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2007年9月15日 (土)

家康はなぜ、長男・信康を殺さねばならなかったのか?

 

天正七年(1579年)9月15日、織田信長の命令により、妻・築山殿を殺害した徳川家康が、続いて長男・信康を自刃させました。

・・・・・・・・・・・

先日、築山殿のご命日・8月29日に書かせていただきましたように、『徳川家の公式記録』とされるいくつかの文書には・・・

「家康の妻・築山殿と長男・信康が、ご乱行の限りをつくし、果ては武田氏に通じて、織田と徳川を滅ぼうそうと企んでいる・・・という娘・徳姫の手紙を見た織田信長が、徳川家康に、二人を殺せと命じた」という事になっています(8月29日のページへはコチラから>>>)

しかし、そのページを見ていただくとお分かりのように、その「徳姫の手紙」という物が、あまりにもバカバカしい内容で、その手紙を鵜呑みにして、何の調べもせずに、あの信長さんが「殺せ」という命令を出す・・・という事は、とても信じ難いです。

大久保彦左衛門の書いた『三河物語』の中では、家康の長男・信康の事を「2度と得難い若殿」と称し、あまりに聡明でデキる息子だったのを、信長が疎んで「殺せ」と命令し、当時の家康にとっては、織田との同盟は最重要で、とても断れる状況ではなかった・・・としています。

この『三河物語』も、『徳川家公式記録』の一つです。

とかく公式記録という物で、お家の事をを悪く書くわけはありませんし、初代(家康)に至っては神様のように書き残すのが常です。

公式記録という物がすべて、そのように書かれている以上、それを信じるしかないわけですが、どうも、奥歯に物が挟まったような感覚はぬぐえません。

・・・で、今回は、公式記録には書かれていないので、あくまで仮説であるという事を前置きして、お話を展開させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その先日のブログでも、元亀元年(1570年)に、家康が岡崎城を信康にまかせて、自身は浜松城へ移った・・・という事を書かせていただきましたが、そもそもの発端はここにあったのではないでしょうか?

それから、この事件が起きるまでの9年間。

当時の最大の要注意隣国である甲斐・武田氏最前線に位置する浜松城と、裏方の役割を荷わされた岡崎城・・・この二つの城の荷った役割が大きな亀裂を生む事になったのです。

最前線の浜松城は常に戦闘態勢ですから、事が、起これば功名を挙げ、恩賞に預かれますが、兵糧や準備の担当となった岡崎城の武士たちには、ほとんど恩賞は望めません。

確かに、腹が減っては戦はできませんし、武器が無ければ戦えません。

しかし、具体的に誰が何をやった・・・という記録の残らない裏方の仕事に、恩賞がつかないのは・・・仕方の無い事とわかっていても、不満が徐々にたまってくるのは当然です。

例えば、浜松城の井伊直政なんかは、天正三年(1575年)頃から家康に仕え(8月26日の後半部分参照>>)わずか1年後に1万石となり、7年後には4万石となって、もちろんその後も増加し続けますが、一方の岡崎城の家臣は家康の祖父・清康の時代から仕える家臣であっても、ほとんど加増されないままだったりします。

もちろん、井伊直政ほど増加した人は稀であったかも知れませんが、多かれ少なかれ、この二つの城に勤務する武士たちの間に「差ある」と感じる人も少なく無かったのかも知れません。

岡崎城の武士から見れば、その禄高の加増の問題と、裏方に回らされてる感が拭えないし、一方の浜松城から見れば、信康に見える、どうしても払しょくできない今川の影・・・。

最初に、築山殿が岡崎城に入れてもらえなかった事から見ても、徳川家には、今川を生理的に拒む者も多くいたはずです。

信康には、今川の血が流れている事を忘れるわけにはいきません。

・・・で、家康が気づいた時には、この岡崎VS浜松の対立が、どうしようもないところまで来てしまっていたのではないでしょうか?

手荒な一大改革をしてでも、徳川家を一つにまとめなければならない状況に陥っていた・・・と、考えるのはどうでしょう?

もし、本当に、信長の命令だけで、妻と息子を殺さなければならなかったのであれば、それこそ妻と息子だけで充分なはずです。

しかし、実際には、この事件の後、岡崎城側の家臣団は散り散りになり、わずかの者を残して、徳川の公式記録から消え去ってしまうらしいのです。

その、残ったわずかな者でさえ、自殺したり行方不明になったり・・・後に出世した人は、ほとんどいないようです。

この現象は、やはり、この時、徳川家を揺るがすような一大事が、岡崎城内の家臣団の中にあった・・・という事なのではないでしょうか?

そして、8月3日、家康は突如として岡崎城にやってきます・・・それも、完全武装して・・・。

城内にて、親子二人っきりで面談した後、すぐに信康は、岡崎城出て大浜城へと移されます。

その後は、西尾城堀江城へと・・・その身柄を点々と変えたのは、岡崎派の武士たちを警戒してのことなのか?

それとも、「大改革はしたいけど、息子だけは何とか助けたい」という家康の親心だったのでしょうか?

しかし、最後に移動した遠州・二俣城で、信康は切腹をする事になるのです。

天正七年(1579年)9月15日最後まで、無実である事を訴えていた信康・・・介錯人として遣わされた服部半蔵は、その場に太刀を投げ捨て、介錯を拒んだと言います。

半蔵の心の内には、いったい何があったのでしょうか?

さらに、もう一つ不可解な事があります。
それは、家康の重臣・石川数正の事です。

築山殿の時にも、書かせていただいたように、数正は、命がけで築山殿と信康を今川から取り戻した功労者です。

その後は、信康の後見人の立場として、常に、見守っていたはず・・・
なのに、信康の一大事に、顔を見せないのは、何とも不可解です。

しかし、この信康事件に関しては、数正はまったく記録に登場しません。
まるで、その場にいないかのように・・・

そして、ご存知のように、この事件から6年後の天正十三年(1585年)、数正は、突如として、一族郎党を連れて、豊臣秀吉のもとへ走るのです(11月13日参照>>)

数正が家康を裏切った理由については・・・
「小牧・長久手の戦いの戦後処理のため、何度も会ううち秀吉に魅力を感じた」とか、
「やはり、何度も通ううち、豊臣家と通じているのではないか?と疑われたから」とか、
あるいは「法外な報酬で、秀吉からヘッドハンティングされた」などなど・・・結局のところ、はきりした事はわからないわけで、戦国屈指の謎とされています。

何やら、この信康事件が、数正の心に深い傷を負わせてしまったような、気がしないではありません。

Nobuyasuzizincc_2 今日のイラストは、
『信康さんの自刃の時』を・・・。

まだ、少し早いですが、紅葉に包まれた「その時」を描いてみました。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

徳川信康(自害した時には家康が「徳川姓」に変えていたので徳川で表記)が生きていたと言う逸話があります。
寛永時代に掛川を通った飛脚が、70歳代と思われる老人に尋ねられた。
「今は誰の天下か?」
飛脚は半分飽きれて「三代将軍家光様のご時世だよ」と答えた。
次に「土井甚三郎は生きているか?」と聞かれた。でも、誰か知らないので「知らない」と返答して、そのまま江戸へ来た。
江戸で「おかしなじいさんがいたもんだ」と話していたが、「土井甚三郎」は老中・土井利勝の幼名でこの事を知る人は、この時点で大久保彦左衛門くらいしかいなかった。これを聞いたその大久保翁が「まさか、信康様は生きていた?」と思っても不思議ではない。
江戸城では大騒ぎになりかけた。それもそのはずである。50年も前に自害した人が、今生きているらしいのだから。大久保彦左衛門は信康より1歳年下であり、若い時代に当然面識がある。
ただ、話はここで終わっている。
しかし、信康の孫と言う人(家康の外曾孫)が大阪の陣で従軍していた事実を見ると、信康に未練が残っていたんでしょうね。

投稿: えびすこ | 2009年11月10日 (火) 09時15分

えびすこさん、おはようございます。

生存説には、妄想が尽きませんね。

投稿: 茶々 | 2009年11月10日 (火) 10時56分

戦国大名家の家中というのは当主や嫡男、次男以下にもそれぞれ側近や近習がついて、室を迎えれば他家の人間も近侍するわけですし、もはや我々のような純粋な個人同士の家族関係であるのですよね。

武田家における義信事件でもちょうど外交方針が大きく代わる時期なものですから対外方針をめぐる派閥抗争があったのであろうと考えられていますが、信康事件も同様の背景があるのではないのかなぁと思います。

浅井三姉妹まわりでもそうですが、この時代の婚姻は外交関係そのものですからね。なかなか、現代の我々の実生活に引きつけてあてはめていくのは、そもそも難しいだろうなぁと思います。

投稿: 黒駒 | 2011年1月24日 (月) 15時11分

黒駒さん、こんばんは~

考えたかも常識も、今とは違いますから…
なかなか理解が難しいです。

投稿: 茶々 | 2011年1月24日 (月) 23時57分

信康事件についてですが

まずはっきり言える事は信長の介入はなかったと思います。信長はずっと今で言うところの「内政不干渉の原則」を貫いています。この後も高天神城の扱いでやはり不干渉の方針をとっています。

この事件で信長を登場させている理由は、家康を悪者に出来ない時代の書物の責任転嫁でしょう。

やはり事の発端は元亀元年(1570年)に、家康が岡崎城を信康にまかせて、自身は浜松城へ移った…事にあると思いますが、これ以上の想像の展開が難しいので置いておきまして、

信康自身の活動としては対武田勝頼戦で順当な活躍をしているぐらいしか残っていませんので、無理はあるかもしれませんがこの線を引っ張って考えてみますと、

やはりといいますか、史家によって【長篠合戦後も武田軍はそれなりに健在で、滅ぶまで7年もかかった】などと適当に説明がされていますが、ここが何かおかしいのではないでしょうか?

私は大打撃を受けた筈の武田滅亡まで7年もかかったのには別の理由があると思っています。

やはり、家康は合戦で手抜きをしていたと思います。

理由も簡単で、自家から犠牲者を出したくないプラス自分が天下人になりたかっただけ。勝頼には後に北条家に対してやったように、さっさと自分に降伏してチャンスを待って欲しかったのだと思います。
信長の天下取りの手伝いをしても、案外見返りは少ないと読んでいたということですね。

信康はそんな事情なぞ知らず、世間の常識に従って、織田一派の一員として真面目に戦って、たぶんですが家康の内通者を討ち取ったり、敵を捕えて情報を吐かせるようなことがあったんじゃないかと思います。そして家康が裏では複雑な行動を取っていることを知るわけです。

家康としてはいくら何でも自分のトンデモ野心が信長に知られてはさすがに終了ですから、そこで信康事件につながっていくと…

端的に言えば「口封じ」だったと思います、いかがでしょうか。

たぶん家康が浜松ではなく身近にいたら、彼がいろいろな意味で「別物」と理解できたでしょうから、そういう意味では1570年の本拠移動が発端だとは思いますが、

なぜ家康が織田家を嫌うようになっていったかは知りませんが、
私の100%想像でよければ、多分今川家での元康の扱いが保護主義的で、活躍の場が少なかったことに彼は不満を持って独立したのに、信長も今川義元と同タイプだったのが理由なんじゃないかなーと…

私なんかだと、一歩間違えれば救いがない戦国時代にこんな幸福な従属関係があるなら喜んでって感じですけどねw

投稿: とおりすがり | 2013年5月15日 (水) 02時59分

とおりすがりさん、こんばんは~

6年前の記事ですが、私は今も、この事件は徳川家のお家騒動だったのでは?と思っています。

おそらく信長は無関係…神君家康公の汚名とならないように「信長のせい」にされただけだと…

投稿: 茶々 | 2013年5月15日 (水) 03時29分

>この『三河物語』も、『徳川家公式記録』の一>つです。

>とかく公式記録という物で、お家の事をを悪く>書くわけはありませんし、初代(家康)に至っ>ては神様のように書き残すのが常です。

それはどうでしょうか?
大久保氏に対する晩年の家康の態度は「晩節を汚した」といっていいです。重臣であった大久保忠隣を、本多正信を使って用心に用心を重ねるようにして罪を着せ、取り潰したです。兄に対する家康のしうちに彦左衛門はじっと耐え、そののち「三河物語」を叙述し始めたのです。

投稿: | 2013年5月17日 (金) 15時23分

もちろん、公式記録のすべてが…という事ではありませんが、多くの事が末梢&歪曲されている事も確かだと思います。

少なくとも、この信康事件に関しては、信長は無関係だったのでは?と感じています。

投稿: 茶々 | 2013年5月17日 (金) 15時45分

今更の信康事件ですが、この時期の家康って、よくわからないというか

新資料がないので背景は分からないままですが、やっぱり、こう言ったらキツイですが、基本線は何らかの理由があって、出世か野心の為に家族を犠牲にしたという印象がどうしても拭えないです。義信事件と本質的には同等なのかなと。米俵欲しさに田畑売ったというのか…


ただ、やはり浜松城を譲って岡崎城を信康に任せたのは、結果だけを見れば三方原の敗戦を招き、長篠の戦いでの亀姫をめぐる不和を招き、そこに家臣団が別々にできてきた事でさらなる不和を招き…と、何のメリットもなかったように思います。ここが最大の遠因ではあるでしょう


どこかのタイミングで縮小再生産みたいな機会があればよかったものが、ずるずると信康事件に至るまで溜まりに溜まった一面はあるのではないかと個人的には思っています。


信康家臣団と家康家臣団の人選傾向については記録が多いので、ここを詳細に分析しますと、家康は年下の家臣が多い+個人の感情的結びつきを重視+能力主義な反面、信康には官僚型の人材が多く見受けられます。


恐らく後年のエピソードも含めて考えると、ウェットに心服させる家康に対して、サバサバしてる信康というかなり違う傾向がはっきりあったのではないかと思います
その後の岡崎衆がいまいちぱっとしないのも家康の好む人選とかなり隔たりがあったことは間違いないでしょう。個人的には信康は後年の石田三成にかぶってくるイメージもあります。この世代の傾向ですかね


ただ家康は後年この事をかなり後悔していたようなので、浜松を放棄する機会はいくつかあったものの、世に出る事を重視して「家康が頑張りすぎてしまった、我慢強すぎる点が裏目に出た」ことが、信康事件の2番目ぐらいに来る理由でしょうか。


これに、上記のような家康・信康のお互い後には引かない頑固さみたいなのが絡んで、事態が大きくなったというのが正確なところではないかと思います


信長が徳川家の内政問題を放任しすぎたことももちろん一因としてあると思います
当時の家康1人ではどうにもならないこともあったでしょうから、鷹狩とかに連年遊びに来るぐらいなら、状況は伝えてあるのに「五徳姫ともっと仲良く」程度の当事者任せの軽い助言ではなく、ちょっとは強権を振るって徳川家の再整理に必要な処置ぐらいして欲しかったが、下手に強く言うと徳川家自体が存立し得ない恐れもあって耐えていたという恨みはあったのではないでしょうか。家康としては「こっちはアップアップなんですよ…信長サン空気を読んで下さいよ…!!」という思いがあったように思います


老いてからの家康が信長について一言も喋ろうとしなかったのはこの辺りが原因ではないかと思います。
まあ老人家康を今呼び出して、無理言って喋ってもらったとしても「あいつ一人が安全圏でフザけてやがるのか、当事者意識の欠如が甚だしいとしか思わなかった」ぐらいしか言わないでしょうし、実際それ以上もそれ以下のこともなかったと思います。


しかし信康事件がなければ家康が「本気」になることもなかったでしょう。つまらないこと、些細なことで世の中は大きく変わってしまうものだと実感します

投稿: ほよよんほよよん | 2015年9月20日 (日) 22時19分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

謎が多いですよね。
私としては、信長の命令ではなく、徳川家のお家の事情だと思ってますが…難しいです。

投稿: 茶々 | 2015年9月21日 (月) 02時02分

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