前線。

もともと出雲を中心に勢力を誇っていた名門の尼子氏。

その配下であった毛利が、尼子氏を倒して中国地方の最強となったわけですから、尼子氏にとっては積年の恨みを晴らしたい相手が毛利であり、毛利から見れば、目の前でチラチラさせるのが不愉快な相手が尼子氏だったのです。

案の定、毛利はすぐに仕掛けてきます。

毛利方の総大将・毛利輝元(元就の孫)は、吉川元春(元就の次男)小早川隆景(元就の三男)を、上月城に向けて、3万という大軍を進軍させます。

もちろん、例の如く、尼子氏だけでは到底3万の大軍を相手にするのは無理ですから、羽柴軍からも援軍を派遣するのですが、ちょうどこの時、秀吉は播磨・三木城に籠城する別所長治取り囲みの真っ最中(3月29日参照>>)

秀吉の全軍を挙げて救援に向かう事は不可能な状況で、この時、上月城に向かった秀吉の軍勢は1万程度だったと言われています。

これでは、とても3万の毛利軍を相手にする事はできないと判断した秀吉は、上月城へ使いを出し、勝久以下尼子一族に一旦城から脱出するようにうながします。

しかし、勝久・鹿之介ら尼子氏にとっては、やっと叶った一国一城・・・そう簡単に明渡すわけにはいきません。

6月に入って秀吉は、信長に上月城への援軍の派遣を願い出ます。

しかし、信長の返事は、正反対の物でした。

信長は、城の周辺にいる羽柴軍の撤退を命ずるのです(5月4日参照>>)

先ほども書きましたように当時信長は天下統一へ向けての真っ最中・・・敵は毛利だけではありません。

長篠の合戦(5月21日参照>>)で勝ったとは言え、未だ武田は健在で、北陸では一向一揆が抵抗中。

信長にとっては、このあたりで、一度態勢を立て直す・・・という考えであったのでしょうが、この6月26日羽柴軍の撤退によって、結局、上月城は見捨てられた形となってしまいます。

城の中に残る者は数百人。

やがて、食糧も水もつき、秀吉の援軍も撤退した以上、このまま籠城を続ける事は不可能だと判断した勝久は、毛利に城を明渡す意志がある事を伝えます。

毛利の出した条件は、勝久の自刃でした。

毛利は、その条件さえ呑めば、その他の者にいっさい危害を加えない事を約束しました。

かくして、天正六年(1578年)7月3日、上月城内で、当主・尼子勝久以下数名が切腹をし、5日には、上月城が開城されたのです。

ここに、南北朝から続いた戦国大名・尼子氏は事実上滅亡したのです。

鹿之介は主君の首を持ち、毛利軍へ届けに行った後、そのまま捕虜となります。

そうです、彼は勝久と一緒に自刃しなかったのです。

なぜなら、彼にはまだ生き続けて、この先、やらなければならない事があったのです。

それは、主君との約束を果たす事・・・。

勝久は自刃する直前に、鹿之介を呼び「いかなる事があっても生き抜いて、御家再興を達成せよ」と言い残し、鹿之介もそれに答えて、たとえ一人になっても復讐をする決意であったと言われています。

しかし、そんな彼の決意は、毛利方にもそれとなく知られる事となります。

毛利の本拠地・安芸に送られる途中の7月17日備中(岡山県)・甲部川の渡しで、護送を担当していた河村新左衛門に、背後から斬りつけられます。

それでも、鹿之介は、川に飛び込み逃げようとしますが、なんせ傷を負っていますから、うまく泳げるはずもありません。

結局、同じく護送を担当していた福岡彦右衛門に追いつかれ、そこで首を落とされたと言います。

山中鹿之介、34歳・・・
彼にとっては、まだまだ夢の途中・・・

16歳のあの日、三日月に誓った七難八苦の人生は、この先、さらに波乱万丈の夢を見させてくれるに違いありませんでした。

志半ばの無念の死であった事でしょう。
 

追記:昨年の11月19日のブログで、永禄九年(1556年)に一度尼子氏が滅亡した事を書かせていただいた時に、その先の部分も書いてしまったため、今回の記事と少し・・・いや大きく?内容がかぶってしまった事をお詫びしておきます。
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2007年7月 2日 (月)

恋に戦に・新田義貞の純情

 

延元三年(建武五年・1338年)閏7月2日、建武の新政権に功績を残した新田義貞が、北陸で奮戦中、討死しました。

・・・・・・・・・・

正中の変(9月19日参照>>)元弘の変(9月28日参照>>)と、2度に渡って鎌倉幕府打倒に失敗をした後醍醐(ごだいご)天皇が、流されていた隠岐から脱出し、楠木正成らとともに三度めの幕府打倒を画策し始めます。

その事を察知した時の執権・北条高時が、後醍醐天皇を撃つべく鎌倉から京へ派遣した足利高氏は、後醍醐天皇派に寝返り、幕府を相手に京の町で大暴れ(5月7日参照>>)

それを伝え聞いて、高氏の子・千寿王のもとに集まった反幕府派の武士たち・・・そのまとめ役として彼らを率いたのが、今日の主役・新田義貞でした(5月11日参照>>)

破竹の勢いで、東国の武士たちの先頭に立って鎌倉の本拠地へ攻め入る義貞は、あの稲村ヶ崎での伝説を残し(5月21日参照>>)、北条高時を自害に追い込み、鎌倉幕府を倒すという大殊勲あげる時代のヒーローとして歴史の舞台に登場します(5月22日参照>>)

しかし、幕府滅亡後の建武元年(1334年)に天皇の復権を夢見て、後醍醐天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)は、あまりにも公家中心であったため、武士たちは不満ムンムン。

その不満は、わずか二年で爆発します。

建武二年(1335年)、「鎌倉幕府最後の執権だった北条高時の遺児・時行が幕府復興を願って、鎌倉に攻め入り占領する」という事件が起こりますが、乱の鎮圧のために、鎌倉に向かった足利尊氏(高氏から改名)は、乱を鎮圧後も京には戻らず、鎌倉にその身を置いたまま、天皇に反旗をひるがえすのです(12月11日参照>>)

天皇は、義貞に尊氏追討を命じます。

同じ清和源氏・八幡太郎義家を祖に持つ尊氏と義貞・・・しかし、義貞は素直に天皇の命令に従い、尊氏を撃ちに出陣します。

やって来た新田軍を撃ち破った尊氏は、その勢いで京に攻め上りますが、奥州から駆けつけた北畠親房楠木正成、そして、態勢を立て直した新田軍に攻められ、命からがら九州へと敗走します(1月27日参照>>)

建武の新政の武士への扱いに不満を抱いて立ち上がった尊氏と、同じ武士でありながら天皇に忠誠を尽くす義貞と正成・・・。

後醍醐天皇の命令は、いつも公家中心・・・直属の軍隊を持たない後醍醐天皇にとって彼らがいなくては、やっていないはずなのに、けっこう扱い悪いです。

ひょっとして後醍醐天皇は、尊氏に義貞を差し向けた時でも「北条氏のように武士が力をつけて、またまた武家政権が復活されでもしたら大変!武士同士争って共倒れになってくれれば、それに越したことは無い」くらいに思っていたのかしら?

義貞も正成も、そんな後醍醐天皇に不満を持っていたのかも知れませんが、やはり、楠木正成の場合は、彼は領地を持たない悪党であり、後醍醐天皇という看板が無ければ、ただのはみ出し者に成り下がってしまいますからね。

そして、新田義貞の場合も、同じ源氏の名門で、しかも新田の方が直系なのに、なぜか「足利氏の方が上」の感がぬぐえない・・・

武士たちの人望は厚く、武家の棟梁としての才覚も持っていた尊氏に対して、彼も、同じ源氏の名門として、武家を統率したいという野望がある以上、尊氏と互角に戦い、後醍醐天皇という「錦の御旗」をバックに着けておかなければならなかったのかも知れません。

もちろん、そこには、天皇という君主の信頼に答える事を喜びとする古いタイプの武士だった義貞の純情で素朴な性格という物も影響している事は確かです。

そんな、彼の純情さは、恋愛においても発揮されます。

九州へ逃走した尊氏に追い討ちをかけるかどうかの相談をしに、天皇のところへ出向いた義貞は、宮中で一人の女性を見かけます。

静かに琴を弾くその美しい姿に、一瞬にして恋に落ちる義貞・・・

『中将(義貞)行方も知らぬ道にまよひぬる心地して、帰る方もさだかならず、淑景舎(しげいしゃ)の傍にやすらひかねて立ち明かり』・・・と、これは、『太平記』に記されているその日の義貞の様子。

淑景舎とは、彼女の邸宅。

義貞は、あまりにもポーっとなってしまったため、どこをどう通って家に帰ってよいのかさえわからず、彼女の家の前で立ちすくんだまま、一夜を明かしたと言うのです。

この時、義貞36歳・・・36歳ですよ!
まるで、10代の少年のような恋心です。

もちろん、次の日もその次の日も、思うのは彼女の事ばかり・・・食事もノドに通らずげっそりと痩せてしまいます。

彼女は、公家・一条経尹(つねただ)の娘・・・本名はわかりませんが、天皇に仕える下級女官の官職名・勾当内侍(こうとうのないし)と呼ばれていました。

義貞の胸の内を伝え聞いた後醍醐天皇は、「そんなに思いつめているのなら・・・」と、彼女を義貞に与えます。

義貞は、もう狂喜乱舞!
片時も彼女を離さず溺愛します。

彼女も、それに答えます。

無骨なアズマ男の義貞ですが、その分純粋で彼女一筋・・・一方の後醍醐天皇は正式なお后だけで18人というスゴ腕ですから、かえって嬉しかったのかも知れません。

この後『太平記』は、
『中将、内侍に迷うて、勝つに乗り疲れをせむる戦ひを事とせず。そのつひえ、はたして敵のために国を奪われたり』
と、「義貞が負けたのは、内侍との恋に溺れたせいだ」と書いています。

本当にそうなのかどうかは、わかりませんが、確かに、この後の義貞は、なぜか勝ちに見放されてしまうのです。

逃走先の九州で態勢を立て直した尊氏は、湊川の戦いで、新田軍、楠木軍を破ります(5月25日参照>>)

正成は討死し、義貞は京に敗走・・・やがて、京にも攻め込んできた尊氏の勢いに押され、越前へ退去します(10月13日参照>>)

その時、京の都に、彼女を残したまま落ちた義貞・・・越前で奮戦するも、なかなか思うようには勝利できず、すぐに京を奪還する見通しが立たないと判断した義貞は、彼女を越前に呼び寄せる事にします。

彼女は、すぐに身支度を整え、一路、越前へと向かいます。

しかし、義貞は、延元三年(建武五年・1338年)閏7月2日、敵が篭もる藤島城に向かう途中、遭遇した別隊の敵の矢に眉間を撃ち抜かれ、彼女の到着を待たずに命を落とすのです。

彼女と始めて会ったあの日から二年・・・38歳の夏でした。

その後の彼女は、尼となって京の嵯峨の庵で、義貞の菩提を弔いながらひっそりと暮らしたとも、狂乱して琵琶湖に身を投げて義貞の後を追ったとも言われています。

恋にも、戦にも純情を貫いた義貞・・・もう少し世渡り上手なら、彼の人生は違う結末を迎えたのでしょうか。

Dscn6940a600 現在、京都嵯峨野にある滝口寺には、新田義貞の首塚のすぐそばに、寄りそうように勾当内侍の供養塔が鎮座しています。

(滝口寺への行き方は、本家HP「京都歴史散歩:嵐山」でどうぞ>>
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2007年7月 1日 (日)

風林火山・孫子の兵法11・地形篇

 

今日は、『風林火山・孫子の兵法』の11回目、『地形篇』をご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

地形篇は、その題名の通り、最初は地形について語られますが、「こんな地形では、こう戦え」などと、そのまま読んでみても、現代の私たちには、あまりピンときません。

地形を、そのまま地形と見るのではなく、「このような状況では・・・」あるいは、「このような場合には・・・」という風に介錯してみると理解しやすいかも知れません。

孫子では、大きく別けて6種類の地形があるとしています。
『孫子曰く、地形には、
 なる者有り、
 なる者有り、
 なる者有り、
 なる者有り、
 なる者有り、
 なる者有り。』

・通(つう)・・・敵からも味方からも、行き来しやすい地形。
   ここでは、敵より先に着いて高地に布陣し、補給路を
   確保して戦えば有利。
(かい)・・・進攻しやすいが、撤退し難い地形。
   ここでは、敵の守りが薄ければ有利、守りが強固であ
   れば不利。
(し)・・・敵にも味方にも不利な地形。
   ここでは、敵が誘いをかけて来てもそれには乗らず、
   逆に敵を誘い出してから攻撃を仕掛ける。
(あい)・・・くびれた地形。
   ここでは、先に入り口を固めてから敵を待つ。
   もし、敵が先に来て、すでに入り口を固めていたらす
   みやかに撤退、まだ入り口を固めていなかったら攻
   撃する。
(けん)・・・けわしい地形。
   ここでは、敵より先に到着し高地に布陣して敵を待つ。
   もし、先に敵が到着していたなら撤退する。
(えん)・・・地元から遠いアウェイな場所。
   ここでは、相手の勢力が均等であれば、不利なので
   戦わない。

そして、もう一つ。
負け戦になる六つの状況というのもあるとしています。
『故に兵には、
 なる者有り、
 なる者あり、
 なる者あり、
 なる者有り、
 なる者あり、
 なる者あり。
 およそこの六者は、天の災
(わざわい)にあらず、
 将の過ちなり。』

  • (そう)・・・10倍の勢力の敵と戦わなければならなくなった時。
  • (し)・・・兵が強いのに、軍の幹部が弱い時。
  • (かん)・・・軍の幹部が強いのに兵が弱い時。
  • (ほう)・・・トップが幹部の能力を知らず、幹部はトップの命令に従わず勝手に攻撃したりする時。
  • (らん)・・・甘やかしてばかりの将軍で規則も徹底せず、よって兵を統率できない時。
  • (ほく)・・・トップが敵の情報を知らず、こちらが劣勢なのに優勢な敵と戦えと命令し、向かう先を見失っている時。

・・・で、これらは、全部、たまたまの偶然ではなく、君主や将軍が自ら引き起こしている状況だと言うのです。

今まさに、湊川の戦いに挑む楠木正成(5月25日参照>>)・・・大坂夏の陣に挑む真田幸村(5月6日参照>>)思い出しました。

その時、正成は、「天皇は、この正成に討死せよとのお考えである」と、死を覚悟して出陣し、幸村は独断で討って出るも、奮戦中にやはり退却命令が出て、しかたなく大坂城に戻っています。

結局この両方ともが負け戦となったのは、ご存知の通りです。

・・・で、孫子は言います。
『戦道必ず勝たば、主は戦うなかれと曰(い)うとも必ず戦いて可なり』
「勝てる見通しがあるなら、君主が反対しても戦うべきである」と・・・。

もちろん逆も・・・勝てる見込みがないのであれば、君主が戦えと命令しても戦うべきではないのです。

『地形は兵の助けなり』
先ほどの六つの地形、六つの状況は、勝利への助けとなる物です。
地形を知り、状況を判断し、君主に反対してでもやる時はヤル!

その結果、功績を挙げても名誉を求めず、失敗しても責任から逃れようとしない・・・
『・・・ただ人をこれ保ちて而して利、主に合うは、国の宝なり』
「ただ、人々の安全を願い、君主の利益のために働く、これこそ国の宝である」

まるで、金曜日の夜の「ザ・ガードマン」のような言い回し・・・(宇津井健=キャップ=ある年齢以上ならわかる)

たしかに、「功績を挙げても名誉を求めず、失敗しても責任から逃れようとしない」ような上司なら、下の人間も「ついて行きます!」と言いたくなりますわな。

・・・で、この地形篇の後半には、このつながりで、将軍から兵の・・・つまり部下の扱い方が書かれています。

『卒を視(み)ること嬰児(えいじ)の如し・・・卒を視ること愛子の如し・・・』
「赤ちゃんのように・・・わが子のように・・・」
そうやってこそ、兵士は、将軍と生死をともにしようと思うようになるのです。

かと言って、可愛がってばかりで命令せず、規則に違反しても罰則をあたえないようであれば、わがまま息子(娘)に育ってしまい、用をなさないようになると、ちゃんと釘を刺しています。

上杉鷹山が、下級武士たちとともに畑を耕した話(3月12日参照>>)を思い出しますね~。
まさに理想の上司です。

味方の兵士の事を知り尽くしていても、敵の強さを知らなければ勝敗は五分と五分。
敵の強さを知っていても、味方の兵士の事を知らなければ、やはり勝敗は五分と五分。
さらに、敵の事も味方の事も充分知り尽くしていても、先ほどの地形の事を把握して、地の利を生かす事ができなければ、やっぱり勝敗は五分と五分。

ですから、敵・味方・地形を知っていれば、
『動いて迷わず、挙げて窮せず』
「事を起こしてから迷う事は無いし、挙兵してから窮地に立たされる事もない」
のだそうです。

そして、最後に地形篇のまとめとも言うべき金言で、この章は締めくくられます。

『彼を知り、己を知れば、勝、乃(すなわ)ち殆(あや)うからず。天を知りて地を知れば、勝、乃ち窮(きわ)まらず』
「敵と味方を把握し、時を待って地の利を活かせば、必ず勝つ」

以上、今日は『地形篇』をご紹介しました。

Sonsi11sansuicc 今日のイラストは、
中国のイメージで『山水画』風な絵を書いてみました~。

いつか行ってみたいな・・・

・・・・・・・・・・・・

★続編はコチラ→『風林火山・孫子の兵法12九地篇』>>

ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
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