家康のイチャモン・方広寺鐘銘事件
慶長十九年(1614年)7月21日は、大坂の陣の引き金となった徳川家康の難くせ・・・『方広寺鐘銘事件』の起こった日です。
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慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)の前後では、「合戦はあくまで豊臣家の内紛であり、徳川家が豊臣家を滅ぼす戦いではない」というポーズをとっていた徳川家康。
そうでないと、天下人である豊臣家に謀反をはたらいた事になって、全員敵にまわっちゃいますからね。
しかし、戦いに勝利してみると、これは完全に豊臣を滅ぼすための戦いだったわけで、その後、征夷大将軍にもなり、もはや徳川の天下も同然。
それでもなかなか家康に屈しない秀頼がやっと重い腰をあげた慶長十六年(1611年)の、徳川家康と豊臣秀頼の二条城での会見・・・この会見で、豊臣家が徳川の傘下に入り、一大名となった事を内外に知らしめた家康さん。
その前後、6月24日のブログ【加藤清正・疑惑の死】で書かせていただいたように、関ヶ原の合戦で東軍に寝返った武将たちが次々とこの世を去り、神妙にも「念仏を書く」という趣味に没頭する家康さんでしたが、この間も、何とか豊臣家をぶっ潰す方法を模索していた事でしょう。
家康にとっては、たとえ一大名としてでも、豊臣家が存続している事が不安でたまらなかったんです。
海千山千を越えて来た家康にとって、秀頼なんて若ぞうは目じゃありません。
怖いのは、秀吉の遺産・・・。
その遺産は大きく分けて二つあります。
一つは、実際にある物質的・金銭的な遺産。
そして、もう一つは、形の無い「秀吉という人物像の影」という遺産です。
家康は、関ヶ原で東軍に寝返った武将に、法外な恩賞を与えつつ、影では先のブログに書いたように、疑惑の死に追いやりながら、形の無い遺産のほうを徐々に消して行きますが、これには少々時間がかかります。
一方の、金銭的な遺産・・・これには、すぐ取り掛かれます。
家康は、戦国の世で荒れ放題になっているお寺や神社の修復を次から次へと秀頼に命じて、少しでも秀吉の遺産を減らそうとします。
京都などのお寺を散策していると、「南北朝の動乱や応仁の乱で焼失した伽藍を、秀頼が再建」というのをよく見かけます。
いかに、たくさんの神社仏閣を手掛けたかがよくわかりますね。
そんな中の一つが、京都の方広寺でした。
もちろん、方広寺の大仏造営はもともと豊臣家の発案だったので、この事業に関しては家康の命というよりは豊臣家の悲願だったのかも知れませんが・・・。
しかし、それでも家康は、別の方法で、もっと早く豊臣を滅亡に導く方法はないものかと模索し続けます。
なんせ、秀吉の遺産は膨大で、使っても使ってもなかなか減らないのです。
こんなチンタラやってるうちに、秀吉恩顧の武将たちにそのお金をバラまかれて、皆が再び豊臣に寝返る・・・なんて事もありうるわけで、「早くぶっ潰すに越したことはない」というのが家康のホンネでした。
そして、方広寺の大仏も完成に近いある日、二条城の庭でくつろぐ家康の耳元である人物が囁きます。
「大仏殿の鐘楼の鐘銘(鐘に書いてある銘文)にイチャモンつけたらどうでっしゃろ?」
「鐘銘に?何と・・・?」
「ワテこないだ、方広寺の鐘を見て来ましてん。ほな、そこに『国家安康』て書いてぁ~りますねん。これ、使えまっせ~。」
「どういう風に?」
「『国家安康』とは、『家康』の2文字を分断して、家康さんを呪った呪文の言葉やっちゅー事で・・・。」
「なるほど・・・」
家康に、この助言をした人こそ、『黒衣の宰相』と称される怪僧・天海です。
彼は、関ヶ原の合戦を終えた家康の前に、突如現れた謎の人物・・・その時すでに70歳を越えていたという老僧です。
しかも、家康だけではなく、秀忠・家光と徳川三代のブレーンとして、強大な発言力を持った人物。
後に家康が亡くなった時、一旦、久能山の葬られていた遺霊を、彼の一言で日光に移されたという事実を見ても、その影響力がわかるというものです(4月10日参照>>)。
そんな大物なのに、家康に出会う前の、その前半生がまったく謎に包まれている事から、『天海は明智光秀ではないか?』という噂まで登場していますが、そのお話は今日の事件とは、あまり関係がないので、また別の機会に・・・「どうしても、すぐ知りたい!」とおっしゃるかたは、HPのほうでその事を書いていますので、よろしかったらコチラからどうぞ>>>。
・・・で、『駿府記』の7月21日の条には、
『伝長老・板倉内膳両人これを召す。仰せにいわく、大仏鐘銘に関東不吉の語あり、上棟の日も吉にあらずと、御腹立云々』
と、あります。
家康はその『国家安康』の文字と、もう一つその横に書いてあった『君臣豊楽』の文字を「豊臣を主君として楽しむ」という意味だ・・・という解釈ができるとして、京都五山の僧侶たちを使って批判させるのです。
そして、秀頼に「謝りに来い!」というワケです。
しかし、そんなイチャモン丸出しの難くせに秀頼が誤るわけがありません。
いや、むしろ家康にしてみれば、謝ってもらっては困るのです。
なんせ、豊臣をぶっ潰すきっかけを探しているんですから・・・。
その証拠に、その呪いの言葉が書かれたはずの方広寺の鐘は、今も、その呪いの言葉が書かれたまま現存するのですから・・・。
本当に鐘に書かれている言葉が呪いの言葉だと思っていたのなら、すぐにでもぶっ潰すはずです。
しかし、ぶっ潰されたのは、鐘のほうではなく、豊臣家のほう・・・これをきっかけに、家康は更なる無理難題を引っさげて、最終的に冬と夏の大坂の陣(11月29日参照>>)へと突入する事となるのですが、この続きのお話は、更なる展開があった「その日・8月20日」へどうぞ>>>。
京都・方広寺への行きかたやくわしい地図はHPにあります。よろしければコチラからどうぞ>>>
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