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2007年7月13日 (金)

新井城の攻防!北条早雲・相模を制覇

 

永正十三年(1516年)7月13日、戦国の風雲児・北条早雲が相模の平定を完成させた新井城攻防戦がありました。

・・・・・・・・・・

生まれも育ちもはっきりしない北条早雲・・・。

本名は伊勢新九郎長氏で、出家して早雲に・・・そして、息子・氏綱の代から北条と名乗りはじめるので、厳密に言えば北条早雲という人物はいないのですが、通常この名前で通っていますので、このブログでも北条早雲で通させていただきます。

そんな氏素性のはっきりしない早雲が、妹のコネを使って今川氏に入り込んだのが50歳・・・この時から彼は、歴史の表舞台に登場します。

やがて、早雲64歳の明応四年(1495年)、相模・小田原城(神奈川県小田原市)を攻略して、後に北条氏の拠点となる城を手に入れました(2月16日参照>>)

それから二十年間・・・コツコツとやって、相模(神奈川県)一帯をほぼ手に入れますが、新井城(神奈川県三浦市)を拠点とする三浦氏にだけは、まだ、手を出せていませんでした。

当時の三浦氏の当主は三浦義同(よしあつ)・・・

しかし、80歳を越えた早雲・・・そろそろ人生の総仕上げとばかりに、三浦氏に狙いを定めます。

永正九年(1512年)頃から、三浦氏が保持していた相模・岡崎城(神奈川県平塚市)への攻撃を繰り返し、たまらず義同は、嫡男・義意(よしおき)とともに、相模・住吉城(神奈川県逗子市)へ脱出(8月12日参照>>)・・・さらに、拠点の新井城へ移動し、籠城作戦に出ます。

しかし、さすがは早雲。

もともと若い頃から、石橋を叩いても渡らないような周到な性格の上に、これだけの年を重ねれば、「血気にはやる」などという事はなく、相手が籠城を決めたのなら、こっちはじっくりと絶好のチャンスを待つ作戦に出ます。

やがて、永正十三年(1516年)(長・・・!よく、4年も待ったなぁ)7月、関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉朝興(ともおき)が、新井城を救援すべく動き始め、これをチャンスと見て取った早雲も、やっと動き始めます。

とは言え・・・いざ、動き始めたら、これ、また、素早い!

早速、朝興の身を確保!

とりあえずは、新井城に若干の援軍が到着しましたが、肝心の「ヌシ」が捕虜の状態となってしまっては、その先の計画はすべて白紙状態です。

しかも、その間に新井城の兵糧は尽きてしまいました。

勢い覚めやらぬ早雲の軍勢は、新井城の兵糧の「ある・なし」を知ってか知らずか、そのままの勢いで、永正十三年(1516年)7月13日(もしくは7月11日)新井城へ突入します。

この時の北条軍の総攻撃は、凄まじいもので、多くの三浦の将兵の血で、あたりの海は真っ赤に染まり、それ以来この場所を「油壺」と呼ぶようになったと言われています。

城内に篭もっていた義同・義意父子も、この状況を目の当たりにして、「もはや、これまで・・・」と、覚悟の自刃で果てました。

ここに、早雲念願の、相模制覇を成し遂げたのでした。

鎌倉時代に執権となった北条氏と区別するため、後北条氏と呼ばれる早雲の北条氏は、この後、豊臣秀吉に小田原城を落とされる(7月5日参照>>)までの約70余年・五代に渡って君臨し、戦国の歴史にその名を残す事になります。

早雲自身は、2年後、息子に家督を譲り、その翌年、88歳で、当時の平均年齢を考えると、大往生と言える死を遂げました(8月15日参照>>)

Houzyousouunhata3dcc 今日のイラストは、
んん~、やっぱり、80歳を過ぎた現役バリバリのジィチャン武将というのが、なかなかイメージできない~・・・て、言うか、カッコ良いお年寄りを絵にするのが難し~い。

さしずめ、今、再びインディージョーンズを撮ってるハリソン君みたいな感じかな?
それでも、まだ若いがな!

・・・て、事で『後北条家の旗』をデザインしてみました~
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コメント

 油壺は子供の頃に海水浴にいったことがあります。茶々様がお書きになられたように、油を流したように見えた、というような碑文があったように記憶しています。

 三浦義意は身長七尺五寸(アンドレ・ザ・ジャイアントよりでかい!)で八十五人力の怪物。数百人の北条勢をなぎ倒した後、自ら首を打ち落とし、舞い上がった生首は小田原城の近くの松にかぶりつき、三年の間呪詛を放ち続けたとの怪談が伝えられていますね。

 三浦親子の仏教上の指導者であった忠室和尚が鎮魂の和歌を詠んだところ、生首が白骨化して呪いが解けたとの伝説が、義意を奉った居神神社に残っているようです。

 なんといいますか、怖いというよりは、もののあわれを感じてしまう話ですね…合掌。

投稿: とらぬ狸 | 2015年4月 9日 (木) 20時39分

とらぬ狸さん、こんばんは~

>怖いというよりは、もののあわれ…

そうですね。
世は戦国…源平の時に似た哀れさがありますね。

投稿: 茶々 | 2015年4月10日 (金) 03時12分

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