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2007年7月25日 (水)

平忠度の都落ち~平家物語~

 

寿永二年(1183年)7月25日、北陸での大敗を報を受け、木曽義仲がすぐそばに迫っている事を知った平家一門は、都での戦を避け、わずか6歳の安徳天皇を奉じて、西海へと落ちのびます

昨年の今日は、【平維盛の都落ち】(2006年7月25日参照>>)を書かせていただきましたので、今日は、同じく『平家物語』から「忠度の都落ち」をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・

平忠度(ただのり)は、あの平清盛の末弟・・・

一門の中でも、文武両道に優れた人で、大将を務めた一の谷の合戦(2月7日参照>>)では、その死に際して、「敵も味方も関係なく泣き悲しんだ」というくだりから、その人柄の良さも伺える人物です。

彼の都落ちのシーンは、やはり平家物語の屈指の名場面で、謡曲や浄瑠璃にもなっている有名な物語です。

この日、彼は、一門と一緒に、一旦、都を出ますが、自分を含めたわずか七騎で、再び戻って来るのです。

それは、五条に住む藤原俊成(ふじわらのとしなり)という人物に会うため・・・。

忠度は、その歌の才能でも知られた人でしたが、実はそんな彼の歌の師匠が俊成なのです。

忠度が、俊成の邸宅の前に来ると、門がビッシリ閉ざされています。

「忠度です!」
彼が、思いっきり大声で名乗ると、門の中では「平家の落人がやって来たぞ~」と大騒ぎです。

慌てて
「大した事ではありませんが、三位殿(俊成のこと)に申し上げたい事があるので帰ってきました。門を開けなくてもよろしいんで、このそばまで来ていただいて、お話を聞いてください」
と叫びます。

それを聞いた俊成は「彼なら大丈夫」と、門を開きます。

忠度は、そのふところに、巻物を持参していました。

そこには、自分が日頃、書き溜めた百余りの歌が書きとめられていたのです。

彼は、歌の道が大好きでした。

俊成を師匠と仰いで歌の道に入り、その楽しさに目覚め、毎日のように師匠の邸宅へ通った日々・・・しかし、ここ2~3年は、合戦にあけくれ、この邸宅へも通えない日々が続いていたのです。

しかし、その間も、合間をみては、書き綴った歌の数々を、俊成に見せたくて彼は舞い戻ってきたのです。

忠度は、歌の書かれた巻物を俊成に渡しながら言います。

「世は乱れ、もはや平家の運命も先が見えていましょう。
しかし、この世が静まれば、再び撰集のご命令が出るかも知れません。
その時には、生涯の名誉のため、この中から適当な歌を選んでいただいて、たとえ一首でも歌集の端っこに加えていただいたら、墓場の影から喜んで先生をお守りしますよ。」

そう、実は以前、朝廷から俊成に「新しい歌集を作るように」との命令が出ていたのですが、この源平の合戦で、その話は立ち消えとなっていたのでした。

「こんな大切な品を預かったからには、決してムダにはせぇへんで~。わざわざ戻って来て届けてくれるやなんて・・・俊成・感激!」
と俊成が言うと、

「これで、西海の海に沈もうが、野山で朽ち果てようが、思い残す事はありません。」
と忠度・・・

ササァ~っと馬に乗り、甲の緒をしめて、西へ向かって馬を進めます。

暗闇の中に消え行くその後姿を見つめる俊成・・・
すると、立ち去りながら口ずさむ忠度の歌が聞こえてきます。

♪前途はほど遠し。思いを雁山(がんざん)の暮雲に馳す♪
「この先の前途は遠い。その途中、暮雲のたなびく雁山を越えるかと思うと、なおさら悲しい」

この歌は、朗詠集にある「送別の歌」・・・この後半には、
♪後会の期は遥なり♪
「この後、いつ会えるかわからない」
という歌詞が出てくるのですが、その部分は歌わずに去っていくところが、カッコイイ~。

俊成ならずとも、涙がドワ~っと出るシーンです。

ずいぶん経ってから、俊成は『千載集』という歌集を作ります。

その中には、『故郷の花』という題名で、一首の歌が収められています。
♪さざ波や 志賀の都は 荒れにしを
 昔ながらの 山桜かな♪

「昔の志賀の都は荒れてしまったけれど、長良山の山桜は昔のままに咲いている事だろう」

源氏の世となった時、平家は朝敵(天皇にはむかった国家の敵)・・・賊軍となります。

そのため、この歌は、歌集には「よみ人知らず」として収められています。

忠度が朝敵になってしまったため、たくさんの秀作の中から、たった一首しか収められなかった事を、俊成は最後まで嘆いていたと言います。
 

Tadanorimiyakooticc 今日のイラスト、
やっと書けました~涙涙・・・の別れのシーン!

もう少し絵がうまければねぇ~一幅の名画のよう・・・と言いたいところなんですが・・・。
うまくなるように、練習に励みますです。
 .

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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

今晩は。
暑いのにもめげず、毎日面白くお書きになられる。感心しております。楽しく読ませていただいております。
薩摩守忠度の
さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
桜の和歌はたくさんありますが、これはとても好きです。

千載集に読み人知らずとなっているのは、本当にお気の毒です。
若かりし頃、”薩摩守”=電車のただ乗り(忠度)=キセル
時効でしょうが、誰しもやっていたこと。
忠度さんを汚す様でお気の毒
でもそれだけ、愛され、後世までも名を留めているということなのでしょうね。

投稿: さと | 2007年7月31日 (火) 19時41分

>さと様・・・
ココログのメンテナンスで、コメントのお返事が遅くなってしまいました~
いつも、ありがとうございます~。

>”薩摩守”=電車のただ乗り(忠度)=キセル・・・そう言えば、そんな風に言ってましたね~。
今、思えば、学のあるギャグですね。
それだけ、忠度さんが有名だったって事でしょうけど・・・。

>暑いのにもめげず、毎日・・・たはぁ~、お恥ずかしいです。
もともと、歴史の話をしたら止まらないタイプで・・・嫌がられながらも、ひっつかまえてしゃべっていたので、ブログという便利な物ができ、聞いてくれる(Web上では見てくれるですが・・・)人がいてくださるので、これ幸いと書いてます(^o^;)

投稿: 茶々 | 2007年8月 1日 (水) 16時07分

はじめまして!
自分は受験生なんですが、
今"忠度の都落ち"
を勉強してますo(^-^)o
訳を探していたら...
とってもわかりやすいサイトが!
わかりやすくって、
ありがたいです☆
かなり前の日記にコメントするのも
どうかな~……
と、思いましたが⇔
あまりに感激したので↑↑
でわでわ♪+

投稿: (∀) | 2008年4月12日 (土) 21時47分

(∀)さん、はじめまして~
コメントありがとうございます~

私自身、難しい言葉が苦手です。
専門の方々から見れば、とても幼稚な文章だとは思いますが、いつも、「できるだけわかりやすく」というのを最優先にしていますので、「わかりやすかった」と言っていただければうれしいです。

左サイドバーには「平清盛と平家物語の年表」として、平家物語のいろんなお話へのリンクを置いていますので、このすぐ後の宇治の橋合戦や、一の谷・屋島・・・などなど、また、お勉強の合間に遊びにきてくださいね。

投稿: 茶々 | 2008年4月12日 (土) 23時12分

俊成の子供は、定家ですが、忠度の影響があるのでしょうか。

投稿: 6幡太郎 | 2012年7月27日 (金) 09時40分

6幡太郎さん、こんばんは~

定家は20歳くらいですが、何かあるのですか?

投稿: 茶々 | 2012年7月28日 (土) 03時08分

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