方広寺鐘銘事件・片桐の交渉空しく家康の最後通告へ
さてさて、1ヶ月前の7月21日に、豊臣秀頼が建立した京都・方広寺の鐘に書かれた銘文にイチャモンをつけた徳川家康。
(まだのかたは、先に7月21日のブログを読んでいただいたほうがわかりやすいです→コチラからどうぞ>>)
それがムチャクチャな言い分だという事は、家康さん自身が一番よくご存知だったでしょうが、イチャモンをつけられた側の豊臣家も、充分承知していました。
事実上天下を手中に収め、この上は豊臣家をぶっ潰そうと企む家康に対して、豊臣側の武将たちは、「こっちこそ天下を握る豊臣家・・・誰がお前の傘下になど下るか!」という気持ちを持ってはいましたが、悲しいかな、このイチャモンをつけられた時点では、まだ戦いの準備が整っていません。
確かに、有り余る秀吉の遺産で、浪人たちを雇い入れ、武器の準備も始めてはいましたが、もう少し時間が欲しい・・・何とか時間稼ぎをしたい・・・。
そこで、徳川家とのパイプ役でもあった茨木城主・片桐且元(かつもと)が、一件の弁明のため駿府へ赴く事になりました。
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片桐且元は、賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)でその名を馳せた『賤ヶ岳七本槍』の一人。
秀吉の死後は、その遺児・秀頼の守役を務め、『関ヶ原の合戦』(9月15日参照>>)では、秀頼傘下のため西軍につきますが、合戦後には、西軍はあくまで石田三成が率いた軍であり、「西軍=豊臣家」ではない事を家康に訴えた人物です。
彼は、自分の嫡男を家康への人質に出してでも、その事を証明し、戦後になって、すんなりと大坂城を開城させたのも彼でした。
家康は、その時の彼の一連の行動を大きく評価していたのです。
秀頼の守役でありながら、家康の信頼も得ている且元なら、秀頼の代役としても充分役目を果たせるはずでした。
しかし、いざ、到着した彼は、家康に謁見するどころか、駿府にすら入れてもらえず、一つ手前の宿場町・丸子で足止めされてしまうのです。
彼を待っていたのは、本多正純と金地院崇伝(こんちいんすうでん)からの厳しい質問の嵐でした。
それは、方広寺の鐘銘の件・・・というよりも、むしろ大坂城に続々と集まりつつある浪人についての詰問でした。
しかも、弁明の余地など与えてはもらえません。
慶長十九年(1614年)8月20日、且元の努力も空しく、家康側は、最後通告とも言うべき条件を一方的に突きつけるのです。
それは・・・
① 秀頼が江戸へ参勤する
② 母・淀殿が人質として江戸に入る
③ 秀頼が大坂城を出て、家康の指示する領国へ国替えする
この3つの条件のうち、どれかに応じるように通告したのです。
こんなもん、本来、主君の筋にあたる豊臣家にとっては、屈辱でしかありません。
とてもじゃないが、どれも呑める条件ではありません。
・・・と、言うより、先の7月21日のブログでも書いたように、家康側からすれば、すんなり言う事を聞いてもらっては、むしろ困るのですから、どれも「絶対、承知しないであろう」という条件を出している事は明白・・・あっさりと解決してしまっては、せっかくの豊臣ぶっ潰しのチャンスが無くなってしまいます。
しかし、この条件を聞いて、大坂城にいる豊臣の武将たちが怒り狂ったのは言うまでもありません。
中には、「こんなもん突きつけられて、よく、平気なツラして帰って来たな!」と、且元に斬りかかる者、今回の交渉が長引いた事(1ヶ月経ってますから・・・)で、「徳川と通じているのではないか?」と疑う者まで出て、とうとう『且元暗殺計画』にまで至ります。
命の危険を感じた且元は、そのまま大坂城を出て、居城の茨木城へ引きこもり、二度と戻る事はありませんでした。
せっかく、かろうじて残っていた両家のパイプを失った豊臣と徳川・・・この後は、一気に『大阪冬の陣』(11月29日参照>>)へ突入していく事になります。
ところで、居城に引きこもった且元さん・・・「もはや、豊臣には居場所はない」と思ったのでしょうか、大阪の陣の時には、本人こそ出陣しなかったものの、徳川方の一員として、兵を出しています。
しかし、一方では、この出兵も家康との交渉のためではないか?と言われています。
それは、この大阪の陣の間も、且元は秀頼の助命を、必死で家康に訴え続けていた様子がうかがえるからです。
「一連の豊臣方の行動は、秀頼の本心ではなく、大坂城にいる豊臣家臣たちの暴走とも言える考えによる物で、秀頼が、例の条件を呑むつもりであっても大坂城内が秀頼の意見を聞く状況ではない」という事を、切々と訴える手紙も書いています。
彼は、こんな状況になってさえ、まだ、主筋・豊臣家を守ろうとしていたようです。
しかし、その願いも空しく、ご存知のように、『大坂夏の陣』(5月8日参照>>)にて、大坂城の落城とともに秀頼は命を落とします。
且元は、落城の20日後の5月28日・・・何も語らず、何も残さず、静かに自害します。
それは、あの秀吉から託された秀頼を救えなかった自責の念からでしょうか?
それとも、交渉決裂の時に受けた汚名を晴らすためなのでしょうか?
それとも、心ならずも敵である家康側についてしまった事への弁明なのでしょうか?
賤ヶ岳で名を馳せた誇り高き猛将の心の内は、歴史の闇と消え、もはや誰にも読み取る事はできません。
今日のイラストは、
そんな片桐且元さんをイメージして、『秋風にそよぐススキ』を描いてみました。
鮮やかに散った武将を桜にたとえて、春は何度か、桜の花を描かせていただきましたが、今回の且元の自刃は、こんな秋のイメージではないかと・・・。
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