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2007年8月22日 (水)

信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い

 

慶長五年(1600年)8月22日、『関ヶ原の合戦』の前哨戦である『岐阜城の戦い』で、最初の野戦が繰り広げられました。

・・・・・・・・・・・・

会津征伐(4月1日参照>>)を口実に伏見城を出た徳川家康は、慶長五年(1600年)7月25日、小山付近に布陣し、ここで軍儀を開きます。

ともに会津征伐のために畿内を出発した武将たちに、敵は会津ではなく、西軍・石田三成である事を告げ、このまま自分に味方するか、畿内に戻って西軍につくかの判断をあおいだ有名な『小山評定(ひょうじょう)です(7月25日参照>>)

軍儀では、豊臣秀吉亡きあとに浮上した豊臣家内での亀裂(3月4日参照>>)によって「三成、腹立つ!」で凝り固まっていた福島正則が真っ先に手を上げ、それに触発された武将たちが「我も」「我も」と同調し、その場にいたほとんどの者が家康の東軍につく事を表明します。

その時、先頭に立った福島正則はもちろん、一緒にノリノリで手を上げた池田輝政山内一豊は、自らの居城と蓄えた兵糧を家康に差出し、先陣を切って東海道を西へと進みます。

一方の畿内では家康が留守にした伏見城が8月1日に落城(7月19日参照>>)する中、北陸では8月8日浅井畷(8月8日参照>>)で・・・と、各地の武将を巻き込んでの関ヶ原の前哨戦が繰り広げられました。

その間にも、西へ西へと東海道を進む東軍(8月11日参照>>)・・・やがて、一豊の掛川城(静岡県)を経て、正則の尾張・清洲城(愛知県)へとやってきた彼らの前に立ちはだかるのは、豊臣側につく織田秀信の居城・岐阜城です。

岐阜城主・織田秀信は、あの織田信長の嫡孫・・・そう、本能寺で信長が亡くなった後、その後継者選びの『清洲会議』(6月27日参照>>)で、信長の三男・信孝を推す柴田勝家に対抗して、秀吉が担ぎ上げた亡き長男・信忠の息子=三法師(当時3歳)です。

彼は、この時21歳の若武者に成長していました。

祖父が残した難攻不落の岐阜城を、何としてでも守り抜かねばなりません。

あの美濃のマムシの異名をとる斉藤道三(4月20日参照>>)が残した難攻不落の稲葉山城を、やっとの思いで手に入れた信長が(8月15日参照>>)城下町の名を岐阜に改め、さらに難攻不落の城に造りかえた岐阜城・・・後に安土城に移ったとは言え、信長が生涯で最も愛した城はこの岐阜城でした。

日本最初の天守閣を、それも、山の頂上とふもとの二箇所に持ち、豪華絢爛たるその造りはまるで宮殿のようであったと言います。

しかし、今回ばかりはそんな難攻不落の岐阜城と言えども、いきなり城に篭もっての籠城作戦とはいきません。

なぜなら、迫り来るのは、福島正則・池田輝政・山内一豊の三人なのですから・・・。

福島正則と山内一豊は、もともと秀吉傘下の武将。

その秀吉は信長の傘下で、信長がこの岐阜城にいた頃は、彼らも皆、岐阜に住んでいたわけで、彼らにとって岐阜の城下は庭みたいな物です。

池田輝政に至っては、信長とは乳兄弟の家系で、かつては岐阜城主を務めていたのですから、城内のすべてをお見通しです。

かくして、彼らが岐阜城に迫った慶長五年(1600年)8月22日・・・秀信は果敢にも撃って出ます。

それも、ド肝を抜くようなド派手な衣装で・・・。

もちろん、これは、もともと秀信が派手好きであったという事もありますが、どうやら彼の一つの作戦だったようです。

それは、迫り来る彼らに、できるだけ大きく、そして強く見せたいがため・・・なかでも、未だにかつての主君・信長を愛してやまない池田輝政に、亡き信長の姿を思い起こさせるような派手ないでたちで登場し、まさにド肝を抜いてやろうという作戦だったのです。

しかし、やはり、地の利を知り尽くした彼らは強かった・・・。
木曽川を渡った彼らは(2015年8月22日参照>>)みるみる秀信の陣へ殺到し、次々と首級をあげていきます。

やっとの思いで、秀信自身は岐阜城に逃げ帰り、次は籠城作戦で・・・と考えますが、野戦での負け戦を耳にした城兵は、もはやヤル気ゼロ。

翌・23日には、福島隊、池田隊、山内隊が一斉に、城下へ突入し、城に向かって総攻撃をしかけ、あっと言う間に櫓を落とし、さらに奥へと殺到します。

敵は総勢3万5千の大軍。
それにに対して、城を守るのはわずか6千。
しかも、もとよりヤル気ゼロの城兵たちは、抗戦を断念・・・岐阜城は落城してしまいます。

秀信は武士の習いとして自刃して果てようとしますが、これを池田輝政が説得・・・お~っと、ここでやっと効きめが出たか?信長のDNA作戦!

さらに、敵将であるのだから処刑は当然と言う徳川の武将に対して、福島正則が彼の助命を懇願・・・「もともと、我らは、恩義ある織田家に対して戦を挑んでいるわけではない。
しかも、もうすでに降伏をしている者をあえて殺す必要はないのではないか?」
と説得します・・・泣かしてくれますね~正則さん・・・またまた効いてるのか?信長のDNA作戦!

結局、秀信は高野山へ送られて仏門に入り、その5年後の慶長十年(1605年)5月8日26歳の若さで亡くなる事となります。

彼には子供がいなかったため(正式ではない文書には、女の子がいたという記録もありますが・・・)あの天下の勇将=信長の嫡流は、ここで断絶という事になってしまうのです。

おおむね西軍の勝利に終る前哨戦の中では、この岐阜城の戦いは手痛い敗戦で、これによって、東海道のほとんどが東軍の物となり、やがては、関ヶ原へと向かっていく事になるのですが・・・その前には、まだいくつかの前哨戦が行われます。

関ヶ原の前哨戦については、左サイドバーの【関ヶ原の年表】>>からご覧下さい。

Odahidenobugifuzyoucc 今日のイラストは、
やはり主役の織田秀信さん。

『ジッチャンの名にかけて岐阜城を死守』したかったでしょうが・・・残念です。

秀信さんのトレードマーク・烏帽子型の甲に、信長さんを思わせるいでたちで描いてみました~。
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コメント

織田信長の嫡孫である織田秀信(幼名は、三法師)が、なぜ、石田三成が率いる西軍に味方したのかは分かりませんが、確実に言えることは、運が悪かったとしか言い様がない人生を送ってしまったことですね。秀信の転落人生は、明智光秀が、本能寺の変を引き起こしたことに始まり、光秀死後は、清洲会議において、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、秀信を織田家の当主に据えることで、秀吉自身の野望が、正当化されたことによるものが大きいですね。もし、秀信に救いがあるとしたら、秀吉が織田家を滅ぼさなかったことではないでしょうか。詰まるところ、織田家の正統な後継者である秀信は、秀吉に翻弄されてしまった、哀れな人だったと思います。

投稿: トト | 2016年3月 3日 (木) 19時57分

トトさん、こんばんは~

個人的な思い込みかも知れませんが、秀吉には織田家を滅ぼす気持ちは無かったように思っています。

信孝の一件は、あくまで柴田勝家がらみの敵対関係であったが故(しかも信孝と直接戦ったのは織田信雄です)で、織田信雄も長益も信包なんかも生きてますから…

関ヶ原は…
どうなんでしょうね~
信雄が大坂にいて長益が東軍で…ひょっとしたら織田家も、どっちが勝っても生き残り作戦の保険かけてたかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年3月 4日 (金) 03時11分

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