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2007年9月30日 (日)

足利尊氏と南北朝の年表

このページは、足利尊氏と南北朝時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、掲載しておりません。

年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Kakonasikaga



・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1316 7 10 北条高時が第14代執権に…
【鎌倉幕府14代執権・北条高時】
1318 2 26 後醍醐天皇・即位
【北闕天を…後醍醐天皇の最期】
1324 9 19 正中の変
【正中の変~寝物語でバレちゃった】
1331 8 27 後醍醐天皇が笠置山に入る
【笠置山「楠の夢告」~後醍醐天皇と正成】
9 28 元弘の変・勃発~笠置山の戦い
【元弘の変~笠置山の戦い】
10 21 元弘の変~赤坂城の戦い
【正成のゲリラ術炸裂!赤坂城の戦い】
吉田兼好・徒然草を執筆
【兼好法師の恋愛感って・・】
1332 3 7 後醍醐天皇が隠岐に流罪に…
【隠岐へ…後醍醐天皇と児島高徳】
1333 2 1 吉野で再起した護良親王が敗走
【護良親王&楠木正成・再起~】
2 5 ~5/10・千早城攻防戦
【正成・最大の見せ場!千早城の戦い】
2 24 後醍醐天皇が隠岐を脱出し船上山へ…
【後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場】
3 12 三月十二日合戦
【赤松則村の三月十二日合戦】
3 15 山崎合戦
【鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦】
4 3 四月三日合戦
【四月三日合戦の名勝負】
4 8 京合戦
【千種忠顕&児島高徳の京合戦】
4 16 足利高氏が入京
【鎌倉討幕を内に秘め足利高氏が上洛】
【足利尊氏・裏切りの要因】
5 7 足利高氏が六波羅探題を攻撃
【六波羅探題攻撃…守る北条仲時】
5 9 六波羅探題北方・北条仲時ら432人自刃
【432名の忠臣と供に…北条仲時・自刃】
5 11 新田義貞が小手指原で幕府軍に勝利
【鎌倉討幕…新田義貞の挙兵】
5 15 分倍河原の戦い
【起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い】
5 21 新田義貞が稲村ケ崎の干潟から奇襲
【新田義貞・稲村ケ崎の龍神伝説】
5 22 鎌倉幕府・滅亡
【鎌倉炎上…北条高時・自刃】
【鎌倉幕府の滅亡】
5 23 後醍醐天皇が京に向け船上山を出発
【「鎌倉炎上…北条高時・自刃」の後に】
6 6 後醍醐天皇が京入り新政を開始
【後醍醐天皇の建武の新政】
7 9 幕府軍の全面降伏で阿蘇治時ら処刑
【鎌倉幕府軍…最後の全面降伏】
1334 8 21 若狭・太良荘にて一揆が勃発
【中世の名も無き人の名前とは?】
1335 7 23 中先代の乱で北条時行が鎌倉を占拠
【北条復興を…中先代・時行の反乱】
弟・直義が護良親王を暗殺
【仮初の征夷大将軍~護良親王の最期】
8 19 尊氏が中先代の乱を鎮圧
【高氏改め尊氏が中先代の乱の後に…】
11 19 新田義貞ら尊氏討伐軍が出陣
【尊氏を追討せよ…大将軍・新田義貞】
12 11 箱根・竹ノ下の戦い
【弟のニセ綸旨で反旗を決意?】
1336 1 27 新田義貞が足利尊氏から京を奪回
【新田義貞・京を奪回!】
2 6 豊島河原合戦
【足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦】
3 2 多々良浜の戦い
【足利尊氏・再起~多々良浜の戦い】
4 26 尊氏が大宰府を発つ
【いよいよ上洛…尊氏・大宰府を出発!】
5 16 楠木正成が兵庫に出発
【楠木正成&正行…桜井の別れ】
5 25 湊川の戦い
【新田義貞…小山田高家の忠義】
【楠木正成…七生報国・湊川の戦い】
6 30 京都合戦
【尊氏VS義貞の一騎打ち?京都合戦】
8 15 光明天皇が即位
【南北朝の幕開け…光明天皇の即位】
10 11 ~13日新田義貞・北国落ち
【新田義貞・北国落ちの悲劇は本当か?】
11 2 後醍醐天皇が北朝に三種の神器を渡す
【三種の神器のお話】
11 7 建武式目の制定
【室町幕府の誕生?「建武式目」の制定】
12 21 後醍醐天皇が吉野に移る
【後醍醐天皇が吉野へ…南朝の誕生】
1337 1 12 瓜生兄弟が討死
【南北朝・杣山城の瓜生兄弟と強き母】
3 6 金崎の戦いで金崎城が開城
【壮絶な籠城…南北朝・金崎城攻防戦】
1338 1 8 北畠顕家が上洛のため鎌倉を進発
【天皇のため上京します!…北畠顕家】
1 28 青野原の戦い
【京都奪回を目指す北畠顕家~青野原】
5 15 北畠顕家が後醍醐天皇に奏状を呈す
【後醍醐天皇に苦言…北畠顕家の奏状】
5 22 北畠顕家が戦死
【無双の勇者…北畠顕家の最期】
7 2 新田義貞が越前で討死
【運命を変えた遭遇戦…義貞の最期】
【恋に戦に・新田義貞の純情】
8 11 足利尊氏・征夷大将軍に任ぜられる
【夢は自分でつかむ物…征夷大将軍に】
1339 8 16 後醍醐天皇・没
【北闕天を…後醍醐天皇の最期】
10 5 足利尊氏が天龍寺を創建
【足利尊氏の天龍寺・創建で大モメ】
1340 10 佐々木道誉・紅葉事件
【佐々木道誉・紅葉事件で婆沙羅を卒業】
1341 4 3 謀反の疑いをかけられた塩冶高貞が自刃
【高師直に横恋慕された高貞の悲劇】
1347 9 17 藤井寺の戦い
【楠木正行との藤井寺の戦い】
11 26 住吉合戦
【幕府VS正行…住吉・阿倍野の戦い】
1348 1 5 四条畷の戦い
【四条畷の戦い~楠木正行の最期】
1349 6 20 雲景の魔界体験
【魔界へ訪問…太平記の「雲景未来記」】
1350 10 26 観応の擾乱・勃発
【観応の擾乱~尊氏+師直VS直義】
1351 2 26 高師直が謀殺される
【極悪人?観応の擾乱に散った高師直】
1352 2 20 小手指原の戦い
【尊氏VS新田義興…小手指原の戦い】
2 28 笛吹峠の戦い
【足利尊氏・危機一髪…笛吹峠の戦い】
3 24 八幡合戦が始まる(~5/11)
【南北朝~京都争奪の八幡合戦】
1353 6 9 南朝に降った山名父子が京都に進入
【足利直冬と山名時氏・師氏の談合】
1354 5 10 南朝の総参謀:北畠親房が没す
【後醍醐天皇を支えた北畠親房】
1355 2 4 VS山名父子の神南合戦
【足利VS山名~南北朝・神南合戦】
3 13 東寺合戦(京軍)の終結
【南北朝・東寺合戦の終結】
1358 4 30 足利尊氏が没す
【室町幕府初代将軍=足利尊氏…死す】
8 22 足利義満・誕生
【足利義満の「王権争奪計画」】
10 10 新田義興が謀殺される
【新田義興の怨念?神霊矢口の渡し】
1359 8 6 筑後川の戦い(菊池合戦)
【九州における南北朝最大の合戦】
1361 9 23 細川清氏が若狭に落ちる
【北朝執事の細川清氏が南朝へ…】
12 7 南朝軍が京を制圧
【新将軍京落での道誉と楠木正儀】
1364 7 7 光厳天皇が崩御
【最期は心安らかに…波乱万丈の光厳天皇】
1366 佐々木道誉・花見の会の逸話
【お花見の歴史は万葉から】
1368 3 11 後村上天皇・崩御
【足利相手に戦う…第97代・後村上天皇】
12 30 足利義満が第3代・室町幕府将軍に就任
【将軍権力の確立に生涯をかけた義満】
1383 3 27 懐良親王が没す
【九州南朝・強気外交…懐良親王の野心】
1392 10 5 南北朝の合一
【南北朝の合一】
番外篇 なぜ南北に?その時都の公家は?
【南北朝の動乱~ある公家の都落ち】
【合一の後…後亀山天皇の後南朝】

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2007年9月29日 (土)

長島一向一揆の終結

 

天正二年(1574年)9月29日、織田信長に抵抗を続けていた長島一向一揆勢が、ついに力尽き、一揆が終結しました。

・・・・・・・・・・・・

永禄十一年(1567年)に、第15代室町幕府将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長(9月7日参照>>)

元亀元年(1570年)には、その義昭に『五ヶ条の掟書』を提出し(1月23日参照>>)、信長は、まさに天下取りにばく進中!

それを阻止すべく戦国武将や宗教団体が入り乱れる中、浄土真宗の総本山である石山本願寺の呼びかけ(9月12日参照>>)に答え、各地の一向宗門徒が一揆という形で抵抗の意志を見せます。

その中の一つ、木曽川・長良川・揖斐川という3本の川が合流して伊勢湾に流入するデルタ地帯の伊勢長島(三重県)に集結した一向宗門徒たち。

そんな彼らに、信長は元亀二年(1571年)の5月天正元年(1573年)の5月2度に渡って攻撃を仕掛けますが、見事敗退してしまいます(5月16日参照>>)

そして迎えた天正二年(1574年)7月、結果的には、これが最後の戦いとなる3度目の長島攻めを、信長は開始するのです。

特に2度目の戦いでは、信長自身の命が危ないというカッコ悪い合戦をしてしまった(10月25日参照>>)ため、今回は「3度目の正直」とばかりに、入念な計画のもとの出兵です。

「伊勢湾の海上封鎖を徹底して行い、兵糧が尽きるのを待つ」という、短気なイメージのある信長さんにしては、意外な持久作戦・・・よほど、2度の負けに手痛い思いをしていたんですね。

一方の長島一向一揆勢は、数万人の老若男女が、河川の中州を堤防で囲った『輪中(わじゅう)地帯の中の、長島屋長島中江、そして対岸の大鳥居篠橋の5箇所に別れ、こちらも徹底した籠城作戦です。

しかし、先ほどの信長の敷いた徹底した海上封鎖で、物資の輸送が困難ななため、兵糧はまたたく間に尽きてしまいます。

なんせ、籠っているのは数万人ですから・・・。

やがて7月の終わり頃には、体力の無い老人や子供たちから、次々と餓死していく・・・という状態になってきます。

そこを狙って攻撃を仕掛けてくる信長・・・8月3日には、大鳥居が陥落します。

続く12日には、篠橋が落ち、対岸は壊滅状態・・・

しかし、それでもなお、輪中に残る一揆勢は、耐え抜きましたが、天正二年(1574年)9月29日仲間の過半数が餓死するという状況に至り、ここに、力尽きたのです。

まずは、長島に籠っていた人々が、全面降伏を申し出ます。

しかし、信長はこの全面降伏を認めなかったのです。

船で長島から出てきた人々は、待ち構えていた鉄砲隊に次々と撃たれました。

信長は一向一揆の怖さを痛感していたのです。

彼らの団結力、集団の力というものには、ものすごいパワーがあります。
少しでもゆるい部分があると、そこから見事に復活する生命力がある事も知っていました。

その芽を、ここで少しでも残しておいたなら、後々、再び最大の抵抗勢力になるに違いないと考えていたのです。

信長は、この3度目の出兵を決意したその日から、石山本願寺の東海の拠点であるこの長島を、徹底的に根絶やしにするつもりだったのでしょう。

そして、最後まで残った中江と屋長島・・・。

ここには、籠城を決め込んでいる外側に頑丈な柵を構築し、ネズミ一匹通さない状態を作り出した上で、四方から火をかける・・・つまり、中に残ってる人々全員を焼き殺したという事なのです。

その中には、女性や子供もいた事を考えると、胸のつまる思いがしますが、比叡山や石山本願寺への攻撃とともに、この神仏を恐れぬ信長の行為によって、日本という国の政治が宗教と分離するという、新しい形に生まれ変わったのは確かでしょう。

長島に誕生し、半ば独立国家のような様相を呈していた一向宗門徒の王国は、ここに消滅しました。

Nagasimanoumicc 今日のイラストは、
『長島の海』を・・・

河川の中洲にある「輪中」を、秋っぽい感じで描いてみました~。
 .

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2007年9月28日 (金)

祝600回記念?伏見稲荷大社に行ってきました~

 

わたくしごとで恐縮ではありますが、昨年の2月12日より、このブログを開設しましてから今日で593日め・・・約1年半でございます。
そして、本日のこのページがちょうど600ページめとなりました~パチパチパチ・・・

えっ?「何で500ページめのほうがキリが良いのに報告しなかったのか?」って?・・・実は、500ページめは気づいてなかったんですね~私が・・・。

気づいた時には、もうとっくに過ぎちゃってたんです~。
・・・で、一応600ページめには気づいたんで、ご報告させていただきました~。

こんな歴史好きのたわ言のサイトではありますが、最近は、徐々に閲覧者のかたも増え、うれしく思っております。

皆様、今後とも『今日は何の日?徒然日記』をよろしくお願いします。
見捨てないで、たまには遊びに来てやってくださいませ。

・・・・・・・・・・・・・

Fusimiinariroumoncc ・・・で、今日の話題は、600回記念とはまったく関係ありませんが(スンマセン)、一昨日、ちょっと所用で出かけたついでにと、伏見のお稲荷さんへ立ち寄ってみましたので、そのご報告を・・・。

ちょっと、立ち寄るつもりが、稲荷山一週2時間のコースを歩いてしまい、かなりヘトヘトに・・・まだ足が痛い・・・。

Inariyamaannaizu 最初に←の看板を見たときは、さすがに2時間・・・しかも山登りはやめとこ、と思っていたのに、鳥居の切れ目がないままに進んで行き、途中まできたら何か意地になってしまい、行くとこまで行ってしまいました。

伏見稲荷大社は、ご存知、全国に四万はあると言われていある稲荷神社の総本宮です。

主神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ・倉稲魂命)
『古事記』ではスサノヲノミコトカミオオイチヒメの子供とし、『日本書紀』ではイザナギイザナミの子供とされる五穀豊穣をつかさどる神様です。

「宇迦」というのは、「食(うけ)と同じ、食物を意味する言葉で、「稲に宿る神秘的な精霊」を表しています。

宇迦之御魂大神を中央座とし、そのほかに、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ・北座)大宮能売神(おおみやのめがみ・南座)田中大神(たなかのおおかみ・最北座)四大神(しのおおかみ・最南座)の四座、合わせた五座の総称を『稲荷大神』または、『稲荷五座大明神』と呼びます。

伝えられるところによりますと、元明天皇和銅四年(711年)2月7日初午の日に、稲荷山3峰に鎮座し、天慶五年(942年)には神階の正一位に位置づけられていて、秦氏の一族が祭祀に奉仕していたという由緒正しき歴史を持つ神社です。

弘法大師が、京都の東寺を建立する際に、秦氏がこの稲荷山から切り出した木材を提供した事から、東寺の鎮守神としても仰がれるようになりました。

「稲荷=イナリ」の語源については、「稲生り(いねなり・稲成り)「イナリ」となり、その神像が稲の束を持つ翁の姿で表されるところから「稲荷」の文字が当てられるようになったと言われています。

もともと農耕民族だった日本は、五穀豊穣が富を生む事につながるわけで、富をもたらす五穀豊穣の神様は、工業や商業が発達するようになると、農業だけでなく、工業や商業にも富をもたらす商売繁盛の神様となっていったのです。

お稲荷さんの使いが、狐とされるのは、その狐の習性から「春は野に下りて田畑の神となり、秋は収穫の後、山に帰って山の神となる」とされていた古代信仰と結びついたもので、狐の好物とされる油揚げをお稲荷さんと言ったりもしますよね。

前置きが長くなりましたが、富を呼んでくださるのであれば、はりきって稲荷山に上って行きましょう。

正面玄関である楼門をくぐると、外拝殿
その向うに本殿があって、本殿の裏手に奥宮があり、この奥宮のところから、ぴったりと密集した鳥居の列が始まります。

Fusimiinarisenbontoriicc 途中、左右に別れる有名な千本鳥居
鳥居の数を数えるのに挑戦している人は、ここらあたりが、テンションのピークです。

この千本鳥居を抜けると奥社奉拝所に出ます。
テレビの旅番組で、タレントさんが来るのは、大体ここまで・・・

なぜなら、ここまではけっこうゆるやかなのですが、ここから先はド~ンと山登り体制・・・階段に次ぐ階段でかなり疲れます。
ここから先は、覚悟を決めて登ってってください。

Fusimiinariomokaruisicc ところで、この奥社奉拝所には、おもかる石というのがあります。

石灯籠の前で願い事をしてから、石灯籠のてっぺんにある丸い石を持ち上げて、「思ったよりも軽い」と感じたら願い事が叶い、「けっこう重いな」と感じたら願い事は叶わないのだそうです。

では、ひとつ、このブログの繁栄を願って・・・と、挑戦してみたところ、ちょっと重かった・・・シュン(ToT)
どうやら、私の願い事はおあずけのようです。

気持ちを切り替えて、さぁ、さらに上へ・・・。
この奥社奉拝所から四ツ辻と呼ばれる別れ道のところまではけっこう長く、階段も多い・・・そのわりにはいっこうに密集した鳥居が終わりを迎えないため、千本鳥居のあたりではりきって鳥居の数を数えてた人たちは、大抵このあたりで挫折してしまいます。

四ツ辻は、ちょっとした広場のようになっていて、絶好のビューポイントです。
苦労して登った人だけが眺められるすばらしい景色。4tutuzipcc ほとんどのところがうっそうとした木々に覆われてるので、この眺めには、しばし足をとめて休憩タイムです。

ここから、頂上である一ノ峰にある上社神蹟をめざし、グルッと回って、また、ここに戻って来るパターンになります。

Fusimiinariitiniminecc おお・・・やっと着きました~。
ここが上社神蹟・・・一番上にあるお社です。

でも、けっこう皆さん、頑張って登って来られるんですね。
ここにも、願いを込めたミニ鳥居がたくさん奉納されています。

Fusimiinariminitoriicc やはり、本気で願い事するなら、一番上まで来たほうが、叶いそうな気がしますからね~。

しかし、さすがに、頂上周辺では鳥居と鳥居の間隔は少し広くなっています。
人の数も、ふもととは比べ物にならないくらい少なく、神の山といった厳かな空気が流れていましたよ。

さぁ、ここからは、もう、下り坂です。
グルッと一回りして、先ほどの四ツ辻に戻って来たら、そこから少し下ったところにある三ツ辻という別れ道から、私は裏参道を通って、お産場というお社のあるほうから下りました。

私にとっては、少し、ハードでしたが、久々に良い汗を流したな・・・という感じでした。

みなさんも、お時間がありましたら、ぜひ稲荷山の頂上まで、挑戦してみてくださいね。
 .

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2007年9月27日 (木)

関東の支配をめぐって~立河原合戦

 

永正元年(1504年)9月27日、扇谷上杉に今川氏親北条早雲が味方につき、対立していた山内上杉と立河原で遭遇・・・立河原の戦いが展開されました。

・・・・・・・・・

室町幕府は、鎌倉幕府関係者が開いた関東を基盤とする武家政権でありながら、京都に政務の中心を置いたため、どうしても関東支配のための特別な役職を設ける必要がありました。

それが、鎌倉公方関東管領なのですが、彼らはしだいに京都に匹敵する力を持つようになり、徐々に将軍と対立するようになります。

公方の補佐である関東管領は上杉氏が独占していて、関東の力が大きくなると、その勢力も大きくなっていきます。

そんな中で生き残ってきた扇谷(おうぎがやつ)上杉家と、山内(やまのうち)上杉家が、交代で関東管領を務めるようになりますが、そういう類のものは、独占したくなるのが人の常・・・両家はしだいに対立するようになります。

互角の勢力を持っていた両家でしたが、扇谷上杉家の執事であった太田道灌(どうかん)が、謀反の疑いで、主君である扇谷上杉家の上杉定正に謀殺された後、その定家も落馬して亡くなり、後を継いだ上杉朝良(ともよし)の代になると、以前の勢力が失われてきます。

そんな朝良に味方したのが、戦国大名の今川氏親(うじちか)と、氏親の叔父である北条早雲(伊勢宗瑞)です。

この期に乗じて、朝良の居城・武蔵河越城を包囲していた山内上杉家の上杉顕定(あきさだ)をけん制するように、氏親と早雲は河越城の近郊にまで進出します。

氏親と早雲の参戦を知った顕定は、永正元年(1504年)の9月に入って作戦変更・・・河越城の包囲を解いて転進しようとします。

しかし、この永正元年(1504年)9月27日
立河原(東京都立川市)にて、両軍が遭遇・・・合戦へと突入したのです。

参戦した軍勢の数は、はっきりとはしないものの、双方の戦死者が合わせて2千人余りに達したと言われていますので、関東における合戦としては、屈指の大規模の戦いとなったようです。

ただ、戦いの結果に関しては諸説あるようで、一般的には、両軍が最後まで奮戦を続けたために結局は決着がつかなかった・・・つまり、引き分けとする説が有力ですが、一方では、山内上杉に味方する越後(新潟県)長尾為景(上杉謙信の父)が馳せ参じて奮戦したため、山内上杉家の大勝に終ったという記録もあります。

また、この立河原の戦いは扇谷上杉家が勝ったものの、扇谷VS山内の一連の対立に関しては山内上杉家の勝利というのもあります。

しかし、結局は、この立河原一帯は、後々、早雲の後北条家の支配となり、上杉謙信が山内上杉家の上杉憲政から関東管領職を譲られる頃(永禄四年・1561年)には、関東管領とは名ばかりで、関東には後北条氏の影響力の方が、はるかに勝っている現状となっているわけですから、メチャメチャ長~い目で見ると、北条早雲の勝ち~って感じもしないではありません。

なんせ、早雲は、まだ若かりし頃、『ネズミが2本の杉の木をかじる夢』を見たという人ですから・・・。
早雲は子年生まれ、2本の杉の木は扇谷と山内・・・ホントかなぁ・・・。
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2007年9月26日 (水)

安倍晴明さんのご命日なので・・・

 

寛弘二年(1005年)9月26日は、あの天才陰陽師・安倍晴明さんのご命日

享年85歳だったそうです。
想像できな~い・・・85歳の晴明さん。

どうしても、ドラマや映画のイメージがつきすぎてしまって・・・。

・・・・・・・・・・

昔、ある男が、狐狩りのワナにかかって殺されそうになっている狐を助けてやりました。

後日、狐は恩返しのために、美しい女の姿となって男の前に現れ、男は一目で恋に落ち、女と結婚します。

やがて、二人の間には子供も生まれ、仲むつまじく暮らしておりましたが、予想通り、彼女の正体がバレる時がやってきます。

男に、その正体が狐だと知られた女は泣く泣く山へ帰ります。
♪恋しくば 尋ね来てみよ 和泉(いずみ)なる
 信太
(しのだ)の森の うらみ葛の葉♪

この狐の残した歌は、浄瑠璃や歌舞伎の『信太妻』の中で、歌われます。

男の名は、安倍保名(やすな)
残された子供が、安倍晴明です。

彼は、母から授かった竜王の玉を持ち、天才陰陽師へと成長するのです。

・・・と、まぁ、これはさすがに本当の話ではないでしょうが、人間と狐のハーフだと噂になるくらい、晴明さんの力がスゴかったって事なのでしょう。

晴明さんが、まだ少年の頃、師匠である賀茂忠行(かものただゆき)のおともをして、出かけた時、向うからやって来た鬼に、ただひとり気づき、車の中で寝ていた師匠を起し、師匠が慌てて術を使って、自分と従者たちの姿を消して難を逃れたという出来事がありました。

それ以来、忠行は自分の持つ術のすべてを彼に教えはじめるのです。

Yakubyougamivsseimeicc

やがて、花山天皇の頭痛を治したり、蔵人の少将にかけられた呪いを解いてみせたり・・・。

ある時は、若い公達や僧から「術で人を殺せるか?」と聞かれ、晴明さんが、「殺そうと思えば殺せるが、生き返らせる方法がないので殺したくない」と返答すると、「ならば・・・」と、庭にいた蛙に術をかけるようにせがまれ、しかたなく、彼が草の葉を一枚摘み取って、呪文を唱えて蛙に投げかけると、蛙はペチャンコになって潰れて死んでしまったと言います。

時の権力者・藤原道長のおかかえ陰陽師となって、数々の超人的パワーを見せる晴明さんですが、その中の代表的な逸話が、あの法成寺(ほうじょうじ)建立の時のお話・・・。

Seimanseimeicc 晴明は、完成した法成寺を見に来た道長に、呪いがかけられた事を見抜いたと同時に、持っていた懐紙を鳥の形に結んで空に投げます。

すると、紙は鷺(さぎ)となって空を飛んで行き、呪いをかけた蘆屋道満(あしやどうまん)の家に落ち、道満と、道満に呪いを頼んだ藤原顕光(あきみつ)が捕まる・・・という事なのですが・・・

晴明さんの代表的な逸話であるにも関わらず、実は晴明さんは、法成寺が建立される頃には、もう、すでに亡くなってるんですよね。

どうやら、まわりの人たちの中に、「道長の呪いを解いた=安倍晴明の功績」というイメージが定着しすぎて、道長にまつわる事件が起こった時、「道長だったら晴明だろう」という事で、このような話になったようですね。

結局、この時の伝説は、いつの頃からか「あの世から舞い戻って道長を助けた」という内容に変化して一件落着となっていますが・・・。

Itizyoumodoribasiseimeicc そんな、鬼も恐れる天才陰陽師・安倍晴明も、奥さんには頭があがらなかったようで、彼が使う「式神」(意のままに操れる鬼を、奥さんが嫌うので、しかたなく、近くの一条戻橋の橋の下に隠しておいて、必要な時だけ取りに来ていた・・・と言いますから、何だかエロビデオをこっそり隠してるお父さんのよう・・・いい意味で、晴明さんらしからぬ人間味を感じてしまいますね~。

しかし、天才陰陽師が、そんな人間味あふれる部分を、公然と見せるわけにはいきません。

当時は、神や精霊、鬼や悪霊というものを人々は真剣に信じていましたし、悪霊の仕業である病気を、悪霊と戦って退散させてくれる陰陽師という人が、超人的なパワーを持っていると信じなければ、治る病も治らなくなります。

そういう意味で、晴明さんは、常に天才・超人である必要があり、彼にまつわる様々な不思議な逸話も、「こうであって欲しい」という人々の願望から生まれた物だったのでしょう。
 

Seimaizinzyaseimeicc_3

晴明神社へのくわしい場所や行きかたはHP:京都歴史散歩・安倍晴明と京都御所のページへへどうぞ>>

 

 

今日ご紹介した以外の晴明さんのエピソードについては、HPで【安倍晴明怪奇譚】という特集を組んでますので、HPへどうぞ~陰陽五行説をベースにしたおみくじもあるので遊びに来てください>>>晴明怪奇譚へはコチラから>>>
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2007年9月25日 (火)

竹取物語は社会派風刺小説~仲秋の名月なので・・・

 

今日は仲秋の名月。

満ちかける月をながめ、物思いにふける・・・
風流の極みですね~。

月は、花や雪とともに、万葉集の中でもトップクラスの登場頻度・・・そして、やはり花や雪とともに、お酒=宴の対象でもあります。

仲秋(陰暦8月)十五夜の明月を愛でながら、詩歌や管弦にふける・・・という風習は、平安時代の醍醐天皇の頃(897年~930年在位)から盛んに行われるようになり、『源氏物語』の頃には須磨明石和歌の浦吹上浜といった月の名所なども生まれています。

江戸時代には、ススキや団子とともに芋をお供えして食べる『芋名月』という風習も生まれました。
やはり、いつの時代も、月を愛でる気持ちは同じですね。

ところで、仲秋の名月で思い出すのは『かぐや姫』のお話。

かぐや姫の登場する『竹取物語』は、9世紀末~10世紀初頃に書かれた作品で、作者は源順(みなもとのしたごう)とも、源融(みなもとのとおる)とも、作品の内容から紀貫之(きのつらゆき)(12月21日参照>>)
ではないか?とも言われていますが、はっきりしません。

ヒロインの美しさに加え、物語の不思議さ、空を駆ける乗り物などSF的要素もあり、今でも演劇などの題材に使われる事もあって、知らない人はいないんじゃないか?と思うくらい有名です。

竹取物語は、あの『源氏物語』「物語の出(い)で来(き)はじめの祖(おや)と称されるように、日本最古の小説でもあり、心温まる昔話のように思われがちですが、実は、このお話・・・単なる美しい物語ではなく、むしろ社会派の風刺小説なのです。

有名なお話ではありますが、一応あらすじを書かせていただきますと・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

竹取を仕事とするおじいさんが、ある日竹やぶに入ると、不思議に光る竹を見つけ、切ってみると、中にはかわいい女の子が・・・。

やがて、美しく成長した女の子は、その美しさから「かぐや姫」と呼ばれるようになり、何人もの貴公子たちから求婚されますが、その気のないかぐや姫は無理難題をふっかけて断り続けます。

果ては帝まで彼女に好意を抱きますが、いつの頃からか月を見ては物思いにふけるようになり、その理由を聞くと「実はわたしは、この世界の者ではなく、月の世界の者。仲秋の十五夜に月からのお迎えが参ります」とうちあけます。

これを聞いた帝は、かぐや姫を帰すまいと、大勢の兵を用意し、警備にあたらせますが、月からの使者たちには歯が立たず、ついにかぐや姫は帰ってしまいます。

帰りぎわに、「不死の薬」を帝に渡しますが、帝は「姫に会えないのなら薬はいらない」と言って、天に一番近い山の上で、その薬を燃やしてしまいます。
それ以来、その山は「ふじの山」と呼ばれ、今でもその時の煙がたちのぼっているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、こんな感じです。

一般的に昔話として語られる場合は、おじいさんが竹からかぐや姫を見つけるところと、月に帰るあのシーンがクローズアップされる事が多いですが、風刺小説としての竹取物語の重要な部分は、熱心に求婚する5人の貴公子たちとかぐや姫との無理難題のやりとりの部分。

この5人の貴公子は、石作皇子(いしつくりのみこ)車持皇子(くらもちのみこ)右大臣安倍御主人(あべのみむらじ)大納言大伴御行(おおとものみゆき)中納言石上麻呂(いそのかみのまろ)の5人なのですが、後半の3人・右大臣安倍御主人と大納言大伴御行と中納言石上麻呂は実在の人物名・・・ただし、いずれも飛鳥時代の人で、この物語ができた頃には、過去の人・・・という感じもします。

前半の二人・・・石作皇子と車持皇子は隠語を踏んだ架空の人物名で、石作皇子は宣化天皇の4世の孫・多治比嶋(たじひのしま・石作氏と同族)をモデルにしていると思われます。

そして、車持皇子。
その母の姓が車持である事から、この車持皇子は藤原不比等(8月3日参照>>)の事だと思われますが、実はこの竹取物語・・・この人への風刺が一番キツイのです。

たとえば、この5人の貴公子に出すかぐや姫の無理難題。

それは、「この世にありもしない架空の宝物を持ってきてくれ」というものなのですが、他の四人は、それぞれ、「大金を払って買った物が偽者」だったり、「探しに行く途中で船が嵐に遭ってしまった」とか、「ムリして取ろうとして崖から落ちて死んだり」・・・などという、ある意味それなりに頑張ってる感がありますが、この車持皇子だけは少し違います。

彼がかぐや姫に頼まれた宝物は、「蓬莱の玉の枝」なのですが、彼はそれを職人に作らせ、「命を賭けて蓬莱山に行って来た」と嘘をついて姫に渡しますが、その後、職人が「報酬をもらっていない」と姫に告白し、嘘がバレてしまいます。

しかも、その後、「俺に恥をかかしたな!」と言って、その職人たちに殴る蹴るの暴行を加えます。

物語の中で、限りなく美しく純粋に描かれるかぐや姫は、結婚を勧めるおじいさんに対して、
『世のかしこき人なりとも、深き心ざしを知らでは、あひがたしと思ふ』
「たとえ身分の高い人でも、性格の良い人でないとイヤ」
との、しっかりした意見をのべています。

そんな中、「車持皇子は心たばかりある人(野心家で陰謀好き)」として、かぐや姫が最も嫌う人物として描かれています。

そうです。
この竹取物語は、当時、絶頂期だった藤原氏を痛烈に風刺した物語なのです。

作者不明・・・となるのは当然の事。
もしバレたら、その命はないかも知れないくらい危険な小説です。
おそらく、作者は命がけで書いたはず・・・。

紀貫之の紀氏は、あの蘇我氏と親戚であり、藤原氏の陰謀によって没落の憂き目に遭っていますから、先ほども書いたように、彼が作者ではないか?という意見も出ているワケですが、もちろん、藤原氏にヒドイめに遭わされたのは、紀氏だけではなく、多くの豪族が藤原氏に反感を持っていたので、紀貫之ではないにしても、藤原氏を憎いと思う誰かが原作者である事は確かでしょうね。

物語の最後のクライマックスで、かぐや姫を迎えに来た天女が言います。

「いざ、かぐや姫、穢(きたな)きところにいかでか久しくおはさむ」
「穢きところ」とは、まぎれもなく、藤原氏が天下を握る、この平安の世であったのでしょうね。

Kaguyahimecc 今日のイラストは、
『いざ、かぐや姫 月に帰らん』てな感じで・・・

♪この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
 かけたることも なしと思えば♪

これは、栄華を誇った藤原道長の歌・・・

そんなこの世を「きたなきところ」とし、
「さぁ、かぐや姫、早くこんな所から出ていきましょうよ!」
と、風刺たっぷりに書いた名も無き作者・・・

はてさて、平成のこの世は、私たちにとって「望月」なのか「穢きところ」なのか?
 .

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2007年9月24日 (月)

西郷隆盛・自刃~西南戦争の終結

 

明治十年(1877年)9月24日、城山に籠っていた西郷隆盛が幹部らとともに自刃し、『西南戦争』が終結しました。

・・・・・・・・・

明治という新しい時代になって、ほとんどの日本国民の生活はガラリと変わりますが、その中でも一番スゴかったのは、士族と呼ばれるようになった元武士だった人たちではないでしょうか。

廃藩置県によって、それまで藩からもらっていた(給料)はもらえなくなり、四民平等になって苗字帯刀の特権もなくなり、徴兵制になって農民や一般人が軍人になるのですから、もう、武士たちの出る幕はありません。

藩が無くなる時にもらった一時金で、商売を始める人なんかもいましたが、今まで未経験でうまくいくわけもなく、ほとんどの人が失敗します。

士族への保証をまったくしない新政府に、不満がつのる士族たちでしたが、そんな彼らのブレーキになっていたのが西郷隆盛です。

「いつでも、士族の事を真剣に考えてくれる西郷さんが明治新政府の中心にいるかぎり、いつか何とかしてくれるのではないか?」
しかし、その希望が崩れる日がやってきます。

Saigousaigohyoucc 『明治六年の政変』・・・征韓論のゴタゴタで、明治新政府は真っ二つに別れ、議論に負けた西郷一派は全員辞職するのです。
(【明治六年の政変】については10月24日のページで書いています>>>)

西郷隆盛は鹿児島に帰って、『私学校』を開きます。

これは、西郷さんを慕って帰郷してきた士族たちを受け入れる学校で、なんと、その運営費は鹿児島県から出ていました。

さらに、県の職員や警察官などもその学校の出身者を採用し、中央政府の通達なども無視し始め、徐々に鹿児島県は独立国家のようになっていきます。

そんな中、各地の士族の不満がとうとう爆発しはじめます。

まずは、明治七年(1874年)2月、西郷とともに辞職して故郷・佐賀に帰った江藤新平をリーダーとする『佐賀の乱』(2月16日参照>>)が勃発します。

続いて、明治九年には、九州で『神風連の乱』(10月24日参照>>)『秋月の乱』(10月27日参照>>)が・・・、山口では『萩の乱』(10月28日参照>>)・・・と立て続けに乱が勃発します。

これらの乱は、すべて新政府軍によって鎮圧されるのですが、このいずれにも西郷さんが動く事はなかったのです。

実は、最初の『佐賀の乱』の時には、戦場から命からがら逃げてきた江藤さんが、西郷さんに助けを求めていたのですが、西郷さんは、それさえ断っています。

つまり、西郷さんは、新政府に対し反乱を起すつもりはまったくなかったのです。
むしろ、その逆だったと思います。

各地で起こる反乱に手を焼いた新政府がどうしようもなくなった時、私学校の精鋭を引き連れて乱を鎮圧させ、戦いのプロである士族の有意義さをアピールする・・・これが西郷さんの構想だったのではないでしょうか?

しかし、いくら西郷さんに反乱を起す気がなくても、新政府にとって最も脅威なのは、独立国家のようになってしまっている鹿児島です。

そこで、新政府・大久保利通鹿児島県出身の警察官23人を「墓参り」と称して、鹿児島へ送り込みます。

彼らは、鹿児島県内で、私学校への入学をやめさせたり、入学している者を退学させようとしたり・・・というスパイ活動をおこなうのです。

そんな中、彼らの一人が、「西郷ら要人の暗殺も計画している」という事を漏らしたため私学校の生徒らは騒然とします。

さらに、「私は、西郷の暗殺を命じられて鹿児島に来ました」と自首する者まで登場します。

あまりのわざとらしさに、これは西郷一派に反乱を起させるための、新政府のワナなんじゃないかとも思えますが、当時の、私学校の生徒たちのウップンは、徐々に頂点へと達していきます。

そして、きわめつけは、明治十年(1877年)1月30日・・・鹿児島県内の武器や弾薬を政府の船に積み替える・・・という行動を目の当たりにして、私学校の生徒たちは大爆発!

各地の武器弾薬庫を襲撃し、小銃や弾薬を略奪するという行動に出てしまいます。

大隈山で狩りをしている最中に、この事件の知らせを聞いた西郷さんは、思わず「しまった!」と叫んだと言います。

慌てて彼らを説得しに舞い戻りますが、時すでに遅し・・・『西南戦争』へと突入していく事になります。

早速、軍儀が開かれ、様々な案が出されます。

「軍艦で海路を進み、東京・横浜に上陸して政府の中枢を一気に攻撃する」とか、「海路と陸路の二手に分け、さらに陸路の軍を東上組と熊本城を経て福岡・長崎制圧組に分けて進む」とか・・・しかし、結局「全軍で熊本城を経て東上する」という案が採用されます。

・・・と、いうのは、「我々は反乱軍ではなく、先の暗殺計画なるものが実際にあったのかどうかを尋問するために上京するものである」という考えのもと、正々堂々と、正面をきって進むべきであと考えたからです。

しかし、新政府は「待ってました!」とばかりに、2月29日に薩摩軍を反乱軍とみなし、『追討令』を発布。

総本営を大阪に設置し、有栖川宮樽人(ありすがわのみやたるひと)親王を討伐軍総督に任命します。

これで、西郷さんを含む薩摩軍は朝敵となったのです。

そして薩摩軍は、まず予定通り政府陸軍の鎮台が置かれた熊本城を包囲(9月22日参照>>)、猛攻撃を加えますが、これがなかなかの苦戦を強いられます。

この鎮台は、地元住民からも「クソ鎮」とニックネームがつけられるほどのグダグダで、兵士はほとんどが農民あがり。

戦いに慣れてない上に、戦おうという意志も、さほどないといった状況だったので、どうやら百戦錬磨の士族あがりの薩摩の兵士たちは、「すぐに落とせる」と思っていたようで、大した作戦もなく、ただ闇雲に攻撃をした感があります。

しかし、相手が籠っているのは、あの加藤清正が築いた難攻不落の熊本城・・・彼らはその事をすっかり忘れていました。

そうです・・・まともに戦えば、絶対に負けると判断した鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)は、徹底した籠城作戦を決行します。

結局、2日経っても城内に入ることすらできず、逆に城からの砲撃によって多数の死者が出てしまい、薩摩軍はここで作戦を変更。

隊を二つに分け、一部は熊本城を包囲したまま兵糧攻めにし、主力を北へ進軍させる事にします。

なんせ、すでにこの時、『追討令』を出して官軍となった政府軍は、全国から兵を集め、続々と熊本方面へ進軍し始めていましたから・・・。

こうして、ぶつかった両軍は、一進一退をくりかえしながらも、どんどん兵の数が増える上、最新鋭の装備を供えた官軍が徐々に有利になっていき、薩摩軍はしだいに押され、後退してしまうのです。

9月2日・・・とうとう鹿児島まで後退し、城山に籠った薩摩軍。
最初3万だった兵は、わずか400人になってしまっていました。

対する官軍は五万の兵に大砲を装備しています。

最後の戦いで脇と腹に銃弾を受けてしまった西郷さんは、隣にいた別府晋助にポツリと言います。
「ここでもうよか」

明治十年(1877年)9月24日西郷隆盛は自刃し、自らの命を絶ちます。

最強であった薩摩の士族が敗れた事によって、全国に散らばる士族たちは、「武力による政府転覆」という行為が不可能である事を思い知らされる事となるのです。

・‥…━━━☆

その後、囁かれる【西郷隆盛・生存説】については、12月18日のブログへどうぞ>>>
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2007年9月23日 (日)

お彼岸の起源・由来~早良親王の怨霊を鎮めるために…

 

今日は、お彼岸ですね。

昼と夜の長さが一緒になる3月の春分の日と、9月の秋分の日を中心に、前後7日間の事をお彼岸と呼び、中心の日が中日です。

お彼岸には、寺院に参拝して、僧侶の読経とともにご先祖様の冥福を祈り、法話を聞いて・・・という、この一連の行事を「彼岸会(ひがんえ)と言います。

彼岸というのは、
色々な迷いや煩悩のある現実の世界を此岸(しがん)と呼ぶのに対し、対になる向こう側・・・悟りの境地=極楽浄土の事を言います。

この時期には、お盆と同じで、先祖の霊が帰って来るとして、迎え火や送り火をする風習が残る地域もあるそうです。

しかし、現代に残る仏教行事のほとんどが中国やインドを起源にするものであるにも関わらず、めずらしい事に、この一連のお彼岸行事は中国にも、インドにもありません。

彼岸会は日本独特の行事なのです。

それは、このお彼岸法要の起源が、もともと、あるひとりの人の霊魂を鎮めるための行事であったからなのですが・・・

延暦二十五年(806年)の2月の記録に、「毎年春分と秋分を中心とした前後7日間『金剛般若波羅蜜多経』崇道(すどう)天皇のために転読させた(日本後紀)とあり、これが日本の歴史上最初のお彼岸法要の記録です。

転読とは、経本を1巻1巻正面に広げて読む事で、普通より、効果・ありがたさがupするのです。

この延暦二十五年という年は、桓武天皇の時代・・・桓武天皇のご命日が、この年の4月ですからギリですが・・・。

ところで、先ほどの崇道天皇・・・この聞きなれないお名前の天皇をご存知ですか?

桓武天皇は第50代の天皇・・・その前の49代は、桓武天皇のお父さんの光仁天皇で、桓武天皇の次の51代は桓武天皇の息子の平城天皇・・・。

この崇道天皇という名前は、歴代天皇の系図のどこにもありません

ですから、崇道天皇には、第○代というのも無いのです。

実は、この崇道天皇・・・桓武天皇の弟の早良(さわら)親王の事なのです。
スルドイかたは、もう、おわかりですね。

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早良親王の鎮魂のために建てられた崇道天皇社(奈良県奈良市西紀寺町)

日本三大怨霊とされるのは、このブログにもすでに登場している
平将門(2月14日参照>>)
菅原道真(6月26日参照>>)
崇徳天皇(8月26日参照>>)
の3人だそうですが、この早良親王も、この3人に負けず劣らずの大怨霊なのです。

以前、平安京遷都(10月22日参照>>)のページにも、ちょこっと書かせていただきましたので、内容が少しかぶりますが・・・

天智天皇の息子・大友皇子と、弟の天武天皇の間で皇位を争ったあの壬申の乱(6月24日>>)以来、勝者である天武系の天皇制が敷かれてから約100年・・・久々に天智系の血筋に巡ってきた天皇の座についたのが桓武天皇・・・。

天武系の色を消すために、桓武天皇は長岡京を造営し、延暦三年(748年)に、まだ造営途中の長岡京への遷都を強行します(11月11日参照>>)

この頃すでに、前天皇・光仁天皇の遺言で、皇太子には桓武天皇の弟・早良親王が立っていたのですが、桓武天皇としては息子の安殿(あて)親王(後の平城天皇)に後を継がせたい・・・まぁ、親としては自然な感情かも知れませんが・・・。

そんな時「新都の造営長官であった藤原種継(たねつぐ)が暗殺される」という事件が起こります。

種継は、桓武天皇にとっても、寵愛していた部下でした。

そして、その犯人として名前があがったのが、藤原氏と対立していた大伴一族・・・そして、その背後に弟・早良親王の名前・・・

もちろん、これは「疑い」があるだけで、実際の証拠となる物は、何一つ無かったのですが、弟を追い落としたい桓武天皇にとっては絶好のチャンスです。

早速、早良親王の皇太子を剥奪し、寺に幽閉します。

当然、早良親王は無実を訴えて、抗議の断食を決行

それでも、疑いは晴れず、早良親王は淡路島へ流されますが、事件以来ずっと食を断っていたために、淡路島へ着く前に餓死してしまうのです。

邪魔者はいなくなり、ちゃっかりと息子を皇太子にして、桓武天皇はわが世の春を迎えます。

しかし、早くも異変は3年後に起こります。

延暦七年(788年)に、桓武天皇の夫人・藤原旅子が亡くなったのを皮切りに、すぐあとには妃のひとりが・・・翌年には母が・・・さらに、延暦九年には皇后と妃の二人が亡くなります。

つまり、わずか3年間の間に四人の奥さん+母親の5人が亡くなったわけで、もう、誰も疑う事なく、早良親王の祟りである事を口にするようになります。

しかも、この後、せっかく皇太子に立てた息子・安殿親王まで病気になってしまいます。

もう、いけません。
桓武天皇・・・次は自分か!と恐怖におののく毎日です。

淡路島にある早良親王のお墓のまわりに堀を張り巡らして、怨霊が外に出ないようにしますが、そんなもん効果があるわけもなく、飢饉・天然痘が都を襲い、いよいよ桓武天皇は、まだ、できあがってもいない長岡京を捨てる決意を固めます。

そして、今度は、風水・占い・迷信・・・ありとあらゆる物を駆使して、完璧に怨霊を防げる土地に都を遷すのです。

それが、現在の京都・・・平安京です。

東方に「青龍=川」があり、西方に「白虎=大路」があり、南方に「朱雀=池」があり、北方に「玄武=山」がある・・・この「四つの聖獣=四神」に守られた土地。

Daisyougunzinzyaecc さらに、目には目を歯には歯を・・・怨霊には荒ぶる神を・・・と、スサノヲノミコトを祀った四つの大将軍神社を都の東西南北に配置し、上御霊神社と下御霊神社に早良親王自身を祀り、鬼門とされる北東には、幸神社(さいのかみのやしろ)上賀茂神社下鴨神社貴船神社と、「これでもか!」と言わんばかりの配置です。

Goryouzinzyaucc そして、まだまだ・・・早良親王の鎮魂を願って、一応、天皇になった・・・という想定で、「崇道天皇」という追号を送り、さらに、冒頭に書いたように、お彼岸に7日間ぶっ通しで読経をする行事を行ったのです。

つまり・・・お彼岸法要のおおもとは、早良親王の怨霊を鎮めるための行事だったのですね。
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2007年9月22日 (土)

「応天門炎上事件」真犯人は誰だ!

 

貞観八年(866年)9月22日、3月に起こった『応天門炎上事件』で、放火犯とされた伴善男らが、伊豆に流罪となりました

・・・・・・・・・

さて、パソコンの前にお座りの名探偵諸君!

平安の都を震撼させたこの『応天門炎上事件』

時の天皇・第56代清和天皇は、まだ年若く、全面的に信頼を寄せている太政大臣・藤原良房(よしふさ)の進言通りに、伴善男(とものよしお)を犯人とし、伊豆に流罪という判決を下したのだが、どうやら別の黒幕がいそうな怪しい雰囲気がプンプン・・・この複雑な人間関係を考えると、そう簡単に解決できる事件ではなさそうなのだよ。

まず、事件のあらましを説明しよう。

時は、貞観八年(866年)3月10日の夜。

平安京の朝堂院の南にある応天門・・・つまり天皇の住まいである内裏のすぐそばの門が炎上。

火は東西に燃え広がり、すべてを焼き尽くしたのだ。

Outenomonenzyoucc

しかも、その火事の原因が放火だった事から、貴族たちは恐怖におののく・・・なんせ、応天門は大内裏と言って、京の都の街中ではない、言わば宮中にある門だからね。

単なる放火ではなく国家反逆罪になるわけだ。

Outenmonenzyouzucc ・・・で、翌日になって、大納言という地位にある伴善男という男が、右大臣の藤原良相(よしみ)に告げる。

「放火は、私の事を恨む左大臣の源信(みなもとのまこと)の仕業でっせ。」

・・・というのも、この応天門は善男の大伴氏が建立した門であり、そこに、信は日頃から善男と仲が悪かったという事実もある。

つまり、嫌がらせで門を焼いた・・・と言うんだね。

良相は早速藤原基経(もとつね)という男に、信を逮捕するよう命じるのだが、なんせ相手は左大臣である。

命令が出たからと言って、この基経という男にとって、上司となる信を逮捕するなんて事は、とてもじゃないがおそれおおくてできゃしない。

・・・で、基経は、太政大臣の藤原良房(よしふさ)に相談に行くんだね。

この良房って人の奥さんは、信の妹で、良房と信は義理の兄弟なわけで、下手に訴えられれば一族もろとも罪に問われるかもしれないという事で、良房は直々に天皇に、信が無実である事を訴えた。

良房の事を全面的に信頼している清和天皇は、信に処分を下す事はなく、その罪は問わなかった。

しかし、それから5ヵ月後の8月3日・・・

今度は、「伴善男とその仲間が応天門に火をつけるのを見た」という目撃者が現れたのだよ。

結局、その目撃者の証言によって、伴善男とその仲間たちが犯人・・・という事で、貞観八年(866年)9月22日、天皇が、彼らを伊豆へ流す事を決定したのだ。

以上がこの事件のあらましなのだが、ここに複雑な人間関係がからみ、様々な噂も囁かれているのだよ。

だいたい善男が火をつけるのを見たという目撃者。

この大宅鷹取(おおやけのたかとり)という男・・・この鷹取の子供と、善男の部下である生江恒山(いくえのこうざん)の子供との間にトラブルがあり、恒山が鷹取の娘を殺害したという事実がある。

当然、鷹取から見て恒山は、憎き娘の仇であり、その上司である善男も憎いとうわけだな。

しかし、炎上直後の状況を見ると少し、違って見えてくる。
善男が良相に訴えた時、良相は、即、信の逮捕を命じている・・・このすばやさは、どうも怪しい。

かつて、藤原氏とともに権勢を誇った大伴氏であったが、その末裔である善男の頃にはすっかり落ちぶれており、そんな中でに善男の出世は異例中の異例。

彼のこの出世は、藤原氏のおかげ・・・なので、藤原氏をおびやかす存在となる源氏の足を引っ張ったのではないか?とも思える。

しかし、同じ藤原氏の良房は信の無実を訴える・・・実はこの良房は兄で良相は弟・・・二人は兄弟ではあるが、徐々に力をつけてきた弟・良相の存在が、兄・良房にとっては脅威だったとも考えられ、お互いが敵味方だったのかも知れないぞ。

でも、善男の出世は藤原氏の援助・・・というよりも彼の実力になせるワザでもあるわけで、落ちぶれた中から出世した善男の実力こそが良房の脅威であり、弟と協力して善男に放火させ、信に罪をなすりつけさせた後、逆に訴えて失脚させた・・・という事も考えられる。

逆に、信が良房の脅威だとしたら、どうなるだろう。

信を失脚させたいが、妹はかわいい・・・何とか一族に火の粉がふりかからないようにして、信を失脚させたい・・・。

事実、信は罪にはならなかったものの、疑いをかけられた事で、事実上引退となってしまったのだからね。

もちろん、善男の最初の訴え通り信が犯人という事も考えられる。

源氏にとって、藤原氏・大伴氏といった古くからの名門氏族は目の上のタンコブ。

仲の悪さも手伝って、大伴氏の応天門に火を放ち、猛撃者をしたてて失脚させる・・・という事だ。

結局、良房・良相・信・善男と、出てきた人物全員が怪しい・・・という事になるのだが・・・おっと、ここで忘れちゃいけない。

時の天皇・清和天皇は、即位する時に兄の惟高親王を失脚させている。

その惟高親王派の残党が、宮中にはまだいた事も付け加えておこう。

そして、もう一つ・・・善男が流罪となり、信が引退。

残った兄弟のうち、この時代では、当然兄のほうが上・・・で、結局、この後、良房は摂政という役につく事になるのだが、そんな状況となった今、周囲には誰も反対する者もなく、良房は政治の実権をすべて握る事になるのだな。

さて、1400年前に起こったこの事件・・・正直なところ、未解決、迷宮入りとなっているのだか、今日のブログを最後まで読んでくれた有能な探偵諸君は、どのような推理をするのかね?

さぁ、意見を聞かせてくれたまえ。

・・・・・・・・・・・

・・・と、今日は推理ミステリー風に書いてみました~。

ーーーアンケート結果ーーー

藤原良房=4票
藤原良相=0票
源信   =1票
伴善男  =1票
大宅鷹取=0表
凝高親王派残党=0票

以上の結果でした~
尚、アンケートパーツの設定を間違えてしまい、閲覧者が一番多いであろう、記事をupしてから2~3日間、一部のかたしか投票できない状態となっていました・・・申し訳ありませんでした。
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2007年9月21日 (金)

みちのくの勇者・佐藤忠信の最期

 

文治二年(1186年)9月21日、源義経四天王の一人・佐藤忠信が、壮絶な最期を遂げました。

・・・・・・・・・

佐藤忠信(ただのぶ)は、打倒・平家の旗揚げをした兄・源頼朝(みなもとのよりとも)のもとへ馳せ参じる弟=源義経(みなもとのよしつね)に、当時、身を寄せていた奥州・平泉藤原秀衡(ひでひら)(2月10日参照>>)が与えてくれた家臣、佐藤兄弟の弟のほうです。

兄の嗣信(つぐのぶ・継信)は、平家を相手にした屋島の戦いで、義経めがけて飛んできた矢を、身を挺して防ぎ、主君のために命を捨てました(2月19日参照>>)

その後、兄・頼朝と不和になって(5月24日参照>>)追われる身となった義経(10月11日参照>>)とともに逃亡し、潜伏先の吉野山で、敵に囲まれた時の絶体絶命のピンチで、忠信は、殿(しんがり)と努め、見事、主君・義経を遠方へ逃がす事に成功した話までは、すでに、このブログで書かせていただきました【佐藤忠信・吉野山奮戦記】へ>>)

今日のお話はその続きなのですが、一応、正史とされる歴史では、忠信の最期は「文治二年9月21日、中御門東洞院で首をはねられた(享年25歳)となっています。

しかし、例のごとく『義経記』では同じ年の1月6日に28歳で・・・そして、死に様も壮絶な自刃となっていて微妙に違うのですが、今日は、よりドラマチックな『義経記』のほうの忠信の最期をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、吉野山にて追手を煙に巻いた忠信・・・義経一行も、「おそらく遠くに逃げることができたであろう」という事で、単身、京の都の舞い戻ります。

実は、彼は都に、愛する人を残したままでした。
それは、四条室町に住む娘・かや

追われる身となって、あわただしく都を落ち、彼女には、ちゃんとした挨拶も無しに別れたままでした。

忠信が彼女の家を訪ねると・・・
「よう、おいでくれやした~、ウチは、もう、アンタを放しまへんえ~」
と、落人となってしまった彼を、やさしく迎え入れてくれます。

出された酒に舌鼓を打ちながら、ひとときのやすらぎを覚える忠信・・・。
そう言えば、ここしばらく、こんなゆっくりとした時間を過ごした事はありませんでした。

疲れもあって、その心地よさのまま、いつしか眠りに入ってしまいます。

しばらくして・・・
「旦那さん!起きとくれやす!」
かやの下女に揺り動かされ、目覚める忠信。

「旦那さん、敵が寄せて参ります」
耳をすませると、馬のひずめの音・・・鎧のすれあう音が聞き取れます。
あたりを見渡しても、かやの姿はありません。

その一瞬で、彼はすべてを悟りました・・・かやは、「自分を売ったのだ」と・・・。

そう、忠信がいない間に、彼女には新しい恋人ができていたのです。

それは、頼朝の側近である梶原景時(かじわらかげとき)の息子・三郎景久(かげひさ)でした。
(義経記では“三郎景久”となっていますが、正史としては景時の息子で“三郎”を名乗っていたのは“景茂”です)

ケンカ別れしたわけではありませんから、かやにとって忠信は、未だ愛しい男でしたが、もはや気持ちは景久に傾きつつあり、なにより密告の褒美に目がくらんだのです。

忠信にしこたまお酒を飲ませて、ぐっすりと眠らせ、彼女は新恋人・景久のもとへ走り、忠信が自分の家に潜んでいる事を告げました。

しかし、実はこの忠信を囲んでいる兵・・・景久の軍勢ではありません。

かやから話を聞いた景久・・・彼は、とっくの昔に、かやと忠信の関係を知っていたのですが、それを承知で、元恋人の居場所を密告してきた彼女が不愉快でしかたなかったのです。

恩賞に目がくらんで、愛しい男を売る女を腹立たしく思い、売られた忠信が哀れでしかなたく、その話は聞かなかった事にして、その情報を握り潰したのです。

しかし、すでに恩賞に目がくらみまくりのかやは、行動を起こさない景久に見切りをつけ、今度は、江間小四郎(えまのこしろう=北条政子の弟=北条義時)へ知らせに行きます。

義時は、彼女にも、忠信にも、何の情もありませんから、早速、200騎の兵を率いて出陣し、かやの家を包囲したというワケです。

さて・・・その義時の軍勢に囲まれた忠信・・・しかも、大事な刀はかやが持って行ってしまって、完全に丸腰・・・

しかし、絶体絶命のピンチは初めての経験ではありません。

吉野山のあの時、一度、命は無いものとの覚悟を決めた瞬間がありました。

もちろん、それ以前の様々な合戦でも、修羅場は何度もくぐり抜けています。

一旦、諦めた上での拾った命・・・もう、惜しくはありませんが、今更、犬死にするのはもったいない。

忠信は、建物の天井を破り、屋根へと抜け、屋根づたいに走ってから道へと飛び降ります。

「逃げたゾ!追え~!」
・・・という声とともに、雨のように降り注ぐ矢をくぐって逃げる忠信。

200の軍勢は右往左往します。

そう、ここが、いつも合戦が行われるような河原や原っぱではない事が、忠信にはラッキーでした。

京都の街中・・・狭い路地裏・・・あちこちに無造作に停められている荷車や牛馬によって、200もの軍勢はなかなか身動きがとれません。

とうとう忠信を見失ってしまう北条勢・・・。

ただ・・・忠信はその事に気づいていませんでした。
このまま逃げれば、彼はひょっとしたら助かったかも知れません。

しかし、彼は、もうすでに北条の兵に、四方を囲まれているものだと思い込んでいたのです。

「どうせ死ぬなら、主君・義経と、そして、心許しあった仲間たちと暮らしたあの堀川の屋敷で死にたい・・・」
そんな気持ちが、彼の足を堀川へと向けさせました。

今は住む人もない堀川のお屋敷は、荒れ果て、ちりは積もり、そこかしこにクモの巣がありました。

すだれを斬って部屋の中に入り、腰をおろし、考えるのは「最期は、武士として、思う存分戦って死にたい」という事。

それで、ふと、思い出したのです。
まさかの時のために、お屋敷の屋根裏に鎧と弓矢を残しておいた事を・・・。

天井を開けて、覗き込む忠信・・・すでに白々と明けた朝の光が屋根の隙間から差込み、兜の星が輝くのを確認し、心が踊るのを感じました。

「これで、思う存分戦える!」
彼は、武装し、北条勢がやってくるのを待ち構えます。

その頃、忠信が堀川の屋敷にいる事を探り当てた北条勢・・・先陣が庭へと突入します。

忠信が、縁側から庭石の上へ飛び降り、思いっきり引いた弓で矢を射かけると、またたく間に先頭の3騎を射落としました。

後ずさりする軍勢に、
「腰抜けか!敵は5騎も10騎もいるわけじゃないぞ!たった1騎だぞ!」
と言い放ちます。

しかし、それこそ、たった一人です。
矢はすぐに底をついてしまいました。

今度は刀をとって、多勢の中に乱入し、あたりかまわず斬りまくりです。

馬も兵も、大勢死傷しますが、彼の鎧にも、もはや、ハリネズミのように矢が刺さっていました。

中には、鎧を突き破って、かなりの深手になっている事は、自分自身が一番よくわかります。

忠信は、再び縁側に立ち戻って、義時らを見下ろしながら・・・
小四郎殿(義時の事)、真の勇者の腹斬る様子、後のためにも、ご覧なされ!この忠信の最期を鎌倉殿(頼朝の事)にも、しかとお伝え願いたい」

もののふの決断に、もう誰も手は出せません。
しん・・・と静まる堀川の屋敷。

忠信は、少しばかり念仏を唱えると・・・
『願以功徳(がんにしくどく)
(すべての人に幸福を・・・みたいな意味です)
と、叫んで、見事、割腹します。

しかし、まだ心臓は波打ち、呼吸は続きます。
「1本の矢で死ぬ者もいるというのに、これでもまだ死ねないとは・・・これも義経殿を思うあまり死にきれないのかもしれん・・・ならば、この殿の太刀で・・・」

・・・と、かたわらにあった太刀を掴んで立ち上がり、太刀先を口に含んで、前へと倒れ込み、それっきり動かなくなりました。

大いなる夢を抱いて、義経とともに故郷・平泉を発ったあの日から、わずか6年・・・。

兄を失った悲しみも・・・
平家を倒した喜びも・・・
決死で努めた殿
(しんがり)も・・・
そして、その命を奪う事になった最後の恋も・・・

彼の人生の中で、最高の喜びを味わった時期は、かやという女と過ごしたわずか数ヶ月間でしかなかったかも知れませんが、その生きた証しはしっかりと残りました。

文治二年(1186年)9月21日わずか25歳のみちのくの勇者は、その生涯を華々しく閉じました。

Tadanobusaigocc 今日のイラストは、
もちろん忠信さんで・・・

かやの家にて、響くくつわの音・・・迫る人影・・・
武装する前の姿で・・・
 .

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2007年9月20日 (木)

長谷堂の戦い~直江兼続・孤軍奮闘!

 

慶長五年(1600年)9月15日は関ヶ原の合戦・・・そして、天正七年(1579年)の9月15日は徳川家康の長男・信康さんのご命日・・・それに加えて、関ヶ原の前後には、前夜祭反省会なる記事を書いてしまったもので、すっかり遅くなってしまいましたが、この合戦はしばらくの間継続中・・・という事で、今日は、慶長五年9月15日・・・関ヶ原の合戦と同じ日に勃発した『出羽の関ヶ原・長谷堂の戦い』について書かせていただきます。

・・・・・・・・・

今日の主役は、何と言っても上杉景勝の重臣・直江兼続(かねつぐ)さん。

実は、このかた・・・2009年の大河ドラマの主役に決定し、おそらく再来年は、このネット上でもかなり話題に上ると思いますが、今はまだ「それ、誰?」とお思いのかたも多いかも知れません。

ただ、このかたの兜のデザインは、歴史好きの間ではかなり有名で、真正面に「愛」の文字をドッカ~ンと着けたユニークな物。

戦国時代ではめずらしく、側室を持たない、奥さん一筋の愛を貫いたお方でございます・・・と言いたいところですが、単に気が強い年上の嫁さんが怖かっただけかも・・・。

兼続は、越後・長尾氏の家臣・樋口兼豊の息子として生まれ、直江景綱の娘・お船の婿養子(やっぱり・・・カカア天下?)になって直江姓を継ぎます。

御館の乱(3月17日参照>>)に勝利して、上杉謙信の後を継いだ景勝に仕えますが、景勝は彼に多大なる信頼を寄せていて、この関ヶ原の頃は重臣中の重臣・筆頭でした。

景勝の持つ120万石のうち、3分の1に当たる米沢30万石を、兼続に預けている事を見ても、その信頼度がわかるというものです。

そんな兼続は、石田三成とも関係が深かったようです。

どうやら、三成が豊臣秀吉の名代で会津にやってきた時、二人は意気投合したようで、その後も交流を続けていました。

やがて、秀吉の死・・・。

五大老の一人であった景勝は、徳川家康の横行な態度に嫌気がさし、陸奥・会津城へ戻ってからは、上洛命令を拒み続け、城郭の修理や武器の購入、食糧の備蓄など、領内の整備に力を入れました。

その行動が、家康・挙兵の大義名分となるのです。

家康は、「上杉に謀反の疑いあり」と、軍勢を率いて『会津征伐』に向かう事になります。

これは、「自分が畿内を離れれば石田三成が何か行動を起こすのではないか?」という家康のたくらみであったと思われます。(4月1日参照>>)(4月14日参照>>)

豊臣家を潰しはしたいけれど、自分のほうから兵を挙げれば、謀反になってしまいますからね。

先ほども書いたように、兼続とと三成が仲が良かった事から、すでにこの時、三成と上杉の密約が交わされていたという説もありますが、「反家康」の観点で一致していた事は確かですが、実際に約束されていたかどうかは、さだかではありません。

そんな中、最初は景勝に理解を示していた隣国・出羽山形城主最上義光(よしあき)が徳川方につき、家康の会津征伐に加わる事を明言します。

その事を知った景勝は、「家康の大軍がやってくる前に・・・」とばかりに、兼続に命じて義光の持ち城である出羽・長谷堂城を攻めるのです。

ご存知のように、家康がいなくなった伏見城を三成が攻めたのが7月19日(伏見城落城を参照>>)

一方、その頃江戸城にいた家康は、7月21日に会津に向けて一旦江戸城を出発しますが、その翌日には、伏見城・攻撃の知らせが届いたと思われ、23日には会津攻めを中止し、義光宛てに「御出陣無用」の手紙を送っています(7月24日参照>>)

しかし、その事をまだ知らない兼続らは、慶長五年(1600年)9月15日、そう、あの関ヶ原の合戦があったその日に、長谷堂城の包囲を完了するのです(9月9日参照>>)

包囲された長谷堂城では、志村光安らが籠城していましたが、兼続らは、城攻め・・・というよりは、義光が次々と送り出してくる援軍との野戦が主流でした(9月16日参照>>)

一進一退を繰り返しながら、お互いに大打撃を与える事なく進んでいたこの合戦でしたが、やがて9月の終わり頃には、関ヶ原での西軍の敗戦が伝えられる事となります。

そうなれば、当然のごとく東軍側である最上軍の士気は高まります。

しかも、関ヶ原の状況を聞きつけた奥州の伊達政宗も、義光に援軍を派遣してくるという事態に至って、10月1日、兼続はやむなく兵を引き揚げる事となります。(10月1日参照>>)】

こうして半月にわたった出羽での戦闘は、ここに終結しましたが、兼続には、まだ重要な仕事が残っていました。
そう、上杉家の存亡です。

三成寄りだった兼続は、反・家康の気持ちも強く、それまで、かなり過激な発言をしていました。

しかし、天下が徳川に傾いた今となっては、その事が彼に重く圧し掛かってきます。

「このままでは、上杉家の存続が危ない
と感じた彼は、翌年の春になって、謝罪のために京都に赴きます。

武士の責任の取り方という物は、本来なら「死んでお詫びをする」というのが順当なところではありますが、彼は死を選ばず、罪のすべてを一身に背負って生きる事で責任を取ろうとしたのです。

彼の、命を賭けた交渉は、家康の心を動かします。

流罪になるはずだった景勝への処分は白紙に・・・大幅な減封はあったものの、米沢30万石が残り、上杉家は徳川体制のもと、米沢藩として生き残る事になるのです(11月28日参照>>)

猛将として名を馳せた兼続は、その後は戦ではなく、領国の経営に腕を振るう事になりますが、彼は、死ぬまで関ヶ原合戦について語る事はなかったそうです。
 

Naoehasedoucc 今日のイラストは、
やはり孤軍奮闘する『愛の兜の直江兼続さん』

ちょっと少年っぽくなってしまいましたが、誰しも若い頃はあるので・・・そてにしても、「愛がデカイ・・・

ところで、戦国時代になんて、何か艶っぽい気がしますが、おそらく、これは愛宕神社の愛・・・

【愛宕神社のお話】(1月24日参照>>)で、書かせていただいているように、愛宕山の本尊は勝軍地蔵なので、愛宕神社の愛なら、甲に掲げても、まったく不思議ではなく、戦国武将としては、むしろ王道でしょう。

あの徳川家康も、この関ヶ原の合戦を期に、天下取りへと向かう中、江戸の城下町整備で真っ先に行ったのは、京都の愛宕権現を分霊して江戸にも愛宕神社を造る事でしたからね。

でも、大河ドラマでは、愛あふれるやさしい人として描かれるんでしょうね・・・まぁ、ドラマなら、それもアリかも。
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2007年9月19日 (水)

正中の変~寝物語でバレちゃった

 

正中元年(1324年)9月19日、後醍醐天皇が企てた「六波羅探題攻撃計画」が発覚!し、土岐頼兼多治見國長らが殺害され、日野資朝佐渡へ流罪となりました。

世に言う『正中の変』です。

・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒し、天皇自らが政治を行う事を理想として文保二年(1318年)に即位した第96代・後醍醐天皇(8月16日参照>>)

天皇は、その生涯の中で、何度も幕府転覆計画を立てますが、その一番最初が、この『正中の変』です。

即位してすぐ、父・後宇多天皇の院政をストップさせ、新たな近臣を登用し、政治の改革に着手する後醍醐天皇・・・

その一環として設けた『無礼講』と称する会合や『朱子学講座』などのイベントを開いて同志を集めるとともに、幕府転覆の計画を話し合ったりなんかしておりました。

それまで、漠然と話し合われていた幕府転覆計画がにわかに具体的になったのは、正中元年(1324年)。

来たる9月23日の北野天満宮参りのドサクサに紛れて、比叡山や興福寺の僧兵を動かし、幕府が『承久の変』(5月14日参照>>)の後に天皇の不穏な空気を見張るために設置した六波羅探題を攻撃しようという計画でした。

ところがドッコイ!
この計画が実行される前の今日・9月19日に発覚!

逆に、六波羅探題の兵に囲まれて、首謀者の一人であった土岐頼兼多治見國長らが殺害され、日野資朝が捕えられてしまったのです。

・・・で、何でこの計画が事前にバレちゃったのか?

それは、この幕府転覆計画の仲間の一人だった土岐頼員(よりかず)が、寝物語で奥さんにしゃべっちゃったんです。

寝物語・・・最近は『ピロートーク』と言うらしいですが、要するに、男女がベッドの中で、一戦交えた後に、なんやかやと語り合うアレです。

ピロートークは「やさしい男の証し」・・・最近の女の子からは、「ピロートークをしないで、さっさと寝てしまう男なんて最低!」・・・なんて声も聞かれます。

この土岐頼員という人はその点、心得ていたんですかねぇ。

奥さんを相手に、やさしくピロートーク・・・奥さんとの一戦がすこぶる良かったのか、興奮しまくりでしゃべりまくり。

・・・で、つい、六波羅探題攻撃の話までしちゃいました~。

また、めぐり合わせの悪い事に、頼員の奥さんは六波羅奉行・斉藤利行の娘。
(頼員、油断しすぎやろ!)

しかし、奥さんもそこのところは心得たもので、聞いてすぐにうろたえる事もなく、「ふんふんふん・・・」聞き上手に徹し、夫がぐっすりと眠りについた後で、ゆっくりとベッドを抜け出し、父親のもとへ・・・。

娘が父・利行に相談すると、翌朝さっそく婿殿を呼んで説得にあたります。

「他人の口からこの事がバレたら、我ら一族は命がない。自首して、ともに罪を免れよう」

・・・で、六波羅探題に計画を報告して、本日の発覚・・・となるわけです。

ピロートークもほどほどにしないと、うっかりと、とんでもない秘密をしゃべってしまうかも知れません。

相手が色っぽいほど、そのワナにハマッてしまうかも・・・世の男性諸君も、気をつけないとね。

ところで、六波羅探題の攻撃を受けて討死した土岐頼兼さん・・・バラしちゃった頼員さんとは、従兄弟どうしです・・・何か複雑な気持ちですね。

ちなみに、この事件の発覚後、後醍醐天皇は計画への関与を否定し、ちゃっかりと罪を免れています。

ここにも、要領の良い人がいましたね。

Syoutyuunohenyomecc 今日のイラストは、
ピロートークもはずみまくるような色っぽい女性を・・・と思ったのですが、なかなか難しいですね~色っぽい女性を描くのって・・・

一応『土岐頼員の奥さん』のつもりで描かせていただきました。
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2007年9月18日 (火)

あなたが信長なら、誰にバトンを渡しますか?

 

先日より、左サイドバーで展開させていただいておりました『あなたが信長なら誰にバトンを渡しますか?』のアンケートに、沢山のご解答をいただき、ありがとうございました~。

・・・で、1週間ほど前、そのアンケートの下に「まだまだ続けるべきか?そろそろ締め切るべきか?」のアンケートも貼らせていただきましたところ、「そろそろ締め切る」「新アンケートを・・・」というご回答をいただきましたので、勝手ながら『信長のバトン』のアンケートは、昨日で締め切らせていただきました。

今日は、その結果発表と、新しいアンケートへのお願いをさせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・

では、まず、とにもかくにもアンケート結果を・・・

得票数
織田信雄(次男) 31
神戸信孝(三男) 10
三法師(嫡孫) 7
豊臣秀吉 34
徳川家康 21
柴田勝家 6
前田利家 10
丹羽長秀 1
森長可 5
池田恒興 5
滝川一益 6
明智光秀 29

「信長さんが、死の直前に、自分の意志で選べるとしたら」という仮定のもと、アンケートを取らせていただいたんですが、こうして結果を見させていただくと、やはり次男の信雄さんと、秀吉さんの一騎打ち!

そこに、光秀さんが入って三つ巴。
ちょっと遅れて家康さん・・・って感じですね。

意外なのは、暗殺を決行した光秀さんの得票数の多さですね。(本能寺の変については6月2日のページへ>>)
これなら、暗殺しなくても、待ってれば光秀さんに順番が回って来そうですよね。
光秀さんの人気の高さに驚きです。

後継者である長男の信忠さんが、信長さんと一緒に亡くなっていますから、次男の信雄さんに票が集まるのは順当なところでしょうが・・・。

もう、結果が出ちゃってますから、言っても良いかと思いますが、私、個人的には神戸信孝さんに一票を投じさせていただきました。

上に次男がいるんだし、神戸なんだし・・・って部分はあるんですが、色々見ていると、何となく信長さんは、母親の身分は低いものの信孝に関しては、ある程度の力量を見ていたような気がしますので・・・。

その点、信雄さんはごく普通の人・・・って感じです。
ただ、結局は、このごく普通の人が、最後まで生き残るわけですから、考えようによっちゃぁ、世渡り上手だったのかも知れません。

丹羽さんはちょっと残念でしたね。
古くからの織田家の重臣ですが、勝家さんよりは、ちょっと影が薄かったですかね。

なんだかんだ言っても勝家さんは、あのお歳でお市さんをモノにしちゃってますから、けっこうイイ男なのかも・・・。(勝家さんとお市さんについては4月24日のページへ>>)

長可さん、恒興さん、一益さんに関しては、予想通りの、この3人での三つ巴でしたね。
一益さんは、北条氏政らに邪魔されて、清洲会議に間に合わなかったわけですが、彼が清洲会議に出席していれば、歴史は変わったかも知れませんね。(一益さんと北条については6月18日のページへ>>)

利家さんについては、信長さんの「小姓あがり」という事で、信長さんはけっこうお気に入りだったとは思いますが、何となく秀吉さんの友達的なイメージが抜けきれませんよね。
秀吉さんを差し置いて利家さんへ・・・というのは、ちょっと考えにくいかも・・・ですね。

三法師ちゃんは、信長さんが直接バトンを渡すには幼なすぎましたね。
彼にバトンを渡しても、結局、誰かが実権を握るかたちになりますからね。

最後に、秀吉さんと家康さん。
信長さんが、バトンを渡さなくても、自らの手でバトンを受け取った二人ですが、かたや家臣、かたや同盟国の領主・・・仇を討とうとした秀吉(山崎の合戦については6月13日のページへ>>)と、身の危険を感じて逃げた家康さん(伊賀越えについては6月2日のページへ>>)の違いは、やはりその人の立っている立場の違いなのでしょうかね。

とにかく、ご覧の通り、主君の仇を討った秀吉さんが、第一位の得票数を獲得されました~Congratulations!

・・・て、事で、今日からは、また新しいアンケートにご協力いただければ・・・と思います。

次のアンケートは、『汚名を晴らしてあげたい!と思う歴史上の人物は?』というテーマで・・・。

一応、自分なりに汚名を着せられている感のある人物を選んでみました。
すでに、ブログに登場しているかたもいらっしゃいますよ~

個人的には、織田信長さんなんかも、「比叡山焼き討ち」の汚名を着せられているとは思いますが、信長さんの生涯は、完全に英雄視されていますので、アンケートには入れませんでした。

まぁ、そんな感じで、参加メンバーに関しては、かなり独断なので、そこンところはご了承くださいませ。

どんな結果が出るか、とても楽しみです。

結果は、また今日のようにブログ内で発表させていただきますので、是非ともアンケートにご協力くださいませ。
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2007年9月17日 (月)

前九年の役で滅びる安倍一族のお話

 

康平五年(1062年)9月17日、源頼義・義家父子が、陸奥の安倍一族を滅ぼし、『前九年の役』が終結しました

・・・・・・・・・・

この頃の陸奥一帯を治めていたのは、安倍一族の長・安倍頼時(よりとき)

彼ら、安倍一族は、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、『蝦夷征伐』(11月5日参照>>)東北を平定した桓武天皇の時代に、朝廷に従った蝦夷の子孫たちです。

しかし、平定したからといって、何も起こらないわけではありません。

今まで、普通に暮らしてた所に、勝手に京都のほうからやって来て、言わば占領しちゃったんですから、占領された側から見れば、当然、不満は残るわけで、チョコチョコした反乱のような物は、何度となく起こります。

そんな、反乱を鎮圧するため、そして、反乱が起こらないように見張るため、朝廷は『陸奥守(むつのかみ)と称する武士を派遣し、現地に駐在させていたのです。

当時、ここ、陸奥に派遣されていたのが源頼義(みなもとのよりよし)です。

・・・で、以前は、けっこう反発していた頼時でしたが、頼義がこちらに来てからは、比較的静かで、陸奥一帯は平静が保たれていました。

しかし永承六年(1051年)、事件は、ある日突然起こります。

頼義の部下・藤原光貞の陣屋が、何者かに襲われたのです。

頼義らは、これを頼時の長男・安倍貞任(さだとう)が犯人だとして、彼を逮捕しようとしますが、父親の頼時は当然、息子を守ります。

・・・で、この事が「安倍一族、中央に反乱」・・・ってな事になって、いまだに歴史上では安倍一族が、先に手を出した事になっているようです。

とにかく、こんな本当かどうかわからない冤罪まがいのイザコザから『前九年の役』は始まるのですが、『前九年』という名前を見てわかるように、戦いは一進一退をくりかえし、徐々に泥沼化していきます。

やがて、天喜五年(1057年)に当主の頼時が亡くなり、次に、先ほど疑いをかけられた息子・貞任が、後を継ぐのですが、その頃には、やや頼義側が有利な形となっていました。

なんせ、源頼義の息子は、武勇の誉れ高き、あの八幡太郎義家ですから・・・。

必死の抵抗を続ける貞任でしたが、康平五年(1062年)の9月5日最後の砦・衣川柵を義家に攻撃されます。

数時間の猛攻の後、守りきれないと判断した貞任は、北へ敗走します。

逃げる貞任・・・追う義家。

やがて、追いついた義家は、きりりと弓を引き、貞任に狙いを定めます。
天下の八幡太郎に狙われちゃぁ、貞任の運命も風前のともし火・・・

義家は、そこで、一首の歌を投げかけます。
♪衣のたて(館・縦)は ほころびにけり♪

「衣の館」とは、先ほど貞任が捨てた衣川の館の事。
「衣の縦」とは、貞任が身に着けている鎧の縦糸の事。

「館」「縦」をかけて、「本拠地も防具も、もうボロボロや?さぁ、覚悟決めろよ!」ってな感じです。

すると、貞任はすかさず歌を返します。
♪年を経(へ)し 糸の乱れの 苦しさに♪
「あまりに長い戦いで、もう、身も心もボロボロや」

この、見事な返答に、弓を引く手が止まる義家・・・。

実は、この頃は、京の都に住む人たちから見て、彼らを「あずまえびす」「みちのくえびす」などとさげすみ、教養も無く、野蛮で、どうしょうもない人種だと、差別していたという事がありました。

しかし、この時の義家は、あまりの歌のすばらしさ教養の高さに、弓を引く事ができず、貞任を見逃し、そのまま戻ってしまうのです。

これは、『前九年の役』の中で、最も美しい場面・・・相手に敬意を表した義家の美談として語られている話・・・ですが・・・

お察しのように、かなり不可解・・・。

この時代は、合戦の最中でも、このように歌を詠む事はあったようですが、この二人の対決は、夜の8時頃の出来事・・・しかも、様子を見るかぎり二人っきりです。

そもそも合戦という物は団体戦。
九年も続いた戦いで、大将同士が二人っきり・・・なんて場面が、あろうはずがありません。

百歩譲って、たまたま二人っきりになったとしましょう。

しかし、時間は夜の8時です。
何の灯りも無いこの時代に、遠くの敵を弓で狙う・・・という事が可能だったのでしょうか?

千歩譲って、メチャメチャ月が明るかったとしましょう。
それでも、歌が納得できません。

本来短歌なら
♪年を経し 糸の乱れの 苦しさに
 衣のたては ほころびにけり♪

これで、五・七・五・七・七と、一首の短歌となるわけですが・・・

義家さん、先に下の句を詠んじゃってます。

歌という物を共同で詠む・・・という事は多々ありますが、短歌の場合に下の句を先に詠むという事はルール違反です。

ただ、短歌ではなく、連歌なら七・七から詠んでも、五・七・五から詠んでも良い事になっていました。

しかし、連歌は読んで字のごとく、連なる歌ですから、義家さんが最初に詠んで、貞任が返したのなら、もう一度、義家さんが詠まないと連歌になりません。

しかし、この時の義家さん・・・どうしても、次の歌が出てきません。

「どうしよう・・・どうしよう・・・・出来ない~・・・えぇい!逃げたれ!」
・・・て、結局、どうしても、次の歌が浮かんでこなかった義家さんが、逃げた・・・というのが、この美談の結末です。

つまり、相手に敬意を表して、あえて見逃したのではなく、歌を返せなくて恥ずかしかったから、とにかく逃げた・・・って事です。

まぁ、本当にこんな場面があったのなら・・・ってお話ですが、とりあえずは、安倍貞任さんの、教養の高さが伺えるエピソードではあります。

逆に、武勇に優れた八幡太郎も、歌はちょっと苦手だったようですね。

しかし、ここで命拾いした貞任も、康平五年(1062年)9月17日、お父さんのほうの頼義に討ち取られてしまいます。

捕虜になってしまった弟・安倍宗任(むねとう)は、兄・貞任の首とともに京の都に送られます。

かの「あずまえびすを一目見ようと集まる京の人々・・・その中にいた一人の公家が、かたわらに咲いていた梅を一枝折って差し出し、「これはいかに?」と、訪ねました。

失礼な話です。
つまり、彼らには教養がなくて、花を愛でるなんていう風流な文化を持っていないだろうと、馬鹿にして聞いたのです。

宗任は、即座に返答します。
♪わが国の 梅の花とは 見たれども
 大宮人は いかがいふらむ♪
「俺らは、梅って呼んでるけど、都では何と呼んでるのかな」

あまりに即答に、公家は言葉も出なかったと言います。
またしても、安倍一族の教養の高さが伺えます。

こうして、『前九年の役』は終わり、安倍一族は滅亡しました。

この時、頼義・義家父子に協力して、ともに安倍一族を倒した地元の豪族・清原武則(たけのり)・・・。

やがて、その武則の孫に当たる清衡(きよひら)が、朝廷に屈しない一大王国・奥州藤原氏を誕生させるのは、この二十五年後の事になります(11月14日参照>>)

奥州の藤原文化が花咲く根底には、この地の人々の教養の高さが、一役を荷っているのかも知れません。
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2007年9月16日 (日)

関ヶ原の合戦・反省会~朝まで生合戦

 

『関ヶ原の合戦・反省会~』パチパチパチ・・・

今日はたくさんの布陣図・合戦図を用意しました~例のごとく、あくまで趣味で作成した図なので、100%正確ではないかも知れませんがご勘弁を・・・
そして、ブログのデザインの関係上、あまり大きな図を本文に掲載できませんので、見づらいと思われましたら、お手数ですが画像をクリックして大きな図を開いてくださいませ。

・・(このページはフィクションです)・・

徳川家康:「本日は、少し趣向を変えて、昨日・慶長五年(1600年)9月15日に起こりました関ヶ原の合戦・大反省会を開催させていただきます~ワタクシ司会の徳川家康です」

おあむ:「アシスタントのおあむです」
(おあむちゃんについては2008年9月17日のページでどうぞ>>)

井伊直政:「よっ!おあむちゃん。やっぱいいねぇ~。女の子がいるっちゅーのは、こう・・・場が華やかになって、オッサンばかりだとどうもねぇ・・・」

福島正則:「カワイイなぁ、おあむちゃん・・・石田さんトコの家臣の娘だったよね~たしか・・・」

石田三成:「山田去暦(きょれき)っちゅーヤツの娘や・・・って、そんな事はどうでもええねん!それより、合戦の話や!ホラ、見てみなはれ、前夜祭(9月14日参照>>)でも披露したこの『関ヶ原の合戦布陣図・開戦前』

Sekigaharafuzinzu1cc

この完璧な鶴翼の陣(【陣形・陣立てのお話】参照>>)・・・どう見たってワシの勝ちでんがな。
明治時代に、この布陣図見たドイツ人少尉が『この布陣で西軍が負けたなんてシンジラレナ~イ』て言うたんやで。なんでや~なんで、こないなったんや~」

本多忠勝:「確かに完璧ですよ・・・ただし、そのままだったらね・・・家康さんは、西軍の人たちに、こっちに寝返るよう画策してましたからね。」

黒田長政:「そうそう、それで、僕らが走り回って確実に味方になってくれるよう約束を取り付けたりしたんだ」

徳川家康:「・・・で、まぁ『裏布陣図』とでも呼ばせてもらいましょうか・・・この布陣図・・・ジャジャ~ン!昼過ぎに正式に寝返る小早川秀秋とその周辺を含ませてもらったら、実際の布陣図は、こうなるわけですな~。」

Sekigaharafuzinuracc_2

石田三成:「アカン!鶴の片翼が東軍色になってしもとるがな!」

長束正家:「オイ!ワシらの近所にもおるやないかい!西軍の仮面をかぶった東軍が・・・こら、長宗我部!端っこのほうで見過ごしかけとったけど、何さらしとんねん!」

長宗我部盛親:「ワシァ、家康さんからお誘いの手紙もろたきぃ、OKの返事出しちょったんじゃが、その使者が土佐弁丸出しで西軍に見つかってしもぉて、しゃぁなしに西軍についちょったんじゃ。じゃきぃ、最初っから戦う気はゼロぜよ」

安国寺恵瓊:「ショックだ・・・吉川さんが東軍色に染まってるなんて・・・吉川さんが動かないから、同族の毛利さんも動かない・・・西軍総大将の輝元さんの代理で参加してる秀元さんが動かないんじゃ、僕らだって動けないよ~あぁ、なんで・・・僕にナイショで東軍に走るなんて・・・(ToT)」

長束正家:「わかる・・・わかるで~その気持ち。お前、広島で、ず~っと毛利君らと一緒やったもんなぁ」

徳川家康:「・・・で、開戦したばかりの頃の合戦図が・・・ジャジャン!
コチラ!恵瓊さんが、まだ南宮山あたりにいるのは、皆、西軍だと信じてる頃ですねぇ」

Sekigaharafuzin11hcc_3

大谷吉継:「そんなもん・・・ショックはこっちじゃ!笹尾山に狼煙(のろし)があがっても動けへんさかい、小早川が裏切る気なんは予想がついたけど、小早川につられて、ウチの部隊に所属してた脇坂や朽木・小川・・・しまいに赤座まで裏切りやがって・・・しかも、全員、俺ンとこに攻撃しくさって・・・俺ら、朝一から福島・藤堂・京極と戦こうててヘトヘトやっちゅーねん」

小早川秀秋:「えっ?大谷さん、気づいてはったんですか?僕が寝返るって事・・・」

大谷吉継:「あたりまえやないかい!お前チンタラやってるから家康に鉄砲撃ち込まれとったやないかい。」

小早川秀秋:「そうなんっすよねぇ~。どうしょう?どうしょう?このまま山の上から見物しとこかな・・・なんて思てたら、『こら、早よ動かんかい!』って感じで、撃ち込まれてしまいまして、あわてて松尾山を駆け下りて行きまして・・・まぁ、たっぷり恩賞は戴きましたけどね。」

徳川家康:「・・・で、その時の状況がこれ!ジャジャ~ン!」

Sekigaharafuzin12hcc_2

石田三成:「まだ、そんなフリップ作っとるんかい!あぁ、あかん・・・これでかなり戦況が変わってしもたなぁ。」

大谷吉継:「スマン!三成君、ワシお先に逝かしてもらいました~(ToT)。」

石田三成:「いやいや、大谷君、ようやってくれた。感謝してるで~。けど、そのあと、小西行長も宇喜多秀家も伊吹山のほうに姿消してもたし、島津に俺らのとこ助けに来て~な・・・って頼みに行ったら断られるし・・・。」

大谷吉継:「えぇ?ワシの知らんまにそんな事あったんか!なんでや?なんでや島津はん!」

島津義弘:「いやぁ、おとといの大垣城での軍儀の時、おいどんの『今夜のうちに家康の本営(この時家康は岡山に布陣中)に奇襲すべき』ちゅうー案を、却下され申したでごわす。
おいどんは、関ヶ原で決戦する気は無かったで、こうなった以上、自分たちは自分たちの合戦をする決意を固めており申した。」

井伊直政:「知んないよ、どうなっても知んないよ・・・てな感じでスネてたんすね。」

福島正則:「カワイイなぁ、そのスネかた・・・。」

石田三成:「吉継・・・お前知らんやろけどな・・・ゴメン、俺もそのあと逃げてん。もうどうしようもなくなってなぁ。」

大谷吉継:「いや、しゃーないわぁ・・・こんだけ、敗戦の色が濃くなってしもたら・・・んん?って事は最後に残ったんは島津はんやないですか!」

島津義弘:「そうでごわす。おいどんは、戦って華々しく散る覚悟でごわしたが、甥の豊久に止められ申した。
しかし、敵に降伏する・・・いう事は薩摩藩士の最大の恥でごわす。
また、大将の首を討ち取られるのも薩摩藩士の最大の恥でごわす。
よって、退却・・・それも敵中突破する事になり申した。」

長束正家:「敵中突破ぁ~?」

島津義弘:「退却するなのなら、対角線上にある伊勢路が最も良いという事になり、多大な犠牲は払い申したが、おいどんは、何とか助かり申した。
だどん、甥の豊久は討たれたでごわす。」

徳川家康:「・・・で、その時の様子がこれ!ジャジャ~ン!」

Sekigaharafuzin14hcc_2

石田三成:「またかいな!・・・けど、ホンマに対角線上やな・・・よう突破したな」

井伊直政:「そうそう、これスゴかったよね。」

本多忠勝:「うんうん、僕と直ちゃんで、追いかけたんだけどさ。
後ろの兵が鉄砲を撃ってる間に、前にいた兵が鉄砲を撃ってる兵の後ろにつく・・・てな感じで、徐々に後退していったんだよね」

福島正則:「東軍の間でも『島津の背進』って呼ばれて伝説になってるもんなぁ」

島津義弘:「故郷の大隈に着いた時には、わずか80騎になったいたでごわす。」

本多忠勝:「いーじゃん、離脱した事で、結局お咎め無しで、お家は守られたんだから・・・。」

吉川広家:「そうじゃぁ~、ワシらと毛利家は、見事に寝返って、小早川みたいに恩賞もらえるかと思いきや、大幅に減封されたんじゃけぇのう。」

長束正家:「お前、おったんかい!おってんやったら、さっき、お前の話出た時に何とか言うたれや!恵瓊泣いとってんぞ!」

吉川広家:「いやぁ~、ワシぁ~恵瓊が苦手じゃけぇ」

石田三成:「お前ら贅沢言うなや~。輝元は、西軍の大将やってんで、首が飛んでもおかしない立場やんけ。存続しただけでも儲けモンやっちゅーねん!
そうや、ホンマや、ワシ、西軍の大将ちゃうのに、なんで代表みたいにされてんねん。」

大谷吉継:「お前が言い出しっぺやからやないかい!せやから、ワシ、あん時、反対したやないかいな。」

石田三成:「え・・・結局、ワシの反省点てソコ?最初なん?」

大谷吉継:「そうや、お前が始めて挙兵の相談したあの日、家康はちょうど江戸城に入って、豊臣側の人間を味方につけようとっせっせと手紙書き始めとった頃やないかい。
すべての根源はそこにあんのとちゃうか?えぇ?」

徳川家康:「まぁ、皆さんが寝返ってくれたのは、ひとえに私の人柄によるものだと・・・」

石田三成:「待て!オラ!お前に人柄の事、言われたないっちゅーねん!」

徳川家康:「みんなが私に・・・」

石田三成:「まだ、言うか!いてもたろか!このタヌキジジイ」

大谷吉継:「アカン!あばれ出した~皆、三成を押さえろ!危ない!」

おあむ:「2回戦が始まりそうなので、皆様・・・今日は、このへんで失礼いたします。
また、機会がありましたら、このような形で・・・。」

小西行長:「ケンカはいけません・・・右の頬を打たれたら左の頬を・・・アーメン」

長束正家:「お前も、おったんかい!」

小早川秀秋:「さっ・・・、ほな、僕はそろそろ明日の佐和山城攻め(9月17日参照>>)の準備さしてもらいますわ~。直ちゃん、行きましょか~」

井伊直政:「お前が直ちゃんて言うな!俺、先輩やぞ」

おあむ:「では、またお会いしましょう~see you next time」

・・・・・・・・・反省会終了・・・・・・・・・

福島正則:「おあむちゃん、このあと暇?」

おあむ:「首実検用の首洗うんでぇ・・・また今度誘ってくださ~い」

福島正則:「ほんじゃ来週・・・これ僕のメルアドなんだけど・・・」

おあむ:「来週は、その首にお化粧しないといけないんですよね~城を守る女の役目ですから・・・また、是非、行きましょうね~じゃぁ」

福島正則:「あの・・・メルアド・・・」

石田三成:「福島君・・・お互い撃沈やね」

・・・・・・・・・おしまい・・・・・・・・・
 

お詫び:大阪弁しかしゃべれない茶々です・・・武将たちの方言がたぶんムチャクチャになってると思いますが、決して悪意はありませんので、ご勘弁くださいませ・・・
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2007年9月15日 (土)

家康はなぜ、長男・信康を殺さねばならなかったのか?

 

天正七年(1579年)9月15日、織田信長の命令により、妻・築山殿を殺害した徳川家康が、続いて長男・信康を自刃させました。

・・・・・・・・・・・

先日、築山殿のご命日=8月29日に書かせていただきましたように、徳川家の公式記録」とされるいくつかの文書には・・・

「家康の妻・築山殿と長男・信康が、ご乱行の限りをつくし、果ては武田氏に通じて、織田と徳川を滅ぼうそうと企んでいる・・・という娘・徳姫の手紙を見た織田信長が、徳川家康に、二人を殺せと命じた」という事になっています(8月29日のページへはコチラから>>>)

しかし、そのページを見ていただくとお分かりのように、その「徳姫の手紙」という物が、あまりにもバカバカしい内容で、その手紙を鵜呑みにして、何の調べもせずに、あの信長さんが「殺せ」という命令を出す・・・という事は、とても信じ難いです。

大久保彦左衛門の書いた『三河物語』の中では、家康の長男・信康の事を「2度と得難い若殿」と称し、あまりに聡明でデキる息子だったのを、信長が疎んで「殺せ」と命令し、当時の家康にとっては、織田との同盟は最重要で、とても断れる状況ではなかった・・・としています。

この『三河物語』も、徳川家公式記録」の一つです。

とかく公式記録という物で、お家の事をを悪く書くわけはありませんし、初代(家康)に至っては神様のように書き残すのが常です。

公式記録という物がすべて、そのように書かれている以上、それを信じるしかないわけですが、どうも、奥歯に物が挟まったような感覚はぬぐえません。

・・・で、今回は、公式記録には書かれていないので、あくまで仮説であるという事を前置きして、お話を展開させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その先日のブログでも、元亀元年(1570年)に、家康が岡崎城を信康にまかせて、自身は浜松城へ移った・・・という事を書かせていただきましたが、そもそもの発端はここにあったのではないでしょうか?

それから、この事件が起きるまでの9年間。

当時の最大の要注意隣国である甲斐・武田氏最前線に位置する浜松城と、裏方の役割を荷わされた岡崎城・・・この二つの城の荷った役割が大きな亀裂を生む事になったのです。

最前線の浜松城は常に戦闘態勢ですから、事が、起これば功名を挙げ、恩賞に預かれますが、兵糧や準備の担当となった岡崎城の武士たちには、ほとんど恩賞は望めません。

確かに、腹が減っては戦はできませんし、武器が無ければ戦えません。

しかし、具体的に誰が何をやった・・・という記録の残らない裏方の仕事に、恩賞がつかないのは・・・仕方の無い事とわかっていても、不満が徐々にたまってくるのは当然です。

例えば、浜松城の井伊直政なんかは、天正三年(1575年)頃から家康に仕え(8月26日の後半部分参照>>)わずか1年後に1万石となり、7年後には4万石となって、もちろんその後も増加し続けますが、一方の岡崎城の家臣は家康の祖父・清康の時代から仕える家臣であっても、ほとんど加増されないままだったりします。

もちろん、井伊直政ほど増加した人は稀であったかも知れませんが、多かれ少なかれ、この二つの城に勤務する武士たちの間に「差がある」と感じる人も少なく無かったのかも知れません。

岡崎城の武士から見れば、その禄高の加増の問題と、裏方に回らされてる感が拭えないし、一方の浜松城から見れば、信康に見える、どうしても払しょくできない今川の影・・・。

最初に、築山殿が岡崎城に入れてもらえなかった事から見ても、徳川家には、今川を生理的に拒む者も多くいたはずです。

信康には、今川の血(もしくは今川家臣の血)が流れている事を忘れるわけにはいきません。

・・・で、家康が気づいた時には、この岡崎VS浜松の対立が、どうしようもないところまで来てしまっていたのではないでしょうか?

手荒な一大改革をしてでも、徳川家を一つにまとめなければならない状況に陥っていた・・・と、考えるのはどうでしょう?

もし、本当に、信長の命令だけで、妻と息子を殺さなければならなかったのであれば、それこそ妻と息子だけで充分なはずです。

しかし、実際には、この事件の後、岡崎城側の家臣団は散り散りになり、わずかの者を残して、徳川の公式記録から消え去ってしまうらしいのです。

その、残ったわずかな者でさえ、自殺したり行方不明になったり・・・後に出世した人は、ほとんどいないようです。

この現象は、やはり、この時、徳川家を揺るがすような一大事が、岡崎城内の家臣団の中にあった・・・という事なのではないでしょうか?

そして、8月3日、家康は突如として岡崎城にやってきます・・・それも、完全武装して・・・。

城内にて、親子二人っきりで面談した後、すぐに信康は、岡崎城出て大浜城へと移されます。

その後は、西尾城堀江城へと・・・その身柄を点々と変えたのは、岡崎派の武士たちを警戒してのことなのか?

それとも、「大改革はしたいけど、息子だけは何とか助けたい」という家康の親心だったのでしょうか?

しかし、最後に移動した遠州・二俣城で、信康は切腹をする事になるのです。

天正七年(1579年)9月15日最後まで、無実である事を訴えていた信康・・・介錯人として遣わされた服部半蔵は、その場に太刀を投げ捨て、介錯を拒んだと言います。

半蔵の心の内には、いったい何があったのでしょうか?

さらに、もう一つ不可解な事があります。
それは、家康の重臣・石川数正の事です。

築山殿の時にも、書かせていただいたように、数正は、命がけで築山殿と信康を今川から取り戻した功労者です。

その後は、信康の後見人の立場として、常に、見守っていたはず・・・
なのに、信康の一大事に、顔を見せないのは、何とも不可解です。

しかし、この信康事件に関しては、数正はまったく記録に登場しません。
まるで、その場にいないかのように・・・

そして、ご存知のように、この事件から6年後の天正十三年(1585年)、数正は、突如として、一族郎党を連れて、豊臣秀吉のもとへ走るのです(11月13日参照>>)

数正が家康を裏切った理由については・・・
「小牧・長久手の戦いの戦後処理のため、何度も会ううち秀吉に魅力を感じた」とか、
「やはり、何度も通ううち、豊臣家と通じているのではないか?と疑われたから」とか、
あるいは「法外な報酬で、秀吉からヘッドハンティングされた」などなど・・・結局のところ、はきりした事はわからないわけで、戦国屈指の謎とされています。

何やら、この信康事件が、数正の心に深い傷を負わせてしまったような、気がしないではありません。

Nobuyasuzizincc_2 今日のイラストは、
『信康さんの自刃の時』を・・・。

まだ、少し早いですが、紅葉に包まれた「その時」を描いてみました。
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2007年9月14日 (金)

関ヶ原の合戦・前夜祭!小早川秀秋の長い夜

 

慶長五年(1600年)9月14日・・・いよいよ、関ヶ原の合戦の前日でございます~。

・・・・・・・・・・

この日、徳川家康は早朝、岐阜を出発し、稲葉貞通を道案内に、舟を並べて橋を造り長良川を渡って神戸池尻赤坂を通って、美濃岡山に到着・・・

岡山頂上に陣を張り、ここを東軍の本営としました。

ご存知のように、この合戦で家康が大勝利を収める事により、この岡山は、後に勝山と呼ばれるようになります。

早速、ここで、東軍の軍儀が開かれます。

・・・と、言っても、作戦は、すでに出来上がっていて、ここでの軍儀はあくまで、確認作業のようなものでした。

なんせ、家康は野戦が得意。

現在、石田三成大垣城にいますから(9月7日参照>>)何とか城がら引っ張り出して、野戦に持ち込みたいわけです。

・・・で、その大垣城には、わずかの兵だけを置き、「主力部隊は三成の佐和山城を攻撃し、その勢いのまま大坂城へと攻める」という作戦でした。

もちろん、この作戦は嘘ではなく、本当にこのような方針でしたが、これは、「こうすれば、三成は必ず、出てくるだろう」という予想のもと、立てられた作戦です。

佐和山城は三成の居城で、大坂城には大事な豊臣秀頼がいます。

「この方針を知れば、三成は、必ず関ヶ原でくい止めようとするに違いない」と踏んで、立てた作戦・・・ですから、この情報は、わざと西軍に流されました

城に籠られては困りますからね。

一方の西軍でも、この日、軍儀が行われましたが、こちらは戦々恐々・・・「一気に家康の本陣を狙うべき」「いやいや、大坂城の秀頼の出陣を待つべき」との意見が飛び交い、まったくもって意見がまとまらず、ただただ時間が経過していきます。

そんなところに、先ほどの「東軍は佐和山城を攻め、その勢いで大坂城へ・・・」の情報が舞い込んで来たので、急遽、夜のうちに、軍を、関ヶ原に移動させる事となります。

こちらも、大垣城には、わずかの兵を残し、全軍四万の兵を引き連れて、松明を消し、息をひそめて・・・大垣から関ヶ原まで、約16kmの夜道を行軍。

この日は、夜遅くにになって雨が降ってきました。

雨に濡れ、泥道を行軍する中、三成は、途中で部隊と別れ、長束正家安国寺恵瓊(えけい)ら、東側を固める部隊と、合戦の打ち合わせをしています。

・・・と、同時に、この日松尾山に陣取った小早川秀秋へ伝令を送りました。

小早川秀秋は、本来ならば、この日、大垣城の軍儀に出席するはずでしたが、なぜか大垣城へは来ず、そのまま松尾山に登ってしまったのです。

「コイツ裏切る気ぃちゃうか?」
三成は、不安にかられたに違いありません。

きっちりと味方につけるため、三成、大谷吉継など、西軍主要メンバーの署名が入った誓書を送ったのです。

そう、この小早川秀秋という人は、この関ヶ原の合戦のキーマン・・・彼の持つ1万5千の軍勢は、東軍・西軍、どちらにとっても魅力的なのです。

秀秋は、豊臣秀吉の奥さん・ねねさんの兄・木下家定の息子で、子供のいなかったねねの養子となって、彼女のもとで育ちます。

秀吉も、彼を、わが子のように可愛がり、一時は自分の後継者と見ていた事もありました。

しかし、例のごとく、淀殿秀頼を生んだ事にようって、彼の運命は大きく変わるのです。

13歳の時、突然、毛利家の分家である小早川家に養子に出され、翌年、筑前筑後三十二万石を相続しますが、朝鮮出兵時の失敗によって、越前・北ノ庄へ左遷されてしまうのです。

秀吉の死後、再び筑前・筑後の領主に戻りますが、実は、これは、当時五大老の一人であった家康さんの配慮による物でした。

しかも、以前、書かせていただいたように、血縁関係にあるねねさんは、この関ヶ原の合戦では、なんとなく家康側に・・・(9月6日参照>>)

つまり、秀秋にとって、秀頼には恨みこそあれ、恩義など感じる理由もなく、むしろ恩義を感じるなら家康とそのバックにいる叔母さんのねね。

しかし、彼は豊臣家の人間として育ち、今は、西軍の大将・毛利家の分家・小早川家の当主なわけです。

さぁ、どうしましょう?

三成が送った誓書には・・・
「秀頼が15歳になるまで、関白の座を譲る」と書かれてあり、関白となれば、京都で暮らさなくてはなりませんから、その費用として「播磨一国を与える」とあり、さらに、彼の重臣・稲葉正成平岡頼勝には、「それぞれ近江十万石を与え」、その軍資金として「黄金300枚を与える」とありました。

ん・・・魅力的ぃ~。

しかし、この同じ14日、その稲葉と平岡宛に、本多忠勝井伊直政の署名による東軍からの誓書も送られてきていたのです。

東軍からの誓書には・・・
「西軍の一員として伏見城攻め(7月19日参照>>)に加わった事はいっさい咎めない」という事と、「関ヶ原での働きによっては畿内の二国を与える」事が書かれてありました。

さぁ、困った・・・どうする?秀秋!
未だ19歳の少年武将には、重すぎる天下分け目の決断です。

・・・で、彼の出した答えは・・・

西軍には、「狼煙(のろし)を合図に松尾山を下りて戦闘に参加する」と約束しました。
東軍には、「機会を見て西軍を裏切り、東軍側について戦う」と約束しました。

「え゙~?両方にそんな約束したらアカンやん!」
・・・て、キツク叱ってあげないで・・・なんせ19歳ですから・・・決戦の前日に手紙送りつけられて、「即、返事しろ!」って言われても、そりゃかわいそうですよ。

大体、彼は伏見城攻めのあと、「病気だ」と言って、近江に引きこもっていたんですから・・・。

その時から、心は東、立場は西の葛藤の中で、答えが出せずに悩んで、関ヶ原には行かないでおこうと思っていたのに、三成さんが、再三再四、「出兵しろ!出兵しろ!」って要請を出してくるから、しかたなく出陣して、松尾山までやって来たんですから・・・。

さてさて、秀秋が悩みに悩みぬいている間に、三成隊をはじめとする西軍の主力部隊は、続々と関ヶ原に到着します。

家康を、この先へ行かせまいと、関ヶ原の西北あたりに陣取り、北国街道と中山道を、西軍部隊が封鎖したのは、日付が変わった午前1時頃でした。

三成は、かの秀秋との誓約を取り付けた後、山中村に陣取る大谷吉継を訪ね、最終の打ち合わせを終え、自らは、北国街道を見下ろす笹尾山に陣を張りました。

一方の家康・・・家康に「西軍が関ヶ原に向かって移動中」の一報がもたらされたのは、午前2時頃。

家康にしてみれば「してやったり」・・・敵は思い通り城を出てくれました。
早速、全軍に出陣命令を出します。

先陣をきるのは、福島正則黒田長政
続いて、加藤嘉明藤堂高虎・・・その後ろには松平忠吉

松平忠吉は、家康の四男です。

実は、本当はここの席は、家康の後継者である秀忠の席でしたが、秀忠は上田城真田昌幸・幸村父子の抵抗に遭い(9月7日参照>>)、間に合わなかったんですよね~。

おかげで、忠吉さん、大抜擢の位置にて出陣です。

やがて、午前4時頃、西軍の布陣が完了・・・
遅れる事1時間。
午前5時頃、関ヶ原に到着した東軍は、午前6時には布陣を完了
します。

Sekigaharafuzinzu1cc <見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

さぁ、いよいよ、運命の夜明けを迎えます。

・・・で、この続きは・・・
昨年の9月15日のページ>>を読んでいただくか、あさって16日には『関ヶ原の合戦・反省会』で、武将たちがその日の事を語っていますのでコチラからどうぞ>>>
 

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2007年9月13日 (木)

関ヶ原で天下を狙う第3の男=黒田官兵衛の石垣原の戦い

 

慶長五年(1600年)9月13日、来たるべき関ヶ原の合戦に向かって、各地で起こる合戦に乗じて、再起を賭けて挙兵した大友義統と、それを迎え撃つ黒田如水石垣原の合戦がありました。

・・・・・・・・・

7月19日に勃発した伏見城の攻防戦(7月19日参照>>)をきっかけに、徳川家康率いる東軍・先発隊は、一路西へと向かい岐阜城を攻略(8月22日参照>>)

一方の石田三成率いる西軍は、安濃津城(8月25日参照>>)松坂城を攻略・・・さらに、東軍に寝返った京極高次(きょうごくたかつぐ)大津城を攻撃しつつ(9月7日参照>>)細川幽斎(ゆうさい=藤孝)の籠る田辺城を開城(7月21日参照>>)に追い込みます。

北陸では、家康派の前田利長と三成派の丹羽長重浅井畷で戦い(8月8日参照>>)、信濃では徳川秀忠率いる東軍の別働隊が、上田城に籠る真田昌幸・幸村父子を攻撃中(9月7日参照>>)

こんな大規模な合戦の前後には、そのドサクサに紛れて、お家再興・旧領奪回を目指して挙兵する没落大名も数多く現れるものです。

大友義統(よしむね)もその一人・・・。

義統は、九州に名を轟かせたあの大友宗麟(そうりん)の息子です。

大友氏は、出家後も実権を握る宗麟が『耳川の戦い』(11月12日参照>>)で、島津義久に敗れたのをきっかけに、没落の一途をたどりますが、豊臣秀吉九州征伐に助けられ、何とか豊後一国を維持していました(7月27日参照>>)

しかし、宗麟の後を継いだ義統が、あの『文禄の役』にて、小西行長の救援要請を無視し、一旦奪っていた鳳山城を放棄した事で、秀吉から怒りをかい、この関ヶ原の合戦の頃は、失領の状態にありました。

天下分け目の戦いを前に、多くの大名が軍勢を率いて出陣しているこの状況を、チャンス!と見て取った義統は、大友の旧臣を率いて、徳川方に属する豊後・杵築(きつき)を襲撃します(9月10日参照>>)

この杵築城は、あの細川忠興(ただおき=幽斎の息子)の持ち城・・・忠興は、家康が最初に行動を起こした「会津征伐」の時から、ずっと家康と行動をともにしていましたから、どうしても城の防御が手薄の状態だったのです。

この時期の九州は、徳川方に属した肥後・熊本城主の加藤清正と、豊前・中津城主の黒田長政が権勢を誇っていました。

大友義統が挙兵したところで・・・と言いたいところではありますが、先ほども書いたように、このドサクサに紛れて再起を狙う没落大名は彼一人ではありませんから、杵築城が西軍に属する者の手に落ちれば、なだれのように、九州全土が西軍に傾く可能性もゼロではありません。

この事を心配した黒田長政の父・如水(じょすい)は、杵築城の救援に向かう事にします。

この時、息子・長政は、細川忠興と同じく、軍勢を率いて畿内へ出張中でしたから、如水は、ありったけの金銀と引き換えに、浪人はもちろん、農民・町民・職人などなど・・・とにかく、急遽、人を集めて、何とか1万の兵を用意しました。

この黒田如水という人・・・秀吉の参謀として活躍した頃の黒田官兵衛という名前の方が有名でしょうか?

あの本能寺の変(6月2日参照>>)織田信長が死んだ時、その一報を聞いて、動揺する秀吉に向かって、「さぁ、最大のチャンスがやって来たぞ!」と、冷静に言ってみせ、奇跡の中国大返し(6月6日参照>>)のダンドリを組んだのは、彼です。

おそらく、あの時、秀吉のそばに彼がいなかったら、あの中国大返しは成しえなかったでしょうね。

秀吉は、天下を取ってからも、家臣たちの前で、如水に「次に誰が天下を取ると思う?」と聞いたと言います。

如水が「さぁ、毛利輝元あたりじゃないっすか・・・」と答えると、「いや、違う・・・それはお前だ!100万の大軍を指揮できるのは、お前しかいない」と・・・。

このような事がたびたびあって、秀吉から警戒されていると感じた官兵衛は、まだまだ現役でいけるにも関わらず、息子の長政に家督を譲って隠居・剃髪して如水となったのです。

しかし、現役を引退した後でも、自分の目の届かない九州に、彼を置くのは危険だと考えて、秀吉は、ずっと如水を領国には帰らせず、そばに置いていました。

あの秀吉がそこまで警戒していた人物です。

そんな彼を相手に、義統は、慶長五年(1600年)9月13日豊後石垣原で野戦に挑むのです。

戦局は予想通り・・・大友軍は、検討むなしく蹴散らされてしまいます。
合戦の内容については2009年9月13日参照>>)

それどころか、如水は、たった5日間で豊前の半分近くを平定し、さらに北上を続け・・・それは、まさに、九州全土を平定するかのような勢いです。

そうです。
あの時の、秀吉の警戒は、間違ってはいなかったのです。

義統がこのドサクサでお家再興を企んだように、如水はこのドサクサで天下を狙っていた?のです。

彼は、まずは九州を平定し、その後、中国・畿内へ攻め上るつもりでいたと言われます。

しかし、秀吉との中国大返しでは、見事、読みが当たって一世一代の賭けに勝った如水でしたが、今回は読みが甘かった・・・。

彼の予想では、長引くと考えていた関ヶ原の合戦が、たった一日でケリがついてしまったのです。

それも、西軍総崩れの大差です。
もう、天下は家康の手中に転がり込んだようなもの。

皮肉な事に、吉川広小早川秀秋を寝返らせて、東軍を勝利に導くという大手柄を立てたのが、息子・長政だったとか・・・。

合戦後、その功績によって、筑前五十二万石を与えられ、意気揚々と帰国した息子・長政を、如水は褒める事もなく、けっこう冷たく、たった一言・・・「天下分け目の戦いとは、もう少し長くやるものだ」と言ったとか(8月4日参照>>)・・・やっぱ、本気で狙ってましたね、如水さん・・・。

彼としたことが、息子に天下取りの話をしてなかったんでしょうか?
まぁ、敵を欺くには、まず味方から・・・って言いますから、たぶん、話してなかったんでしょうね。
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2007年9月12日 (水)

信長の比叡山焼き討ちは無かった?

 

元亀二年(1571年)9月12日、織田信長が、比叡山・延暦寺を焼き討ちしました

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こちらも先日の『川中島の合戦』と同様、ブログをはじめての最初の9月12日という事で、昨年はごく一般的に知られている「織田信長による比叡山焼き討ち」のお話を紹介させていただきました(昨年の記事を見る>>)

しかし、教科書にも載っている有名なこのお話も、例のごとく諸説あり、信長さんの言い分あり・・・という事で、今日は別の視点から書かせていただきます。

・・・と、その前に、『比叡山の七不思議』の一つ、『なすび婆(ばばあ)のお話はご存知でしょうか?

今は石碑のみが残る、かつて東塔にあった南光坊というお堂・・・。

ここには、昔、なすび色の顔をした老婆の幽霊が住みついていたのだそうです。

その老婆は、平安の昔、宮中に仕えた官女でしたが、誤って殺人の罪を犯してしまいます。

それがもとで、死んでからは地獄に落とされてしまいましたが、彼女は生前から自分の犯した罪を悔いており、信仰も厚かった事から、救われて、その身は地獄にあっても、心は比叡山に住む事を許されたのだそうです。

その「なすび婆」が、信長の比叡山焼き討ちの時、大講堂手前にある鐘楼の大鐘を乱打し、急を伝えたと言います。

なすび色の顔をした婆さんが、必死の形相で鐘を乱打・・・怖いか?

いや、怖いゾ・・・なすび色の婆さんの必死の形相を想像しただけで、ある意味怖い・・・怖すぎる光景だ・・・。

さすがに七不思議だけの事はあります。
(比叡山七不思議については、HPの【平安京魔界MAP】で紹介しています。「なすび婆」に関しては、内容かぶってますが、他の六つも紹介していますのでよろしければコチラからどうぞ>>>

しかし、今現在、平成の世の中で、この話を聞いて「へぇ~そんな事があったんだぁ」と、丸々信じ込んでしまう人がいるでしょうか?

おそらく、誰もが、伝説は伝説、史実は史実、とわけて考えるはずです。

信長さんに関する資料として代表的なのは、やはり『信長公記』

これは、信長に仕えた太田牛一という人が「私作・私語にあらず」と明言して書き残した事もあり、「おそらく史実であろう」と考えられています。

そこには、『・・・雲霞の如く焼き払い・・・目も当てられぬ有様なり、数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなる。』と、比叡山焼き討ちの様子が書かれています。

確かに、著者である太田牛一さんは、わざと創作はしなかったかも知れませんが、かと言って事実であると断定するわけにはいきません。

ポイントは、彼が本当にその目でその光景を見たのかどうか?という事です。

たとえば、『信長公記』には、信長さんの最期である本能寺の変(6月2日参照>>)の事も書かれていますが、その日、彼は本能寺には宿泊していませんから、実際に見たわけではありません・・・にも、関わらず、かなりリアルに、かなり詳細に書かれています。

おそらく、誰かから聞いた話と、主君に対する思いが相まっているのでしょうが、実際には、光秀側で参戦した人物の書いた記録とはかなり異なっています。

それは、比叡山焼き討ちの記述に関しても当てはまる事だと思います。

もう一つ、イエズス会士・ジマン・クラッセという人が書いた『日本西教史』

これには、『・・・ことごとく僧徒を殺戮し、・・・寺院を焼き、猛獣があさるように兵を洞窟まで入れ、逃げ隠れする者を捜し出し、ことごとくこれを焼き殺した。』とありますが、彼も、実際にその目で見たわけではないでしょう。

彼は、同じ『日本西教史』の中で、あの豊臣秀頼について、大坂夏の陣(5月8日参照>>)の後、死体が見つからなかった事に触れ、「妻子を連れて逃亡し、傘下の大名のもとにいる」と書いていますが、これは明らかに、当時の町の噂をそのまま書いています。

つまり、比叡山の焼き討ちに関しても、町の噂をそのまま書いているかも知れないという事なのです。

現在、教科書をはじめ、信長の比叡山焼き討ちに関しての出来事は、「なすび婆」ほどでは無いにしろ、事実とは異なるかも知れないと疑ってみるのも良いかも知れません。

一方、焼き討ちが行われる前年、英俊という僧が、比叡山を訪れた時の感想を日記に書いているのですが・・・(こちらは実際に見た感想です)

堂坊が荒れ放題になっていて、わずかに根本中堂の灯明が2~3個点っているだけの状況を目の当たりにして、「僧はほとんど山を下りて、坂本あたりで女と遊び、高利貸しをして贅沢三昧し、学業をおろそかにしているから、こんな事になるんだ」と嘆いています。

この状況が本当だとしたら、もはや、焼き払うに値する堂坊も無く、追い詰めて焼き殺す善男善女もいない事になってしまいます。

さらに、近年行われた滋賀県教育委員会の発掘調査で、大きな火事があったら、当然残っていなくてはいけない焦土の跡や、人骨などがまったく見当たらなく、出土した品も平安の頃の物ばかりだった事から、信長の時代に、「全山が猛火に包まれ3千人が虐殺された」というような事は、地質調査の限りで言えば、考えられない事である事も判明しました。

ただし、信長が比叡山を攻撃したというのは確かでしょう。

それは、浅井・朝倉の落ち武者をかくまい、内通する延暦寺は、信長にとって軍事的に敵であったからです。

しかし、伝えられるような大規模な物ではなく、少しばかりの堂坊を焼いただけの物だった・・・というのがホントのところではないでしょうか?

では、なぜ?そのような「大規模な焼き討ち」と書物に記録されるようになったのでしょうか?

上記の彼らが、自ら創作したのでないのなら、少なくとも「町の噂」となっていたわけですから・・・。

そう、その通り、この信長の比叡山焼き討ちは、「町の噂」になっていたのです。

おそらく、噂を流したのは、延暦寺の僧たちです。

彼らは、信長を「仏敵」と言いふらし、同情を買い、世間を延暦寺の味方につけようとしたのではないでしょうか?

そこに、「アノ人ならやりかねない」という長さんのキャラクターが、いっそう真実味を帯びて、あたかも事実のように伝わって行く・・・。

戦国時代と言えば、まだまだ、神仏への思いが根強かった頃・・・一般庶民にとっては、まさに信長さんが「魔王」に見えたに違いありません。

しかし、信長は「神仏をも恐れぬ魔王」などではなく、ただ、目の前の敵に向かって攻撃を仕掛けた・・・いやいや、最初に武装して、浅井・朝倉と組んで、信長を敵にまわしたのは、延暦寺のほうでしょう。

そこには、「天罰が怖くて、何も手出しはできないだろう」という油断があったに違いありません。

事実、それまでの武将は、誰も延暦寺には手を出せませんでした。

そういう意味では、彼ら僧兵にとって、信長さんは「魔王」・・・仏を傘に着た武装集団に、それまでの常識を打ち破って、宗教と軍事とは別物であると知らしめた先駆者であったわけですから・・・。
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2007年9月11日 (火)

盛者必衰~藤原仲麻呂の乱

 

天平宝字八年(764年)9月11日、奈良の都を震撼させた『藤原仲麻呂の乱』が発覚しました。

・・・・・・・・・・

昨年の10月に、歴史好きをワクワクさせる大きなニュースがありました。

滋賀県大津市で、奈良時代のハイウェイ「田原道」と思われる大規模な道路跡が発見されたのです。

発掘調査から幅18mもあったと思われるこの道は、奈良の平城京から近江へと続く道・・・。

時の権力者・藤原仲麻呂は、若い頃、近江の国守として派遣され、10年以上も、この近江で暮らしました。

彼にとって、第2の故郷だった近江に、時の天皇・第47代淳仁天皇を招いて『保良宮(ほらのみや)と称し、いずれは、そこを都にしたいと考えていたのです。

『田原道』は、まさに次代の都のメインストリートにふさわしい道でした。

しかし、天平宝字八年(764年)9月11日、事件は起こります。

朝廷は、あの正倉院から大量の武器を持ち出して、このメインストリートを封鎖します。

追われるのは、クーデター計画が発覚した藤原仲麻呂・・・その人。

彼は、自らが敷いたこの道を行く事はできず、ただ、ひらすら北陸道を北へ逃亡するのです。

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Tennouketofuziwarakekeizu 藤原仲麻呂は、あの藤原氏出身で初の皇后となった光明皇后の甥っ子。

権力を一手に握っていた兄たちを、流行の天然痘で失ってしまった光明皇后は、才知に長けた甥っ子の仲麻呂に期待します。

もともと持っていた自身の政治力と、皇后というバックを持った仲麻呂は、破竹の勢いで出世街道まっしぐら。

やがて、第45代・聖武天皇が亡くなると、皇后と仲麻呂は、藤原氏の権力を手放さないためにもと、娘を第46代・孝謙天皇として即位させます。

それまでの女性天皇が、次期天皇候補が幼い間だけの中継ぎの役割だったのと違って、この孝謙天皇は藤原氏の期待を一心に背負った女帝。

後継ぎが男系男子に限られている天皇家では、彼女は結婚する事も、子供を生む事も許されません。

そんな彼女は、目の前にいた頼れる従兄弟に夢中になってしまいます。

政界に君臨する光明皇太后と孝謙天皇・・・ふたりの女性から目をかけられた仲麻呂は、ますます権力の頂点へ・・・。

そんな中、わずかに残っていた反仲麻呂派の重臣たちの「仲麻呂暗殺計画」が発覚!・・・

『橘奈良麻呂の乱』(7月4日参照>>)と呼ばれるこの乱で、名だたる名門の家柄の重臣たちが逮捕&死刑となり、逆に仲麻呂の天下を完全な物にしていまいます

仲麻呂にベタ惚れの孝謙天皇は、彼の言うがままに退位して太上天皇となり、今度は彼が思い通りに操れる第47代・淳仁天皇が誕生します。

仲麻呂は、自ら『恵美押勝(えみのおしかつ)(「恵美」は人民を恵みに導く美、「押勝」は乱を押さえて勝ったという意味)と名を改め、先の乱で邪魔者が一掃された政界は、仲麻呂の腹心・家族で固められ、繁栄の頂点に君臨します。

しかし、ここを頂点として彼の人生は下り坂を転げ始めるのです。

まず、最初の転機は、天平宝字四年(760年)の光明皇太后の死(6月7日参照>>)

それは、皇太后の保護を受けていた仲麻呂よりも、娘の孝謙太上天皇への影響が大きかったのです。

独身女性にとって、その母の存在という物は、年齢に関係なく大きい物で、孝謙太上天皇の受けたショックはかなりのものでした。

すべての権力を欲しいがままにしたとは言え、いや、権力を握っている者だからこそ、感じる空しさ・・・埋められない心の空洞を、わずかに埋めていてくれた母・光明皇太后・・・孝謙太上天皇の心は暗く沈みきっていまいます。

それを、愛する仲麻呂に埋めてもらおうと、彼のほうを見れば・・・彼は新天皇と、新しい近江の都(冒頭に書いた保良宮)の構想に夢中です。

いつしか、病に臥せってしまう孝謙太上天皇・・・そんな彼女の病気治療のために呼ばれた僧道鏡(どうきょう)でした。

道鏡は、儒教にも通じ、仏法に長け、サンスクリット語も理解する有能な人物・・・そんな彼が、彼女の回復を願って、朝な夕なにやさしく看病してくれます。

そう、彼女は、もう一人の頼れる男を見つけてしまいました。

こういう時、長年独身を貫いてきた免疫のない女性というものは、ブレーキが効かないもので・・・時に孝謙太上天皇・44歳。

お相手の道鏡は、彼女より12~3歳年上でしょうか?
人間いくつになっても萌える時は萌えるのです。

そうなると、彼女の病気はみるみる回復に向かい、純粋な少女のまま大人になったような彼女は、人目もはばからず道鏡にラブラブ光線を浴びせまくり、宮廷内も、二人の噂で持ちきりとなります。

仲麻呂は「しまった!」と思ったに違いありません。

あわてて、淳仁天皇の名を借りて、二人の宮廷内でのあからさまな大胆行動を批判しますが、時すでに遅し・・・彼女の心の中は、もう道鏡でいっぱい。

逆に、「変な想像はやめてや!私らは、な~んも悪い事やってないし」と反発されてしまいます。

そして、母の死から二年後の天平宝字六年(762年)5月、完全に立ち直った孝謙太上天皇は、それまで住んでいた保良宮の宮殿を出て、平城京に戻るのです。

この行動は、仲麻呂への完全なる決別宣言ですね。

そして、翌月の6月には、平城宮の朝堂院に重臣たちを集め、高らかに復活宣言します。

「こうなったら、帝には、お祭りや神事なんかの細々した事だけやってもらって、国の大事な事や賞罰は私が決めます!」と・・・。

同時に、かの道鏡は、公家の大納言に相当する『少僧都(しょうそうず)という位に出世します。

もう、完全に立場逆転。

しかし、それでも仲麻呂は、まだ淳仁天皇が天皇の位のある事を利用して、息子たちを越前(福井県)美濃(岐阜県)の国守にして、愛発(あらら)の関不破(ふわ)の関2ヶ所の関所を押さえ、さらに、唐の情勢が不安定な事を理由に、「この機会に新羅を攻める」と称して大規模な兵の動員を命令する書状をばら撒きます。

この命令書が孝謙太上天皇のもとに密告されたのが、天平宝字八年(764年)9月11日・・・この兵の動員を謀反の準備と判断し、早速、仲麻呂の邸宅に太上天皇の使いを派遣して、官位の剥奪と藤原の姓を没収を宣告します。

仲麻呂と、その家族は、夜のうちに屋敷を脱出し、第2の故郷・近江へと逃亡・・・逃げる仲麻呂に、追う太上天皇軍。

皮肉にも、保良宮の造営のために、仲麻呂が整備した新しい道を使って、太上天皇軍は楽々と仲麻呂に追いつく事になるのです。

逃走から8日後の9月18日・・・仲麻呂は、琵琶湖上の船の上で、彼は、太上天皇軍の兵士に斬殺されます。

仲麻呂が名乗った恵美押勝という名前・・・一説には、
「あなたの顔を見ていると自然に微笑みがこぼれてくる。
私は、いつも、あなたの強い押しに負けてしまう。
だから・・・
あなたには恵美
(笑みの)押勝という名前をア・ゲ・ル」
と、孝謙天皇が言ったからだとか・・・。

皇太后と女帝・・・二人から寵愛を受けた彼は、一夜にして逆賊となって、その生涯を閉じるのです。

Eminoosikatucc 今日のイラストは、
恵美押勝=藤原仲麻呂さんで・・・

逃亡の果てに、彼の最後に見た風景は、こんな感じだったのでしょうか?

かつて、一度でも愛した男を、死に追いやった孝謙天皇・・・

それは、彼女が特別だったのか?
仲麻呂が特別だったのか?
それとも、二人の恋が特別だったのでしょうか?

  

恵美押勝こと藤原仲麻呂がいなくなって、次にトントン拍子に出世するのは、僧・道鏡・・・しかし、やはり盛者必衰・・・道鏡も・・・っと、このお話の続きは9月25日【和気清麻呂、大隈へ流罪】へどうぞ>>

淡路への流罪となってしまう淳仁天皇については10月23日【没後・1105年経て天皇に~悲しみの淳仁天皇】へ>>
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2007年9月10日 (月)

川中島の合戦は無かった?

 

永禄四年(1561年)9月10日は、上杉謙信武田信玄のあの第四次・川中島の合戦~八幡原の戦いのあった日です。

川中島の合戦は、合計5回ありましたが、一番激しい戦いが、この日起こった4回目の川中島の合戦で、一般的に『川中島の合戦』と言えば、この4回目を指します・・・て、このお話は昨年もしましたね。(昨年の記事を見る>>>)

昨年は、ブログをはじめて最初の9月10日という事で、ごく一般的に知られている川中島の合戦を紹介させていただきましたが、実はこの川中島の合戦・・・諸説あって、なかなかのクセモノです。

・‥…━━━☆

この川中島での合戦を伝える書物の中で代表的な物は、昨日の戸石城の攻防戦(9月9日参照>>)の記事にも登場した『甲陽軍鑑』なのですが、昨日の山本勘助の神がかり的な活躍も怪しさムンムンでしたが、川中島に関しても、何やら不可思議です。

第一『甲陽軍鑑』では、なんと、両者が12回も戦った事になってます。

確かに、正史とされる合計5回の合戦の場合でも、1回目とされる天文二十二年(1533年)は、4月22日に武田軍が最初の攻撃を受けてから、信玄が布陣を解いたとされる10月7日まで、5ヶ月間あるわけですから、出撃・撤退を繰り返し、小競り合いなんかも含めればかなりの数になるでしょうから、そこは譲るとしても、内容がどうも・・・。

「いざ、攻めようとしたら、相手(謙信)が撤退しはじめたので、戦うのをやめた」とか、「合戦がはじまろうとした時、黒雲が移動したから兵を退いた」とか、戦ってんだか、戦ってないんだか、微妙な記述が満載ですが、とにかく、一番知りたいのは、「重要な今日の第4回目の合戦はどうだったんだ?」って事ですよね。

Kawanakazimafuzinzucc 見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・で、要は、夜のうちに武田軍は「キツツキ戦法」をすべく、香坂昌信が率いる別働隊を、上杉軍が布陣している妻女山(さいじょざん)へ移動させます。

Kawanakazimakitutukicc 「キツツキ戦法」というのは、キツツキが木をたたいて虫をおびきだして餌にする要領で、別働隊に、背後から襲わせ、敵が前へ逃げて来たところを本隊が討つ・・・という作戦です。

まぁ、これも『甲陽軍鑑』では、山本勘助が立案した事になってますが・・・。

信玄は総勢2万の兵のうち、1万2千・・・つまり、本隊よりも多い数を別働隊にあてています。

ワタクシ、地元ではありませんので、このあたりに地の利がないのですが、八幡原から妻女山の山頂まで・・・これがけっこうな距離なのだそうです。

この距離を、1万2千の兵が気づかれずに移動するのは、不可能に近いとされています。

おそらく、敵にたどりつく前に夜が明けてしまい、完全に見つかってしまう事になるのです。

結局、実際には、夜になる前に山頂から武田軍を観察して、敵の動きを知った謙信のほうが、夜のうちに妻女山から八幡原へと移動して、今度は上杉軍が「車がかりの戦法」というのを決行する事になり、「キツツキ戦法」はやらずじまいに終るのですが・・・。

Kawanakazimakurumagakariccこの「車がかりの戦法」というのは、車輪が回転するように円状に兵を展開させ、次々と新しい兵を繰り出してくるようにも見え、反対に退却するようにも見え、敵を惑わす効果もある・・・というのですが、このムダの多い動きはありえないでしょ。

1回目の突入はいいですよ。
1回目だから、充分元気があります。

しかし、戦い終わって、グルッと廻って、敵の反対方向に走って、2回目に敵の前に来た時には、ヘトヘトのまま戦って、また反対方向にグルッと走って、また敵の前・・・って、人間には体力の限界ってモンがあるんですから、休憩無しで、そんな動きができるとは、とても思えません。

これなら、一目散に突進していったほうが、なんぼか楽に戦えます。

なので「川中島の合戦は『夢まぼろし』のような物」・・・とおっしゃる専門家の方もいらっしゃるとか・・・

では、例の信玄と謙信の一騎打ちは?

一騎打ちの噂を聞きつけた公家の近衛前久(このえさきひさ)が、「本当に自身が太刀打ちしたのか?」というような手紙を謙信に差し出していますが、謙信自身は「あれは影武者の仕業だ」と言っていたとか。

合戦が夢まぼろしなら、一騎打ちも当然無かった事になるわけですが、架空の人物かも知れない山本勘助(2010年9月10日参照>>)はともかく、信玄の弟である武田信繁(2008年9月10日参照>>)や従兄弟の諸角虎定が討死という事がある以上、この通りでは無かったとしても、ある程度の激しい戦いがあった事は確かでしょう。

しかも謙信は、この先の行動を自分自身で判断がつけられない時、「神の啓示によって最終的な決断をくだしていた」との噂で、時々、説明のつかないような、誰も思いつかないような、突拍子もない行動をとる事があったそうなので、そんな人ならひょっとして、大将自ら、単身で敵陣へ・・・て言うのもアリかも知れませんね。

結局、伝えられるような合戦があった証拠もなく、無かった証拠も無い以上、数少ない『甲陽軍鑑』の史料に頼らざるをえないのが現状ですが、歴史を楽しむ身としては、「あってほしいなぁヽ(´▽`)/」って感じでしょうか・・・

江戸時代の講談で、カッコよく彩られた世紀の合戦は、今年の大河ドラマのクライマックスも、きっとカッコよく彩ってくれる事でしょう。

ドラマなら、その方が断然オモシロイ・・・勘助さん、最高の見せ場ですからね。
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2007年9月 9日 (日)

戸石崩れのはずが山本勘助ヒーロー伝説へ?

 

天文十九年(1550年)9月9日、甲斐の武田信玄が、敵対していた村上義清の支城・戸石城に総攻撃を仕掛けました。

・・・・・・・・・

その実力で信濃(長野県)諏訪地方を手に入れた(6月24日参照>>)武田信玄が、信濃東部もその手中に治めようと、天文十七年(1148年)に、そのあたり一帯を領地としていた葛尾城主・村上義清を攻めます。

しかし、上田原の合戦(2月14日参照>>)において、重臣・板垣信形(のぶかた)甘利虎泰(あまりとらやす)を失うというダメージを受け、一旦、信濃東部平定は振り出しに戻る事に・・・。

やがて天文十九年7月、小笠原長時の信濃・林城を奪った信玄・・・敗走した長時が、あの村上義清を頼った事から、信玄VS義清の関係が再び表面化する事になります。

8月27日、義清の支城・戸石城を包囲した信玄は、天文十九年(1550年)9月9日に、全軍をもってこの戸石城に総攻撃を仕掛けました。

しかし、強固な城はなかなか落ちず、しかたなく、信玄は信濃に「地の利」がある真田幸隆(ゆきたか)に命じて、周辺の諸将を味方に引き入れるべく画策します。

しかし、いっこうに情勢が変わる気配もなく、結局、1ヶ月後の10月1日、遂に、この戸石城から撤退する決意をしました。

しかし、あの兵法書・孫子でも言われるように、こういう場合、進撃するより撤退するほうがはるかに難しいのです。

当然、武田軍が撤退し始めると、戸石城内に籠っていた城兵が撃って出て追撃を開始し始めます。

さらに、追い込みをかけるように村上義清自身が登場!

実は、この時、武田軍が、てっきり戸石城内にいると思い込んでいた義清と、その主力部隊は、すでに武田軍の背後に回り込んでいて、「今がチャンス!」とばかりに、一斉に追撃に加わったのです。

しかも、つい先日まで敵対していた高梨政頼とも和睦を結び、村上軍は、全力を武田の追尾に投入してきました。

不意をつかれた武田軍は、崩れに崩れてしまいます。

名だたる武将では、横田高松が敵の猛攻撃の中、壮絶な討死を遂げ、以下、この時の戦死者だけで700人を越えるという事態になってしまいました。

この10月1日の戦いは、「戸石崩れ」と呼ばれ、武田家の武将たちの間で長く語り継がれる事となるのです。

ところが、例の武田氏の軍学書『甲陽軍鑑』では、一応「負けた」としながらも、この後、まだ話が続くのです。

Takedasingen24syouzu そう、あの山本勘助大活躍ヒーロー物語が・・・
(←【武田信玄二十四将図】大阪城天守閣蔵:下の左から2番目が山本勘助)

それによると、崩れに崩れた武田軍を、「敵の矛先を南に向けさせれば勝てる」と、まさに軍師(占い師)的な発言。

しかし、すでに味方は、命令の通達など、できない状態です。

半信半疑の信玄を尻目に、勘助は、諸角虎定(信玄の従兄弟)の軍勢を借りて、少し前進して、わざと村上軍のまん前で防御の体制をとります。

その軍を蹴散らそうと、前に出る村上軍に対して、コチラの軍の矛先を南側に向けると、つられて出てきた村上軍も南に向き、その間に、他の武田軍が態勢を整えます。

そして、勘助は、次に小山田昌辰の軍勢を指揮し、見事相手を打ちのめしてしまいました。(えっ?)

さらに、味方の軍勢に分け入って、勝利が近い事を言いふらすと、皆、元気を取り戻し、ついに、村上勢への追撃を成功させ、130余りの首を挙げました。(えぇっ?)

「戸石崩れ」と語り継がれた敗戦のはずが、何か勝ったみたいな事になってませんか?

この合戦の後、先の戦で逃げたはずの小笠原長時が、元の場所に舞い戻ってくるわけですから、どう考えたって武田の負け戦のはずなんですけど・・・。

この『甲陽軍鑑』に記された戸石城のくだりは、今のところ正史とされる歴史とは、その日付は違うわ、参戦メンバーは違うわで、どうも信じ難いのですが、勘助が、その生涯で最も活躍する場面・・・しかも、神がかり的な大活躍をするのが、この部分なのです。

かなりニオイますねぇ。

『甲陽軍鑑』は江戸時代の初期に書かれた物・・・勘助の名前が登場する書物は、すべて、この『甲陽軍鑑』から後に書かれた書物で、これを引用した物です。

しかも、これだけ大活躍するにも関わらず『甲陽軍鑑』以外にはその名前が見えない事から、今では、「山本勘助=架空の人物説」(2010年9月10日参照>>)を唱える人も多くいます。

確かに、明らかな負け戦を、あたかも勝ったように書かれてしまっては疑いたくもなりますが・・・まぁ、真実を追究するのは、専門家にお任せする事にして、素人の私は、今年いっぱい、彼の英雄伝説に酔いしれさせていただいて、ドラマはドラマとして楽しませていただきましょう。
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2007年9月 8日 (土)

戦国武将の必須科目・陣形と陣立のお話

 

生き馬の目を抜く戦国時代・・・今日は、それを勝ち抜くための武士の必須科目『陣形・陣立』についてのお話をさせていただきます。

・‥…━━━☆

合戦において、まぁ、時には、無計画で、ただ、やみくもに突っ込んで行く・・・という事もありましたが、多くの場合、事前に作戦を立て、その作戦に合った陣形という物を整えて挑むのが一般的です。

陣形の基本は八つ・・・これは、平安時代に大江維時(これとき)が、から持ち帰った「八陣」と呼ばれる物です。

Zinkei8cc魚鱗(ぎょりん)
偃月
(えんげつ)
鶴翼
(かくよく)
方円
(ほうえん)
鋒矢
(ほうし)
雁行
(がんこう)
長蛇
(ちょうだ)
衡軛
(こうやく)の八種類。

魚鱗は、その名の通り、全体を魚の形に見立てて、一隊を「うろこ」と見立てた物で、先端の一点に兵力を集中させ、敵を倒すのではなく、敵中を突破する目的の形。

偃月は、三日月の形をした物で、前に敵、後ろに山や川などがあり、後退できない場所で用いられる陣形です。

鶴翼は、鶴が羽根を広げたような形で、鶴の頭になる部分に大将が位置し、広く兵を配置する事により、どこから攻められても対処できます。

鋒矢は、少数精鋭で戦う時に用いられ、方円は、敵がその鋒矢の構えをとった時、迎え撃つ形として用いられました。

雁行は、雁が群れをなして飛んで行く時の形。
長蛇は、文字通り「長蛇の列」で、衡軛は、テレコテレコに並びます。

あの三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)で、上洛途中の武田信玄魚鱗の構えで敵中突破を試み、徳川家康は、そうはさせまいと鶴翼の陣で挑みました。

そのページでも書かせていただいた通り、この時の家康の鶴翼の陣は、かなり危ない・・・
それは、信玄の大軍に比べて家康の兵の数が少ないため、どうしても、鶴の羽根が薄っぺらな状態になってしまうからです。

やはり、信玄の魚燐の一点集中で破られてしまい、家康は命からがら逃げ帰る事になるのですが、この若気の至りの合戦も、家康にとっては「あの信玄と戦った」という勲章が欲しかったわけですから、戦っただけで満足といった所でしょう。

こういう風に、合戦で敵と戦う時の配列を陣形と言い、その陣形の細かな内容・・・つまり、「鉄砲隊がどこにいて」「大将がどこにいて」といった配置の事を陣立と言います。

その陣立を書き記した物を「陣立図」と呼びます。
Iyeyasuzintatecc右の図は、徳川家康の小田原城攻め(4月3日参照>>)の時の陣立図です。

最前線に「一ノ先備(さきぞなえ」「二ノ先備」が配置されています。
この「七手」というのは、7人の武将という意味で、この小田原城の時は、井伊直政大久保忠世鳥居元忠平岩親吉榊原康政本多忠勝酒井家治の7人でした。

さらに、「御旗本前備(さきぞなえ)」「武者奉行」と続き・・・最後尾に大将・家康
その家康を守るべく「後備(うしろぞなえ)が配置されています。

このような「陣立図」が残っている事で、それぞれの武将の細かな陣の内容がわかるワケです。

ところで、先ほどの「七手」と記された7人は、そのまま7人という事ではなく、彼らがさらに隊をなしてますから、この7人をそれぞれ大将としたもっと細かい陣立図が存在する事になります。

Hondatomimasazintate・・・で、左のコチラが、大阪城・天守閣に現存する大坂夏の陣の時の「本多富正隊陣立図」です。
(←写真をクリックしていただくと大きくなります)

大坂夏の陣(5月7日参照>>)では、5月7日の総攻撃の時、前日の八尾・若江の合戦(5月6日参照>>)の際、ビビッて一歩も動けなかった家康の孫・松平忠直が、汚名返上とばかりに先陣を切って大坂城に突入をするわけですが、本多富正隊は、この忠直隊の先手に配置されていた一隊で、まさに先陣の中の先陣。

コチラの陣立図は先ほどの家康の物よりも、細かいです。
下のほうに書かれている「御本」というのが富正の位置で、この陣立図の中には、「一番乗り」の功名を挙げた人物の名がちらほら見えます。

右翼・三段めの、「幟(のぼり)持ち」平野清兵衛という人は本丸御殿にあった「掛け軸」を、左翼・五段めの「馬乗」の一人・谷内膳「千鳥の屏風」を、同じく「馬乗」大石四郎右衛門「茶臼」を戦利品として持ち帰ったと伝えられています。

「泥棒やん!」と、思わないでね。
戦場での勤務評定は自己申告制なんです。

「私は、誰々を討ち取りました」「私は何々をしました」というのは、合戦が終ってから、自分で大将に報告して、それを認めてもらって、はじめて「功績」となるわけで、認めてもらうためには、現場を見ていた証人、もしくは証拠の品が必要なんです。

彼らは一番乗りの証拠として、そういった品を持ち帰るのです。
やっぱ、良い物から先に無くなるんでしょうね~バーゲンみたいに・・・。

昨年の大河で山内一豊が、討ち取った敵の首を持参して、信長さんに報告しに行っていたシーンを覚えておられる方も多いでしょう。

まさに、あんな感じですが、そのシーンで、すでに一豊が何人かの家来を連れていたように、この細かな陣立図に載ってる彼ら一人一人にも、まだ、その下に名もなき家臣がいる事になります。

もちろん、そんな名もなき彼らも、殿様が出世すれば、自分たちも、歴史に名を残す武将になれるわけですからね。

・‥…━━━☆

以上、今日は、陣形・陣立について書かせていただきましたが、これから、ドラマの合戦シーンを見るのが、より楽しくなりそうですね。

PS:ちなみに、合戦での功績を認めてもらうためには、遠くで見ている大将の目にとまるよう目立つ事も重要でしたが、そのお話は6月8日【姉川の七本槍と旗指物のお話】でどうぞ>>
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2007年9月 7日 (金)

いよいよ間近の関ヶ原!西軍主力・南宮山に着陣

慶長五年(1600年)9月7日、いよいよ迫ってきた『関ヶ原の合戦』・・・続々と集まりつつある武将たち。
この日、西軍・主力部隊が、南宮山(なんぐうさん)東麓に布陣しました。

・・・・・・・・・・

歴史に興味のない人でも、その名前は知っている戦国時代で一番有名な戦い『関が原の合戦』

このブログを読んでいただいているかたなら、関ヶ原の合戦が単発で起こったのではなく、その前後に様々な出来事や合戦があった事はご承知でしょうが、ここらで、一発、整理しておこうかと思います。

なんせ、ブログでは「今日は何の日?」という事で、合間合間に、別の出来事が入ってきてしまうため、書いてる自分でもゴチャゴチャになつつありますので・・・。
追記:このページを書いた後、年表形式でのサイトマップ(各ページへのリンク)【関ヶ原の合戦の年表】>>を作ったので、少しはわかりやすくなったかと…)

豊臣秀吉が亡くなってからの、豊臣家内での内部分裂や、不穏な空気が発生する状況までさかのぼると、余計ややこしいので、関ヶ原の合戦に直接結びつく出来事から、今まで書いていなかったエピソードも交えてまとめさせていただきます。

・・・・・・・・・

とにかく、豊臣家の内部分裂に乗じて、「我こそが天下を握る」気持ち満々の徳川家康が、一応、豊臣家・五大老筆頭の立場で、「上杉景勝に謀反の疑いあり」(4月1日参照>>)と称して、軍勢を率いて陸奥・会津城へ出発します。

これ以降、西軍の動きはで、東軍の動きはで表現させていただきます。

6月 18日 徳川家康、伏見城を出発
7月 2日 家康が江戸城に到着
石田三成は居城の佐和山城にて、大谷吉継に挙兵の心中をうち明ける
8日 家康の指示で、榊原康政が会津へ出陣
(家康自身は江戸城に残ったままです)
11日 大谷吉継が会津征伐軍から離脱し、三成とともに戦う事を決意(参照>>)
12日 前田玄以増田長盛長束正家の三奉行に、西軍の総大将として毛利輝元に立ってもらうよう要請書を書いてもらい、安国寺恵瓊に手渡す
15日 書状を受け取った毛利輝元が広島を出発(参照>>)
16日 輝元が大坂に到着
17日 大坂城に人質として入城する事を拒んだ細川忠興の妻・ガラシャ(玉)が死を選ぶ(参照>>)
一方輝元は総大将を引き受けるつもりではなく、単に呼び出されたので大坂に来た・・・という感じでしたが、三成らに押し切られ、この日、西軍・総大将に決定。
同時に、三奉行による『家康弾劾状』
告発文)を作成し、各武将にバラまく(7月18日参照>>)
19日 家康が留守をしている伏見城を、三成の命を受けた毛利秀元小早川秀秋らが攻撃(参照>>)
21日 伏見城攻撃をまだ知らない家康は、一応、会津に向け出陣する
下野犬伏にて三成からの合力要望の書状を受け取った真田昌幸幸村父子が居城・上田城へと戻り長男・信幸は家康側に残ります(参照>>)
23日 家康が会津征伐の中止を決定
(この日、家康が会津征伐の協力者・最上義光宛てに送った手紙によると「上方の雑説によりお働き無用」・・・つまり「三成らが発起したので、会津での合戦は無くなった」事を書いています)
24日 家康、下野小山に陣を敷く(参照>>)
25日 小山での軍儀
家康が、会津征伐と称して連れ出した軍の者に対して、毛利輝元が西軍の総大将になった事、ここにいる諸将の妻子が大坂城に人質となっている事を伝え、妻子のために西軍につくのも自由であるとしながらも、自分につくか?三成につくか?を問う(参照>>)
一方の伏見城攻防戦には、宇喜多秀家が攻撃に参戦
26日 家康が、小山の陣を引き払い、諸将に西へ向かうよう指示を出し、自らは江戸城に戻る
29日 石田三成、伏見に到着、伏見城攻撃に参戦
8月 1日 西軍の総攻撃により伏見城落城(参照>>)
8日 東軍に属した前田と利長西軍の丹羽長重が浅井畷で激突(参照>>)
9日 三成が美濃垂井に到着
11日 決戦の地が関ヶ原付近であると予想した三成が、大垣城主・伊藤盛正の家臣を説得し、大垣城に入る(参照>>)
14日 東軍の先発隊が清洲城に入城
この時、先発隊の福島正則らが、家康の使いである村越直吉に「家康殿はなぜ出陣しないのか?」と、詰め寄ったところ、「元・豊臣の家臣であった者が、誠に徳川に忠誠を誓ってくれるのかを、試されているのだ」と聞き、逆に発奮するようになります。
22日 東軍先発隊が木曽川を渡る
23日 東軍先発隊が岐阜城を攻略(参照>>)
1日に伏見城を攻撃した西軍主力部隊が、伊勢・安濃津城を攻撃(参照>>)
24日 安濃津城・開城
26日 岐阜城を攻略した東軍先発隊が、大垣城に攻め寄せず、垂井・関ヶ原に放火した事から、居城である佐和山城に攻め込まれると、不安を抱いた三成が一時佐和山城に戻る
同時に、大坂城の毛利輝元に出馬を要請し、諸将にも関ヶ原付近に集まるように指示を出します
9月 1日 いよいよ徳川家康が江戸を出立
2日 真田昌幸幸村父子の籠る上田城を、家康の三男・秀忠が攻撃(参照>>)
3日 安濃津城を攻略した西軍主力部隊が、松坂城を攻略後、長島城に向かう途中、「家康が出陣した」との連絡を受け、伊勢の平定を諦め、美濃方面へ向かう事に
三成の要請で前田を討つべく北上していた京極高次が、美濃への転戦の指令を受けて離反を決意し大津に戻る(参照>>)
7日 毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家ら、西軍主力部隊が、南宮山に着陣
一方、上田城攻撃中の秀忠は攻略を断念
(参照>>)

・・・と、まぁ、ここまでが、今日・7日までの経過です。

・・・で、この後、家康は12日に清洲に到着し、そこで2日間滞在します。

これは、息子・秀忠がまだ到着していないため、どうやら待っていた様子ですが、秀忠は11日まで、真田の抵抗に遭って上田城にかかりっきりでしたから、まだ到着する気配もなく、13日には岐阜に着陣します。

しかし、この岐阜には先の先発隊が、8月23日に岐阜城を落としてから足止め状態。
「もう、これ以上は待ってられない」とばかりに、すぐに関ヶ原に向かって出発します。

いよいよ、両軍が関ヶ原に大集合です。

・・・が、その前に、天下を狙う第三の男黒田如水(孝高)が、大混乱のこの期に乗じて再起を計った大友宗麟の息子・大友義統(よしむね)と、一戦、交える事になるのですが、そのお話は、合戦のあった9月13日にさせていただく事とします。(9月13日のブログを見る>>)
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2007年9月 6日 (木)

秀吉の妻・ねねさんのご命日なので・・・

 

寛永元年(1624年)9月6日は、高台院・・・つまり、豊臣秀吉の奥さんねねさんのご命日です。

・・・・・・・・・・

以前は、一般的に「ねね」さんと呼ばれていた秀吉さんの奥さんですが、手紙などの署名には「祢(ね)」「寧(ねい)となっていて、近頃では「ね」という名前が正しいのでは?という専門家の見解が多くなり、最近のドラマなどでは、その「ね」に「お」をつけて「おね」さんと呼ばれます。

豊臣秀吉が、山崎の合戦明智光秀を破って(6月13日参照>>)、その後、関白になってからは「北政所(きたのまんどころ)と呼ばれ、秀吉が亡くなって尼さんになってからは「高台院」と呼ばれます。
(本名については、秀吉との結婚話を書いた8月3日のページでどうぞ>>

・・・ですが、今日のところは、親しみやすい「ねね」さんと呼ばせていただきます。

・‥…━━━☆

この人は、まさに『日本のおカミさん』って感じですね。
貧乏暮らしから、天下人の奥さんになっても、セレブな色に染まる事なく、自分を失わない・・・何だかんだ言って、この人くらいでしょう、戦国の世に燦然と輝く3人の天下人全員に、一目置かれた女性は・・・。

ダンナである秀吉はもちろん、あの織田信長も彼女に気を使い、徳川家康には秀吉を弔うためのお寺をおねだりして、見事、お寺を建立させています。

この時代、彼女より頭が良くて、彼女より美人はたくさんいたでしょうが、そこはかとない魅力を感じるのはなぜなんでしょうね。

そんな彼女は、播磨(兵庫県)竜野出身の杉原定利という武士の娘として生まれますが、妹のややと一緒に叔母の嫁ぎ先である浅野家の養女として育ちます。

やがて同じ織田家の家臣で、浅野家のまわりをウロついてた、貧相な男に言い寄られ、「そんなに好きになってくれたんなら・・・」てな感じ結婚します。
(秀吉との結婚を反対されたために浅野家の養女になったとも…8月3日参照>>

それが、秀吉です。
武士の間では、政略結婚が当たり前だった当時としては、珍しい恋愛結婚。
それだけ「政略」に関係ないほど、貧乏で身分が低かった?・・・って事でしょうね。

狭いわらぶきの家の土間に、ワラを敷き、薄っぺらい布一枚かけて、その上に新郎新婦が座るという、この上ない粗末な結婚式・・・彼女は、夫が天下人となった後でも、この日の事をよく人に話したそうです。

秀吉が、「自分は天皇のご落胤である」とか、「自分の母は公家出身だ」とか、嘘八百のごたいそうな過去を並べ立てるのに対して、彼女は「あの頃さぁ、こんな貧乏で、まともな祝言もあげられなくてさぁ・・・」と、平気で貧乏自慢をやってのけるのです。
そこが、『日本のおカミさん』って感じのところです。

やがて、墨俣の一夜城(9月19日参照>>)で脚光を浴び、浅井長政小谷城攻め(8月27日参照>>)では先陣をきって・・・秀吉は長浜で一国一城のあるじとなります。

出世をすると、どうも殿方というものは、いい気になるもので、この頃から秀吉の女好きが発揮され、夫婦間もちょうど倦怠期というのでしょうか?

二人の間では、ちょっとした夫婦喧嘩が耐えなくなってしまうのです。

しかし、何と言っても、彼女がスゴイのは、この時の対応です。

こんな時、普通は「貞女のかがみとして、じっと耐え抜く」か、「噛み付いて一戦交える」か、二つに一つのように思いますが、彼女のとった行動は・・・「夫が頭があがらない上司に言いつける」というものでした。

しかし、単に夫の悪口を並べたてて、あからさまに上司にチクれば、夫の今後の出世に差し支えるかも知れません。
そう、ここが彼女のウマさです。

「ねぇ、シャッチョさん・・・ウチのダンナ、ホンマ困ったもんで・・・こんな、こんなで、こんな事言うんですよ~。一回ビシッと言うたって下さいよ~」
ダンナの悪口を言いながらも根は好きで、好きだからこそ悪いところをなおしてほしい・・・という感じに持っていくワケです。

その結果が、あの有名な信長さんの手紙(5月12日参照>>)です。
「こんな、良い奥さんがいるのに、浮気するなど言語道断!あの禿げネズミは許し難い・・・」
この手紙を見せられた秀吉の顔が目に浮かぶようです。

奥さんのバックには、あの信長がデ~ンと控えているわけですから、もう、おとなしくするしかありませんよね。

しかも、その手紙に書かれていた「ヤキモチは焼くな」という事はきっちり守っています。

つまり、秀吉には一言の文句も言わず、そっと、信長からの手紙を見せる・・・その事によって秀吉自身も頭があがらなくなって、後の、小田原城攻め(7月5日参照>>)の長期出張の時の手紙なんかは、夫婦の関係が垣間見えておもしろいです。

「今度の小田原城攻めは、かなり長くなりそうやねん。
せやから、家臣たちにも、国から妻を呼び寄せてもエエで~って指示したんやけど・・・ボクも呼んでええ?

お前の次に好きな淀(茶々)を・・・
お前から淀に伝えて、ダンドリ組んでくれるかな?」

大好きな淀殿を側に呼ぶのに、奥さんに先に頼んでいるところがイイですね。
あくまで「お前の次に好きな」淀ですって・・・。

そんな彼女にとって、生涯、秀吉との間に子供ができなかった事は、かなりコンプレックスになっていたでしょうが、それを跳ね除けるくらい、夫の事に気を配り、政治の事に気を配り・・・秀吉が次々と、敵方の配下の者を自分の傘下に納めるのも、彼女の助言がかなり物を言っているようです。

彼女のおかげで首がつながった者や、領地を没収されずにすんだ者が数多くいたにも関わらず、それを「私がやりました」とばかりに前へ出るのではなく、そこのところはあくまで影にまわって、ひかえめな態度・・・この対人関係のうまさが、たとえ子供がいなくても、たとえ身分が低くても、彼女が天下人の正室として認められたゆえんでしょう。

しかし、そんな彼女をうっとしく思う人もいます。
その代表格が茶々=淀殿です。

ご存知のように、彼女はサラブレッド中のサラブレッド・・・しかも、秀吉に1番愛されている自分が、身分の低いオバさんの下に位置づけられている事に、そのプライドが許しません。

ドラマなどでも演じられ、ご存知のかたも多いでしょうが、例の佐々成政『黒百合事件』

小牧長久手の戦いで秀吉VS家康の抗争が繰り返されていた時、成政は家康側についていました(8月28日参照>>)

その後、秀吉に降伏した時、「もう、武将生命は終った・・・」と、諦めていた彼を手厚く優遇した秀吉・・・成政は、「これは北政所(ねね)の口ぞえがあったからこそ」と、常々感謝していました。

ある日、富山城主という事で手に入れた越中立山に自生する黒百合を1輪、ねねさんに献上します。
「大坂では見る事のできない珍しい花をありがとう」とねねさんは大喜び。

早速、珍しい花を愛でながらの茶会を開きます。
もちろん、そこには居並ぶ側室たちも招かれ、その中には淀殿もいます。
「淀殿、これは越中立山にしかない、珍しい花なんですって、ご存知でしたか?」
「いえ、初めてですわホホホ・・・」
と、つつがなく、とり行われた茶会・・・。

しかし、数日後、今度は淀殿が「花供養」と称するイベントを開くので・・・と、ねねさんは逆に招待されます。

すると、そこには、名も無き草花と同レベルで並べられた、無数の黒百合の花が無造作に置かれていたのです。

もちろん、こらは、あの茶会から帰った淀殿が、「くやしい~」と、ばかりに、必死で手配した物・・・

と、これは、淀殿が、いかに、ねねさんに負けたくなかったかを物語るエピソードとして語られていますが、今では、意外に二人は仲良しだったと言われています。

後に、秀吉が亡くなって、天下分け目の関ヶ原(9月15日参照>>)・・・この時、ねねさんは、あっさりと大坂城・西の丸を家康に提供し、自分はさっさと京都へ引っ越してしまい、ここで完全に、家康側についた事を表明したとも言われますが、一方では、これは、当主の生母として大坂城を離れる事の出来ない淀殿に代わって、様々な雑務をこなすためだったとも・・・

それこそ、彼女の心の内は彼女に聞くしかありませんが、結局は、彼女が大坂城を出た事で、最も喜んだのは、家康だったようです。

そして、ご存じのように、関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わり、更なる大坂の陣において、かの淀殿は自害する事に・・・(5月8日参照>>)

すんなりと大坂城を退去してくれた事を喜んだ家康は徳川の天下となってから、彼女の希望通り、秀吉の菩提を弔うためのお寺を建立します。

それが、京都の高台寺です。

思い出の伏見城の庭園をそっくりそのまま再現して、彼女はそこで大名並みの暮らしを保証されます。

臥龍廊(がりゅうろう)と呼ばれる長い廊下を通り、その先にある秀吉の御霊が安置されている霊屋(おたまや)で、毎朝祈りを捧げるのが日課になっていたとか・・・。

Koudaizigaryuurounenecc 高台寺:右奥の少し高い所にあるのが霊屋、下り坂に沿って屋根の続く通路が臥龍廊です。

貧乏暮らしから天下人の妻・・・そして日本のおカミさんとなった彼女は、寛永元年(1624年)9月6日、この高台寺で76歳の生涯を閉じます・・・あくまで影にまわって、ひかえめに・・・されど、したたかに・・・。 

2011年9月6日の記事:【秀吉を支えた高台院=おねが貫いた妻の役割】もどうぞ>>
高台寺への行き方&地図はHPで紹介していますコチラからどうぞ>>
 

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2007年9月 5日 (水)

三河一向一揆~徳川家臣が真っ二つ!

 

永禄六年(1563年)9月5日、三河で起こっていた一向一揆に参加していた徳川家康の家臣・夏目吉信らが、家康側に投降した事により、家康は一揆平定の姿勢へと動きます。

・・・・・・・・・

『三河一向一揆』というのは、当時、曹洞宗の勢力が強かった三河東部を除いた地域で、本證寺空誓(蓮如の孫)を中心に、一向宗門徒が、領主である徳川家康に抵抗した約半年間の一揆なのですが、この発端というのが、あまりはっきりしません。

上宮寺の境内に、徳川(松平)方の砦を勝手に作ったから(一応こちらが定説ですが・・・)という話や、本證寺に逃げ込んだ無頼の輩を徳川の家臣が捕獲したから(不法侵入になるそうです)などという話がありますが、とにかく、ここで徳川方と、真宗門徒との間で、何やらゴタゴタがあった事は確かです。

永禄六年(1563年)の秋頃に起こった、そのゴタゴタをきっかけに、徳川方の武将が上宮寺所有の蔵を襲い、米穀を奪った事で、一向宗門徒に火が着き、一揆衆が立ち上がります。

しかも、ここに来て、従来以上の税を徴収する税制改悪が行われ、一揆は加速の一途をたどっていきます。

さらに、戦国の世で城を失った吉良義照などの武将らが一揆に加わるようになると、一揆集団の武装化も、そこらへんの武士団に劣らないような状況になってくるのです。

そのうえ、ややこしいのは、徳川家の家臣の中にも、かなりの数の一向宗門徒がいた事で、彼らの中には、教祖様と、主君との板ばさみに悩みながらも、一揆側につく者が多数出ました。

そんな中の一人が、夏目吉信です。
彼らの一派は、廃城になっていた野場城を補修して、そこに籠城し、徳川方に抵抗をし続けていました。

しかし、永禄六年(1563年)9月5日、突如として徳川方へ投降します。

この、夏目吉信という人は、後の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)で、家康の身代わりとなって壮絶な討死をするあの夏目次郎左衛門吉信です。

主君の身代わりになるような人ですから、やはり、最初から、どっちにつくか?で葛藤があったんでしょうが、彼の心の内までは、わかりませんからねぇ。

そして、家康は本格的に一揆の鎮圧に乗り出します。

10月24日には、松井忠次本多広孝らが、一揆の拠点である三河東条城(愛知県)総攻撃を仕掛けます。

11月25日には、逆に、岡崎城外近くの小豆坂まで一揆軍が迫り、家康本隊とあわや衝突!という場面もありました。

しかし、このように家康本隊との直接対決・・・という状況が多くなると、一揆側に加わっている徳川の家臣たちは、「まさに、主君に弓を引いている」という実感が沸いてくるもので、家康の顔を見るなり逃げ出す者や、主君を目の当たりにして、「やはりダメだ・・・」と、徳川方に戻ってくる者が続出し、この頃から一揆のテンションが一気に下がってくるのです。

年が明けて永禄七年(1564年)。
1月11日~13日にかけての上和田砦の攻防戦は、この一連の一揆戦の中でも、最も熾烈な合戦でした。

ちょうど甲冑の一番厚い部分に当たったため、ケガには至りませんでしたが、家康自身が2発の敵弾を胸に受けています・・・危機一髪でしたね。

そんな中でも、家康は心理作戦も怠りません

仲が良かった、元・家臣同士をうまく利用して、一揆に加わっている徳川方の連中の説得を粘り強く続けたのです。

一揆側から戻ってくる者が、さらに増え始める中、2月13日一揆側が岡崎城へと攻め寄せ、最終決戦を挑んできますが、もうその頃には、一揆側には以前のような勢いはありません。

家康は、この最終決戦にすんなりと勝利し、2月28日5ヶ月に渡った一揆は鎮圧される事となります。

この一連の出来事よって、一向宗門徒が脅威的な存在となる事を確信した家康は、この戦いで、真宗の寺院がいくつか焼失した事を「これ幸い」と、残った寺院には改宗を求め、応じなければ、寺院を廃寺にし、その後も、この三河の地では真宗を禁止する・・・という行為に出ます。

しかし、その一方では、一旦一揆側についても、最終的に戻ってきた家臣には、「罪を問わない」という寛大な処置をしています。

・・・にも、かかわらず、この時、徳川には戻って来なかった人もいます。

そんな戻って来なかった者の中に、後に家康の参謀となる本多正信がいました。

彼は、鷹匠(たかじょう)として家康に仕えていましたが、この一向一揆で、一揆側につき、一揆が終息に至っても戻ってきませんでした。

しかし、流浪の果てに帰ってきた正信を、家康は寛大に迎え入れただけでなく、むしろ以前よりも重く用いるようになるのです。

鷹匠というのは、禄は低いものの、狩りの時には常に主君と行動を共にし、直接、言葉も交わします。

おそらく、家康はこの時から彼の中にただならぬ物を感じていたのでしょう。

しかも、正信が三河に帰ってきた頃(本能寺の変の頃だ言われていますが・・・)には、武断から文治へ・・・つまり、合戦で手柄をたてる家臣よりも、一緒に先の事を読む家臣が重要になりつつあった頃です。

諸国を流浪して見聞を広めた正信は、家康にとってかなり使える男に成長していたのでしょう。

家康は、武勇に優れた家臣は多く抱えていましたが、腹を割って将来を語れる相手は、あまりいなかったようですから・・・。

その分、武闘派の重臣たちからは、「正信はズル賢い」なんて、うとまれていたみたいですが、まぁ、ズル賢くないと作戦参謀は勤まりませんからね。

ところで、この時の一揆がよっぽど怖かったのか、家康はその後の本願寺の分裂に一役かう事になります。

ご存知、浄土真宗のおおもとの石山本願寺織田信長と戦った石山合戦(8月2日参照>>)

これで、十一世法主(ほっす)顕如は本願寺を明け渡しますが、後に天下人となった豊臣秀吉が、京都の七条堀川に寺地を寄進し、亡き顕如の後を継いだ次男・准如によって、本願寺が再興されます。

ここまでなら、本願寺は一つだったのですが、その後、天下人となった家康は、石山合戦で最後まで抵抗したため引退させられていた長男・教如に対して、六条烏丸に寺地を寄進・・・こちらが、東本願寺となります(1月19日参照>>)

もちろん、これは、徹底的に秀吉の上を行きたかった家康の見栄もあったでしょうが、本願寺を分裂させる絶好のチャンスだと思った事も確かだと思いますよ。
 .

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2007年9月 4日 (火)

九戸の乱~秀吉のもと、東北の雄が散る

 

天正十九年(1591年)9月4日、この年の3月頃から勃発した『九戸の乱』で、九戸城に籠城していた九戸政実が、豊臣秀吉・配下の武将に包囲され開城しました。

・・・・・・・・・・・

「小田原評定」でよく知られる小田原城・開城(7月5日参照>>)
これによって、後北条氏を滅亡に追いやった豊臣秀吉は、その足で『奥州征伐』へと向かいます。

『奥州征伐』と言っても、実際にどこそこで合戦をした・・・というよりも、先の小田原城攻略に際し、秀吉が参戦を呼びかけた事に対して、応じたか?応じなかったか?によって、「その武将に対して賞罰を与えた」という感じです。

たとえば、小田原攻めに声をかけながらも、なかなか参戦しなかったあの伊達政宗などは、小田原城・開城直前の6月に、城を包囲中の秀吉の前に、死を覚悟した白装束で現れ、必死のパッチで弁明(6月5日参照>>)、何とか死は免れたものの、今まで命がけで手に入れた奥州の所領を、かなり削られています。

「奥州の覇王」と呼ばれた政宗でさえ、そんな状況ですから、小国の武将などは、所領をすべて奪われ、事実上滅亡という形に追いやられてしまいます。

そして、小田原城が落ちた天正十八年(1590年)7月からわずか、3ヶ月後の10月頃、奥州征伐のターゲットとなった大崎義隆葛西晴信は、元家臣の浪人たちとともに、中陸奥一帯(宮城県北部・岩手県南部)に一揆起こします(11月24日参照>>)

その一揆は、徐々に拡大していき、やがて、秀吉をも揺るがす叛乱となります。

この『大崎・葛西の一揆』に同調したのが、今日のお話の『九戸(くのへ)の乱』です。

乱が起こる少し前・・・陸奥北部を治めていた戦国大名・南部氏は、当主・晴政が病死した事によって、石川氏出身の養子・信直と、実子の晴継の間で家督争いが生じます。

一旦は、実子という事もあって、晴継が後継者に決定しますが、その晴継が父の葬儀の帰り道で亡くなってしまうのです。(暗殺とも病死とも言われています)

そして、次の候補となったのが、先の信直と、今度は晴政の娘婿だった九戸実親という人物で、彼の実家・九戸家は、室町時代以来の南部氏の重臣という事もあり、強い発言力を持っていましたが、結局、今回は養子・信直に決定します。

それが、実親の兄・九戸政実には気に入らなかったのです。

まして政実は、晴継は病死ではなく暗殺・・・そして信直が、その犯人であると疑っていましたから、「あんな石川のよそ者の犯罪者に南部氏を継がれるなら、いっその事、俺が南部氏の当主をやる!」とまで言い始めます。

そんな状況の中、南部信直は、先の小田原攻めの時、いち早く参戦した事により、ここ最近は、秀吉から手厚い待遇を受けていました。

そんな時に起こったのが先の『奥州征伐』への不満から発展した『大崎・葛西の一揆』です。

信直が秀吉から良い待遇を受けている事も気に入らない政実は、奥州の不安な情勢は、絶好のチャンス!とばかりに、近隣の櫛引(くしびき)久慈(くじ)七戸(しちのへ)といった武将を抱きこんで、天正十九年(1591年)3月5千の兵を率いて挙兵します。

迎え撃つ信直・・・近隣の乱の事もあり、「これは自分だけではどうにもならない」と、すぐさま嫡子・利直と重臣・北信愛(のぶちか)を、秀吉のもとに派遣して救援要請をします。

この知らせを受けた秀吉は、もともと『大崎・葛西の一揆』を何とかしなければ、と思っていたところの、この『九戸の乱』・・・すぐに、甥の秀次を総指揮官とする陸奥討伐軍を派遣します。

『大崎・葛西の一揆』への討伐軍の総大将には伊達政宗
『九戸の乱』への総大将は蒲生氏郷

この時、氏郷の率いた兵は何と3万。
そして、それ以外にも、浅野長政(秀吉の義弟)大谷吉継、さらに出羽(秋田県・山形県)の諸将も加え、ものすごい数です。

8月23日には、蒲生隊・浅野隊が九戸方の姉帯城根反城(岩手県)を攻め落とし、さらに政実の本拠地・九戸城(岩手県二戸市)をも包囲します。

この頃には、津軽為信蠣崎慶広(かきざきよしひろ)といった北辺の武将たちも加わり、なんと総勢6万の大軍に・・・

それでも政実は徹底抗戦を叫んで籠城を続けますが、やはり数の違いは歴然です。
毎日々々、徹底的に攻撃を仕掛けてくる大軍には、どうしても歯が立たず、天正十九年(1591年)9月4日抗戦をあきらめ城を開城しました。

政実をはじめとする乱の首謀者・幹部、総勢150人余りがその場で斬られ、二の丸へ追い詰められた城兵は、秀吉軍に放たれた火で、一人残らず全員が焼死したと言います。
(この時の【政実の恨み節】2010年の9月4日のページで>>

ここに、室町から続いた九戸氏は滅亡し、その領地は南部信直の物となるのです。

戦国の世ですから、しかたがありませんが、「食うか、食われるか」の世界を痛感させられますね。

ところで、一方の『大崎・葛西の一揆』の方は・・・?

んん~、そっちは主役が伊達政宗さんでもある事ですし、2月4日の【伊達男の本領発揮!政宗、起死回生の弁明劇】でどうぞ>>
 .

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2007年9月 3日 (月)

時代別年表:奈良時代・前半(飛鳥・白鳳)

このページは、奈良時代前半の飛鳥・白鳳時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Syoutokutaisinennpyoucc



 

・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
552 10 13 仏教伝来
【仏教伝来・物部VS蘇我】
585 3 30 物部守屋が蘇我馬子の仏塔を焼く
【物部VS蘇我~仏像投げ捨て事件】
【仏教を否定した河内の豪族=物部氏】
587 6 7 蘇我馬子が穴穂部皇子を誅殺
【物部滅亡ヘのカウント~穴穂部・誅殺】
7 7 蘇我VS物部合戦で物部守屋が討死
【決戦~物部守屋の討死と鵲森宮】
592 11 3 蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺
【崇峻天皇・暗殺事件の謎】
12 8 推古天皇が即位
【日本初の女帝・推古天皇の誕生】
593 4 10 聖徳太子が摂政に就任
【聖徳太子のどこが怪しいのか?】
604 4 3 聖徳太子が憲法十七条を制定
【十七条憲法~その言いたい事は?】
606 4 8 飛鳥大仏・完成
【悠久の時を駆け巡る飛鳥大仏の謎】
7 13 ~16宮中で初めてのお盆行事
【お中元の起源と歴史】
607 聖徳太子が法隆寺を建立
【法隆寺と聖徳太子】
【太子の為再建?謎と不思議の法隆寺】
7 3 第一回遣隋使・小野妹子を派遣
【国書を失くした小野妹子が出世する】
622 2 22 聖徳太子が死去
【聖徳太子・死因の謎】
626 5 20 蘇我馬子が死去
【謎が謎呼ぶ蘇我馬子の時代】
628 3 7 推古天皇・崩御
【女帝・推古天皇の素顔】
630 8 5 第1回遣唐使・犬上御田鍬を派遣
【世界情勢で変化した遣唐使の役目】
640 10 11 南淵請安が唐より帰国する
【大化の改新の影の立役者・南淵請安】
641 舒明天皇・崩御で皇極天皇即位
【斉明天皇の心の内は・・・】
643 11 1 蘇我入鹿が山背大兄王を攻撃
【山背大兄王を殺したのは誰か?】
645 6 12 乙巳の変・蘇我入鹿の暗殺
【入鹿暗殺≠大化の改新】
【乙巳の変の首謀者は誰か?】
6 14 孝徳天皇が即位
【蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説】
6 19 元号を大化と定める
【元号のお話】
649 3 25 謀反の疑いで山田石川麻呂が自害
【数奇な運命…山田寺・未来への遺産】
653 5 12 鎌足の息子・定恵が唐へ出発
【鎌足の息子=定恵の留学】
655 1 3 皇極天皇が重祚して斉明天皇に…
【初の譲位と重祚…斉明天皇の即位】
658 11 10 有間皇子死刑
【悲劇の皇子・有間皇子死刑】
661 1 6 朝鮮半島情勢悪化で天皇が九州へ
【額田王巡る三角関係】
7 24 斉明天皇・崩御
【斉明天皇の心の内は・・・】
663 8 27 白村江の戦いで敗退
【古代海外出兵・白村江の戦い】
【白村江の戦い~その敗戦の原因は?】
664 北九州に防人をおく
【単身赴任のルーツ・防人の歌】
667 3 19 近江遷都
【天智天皇~一大決心の大津京・遷都】
668 1 3 天智天皇・即位
【天皇不在の7年間…天智・即位の謎】
5 5 蒲生野で狩
【額田王巡る三角関係2】
669 10 15 鎌足が藤原の姓を賜り、翌日死去
【中臣鎌足・藤原の姓を賜る】
671 4 25 水時計によって鐘を打つ「漏刻」の完成
【漏刻で時間を…飛鳥・プロジェクトX】
【時間にキッチリ?奈良の都の勤め人】
10 19 大海人皇子・吉野へ出発
【希望と不安~大海人皇子・吉野へ出発】
12 3 天智天皇・崩御
【天智天皇の死・政変の予感】
672 6 24 壬申の乱勃発
【大海人皇子吉野出発で壬申の乱勃発】
6 25 大海人皇子に高市皇子が合流
【壬申の乱~大海人皇子の鈴鹿越え】
6 29 壬申の乱で大海人皇子側が飛鳥を制圧
【壬申の乱~大伴吹負・飛鳥を制圧!】
7 2 壬申の乱・大海人軍進発と朝廷軍内紛
【大海人皇子・進発…その時朝廷軍は】
7 4 ~7 壬申の乱で大和周辺の戦い
【伊賀で当麻で箸墓で…大和の戦い】
7 7 ~13 壬申の乱で近江周辺の戦い
【大津京へ迫る大海人軍・近江の戦い】
7 22 壬申の乱・瀬田の合戦
【壬申の乱の山場!瀬田の合戦】
7 23 瀬田の合戦に敗れた大友皇子が自害
【大海人と大友…どっちが正統?】
【切腹のルーツは五穀豊穣の祈り?】
673 2 27 天武天皇・即位
【天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑】
678 12 4 山田寺の本尊・金銅丈六仏を鋳造
【数奇な運命…山田寺・未来への遺産】
681 2 25 天武天皇が律令制定の詔を発する
【歴史が始まる?天武天皇の律令国家】
3 17 天武天皇が「日本書紀」の編さんを命じる
【末梢しきれなかった記紀神話の真と偽】
686 9 9 天武天皇・崩御
【天武天皇崩御で持統天皇が・・・・】
10 3 大津皇子死刑
【大津皇子・謀反発覚!】
689 1 18 持統天皇が1回目の吉野行幸へ
【14年間に26回~持統天皇の吉野行幸】
12 8 双六禁止令・発令
【天皇も怒られた?ギャンブルの歴史】
694 12 6 藤原京・遷都
【日本初の本格的「都」~藤原京・誕生】
698 10 4 奈良に薬師寺完成
【薬師寺・伽藍完成】
699 5 24 役行者が流罪となる
【役行者の流罪のウラに利権問題?】
700 3 10 僧・道昭が日本初の火葬に・・・
【日本の火葬の習慣はいつから?】
701 8 3 大宝律令の完成
【大宝律令の役人の年収は?】
704 12 22 持統天皇・崩御
【女帝・持統天皇の葛藤】
706 宮中で「鬼儺(おにやらい)」が行われる
【節分・豆まきの起源と鬼】
708 2 15 平城京遷都を布告
【なぜ、平城京はあの場所に?】
710 3 10 平城京遷都
【なんと(710)大きな平城京】
飛鳥豆知識 【人は別れる時、なぜ手を振るのか?】
【お花見の歴史は万葉から・・・】
【勝利の聖地・吉野の花見の意味は?】
【未盗掘で発見!藤ノ木古墳の主は?】
【謎呼ぶ天平人の忘れ物・藤原宮の瓦】
【時間にキッチリ?奈良の都の勤め人】
【壬申の乱での装備や武器は?】
【天智天皇の読み方「てんち」「てんじ」?】

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2007年9月 2日 (日)

真田のゲリラ戦法炸裂!関ヶ原の前の上田城攻防戦

 

慶長五年(1600年)9月2日、関ヶ原の合戦へ向けての前哨戦の一つ。
真田昌幸・幸村(信繁)父子が、降伏勧告を出して上田城を包囲した徳川秀忠から、みごと城を守りきった『上田城攻防戦』が開始されました。

・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)、「上杉景勝に謀反の疑いあり」(4月1日参照>>)として、軍勢を率いて陸奥・会津城へと向かった徳川家康が、留守にした伏見城石田三成攻撃を仕掛けた(8月1日参照>>)事を知った北上途中の7月25日・・・小山の陣の軍儀で、会津へ向かうのを中止し、西へと戻る事を発表して、徳川(東軍)につくか?石田三成(西軍)につくか?」を、その場にいた諸将に問いました(7月25日参照>>)

「三成、憎し」で凝り固まっていた福島正則が真っ先に、「俺、徳川~!(^o^)/」と、ノリノリで手を挙げ、それにつられて「我も我も」と皆が手を挙げ、その場にいた者のほとんどの武将が、徳川についたワケで・・・

しかし、それより先の21日に、家康に与する事をやめたのが、信濃上田城主真田昌幸(まさゆき)でした。

実は前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行の名によって『内府ちかひの条々』なる書状が去る7月17日に、諸大名にバラまかれていた(7月18日参照>>)のですが、この書状は、家康が亡き秀吉の遺言にそむいたとされる行動が13か条の項目に箇条書きに書かれた・・・つまりバクロ話がいっぱい書かれた物。

昌幸は、この書状とともに、三成からの「打倒家康!の挙兵するから味方になってね!」西軍へのお誘いの手紙も受け取っていました。

決断の時です。
真田昌幸、長男・信幸(のぶゆき=信之)、次男幸村(ゆきむら=信繁)・・・親子3人で、どうするのがベストか?真田家が生き残る方法をじっくりと話し合います。

この話し合いの時、斬り合う寸前までの激論が交わされた・・・と言われていますが、たぶん、無いでしょうね。

それは、西軍・東軍どちらにつくにしても、それがいかに忠義であるかをアピールするための表向きのポーズで、実際には、しごく冷静に、先を見据えて話し合ったでしょう。

真田は、小国とは言え、この戦国の世を、自らの知恵と力で生き抜いてきた一族・・・豊臣にも徳川にも、さほど世話にもなってもないし、恩も感じていないはず・・・むしろ、「お前んとこのモメ事に俺らを巻き込んでくれるなよ」とくらいに思っていたかも知れません。

しかし、全国を二分しての天下分け目の合戦です。
中立で知らん顔・・・もできない以上、彼らは東西どちらが勝っても生き残る方法を選んだのです。

家康の重臣・本多忠勝の娘を、一旦家康の養女にして嫁にもらっていた長男・信之は東軍に、西軍の雄・大谷吉継の娘を妻としていた次男・幸村と、父・昌幸は西軍につく事にします。

昌幸と幸村は、その日のうちに引き返し、信之は、その一連の経緯を家康に告げます。

そう、ここで先ほどの「親子で斬り合う寸前の口論をして・・・」というのを強調する事によって、親にはむかってまで、味方になってくれた信幸を、家康は大いに喜び、「関ヶ原に勝ったら信州をやる!」と約束するのです(7月21日参照>>)

これで、徳川が勝てば現在の領地は長男の物・・・豊臣が勝てば現状維持と、どっちに転んでも真田家生き残り作戦はバッチリです。

やがて福島正則らの東海道を行く先発隊(8月22日参照>>)に続いて、家康の息子・秀忠中山道を西へ向かいます(2011年9月7日参照>>)、そこに立ちはだかるのが、昌幸らの籠る信濃上田城というワケです。

慶長五年(1600年)9月2日、秀忠は信濃小諸城に入り、上田城に対して『降伏勧告』を行います。

しかし、当然の事ながら昌幸は、その勧告を拒否!
(ここで、「OK]するくらいなら、はなから徳川に味方するっちゅーねん)

すぐさま、小競り合いが開始されます。

ここで、先鋒となったのは、兄・信幸の率いる軍・・・弟・幸村の守る伊勢崎砦を攻めます。

ここは、素早く幸村が砦を放棄して上田城へ後退しますが、その上田城を攻める秀忠本隊のほうは、3万5千という大軍にも関わらず、わずか2千の昌幸軍のゲリラ戦法に悩まされ続けます(2010年9月7日参照>>)

そのうち、秀忠軍の意見が真っ二つに分かれて軍儀が大モメに揉める事に・・・。
「ここ上田城の攻略は見送り、一刻も早く、家康の本隊と合流すべき」という意見と、「いや、上田城攻略は必須であるからして、攻撃を続ける」という意見です。

そんなこんなのゴタゴタに4日間も費やしてしまい、そのわりには上田城を攻略もできないまま、結局、秀忠は上田城周辺に、森忠(蘭丸の弟)らを残し、本隊への合流を急ぐ事に・・・。

しかし、秀忠が関ヶ原に到着したのは、9月19日・・・合戦は、もう、とっくに終ってしまっていました。
もちろん、父・家康に、こっぴどく叱られるハメに・・・。

なお、、上田城が落ちなかったために、敵味方に分かれた真田一族が直接対決をする事はありませんでしたが、9月15日の本チャンの関が原の合戦が、東軍の大勝となったために、、昌幸と幸村は、紀伊・九度山への配流の身となり、その年の12月13日、16人の家臣と妻子を連れて上田を発つ事になりました(12月13日参照>>)

この時も、昌幸・幸村父子のおかげで、大事な合戦に間に合わないという不祥事を起こしてしまった秀忠は、二人を処刑しようとしますが、信幸の「それなら、先に私を切腹させてからにして下さい」いう迫力に負けての流罪という処置でした。

もちろん、父が没収された領地を、そっくりそのまま与えられて上田城主となった信幸は、その後も、九度山に入った父と弟の面倒を、影ながらみていた事は言うまでもありません。

お見事!生き残りましたね・・・真田一族。
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2007年9月 1日 (土)

関東大震災での災害救援ボランティア

 

大正十二年(1923年)9月1日午前11時58分、相模湾北西部を中心とするマグニチュード7.9の巨大地震が起こりました・・・ご存知『関東大震災』です。

・・・・・・・・・・

死者・行方不明者、合わせて約14万3千人・・・まだ、生々しい記憶の残る『阪神淡路大震災』もそうですが、この関東大震災の時も、地震直後に圧死した人よりも、はるかに多かったのが火事による犠牲者です。

地震発生直後から各地に火の手があがり、焼死した人・・・また、熱さを逃れて川に飛び込み、水死した人も多かったと言います。

また、相模湾沿岸には、地震と同時に津波が発生し、800余りの家屋が流出の被害にも遭っています。

しかし、この『関東大震災』と、『阪神淡路大震災』との決定的な違いは、その後の「デマ」と「暴動」の発生ではないでしょうか?

身内や友人を亡くされたかた、被害に遭われたかたの、苦しみ、悲しみはいつの世も同じですが、ニュース等で見る限り、神戸の人々は比較的落ち着いて、冷静な行動をとっておられたように思います。

やはり、災害時の「正確な情報」という物が、いかに大切かを痛感させられます。

『関東大震災』の時は・・・
「再び、今夜、地震が来る」
「富士山が大爆発を起こした」

などのデマが飛び交い、中でもヒドかったのは・・・
「朝鮮人が暴動を起こし、井戸に毒をまいて、あっちこっちに放火している」
などという物でした。

身を守るために結成されたはずの自警団が暴徒化し、多くの朝鮮人が殺害されました(2010年9月1日参照>>)

また、その思想を危険視されていた社会主義思想の人たちも、地震をきっかけに、軍や警察へ連行され、惨殺された人もいました。

考えるのも恐ろしい光景です。

デマや暴動・・・数多くの被災者・・・ただ、そんな、暗いイメージばかりが先行する関東大震災ですが、実は、そんな中でも、ボランティア活動が行われていたのです。

阪神淡路大震災で注目を浴び、それ以来一気に盛んになった感のある『災害ボランティア活動』ですが、実は、すでに大正時代のこの関東大震災でも、多くの人が無償で救援活動に参加しました。

まずは、町内会青年団宗教団体といった民間の団体が、発生直後に被災地に駆けつけ、人命救助や炊き出しのサービスなどを行い、その後、粗末ではあるものの、公園や空き地に市の仮設住宅も建築されました。

関東近隣の医者や看護婦はもちろんの事、看護学校の生徒たちも医療活動に参加・・・遠くは関西から駆けつけた看護学生もいたそうです。

もちろん、救援物資も、義捐も続々と送られてきました。
当時の記録によれば、政府に集まった義捐金は約8400万円。

そして、その波は海外からも・・・。

諸外国の中で、いち早く行動を起こしてくれたのは、アメリカ合衆国でした。

発生翌日の9月2日には、大統領からのお見舞いの電報が届き、被災者救済のための軍の出動命令を発令。
赤十字社への積極的な働きかけも行ってくれます。

そして、9月3日には、大統領自らが国民に義捐金と救援物資の募集を呼びかけます。

その時のキャッチフレーズは・・・
『1分早ければ、一人多く助かる』
という言葉だったそうです。

政府の広報活動のおかげで、アメリカの各地で、チャリティーコンサートやバザーが行われ、政府の予想をはるかに超えた金額が集まりました。

そして、食糧衣服テントといった物資や、医療器具医薬品とともに、多くの医療救護団も続々と上陸したのです。

これらの、アメリカの人々の善意によって、その頃、徐々に悪化し始めていた日米関係に、一筋の光が指したのは言うまでもありません。

これだけ、アメリカの人々が積極的になってくれたのは、実は、この17年前・・・明治三十九年(1906年)にサンフランシスコで起こった大地震の時の記憶があったからだとも言われています。

その時、明治天皇は被災者救援のため、20万円を義捐金として送る事を決められたのですが、それに感動した国民が、明治天皇に習えとばかりに募金活動に参加し、合計で10万円という金額が集められ、アメリカに送付されました。

このサンフランシスコ地震での海外援助に関しては、日本がダントツだったのです。

アメリカの人々は、しっかりと、この事を覚えていてくださったんですね。

もちろん、関東大震災に救援をしてくれたのはアメリカだけではありません。

イギリスフランスオーストラリアインド等等・・・たくさんの国からの援助がありました。

そして、何と言っても、日本がその時、進出しようとしていた中国からも、救援の手が差し伸べられていたのです。

ボランティア、国際支援、救援活動・・・これらは、最近に始まった事ではないのです。

思想が違うから・・・
交流がないから・・・
敵対しているから・・・
大災害が発生した時には、そんな枠は取っ払って、積極的に救援活動を行う事こそが、国際社会での地位の向上となり、やがては、真の世界平和につながっていく事でしょう。
 

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