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2007年8月28日 (火)

末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲の連携プレーで守りぬけ!

 

天正十二年(1584年)8月28日、徳川方に属した佐々成政が、羽柴(豊臣)方に属す前田利家朝日山砦を攻撃し、北陸版・小牧長久手の戦いが勃発しました。

・・・・・・・・・・・

そもそもは、本能寺の変(6月2日参照>>)によって織田信長と、その後継者であった長男・信忠が亡くなった事によって、当然のごとく持ち上がる後継者争いから始まります。

信長の死からわずか2週間後に行われた清洲会議(6月27日参照>>)では、信長の次男・信雄と三男・信孝を押さえて、わずか3歳の信忠の遺児・三法師(後の秀信)後継者に決定します。

もちろん、これは三法師の後見人的立場に立っていた羽柴(豊臣)秀吉作戦勝ちといった感じ・・・誰よりも早く京へ舞い戻り、主君の仇である明智光秀山崎の合戦(6月13日参照>>)で倒した事で、織田家・家臣の中でかなり優位な立場に立った秀吉が、丹羽長秀(にわながひで)池田恒興(いけだつねおき)を丸め込んで多数決で決定したのです。

納得いかないのは三男の神戸信孝(かんべのぶたか)・・・3歳の幼児に織田家・当主が務まるワケもなく、秀吉が実権を握ろうとしているのがミエミエです。

また、信孝を支持する柴田勝家も、織田家の家臣内では秀吉よりも上の立場にあった事もあって、不服な思いを押さえる事ができません。

そして、勃発した賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で、勝家は秀吉に敗れ自刃

取り残された信孝を、秀吉と結んだ信長の次男・信雄(のぶお・のぶかつ)が追い込み、やがて信孝も自刃させられてしまいます(5月2日参照>>)

しかし、はなから信雄を支持する気など毛頭ない秀吉・・・その事を感じ取った信雄は、次に、もう一人の実力者・徳川家康を頼るようになります。

家康も、このまま指をくわえて秀吉の天下取りを見過ごすのは胸くそ悪い・・・信雄を旗印に立てれば、秀吉への攻撃の大義名分になります。

そうやって勃発したのが、小牧・長久手の戦い
 
(3月13日犬山城攻略戦>>)

 (3月17日羽黒の戦い>>)
 (3月28日・小牧の陣>>)
 (4月9日・長久手の戦い>>)と呼ばれる一連の合戦・・・
事実上、秀吉VS家康の戦いです。

戦いに地名がついている事でもわかるように、おおむね東海地方で繰り広げられた戦いですが、彼らそれぞれの支持者は、ここ北陸にもいました。

賤ヶ岳の合戦で勝家の追い込みに強力した事から、秀吉方に属した加賀前田利家

一方の家康方に属していたのは、富山城主・佐々成政(さっさなりまさ)

成政は、家康派・秀吉派・・・というよりは、地元・北陸でライバルだった利家が秀吉方についている、そして、すでにこの春から勃発していた一連の小牧・長久手の戦いで、家康側が有利であった事などから、家康方に属していたのでしょう。

とにもかくにも成政は、家康や信雄らの戦いに触発されるかのように、天正十二年(1584年)8月28日利家の朝日山砦を攻撃したのです。

こうして、合戦は勃発しましたが、当日は豪雨のため、一旦攻撃を中止し、今度は利家の持ち城である末森城にターゲットを変更します。

能登の南部に位置する森末城は、加賀(石川県)越中(富山県)との国境ににも近く、利家にとっては重要な城です。

9月9日、成政は城への猛攻撃を開始します。

寄せる成政軍は総勢5千余り・・・一方、末森城を守るのは、利家の重臣で末森城主・奥村永福(ながとみ)1500ほどです。

怒涛のごとく押し寄せる成政軍に、わずかの兵で踏ん張る永福らでしたが、やはり、数では到底かないません。

二の丸三の丸と次々と落とされていく中、やがて城兵も3百程になってしまいます。

しかし、それでも永福の配下の兵たちの士気は衰えません・・・永福以下、全員が死を覚悟しての応戦です。

・・・というのも、この時、永福の奥様が自ら生き残った兵、一人一人に、少なくなった城内の兵糧からかき集めて作った握り飯を手渡しながら「頑張ってね」声をかけて回ったという、献身的な協力の逸話が語り継がれているのです。

記録にはありませんが、きっと美人で気品のある奥方だったんじゃないでしょうか?

そんな人に、手をとりながら声をかけられたら・・・「ボク、がんばっちゃう!」ってなっちゃいますよね~。

そんなこんなで、何とか本丸だけを守りながら耐えていたところに、末森城攻撃の知らせを聞いた前田利家の援軍が到着します。

しかし、実はこの援軍もすんなりと出されたものではありませんでした。

急遽集められた兵はわずか3千足らず・・・これでは勝てないと、軍儀では一旦援軍を出さない方向に、話は進みましたが、利家自身が援軍の派遣を強く主張し、自らが豪雨の中の夜の行軍を決行してやって来た援軍でした。

利家が末森城に到着した時には、すでに本丸だけの孤立状態・・・周囲は成政軍に囲まれています。

豪雨に紛れた利家は、からめ手から成政軍の背後に回り、成政軍を逆包囲する事に成功します。

そして、9月11日の未明・・・まだ暗闇に閉ざされた中、利家率いる援軍は、一気に背後から奇襲攻撃を仕掛けます。

この時、利家自らが先頭に立ち、降りそそぐ矢をかいくぐって戦ったと言います。

こうなったら、本丸に追いつめられていた永福隊も、援軍の奇襲攻撃に合わすかのように、本丸から撃って出ます。

この連携プレイが見事成功!

成政隊は総崩れとなって、散り散りに敗走していきましたが、もちろん、戦上手の成政が、このままでは引き下がりませんが、そのお話は10月14日の【前田利家VS佐々成政~鳥越城の攻防】>>でご覧いただくとして・・・

とにもかくにも、奥村夫婦の協力で守り抜いた本丸と、一か八かの奇襲をかけた利家・・・この末森城攻防戦は、戦国の数ある戦いの中でも、歴史ファンをひきつける屈指の合戦です。
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コメント

末森の合戦は、利家の救援が到着した(小競り合いはあり?)時点で、成政は軍を撤収してますので、花の慶次で有名なシーンはありませんでした。
また、奇襲により軍が散り散りになったというのも、帰路二・三の砦や出城を攻略してますので、考え難いでしょう。
手取川もそうですが、小規模な小競り合い・遭遇戦があったという程度でしょう。

投稿: 今太 | 2008年7月15日 (火) 08時37分

今太さま、こちらにもコメントありがとうございます。

申し訳ありません・・・「花の慶次」を読んでいないので、その有名なシーンがどのような物なのかは、ちょっとわからないのですが・・・

ただ、今回のこの合戦のお話は、「明良洪範」にある逸話で、利家さん自慢の一戦だったようで、事あるごとに自らの武勇伝として語ってますから、年齢がいくにつれ、尾ひれがついて、だんだんオーバーになっていった事は確かだと思います。

投稿: 茶々 | 2008年7月15日 (火) 11時57分

確かこの記事の内容が「利家とまつ」の場面にありましたね。あれから12年経つんですね。大河の戦国作品の「闘将タイプ」の主人公は前田利家が今のところ最後かな?
ところで「利家とまつマラソン」と言うイベントが近くあります。02年の大河ドラマ「利家とまつ」の放送を機に始まったイベントです。
そういえば石川県は来年度上期の朝ドラの舞台に決まって、番組開始直前には北陸新幹線が北陸地域延伸となるので、来年のGWは一層混雑しそうですね。

投稿: えびすこ | 2014年5月 7日 (水) 17時54分

えびすこさん、こんばんは~

大河や朝ドラの舞台になれば、お客さん増えますからね~争奪戦はなかなか激しいのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年5月 8日 (木) 02時04分

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