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2007年7月 2日 (月)

恋に戦に・新田義貞の純情

 

延元三年(建武五年・1338年)閏7月2日、建武の新政権に功績を残した新田義貞が、北陸で奮戦中、討死しました。

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正中の変(9月19日参照>>)元弘の変(9月28日参照>>)と、2度に渡って鎌倉幕府打倒に失敗をした後醍醐(ごだいご)天皇が、流されていた隠岐から脱出し、楠木正成らとともに三度めの幕府打倒を画策し始めます。

その事を察知した時の執権・北条高時が、後醍醐天皇を撃つべく鎌倉から京へ派遣した足利高氏は、後醍醐天皇派に寝返り、幕府を相手に京の町で大暴れ(5月7日参照>>)

それを伝え聞いて、高氏の子・千寿王のもとに集まった反幕府派の武士たち・・・そのまとめ役として彼らを率いたのが、今日の主役・新田義貞でした(5月11日参照>>)

破竹の勢いで、東国の武士たちの先頭に立って鎌倉の本拠地へ攻め入る義貞は、あの稲村ヶ崎での伝説を残し(5月21日参照>>)、北条高時を自害に追い込み、鎌倉幕府を倒すという大殊勲あげる時代のヒーローとして歴史の舞台に登場します(5月22日参照>>)

しかし、幕府滅亡後の建武元年(1334年)に天皇の復権を夢見て、後醍醐天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)は、あまりにも公家中心であったため、武士たちは不満ムンムン。

その不満は、わずか二年で爆発します。

建武二年(1335年)、「鎌倉幕府最後の執権だった北条高時の遺児・時行が幕府復興を願って、鎌倉に攻め入り占領する」という事件が起こりますが、乱の鎮圧のために、鎌倉に向かった足利尊氏(高氏から改名)は、乱を鎮圧後も京には戻らず、鎌倉にその身を置いたまま、天皇に反旗をひるがえすのです(12月11日参照>>)

天皇は、義貞に尊氏追討を命じます。

同じ清和源氏・八幡太郎義家を祖に持つ尊氏と義貞・・・しかし、義貞は素直に天皇の命令に従い、尊氏を撃ちに出陣します。

やって来た新田軍を撃ち破った尊氏は、その勢いで京に攻め上りますが、奥州から駆けつけた北畠親房楠木正成、そして、態勢を立て直した新田軍に攻められ、命からがら九州へと敗走します(1月27日参照>>)

建武の新政の武士への扱いに不満を抱いて立ち上がった尊氏と、同じ武士でありながら天皇に忠誠を尽くす義貞と正成・・・。

後醍醐天皇の命令は、いつも公家中心・・・直属の軍隊を持たない後醍醐天皇にとって彼らがいなくては、やっていないはずなのに、けっこう扱い悪いです。

ひょっとして後醍醐天皇は、尊氏に義貞を差し向けた時でも「北条氏のように武士が力をつけて、またまた武家政権が復活されでもしたら大変!武士同士争って共倒れになってくれれば、それに越したことは無い」くらいに思っていたのかしら?

義貞も正成も、そんな後醍醐天皇に不満を持っていたのかも知れませんが、やはり、楠木正成の場合は、彼は領地を持たない悪党であり、後醍醐天皇という看板が無ければ、ただのはみ出し者に成り下がってしまいますからね。

そして、新田義貞の場合も、同じ源氏の名門で、しかも新田の方が直系なのに、なぜか「足利氏の方が上」の感がぬぐえない・・・

武士たちの人望は厚く、武家の棟梁としての才覚も持っていた尊氏に対して、彼も、同じ源氏の名門として、武家を統率したいという野望がある以上、尊氏と互角に戦い、後醍醐天皇という「錦の御旗」をバックに着けておかなければならなかったのかも知れません。

もちろん、そこには、天皇という君主の信頼に答える事を喜びとする古いタイプの武士だった義貞の純情で素朴な性格という物も影響している事は確かです。

そんな、彼の純情さは、恋愛においても発揮されます。

九州へ逃走した尊氏に追い討ちをかけるかどうかの相談をしに、天皇のところへ出向いた義貞は、宮中で一人の女性を見かけます。

静かに琴を弾くその美しい姿に、一瞬にして恋に落ちる義貞・・・

『中将(義貞)行方も知らぬ道にまよひぬる心地して、帰る方もさだかならず、淑景舎(しげいしゃ)の傍にやすらひかねて立ち明かり』・・・と、これは、『太平記』に記されているその日の義貞の様子。

淑景舎とは、彼女の邸宅。

義貞は、あまりにもポーっとなってしまったため、どこをどう通って家に帰ってよいのかさえわからず、彼女の家の前で立ちすくんだまま、一夜を明かしたと言うのです。

この時、義貞36歳・・・36歳ですよ!
まるで、10代の少年のような恋心です。

もちろん、次の日もその次の日も、思うのは彼女の事ばかり・・・食事もノドに通らずげっそりと痩せてしまいます。

彼女は、公家・一条経尹(つねただ)の娘・・・本名はわかりませんが、天皇に仕える下級女官の官職名・勾当内侍(こうとうのないし)と呼ばれていました。

義貞の胸の内を伝え聞いた後醍醐天皇は、「そんなに思いつめているのなら・・・」と、彼女を義貞に与えます。

義貞は、もう狂喜乱舞!
片時も彼女を離さず溺愛します。

彼女も、それに答えます。

無骨なアズマ男の義貞ですが、その分純粋で彼女一筋・・・一方の後醍醐天皇は正式なお后だけで18人というスゴ腕ですから、かえって嬉しかったのかも知れません。

この後『太平記』は、
『中将、内侍に迷うて、勝つに乗り疲れをせむる戦ひを事とせず。そのつひえ、はたして敵のために国を奪われたり』
と、「義貞が負けたのは、内侍との恋に溺れたせいだ」と書いています。

本当にそうなのかどうかは、わかりませんが、確かに、この後の義貞は、なぜか勝ちに見放されてしまうのです。

逃走先の九州で態勢を立て直した尊氏は、湊川の戦いで、新田軍、楠木軍を破ります(5月25日参照>>)

正成は討死し、義貞は京に敗走・・・やがて、京にも攻め込んできた尊氏の勢いに押され、越前へ退去します(10月13日参照>>)

その時、京の都に、彼女を残したまま落ちた義貞・・・越前で奮戦するも、なかなか思うようには勝利できず、すぐに京を奪還する見通しが立たないと判断した義貞は、彼女を越前に呼び寄せる事にします。

彼女は、すぐに身支度を整え、一路、越前へと向かいます。

しかし、義貞は、延元三年(建武五年・1338年)閏7月2日、敵が篭もる藤島城に向かう途中、遭遇した別隊の敵の矢に眉間を撃ち抜かれ、彼女の到着を待たずに命を落とすのです。

彼女と始めて会ったあの日から二年・・・38歳の夏でした。

その後の彼女は、尼となって京の嵯峨の庵で、義貞の菩提を弔いながらひっそりと暮らしたとも、狂乱して琵琶湖に身を投げて義貞の後を追ったとも言われています。

恋にも、戦にも純情を貫いた義貞・・・もう少し世渡り上手なら、彼の人生は違う結末を迎えたのでしょうか。

Dscn6940a600 現在、京都嵯峨野にある滝口寺には、新田義貞の首塚のすぐそばに、寄りそうように勾当内侍の供養塔が鎮座しています。

(滝口寺への行き方は、本家HP「京都歴史散歩:嵐山」でどうぞ>>
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