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2007年7月19日 (木)

伏見城攻防戦と養源院の血天井

 

慶長五年(1600年)7月19日、徳川家康が留守にした伏見城を、石田三成の命を受けた毛利秀元・小早川秀秋らが攻撃・・・あの関ヶ原の合戦へ向けての、武力闘争が開始されました。

・・・・・・・・・

慶長三年(1598年)8月18日、あの豊臣秀吉この世を去りました(8月18日参照>>)

五大老五奉行に任命した彼らに、わずか6歳のわが子・秀頼の将来を託して(8月9日参照>>)の死でした。

しかし、徳川家康はこの時すでに60歳前・・・一刻も早く、天下を手中に収めたい。

おそらくは、家康は、「このまま、豊臣傘下の大名として生きるのではなく、自分こそが次に天下を握る者なのだ」と、心の奥底では考えてはいたのでしょうが、秀吉の死の寸前、五大老として制約をかわした以上、あからさまな裏切りに行為に走っては、周囲の反感を買うだけです。

なんせ、まわりにいるのは全員、豊臣の家臣なワケですから・・・。

しかし、秀吉という大黒柱を失った豊臣家には、秀吉とともに合戦で血と汗を流してきた武闘派と、天下を取ってからの政治をサポートしてきた文治派との間に、大きな溝ができ始めていました。

家康はそこに目をつけ、福島正則加藤清正ら武闘派の面々を味方に引き入れつつ(3月4日参照>>)、豊臣氏の持ち城であった伏見城に居座り続け、『重要事項は五大老・五奉行の協議で決定する』という先の誓約を破り、重要事項を独断で決定し始めたりします。

もちろん、これは家康の、相手をブチ切れさせるための作戦です。

家康としては、ここで一発合戦をぶちかまして、一気に天下を掌握したいけれど、戦を仕掛けるには大義名分が必要です。

それがないと、ただの謀反になってしまいます。

もちろん、文治派のリーダー的存在の石田三成は、これらの家康の態度に難色を示し、一触即発の緊張した状態となりますが、さすがは文治派、なかなかその「一触」を仕掛けてはきません。

そこで、家康は、自分が居座り続けている伏見城を、留守にする事にします。

「自分が、伏見城にいなければ、その間に、何か仕掛けて来るに違いない」と睨んだのです。

ちょうど、その頃、五大老の一人・越後(新潟県)上杉景勝が無断で領国へ帰り、その後「五大老なのに、ちっとも京へやって来ない」という出来事があり(4月1日参照>>)、この行為を「謀反にあたる」という理由をつけて、家康は景勝の本拠地・会津城(福島県)へ向かうのです。

そう、はっきり言って、伏見城は「おとり」となったのです。

伏見城の留守を預かるのは、本丸の鳥居元忠・内藤家長、三の丸の松平家忠・松平近正、以下、1800名ほど。

家康の未来のために、捨て駒となった彼らの前に、慶長五年(1600年)7月19日、予想通り、三成の命を受けた毛利秀元小早川秀秋が現れ、伏見城に猛攻撃を仕掛けるのです。

豊臣方の軍勢は4万以上の大軍。

それでも、連日連夜の猛攻撃に、櫓一つ落ちなかったのは、やはり、捨て身の彼らの命の重さによる物でしょうか。

25日には宇喜多秀家が、29日には石田三成自らが出馬し、さらなる猛攻撃を仕掛けます。

最終的には、伊賀の忍びの者を使い、城のあちこちへ放火する作戦に出る豊臣勢。

さすがの伏見城・防衛隊も、同時多発の放火には対処できず、とうとう豊臣方の城内への侵入を許してしまいます。

攻撃開始から14日目の8月1日午後、伏見城は落城しました。

三の丸の松平家忠は討死・・・城将を務めていた鳥居元忠は、その場に生き残っていた約300名とともに、本丸の廊下にて自刃します。

この、伏見城の攻防戦をかわきりに、三成は畿内やその周辺へと軍勢を展開させ、天下分け目の関ヶ原に突入(9月15日参照>>)していく事になります。

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ところで、京都・東山区、三十三間堂から道を挟んだ東側に養源院というお寺があります。

Yougenintitenzyoucc このお寺は、秀吉の側室・淀殿が、小谷城の合戦で破れて亡くなった父・浅井長政二十一回忌に建立したお寺です。

その後、火災に遭って一部焼失したのを、淀殿の妹で、二代将軍・徳川秀忠に嫁いだ小督(於江与・江)が、落城した伏見城の遺構を移築して再建し、以後、徳川家の菩提所となったお寺です。

この養源院の本堂の廊下の天井には、伏見城・落城の時に、鳥居元忠以下の将士たちが、最後に自刃した廊下の板の間・・・彼らの血に染まった板が使用されていて、『血天井』と呼ばれています。

私は、この話を聞いた時、「なんで、そんな血に染まった板を再利用するんやろ?コワイがな」と思っていました。

不謹慎ですが、最初、このお寺に訪れる時は、怖い物見たさ・・・というか、心霊スポットにでも行くような気持ちでした。

しかし、行ってみて、お寺のかたの説明を聞いてるうちに考えが変わりました。

戦国に生きた人々と現在の私たちの死に対する感覚がまったく違うという事を知ったのです。

明日をも知れない戦国の世で、城を守るために自刃した彼らの霊は、尊敬の対象にはなっても、怖がる存在ではないと言う事。

だからこそ、英雄の事を忘れないために血に染まった廊下を保存し、「足で踏むなどもったいない」と天井にあげたんです。

最初、天井に人の形を見つけた時は驚きました。

説明を聞くまでもなく、顔の向き、手足の方向・・・鳥居さんのその日の姿はっきりをわかるからです。

しかし、最後には怖いなどという感覚はまったくなくなりました。

Yougeninsugitoecc 先日の大河ドラマで、千葉真一さん演じる板垣が、主君の盾となり、槍となって死ぬ事は『武士(もののふ)の誉れ』と言って、壮絶な最後を遂げました。

もちろん、あれはドラマですが、戦国に生きる人々にとって、そのような心情がある事をあらためて知らされました。

徳川の世になった後、この養源院の天井を見上げた武士たちは「彼らのこの血があったからこそ、今の世があるのだ」と、その手を合わせた事でしょう。

 

養源院へのくわしい行き方や地図は、本家ホームページ:京都歴史散歩に掲載しています。よろしければコチラからどうぞ>>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

 思い出しました~♪
手形がありましたねえ。確かに供養とはいいながら、なんとも凄まじいもんですが、コレで、お客を呼ぶのかい・・なんて思ったこともありますが、素直な「へ~!」も、或る意味、供養であるかも。忘れないってことですし。イタリアの骸骨寺(見に行ったことはありませんが)なんかに比べたら、まだおぞましさはさほどではないし・・。

投稿: 乱読おばさん | 2007年7月19日 (木) 10時25分

他の場所は、テープによる説明なのに、あの血天井の部分だけ、「これが手、これが顔・・・」という、指し棒で指ながらの生説明・・・やっぱり、お寺の一押しなんでしょう。
今となっては、一人でも多くの人に見てもらう事が供養になるんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2007年7月19日 (木) 17時50分

茶々さん、こんばんは!

「血天井」といえば、わが街・宇治にある曹洞宗の寺院・興聖寺(←紅葉の風景で有名な琴坂で有名!)の本堂もそうなんですよね。

先日、叔母の四十九日の法要が本堂で行われたのですが、本堂の脇に「血天井」の説明板が掲げてました。

ところが、僕は霊感が強い方で、途中で気分が悪くなっちゃったんですよね。

同じように霊感が強い従兄弟も気分が悪くなったようですが、従兄弟が言うには「この山(寺院全体)はお坊さんの法力が強いからまだましな方」との事でした。

僕自身、こんな感じなので、最近ではむやみに偉人さんたちの墓参りができないでいます。(下手をすると憑いて来られるので…笑)

投稿: 御堂 | 2007年7月22日 (日) 21時17分

御堂さん、こんにちは~
そうですね、伏見城の廊下は数ヶ所のお寺に分けられたようですね。
私は、養源院しか見ていませんが・・・。

霊感ですか・・・
私は鈍感なので、そのような経験は一度もないのです。

以前、住んでいた家では、けったいな事がよく起こるので、座敷ワラシがいるんじゃないか?なんて話たりもしてましたが、気分が悪くなった事はありませんね。

勝手な考えですが、お墓は供養されてるので大丈夫なんじゃないでしょうか?

どちらかと言えば、応仁の乱や南北朝の動乱で何度も戦場となった京都の町中や、飢饉の時には死体で埋め尽くされた鴨川のほうがアブナイ気が・・・

投稿: 茶々 | 2007年7月23日 (月) 09時10分

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