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2007年9月 4日 (火)

九戸の乱~秀吉のもと、東北の雄が散る

 

天正十九年(1591年)9月4日、この年の3月頃から勃発した『九戸の乱』で、九戸城に籠城していた九戸政実が、豊臣秀吉・配下の武将に包囲され開城しました。

・・・・・・・・・・・

「小田原評定」でよく知られる小田原城・開城(7月5日参照>>)
これによって、後北条氏を滅亡に追いやった豊臣秀吉は、その足で『奥州征伐』へと向かいます。

『奥州征伐』と言っても、実際にどこそこで合戦をした・・・というよりも、先の小田原城攻略に際し、秀吉が参戦を呼びかけた事に対して、応じたか?応じなかったか?によって、「その武将に対して賞罰を与えた」という感じです。

たとえば、小田原攻めに声をかけながらも、なかなか参戦しなかったあの伊達政宗などは、小田原城・開城直前の6月に、城を包囲中の秀吉の前に、死を覚悟した白装束で現れ、必死のパッチで弁明(6月5日参照>>)、何とか死は免れたものの、今まで命がけで手に入れた奥州の所領を、かなり削られています。

「奥州の覇王」と呼ばれた政宗でさえ、そんな状況ですから、小国の武将などは、所領をすべて奪われ、事実上滅亡という形に追いやられてしまいます。

そして、小田原城が落ちた天正十八年(1590年)7月からわずか、3ヶ月後の10月頃、奥州征伐のターゲットとなった大崎義隆葛西晴信は、元家臣の浪人たちとともに、中陸奥一帯(宮城県北部・岩手県南部)に一揆起こします(11月24日参照>>)

その一揆は、徐々に拡大していき、やがて、秀吉をも揺るがす叛乱となります。

この『大崎・葛西の一揆』に同調したのが、今日のお話の『九戸(くのへ)の乱』です。

乱が起こる少し前・・・陸奥北部を治めていた戦国大名・南部氏は、当主・晴政が病死した事によって、石川氏出身の養子・信直と、実子の晴継の間で家督争いが生じます。

一旦は、実子という事もあって、晴継が後継者に決定しますが、その晴継が父の葬儀の帰り道で亡くなってしまうのです。(暗殺とも病死とも言われています)

そして、次の候補となったのが、先の信直と、今度は晴政の娘婿だった九戸実親という人物で、彼の実家・九戸家は、室町時代以来の南部氏の重臣という事もあり、強い発言力を持っていましたが、結局、今回は養子・信直に決定します。

それが、実親の兄・九戸政実には気に入らなかったのです。

まして政実は、晴継は病死ではなく暗殺・・・そして信直が、その犯人であると疑っていましたから、「あんな石川のよそ者の犯罪者に南部氏を継がれるなら、いっその事、俺が南部氏の当主をやる!」とまで言い始めます。

そんな状況の中、南部信直は、先の小田原攻めの時、いち早く参戦した事により、ここ最近は、秀吉から手厚い待遇を受けていました。

そんな時に起こったのが先の『奥州征伐』への不満から発展した『大崎・葛西の一揆』です。

信直が秀吉から良い待遇を受けている事も気に入らない政実は、奥州の不安な情勢は、絶好のチャンス!とばかりに、近隣の櫛引(くしびき)久慈(くじ)七戸(しちのへ)といった武将を抱きこんで、天正十九年(1591年)3月5千の兵を率いて挙兵します。

迎え撃つ信直・・・近隣の乱の事もあり、「これは自分だけではどうにもならない」と、すぐさま嫡子・利直と重臣・北信愛(のぶちか)を、秀吉のもとに派遣して救援要請をします。

この知らせを受けた秀吉は、もともと『大崎・葛西の一揆』を何とかしなければ、と思っていたところの、この『九戸の乱』・・・すぐに、甥の秀次を総指揮官とする陸奥討伐軍を派遣します。

『大崎・葛西の一揆』への討伐軍の総大将には伊達政宗
『九戸の乱』への総大将は蒲生氏郷

この時、氏郷の率いた兵は何と3万。
そして、それ以外にも、浅野長政(秀吉の義弟)大谷吉継、さらに出羽(秋田県・山形県)の諸将も加え、ものすごい数です。

8月23日には、蒲生隊・浅野隊が九戸方の姉帯城根反城(岩手県)を攻め落とし、さらに政実の本拠地・九戸城(岩手県二戸市)をも包囲します。

この頃には、津軽為信蠣崎慶広(かきざきよしひろ)といった北辺の武将たちも加わり、なんと総勢6万の大軍に・・・

それでも政実は徹底抗戦を叫んで籠城を続けますが、やはり数の違いは歴然です。
毎日々々、徹底的に攻撃を仕掛けてくる大軍には、どうしても歯が立たず、天正十九年(1591年)9月4日抗戦をあきらめ城を開城しました。

政実をはじめとする乱の首謀者・幹部、総勢150人余りがその場で斬られ、二の丸へ追い詰められた城兵は、秀吉軍に放たれた火で、一人残らず全員が焼死したと言います。
(この時の【政実の恨み節】2010年の9月4日のページで>>

ここに、室町から続いた九戸氏は滅亡し、その領地は南部信直の物となるのです。

戦国の世ですから、しかたがありませんが、「食うか、食われるか」の世界を痛感させられますね。

ところで、一方の『大崎・葛西の一揆』の方は・・・?

んん~、そっちは主役が伊達政宗さんでもある事ですし、2月4日の【伊達男の本領発揮!政宗、起死回生の弁明劇】でどうぞ>>
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コメント

豊臣秀吉の手によって滅ぼされた九戸政実は、もしかしたら、時代の流れをつかめなかったのかもしれません。政実にあったのは、南部家の分家出身だからこそのプライドに加えて、南部信直らに対する怒りと不満でしょう。しかし、そうしたことで、政実は、滅亡の道をたどったのだと思います。もし政実が、津軽為信のように、知恵や危機管理能力があれば、九戸家が存続できたような気がします。

投稿: トト | 2016年7月 7日 (木) 19時58分

トトさん、こんにちは~

プライドを貫いて散るも戦国…
うまく立ちまわって生き残るも戦国…
ですね~

投稿: 茶々 | 2016年7月 8日 (金) 15時12分

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