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2007年8月23日 (木)

一代聖教みなつきて~一遍上人の最後の言葉

 

正応二年(1289年)8月23日は、浄土宗の一派で、踊り念仏で知られる鎌倉時代に生まれた時宗(じしゅう)の開祖・一遍上人のご命日・・・なので、今日は一遍上人についてのお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・・

一遍は延応元年(1239年)伊予(愛媛県)道後の豪族・河野道広の次男として生まれますが、彼は、その人生の中で、何度か「転換期」というものに遭遇します。

最初の転換期は、母を亡くした10歳の時・・・

それをきっかけに、父の勧めで仏門に入り、九州大宰府(福岡県)聖達上人のもとで浄土教を学びます。

その後、父も亡くなった事によって、一時、還俗(一旦出家した人が、もとの一般人に戻る事)しますが、思うところがあって、念仏修行の旅に出る事にします。

そして、その旅の途中、信濃善光寺『二河百道(にがびゃくどう)の図』という仏画に出会います。

これが、2度目の転換期。

『二河百道』というのは・・・
「欲を水の川に、怒りを火の川に例え、2本の川が進むその中間に一筋の白い道があり、その白い道は往生を願う心を表現していて、両側の川に誘われる事なく、一心にその道を進んで行けば極楽浄土にたどりつく事ができる」
・・・という教えなのですが、一遍の見た、その『二河百道の図』というのは、その教えをわかりやすく絵にした物で、一人の平凡な男が浄土への往生を願って信心を志してから、往生するまでの紆余曲折のプロセスを描いた物でした。

一目でその絵に魅せられた一遍は、必死でその模写を描き、その絵を持って地元に帰り、絵の前で3年間「称名念仏(南無阿弥陀仏など仏の名を唱え続ける)の修行」を続けたのです。

3年間その絵と充分に語り合って、自分の中で念仏の信仰を確立させた一遍は、今度は「その教えを人々に伝えたい」と考えます。

文永十一年(1274年)2月、彼は、故郷・伊予を捨て、すべての財産を捨て、家族を捨てて全国遊行の旅に出発します。

一遍、35歳の時でした。

行く先々で出会う人々に、彼は「南無阿弥陀仏と唱えなさい、そうすれば救われますよ」と言いながら「念仏札」を渡して歩きます。

この事で、彼は「捨聖(すてひじり)」「遊行上人」などと、呼ばれるようになるのですが、遊行を続ければ続けるほど、彼の胸に重く圧し掛かるある悩みがありました。

それは「念仏札」を渡そうとしても拒否されたり、「私は信じない」と固く心を閉ざす人々に、どのようにこの教えを伝えたらよいのか?という事でした。

四天王寺から高野山、そして熊野へとやって来た一遍・・・その日も、熊野の山道で出会った旅の僧に、「信じる心がないのに受け取ったら、嘘をついた事になる」と言って札の受け取りを拒否られたばかりでした。

夜になって、熊野本宮証誠殿(しょうじょうでん)で、悩みながらもウトウトと眠りにつく一遍・・・すると、夢の中に、山伏姿の白髪の老人が現れ、彼に語りかけます。

六字名号一遍法(ろくじみょうごういっぺんほう
十界依正一遍体
(じつかいえしょういっぺんたい)、
万行離念一遍証(まんぎょうりねんいっぺんしょう)
人中上上妙好華
(にんちゅうじょうじょうみょうこうけ)

・・・と、一応そのまま書いてみましたが、これは、
「お前が念仏を勧める事によって人々は往生できるのではなく、人々はすでに阿弥陀仏によって救済されているのだから、相手が信じようが信じまいが、お前はその札を配ってればいいんだよ」
と、いった内容で、その白髪の老人は熊野権現の化身だったのです。

夢から覚めた一遍は、晴れ晴れとしていました。
「自分のやるべき事は、ただ一つ。
この「念仏札」を配って、念仏を広める事だけ・・・相手が信じるかどうか、その先の運命は阿弥陀仏におまかせすれはよいのだ。」

これが、一遍、三度目の転換期。

他のお名前を知らないので、今まで一遍、一遍と書いてきましたが、実は、彼は、この熊野権現のお告げによって名前を「一遍」と称する事になるのです。
それまでの名前は、一遍ではありませんでした~すみません・・・。

そして、四度目の転換期は、「踊り念仏」です。

彼は、もともと平安時代の僧・空也上人(9月11日参照>>)を尊敬していました。
最初に、遊行を始めたのも、若い頃諸国を巡って「市聖(いちひじり)と呼ばれた空也上人の影響です。

信州伴野地方で、念仏と踊りによって死者の霊を慰める風習があった事も知っていた一遍は、空也上人が始めた「踊り念仏」を復活させます。

踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」は人々に開放感をもたらし、気持ちを高揚させ、一種のトランス状態を引き起こしますから、民衆はまたたく間にひきつけられ、一遍の行く先々で、人々は「踊り念仏」に加わるようになるのです。

Ippen22 有名な『一遍上人絵伝』第七巻の絵↑は、一遍が京都に滞在している時の「踊り念仏」を描いた物・・・「踊り屋」という建物をしつらえ、(かね)を打ち、床を踏みながら踊り念仏を唱えているようすがうかがえます。

この「踊り念仏」は、この後、様々な舞踊へと発展し、一般庶民に音楽や芸能に触れ合う機会を与え、中世以降の芸能に大きな影響を与えました。

やがて、51歳を迎えた正応二年(1289年)。
一遍は、自分の死期が近い事を感じ始めていました。

彼は35歳で故郷を捨てた時から、一所不在の全国行脚ばかりの生活でしたが、「死ぬ時は教信沙弥(きょうしんやみ)のゆかりの地、播磨(兵庫県)印南野(いなみの)教信寺で死にたい」と願っていました。

教信沙弥は、9世紀半ばの人で、それまで貴族や一部の特権階級の物だった仏教を庶民へ広めた人物で、空也上人と同じく、彼のあこがれの人でした。

そうして、その年の7月、かの地へ向かって明石までやってきた時、兵庫和田岬から「ぜひおいで下さい」との声がかかります。

どうしょうか?と思いつつも、すべてが縁のおもむくままに・・・と日頃から思っていた彼は、「これも何かの縁であろう」と和田岬の光明福寺へと向かいます。

そして、光明福寺に滞在中の8月10日。
彼は書籍などの自分の持ち物のすべてを、念仏を唱えながら燃やしてしまいます。

弟子たちは悲しみ、信者たちは、聖人の死の時に訪れるという紫雲や妙音の現象があるのではないか?という思いにかられます。

しかし、彼は「私のような者の最期に、そんなごたいそうなものはありはしないよ」と笑います。

果たして正応二年(1289年)8月23日、一遍上人・・・彼の最後の転換期が訪れます。

「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」
これが、彼の最後の言葉・・・
「すべてを捨てて、生きるも死ぬも南無阿弥陀仏におまかせする」という事です。

彼の言った通り、奇跡のような出来事は起こりませんでした。

ごく平凡に・・・ごく静かに・・・彼は息をひきとりました。
大勢の信者と大勢の弟子に見守られながら・・・
阿弥陀仏のおぼし召しのままに・・・

彼の始めた教えは、その後も脈々と続き、総本山は藤沢市の清浄光寺
今も、信徒・約6万人に受け継がれています。
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