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2007年10月30日 (火)

香りにうるさい平安貴族~香りの記念日にちなんで~

平成四年(1992年)10月30日に、第7回国民文化祭「世界香りフェアIN能登」が開催された事にちなんで、今日10月30日は『香りの記念日』なのだそうです。

なので、今日は平安時代の香りのお話を・・・

えっ・・・「なんで平安時代なんだ?」って?
それは、おそらく日本の歴史上、平安時代が最も香りにうるさい時代だったと思われるからです。

確かに、この平成の世の女性・・・いや、最近は男性も、シャネルだ何だと香りにはウルサイような気がしますが、平安のそれは、ハンパじゃないんです。

なんせ、お風呂にめったに入りませんから・・・
部屋の隅で、大をやっちゃってますから・・・(12月7日【平安貴族の住宅事情】参照>>)

そのキョーレツなニオイを隠すためには、オシャレなんて生易しい感覚ではなく、生きてゆく上の必須アイテムです。

あの紫式部『源氏物語』に登場する女三宮
彼女は飼っていた猫までが匂いたつ香りを放っていたとか・・・。

さすがに、猫を炊き込めたわけじゃないでしょうけど、猫に匂いが移るくらい部屋の中に香がたち込めていたという事でしょうね。

『倭名抄(わみょうしょう)という文献によれば、香りは42種類あったそうですが、だいたい普段に使われるのは代表的な6種類。

【沈香(じんこう)】【丁字香(ちょうじこう)】【薫陸香(くんろくこう)】【貝香(かいこう)】【白檀香(びゃくだんこう)】【麝香(じゃこう)の六つで、これを『六和香』と呼ぶのだそうです。

現在でも聞きなれた名前もありますね。

もちろん、これは女性だけでなく・・・いえ、むしろ平安時代には男性のほうが香りに夢中だったかも知れません。

なぜなら、多くの男性は、何種類もの香を混ぜ合わせてオリジナルの香りを作っていたからです。

そう、以前、結婚の歴史(1月27日参照>>)で書きましたように、当時の結婚は通い婚
その一発目・・・もとい・・・初日は、夜這いという形で彼女の家に参上するのです。

現代人が夜這いと聞くと、男が女の部屋に勝手に忍び込んで、反強制的に・・・というような陰湿の方向へ想像しがちですが、実際の夜這いは、部屋の外から合図を送り、女性がOKしなければ絶対に中には入れません。

その時の、女性のOKする条件として、声の良さ、歌のうまさ、そして香りです。

なんせ、外は電灯などない真っ暗闇です。
もちろん、部屋の中も・・・ですから、顔なんてまったく見えないんですよ。

最初の一日目は、香りの良さで、男性のセンスを判断し、その次からはその香りで、昨日の男性と同一人物かどうかを判断するのです。

これなら、男性諸君が競ってオリジナルの香りを研究した事にもうなずけますね。

ちなみに、香木の焚き方は大きく分けて「空薫(そらだき)「聞香(もんこう)の2種類・・・平安時代に流行した衣装や部屋を焚きこめて香りを楽しむ、上記のような物が空薫です。
やり方は2月25日のページで>>)

高炉を顔のそばに持っていき、一つ一つの香りの違いを楽しむのが聞香で、コチラは室町時代頃から盛んになりました。

そんな聞香の中から生まれたのが『香合わせ』というゲームです。

平安時代には、それこそ数多くの「香合わせ」なるゲームがあったようですが、その中で最も人気が高く、後世まで残った『源氏香』というゲームのルールが現在にも伝わっています。

まず、5種類の香をそれぞれ5つずつ・・・つまり25個の香りの袋を作り、それらを、一旦混ぜた後、その中から、ランダムに選び出した5つの袋の香りを順番に香炉で炊き、その香りの並び順を当てるのです。

Kaorigenzikouzucc 答えは5本の直線が書かれた解答用紙に書きます。
1つ目の香りと2番目の香りが同じだと思ったら、一番右の縦線と2番目の縦線の上に横線を引いて2本の縦線を結ぶのです。

違う香りだと思ったら、横線は引かずそのまま・・・

5つを嗅ぎ終えたところで、右図のようなバーコードのような図ができあがるわけですが、風流なのは、この図一つ一つに名前がついている事。

これが、『源氏香』というゲームなのは、この図の名前に源氏物語五十四帖の帖名がつけられているからなのです。

右図のように、5つの香りが全部違う場合は、横線をまったく引きませんから「帚木(ははぎ)という図が完成します。

逆に、5つ全部が同じ香りだったらすべてに横線が引かれているので、「手習(てならい)という図になります。

「鈴虫」の場合は、1番目と5番目が同じで、2番目と3番目も同じ、4番目が別の香りという事です。

ただし、この名前は、ポーカーの「やく」の名前のように、できた物によって強い弱いがあるわけではありません。

このゲームは純粋に香りを当てる・・・その嗅ぎわけの能力を競うゲームで、できた図によって勝ち負けが決まる遊びではありませんでした。

「香合わせ」・・・風流ですね~たぶん私は苦手ですが・・・

Kaorinohinioibukurocc 今日のイラストは、
かわいい模様の『にほひ袋』を書いてみました~

そろろそ加齢臭にも気をつけなくっちゃ!
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‥…━━━☆

以前ご紹介した平安の遊び『貝合わせ』については6月29日のページへどうぞ>>
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2007年10月29日 (月)

黄門さまの大日本史~日本初の発掘調査

享保五年(1720年)10月29日、水戸藩が、『大日本史』240巻を幕府に献上しました。

・・・・・・・・・・

『大日本史』は、水戸黄門でお馴染みの徳川光圀の命により、編さんが開始された物で、明暦三年(1657年)2月27日に着手して、その完成が、なんと!明治三十九年(1906年)までかかったという膨大な・・・まさに「大日本史」です

手のつけられない不良だった黄門様(今日は黄門様と呼ばせていただきます)が、司馬遷『史記』に出会って、ヤンチャ坊主から一転、学者への道を歩み始めた事は、黄門様のご命日の日に書かせていただきました(12月6日参照>>)が・・・

先代の女グセの悪さから、次期藩主候補・11人が全員側室の子という事態となった水戸藩・・・おそらく黄門様は生まれた時から後継者争いに巻き込まれていたのでしょう。

不良になったのも、そんな駆け引きの渦巻く大人の世界がいやだったのかも知れません。

しかし、正保二年(1645年)の春、黄門様18歳の時、かの司馬遷の『史記』の中の『伯夷伝』という「王位を兄弟で譲り合う話」に感動し、兄・頼重の子に水戸家を継がせる決意を固めます。

そして、「歴史を知る事で、人は変われるのだ」という事を知り、彼は、その時から『大日本史』の編さんに打ち込む事となるのです。

明暦三年(1657年)からは、江戸駒込の屋敷内に彰考館を建て、本格的に事業に打ち込みはじめます。

実は、この『大日本史』の編さんに当たって、日本中の史跡を駆け巡って史料を集めた人が、佐々木介三郎宗淳(ささきすけさぶろうむねきよ)さん・・・この人が時代劇の助さんのモデルで、助さんが集めてきた史料を整理して執筆をしていたのが、安積覚兵衛澹泊(あづみかくべえたんぱく)さん・・・この人が格さんのモデルだろうと言われています。

この時の助さんの史料集めが、『水戸黄門漫遊記』なる時代劇を生み出し、黄門様自身が、全国を旅する痛快なドラマとなったワケです。

そんな中、黄門様が日本で初めて行った事があります。

・・・え?、くつしたを履いた?ラーメンを食べた?
もちろん、それも合ってます・・・よく、テレビで聞くうんちく話ですが・・・

この『大日本史』関連での黄門様の日本初は、「学術的な目的で本格的な古墳の発掘調査をした」という事です。

それは、栃木県にある『侍塚』・・・数百メートルの間をおいて、南側に『上侍塚古墳』
そして、北側にある『下侍塚古墳』という二つの古墳です。

時は、元禄五年(1692年)2月

発掘の主任は、梅平(うめひら)・名主の大金重貞(おおかねしげさだ)さん。
発掘の隊長は、例の佐々木介三郎宗淳さん。
もちろん、スポンサーは黄門様です。

事の発端は、その重貞さんが、自分が名主を務めるこの土地の事をイロイロ書きとめた『那須記』というのを、たまたまおしのびでやって来た黄門様に献上したのです。

その中に『傘石様』と呼ばれる昔の石碑が無造作に捨てられている事が書かれていて、それを読んだ歴史好きの黄門様・・・「古い石碑をそのままにしておくのは、しのびない」と、助さんに修復・再建するように命じます。

その時、助さんは、この石碑に書かれていた150文字ほどの中から、判別できる『那須宣事抵』なる文字を読んで、「これは、昔の官職名ではないか?」と判断します。

このニュースを聞いた黄門様・・・歴史好きの性がうずきます。
「すぐに、その人物の実名を探索せよ」とのお達し。

「それなら近くに古墳があります。ひょっとしたらその古墳の主がその人かも?」という事になり、当時、『車塚』、あるいは『ひょうたん山』と呼ばれていた『侍塚』が発掘調査される事になったのです。

発掘調査は、両古墳合わせて10日間にわたって行われました。

埋葬施設のほか、鏡や甲冑・太刀・高杯(たかつき)などの副葬品も多数発見されましたが、結局は、古墳の主が誰なのか?という事が特定できる物は発見されませんでした。

しかも、先ほどの『那須宣事提』は助さんの読み違えで、実は『那須直韋提』という文字で、「直韋提(あたえいで)という那須を治めていた国造(くにのみやつこ・律令制が導入される前の大和政権の国の長)実名であり、その石碑は、その人の生前の業績を評価した墓碑的な物だったのです。

調査しても目的が果たせなくてガッカリ・・・しかし、黄門様のスゴイところは、この調査の後です。

出土した物を、ただの一つも私物化する事なく、絵描きなどに現状を書かせた後、すべてを木箱に入れて埋め戻し、古墳の外形も全部もとどおりにして、発掘調査を終えたのです。

これは、現在の文化財保護の観点からも、発掘調査のお手本となるべき発掘調査です。

う~ん・・・お見事!
全国を旅して悪者をやっつけなくても、やっぱり黄門様はエライ!

(大日本史が皇室系図に与えた影響については2008年の10月29日のページでどうぞ>>
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2007年10月28日 (日)

丑の刻参り~その歴史とやり方

 

いつの世も、複雑怪奇な人間関係・・・悩みに悩みぬいた人には、他に解決方法が見つからないのかも知れませんが、この科学の発達した21世紀でも「縁切り寺」や「縁切り稲荷」といった所に願をかける人が後を絶たないのだとか・・・。

Usinokokukikunocc 京都は、河原町通りの法雲寺というお寺の片隅にある菊野大明神・・・。

あの小野小町(3月18日参照>>)のところに百日間通い、百日目にこがれ死にしたという深草少将が、小町を思いながら、毎夜座った石がご神体なのだそうです。

ほこらの裏側にある小さな穴に、縁を切りたい人の名前を書いた紙を押し込むのだそうで、その願いの暗さのせいか、中もとっても暗かった・・・
(注:私は縁を切りに行ったわけではありません。)

よく似た感じのお参りに、有名な『丑の刻参り』というのがあります。

この丑の刻参りは、「人を呪い殺すために願をかける」という、縁切りよりはるかに暗い祈願ですが、これがけっこう歴史があるのです。

古くは平家物語に書かれています。

以前、『橋の日』(8月4日参照>>)という記念日の日にチョコッとご紹介した『宇治の橋姫』のお話です。

Usinokokuhasihimecc 嵯峨天皇の頃(809年~823年)に、夫の浮気に嫉妬した女が、貴船大明神に参詣して7日間籠り「憎い女をとり殺したいので、生きながら鬼にしてください」と願います。

すると、貴船の神は、「鬼になりたければ姿を変えて21日間、宇治川に浸かればよい」と答えたのです。

女は、髪を松やにで固めて五つの角を作り、顔や体を赤く塗って、頭には鉄輪をかぶり、松明を口にくわえて、深夜の都大路を疾走し、宇治川にその身を浸します。

やがて、21日たって、念願の鬼となった彼女は、自分を「あさましい・・・」と、さげすむ者すべてをとり殺したと言います。

室町時代から江戸前期頃に書かれた御伽草子では、かの女性は、やはり7日間『貴船明神への丑の刻参り』をした後、21日間宇治川に浸って、生きながら鬼となった後、憎い夫を殺そうと都に戻ってきた時、平安のスーパースター・安倍晴明によって追い払われ、念願は叶わなかった事になっています。

このように、少しずつ違っていた「丑の刻参り」が、時代劇で登場するような手順に定着するのは、江戸時代の頃・・・その方法は・・・

Usinokokumairiningyoucc まず、手製のわら人形を用意。

当日の服装は白衣白帯
髪の毛はシャンプーして油分を落としておきます。
ただし、香油は呪いの効力を上げるのでOK.

頭には五徳(鉄輪)をかぶり、そこにろうそくを立て、首からはを下げます。

黄楊(つげ)でできたクシ歯のほうを口でくわえ高ゲタをはいて現地まで行きます。

Usinokokumairisyouzokucc

ここで、裸足になって境内に入りますが・・・
実は、もう一つアイテムが必要です。

帯のところに、木綿(一反)の端をくくりつけ、この木綿の垂らしたほうの端っこが境内の地べたにつかないスピード目的の木まで行かなくてはなりません。

木綿が一反=約11mです。
まさに疾走です。

約11mの布をヒラヒラさせながら、仮に到着したとして、かのわら人形を取り出し、人形を五寸釘を使って、木にカナヅチで打ちつけるのです。

この時、決まった呪いの言葉はありませんが、「アホ!ボケ!」できる限り汚い言葉を大声で吐き続けなければなりません。

しかも、以上の事を、誰にも見られる事なく、7日間続けなくてはならないのです。

・・・てか、木綿ヒラヒラ疾走の時点でムリでしょ・・・
そんな事できるなら、とっくに世界を目指してます。

だいたい、高ゲタはいて、山道登ってるだけでテンションだだ下がりです。

しかも、今まで、丑の刻参りの呪いで死に至ったという、ちゃんとした話は一つもありません。

勘違いしてしまいそうですが、よく考えると平家物語も御伽草子も、丑の刻参りで呪い殺したのではなく、自分で殺しに行ってます・・・どっちも失敗してますし・・・

・・・にも関わらず、先の平家物語や御伽草子の記述のせいか、いまだに、貴船神社の境内では、五寸釘やわら人形が見つかるのだとか・・・。

Usinokokukibunecc 確かに貴船神社の奥の院は、昼なお暗く、丑の刻参りの発祥の地にふさわしい、空気の張り詰めたような雰囲気が立ち込めてはいますが、それは、神々しい厳かな空気に他なりません。
 

貴船神社によれば、この丑の刻参りは、神聖な霊場を汚す行為で、決して、神様が願いを叶える事はないのだそうで、五寸釘やわら人形は、定期的に点検して、見つけ次第、撤去しているとの事。

こうなったら、迷惑行為以外の何物でもありません。

また、以前、とあるニュースサイトの『丑の刻参りは罪になる?』というテーマで、弁護士さんが「呪っただけでは罪にならない」と回答されていましたが・・・
確かに、心で呪っただけでは罪にはならないかも知れませんが、丑の刻参りは、シッカリ罪になりますので、やってはダメです。

それは・・・
神社の境内は自由に出入りできる所が多いですが、実際には、神社側が定めた本来の目的以外の理由で境内に入ると「不法侵入」になりますし、無断で境内の木に釘を打ちつける行為は「器物破損」になりますからね。

当時の人々の心の内が垣間見える歴史の一つとしては、丑の刻参りはとても興味深いですが・・・。

どうせ神様に願いをかけるのなら、
相手の不幸より、自分の幸せに願いをかけてみようじゃありませんか!

・‥…━━━☆

このページでご紹介した菊野大明神・橋姫神社・貴船神社への行き方はHPの【平安京魔界マップ】で紹介しています~コチラからどうぞ>>

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2007年10月27日 (土)

南北朝の動乱~ある公家の悲しい都落ち

 

そもそも、なんで南北朝なんて・・・1つの国に二人の天皇・・・なんて事になちゃったのでしょうか?

もちろん、建武の新政(6月6日参照>>)に不満を抱いた足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗をひるがえして京都を占領し、新しい天皇を立てて、室町幕府を開く・・これが北朝で、一方の、吉野に逃れた後醍醐天皇はそのまま天皇なので、これが南朝(12月21日参照>>)・・・って事なのですが・・・。

もし、尊氏が立てた北朝の天皇が、室町幕府の意向で、勝手に立てられた天皇だったら、昨日の『観応の擾乱(じょうらん)(10月26日参照>>)の時ように、尊氏が南朝に行っちゃった時点で北朝が無くなってしまう・・・という事になってもおかしくはないのですが、そうはいかない・・・つまり、天皇家にも以前から派閥があって、分かれるべくして分かれた南北朝だったのです。

Nanbokutyoukeizu2cc そもそも鎌倉時代に、第88代・後嵯峨天皇が、一旦、長男の後深草天皇に皇位を譲ったにも関わらず「あっ、やっぱ次男がいいや」って事で、後深草天皇に迫って、無理やり次男の亀山天皇に皇位を譲らせた事に始まります。

しかも、その後は、嫡孫である後深草天皇の息子に返すべき皇位を、そのまま自分=亀山天皇の息子に継がせちゃった事で、嫡流側=後深草側は「本家はこっちだから、こっちに返せ!」、弟・亀山側は「もらったものは、返さないよ~」、てな感じでモメ始めるのです。

それぞれの天皇のゆかりの場所から、後深草天皇の皇統を『持明院統』
亀山天皇の皇統を『大覚寺統』と呼びます。

この、返す・返さんの争いを見るに見かねた鎌倉幕府が仲裁に入って、「なら、交代々々で皇位についたらいいやん!」という案を出し、話し合いで一応、双方が納得し、これからは交代制にする事に・・・

これを、『文保の和談』と言いますが、この話し合いの後、すぐに即位したのが、後醍醐天皇なのです(8月16日参照>>)

しかし、そんな条件付で即位したにも関わらず、ご存知の通り、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して、建武の新政をやらかしてしまいます。

後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・・・世の中がすっかり変わってしまった以上、以前の約束が生きているのやら死んでいるのやら・・・もう、持明院統には皇位の順番が戻って来ないニオイがプンプン。

あせる持明院統・・・そんな時に、後醍醐天皇を裏切った尊氏からのラブコールですから、渡りに船とばかりに「よろこんで~!」となったわけです。

そんな南北朝の時代は、おおむね北朝が京都を制圧していましたが、もちろん、南朝も常に京都制圧を企んでいて、何度も合戦が行われています。

その中で、昨日書いた観応二年(正平六年・1351年)、文和二年(正平八年・1353年)、文和四年(正平十年・1355年)、康安元年(正平十六年・1361年)の4回、南朝が京都を制圧しています。

もちろん、どれも数ヶ月とはもたず、すぐに北朝(室町幕府)に奪回されるのですが、その度にたいへんなのは、それぞれの公家や貴族たちです。

北朝・南朝ともに、天皇だけでなく、その傘下におさまる公家や貴族が、それぞれの政務をこなしているわけですが、南朝の公家たちは、常に吉野いますから、京都を南朝が制圧しても、生活のベースを京都に移す前にまた、北朝に奪回されるので、基本の生活は変わらないのです。

しかし、北朝の公家たちは違います。
京都が南朝に制圧されると、北朝の武士はいなくなり、自分たちは京都に残ったまま・・・。

国のトップが南朝の天皇になるので、自分たちは逆賊という事になり、官位剥奪・・・政治の仕事は南朝の公家に移るため、仕事は無くなり、給料はストップ。

しかも、ヘタすりゃ命もありませんし、家も燃えたりなんかします。

北朝(幕府)「ヤバイ!」と思って、京都を放棄するたびに、公家たちはハラハラドキドキです。

それでも上流貴族たちは、敗走する幕府軍とともに脱出したり、つてを頼って疎開したりできましたが、下級公家たちは、逃げる場所もままならず、明日食べる食糧も無いといった状況になるのです。

『太平記』には、そんな下級公家の、ある悲しいお話が書かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

兵部少輔(ひょうぶのしょう)というある下級公家・・・京都市中で行われた合戦で、家も家財道具も焼けてしまい、親類も皆、行方不明になってしまいます。

都には、もはや頼る人もいません。
彼には、妻と、9歳になる男の子と7歳になる女の子がいます。
何とかしなくてはいけません。

しかたなく、彼ら一家は丹波に落ちて行きます。

もちろん、丹波にもあてはありません。
とにかく、「丹波なら戦もないだろう」程度の事でしかありません。

とぼとぼと、道を歩きながら、そこらへんに落ちている栗や柿を拾い食べ、少しずつ北へ向かいます。

しかし、丹波国の思出河(おもいでがわ)という川の川岸で、とうとう妻や子供たちが歩けなくなってしまいます。

「ほな、ここで、ちょっと待っとき」
・・・と兵部少輔は、何か食べるものを分けてもらおうと近所の家を尋ねるのです。

しかし、その家の者は、彼の事を「強盗か?、はたまた南朝のスパイか?」と怪しみ「白状しろ!」とばかりに、彼を拷問にかけてしまいます。

でも、もともと単なる物乞いで、何も悪いところのない兵部少輔。

数時間後には疑いも晴れ、釈放されて・・・それでも、妻子のために、あと何軒かの家々を回り、いくらかの木の実などを手に入れ、喜び勇んで妻子の待つ川岸へ戻ってきます。

しかし、彼がそこで見たものは・・・流れの隅ににひっかかっている愛する三人の溺死体でした。

実は、彼が食べ物を探しに行った時・・・

待てど暮らせど夫は帰って来ない・・・不安げに川岸でまつ妻と子に、通りがかった人が、夫が疑われて拷問にかけられている事を知らせたのです。

その話を聞いた妻は、「もはやこれまで・・・」と思いつめ、二人の子供を連れて川に身投げをしてしまっていたのです。

呆然とその場に立ち尽くす兵部少輔・・・
結局、彼も、妻子の後を追って、川に身を投げたのです。

兵部少輔の話は、ほんの一例・・・彼らのように、南北朝の動乱で、悲しい運命をたどった人たちは数多くいたという事です。

Nanbokutyoumonogataricc 今日のイラストは、
最後の悲しい物語の一場面を・・・

公家と聞くと、なんだか優雅で、「苦労なんかしてないんだろう」と思ってましたが・・・ちょっとイメージが変わりました~。
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2007年10月26日 (金)

観応の擾乱~足利尊氏+高師直VS足利直義

 

正平五年・観応元年(1350年)10月26日、兄・足利尊氏と対立していた弟・直義が、失脚の引き金となった高師直を攻撃すべく挙兵・・・『観応の擾乱(じょうらん)』が勃発しました。

・・・・・・・・・

室町幕府を開いたのは初代将軍・足利尊氏・・・これは、もう教科書でも定番の出来事ですが、実際には、室町幕府は二人の将軍によって運営されていました。

それは尊氏と、その弟・足利直義によってです。

確かに、征夷大将軍になったのは尊氏ですが、幕府内の権限は完全に二分化されていて、尊氏は全国の武士を支配する武家の棟梁・・・直義は全国を統治する政治の責任者

簡単に言えば、軍のトップと政治家のトップ・・・現在なら、軍と政治家なら政治家のトップがイコールその国のトップとなるのでしょうが、室町幕府は武家政権・・・という事は軍事政権ですから、軍のトップがその国のトップという事になります。

もちろん、この担当は兄と弟、軍と政治の上下関係だけではなく、二人の性格も踏まえての事です。

感情の起伏が激しい軍人タイプの尊氏と、冷静沈着な政治家タイプの直義・・・武功があった家臣に恩賞を与える尊氏、所領の揉め事に判決を下す直義といった具合に、この二人の関係は、室町幕府の初期を支え、見事な相乗効果をもたらしていました。

これは、鎌倉幕府の将軍と執権の関係に似ているかも知れませんが、鎌倉幕府もそうであったように、世の中、「両雄並び立つ」というのはなかなか難しい物で、やはり、この二人の間にも、徐々に亀裂が生じて来るのです。

特に直義は、尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお)と、肌が合わなかったようです。

確かに、『太平記』よると高師直という人は、出雲の守護・塩冶高貞(えんやたかさだ)の奥さんに一目惚れし、猛アタックを試みたものの、あえなく断られ、「夫がいなきゃいいんだ」とばかりに高貞を失脚させ死に追い込んだ(2月15日参照>>)・・・という逸話の持ち主です。

これが、本当だとすると、そりゃぁ、冷静沈着な政治家タイプの直義から見れば、師直のような行動は考えられない・・・まさに水と油。

肌が合わないなんて言葉では収まらないくらいの嫌悪感を感じてした事でしょう。

それは、師直から見ても同じ事。
さらに、荘園問題が二人の確執に拍車をかけます。

貴族との対立を防ぐためにも、公家や社寺の領地である荘園は、武士の支配とは離して考えるべきと主張する直義と、武功のあった武士に正統な報酬を与えるためには、実質的に荘園の管理者である武士に支配させるべきと主張する師直。

こういうのを犬猿の仲って言うんでしょうか・・・。

そんなこんなの貞和三年(正平二年・1347年)、南朝の動きが活発になったため、直義は配下の細川顕氏らを派遣するのですが、彼らが南朝軍に敗れてしまったのに対し、逆に、師直は、翌年、南朝軍を撃ち破り吉野へ攻め込み、南朝を敗走させ大勝利を収めます。

この事で、幕府内での師直の発言権が強くなった事に危機感を抱いた直義は、尊氏に師直の悪口をチクリまくり、執事を解任させてしまいます。

しかも、この時、師直の暗殺計画もあったとか・・・

そんな事を聞かされちゃぁ、師直も黙っていられません。
すかさず、武力でもって直義を攻撃!

お兄ちゃん・尊氏邸に逃げ込んだ直義を包囲します。

しかし、この時は、直義が出家し、その地位を尊氏の息子・義詮(よしあきら)に譲るという条件で、一件落着させる事に・・・って、あれ?尊氏の息子って・・・そうです、どうやら、師直のバックには、お兄ちゃん・尊氏が・・・

やっぱり、後を継がせるなら弟より息子・・・と誰しも思うところ。
弟がデキル弟なら、なおさらの事。

さすがの尊氏さんも、いつか弟一派に幕府のトップを脅かされるんじゃないかとビビッてたのかしら?

とりあえず、話は収まったものの、やっぱり納得いかない直義・・・何とか反撃しようと機会をうかがっていたところ、九州で勢力を拡大しつつある直義の猶子・直冬を追討すべく、尊氏が出陣、京都を留守にする事に・・・

正平五年観応元年(1350年)10月26日「よっしゃぁ~!」とばかりに直義は、京都を脱出して、一路南朝へ走ります。

そう、直義さん、今まで敵対していた南朝行っちゃいました~。

そして、師直を討つべく挙兵するのです。
北朝は、すぐさま『直義追討令』を発令・・・『観応の擾乱』の勃発です。

しかし、南朝を味方につけた直義軍は強かった~翌・観応二年(正平六年・1351年)の2月、師直を倒し、高一族を滅亡に追いやりました(2月26日参照>>)

師直がいなくなった後、義詮の補佐役として、ちゃっかり政界に復帰する直義。

すると、今度は尊氏・義詮父子が京都脱出し、南朝と和睦を結び、今度は南朝から『直義追討令』が発布されるのです。

当然、逃亡する直義。
尊氏は、南朝との和睦の細かな交渉を息子・義詮にまかせ、自分は直義を追います。

直義は、北陸を経て、11月に鎌倉へ入りました。

追う尊氏は東海道を下り、直義軍を破り、翌・正平七年文和元年(=観応三年)(1352年)の正月直義を降伏させるのです。

そして、直義はその1ヶ月後の2月26日に病死・・・病死!?あやしい・・・実にあやしい。

これには、やはり尊氏さんの毒殺説も浮上していますが、一応公式記録では黄疸となってます。

ところで、「何をゴチャゴチャやっとるんだ!」と、キレたくなるくらいややこしい南北朝の関係・・・尊氏が和睦を結んで南北朝の合一はどうなっちゃったの?

この一時的な合一を『正平の一統』と呼びますが、尊氏が南朝に降伏して、こうなったわけですから当然、南朝主体で合一の話が進む事となり、北朝陣営は無視されっぱなし。

・・・で、合一したんだか、してないんだかの短い期間で、和睦は解消される事となり、ご存知のように、南北朝の動乱はまだまだ続きます。

結局、これって、尊氏派と直義派に分裂しつつあった北朝が、一つにまとまっただけで、南朝との関係は何ともなってないじゃん!と思ったあなた・・・正解です。

弟が降伏したかと思えば、兄貴が降りる・・・和睦したかと思えば解消したり・・・ややこしいったらありゃしない南北朝の動乱ですが、このドタバタで、夜もじっくり眠れないのは、京都に住むお公家さん。

・・・と、このお話、まだまだ長くなりそうなので、『南北朝の動乱に怯えるお公家さんのお話』は次のページに書かせていただきました~コチラからどうぞ>>>
 .

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2007年10月25日 (木)

あなたが斉藤道三なら誰を婿に取りますか?結果発表

 

先日よりサイドバーで展開しておりました『あなたが斉藤道三なら誰を婿に取りますか?』のアンケート・・・荒唐無稽なアンケートにご協力いただきありがとうございました。

今日は、そのアンケートの結果報告と、新しいアンケートへのご協力のお願いをさせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・

では、まず、アンケート結果を・・・

これは、織田信長濃姫との結婚が決まり、「婚約の儀」を行うため美濃にやって来た姿を見た斉藤道三が、彼の器量を見抜いて「わが国は婿殿への引き出物になるであろう」と言ったという逸話から思いついたアンケートなのですが、もし、年齢差とか妻子持ちとかの条件がなく、単にその人物を見て選ぶとしたら誰なのか?」という事で、アンケートを実施させていただきました~。

ジャジャ~ン!

得票数
やっぱり信長 23
豊臣秀吉 3
徳川家康 4
武田信玄 2
上杉謙信 2
明智光秀 8
前田利家 2
毛利輝元 1
浅井長政 4
朝倉義景 1
北条氏政 0
ルイス・フロイス 11

さすがに、トップは予想通り・・・やっぱり信長さんですよね。
実は、私も信長さんに1票入れました~これは、仕方ないです。

・・・で、二位は・・・ガ~ン!
おもしろがってルイス・フロイスを候補に入れてしまった私が悪るうございました~
ここまで、多いとは・・・w
さすがに、外国にお嫁に出すのはムリかな?

そして、三位に食い込んだのが、やはり来ました明智光秀さん。
この人の人気はスゴイですね~。
戦国無双の明智さんが、やたらイケメンなのも、謎に包まれたその生い立ちと、謎に包まれた主君への裏切り行為が、ファンを虜にしてしまうんでしょうね。

同率四位なのは、徳川家康さんと、浅井長政さん。
徳川さんは、やはり最後に天下を不動の物にしたという事で、娘の末永い幸せを願うなら当然、ここに落ち着くのでしょうが、浅井さんは・・・そうか・・・あのお市の方が本気で愛した・・・というのがブランドとして成立するのかも知れませんね。
何か、「キムタクが選んだくらいだから、シズカは魅力的なんだろう」みたいな感じ?ですかね?

僅差で続くのは、豊臣秀吉さん、武田信玄さん、上杉謙信さん、前田利家さん、毛利輝元さん、朝倉義景さん。
このあたりは、「大物」と呼ばれる人たちですから、いずれも甲乙つけ難い・・・といった感じでしょうか?

最後、北条氏政さんはちょっと残念でした。
やっぱ、候補にあげるのは、お父さんの氏康さんのほうにしとけば良かったですかね。
ちょっと、大物と張り合うには、少し若かったかな?といった感じですね。

ホントに皆様、荒唐無稽なアンケートにご協力いただき、ありがとうございました~

・・・で、新しいアンケートを始めようと思うのですが・・・
実は、今度も荒唐無稽なアンケートです。

『時空を越えた合コンを開いたとしたら、誰のメルアドをゲットする?』
というものです。

一応、このブログでご紹介した事のある女性陣に参加していただいております。

歴史の場合、女性があまり表に出る事がありませんから、ひょっとして人物像が掴み難いのではないかと思いますので、合コンの定番・・・「まずは自己紹介から」という事で、次のページに自己紹介のページを作ってみました。
【自己紹介のページを見る>>>

完全に好みで選んでいただいて結構ですので、ぜひ、アンケートにご協力をお願いします。

空想の世界のアンケートなので、皆さんに投票していただけるか、とても心配です。
どうか、ご協力を・・・
 .

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時空を越えた合コンを開いたら・・・

 

新しい投票コーナーへのご協力のお願いです。

今度の投票は
『時空を越えた合コンを開いたとしたら、誰のメルアドをゲットする?』
というものです。

荒唐無稽な空想癖満載のアンケートですが、ブログを楽しくできるかな?と思い、考えてみました~ぜひご協力をお願いします。

では、合コンの最初はまず、自己紹介から・・・という事で、参加していただく女性陣に自己紹介をしていただきます。

合コンに参加してくれる女性の皆さんは、このブログでご紹介した人ばかり。
彼女たちのページへのリンクもつけてありますので、気になった女性がいたら見にいってあげて下さい。

額田王

職業:歌手
「歌手と言ってもそこらへんの人とはケタ違いよ。
なんせ、行事の時には代表で歌っちゃうんだから、あ・・・そうそう、今で言えば、日本シリーズの国歌斉唱みたいなモンよ!
しかも、中大兄皇子と大海人皇子なんて大物が私のコト取り合いしちゃうんだから、その魅力もおわかりでしょ?
大丈夫、今はフリーだから安心して。」
額田王のページへ>>

藤原薬子 職業:元貴族
「あら、私は何も望んでいませんわよ。
娘のお見合いについて行ったら、勝手に平城天皇が娘じゃなく私の事を好きになちゃって、こまっちゃうわ。
まぁ、それだけ魅力的って事かしら?
年上好きの君の告白を待ってるわ。」
藤原薬子のページへ>>
和泉式部 職業:教師
「私の事を“おさせ”なんて言う人がいるみたいだけど、“情熱的”って言ってほしいわね。
女性は受身の恋愛だった時代に積極的に自分から告ったってだけだもん。
でも、私から告ってもフラれた事なんてないのよ。
皆、そのあと私に夢中になるんだから・・・
イイワヨ一夜限りの火遊びでも、そんなヤボな女じゃないわよ。」
和泉式部のページへ>>
清少納言 職業:元教師
「頭のイイ女はダメ?
そんな事ないわよ~頭がイイのをひけらかして人の悪口ばっかり書いてる紫式部と一緒にしないでチョーダイ。
んん・・・大丈夫、この才能ですもの、いざという時は就職先はいくらでもあるし、本の印税も入ってくるんだから・・・」
清少納言のページへ>>
静御前

職業:アイドル歌手
「皆さん、名前のイメージから、おとなしゅーて、物静かな女やと思てはるみたいどすけど、そんなヤワではこの職業はつとまりまへん。
なんせ、日本一のアイドルどっさかいに、意外とシンの強いところがおますのや・・・けど、そこを見せへんのもプロのプロたるゆえんどっしゃろなぁ。」
静御前のページへ>>

お市の方 職業:専業主婦?
「もう、まったく!私の兄貴は信長よ!
なんでこんな席に呼ばれるわけ?
兄貴の家臣はみんな私の事、狙ってんだから、彼氏にふじゅうしてないっつーの。
ま・・・来たからには楽しんでいくけどね。
私を彼女にしたら、みんなに自慢できるわよ。」
お市の方のページへ>>
ねね 職業:主婦?
「みんな、私の事は知ってるわよね。
ヨシヨシ、出世させてやるぞ~。
このゴッドねぇちゃんにまかしときな。
えぇ?浮気?まぁ、そりゃ、ホンネはいやだけど、私が一番!って言ってくれるなら、2番がいてもゆるしちゃうかも・・・細かい事、気にしないタイプだからね。」
ねねのページへ>>
千姫 職業:家事手伝い
「ねぇ、もしカップルになったらどーする?
私のおじいちゃんの別荘でゆっくり過ごす?
それとも、クルーザーでダイビングに出かけちゃう?
んん、お金の事は心配いらないわよ!
おじいちゃんの遺産がいっぱいあるんだから・・・
この先300年くらいはダイジョウブ
千姫のページへ>>
絵島 職業:現在無職
「イケメン俳優にお熱をあげちゃって、怒られちゃった・・・。
こんな私をなぐさめてくれるやさしい人を探しにきました。
よろしくお願いします。
えっ?カタイって?
私はホントはマジメな人なの。
傷ついた心を癒してほしいだけなのよ。」
絵島のページへ>>
高橋お伝 職業:アルバイト
「どうだい?私に殺されたいかい?このブタ野郎!
ウソウソ・・・これはキャラよキャラ。
皆誤解してるみたいだけどキャラとして演じてるだけだからね。
どう?私の人気見た?
このブログに私の記事が載って以来、ほぼ10ヶ月になるけど、未だにアクセスランキングのベストテンに入ってるんだから、もう不動の人気よね。うれしいわぁ。」
高橋お伝のページへ>>
御船千鶴子 職業:主婦
「隠してもムダよ。
私には、全部見えてるんだから。
アナタ見たでしょ?リング・・・映画のリングよ。
アレ私の事なのよ~
私は何でもお見通し・・・あなたの心の中もね。
あなたは、きっと私を選ぶわ。」
御船千鶴子のページへ>>

追記:このアンケートは終了しました。

結果はコチラからどうぞ>>
 .

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2007年10月24日 (水)

神風連の乱~ダンナハイケナイ ワタシハテキズ

 

明治九年(1876年)10月24日、旧熊本藩士・太田黒伴雄らが新政府の熊本鎮台を攻撃。

太田黒伴雄らのグループが敬神党と名乗っていた事から『敬神党の乱』、あるいは、敬神党が通称・神風連(しんぷうれん)と呼ばれていた事から『神風連の乱』と呼ばれます。

・・・・・・・・

明治の世となって、中央集権国家をめざす新政府は、必然的に士族を切り捨てざるを得なくなりました。

士族は、廃藩置県により、それまで藩からもらっていた給料はストップ
太政官布告で身分制度は廃止され、苗字帯刀という武士の特権も失います。

「これでは、何のために幕末の戊辰戦争を命がけで戦ったのか?」

戊辰戦争の中心となって戦った全国300万士族たちの怒りはいつ爆発してもおかしくない状態となり、明治七年(1874年)、とうとう佐賀で大規模な士族の反乱が勃発します。
『佐賀の乱』(2月16日参照>>)です。

前年、徴兵令を布告したばかりの政府は大量の鎮台兵(政府軍)を投入し、乱を鎮圧させます。

皮肉にも、この乱は、近代軍備が整った今、一般から徴兵したセミプロのにわか兵士であっても、「戦いのプロ=武士」と対等に戦える事を証明する結果となりました。

しかし、明治九年(1876年)、さらに追い討ちをかけるように『廃刀令』『散髪令』が出されます。
ますます、不満を増幅させる士族たち・・・。

そして、その年の10月24日、旧熊本藩士・太田黒伴雄(おおたぐろともお)加屋霽堅(かやはるかた)ら、約170名で結成された敬神党が挙兵したのです。

まずは24日の深夜、鎮西鎮台司令官の種田政明の邸宅を襲撃。

種田を殺害した後、熊本県令・安岡良亮宅も襲撃して殺害し、さらに、その他多くの県役人を殺傷します。

同じ頃、別動隊は、政府の鎮西鎮台が置かれていた熊本城内に、怒涛のごとくなだれ込みます。
やがて合流した一隊は、城兵を次々と殺傷し、夜明け頃には、一旦、砲兵営を制圧します。

しかし、夜明けとともに駆けつけた新たな政府軍によって猛反撃が開始され、首謀者の一人であった加屋霽堅は討死、太田黒自身も負傷し、撤退の途中に覚悟の自刃をします。

リーダーを失った反乱軍は、総崩れとなり、最終的には、自刃を含む100名以上の死者を出して大敗となり、残りの者も、ほとんどが捕えられ、敬神党は壊滅状態となり、『神風連の乱』は終結します。

しかし、反乱分子は彼らだけではありません。
彼らと連絡を取っていたであろう士族たちの反乱が、この『神風連の乱』に同調するように、3日後の27日には『秋月の乱』(10月27日参照>>)、翌28日には『萩の乱』(10月28日参照>>)と立て続けに勃発するのです。

やがて、これら士族の不満は、翌年に西南戦争という形で大爆発する事となります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところで、この『神風連の乱』は、もちろん、最新ニュースとして新聞紙上に大きく掲載されたわけですが、もう一つ別の話題も、新聞紙上を賑わしました。

それは、この乱で殺害された鎮西鎮台司令官・種田政明少尉のお妾さんだった小浪(小勝とも)さんの、一通の電報です。

新橋で芸者をしていた彼女は、この事件の時、お妾さんとして種田の任地先に同行していて、事件に巻き込まれて被害を受けるわけですが、この状況を、東京の母親に電報で伝えたのです。

当時は、電話もEメールもありませんから、緊急事態を知らせるには、この「電信を用いた文書=電報」が最も早い連絡方法でしたが、なんせ、文字が多くなると、それだけ代金も多くかかるわけで、物事をいかに簡潔に短い文章にまとめるかが重要なポイント。

しかし、読み書きもままならない時代・・・一般には、何をどのように伝えるのか?がなかなか理解できず、庶民が電報を利用するには、ほど遠い状況だったのです。

この時、小浪さんが打った電報は
「ダンナハイケナイワタシハテキズ」
つまり、「『旦那=種田』は『いけない=もうダメ』、私は『手傷=怪我をした』」という物でした。

「これは、名文・・・電報の傑作だ!」
と、この文章に感激したのは、仮名垣魯文(かながきろぶん)

この仮名垣魯文という人は、戯曲作家であり新聞記者でもあり、広告文案・・・今で言うキャッチコピーを考えるというマルチな才能を発揮していた人です。

彼は、早速、一般庶民の電報のお手本となる文章として新聞紙上に発表するのですが、この時、魯文自身が作った下の句とも言える文章をくっつけて発表したのです。

「ダンナハイケナイワタシハテキズ」
「カワリタイゾエクニノタメ」

これが、読者からの大反響を呼びます。

まもなく、一人の読者から、さらに下の句が新聞に投稿されます。
「ソコデオマエハドウオシダ」

すると、それに続くように、連日、読者から、その続きの文章となる投降が送られて来て新聞紙上を賑わし、一般庶民の間では、投降はしないまでも、「この続きはこうだ」などといった、文章を考えるのが大流行したのだそうです。

おかげで、電報文という物がどのような物であるのかが、広く理解される事となり、今後の電報の普及へと一役買う事になったのだとか・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところで、さらなる後日談なのですが、この事件の後、例の小浪さんに惚れて惚れて、惚れぬいた一人の巡査がいたらしいのです。

何度も彼女に言い寄りますが、新聞報道までされちゃってる以上、亡き種田に義理を立てて「私は、少尉以外のかたとは・・・」と拒み続けます。

しかし、かの巡査が、あまりに熱心で純粋なので、断り続けるうちに情が移ってしまい、「それなら、これで勘弁して」と、彼女の襦袢(じゅばん)をプレゼントしたのです。

結局その巡査は、翌年の西南戦争で討死するのですが、その時、彼は彼女からもらった襦袢を、制服の下に身に着けていたのだとか・・・。

泣けますね~男の純情・・・

Zyunsaseinancc 今日のイラストは、
やっぱ最後に見せた『一巡査の純情』って感じで・・・

さすがに制服の上に羽織りゃ~しないでしょうけど、何となく女物を羽織るっつーのがカッコイイと思ったもので・・・
 .

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2007年10月23日 (火)

新田義興の怨念?神霊矢口の渡し

 

延文三年(正平十三年・1358年)10月23日、新田義貞の次男・新田義興をだまし討ちした江戸遠江守高良が、落雷の直撃を受け、一週間後に狂死しました。

・・・・・・・・

新田義興は、あの後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した時に、足利尊氏楠木正成らとともに、多大な功績のあった新田義貞(5月21日参照>>)の息子です。

建武の新政(6月6日参照>>)の後、尊氏は天皇に反旗をひるがえしますが、正成・義貞は後醍醐天皇に忠誠をつくし尊氏らと戦い、ともに討死しました(7月2日参照>>)

京都を制圧した尊氏は室町幕府を開き、京都を追われた後醍醐天皇も吉野に朝廷を構えます(12月21日参照>>)・・・世に言う『南北朝の動乱』です。

父の遺志を継いで、後醍醐天皇=南朝に従う息子・義興・・・父の死後は越後(新潟県)に潜伏して反撃の機会を狙っていたものと思われます。

その後、何度かくりかえされた京都争奪戦では、やや劣勢な南朝側でしたが、やがて、そんな南朝側に絶好のチャンスが訪れます。

観応元年(正平五年・1350年)、兄の片腕となって、ともに室町幕府を支え、「副将軍」と呼ばれていた尊氏の弟・直義と兄・尊氏との関係が崩れたのです(10月26日参照>>)

『観応の擾乱(じょうらん)と呼ばれるこの動乱は、二年足らずで直義の死をもって終止符が打たれますが、この期に乗じて義興は、弟・義宗らとともに関東奪回を目指して挙兵します。

文和元年(正平七年・1352年)2月、鎌倉公方として室町幕府から派遣されていた尊氏の息子・足利基氏を追放し、鎌倉を制圧した義興は、関東における南朝方の中心人物となります(2月20日参照>>)

しかし、もちろん追い出された基氏が、このまま黙っているわけはありません。

ただし、挙兵ではなく・・・

これが合戦という、ある意味正統な手段であったのなら、結果は変わっていたのかも知れませんが、基氏は関東管領の畠山国清と組んで、義興のもとへ、竹沢左京亮江戸遠江守高良という二人の刺客を送り込むのです。

竹沢左京亮は、もと義興の家臣・・・主君の性格のツボは心得たもので、「北朝に組みしたのはできごころだった」とか、「すっかり改心して前回以上に忠誠を尽くす」などとうまい事言って、まんまと義興の傘下にふたたび収まるのです。

もちろん、一緒に投降した江戸遠江守高良も・・・。

しかし、彼らの目的は義興の殺害・・・そんなそぶりは、おくびにも出さず、せっせとべんちゃらやりまくりの竹沢左京亮らは、徐々に家臣の中でも重く用いられるようになります。

義興が二人の事をすっかり信じ込んだころあいを見計らって、二人は行動に出ます。

延文三年(正平十三年・1358年)10月10日「名月の宴を催す」と称して、義興を多摩川矢口の渡しに誘い出します。

竹沢左京亮の先導で矢口の渡しを渡る義興ら御一行・・・しかし、渡し舟の船底の板がすでに外されていて、やがて、舟は川のド真ん中で沈み始めます。

「おのれ、計ったな!」
と、義興が気づいた瞬間、伏兵として潜んでいた江戸遠江守高良らが矢を射かけます。

哀れ義興は、同じ舟に乗っていた近臣13名とともに自刃し、多摩川の露と消えたのです。
未だ27歳でした。

しかし、その事件があったわずが12日後の、10月23日に、たまたま矢口の渡しの少し上流の浅瀬を渡ろうとした江戸遠江守高良が、多摩川べりで落雷に遭ってしまうのです。

その場ではたいした事はなく、命は助かったものの「すわ!義興公の怨霊か!」というのは誰しもが思う事・・・特に、だまし討ちという後ろめたさ満載の行為に及んだ本人としては、もはや耐えられなかった事でしょう。

江戸遠江守高良は、雷に打たれた7日後、狂死してしまいます。

その後も、矢口の渡し付近では、「怪光を見た」という者が後を絶たず、『義興公の怨霊』が評判となったため、義興を埋葬した場所に、新田神社なる社を建立したという事です。

これが、現在、東京都大田区にある新田神社であると言われていますが、中世の矢口の渡しがどのあたりにあったかは確定されておらず、この事件のあった矢口の渡しは、東京都稲城市矢野口であったという説もあります。

ところで、今日のお話には、少し付録がつきます。

この義興のだまし討ちと怨霊騒ぎは、『太平記』に書かれているお話ですが、これを江戸時代、一躍有名にしたのは、あのエレキテルで有名な平賀源内(11月21日参照>>)です。

この事件を素材として彼が書いた浄瑠璃『神霊矢口渡』が大ヒットし、後に歌舞伎にもなっています。

源内さん作の『神霊矢口渡』は、この事件の後日談といった感じの物語になっているのですが・・・

事件の後、追われる身の義興の弟・夫婦が矢口の渡しの船頭宅に一夜の宿を借り、そこの娘と恋に落ちたりなんぞしながら(嫁は?)、実は義興をだまし討ちしたのが、娘の父の船頭であった事がわかった後、すべてがバレた事を知った父は弟を殺そうとするのです。

弟に恋した娘が止める中、追いかけて川に舟を出す船頭・・・逃げる弟!

そこへ、天から新田家先祖伝来の神聖なる矢が降って来て、悪人船頭を貫く・・・といった具合なのですが、ここに源内さん特有の商売根性が発揮されます。

徳川家康が新田氏の出身と言い張っていた事もあって、江戸時代の新田神社はかなり賑わっていたようなのですが、当時、お守りの一種として、新田神社周辺の竹で造った霊験あらたかな『新田氏伝来の矢』という物を売っていたのです。

実は、このお土産用の矢の発案者が平賀源内さん、その人だったんですよね~。

これは・・・今で言うところの、大ヒット映画や大ヒットドラマとのコラボ商品では?・・・つまり、スターウォーズのアレとか、ガンダムのアレとか・・・

この源内さんが発案したお守り用の矢が、現在、神社でいただく『破魔矢(はまや)の元祖と言われています・・・まさに、見事なプロモーションです。

Nittanoyacc 今日のイラストは、
霊験あらたかな『新田氏伝来の矢』を・・・
3Dソフトを使ってこんなの描いてみました~雷がけっこう難しかったです~
 .

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2007年10月22日 (月)

究極の魔界封じの都・平安京誕生

 

「泣くよウグイス平安京」
延暦十三年(794年)10月22日、第50代・桓武天皇が平安京に遷都しました。

・・・・・・・・・

もともと母親の身分の違いから、異母弟の他戸(おさべ)親王に決まっていた次期天皇の座を、謀反の濡れ衣を着せ、死に追いやって勝ち取った桓武天皇

その次には、自分の次に天皇になる事になっていた弟の早良(さわら)親王を、息子に後を継がせたいばかりに、これまた死に追いやってしまいました。

やがて起こる異変の嵐!
地震・飢饉・水害・・・さらに、疫病で四人の妻と母親を次々と亡くし、他戸親王と早良親王の祟りとばかりに恐れおののく桓武天皇が、怨霊から逃げるように、建設途中の長岡京を捨て(11月11日参照>>)延暦十三年(794年)10月22日平安京に都を遷した事はこのブログでチョコチョコ書かせていただいております。

各関連ページへのリンクです↓
・10月22日:未完の都・平安京>>
・11月8日:平安京、命名の日>>
・9月23日:お彼岸の起源・由来>>

そのおかげで、徹底的に怨霊を排除する究極の魔界封じ都市となった平安京・・・今日は、具体的にどのように魔界封じがなされているのか?ご紹介させていただきたいと思います。

まずは、京都という場所が持って生まれた『四神相応の地』であったという事・・・。

Kitorasuzakutogenbucc 『四神相応の地』四神とは、その字の通り四体の神様・・・
これは、古代中国に起源のある物で、東西南北の四方向をそれぞれの神=聖獣が守ってくれるというものです。

東は青竜(せいりゅう・色は青)
西は白虎(びゃっこ・色は白)
南は朱雀(すざく・色は赤)
北は玄武(げんぶ・色は黒)

この思想は、飛鳥時代にはすでに日本に伝わっていて、あの高松塚古墳キトラ古墳の石室の壁に、それぞれの壁画が書かれていた事は有名です。

飛鳥時代では、宮殿の四方にそれぞれの聖獣を書いた旗を立てたり、聖獣を示す色をほどこして都の平安を祈っていましたが、平安京までは、まだ、都の立地そのものを四神にゆだねる事はなかったのです。

そして、青竜は河川に、白虎は大路に、朱雀は湖沼に、玄武は山に住むというところから、それらに四方を囲まれた土地は『四神相応の地』とされ、永遠に栄えると言われていたのです。

これは、現在の風水や家相につながる言い伝えですが、風水がそうであるように、単なる占いではなく、統計と経験に基づく理にかなった物である事が、今となっては理解できますね。

北に山があって南に沼があれば、当然、そこに開けた土地というのは、ゆるやかな南斜面という事になりますから、日当たり良好のバツグンの住みやすさ。

さらに山から湧き出る清らかな水をたたえた川は南に向かって走り、飲み水や生活用水となるばかりか、水運も発達させます。

加えて、残った一方向に、別の都市へとつながる道があるなら、交通の便もよろしく経済も発展するに違いないのです。

怨霊を徹底的に封じるためには、立地そのものを四神に守ってもらおうと考えた桓武天皇・・・そうして選ばれた土地が現在の京都だったのです。

北に洛北の峰々を抱えているのは、皆さんもご存知の通り。
東には鴨川が流れ、西には大陸への玄関口・九州へと続く山陽道がすでにありました。
さらに、現在は干拓されたため無くなっていますが、当時は南に巨椋池という大きな湖があったのです。

Heiankyouewsn ↑画像をクリックすると大きくなります

『四神相応の地』を見つけた桓武天皇・・・しかし、これだけでは不安です。
さらに、怨霊を近づけないために、人工の魔界封じをほどこします。

都の東西南北にある巨石を掘り起こし、その下に『一切経(いっさいきょう)という経文を埋め込みました。

その巨石というのは、『磐座(いわくら)という古代の祭壇です。
神社という物が現在のような社殿を持つ形になる以前、古代の人々が、ご神体となる山の上などに、祭祀やお参りをするために、巨石などで造った神社の原型のような建造物・・・それが磐座です。

当時は、すでに古代人の造った磐座が、平安京となる土地の周囲に、いくつか存在していたのですが、その中の東西南北の4箇所にお経を埋めたという事です。

東の磐座は、左京区の大日山にあったという事ですが、以前ここにあった別名・東岩倉寺と呼ばれた観勝寺というお寺が応仁の乱の際に焼けてしまい、残念ながら現在は磐座の面影は無いという事です。

西の磐座は、西京区大原野にある西岩倉山金蔵寺で、ここには現在、巨石は見当たりませんが、本堂の下に一切経が埋められているとか・・・。

南の磐座は、下京区石不動院町にある明王院不動・・・かつては、ここに、うっそうとした松林とともに巨石と石仏があったそうですが、現在は京都の街中で、石仏だけがお不動さんとして信仰を集めています。

北の磐座は、左京区岩倉にある山住神社で、ここは現在も完全な形で巨石が残っています。

さらに桓武天皇は、やはり東西南北に大将軍神社を建てて、なおいっそうの怨霊バリアを張り巡らします。

大将軍とは、記紀神話に登場するスサノヲノミコの事です。
ご存知のようにスサノヲノミコトは、あのヤマタノオロチを退治した英雄神でもありますが、高天原を揺るがした荒ぶる神でもあります。

「目には目を・・・怨霊には荒神を・・・」というワケです。

東には、東山区・・・現在の京阪三条近く大将軍神社
西には、上京区・・・あの北野天満宮の南西側に位置する大将軍八神社
南には、伏見区の深草にある藤森神社の摂社となっている大将軍社
北には、北区の上賀茂神社から賀茂川を挟んだ西賀茂にある大将軍神社

さらに、まだまだ・・・桓武天皇は、あの鬼の通り道と言われる『鬼門』の方角・・・北東にもちゃんと魔界封じをします。

賀茂川べりに幸神社(さいのかみのやしろ)を置き、鬼門の方角に古くからあった上賀茂神社下鴨神社を大きく建て直します。

そして、この鬼門のラインは、最強最大の霊場・比叡山延暦寺へと続きます。

おお・・・完璧!
・・・と思いきや、桓武天皇はまだ満足できません。
そう、裏鬼門が残ってます。

裏鬼門にあたる南西は、近鉄・竹田近くの城南宮・・・その先には石清水八幡宮

さらに北の守りを鉄壁にすべく、貴船神社鞍馬寺を造営。

都の入り口・羅城門の両脇には東寺西寺(現在は礎石のみです)
今熊野には宝剣を埋めて(剣神社)愛宕山愛宕神社を大改修・・・どんだけ怖いねん!

・・・と、突っ込みたくなるくらいですが、まぁ、そのおかげで、桓武天皇の願い通り、京都は千年の都として栄える事になったわけですから、桓武天皇の恐怖心さまさま・・・って感じで、めでたしめでたしですね。
 

このページでご紹介している神社仏閣(一部紹介していない史跡もあります)への行き方は本家HPでご覧ください>>
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2007年10月21日 (日)

禁門の変のシンガリ・幕末の十七烈士と真木和泉

 

天王山と言えば、やはり、本能寺の変で主君・織田信長を死に追いやった明智光秀と、その弔い合戦を旗印に遠く中国から大返しで駆けつけた羽柴(豊臣)秀吉が戦った山崎の合戦(6月13日参照>>)

その重要性から、今でもスポーツなどでは、雌雄を決する重要な試合の事を天王山と呼んだりして、どうしても、そちらを先に思い浮かべてしまいますが、天王山ではもう一つ、日本の歴史の中で重要な戦いが行われていたのです。

それは、幕末の事・・・。

当時、尊皇攘夷(天皇中心で外国人は無用)を強く押し進めていた長州藩

しかし、文久三年(1863年)8月、公武合体(天皇と幕府が協力)を進める会津藩薩摩藩の強力タッグによって、長州藩は京都から追い出され、政治の中心での活躍の場を失ってしまいます【八月十八日の政変】(8月18日参照>>)

翌・元治元年(1864年)、何とか挽回しようと、京都の池田屋に潜伏していた長州藩の過激派志士たちを新撰組が襲撃し、再起の芽を摘んだのは6月5日でした【池田屋事件】(6月5日参照>>)

この一報を聞いた長州藩内の積極派は、すぐさま京都奪回を目標に大軍を率いて上京します。

7月19日、山崎・天王山に布陣した久坂玄瑞、嵯峨・天龍寺に布陣した来島又兵衛伏見・長州屋敷に陣取る福原越後らの長州勢は、この三方から御所に向かって進軍を開始します。

この時、久坂玄瑞とともに、天王山に布陣していたのが、筑後水天宮神官・真木和泉守保臣です。

彼は、筑後という地名からでもわかるように、筑後国久留米出身で、久留米水天宮の神職・・・もとは薩摩藩主・島津久光と行動をともにしていましたし、大久保利通とも親しい関係にあったようです。

しかし、尊王派であった彼は、例の寺田屋事件(4月23日参照>>)で、しばらく幽閉される事となり、その後は長州藩に身を寄せていたのです。

かくして、この日、御所を守る幕府軍と、京都奪回を目指す長州軍との間で、壮絶な戦いが繰り広げられるのです。

最も激しい交戦があったのが、御所の蛤御門(はまぐりごもん)周辺・・・という事で、この戦いは「蛤御門の変」または、蛤御門が禁門とも呼ばれていたので、「禁門の変」と言います。

そして、ご存知のように、この禁門の変で、長州藩は大敗をしてしまいます。

来島又兵衛は蛤御門のそばで討死(2010年7月19日参照>>)堺町御門周辺で、真木保臣らとともに戦っていた久坂玄瑞も負傷し、その後自刃します(2011年7月19日参照>>)

激しい弾丸が飛び交う中、撤退を余儀なくされる長州軍・・・何とか彼らは天王山のある山崎まで撤退します。

そして、ここ山崎で福原越後ら・長州藩主力部隊の国元への引き揚げを見送る真木保臣以下17名の烈士たち・・・そう、彼ら17名は、ここにとどまり、殿軍(しんがり)をつとめたのです。

このブログの孫子の兵法や、戦国の合戦のページ等で時々書いておりますが、戦いという物は、進軍よりも撤退のほうがはるかに難しいのです。

かの豊臣秀吉が、織田信長の越前攻めで、撤退の殿軍をつとめ、一躍その名を馳せた事でもおわかりのように、生きて帰るのは万に一つしかないような危険、かつ重要な役目が殿軍なのです。

蛤御門で長州軍が放った銃弾が、御所を直撃した事で、その時から『朝敵』となった長州・・・撤退して母国へ帰る同志を見送る彼らの胸の内はどのような物だったのでしょうか・・・。

17ressitennouzancc ↑天王山中腹の展望台から京都方面を望む・・・彼らが最後に見たのは、眼下に広がる千年の都か、はたまた迫り来る幕府の軍か・・・

この時の彼らは、すでに死を覚悟していました。

主力部隊を見送った保臣以下17名は、幕府軍の来襲を前にして、天王山へと登り、壮絶な自刃を遂げるのです。

その直後、彼らの死を未確認の幕府軍は、敗兵一掃とばかりに天王山へ攻撃をしかけ、離宮八幡宮観音寺など、天王山周辺は炎に包まれます。

17ressiohakacc

やがて、多くの犠牲の上に、日本は明治維新を迎えます。

彼らの『朝敵』の汚名は晴らされ、蛤御門の殿軍だった十七烈士は、維新の先駆けとなり、天王山中腹に改葬され、やっと安住の地を得る事となりました。

17ressimakiohakacc 現在、彼らの志に感銘する有志たちによって、毎年10月21日墓前祭がとり行われています。

 

 
 
 
大山の 峯の岩根に うづみけり
  わが年月の やまとだましひ
            
真木保臣・辞世

 

 

「十七烈士のお墓」への行き方は本家HP:京都歴史散歩「天王山」でご覧ください>>
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2007年10月20日 (土)

神様が出張する神無月~留守番役の神様は恵比寿様

 

10月の別名は「神無月(かんなづき)
・・・て、あぁ、あの武藤のモノマネする人・・・って、それは神奈月!

もとい・・・この神無月という呼び名には・・・
神嘗祭の月だから「神嘗(かんなめ)月」
雷が少ない月だから「雷無月(かみなづき)
新嘗祭のための新酒を醸造するので「醸成(かみなん)月」

・・・などなど、諸説ありますが、一般的なのは、八百万の神様が出雲大社に集まるため、地方の神様が留守になるので「神無月」・・・逆に、出雲地方は10月の事を「神在月(かみありつき)呼び、出雲大社では旧暦の10月11日から10月17日まで「神在祭」なるお祭りも行われる事で、この説が一番有力です。

神々は、9月30日に各地方を出発して、10月10日から18日まで神魂神社(かもす神社・旧県神社)で過ごし、10月18日から20日出雲大社21日から25日までを佐陀神社(さだ神社・旧国幣神社)で過ごした後、帰途につき、10月30日には各地方へご到着・・・という細かな旅のスケジュールまであったりなんかします。

・・・で、何で10月に神様が出雲大社に集まるのか?というのは、10月16日伊邪那美命(イザナミノミコト)ご命日で、その日のための酒造りをするためという説と、巷の男女の縁結び・・・つまり、誰と誰をくっつけるか的な話し合いをするためという説の2種類があります。

なので、この期間に未婚の男女が出雲大社にお参りすると良縁に恵まれる・・・という言い伝えもありますので、まぁ、命日を口実に集まって、お酒を飲みながら、「アイツとアイツがうまくいきそうだ」とか、「コイツとコイツは合わねぇ~な」なんて事を話し合てな感じでしょうか。

ところで、全国の神様が出雲に出張してしまって・・・「いったい、その間はどうなるんだ?神様はいないの?」
・・・って思いますが、ちゃんと留守を守る神様がいます。

この期間の留守役を頼まれているのが、あの商売繁盛でお馴染みの恵比寿さまです。

・・・で、なぜ、恵比寿さまが神無月の留守番役に?

・・・・・・・・・

面の笑みで鯛をかかえ、釣竿を片手にした老人の姿で描かれる恵比寿さまは、「恵比須」「夷」「戎」「蛭子」など、様々な漢字が当てられますが、もともと「えびす」という名称自体が、異国の人を意味する言葉で、本来は異国から降臨して幸をもたらす神様であったのが、後に記紀神話に登場する神様と同一視されるようになったものと思われます。

恵比寿さまが、イザナギとイザナミの間に生まれた第三子・蛭子尊(ひるこのみこと)ではないか?
という説では、記紀神話「蛭子」と書いて「えびす」と読ませている事と、未熟で生まれた蛭子尊が天磐樟船(あまのいわくすふね)に乗せられて捨てられた後、その船が摂津の国・西宮の浦(兵庫県)に漂着し、そこで神として祀られた・・・とあるところから、全国的に有名な夷神社(西宮神社)が、それではないか?という事のようです。

ただ、この説だと個人的には、イロイロと詮索してしまいます。

だって、「イザナミさんのご命日に酒を飲む会」に出席するために、神様がいなくなり、その留守番が恵比寿さま・・・って事は、息子が母親の命日に出席しないって事で、親子の断絶もはなはだしいって感じですし、逆に、恵比寿さまが捨てられた恨みを、まだ根に持って出席を拒否してるのだとすれば、何やらどろどろした親子関係が渦巻いてそうですが、それはあくまで勝手な想像・・・(*^-^)。

他には、釣り好きというところから、大国主命(おおくにぬしのみこと)の子供で、やはり漁猟が大好きな事代主命(ことしろぬしのみこと)ではないか?という説や、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)山幸彦ではないか?という説があります。

山幸彦の場合、彼自身は山の民ですが、有名な「海幸・山幸神話」では、兄・海幸彦に借りた釣り針を失くしてしまい、竜宮まで探しに行って海神の娘・豊玉媛命(とよたまひめのみこと)と結婚し海神の力を借りて、兄・海幸彦を倒すわけですから、名前とはうらはらに、山幸彦のほうが海に近い・・・という事になります。

いずれの神様が恵比寿さまなのかという決定打はありませんが、どの神様も海に深い関係のある神様です。

共通点から考えると、やはり、恵比寿さまは、海の向うから来た神様。
そして、本来は漁民に幸せをもたらす神だったのです。

漁民の幸せ・・・つまり、大漁・豊漁です。

それは、地方によっては、クジラや鮫、イルカなどを「えびす」と呼ぶ事があるということでもうかがえます。

クジラ・鮫・イルカが小さな魚を追い、追われた魚が海岸近くにやって来る事で、結果、豊漁となるわけで、そのように呼ばれるようになったと言います。

このように、古代より漁民たちから、豊漁の神様として崇められていた恵比寿さまが、いつしか農民にも崇められるようになります。

漁民の豊漁は、イコール農民の豊作・・・という事で、やがて豊作の神様となった恵比寿さま

五穀豊穣・豊作となると、そのお祝いは実りの秋に行われるのが常・・・そうして始まったのが、毎年10月20日に行われる「夷講(恵比須講・えびすこう)と呼ばれる年中行事です。

そう、今日10月20日えびす講の日です。

この日には、各・家々で恵比須神の像を祀り、家にある金銭を1升枡などの入れ、尾頭付きの鯛とともにお供えしたりします。

つまり、恵比須さまは、この時期、農家に豊作をもたらす・・・という大切な仕事があって休めないんです。

「10月に休めない神様がいるんなら、ソイツに留守番してもらっちゃえ!」
・・・て事で、恵比須さまが、神無月のお留守番役に抜擢されたようです。

やがて、地方によっては、この「えびす講」の日を、「恵比寿神が出稼ぎから帰る日」あるいは「恵比寿神が商いを始める日」とされていた事から、当然、商人も、その幸せ・・・つまり商売繁盛を恵比須さまに願うようになるわけです。

もう、こうなると恵比寿さまは、誰にでも幸せをもたらしてくれる福の神。

やがて「えびす講」1月10日も行われるようになり、こちらは「十日戎」と呼ばれるようになります。

また、商人は商いの駆け引きとして、時にはハッタリをかましたり、ウソを言ったりする・・・その罪を償うために神社のお参りする事で、10月20日の「えびす講」は「誓文祓い(せいもんばらい)とも呼ばれます。

このように、様々な人が行うようになった「えびす講」ですが、やはり、一番派手なのは商人です。

宴の席を設け、招待客を招き、鯛や酒を振舞い、飲めや歌えの大騒ぎ・・・そんなところから、いつしか、恵比寿さまのご利益の中で、商売繁盛が一番目立つようになったのです。

大阪は、商売人が多いからでしょうか、えべっさんは今日10月20日よりも、1月10日「十日戎」のほうが盛んなような気がします。

あちこちの戎神社から聞こえる、あの「商売繁盛で笹持って来い!」という、楽しげで、リズミカルで、神様にあるまじき命令形の言い回しが、私は、けっこう好きです。
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2007年10月19日 (金)

「うば捨て山」は本当にあったのか?

 

日本の各地には「うば捨て山」の伝説が残っています。

「おば捨て」あるいは「親捨て」「棄老(きろう)伝説」と呼ばれたりなんかもします。

深沢七郎さんの小説『楢山節考(ならやまぶしこう)が、映画にもなって大ヒットしましたから、それがどういう物かという事は、もう、ご存知ですね。

「食いぶちを減らすために、ある年齢に達した年寄りを山に捨てに行く」という話です。

古くは平安時代の『今昔物語』『信濃の国の姨母棄山のものがたり』として登場します。

食べる事に精一杯だった昔の、苦渋の選択だったとは言え、胸が締め付けられる思いのする悲しい風習です。

しかし、しかし、皆さま、ご安心下さい。

実は、日本には、上記のような説話としては残るものの、本当に、親を捨てるという風習が過去にあったというちゃんとした記録はいっさい無いのです。

このお話は、もともと中国やインドにある「棄老伝説」が伝わった物で、日本のお話ではないのです。

では、なぜ?日本にそのような風習が無いにもかかわらず、全国的に広がり、あたかも昔、そのような風習があったかのように伝えられているのでしょうか?

それは、この「うば捨て山」の物語が、単に親を捨てに行く悲しい物語ではないからです。

日本で昔話として語られる「うば捨て山」のお話には、いくつかパターンがあります。

意地悪な嫁にせかされて・・・あるいは、貧困で食べる物がなくて・・・あるいは、60歳になったらという掟があるので・・・と、その理由は様々ですが、とにかく最初は、親を背負って・・・もしくは、「もっこ」という物に乗せて、大抵は母親を捨てに行くところから物語は始まります。

一つめのパターンは・・・
捨てに行く道々で、背負われた母親が、何度も木の枝を折っている・・・息子が「何で、木の枝なんか折るんだ?」とたずねると、「お前が帰り道に迷わないようにさ」と言う。
その言葉を聞いた息子が感激して、親を捨てるのをやめる・・・
みたいなパターンです。

二つめのパターンは・・・
やはり「もっこ」に乗せて捨てに行くのですが、到着後、あまりの心苦しさに、「もっこ」ごと打ち捨てて息子が帰ろうとすると、母が呼びとめて「次はお父さんを捨てる時に必要だから、このもっこは持って帰りな」と言われ、やはり、その言葉を聞いて反省し、連れて帰る・・・
というものです。

さらに・・・、
「60歳になったら親を捨てる」という国の掟があるにも関わらず、孝行息子がそれを実行できず、床下などに隠して養い続けていると、ある時、国に訪れた危機を、その親の知恵で救うという一件が起こり、老人の知恵は必要であるという事から、その掟は無くなった・・・
というパターン。

他にも、
一度捨てた母親を、心配になって迎えに行くと、母が山の神からもらった「打出の小槌」を持っていて、その後は優雅に暮らせるようになった・・・
なんていうのもあります。

こうして、いくつかのパターンを並べてみると・・・もう、おわかりですね。

「うば捨て山」のお話は、悲しい物語ではなく、「親を大事にすれば良い事がある」「親は誰よりも子供の事を思ってくれているのだから大事にしなくてはいけない」という、親孝行を教える物語なのです。

親を捨てに行く過程や、そんな風習が実際にあったかどうか?という事は、この物語にとって重要な事ではないのです。

このお話のテーマは、「親孝行をしなさい」「老いた親と暮らせる事を幸せと思いなさい」という事。
昔話の姿を借りて、子供たちに親孝行の尊さを教えているのです。

だからこそ、日本にはまったくない風習の外国の伝説であるにも関わらず、全国に広がり日本人の心の中に浸透する昔話になったのではないでしょうか。
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2007年10月18日 (木)

将軍・足利義昭擁立で初登場!謎の明智光秀

 

永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭が、室町幕府・第15代将軍に就任しました。

・・・・・・・・・・・

足利義昭(よしあき)は、室町幕府・第12代将軍・足利義晴(よしはる)の子供で、第13代将軍・義輝の弟・・・兄の義輝を、三好三人衆と松永久秀らに殺された(5月19日参照>>)、幽閉先の奈良を脱出して越前(福井県)朝倉義景のもとに身を寄せていました(7月28日参照>>)

三好と松永によって擁立された14代将軍・義栄よりも、自分こそが正統な将軍継承者だと思っていた義昭は、いっこうに動こうとしない義景を諦め、「誰か自分を将軍に祭り挙げてくれる実力のある者はいないか?」と探しはじめます。

そんな義昭と、当時、「京を制する者は天下を制す」と言われた時代に、上洛の大義名分を探していた織田信長とが出会います。

お互い利害関係が一致した二人・・・信長が義昭を奉じ、6万の大軍を率いて上洛したのが永禄十一年(1568年)の9月でした(9月7日参照>>)

わずか20日足らずで、京の町を牛耳っていた三好三人衆を追い出し(9月29日参照>>)、松永久秀を傘下に加えた信長の支援によって、永禄十一年(1568年)10月18日足利義昭は、室町幕府・第15代将軍に就任するのです。

義昭と信長・・・この二人を結びつけたのが、かの明智光秀です。

光秀が歴史の表舞台に登場するのは、前年の永禄十年(1567年)・・・義昭と信長の間を取り持つ役割を担って、いきなり登場します。

交渉は見事成立し、翌年の7月には、信長が美濃(岐阜県)立政寺に義昭を迎え入れています。

そして、9月に上洛、10月に将軍職・・・という運びになるわけですが、『明智軍記』によれば、この時、光秀は41歳

それまでの半生が、まった不明のままの、いきなりの表舞台です。

光秀の経歴については、若狭小浜刀鍛冶冬広の次男であるという説や、美濃明智の住人で御門(みかど)重兵衛と名乗っていたとも言われていますが、一般的には斉藤道三の息子・義龍に攻め滅ぼされた美濃守護・土岐氏の支族・土岐明智氏の出身だったというのが有力で、落城寸前の明智城から脱出した明智氏の嫡男が光秀であったという話もあります(9月20日参照>>)

また、光秀の叔母が斉藤道三の夫人で、信長の正室となった濃姫とは従兄弟同士だったとも言われていますが、いずれも確固たる証拠という物はなく、謎のベールに包まれているのです。

しかし、歴史の表舞台に登場した光秀は、すでに、茶の湯をたしなみ、和歌や連歌にも通じた立派な武将として登場します。

しかも、鉄砲の腕前が見事で、そこに惚れ込んで、朝倉に身を寄せていた光秀を、信長が自分の家臣へと引っ張ったという説もあります。

信長の家臣となった光秀は、天正三年(1575年)には従五位下日向守に任ぜられ、天正八年(1580年)に光秀が丹波を攻略した時には、それまでの近江10万石に加え、丹波・一国をまるまる与えられています。

この異例の出世は、やはり、歴史の表舞台に登場した時点で、かなりデキる武将であったという事でしょう。

そんな、謎多き光秀の前半生・・・放浪生活を続けていたという若き日に、唯一残る逸話があります。

一時、妻とともに、丸岡で暮らしていた頃、光秀は、「汁講(しるこう)という武士の会に参加していました。

それは、参加している者たちの持ち回りの会食パーティのような物で、まだ若輩の武将たちが、メンバーの誰かの家に集まって、兵法を論じたり、合戦の話をしたり・・・という、言わば武将としての勉強会のような感じでした。

そして、いよいよ、光秀宅で、その会を開く順番が回ってくるのですが、放浪中の彼は、自分たちの明日の食費にも事欠くほど、家計は火の車・・・とても、客をもてなす事などできません。

しかし、当日、妻は、他の誰よりも見事な食事を用意し、客をうならせたのです。

汁講が無事終わり、客が喜んで帰った後、男のメンツが立った光秀は、一言、妻に「ありがとう」と、言います。

しかし、気になるのは、この貧乏所帯で、どうやってあのような食材を用意したのか?という事です。

光秀がたずねると、妻は、笑いながら頭のかぶりものを取って、「髪を売りました」と・・・。
見ると、昨日まであった黒髪がバッサリと切られていたのです。

♪月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん♪
これは、光秀のこの逸話に感激した芭蕉が詠んだ句です。

芭蕉が生きた江戸時代から、すでに有名なこの光秀の逸話ですが、これまた光秀らしく謎に包まれています。

光秀は、その生涯で2度、結婚していますが、この妻という人が、一人目の妻だという話と、2度目の妻だったという話とがあるのです。

一度目の妻だったという説では、その妻とは早くに別れたけれども、彼女が病死した時は、どこからか訃報を聞き、、遠方から駆けつけて、葬儀に参列していたとされています。

2度目の妻は土岐氏の家臣・妻木範煕(のりひろ)の娘・煕子(ひろこ)さんで、例の細川ガラシャの母となる人なのですが、この人が黒髪を売った妻であるとする説では、その行為に感激した光秀は、一生、側室を持たず妻だけを愛し続けた・・・とされています。

しかし、この煕子さん自身にも、光秀よりも先に病死したという説と、光秀が本能寺の変(6月2日参照>>)を起し、山崎の合戦(6月13日参照>>)で敗れた後、落城する坂本城と運命をともにした・・・という説とがあります。

戦国史を語る上で欠かせない重要人物でありながら、謎に満ちあふれる明智光秀・・・・もちろん、その謎は「本能寺の変の動機」「山崎の合戦の後の生存説」という更なる謎も生み出します。

その謎めいたところが何とも魅力で、明智さんは、今も屈指の人気を誇っているのでしょうね。

Mituhideandtumacc 今日のイラストは、
芭蕉も感激した逸話のワンシーンで、『若き日の光秀さんと奥さん』を・・・

ところで、今日は、義昭さんの将軍就任の日なのに、光秀さんの話題に終始してしまいました~将軍就任後の義昭さんについては7月18日のブログ【ネバる!足利義昭~ボロは着てても心は将軍】>>でどうぞ。
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2007年10月17日 (水)

登校拒否は当たり前!明治初めの学校事情

 

明治十年(1877年)10月17日、東京・神田華族の子弟のための教育機関華族学校が開校しました。

この学校は、開校式に臨席した明治天皇によって「学習院」と名付けられます。

・・・とは言え、この時代の学校という物は、セレブな方々がお通いあそばされる場所で、まだまだ一般庶民には馴染みのない物でした。

・・・・・・・・・・・・

明治二年(1869年)3月23日各府県に小学校を設けることが発布され、同時に東京府に小中学校取調掛を設置5月21日には京都に上京第二十七番組小学校が設置され、日本の最初の小学校が誕生します。

その後、明治五年(1872年)には学制が定められ、近代の学校制度が始まりますが、その翌年でも就学率は約28%程度・・・男子は39.9%ありますが、女子はわずか15.1%に過ぎませんでした。

学習院が誕生する前年には、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)附属幼稚園が生まれていて、3歳・4歳・5歳の3クラスに別れ、一日4時間で夏と冬に長期休暇があるという、すでに現在の幼稚園と変わらない初等教育が行われていた事がわかります。

しかし、これも平均月収が2円に満たない頃に30銭に近い月謝がかかる・・・という事で、やはり、入園する子供たちはセレブな階層のご子息・ご令嬢だけという事になります。

そういう事で、多くの子供たちが、小学校で初めて、近代教育に出会う事になるわけですが、先ほども書きましたように、その就学率はあまり良いものではありませんでした。

もちろん、それは、「通いたくても通えない」という物です。

Bennkyousurukocc 多くの子供たちは、家事の労働力として必要とされますし、学費という経済的負担もかかりますから、子供ではなく、親が拒否するわけです。

 
明治の初めの頃は、登校拒否が当たり前。

いや、登校拒否だけでは収まらず、学校そのものに反対する親もたくさんいたのです。

当時、各地で起こっていた新政府に反対する一揆では、「学制反対!」というスローガンも掲げられていたのです。

「一揆までして反対しなくても・・・」
と、思ってしまいますが、実は、そこには近代国家樹立へと急ぐ、明治新政府のゴリ押しもあったのです。

「一日も早く近代国家へと近づけなければ」と考えた明治新政府は、全国に統一化された教育制度を導引しようと、全国を八大学区に別けて、一つの大学区に32の中学を設け、その一つ一つの中学の学区に、さらに210の小学校という計画を立てて、小学校設置を急ぎました。

おかげで、あっと言う間に、全国に2万以上の小学校が誕生しますが、もちろん、これらのすべてを国の力だけで設置できるわけもありませんから、この数には、江戸時代から続く、寺子屋なども含まれていたのです。

地方などには、それこそ、村のお寺の片隅で、住職さんが読み書きを教える・・・といった文字通りの寺子屋もあったわけで、こういった学校は私立という事になり、国が設置した小学校は公立という事になります。

先の明治五年に発布された学制では、教育費は全額、国民の負担となっていて、公立学校の月謝は、全国一律50銭に定められていました。

これに対して、寺子屋から発展した私立の学校は、近隣の人々の生活・・・という物を熟知していますから、最高額を50銭とし、親の負担能力に応じて低減する方法を採用したので、公立の小学校より私立の小学校のほうが月謝が安いという状況になります。

それこそ、公立の小学校には、かわいい坊ちゃんを「じいや」や「ねいや」が送り迎えをする・・・という光景が展開されていたのです。

そんな高額な月謝の学校に通えと言われても、そりゃ、親も反対するわけです。

それでも政府は、公立主義を押し進めたため、私立学校は徐々に減っていきます。

しかし、私立が潰れたからといって、高い学費の公立に通うわけにもいきませんから、いつまでたっても就学率が上がる事はありません。

結局この後、政府は、明治十二年(1879年)の教育令教学大旨などといった教育方針の変換をしながら、近代教育のありかたを模索する事となります。

私が小学生の頃は、まだ近所に「小学校は2日しか行ってない」なんていうお年寄りがいて、「学校サボれて、えぇなぁ」なんてアホな事を思っていましたが、さすがに大人になると「やっぱ教育って大事やね」なんて思ったりします。
 

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2007年10月16日 (火)

風林火山・孫子の兵法・最終章「用間篇」

 

今日で、いよいよ『風林火山・孫子の兵法』最終章・・・孫子の中で最も重要とされる『用間篇』を書かせていただきます。

・‥…━━━☆

用間の「間」は、間者の「間」・・・つまり、スパイの事です。

何かと影で動き、謀略や策略に従事するスパイ活動は、以前は陰湿でダーティなイメージがありましたが、近頃では、メディアの発達に伴い、「いかに情報が重要であるか」が、私たち一般人も知るところとなったせいか、情報の収集や敵情視察などは、当然の事という感じになってきましたね。

孫子が、この兵法書を通して、常に強調している事は、戦争には莫大な費用と、膨大な人数の兵士が必要であるという事。

戦いが長引けば、その費用も人の数も山のように積み重なって、たとえ戦争に勝ったとしても、その損失は国家を傾ける事になるかも知れないのです。

『而(しか)るに爵禄百金愛(おし)みて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり』
「金銭を惜しんで敵情を視察しない者はアホだ」

戦争にかかる費用の何百・・・いや、何千分の一のお金を出せば、人を雇って情報を収集する事ができるわけですから、同じお金をかけるなら、そっちにかけろ・・・という事です。

孫子では、その間者の種類は「五種類ある」としています。

それらの間者を、敵に知られないように使いこなすのは、かなり難しい事ですが、もし、使いこなせたら、それは「宝」にも等しいのだそうです。

その五種類とは・・・
郷間・・・敵国の者をとり込んで使う
内間・・・敵国の官人をとり込んで使う
反間・・・敵の間者をとり込んで使う
死間・・・敵国に潜入してニセ情報を流す
生間・・・敵国から情報収集して帰って来る
・・・の五種類。

もちろん、その人選は重要です。
『間より親しきはなく、賞は間より厚きはなく、事は間より密なるはなし』
「最も信頼のおける人物に、最も高い報酬を与え、最も秘密にしておかなければないない」
当然っちゃー当然の事なんですが、意外に賃金が安い・・・なんて気もしますが・・・。

『聖智にあらざれば間を用うること能わず。仁義にあらざれば間を使う事能わず。微妙にあらざれば間の実を得ること能わず。』
「人格者であり知恵のある者でなければ間者は使いこなせない。人を慈しむ心を持つ者でないと間者は使いこなせない。細かな気配り・配慮がないと実際の功績は得られない」
どうやら、間者を雇う側にも、かなりの条件が必要なようです。

そして、孫子曰く・・・間者を用いない戦は、考えられないのだそうです。

しかし、もし、その間者が情報を外に漏らしたならば・・・
もちろん、これは敵に限らず、味方にでもです。

たとえ、味方に・・・であっても主君と間者の間で交わされた極秘情報を漏らした者は、即刻、死あるのみ。
その情報を聞いた者も殺さなければならない
のです。

そして、次に、間者を使った具体的な方法を・・・

いざ、戦いが始まろうとする時、まずは、敵の指揮官や側近・門番・従者などの名前を入手し、間者を送り込んで、彼らの動静を探らせなくてはなりません。

もし、敵の患者が潜入している事がわかったら、これを手厚くもてなして買収し味方にとり込んで、今度は、逆に「反間」として、敵に送り込むのです。

この「反間」には、敵国の者をとり込む役目を荷ってもらいます。
敵の領民をとり込んで「郷間」とし、敵の役人をとり込んで「内間」とするのです。
そうする事によって、敵の動静を知る事ができます。

そして、そんな時に、「死間」を送り込んで、ニセの情報を流し、もちろん、動静も探らせます。

ここまで来たら「生間」を送り込んで、更なる情報を入手。
この頃には、敵国には、コチラが放った「反間」「郷間」「内間」「死間」が動いていてくれますから、「生間」はすんなりと任務を遂行する事ができ、更なる重要な情報得る事ができ、より密な敵情視察が可能になるのです。

主君たる者、この五間の使い方を充分と心得ていなければなりません。

これら五間の中で最も重要なのは・・・そうです、「反間」です。
ですから、「反間」には最も良い待遇を与えなければなりません。

さらに、孫子は故事を引用して・・・
『昔、の興(お)こるや、伊撃(いし)に在り。の興こるや、呂牙(りょが)に在り。故にただ明君賢将のみよく上智を以って間となす者にして、必ず大功をなす』
「昔、の伊尹(いいん)をとり込んで、を倒しては起こった。そして、今度はの呂尚(りょしょう)ととり込んで、を倒しては起こった。このようにすぐれた君主はすぐれた間者を用いて成功を収めている」

そして、最後の最後。
孫子は、この言葉で、このすばらしき兵法書を締めくくります。

『これ兵の要(かなめ)にして、三軍の恃(たの)もて動く所なり』
「情報戦線こそ戦のかなめであり、全軍はこれによって動くのだ」
と・・・。

この最終章の『用間篇』が、孫子の中で、最も重要である事がおわかりいただけましたでしょうか。

一応、今回をもちまして、このブログでの『兵法書・孫子』のご紹介は、最後とさせていただきます。

ご愛読、ありがとうございました~m(_ _)m

・・・・・・・・・・・・・・・

★これまでの『風林火山・孫子の兵法』全十三章を読むには、コチラの目次のページ>>からどうぞ!

★また、ブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
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続きを読む "風林火山・孫子の兵法・最終章「用間篇」"

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2007年10月15日 (月)

奈良の大仏の大きさは聖武天皇の恐怖の大きさ

 

天平十五年(743年)10月15日、時の天皇・第45代・聖武天皇から(みことのり)が発せられました

・・・・・・・・・

『・・・国銅を尽くして象(かたち)を鎔かし、大山削(き)りて以って堂を構え・・・夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕(ちん・自分)なり。天下の勢いを有つ者は朕なり。この富勢(ふせい)を以ってこの尊像を造る。事成り易くして、心至り難し・・・』

とにかく、国中の銅を使って大仏を造って、大きな山を削ってお堂を建てる。
僕はメッチャ金持ちやし、メッチャ権力握ってるから、でっかい仏像を造る事は簡単なんやけど、これで、僕の願い叶うかな
・・・てな感じです。

教科書などでは、当時、国中で凶作が続き、伝染病が流行り、政治上の争いもあったため、仏教の力でこの不吉な出来事を鎮め、国を安らかにし、国民を平安に導くために、全国に国分寺を建て、その中心となる大仏造立を発案した・・・という事になってます。

もちろん、凶作・疫病・政情不安をを取り除くため・・・というのは間違いではありません。
確かに、その願いを込めて、大仏は建立されました。

ただし、一番不安にかられていたのは、国民ではなく、聖武天皇・本人・・・あの奈良の大仏の大きさは、聖武天皇の不安・・・いえいえ、不安なんて生易しい物ではありません。

その大きさは、聖武天皇の恐怖の大きさに比例しているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

聖武天皇が即位したのが神亀元年(724年)です。

そして、その約十年後の天平七年(735年)、その恐ろしい病は朝鮮半島からやってきました。

まず、九州を直撃し、2年後には都(平城京)でも大流行し始めます。

豌豆瘡(えんどうそう)と呼ばれたこの病気は、どうやら今で言う「天然痘」の事だそうですが、とかく、病気という物は相手を選びません。

金持ちも権力者もバタバタと倒れていきます。

そして、いよいよ聖武天皇の身近なところにもやってきます。

藤原(中臣)鎌足に始まって、栄華の基礎を作った藤原不比等には、さらに栄華を極めた四人の息子がいたのですが、その四人ともが、次々と天然痘で亡くなってしまったのです。

この四人の息子というのは、聖武天皇の奥さんである光明皇后のお兄さんたち・・・身近な人を失って、恐怖にかられる天皇に、さらに追い討ちをかけるように、天平十二年(740年)、乱が勃発します。

亡くなった先の藤原四兄弟のひとり・藤原宇合の長男・広嗣(ひろつぐ)が、九州で反乱を起したのです(9月3日参照>>)

もう、聖武天皇はたまりません。
「広嗣が、今にも攻めてくるんじゃないか?明日にも天然痘にかかるんじゃないか?」と思ったら、いても立ってもいられなくなり、慌てて平城京を逃げ出すのです。

まずは、関東へ行こうとあちこち点々とした後、山背(京都)に離宮を造り「ここを都にする」的な発言をします。

結局、広嗣の乱は、2ヶ月ほどで鎮圧されますが、それでも聖武天皇の恐怖はおさまらず、天平十三年(741年)2月14日には国分寺と国分尼寺の建設事業をの詔を発します

さらに、紫香楽(しがらき・滋賀)に離宮を造れ」との命令を出してみたり、今度は、その舌の根も乾かぬうちに「やっぱり難波宮(なにわのみや・大阪)を都にする~」と宣言したりし出します(5月24日参照>>)

実はこの年は大凶作・・・そんな時に、離宮とは言え、巨費を投じての遷都に次ぐ遷都。
さらに、凶作に関係なく先に出された国分寺の建設事業も進めなければなりません。

Naranodaibutucc しかし、それでもまだ、天然痘から逃げまくる聖武天皇。

そんな天皇が、あちこち放浪生活をする途中で、河内の国(大阪)にやって来た時、渡来人たちが造った大きな仏像を目にするのです。

その仏像を見て感激する天皇・・・・。

 

「これや!これしかない!」と、決意しました。

「飢饉や、戦乱・疫病の流行は、きっと自分にがないからなのだ!自らが仏像を造る事でを積もう。そうすれば混乱は治まる」
・・・と、さらに巨費を投じる一大プロジェクトを立ち上げたのです。

国民総ツッコミの「なんでやねん!」という声が聞こえてきそうな気がしないでもありませんが、当時の疫病の怖さは、ハンパないですからね~その気持ちもわかります。

奈良の大仏のあの大きさは、まさに、聖武天皇の恐怖の大きさ・・・だったんですね~。
 .

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2007年10月14日 (日)

時代別年表:幕末・維新

このページは、幕末・維新の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップという事で、ブログに書いていない出来事は、掲載しておりませんので、年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えて参りますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Nisikinomihatanennpyoucc



・・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1853 6 3 ペリーが浦賀に来航
【黒船来航~そこには琉球の運命も・・・】
【ペリーが予測した「ものづくり日本」】
8 28 品川沖に砲台場の建設を開始
【外国から江戸を守る…品川砲台場】
10 14 プチャーチンが下田に来航
【開国の嵐に不幸続きのプチャーチン】
1854 2 3 幕府が黒船見物禁止令を発布
【黒船見物禁止令~庶民の反応は?】
2 24 ペリーが有線電信機を実験
【ペリーのお土産…電信機】
3 1 島津斉彬が江戸に入り西郷がお庭方に
【島津斉彬江戸入り「お庭方」西郷隆盛】
7 9 幕府が日の丸を日本船の船印と定める
【日の丸はいつから国旗になった?】
8 6 歌舞伎役者・8代め市川団十郎が自殺
【8代め市川団十郎が大坂で自殺】
11 5 安政南海地震が発生
【安政南海地震と濱口梧陵~稲むらの火】
1855 10 2 安政の大地震が発生
【安政の大地震でなまず絵が売れる】
藤田東湖・圧死
【水戸学・尊王・倒幕~藤田東湖・志半ば】
12 10 千葉周作・没
【幕末の三剣士・千葉周作】
1856 3 9 長崎などの開港地で踏み絵を廃止
【「絵踏み」の「踏み絵」は、今、どこに?】
7 21 初代アメリカ総領事ハリスが下田に到着
【日本の思い出を…駐日総領事・ハリス】
【ハリスと唐人お吉】
1857 4 10 板倉勝明が死去
【板倉勝明~「安政遠足」侍マラソン】
6 17 阿部正弘・没
【連合を図った瓢箪鯰~未だ夢の途中】
11 5 吉田松陰が松下村塾を開講
【熱血先生・吉田松陰の教育方針】
1858 7 6 第13代将軍・徳川家定が死去
【動乱の将軍・徳川家定…暗殺疑惑】
7 16 薩摩藩主・島津斉彬が病死
【幕末の名君~島津斉彬の毒殺説】
11 16 西郷隆盛・自殺未遂
【西郷隆盛,月照と共に入水自殺を図る】
12 26 吉田松陰・2度目の投獄
【吉田松陰~生涯一度の獄中の恋】
1859 8 23 トーマス・グラバーが長崎に赴任
【幕末の外国人商人・グラバーの置土産】
9 14 梅田雲浜が獄死
【勤皇のカリスマ~梅田雲浜・獄中死】
10 7 安政の大獄・橋本左内&頼山樹三郎・死刑
【橋本左内と安政の大獄】
【安政の大獄・直弼の本心】
【井伊直弼の女スパイ・村山たか】
10 27 吉田松陰・死刑
【吉田松陰、死刑!】
1860 1 13 咸臨丸・品川沖を出航
【咸臨丸・品川沖を出航】
通訳として乗り込んだジョン万次郎の事
【ジョン万次郎の帰国】
2 26 咸臨丸・サンフランシスコへ到着
【咸臨丸・シスコへ到着】
3 3 桜田門外の変
【桜田門外の変~井伊直弼の覚悟】
8 26 有栖川宮と和宮の婚約解消
【天下泰平のために・・・皇女・和宮の決意】
11 6 堀利煕が自刃
【外交交渉に命を懸けて…堀利煕の自刃】
1861 9 13 坂本龍馬が平井加尾に手紙を出す
【「龍馬伝」&加尾ちゃんへの手紙】
10 20 家茂との結婚のため和宮が京都を発つ
【皇女・和宮~替え玉説について】
1862 1 15 坂下門外の変
【幕府の未来?安藤信正・坂下門外の変】
1 22 「遣欧使節団」品川を出航
【幕末・「遣欧使節団」珍道中】
4 23 寺田屋事件
【今日は、寺田屋事件~薩摩九烈士】
【寺田屋事件に散った有馬新七と九烈士】
8 21 生麦事件
【島津を180゚変えた生麦事件】
10 14 津軽信順が死去
【歴代1位のダメ藩主…夜鷹殿様・津軽信順】
12 12 英国公使館・焼き打ち事件
【攘夷の先駆け~高杉・公使館焼打ち】
1863 2 6 長井雅楽が自刃
【長州一の知弁:長井雅楽~無念の死】
2 22 足利三代木像梟首事件
【幕末・足利三代木像梟首事件】
2 23 清河八郎が「浪士組」に攘夷を宣言
【新撰組・誕生のきっかけ~清河の宣言】
2 27 新撰組の前身「壬生浪士組」結成
【今日は新撰組の日】
5 小笠原長行が兵を率いて上洛
【夢を夢見た非凡な貴公子・小笠原長行】
5 10 長州藩が外国船に砲撃
【長州が外国船を攻撃!下関戦争・勃発】
5 20 姉小路公知が猿ヶ辻で暗殺される
【鬼門の猿が目撃者?公知・暗殺事件】
5 26 田中新兵衛が自殺する
【真犯人?冤罪?人斬り新兵衛は語らず】
6 7 高杉晋作・奇兵隊を結成
【高杉晋作と幕末の人々】
6 10 緒方洪庵・没
【緒方洪庵と適塾】
7 1 イギリスが薩摩への強攻姿勢を決定
【未遂に終った「スイカ売り決死隊」】
7 2 薩英戦争・勃発
【薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ】
7 4 薩英戦争・終結
【薩英戦争を挟み…孝明天皇と島津久光】
8 14 天誅組・結成
【天誅組~吉村寅太郎の最期】
8 18 八月十八日の政変
【新撰組を表舞台に押し上げた政変】
【苦労人の宮様~政変を決行した中川宮】
9 18 芹沢鴨・暗殺
【わずか半年の新撰組・初代局長~芹沢】
9 27 天誅組の壊滅で吉村寅太郎・自刃
【天誅組~吉村寅太郎の最期】
9 28 第1回・薩英和平会談が開かれる
【戦い終わって~薩英戦争・その後】
12 27 新選組の野口健司が切腹する
【新選組・野口健司の切腹】
1864 2 23 遣欧使節団・池田隊がエジプトを訪問
【遣欧使節団・珍道中~スフィンクスと侍】
3 20 遣欧使節団・池田隊がフランス外相と会見
【池田団長が日本人で初めてした事は?】
3 27 天狗党が挙兵
【藤田小四郎~天狗党誕生】
4 10 天狗党が挙兵表明
【尊王と敬幕と…攘夷の魁・天狗党模索】
6 5 池田屋騒動
【新撰組・絶好調!池田屋事件】
7 9 下妻夜襲
【天狗党大暴れ!下妻夜襲】
7 11 佐久間象山が斬殺される
【天才思想家・佐久間象山~京に散る】
7 19 禁門(蛤御門)の変
【禁門の変~来島又兵衛アラ50の挑戦】
【禁門の変で散る久坂玄瑞】
7 21 十七烈士自刃
【禁門の変のシンガリ・幕末の十七烈士】
8 8 下関戦争の戦闘終了
【幕府も新政府も借金まみれ~原因は?】
9 25 長州藩の井上聞多(馨)が襲撃される
【九死に一生…井上聞多の「母の力」】
9 26 周布政之助が自殺
【長州動乱…周布政之助の自殺】
10 25 武田耕雲斎が天狗党の総大将に
【総大将・耕雲斎~新生・天狗党の誕生】
11 1 天狗党が京都に向かって出発
【天狗党・起死回生の西上~下仁田戦争】
11 12 福原越後・自刃
【長州を守る為~福原越後の政治責任】
国司信濃・自刃
【長州に尽くす!国司信濃の政治責任】
11 15 中山忠光が暗殺される
【討幕の先駆けとなって散った中山忠光】
11 20 天狗党・和田峠の戦い
【西行の天狗党~和田峠の戦い】
12 2 桐野利秋が天狗党と面会
【天狗党・雪の行軍~運命の新保入り】
12 16 高杉晋作・功山寺で挙兵
【高杉晋作・功山寺で挙兵】
12 17 天狗党が降伏を決意
【維新のさきがけ~天狗党・概要】
12 21 天狗党の降伏状を徳川慶喜が受理
【天狗党・武田耕雲斎~悲しみの降伏状】
1865 2 4 天狗党が処刑される
【早すぎた尊王攘夷~天狗党の最期】
2 21 新撰組・山南敬助が脱走(23日・切腹)
【新撰組・山南敬助の心の内は・・・】
5 11 人斬り以蔵こと岡田以蔵が処刑される
【半平太様命!人斬りに徹した岡田以蔵】
5 11 武市半平太(瑞山)が切腹する
【土佐勤皇党・武市半平太~切腹す】
5 22 第二次長州征伐・奏上のため家茂が上洛
【どうして第二次長州征伐は始まった?】
5 28 長州藩の椋梨藤太が斬首される
【動乱に散った長州の保守派・椋梨藤太】
8 6 中岡慎太郎が桂小五郎に決意の手紙
【中岡慎太郎・薩長同盟への決意を語る】
9 1 松原忠司・没
【新撰組・松原~命賭けた2ヶ月の恋】
1866 1 21 薩長同盟・成立
【この日本国のために~薩長同盟・成立】
【薩長同盟の龍馬の活躍に疑問?】
1 23 坂本龍馬・寺田屋にて襲撃される
【危機一髪!坂本龍馬・寺田屋事件】
1 25 赤禰武人が斬首に…
【奇兵隊・第3代総監…赤禰武人の無念】
4 26 松前崇広・没
【外様から老中抜擢…松前崇広の無念】
6 8 第2次長州征伐・大島口攻防戦開始
【第二次長州征伐・開始~大島口攻防戦】
6 9 大坂城の堀から未確認生物の死体
【大阪城の堀に恐竜がいた?】
6 13 第2次長州征伐・大島奪回作戦
【高杉の奇襲で幕開け大島奪回作戦】
6 14
19
第2次長州征伐・芸州口の戦い
(14日:小瀬川)(19日:四十八坂)
【明暗分ける芸州口の戦い】
6 16 第2次長州征伐・石州口&小倉口の戦い
【晋作・龍馬・益次郎~役者が揃った・・・】
6 17 第2次長州征伐・長州が小倉へ再び上陸
【大詰め~長州・小倉口ゲリラ戦】
横浜フランス兵・殺人事件
【幕末・横浜・フランス兵殺人事件】
7 15 第2次長州征伐・石州口で長州が勝利
【長州の完全勝利~石州口・浜田城陥落】
7 20 徳川家茂・没
【薄命の将軍・家茂が後世に残した物?】
7 27 第2次長州征伐・長州が小倉へ3度目上陸
【長州征伐大詰め!最後の小倉・上陸】
12 25 孝明天皇・崩御
【孝明天皇・暗殺説】
1867 3 7 徳川慶喜の弟・昭武がパリに到着
【最後の将軍・慶喜の弟がパリ留学の】
4 14 高杉晋作・没
【高杉晋作と幕末の人々】
6 22 船中八策を土台に土薩盟約成立
【龍馬「船中八策」土薩盟約~大政奉還】
6 24 坂本龍馬が酢屋にて手紙を書く
【龍馬の隠れ家「酢屋」へ行ってきました】
7 14 ~11月頃:「ええじゃないか」騒動
【ええじゃないか!で大騒ぎ】
7 27 陸援隊が発足する
【中岡慎太郎と陸援隊】
8 14 原市之進が暗殺される
【徳川慶喜の参謀・原市之進】
8 17 外国奉行・栗本鋤雲がパリに到着
【幕末・日⇔仏の架け橋~栗本鋤雲】
10 13 「討幕の密勅」が薩摩に下る
【幕府・朝廷~歴史が動いた10月13日】
10 14 大政奉還
【大政奉還~,徳川慶喜の思惑】
【「龍馬伝」と徳川慶喜の思惑】
「討幕の密勅」が長州に下る
【幕府・朝廷~歴史が動いた10月13日】
11 6 野村望東尼・没
【強き勤王の母・野村望東尼】
11 15 坂本龍馬&中岡慎太郎・暗殺
【坂本龍馬・暗殺の謎の謎】
【どうなった?龍馬亡き後の海援隊】
【坂本龍馬暗殺・紀州藩黒幕説】
11 18 油小路の変
【新撰組・最後の粛清~油小路の変】
【油小路で命を落とす藤堂平助】
12 7 天満屋事件
【龍馬亡き後の海援隊Ⅱ】
岩倉が王政復古予定変更の手紙を出す
【意外にアタフタ?前々夜の岩倉の手紙】
12 9 王政復古の大号令
【王政復古の大号令】
12 18 高台寺党・残党が近藤勇を襲撃
【脱走・局長狙撃~元新撰組・阿部十郎】
12 25 薩摩藩邸焼き討ち事件
【討幕が決定的となった薩摩藩邸襲撃】
1868 1 2 鳥羽伏見の戦いで大坂湾で海戦
【大坂湾で~初の様式海戦】
1 3 鳥羽伏見の戦いで戦闘開始
【薩摩の砲撃で戦闘開始!】
1 5 鳥羽伏見の戦いで錦の御旗を掲げる
【戦場に翻る錦の御旗~戦い・3日め】
1 6 徳川慶喜が大坂城を脱出
【徳川慶喜の敵前逃亡~その本心は?】
【慶喜の敵前逃亡~原因は御三家に?】
1 8 徳川慶喜が江戸に出航
【慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎】
赤報隊・結成
【赤報隊・相楽総三 諏訪に散る2】
1 9 大坂城・開城
【大坂城の炎上はもののふの魂】
1 11 アメリカ兵・射殺事件
【日本最大の危機だった?米水兵射殺】
1 12 佐々木只三郎・没
【龍馬も斬った?見廻組随一の刺客】
1 17 和宮が慶喜の書いた嘆願書をチェック
【徳川家の存続をかけて~和宮の尽力】
1 19 大久保利通が「大坂遷都」を建議
【幻の首都・大阪~天皇おわした守口宿】
1 23 対・東征軍の幕府・作戦会議
【幻となった勝海舟・二つのシナリオ】
2 10 松平容保が江戸城・登城禁止に
【鳥羽伏見~会津戦争へ~容保の決意】
2 15 泉州堺事件
【堺事件~土佐藩兵のフランス兵殺傷】
2 22 会津藩の神保修理が自刃
【敗戦の責任負った会津藩士・神保修理】
2 23 彰義隊・結成
【江戸を死守の最後の砦~彰義隊・結成】
3 3 赤報隊一番隊長・相楽総三 処刑
【赤報隊・相楽総三 諏訪に散る】
【赤報隊・相楽総三 諏訪に散る2】
3 6 勝沼戦争
【甲陽鎮撫隊の勝沼戦争~近藤の失敗】
3 9 山岡鉄舟と西郷隆盛の会見
【江戸城無血開城】
3 13
14
西郷隆盛と勝海舟の会見
【西郷と勝の会談・その内容は?】
3 14 五箇条のご誓文・発表
【五箇条の御誓文・発表】
3 15 川路聖謨・自刃
【江戸総攻撃の予定日に散った忠臣】
4 11 江戸城・無血開城
【江戸城無血開城】
【最後まで残ったのは今年話題のアノ人】
4 25 新撰組の近藤勇・処刑
【さらば・・・近藤勇】
4 3 請西藩主・林忠崇が脱藩
【藩主が脱藩~最後の大名・林忠崇】
4 4 大村益次郎が江戸に着陣
【上野戦争へカウントダウン~大村・着陣】
4 6 小栗忠順・斬首
【名奉行・小栗忠順の汚名を晴らしたい】
4 20 世良修蔵が暗殺される
【会津戦争の呼び水…世良修蔵の暗殺】
4 25 新政府軍が北越へ進攻
【戊辰戦争~新政府軍・北へ】
4 29 海援隊・解散命令
【どうなった?龍馬亡き後の海援隊】
5 山本覚馬が新政府に建白書を提出
【山本覚馬の建白書『管見』】
5 1 白河口攻防戦
【会津戦争・勃発~白河口攻防戦】
5 13 北越戊辰戦争・朝日山争奪戦
【朝日山争奪戦~河井継之助の決意】
5 15 上野戦争
【彰義隊~散り行く上野戦争】
5 17 原田左之助・没
【「もっと生きて…」~死にぞこね左之助】
5 19 北越戊辰戦争で長岡城が陥落
【ガトリング砲も空しく~長岡城・陥落】
5 23 飯能戦争
【イケメン揃いの幕末・飯能戦争】
5 24 徳川宗家に駿河70万石が与えられる
【未来を託された幼き主・徳川家達】
5 27 箱根戦争
【遊撃隊奮戦!ここが最後の箱根戦争】
5 30 新撰組の沖田総司・没
【新撰組・沖田総司の最期】
6 1 北越戊辰戦争・今町攻略戦
【河井継之助の時間差攻撃~今町攻略】
6 15 東武皇帝が即位
【もう一人の天皇?東武皇帝・即位事件】
7 9 水野忠徳が死去
【小笠原諸島を守った「屏風」水野忠徳】
7 24 北越戊辰戦争・長岡城奪回作戦
【河井継之助の長岡城奪回作戦】
7 29 長岡城が再び落城
【河井継之助・無念~長岡二番崩れ】
8 16 河井継之助・没
【落城とともに散った河井継之助】
8 19 榎本率いる旧幕府艦隊が品川沖を脱出
【旧幕府艦隊…品川沖を脱出】
8 20
21
新政府軍が二本松城を進発
母成峠の戦い
【会津戦争も佳境に…母成峠の戦い】
8 22 十六橋・戸ノ口原の戦い
【会津戦争~十六橋・戸ノ口原の戦い】
8 23 会津戦争・城下の戦い
【会津戦争~会津若松城下の戦い】
【山本八重の会津戦争】
【白虎隊・飯盛山に散る】
8 25 会津戦争で娘子軍が奮戦
【戦場の華と散った娘子軍・中野竹子】
8 28 歌人・橘曙覧が没す
【松平春嶽を魅了…癒し系歌人・橘曙覧】
8 29 会津・長命寺の戦い
【幕末・会津戦争~長命の戦い】
8 放置された兵士の遺体を次郎長が収容
【海道一の大親分・知られざる後半生】
9 8 明治に改元
【明治に改元・一世一元を定む】
会津・飯寺の戦い
【忠臣・渡辺豹吉の大芝居~飯寺の戦い】
9 14 新政府が会津若松城への総攻撃を開始
【大詰め…若松城への総攻撃開始】
9 22 会津戦争・終結
【藩士と領民・それぞれの道】
10 6 水戸藩抗争~松山戦争
【天狗党最後の戦い~水戸藩・松山戦争】
10 20 榎本武揚ら旧幕府軍が蝦夷地に上陸
【幕府最後の進撃~榎本・函館を奪取】
11 1 観音崎に西洋式の灯台が完成
【灯台記念日に灯台の歴史】
12 15 蝦夷共和国・誕生
【蝦夷共和国の誕生】
1869 1 5 横井小楠が暗殺される
【龍馬もまねた~小楠の維新のシナリオ】
2 5 明治新政府が大阪造幣局を設置
【文明開化の最先端!大阪造幣局・設置】
2 16 山国隊が凱旋帰郷
【時代祭の先頭「山国隊」と北野天満宮】
3 25 宮古湾海戦
【榎本武揚・3つの誤算~宮古湾海戦】
4 9 玉蟲左太夫が獄中にて切腹
【動乱に散った悲劇の人・玉蟲左太夫】
4 29 函館戦争・矢不来の戦い
【函館戦争・終盤戦~矢不来の戦い】
5 11 函館戦争・総攻撃開始
【総攻撃開始~土方歳三・最期の日】
【土方の最後の命令を預かった市村】
5 16 遊撃隊・伊庭八郎が没す
【銃弾に倒れた隻腕の剣士…伊庭八郎】
中島三郎助が戦死
【函館に散ったサムライ…中島三郎助】
5 18 函館戦争・終結
【五稜郭開城!蝦夷共和国 最後の日】
【敵味方の区別なく・・・医師・高松凌雲】
6 17 版籍奉還を発布
【四民平等の明治政府が華族制度】
9 4 大村益次郎が京都で襲撃される
【大村益次郎・暗殺犯と海江田信義】
11 27 奇兵隊に解散命令
【奇兵隊~維新後の悲しい運命】
1870 3 15 日本初の西洋靴製造工場できる
【靴の記念日にちなんで】
10 9 岩崎弥太郎が土佐開成社を開設
【後藤象二郎様々?弥太郎の成功劇】
1871 1 9 広沢真臣が暗殺される
【維新の未解決事件~広沢真臣・暗殺】
1 18 鍋島直正(閑叟)・没
【幕末の名君…「肥前の妖怪」鍋島直正】
3 16 大楽源太郎が斬殺される
【混乱に散った長州藩士~大楽源太郎】
4 19 田宮如雲・没
【生涯、主君に捧ぐ…田宮如雲の忠誠心】
7 14 廃藩置県・発布
【県名の由来は戊辰戦争の復讐?】
8 9 断髪令・発布
【ザンギリ頭を叩いてみれば・・・】
10 8 岩倉使節団の派遣を決定
【維新から44年…実現した対等の日本】
11 12 初の女子留学生がアメリカに出発
【津田梅子のアメリカ留学】
12 14 歓迎晩さん会で伊藤博文が日の丸演説
【一世一代…伊藤博文の日の丸演説】
1872 1 24 明治天皇が初めて牛肉を食す
【味覚文明開化~明治天皇・牛肉を食す】
2 15 玉松操・没
【錦の御旗を作った玉松の苦悩】
6 21 山内容堂・没
【鯨海酔侯…幕府存続に賭けた日々】
9 12 新橋⇔横浜間に鉄道が完成
【初めての陸蒸気…新橋⇔横浜を走る】
9 13 マリア・ルーズ号事件で清国人奴隷・解放
【副島種臣の英断~マリア・ルーズ号事件】
9 29 日本初のガス灯がともる
【文明開化「光」の競争】
10 2 娼妓解放令を布告
【娼妓解放令と三英傑の人身売買禁止】
10 4 富岡製糸場が操業開始する
【女性の過酷な労働の上に…経済大国】
11 9 天保暦を廃止して太陽暦を採用
【今日は太陽暦記念日】
11 23 新嘗祭を毎年11月23日に決定
【新嘗祭は、もう一つの新年行事?】
11 29 山城屋事件で山城屋和助が割腹自殺
【陸軍省で割腹自殺した山城屋和助】
12 4 河上彦斎が斬首される
【佐久間象山を暗殺「人斬り」河上彦斎】
1873 開拓使仮学校の教師が野球を教える
【野球の日にちなんで】
2 24 切支丹禁止令を撤廃
【切支丹禁制・廃止】
5 15 妻からの離婚請求が認められる
【三くだり半~江戸の離婚事情】
8 23 村岡局(津崎矩子)・没
【「勤王女傑」~皇室と志士のパイプ役】
10 24 明治六年の政変
【征韓論で西郷隆盛らが辞職】
1874 1 5 馬車・人力車の専用道路が完成
【鉄道馬車と「車会党」】
1 14 赤坂喰違の変
【岩倉具視・危機一髪!赤坂喰違の変】
2 3 憂国党が小野組から強制的に借金
【立つ!江藤新平~迫る!佐賀の乱】
2 16 佐賀の乱・勃発
【江藤新平の運命やいかに】
4 13 江藤新平が処刑される
【天知る地知る~江藤新平・英雄伝説】
4 18 征台の役で木戸孝允が辞表提出
【近代日本初の対外戦争】
8 27 小松帯刀・没
【ポッチャリが好み?小松帯刀と2人の妻】
12 24 東京の築地と銀座でクリスマス祝賀会
【日本のクリスマスはいつから?】
1875 1 12 青森・宮城・酒田の3県で屯田兵募集
【北海道のパイオニア~屯田兵・募集】
2 13 苗字をつける事が強制される
【氏・素性と苗字の話】
1876 3 12 日曜=休日、土曜=半休を官公庁で実施
【半ドンの日~号砲1発!大阪城の大砲】
3 28 大礼服・軍人・警察官以外の帯刀を廃止
【廃刀令・発布】
4 14 品川弥二郎が前原一誠を説得
【萩の乱近し~前原と木戸と品川と】
7 20 明治天皇が明治丸で横浜に到着
【国民の祝日と海の記念日】
10 24 神風連の乱
【ダンナハイケナイワタシハテキズ】
10 27 秋月の乱
【福岡で怒った士族の反乱~秋月の乱】
10 28 ~11/8萩の乱
【天皇をお諌め~前原一誠の萩の乱】
10 29 思案橋事件
【東京で起こった反乱~思案橋事件】
11 9 野口英世・誕生
【母から息子への思い~野口シカの手紙】
11 25 「学問のすゝめ」最終篇・刊行
【福沢諭吉の「学問のすゝめ」刊行】
12 三菱商会で賞与制度を実施
【日本で初めてのボーナスは?】
12 3 前原一誠ら萩の乱の首謀者が斬刑に・・・
【長州男児・前原一誠~萩の乱の終焉】
1877 1 30 私学校の生徒が政府火薬庫を襲撃
【西南戦争の隆盛に勝算はあった?】
2 15 薩摩軍が鹿児島を出陣
【いよいよ西南戦争~薩摩軍・発つ】
2 21 三野村利左衛門が没す
【三井の中興の祖・三野村利左衛門】
2 22 薩摩軍が熊本城を包囲
【西南戦争~熊本城・攻防戦】
2 28 三浦啓之助・没
【幕末の極楽トンボ~佐久間象山の息子】
3 18 二重峠の戦いで佐川官兵衛が討死
【佐川官兵衛~会津魂・未だ衰えず】
3 20 田原坂の戦い
【激戦!田原坂・陥落~薩摩の敗因は?】
3 31 中津の士族が西郷に呼応して叛乱
【西南戦争で西郷隆盛に呼応した党薩隊】
4 15 熊本城・攻防戦が終結
【西南戦争~熊本城・救出作戦】
4 16 札幌農学校のクラーク博士が北海道を去る
【生涯の誇り~クラーク博士のambitious】
5 23 明治の珍事件・空から降って来た!
【風の神様の落し物?初の気球実験】
5 26 木戸孝允が京都で没す
【「逃げの小五郎」で逃げまくった孝允も】
8 24 小林虎三郎・没
【「米百俵」の精神~焦土の長岡に立つ】
9 3 火星大接近
【西南戦争で敗れた西郷隆盛が星に?】
9 24 西南戦争・終結
【城山の最終決戦】
【西郷と供に生き、供に殉じた桐野利秋】
【西南戦争が変えたもの…】
【西南戦争・概要】
番外篇 【幕末No.1のイケメンは誰?】
【幕末No.1のイケメンは?結果発表】
【オークラ前の小五郎像が見つめる物?】
【遠く離れても親子~シーボルトとイネ】
【新政府のモデル…津田出の藩政改革】
【横浜を造った実業家・高島嘉右衛門】

              *青字=閏月

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2007年10月13日 (土)

新田義貞・北国落ちの悲劇は本当か?

 

延元元年(建武三年・1336年)10月13日、足利尊氏に京都を追われ、北国落ちした新田義貞らが、敦賀に到着しました。

・・・・・・・・・

あまりに公家中心で、武士を無視した感のある建武の新政(6月6日参照>>)に反発して、後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏

最初は、天皇側が優勢で、命からがら九州へ逃げた尊氏でしたが(3月2日参照>>)、九州で態勢を立て直し、湊川の戦い(5月25日参照>>)で、楠木正成新田義貞らの天皇軍を破り、その勢いで京に攻め上ります。

比叡山に逃れた後、すぐに、京都を奪回する事は難しいと判断した後醍醐天皇側は皇位を息子の恒良(つねよし・つねなが)親王に譲り、親王を新田義貞に託します(8月15日参照>>)

新田義貞は、新田軍が官軍である事の証しとして、その恒良親王と異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を連れて、一旦、北国へ落ち延びる事となります。

延元元年(建武三年・1336年)10月11日、北近江の塩津に到着した総勢7千余りの新田軍。

Kinometougenittacc ここから北を目指す最短・最良のルートは「七里半越え」と呼ばれるルート。

これは、奈良時代に愛発関(あらちのせき)という関所が置かれていた場所を通るルートで、敦賀へ七里半くらいの山道であるところからこう呼ばれていました。
(愛発関は、正確な場所は不明ですが、現在の福井県の疋田あたりにあったとされています)

しかし、そのルートはすでに、越前の守護・斯波高経(しばたかつね)の軍勢に封鎖されているとの情報が入り、大きく東北へ迂回して木ノ芽峠越えにて敦賀へ入る事にします。

しかし、この後、太平記十七巻では・・・
『北国の常として十月の始めから高い山々には雪が降るけれども、今年は例年よりも寒さが早く、当日は風まじりの雪が降り、兵士たちは道を見失ってしまい、山道の夜には宿もなく、木の下や岩の影に縮こまって寝たが、馬も兵も凍えて自由がきかず、皆バタバタと、そこかしこで凍え死んでしまった』
・・・との記述が・・・

もちろん冒頭に書きました通り、10月13日には新田義貞以下、二人の親王も無事に敦賀に入っているわけですので、全員凍死というわけではありませんが、かなり多くの死者が出た・・・とされています。

確かに旧暦の10月11日・・・現在の暦に直すと11月22日という事になりますから、豪雪地帯の北陸では、すでに雪が降っていた事も充分考えられますが、木ノ芽峠というのは、わずか600m余りの峠です。

はたして、本当にバタバタと凍死・・・なんていう事があったのでしょうか?

しかも、木ノ芽峠を通るルートというのは、戦国時代に柴田勝家が開いた道であって、室町時代には、まだ、無かったという説もあります。

しかし、しかし、これを歴史からではなく、「植物の観点から調査した結果がある」というんですねぇ。

それは、福井県の調査ではないのですが・・・
「長野県木曽御料林のヒノキの年輪調査の結果」というのがありまして、それによりますと、延元元年という年は、その前後・数十年と比較して、最もヒノキの成長が悪いのだそうです。

つまり、例年に比べてかなり寒かった・・・という事です。

前後・数十年ですから・・・
「半世紀に一度の寒波がその年の北陸を襲っていた」と考えると、「多数の凍死者」というのも、考えられない話ではない・・・という事になります。

もちろん、だからと言って太平記の記述が正しいというわけではありませんが、年輪を見て、年数がピッタリ合うなんて、スゴイな!・・・と、ちょっと興奮しちゃいました~。

この日、敦賀に到着した義貞らは、金崎城(かねがさきじょう=福井県)へと入り、迫りくる足利軍と籠城戦を展開する事となります・・・そのお話は3月6日のページで>>
 .

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2007年10月12日 (金)

佐々木道誉・紅葉事件で婆沙羅を卒業

 

暦応三年(1340年)10月(すみません日付がわかりません)
・・・とあるので、10月中には書きたいなと思っていた佐々木道誉『紅葉折り・傷害・放火事件』について今日は書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

佐々木道誉(どうよ)と言えば、婆沙羅(バサラ)大名の代表格。

婆沙羅とは、サンスクリット語の【vajra】で、ダイヤモンドの事ですが、もちろん婆沙羅大名の婆沙羅はダイヤモンドという意味ではありません。

「ダイヤモンドがすべての石を砕く」というところから、「調子はずれ」「ケタはずれ」といった意味で舞楽の用語に使用されていたものが、いつしか、人の普段の生活ぶりが「ケタはずれ」・・・つまり、アウトロー的な人を指す言葉になったようです。

この時代は、「派手な服装をして派手な振る舞いをして、規則を破り乱暴・狼藉を働く者」といった意味で、婆沙羅と呼んでいました。

権力への反発・・・とでも言いましょうか、誰もが成長過程で一度は通る、親にはむかったり、先生にはむかったり、社会が悪いと言ってみたり・・・みたいな感情から出る一連の行動のような物です。

道誉の場合は、やはり「貴族に対するどうしょうもない身分の違い」といった物から、対抗意識が芽生え、婆沙羅に走った・・・という感じでしょうか。

・・・とは言え、道誉は、宇多源氏の正統で、代々検非違使(けびいし・現在の検事&裁判官)を務めていたという、けっこう坊ちゃんな家柄の出身です。

9歳で左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられ、鎌倉幕府、最後の執権・北条高時(たかとき)に仕えます。

高時の「高」の字をもらって、高氏と名乗るほど寵愛され、高時が出家をした嘉暦元年(1326年)には自分も一緒に出家して、30歳の若さで法名・道誉となったくらい北条べったり。

・・・にも関わらず、足利尊氏が幕府に反旗をひるがえし、六波羅探題を攻撃した(5月9日参照>>)途端、道誉も立ち上がり、一緒に鎌倉幕府を倒してしまいます(5月22日参照>>)

そして、建武の新政(6月6日参照>>)となって後醍醐天皇のもとで、雑訴決断所(裁判所)の奉行に任ぜられますが、天皇と足利尊氏の仲がうまく行かなくなると、悩む尊氏の背中を押し、ともに今度は、天皇に反旗をひるがえします。

しかし、天皇の命を受けて尊氏追討にやってきた新田義貞(よしさだ)と戦って、負けそうになると、即、降参・・・新田軍の仲間となり、道案内までする親切さ。

なのに、また、足利軍が有利な展開になると、いきなり新田軍を襲って尊氏の味方をする・・・何とも、オモシロイ人です。

その要領の良さが功を奏したのか、足利幕府のもと出世していく道誉さん・・・出世とともに婆沙羅度もUPしまくります。

そして、婆沙羅度が最高潮に達した頃、事件は起こります。

暦応三年(1340年)10月道誉・秀綱父子一同、大騒ぎの派手派手鷹狩りを終えて帰る途中で、東山妙法院のあたりにさしかかった頃、あたりは一面の紅葉真っ盛りです。

あまりの美しさに、その真っ赤な一枝を部下に折らせてみたところ、その様子を見ていた僧が「御所内の紅葉を折るとは!どこのどいつじゃ!何さらしとんねん!」と騒ぎに・・・。

すると、道誉はひるむどころか「御所がなんぼのもんじゃい!」と、逆にもっと大きな枝を折らせようとします。

しかし、僧も負けてはいません。
部下の持っていた枝を奪い取り、殴りとばして門外へ放り出しました。

さぁ、大変!
怒り狂った道誉は、早速300人の手勢をかき集め、妙法院を襲撃
一斉に、火を放ちます。

その時、ちょうど行法の真っ最中だった僧たちは、てんやわんやの大騒ぎ。

逃げ惑う門主の若宮を見つけた息子・秀綱は、仲間数人とともに、殴る蹴るの暴行を加え重症を負わせる始末。

この出来事が真夜中だったため、火は四方に広がり、騒ぎの声は都中に響きわたって、在京の武士たちも「何事や!」と、うろたえまくったと言います。

この妙法院の門主が、北朝初代の光厳天皇の弟で、悪名高き僧兵をかかえる比叡山延暦寺の住職であった事から、事はさらに大きくなります。

比叡山の僧・宗徒たちは守護神・日吉神社を担ぎ出し「佐々木父子を死罪ににしろ!」と騒ぎ立てます。

日頃、自分たちこそ乱暴狼藉をはたらいている比叡山の僧兵たちに、内心「いい気味だ」と思っていた幕府も、あまりの騒ぎに動かないわけにはいかなくなり、しかたなく罪一等を減じて、道誉に上総(千葉県)への配流を言い渡します。

しかし、さすがは婆沙羅道誉、ここで「しもた~エライ事してもた~千葉へ流罪やて~」
と、うろたえるようなタマじゃありません。

ここは、腕の見せどころ。
むしろ、カッコよく流されなきゃ婆沙羅道誉の男がすたるっちゅーもんです。

配流先へのその道中は、前後300人の供侍を従え、各人には、当時、セレブのペットだったウグイスの籠を持たせます。

さらに、日吉神社の使いとされていた猿の皮で作った矢入れを一人一人に持たせ、同じく猿の皮で作った腰当てを尻に当てての大行進。

途中の休憩では酒盛りをし、宿に泊まれば遊女を呼んで飲めや唄えの大騒ぎ。

とてもじゃないが、流人の都落ちとは思えない行進だったとか・・・婆沙羅の本領発揮ってとこですね。

しかし、道誉は、結局、流刑地まで行かず途中で尊氏に呼び戻されます。

もちろん、それは、南北朝の対立真っ只中という政治情勢の中、尊氏にとって道誉は必要な人物だったからに他ならないのですが・・・。

そこで、帰ってきた道誉に、尊氏が一言・・・
「貴族以上の教養や風流を見につけて見返してやればいいじゃん。それが結果的に貴族に勝つって事じゃないの?」

どうしてもあらがえない貴族との身分の違いへの対抗意識で婆沙羅に走っている事を、同じ武士として、充分理解した上で、やさしく諭したのです。

「ガ~ン!」
佐々木道誉44歳・・・この尊氏の言葉で目が覚めます(44歳・・・遅っ!)

足利尊氏35歳(年下かい!)の、すべてを見通したこの一言で、道誉は乱暴狼藉の婆沙羅を捨て、風流の道へと進むのです。

あっちにひっつき、こっちにひっつきしたそれまでの人生も、この後は尊氏一本・・・生涯の味方となるのです。

人生、どこに転換期が訪れるか・・・わからないものですなぁ。

Momizidouyocc 今日のイラストは、
やはり、季節がら『紅葉に流水』・・・。

秋っぽい絵柄にしてみました~。
 .

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2007年10月11日 (木)

戦国の幕開け~北条早雲・伊豆討ち入り

 

延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)10月11日、北条早雲が足利将軍家の支族・堀越公方を攻撃し、滅亡させた戦い、世に言う『伊豆討ち入り』がありました。

支族とは言え、「将軍家が地方の一武将に滅ぼされた」という、まさに下克上・・・この『伊豆討ち入り』をもって戦国時代の幕開けと考える人も少なくありません。

・・・・・・・・・

先日から度々登場している鎌倉公方・・・「また、その話かよ!」と思われたかたは、次の区切りのところから読んでいただいても差し支えありませんがとりあえず・・・。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

室町幕府が都から離れた関東を支配するために、足利尊氏の次男・基氏を関東に派遣し、代々その基氏の家系が関東を治める鎌倉公方という役職を引き継ぎなす。

しかし、いつしかその鎌倉公方を中心に関東は、京都とは別の独立国家のようになっていき、その事を懸念した本家・室町幕府将軍の足利義教(よしのり)によって第4代公方・足利持氏の時に鎌倉公方は潰されてしまいます(2月10日参照>>)

その持氏の遺児・成氏が乱を起こし公方奪回を目指して旗揚げしますが、すでに、公方よりも力をつけた関東管領の前に鎌倉には入れず、古河(茨城県)に館を構え、勝手に『古河公方』を名乗り始めます。

当然、幕府は正統な公認の公方として義教の息子・政知(まさとも)を新たに派遣しますが、この公認の公方も鎌倉には入れず伊豆の堀越(ほりごえ)に館を構え『堀越公方』と名乗ります。

・・・とここまでは、先日の【第一次・国府台合戦~小弓公方の最期】(10月7日参照>>)と同じ・・・今日のお話はその『堀越公方』の滅亡のお話です。

・・・・・・・・・・・

延徳三年(1491年)4月、初代の堀越公方・足利政知が病死を遂げます。

彼には、嫡子・茶々丸と、側室・円徳院が産んだ潤童子(じゅんどうじ)という二人の子供がいましたが、この嫡男の茶々丸というのが、手に負えないワルで、あまりに凶暴なため、座敷牢のような所へ閉じ込め、幽閉生活をおくらせていました。

当然、政知の内心は、弟の潤童子に家督を継がせたいと思っていましたが、そのアクションを起さないまま、今回の病死となってしまったのです。

父の死を知った茶々丸は、幽閉されていた牢を脱出し、円徳院と潤童子を殺害・・・自力で家督を継ぎ、二代目・堀越公方を名乗り始めます。

父親が、扱いに困って牢に閉じ込めるくらいです。
この茶々丸さん、なかなかのキカン坊。

いき過ぎた行動を止めようとする譜代の重臣を斬り殺すわ、領民に法外な重税をかけるわで、またたく間に、家臣や領民から支持されなくなってしまいます。

そんなドタバタに乗じて、動き始めたのが、堀越のある伊豆とは地続きの隣国・駿河東部にいた北条早雲(ほうじょうそううん)です。

この頃、早雲は伊勢新九郎・・・と名乗っていましたが、実名が諸説ある人なので、今日は、北条早雲で通させていただきます。

当時、早雲は、姉(もしくは妹)北川殿が側室となっていた事をを頼って、駿河(静岡県東部)今川義忠契約社員のような形で仕えてから、北川殿の産んだ氏親(うじちか)を当主に据えるなどの功績によって(6月21日参照>>)興国寺城(静岡県沼津市)の城主に大抜擢されて四年ばかりの頃でした。

一城の主だけでは、まだまだ満足できない早雲にとって、隣国のドタバタ劇はラッキーチャンス!

延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)10月11日早雲は突如として堀越館を襲撃します。

『伊豆討ち入り』と呼ばれるこの合戦ですが、「突如」と感じたのは、あくまで茶々丸サイドからの印象・・・実は早雲自身は充分な策を練っていたのです。

この時期、関東管領の権力争いで、管領家・上杉氏同士の扇谷(おうぎがやつ)上杉山内上杉が合戦状態にあり、山内上杉氏が守護を務めていた伊豆の武士たちは、ほとんどがその合戦にかりだされていて残っているのは百姓ばかりの状態。

しかも、早雲は攻め込む前の偵察として、商人に身をやつして伊豆に潜入し、その地を調査するとともに、民百姓に様々な親切をしながら、「堀越公方が倒れれば、いかに生活が良くなるか」などの知恵を吹き込み、領民たちのハートをガッチリと掴んでいたのです。

襲撃当日は、氏親から大量の兵を借りるとともに、軍船などを駆使し、周到な作戦を決行しました。

茶々丸さん・・・いくら血気盛んでも、大器晩成・用意周到な戦国の梟雄(きょうゆう)にかかっては、もはやこれまで・・・戦いは早雲の圧勝となります。

負けた茶々丸は堀越館で自刃・・・と、言いたいところですが、年号同様、この茶々丸さんの死についても諸説あります。

堀越館では自刃せす、脱出して三浦氏を頼った後、翌・明応三年に再び攻められて自刃したという説。

深根城(静岡県下田市)関戸吉信を頼った後に、やはりもう一度、早雲に攻められて、明応七年(1498年)8月に自刃したという説など・・・(8月25日参照>>)

伊豆諸島に落ち延びて、明応四年(1495年)に富士山に登った(なぜ、登る?)という説までありますが、いずれにしても、堀越館は、この日、早雲の攻撃を受けて堀越公方は滅亡したのです。

ここで、伊豆一国を手に入れた早雲は、今川おかかえの一武将から戦国大名にのし上がり、乱世という大きな歴史の舞台で名乗りを挙げ、次は、いよいよ、あの小田原城奪取(2月16日参照>>)へと向かいます。
 

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2007年10月10日 (水)

乱世の梟雄・松永久秀~運命の10月10日爆死!

 

天正五年(1577年)10月10日は、織田信長に攻められた松永久秀が自害しました。

・・・・・・・・・

「こいつは、普通の人間なら恐ろしくてやれない事を3つもやった。
一つは、主人殺し。
一つは、将軍殺し。
もう一つは、大仏を焼き払った」

ある正月の年賀の酒宴の時、こう言って信長は、家臣・松永久秀を、徳川家康に紹介したのです。

あの「神仏をも恐れぬ魔王」と言われた織田信長に、このような事を言わせ、あのルイス・フロイスからは「天下の支配者」と評され、後世には「乱世の梟雄(きょうゆう)と称される松永久秀(まつながひさひで)・・・彼は、戦国乱世において、斉藤道三と並び称される下克上を成した人物です。

そんな彼ですから、当然のごとく、その氏素性は、まったくの不明です。

若い頃は、斉藤道三と同じく、「油売り」の行商をしていたというところから山城(京都府)出身・・・という説と、阿波細川氏の執事であった三好長慶(ながよし)に仕えた20歳頃から歴史上に登場する事から、阿波(徳島県)出身とする説があります。

とにかく、彼は、文才があり、弁が立ち、頭の回転が良い・・・と3拍子揃った優秀さで、長慶の秘書的役割を果たしていました。

長慶が畿内に勢力を広げるようになると、久秀は京都所司代という役職に着きますが、もうすでに、この頃から室町13代将軍・足利義輝とは、仲が悪かったという噂もチラホラ・・・。

やがて、永禄六年(1563年)8月、長慶の一人息子・義興(よしおき)毒殺・・・翌年5月には、長慶の片腕であった弟・安宅冬康(あたかふゆやす)謀反の疑いがあると長慶にチクリ、それを信じた長慶は、弟を斬殺(5月9日参照>>)

しかし、その後、それが根も葉もない事であったと知り、愕然とする長慶・・・失意の主君をこれまた2ヶ月後に毒殺。

そして、このドサクサに乗じて三好党を潰そうと企てた将軍・義輝を、永禄八年(1565年)に三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)とともに襲撃して暗殺してしまいます(5月19日参照>>)

しかし、この三好三人衆とも、三好党内での権力争いによって対立し、永禄十年(1567年)10月10日奈良にて衝突!・・・大仏殿を焼失させる火事を起してしまいます(2018年10月10日参照>>)

・・・と、これらの出来事によって、久秀は天下の大悪党と噂される事になるのですが、実のところ、これらの一連の出来事に久秀が、どこまで関わっていたのか?首謀者だったのか?については、かなり疑わしい部分もあります。

最初の三好家の毒殺うんぬん・・・いわゆる「主人殺し」では、三人が死んで、一番得をしたのが久秀だったために、このような噂になっただけで、証拠らしい証拠はありません。

息子の死も、22歳という若さのために怪しい・・・となりますが、単なる病死である可能性もありますし、弟の謀反をチクッったのも、別の誰かかもしれません。

そして、二人を立て続けに亡くした長慶が、生きる気力を失って勝手に病死した事も無いとは言えません。

次の、「将軍殺し」も・・・
当時、久秀はあくまで三好家の家臣・・・主導権を握っていたのは三好三人衆のほうで、事実、二条御所(武衛陣御所)への襲撃には、久秀の息子・久通(ひさみち)は出陣していますが、彼自身は現場に行っていない可能性もあるのです。

そして、3番目の「大仏炎上」・・・
これも、久秀が火を付けたと書いているのは『信長公記』のみで、その他、数種ある文献には、すべて「三好党による失火」となっています。

源平の合戦の時に、大仏を炎上させてしまった(これも本当は失火とされます)平重衡(3月10日参照>>)が、あれだけボロクソに言われたのは、誰だって知ってますから、三好党も、もちろん久秀も、わざと大仏殿に火を放つとはとても考え難い事なのではないでしょうか。

少し、大悪党の汚名を晴らした感のある久秀さんですが、この東大寺付近の戦いに勝利して、「いざ!天下を狙える位置に・・」と、思った矢先の永禄十一年(1568年)、亡き義輝の弟・足利義昭を奉じて織田信長が上洛してきます(9月7日参照>>)

Tukumonasunotyairecc さすがの久秀も、昇り調子の信長が6万という大軍を率いての上洛には、「今、反発するのは得策では無い」と考え、名器と名高い作物茄子(つくもなす)という茶入れを献上し、ちゃっかりと信長の傘下に収まり、その助力を得て、三好三人衆を京の町から追い出す事に成功します。

しかし、もともと野心満々の久秀・・・
元亀二年(1571年)、甲斐(山梨県)武田信玄と通じて、信長に反旗をひるがえしますが、頼みの綱だった信玄は上洛の途中で亡くなるという事態に・・・。

すると、久秀はあっさりと信長に降伏し、またまた傘下となって石山本願寺戦などで大活躍します。

そして、天正元年(1573年)、信長に反旗をひるがえした将軍・義昭(7月18日参照>>)とともに戦いを挑み、あえなく失敗・・・またまた降伏して信長の傘下に逆戻り。

やがて訪れた天正五年(1577年)。
越後(新潟県)上杉謙信「打倒!信長」の兵を挙げた事を聞くと、またまた反旗をひるがえし信貴山城に立てこもります。

しかし、いつまでたっても謙信は上洛せず、信貴山城は、信長の数万の兵に包囲され絶体絶命のピンチ!(くわしくは10月3日参照>>)

すると、信長は、「今回の事、許してあげるから、君の持ってる平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜をちょーだい」と、秘蔵の名器を要求します。

・・・て、ゆーか、「茶釜渡したら、またまた許すんかい!信長さん!」って突っ込みたくなるくらい、久秀には寛大だな~。

ところが、ところが、今まで何度も、降伏して再び信長傘下に収まっていた久秀さん・・・今回は、頑としてその要求をはねつけます。

死を覚悟した久秀は、「持病の中風の発作が出て、カッコ悪い死に方になってはいけない」との考えから、発作を封じるため頭のてっぺんにお灸を据えました。

そして、信長が欲しくてたまらない平蜘蛛の茶釜を、「死んでも放すもんか!」と、鎖で首にくくりつけ、居城・信貴山城にて、壮絶な爆死を遂げます。

天正五年(1577年)、奇しくも、あの大仏炎上と同じ10月10日の事でした。

それにしても、死を目の前にしてのお灸の話や、放すまいと鎖で縛り付けた上、茶釜を懐に抱えての壮絶な爆死とは・・・。

そんな死に様を見るとき、冒頭に書いた信長の言葉=天下の大悪党は、ひょっとして久秀さんにとっては褒め言葉なのかも?

もし、あの世の久秀さんとお話できたら、きっと彼は「死ぬか?生きるか?取るか?取られるか?の戦国乱世で大悪党とは、むしろ勲章だ」と、笑って話してくれるような気がします。

Matunagahisahidecc 今日のイラストは、
当然、『乱世の梟雄・松永久秀』!

アカン!茶釜がお釜に見えるがな~しかも、茶釜の蓋、描くの忘れたし・・・
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2007年10月 9日 (火)

「金毘羅?」「金刀比羅?」~こんぴらさんのお話

 

♪金毘羅(こんぴら)船々 追い手に帆かけて
 シュラシュシュシュ
 回れば四国は讃州
(さんしゅう)那珂郡(なかのごおり)
 
象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現(だいごんげん)
 
一度回れば・・・
 金毘羅船々 追い手に帆かけて
 シュラシュシュシュ  ・・・♪

これは、江戸末期から明治の初めに大ヒットした歌で、私の頃はたしか音楽の教科書にも載っていたはず・・・。

この歌の大ヒットのおかげで金毘羅(こんぴら)さんという呼び方をされる事が圧倒的に多いのでしょうが、全国に約600社ある金毘羅神社琴平(ことひら)神社金刀比羅(ことひら)神社などの本源である香川県に鎮座する神社の正式名称『金刀比羅宮(ことひらぐう)と言います。

今日10月9日は、そんな金刀比羅宮の大祭・・・という事で、今日は金毘羅さんについてのお話を・・・

正式名称・・・なんて書きましたが、もちろん金毘羅さんと呼んでも怒られはしないと思います。

なんせ、もともと創建当時は「金毘羅大権現」と称していたのが、途中で琴平神社に変わり、次に金刀比羅宮となって、さらに明治の初めに事比羅宮・・・

そして、明治二十二年(1889年)に、またまた金刀比羅宮に改名して現在に至る・・・という風に神社名自体が、コロコロ変っているんです。

金毘羅とはサンスクリットクンビーラ(Kum-bhira)の漢訳で、ガンジス川に生息する(わに)を神格化したものです。

仏教では薬師如来に従う十二神将のひとり・宮毘羅(くびら)大将

鰐神は、竜王(竜神)海神として、海難防止の祈願をしたり、雨乞いをしたりという水にまつわる神様・・・という事で、この信仰が日本に伝わり金毘羅大権現として、航海の安全を願う神様となったのです。

平安時代の初期に象頭山金光院松尾寺という薬師如来を信仰する真言宗のお寺が、象頭山に金毘羅神を祀ったのが始まりだと言われていますが、長い間、社務を兼務していた松尾寺が、明治になり、神仏分離令が出て神社とお寺が分かれる事になります。

お寺と分かれた神社の祭神は、廃仏の嵐の中、仏教関連の神・金毘羅神から、記紀神話に登場する神に変るのです。

実は、先ほどの改名は、この時の生き残りのための改名だったのですね。

そして、現在の社伝によれば、大物主神(おおものぬしのかみ)が、琴平山(象頭山)に本拠を置いて、中国・四国・九州地方を治めたのが神社の始まりとされています。

・・・なので、現在の祭神は大物主神

この大物主神は先日書かせていただいた『運命の赤い糸の伝説』(8月21日参照>>)の神様で、『日本書紀』では大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名だとされています。

そして、もう一人・・・崇徳天皇が祀られています
・・・って、出た~!また、ここでも祀られている崇徳天皇(8月26日参照>>)

崇徳天皇の配流先が讃岐(香川県)白峯であった事もあって、生前、この金毘羅大権現を崇拝していたのだとか。

失意のまま亡くなった翌年の永万元年(1165年)には、金刀比羅宮に合祀されています。

さすがは、日本三大怨霊の一人・・・よっぽど、皆さん怖かったんですね~神様になるスピードが早っ!って感じです。

江戸時代には、伊勢神宮と並んで、「一生に一度はお参りすべき」とされていた金毘羅さん・・・名前が変ろうが祭神が変ろうが、金毘羅詣でをする老若男女が、航海の安全を願う気持ちには変りはありません。

参拝者は785段の石段を登り、象頭山の中腹にある本殿にお参りをします。

さらに奥の山上には奥宮・・・その向うには、国の天然記念物に指定された北限の樟(くすのき)の生育地が広がるとか・・・。

遠い昔・・・まだ子供だったために、上まで登れなかったくやしさが、今、よみがえって来ました~。
もう一度、挑戦してみたくなりましたね。

今度は、年のとり過ぎで登れなかったりして・・・。
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2007年10月 8日 (月)

世界最古の入れ歯は日本製?~今日は入れ歯の日

 

10月8日は、「1(い)0(れ)8(ば)の語呂合わせで『入れ歯の日』なのだそうで、本日は「入れ歯の歴史」について・・・。

入れ歯」とおぼしき物は、古代エジプトの遺跡からも発掘されているそうです。

「ミイラに義歯らしき物がはめられていた」というのですが、はたして、これが今で言うところの入れ歯に当たるのかどうかは、不明・・・儀式に使用したり、装飾として使用されていた可能性は大いにありますからね。

そういう点では、スイスの畑から発見された15世紀末の骨でできた義歯・・・というのが、最古らしいという事になってそうですが、これも、実際に装着して食事をするというのは不可能な物で、上下を側線で結んであったものの、口にふくんで見栄えを良くするための、美容上の物だったということです。

・・・って事で、近代的な、いわゆる「総入れ歯」なる物が製作され、装着が成功した例は、「近世歯科医学の父」と呼ばれるピエール・フォーシャールというフランス人が、1737年に歯を失った60歳の貴婦人のために作った上顎義歯が、第1号だとされていますが、どうして、どうして、実は、入れ歯の歴史に関しては、日本がかなりの先進国のようです。

Irebanohicc 実は、天文七年(1538年)4月20日に74歳で亡くなった和歌山願成寺というお寺の尼僧だった仏姫が使用していた「木製の総入れ歯」というのが現存します。

形は、現在の総入れ歯とほとんどかわらない物で、磨り減っている部分が確認できる事から、実際に使用して、物を食べていた事もわかっているそうです。

しかし、全体が、黄楊(つげ)の木でできている・・・つまり、木を、入れ歯の形に彫刻した物ですから、ちょっと痛そうな気はしないでもありませんが、複雑な顎や歯茎の形、歯の形を見事に彫り上げる日本人の技術の素晴らしさには感動モンです。

天文・・・と言えば、天文十二年(1543年)に、あの種子島の鉄砲伝来(8月25日参照>>)がありますから、まさに戦国真っ只中!

天文十八年(1549年)に来日した、あのフランシスコ・ザビエルが、眼鏡をかけていたことで、人々は「バテレンは目が四ツある」と驚いたと言いますが、この木製の入れ歯をザビエルが見ていたら、逆に驚いたに違いありませんよね~。

そして、日本の入れ歯の最先端技術は、当然、この先もどんどん進歩していきます。

東京の広徳寺にある柳生宗冬さんのお墓から、遺体とともに上下顎の総入れ歯が発見されたのですが、これは、寛永十二年(1635年)に、口中医として活躍していた小野玄人さんが製作した物で、技術的にも極めてすぐれた逸品だそうです(9月29日参照>>)

床の部分はやはり黄楊でできていて、歯の部分は天然歯象牙ろう石獣歯黒柿などを駆使して作られています。

仏姫の場合もそうですが、口中に直接触れる部分の材料に黄楊が使われているのは、黄楊は割れにくく、それでいて彫刻がしやすく、肌触りも良いのだそうです。
(黄楊と言えばくしを思い出してしまいますが・・・)

しかも、その黄楊を、24時間煮て、さらに水中に保存した物を使用したそうで、意外と思っているほど痛くないかもしれませんね。

「食紅などを使って、噛みあわせも調節していた」というから、たいしたモンですね~。

江戸時代には、口中医とはっきりと区別された「入れ歯技師」という職業がりっぱに認知されていて、入れ歯は庶民にも広く流通していました。

『南総里見八犬伝』で有名なあの滝沢馬琴も、自身の日記の中で「今日は入れ歯を修理してもらった」なんて事を書いています。

さすがに、こういう細かな技術というのは、昔から日本が最先端だったんですよね~。
ちょっとうれしくなりました~。
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2007年10月 7日 (日)

第一次・国府台合戦~小弓公方の最期

 

天文七年(1538年)10月7日、室町将軍の支族である足利義明と、安房の戦国大名・里見義堯が、相模の戦国大名・北条氏綱国府台で戦った『第一次・国府台合戦』がありました

・・・・・・・・・

先日も立河原合戦(9月27日参照>>>)のところでチョコッと書かせていただきましたが、足利尊氏が開いた室町幕府・・・関東中心の武士たちが、京都で幕府を開いたために、留守になりがちな地元・関東を支配するための鎌倉公方関東管領という新たな役職を設けます。

しかし、なんせ、京都と鎌倉という遠い距離・・・当時の通信システムでは、常に睨みを利かせておくなど、到底ムリな事で、しだいに関東は鎌倉公方中心の独立国家のようになっていきます。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

その鎌倉公方の役を代々引き継いでいたのが、尊氏の次男・足利基氏の子孫たち。

やがて、永享十年(1439年)に、関東の独立ぶりに危機感を感じた本家将軍・足利義教(よしのり)によって、公方は足利持氏の代に潰されてしまします(2018年2月10日参照>>)

しかし、その持氏の遺児・足利成氏が乱を起こし、公方職を奪回しようと関東の諸豪族と戦いますが、鎌倉へは入る事ができず、古河という場所で、『古河公方(こがくぼう)を名乗り、徐々に関東一帯に勢力を伸ばしはじめます

もちろん、これは幕府の認可を受けた正式な公方ではありませんから、当然、幕府は正式な鎌倉公方を派遣しますが、この正式な公方も、もはや独立国家と化した鎌倉には入れず、伊豆の堀越に居を構え『堀越公方』と呼ばれます。

こうして、一時期、二人いた公方も、下克上激しい戦国時代、堀越公方が北条早雲に滅ぼされ(10月11日参照>>)、残ったのが古河公方・・・。

この古河公方の3代目・足利高基の時の後継者争いで、兄と弟が対立・・・その弟のほうが、今日の主役・足利義明(よしあき)です。

メッチャ前置きが長くなりましたが、足利義明さんが誰かわかっていただけましたでしょうか・・・。

この義明が、結局、兄とは決着がつかず、対立したまま下総・小弓(おゆみ・千葉市)に館を構え、そこを『小弓御所』と呼び、これまた無認可のさらに無認可となる『小弓公方』を名乗っていたのです。

そんな義明さん、やっぱり最終目標は鎌倉を手に入れて、名実ともに本来の『鎌倉公方』を名乗りたい。

しかし、そんな時に鎌倉を占領し、武蔵江戸城(東京都・千代田区)まで進出してきたのは、相模(神奈川県)の戦国大名・北条氏綱です。

もともと小弓に自分を迎え入れてくれた上総(千葉県北部)真理谷氏と、隣国・安房(千葉県南部)の戦国大名・里見義堯(よしたか)の協力を得た義明は、天文七年(1538年)秋、この房総の軍勢を率いて、武蔵(東京・神奈川)に進攻し、北条氏を倒す決意を固めます。

足利・里見連合軍となった軍勢は、下総から武蔵への玄関口で交通の要所であった江戸川の東岸国府台(こうのだい・千葉県市川市)に陣を立てます。

兵は、わずか千・・・まだ全軍が到着しきれていない状況であるにも関わらず、心がはやる義明は、すぐにでも江戸川を渡ろうとする構えです。

一方の北条氏綱が、居城・小田原城で、この義明らの行動を知ったのは10月2日・・・氏綱は、負けじとばかりに、すぐに、小田原城を出陣します。

一旦、江戸城に入城し、軍勢と態勢を整えた後、10月5には江戸城を出発し、国府台近郊に到着します。

北条の軍勢は、2万・・・と言われていますが、これはちょっとオーバーで、現在では、本当は5千くらいだったであろうとされていますが、それでも足利・里見連合軍の5倍の数です。

やがて、足利・里見連合軍の軍儀の結果、兵の数の差を埋めるためにも、北条勢が江戸川を渡岸中に攻撃を仕掛ける事に決定しますが、義明は、これがど~も気に食わないのです。

将軍家のプライドというのでしょうか・・・「将軍家に対して弓を引くはずがない」という気持ちと、「将軍家の自分がセコイ手段で勝ちたくない」という気持ちが相まって、軍儀の決定をくつがえし、独断で、北条勢が川を渡り、上陸してから攻撃を開始する事に変更をさせてしまいます。

おかげでヤルき満々の義明が、「俺が先頭切って、やったる!」と意気込んで、北条が上陸するであろう川べりの最前線に、義明の陣。

里見はそのずっと後方に、しかも、ヤバくなれば、いつでも安房方面に逃げられる位置に、後方支援のような形で陣取るという、奇妙な陣の配置。
(普通、大将が後ですからね)

かくして天文七年(1538年)10月7日いよいよ北条勢が川を渡りはじめ、決戦の火蓋が切られました。

最初こそ、イイ勝負をした連合軍でしたが、やはり、まともに戦えば、数の差は埋めようもなく・・・徐々に負けの色が濃くなる連合軍。

その時です!
敗戦の色を払拭すべく、予告通り、自らが最前線にたって北条軍に突進していく義明・・・。

しかし、北条側には、踊り出たその大将にキリキリと照準を合わせる弓の名手が・・・。

北条きっての弓の達人・横井神助(しんすけ)放った矢は、見事、義明の胸板を射抜きます。

連合軍の総大将=義明は、呆気なく討ち取られてしまいました。

この様子を見ていた後方の里見勢は、戦う事なく戦線を離脱し、自国の方面へと撤退を始めます。

義明直属の足利軍の将兵たちも、次々と戦場を去って行き、結局、そのまま北条へ勝利が転がり込んで来た形となりました。

その後、氏綱は、小弓御所を押さえ、義明を支援していた真理谷城真理谷信応を降伏に追い込み、下総をも北条の手中に収めます。

そして、安房に逃げ帰った里見勢も、この合戦が無かったかのように、なりをひそめてしまいます。

しかし、北条VS里見のしこりが無くなったわけではありません。

戦いは30年後・・・それぞれの息子たちによって、再びこの国府台で火蓋が切られる事になるのですが、そのお話はやはり第二次・国府台合戦のあった1月8日のページでどうぞ>>

★この日、父・義明が亡くなった事で、里見家に引き取られた姫と、里見家の嫡男・義弘の恋のお話:【逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼】もどうぞ>>>
 

Kounodaiyosiakicc 今日のイラストは、
『国府台に散った足利義明』さんを・・・。

足利義明さんの、人物像のイメージがつかめず、肖像画か何かないものか?と、ググってみれば、逆に「もしかして足利義昭?」と聞かれる始末・・・
それは、15代将軍だっつーの!

結局、シルエットになってしまいました~秋らしく、江戸川の川面に紅葉を散らしてはみましたが・・・。
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2007年10月 6日 (土)

三増峠の戦い~武田VS後北条

 

永禄十二年(1569年)10月6日、帰国途中の武田信玄の軍を、北条氏輝三増峠にて奇襲した『三増峠の戦い』がありました。

・・・・・・・・・・・

甲斐(山梨県)武田氏駿河(静岡県・東部)今川氏相模(神奈川県)後北条氏は、血縁者同士の婚姻などで、長く三国同盟を結んでいました。

永禄三年(1560年)に起こった、あの桶狭間の戦い(5月19日参照>>)で、駿河の今川義元織田信長に討たれはしたものの、その後、義元の嫡子・氏真が今川氏を継ぎ、その氏真の母(義元の正室)が、武田信玄の妹であった事もあり、武田と今川の同盟は、しばらくの間は続いていました。

しかし、義元という大きな柱を失うと同時に、氏真の失政も重なって、今川氏は徐々に弱体化してしまいます。

それをチャンスと見た信玄は、永禄七年(1568年)12月に突然、同盟を破棄し、駿河に攻め込み、氏真は逃亡(12月27日参照>>)・・・駿河は、信玄の物となります。

当然、この信玄の行動には、同盟を結んでいたもう一国・相模の後北条氏も、警戒の態度をあらわにし、兵を動かそうとしますが、結局、直後の衝突には至りませんでした。

翌・永禄十二年(1569年)、信玄は、相模に遠征を開始します。

戒の意味があったのか?相手の出方を見ていたのか?・・・
なぜかこの時、信玄は、甲斐を出て、信濃(長野県)を回り、上野(群馬県)を経て、武蔵(埼玉県・東京都)から相模へと入ります。

さらに、後北条氏の支城である鉢形城(埼玉県)滝山城(東京・八王子市)に睨みをきかせながら南へと下り、10月1日、いよいよ後北条氏の本拠地・小田原城を包囲したのです。

しかし、北条側は、お得意の籠城作戦を決行・・・なんせ、北条の小田原城は、鉄壁の要塞ですから・・・

永禄四年(1561年)に上杉謙信が攻めてきた時も、この鉄壁の小田原城で籠城して成功・・・謙信は城を落とすことなく、撤退しました。

そして、今度も・・・。
結局、小田原城を攻めあぐねた信玄は、兵を引き揚げ、帰国の途につきます。

この信玄の撤退を、待っていたかのように追撃を開始する北条・・・。

かくして永禄十二年(1569年)10月6日北条氏輝・氏邦らが率いる2万の軍勢が、要所である三増(みませ)峠にて、帰国途中の武田軍に奇襲をかけます。

その間に、先の小田原城からは、北条氏政率いる本隊が、援軍として駆けつける手はずになっていました。

勢いづく北条軍・・・迎える武田軍も、同等の2万の軍勢を率いていましたが、戦況は北条有利に展開します。

山岳地帯での合戦には、自慢の騎馬隊も役に立ちません。

信玄ピ~ンチ!

しかし、信玄は、すでに周囲に忍者を派遣し、北条の動きはすべてお見通し。

山県昌景(やまがたまさかげ)らを別働隊として、三増峠の南西の志田峠に回らせていました。

Mimasetougenotatakaizucc 画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

別働隊は、山岳地帯特有の地形を活かし、氏輝らの後方の高所へと回りこみ、その後一気に下り、敵の背後を突きます。

別働隊の攻撃により、戦況は一転します。
しかも、この時、信玄はかなりの数の鉄砲を用意していたと言います。

あの、長篠の合戦(5月21日参照>>)の6年も前にです。

長篠の合戦では、「織田信長の鉄砲隊に対して、武田の騎馬隊がなす術もなく・・・武田は鉄砲を持ってないのか?」といった印象を受けがちですが、どうしてどうして、すでに、ここで信玄が鉄砲隊を用意していたのです。

追い詰められた北条軍には、小田原城からの援軍も未だ到着せず、津久井城に控えていた守備隊は、武田の別働隊に阻まれ、救援に出る事もできませんでした。

討死した北条軍の将兵の数は、3千2百を数えたと言います。

しかし、こういうふうに書くと、何やら、武田軍の圧勝のような印象を受けますが、結果を見る限りでは、この三増峠での戦いは「引き分け」という事になります。

間に合わなかったせいもあって、北条軍の本隊はまったく傷ついていませんし、はっきりとした数はわからないものの、武田軍にもかなりの死傷者が出ていたようです。
(最初のうち北条が有利でしたからね)

結局、両者、傷みわけとなって、2ヵ月後、今川氏の領地だった駿河をめぐって、武田と北条は、再び、静岡の薩埵(さつた)で相まみえる事になるのですが、そのお話は12月6日のページでどうぞ>>
 

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2007年10月 5日 (金)

ダルマさんのご命日

 

10月5日は、『達磨忌』
あの縁起物のダルマさんのモデルである達磨大師(だるまたいし)ご命日です。
(マグマ大使じゃないゾ!)

お亡くなりになった年は、はっきりわかりませんが、大体、西暦528年頃だそうです。

年がわからないのに、日にちがわかるっつーのも「ん?」って気がしないではありませんが、まぁ詮索はやめときましょう。

達磨大師は、別名・円覚大師とも呼ばれ、インド・バラモン王国の王子として生まれました。

いつしか、仏教を志すようになり、ある日突然、辺地への布教を思い立って、海路、中国北部のに向かいます。

各地で、禅の布教活動を行いながら、洛陽東方の崇山(すうざん)少林寺に到着。
(少林寺は、拳法で有名なアノ少林寺です)

ここで、少し落ち着き、しばらく滞在するのですが、この時、壁観(へきかん)という、長時間、壁に向かって坐禅を組む修行を行い、「心は本来、清浄なものである」という悟りを開くのです。

この壁観の修行の話が『面壁九年』・・・つまり9年間坐禅を組んでたという坐禅伝説として伝わり、その時の姿が、手足を出さず、ジ~っと座り続けるあのダルマさんの像となったわけです。

それで、「七転八起」などに代表されるように、ダルマさんには、忍耐・・・じっと我慢して頑張れば、いずれ必ず成功する・・・といった思いが込められ、選挙事務所に置かれているあの縁起物の張子のダルマさんの誕生となるのです。

願いを込めて、ダルマさんの片目を墨で書いて、願いが叶ったら、もう一方に目を入れるというアレです。

ただし、張子のダルマさんは日本独特の物で、他の国にはありません。

赤い色は、高僧が身につける緋の衣を表しているとも言われていますが、もともと日本には、神代の昔から、赤い色は魔よけの色とされていたので(8月21日参照>>)、その意味も込められているようです。

ですから、あの張子のダルマ像は、昔は、目標達成の縁起物・・・というよりも、魔よけとして病気見舞いなどに、よく用いられていたようで、疱瘡(ほうそう)麻疹(はしか)を治す守護神とされていました。

♪残念さ 孫は達磨を 供(とも)に連れ♪
という古い川柳もあるようで、これは、「孫が病気で死んで、棺おけの中に達磨を一緒に入れる」という事だそうです。

今とは随分と違う使われ方をしてるのがわかりますね。
疱瘡や麻疹というのは、昔の子供にとって命取りとなる病気でしたからね。

ところで、少林寺で悟りを開いた達磨大師は、その後、中国禅法の基礎を築き、禅宗の第一祖として仰がれる事になります。

達磨大師の教えは、その後、北宗禅南宗禅に分かれ、その南宗禅が、さらに五家七宗に分かれて、そのうちの一つである臨済宗(りんざいしゅう)印可(いんか・お墨付き)を貰った栄西上人(千光国師)が、建久二年(1191年)お茶とともに中国から持ち帰り、日本に根付いたのです。(10月31日参照>>)

ところで、まったくの余談ですが、達磨さんと言えば、あの『ダルマさんがころんだ』という遊び・・・。

私が子供の頃は、『最初の第一歩』と呼んでいました。
もちろん、大阪ですから、十を数える数え方は「ぼんさんがへをこいた」で、ダルマさんのダの字も無い遊びでした。

しかし、いつの頃からか、『ダルマさんがころんだ』という言い方が全国ネットになって、最近では大阪の子も、あの遊びの事を『ダルマさんがころんだ』と呼ぶみたいです。

でも、数え方はやっぱり「ぼんさんがへをこいた」なんですよね~。

これは、やっぱ、「ダルマさんがころんだ」より「ぼんさんがへをこいた」のほうが秒数的に早く終るからだと思うんですけど・・・。

「ぼんさんがへをこいた」で十を数える場合、「ん」の部分は実質的には、ほとんど発音しませんから、実際には八文字分しか数えない事になり、絶対こっちのほうが早い!

昨日、「県民性何たらという番組で、大阪は日本一『いらち(せっかち)だと言ってましたが、たとえ遊びの名前が『ダルマさんがころんだ』に変わっても、数え方が「ぼんさんがへをこいた」のままだというところに、何となくその県民性を感じた気がしました。

・・・と、話がメチャメチャそれてしまいましたが、今日は達磨大師のご命日です。

Darumacc 今日のイラストは、
やっぱ『ダルマさん』でしょう。

このブログの発展・・・という願いを込めて、片目だけ入れてみました~。
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2007年10月 4日 (木)

汚名を晴らしてあげたい歴史上の人物は誰ですか?

 

先日より、左サイドバーて展開させていただいていました『あなたが汚名を晴らしてあげたい歴史上の人物は誰ですか?』のアンケートにたくさんの回答をいただきありがとうございました~。

では、早速アンケートの結果を・・・ジャジャ~ン!

得票数
蘇我入鹿 14
梶原景時 6
今川義元 2
武田勝頼 5
築山殿 1
豊臣秀次 3
松永久秀 2
明智光秀 12
徳川綱吉 0
吉良上野介 9
井伊直弼 3

お見事!蘇我入鹿さん・・・て、感じですね~。

なんせ、入鹿さんの場合は、名前までも変えられちゃってますから・・・。
しかも、悪い事をした・・・ていうのも、藤原(中臣)氏にとっての悪い事ですからね~。

「歴史は勝者が造るもの」というのは、いつの世も常ですが、藤原氏は「歴史の流れ」そのものを変えてしまった形跡もありますから、やはり、入鹿さんの一位は、皆さん納得の結果・・・というところでしょうね。

続いて二位の明智光秀さん。
前回の『あなたが織田信長なら誰にバトンを渡しますか?』(9月13日参照>>)のアンケートでも、実力の後継者である豊臣秀吉さん、血縁の後継者である織田信雄さんに次いで、堂々の第三位・・・死に追いやった当事者である事を考えると、この三位というのはスゴイ!

今回も、やはり、その人気は衰えませんでしたね~。
こんだけ人気があるという事は、もう、充分、その汚名は晴らされているんじゃないかとも思いますね。

次に、第三位の吉良上野介さん。
アンケートを貼った初日、わずか2時間足らずで、4票入った時には、「どこまで伸びるんだ?」と思いましたが、後半、少し伸び悩みになってしまいました。

それでも、堂々の第三位。
最近は、あまり見なくなった忠臣蔵ですが、お芝居ではかなりの悪役・・・「フナじゃ、フナじゃ、フナざむらいじゃ!」の、憎たらしさ満載の名ゼリフ。

しかし、お芝居とはうらはらに、地元では評判の名君であったのは、もう、たくさんの人がご存知で、汚名は返上できてるのではないかと思います。

続いて、四位の梶原景時さんと、五位の武田勝頼さん。
こちらも、「義経に対しての悪役」と、「信玄に対してのひきたて役」というのは、もう皆さんご存知で、「ひとりの武将」として見た場合、二人ともがかなりの実力を持った人である事は明白です。

ただ、どちらも、比較される相手が、あまりにもスゴかったって事ですね~。

そして、同率六位の豊臣秀次さんと井伊直弼さん、八位の松永久秀さん。
このあたりは、そのワルさぶりも、ちょっとマイナーでしたかね。

今川義元さんに関しても、「海道一の弓取り」と、呼ばれていた事は有名ですし、今年の大河ではイケメン谷原さんが演じておられるので、カッコ悪いのは、あの桶狭間の一場面だけですからね。

築山殿は紅一点なので、もう少し頑張っていただきたかったですが残念です。
ただ、夫の家康さん自身が清廉潔白に人ではなさそうなので、そんな人が「アイツは悪い女だ」と言っても、信用する人も少ないでしょうからね。

最後、徳川綱吉さん。
残念でしたね~「お犬様」も、もはや、影が薄い・・・って感じですかね。

「汚名を晴らしたい!」とは言え、人気投票みたいなモンですからね。
・・・って事は、蘇我入鹿さん、以外に人気者なのかも・・・

とにかく、蘇我入鹿さんCongratulations!でした~
ご回答していただいた皆様、ありがとうございました。

・・・で、次のアンケートは、『あなたが斉藤道三なら、かわいい娘の貴蝶さんの婿殿に誰を取りますか?』という、お遊び感覚のアンケートです。

婚約が整い、婿入りの儀式のために美濃にやって来た15歳の信長を見た斉藤道三が、一目で息子との器の違いを確信し、「わが国は婿殿の引き出物になるだろう」と言ったという有名な話があります。

その逸話から思いついたアンケートなんですが、エントリーメンバーの年齢と、道三の娘・貴蝶(濃姫)の年齢などをまじめに考えると、ありえない空想の話で、細かなご指摘、お叱りも、ごもっともですが、年齢差・妻帯者などは考えないで、あくまでその人の器量みたいなもので、楽しんで選んでみて下さい。
(ルイス・フロイスはおもしろそうなので、入れてみました)

ぜひぜひ、また、ご協力をお願いします。
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2007年10月 3日 (水)

アユタヤの戦士・山田長政は実在したか?

 

寛永六年(1629年)10月3日、江戸幕府山田長政に朱印状を交付・・・シャム(現在のタイ)との交易を許可しました。

・・・・・・・・・・

山田長政は、海外で活躍する日本人の先駆けといった存在。

彼は、初め、沼津で、領主・大久保忠佐(ただすけ)かごかきをしていた・・・という事ですが、その後、慶長十六年(1611年)頃に朱印船でシャムに渡ります。

現地の日本人傭兵隊に加わった事で、その戦士としての素質が開花し、日本人町の町長になります。

その後、やはりその戦闘能力の高さを気に入ったシャム国王・ソンタムから厚い信頼を寄せられるようになり、当時の最高官位であるオヤ・セナピモクまで譲られます。

しかし、そのソンタム王が亡くなると、王子と王の弟との間で、王位継承の争いが勃発し、その争いの後、王子側についていた長政は、権力を握った王弟の命令で抗争中の隣国・パタニとの最前線に左遷されてしまいます。

寛永七年(1630年)、そのパタニとの戦闘中に、足を負傷した長政は、王弟の命令を受けていたシャム人から、治療と称して傷口に毒を塗られて死亡するのです。

その後、長政の死によって「日本人が反乱を起す」との噂が立ち、恐れたアラビア人やタイ族・華僑によってアユタヤの日本人町は焼き尽くされてしまいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・

以上が、一般的に知られている山田長政の話ですが、お察しの通り、かなり謎に包まれた人物像で、タイ南部の王国の王であったという話から、架空の人物説まで、様々に取りざたされています。

・・・と、いうのも、現在伝えられている長政の事が書かれた文献は、後世に書かれた物が多く、歴史書というよりは、歴史小説に近い物で、その内容は伝説の域を超えないものとなっています。

加えて、タイやオランダの文献には、山田長政の名前がまったく登場しないという事実もあります。

幕末のイギリス外交官・アーネスト・サトウ(8月26日参照>>)は、オランダの文献の中に登場する日本人傭兵の代表者・オークヤ・セナビムクが長政ではないか?としていますが、これも推測の域を出ないものです。

17世紀初頭の日本と言えば、あの関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、征夷大将軍となり、江戸で幕府を開いた頃・・・

家康は、その関ヶ原の年に九州に漂着したオランダ船の航海士・ウィリアム・アダムス(3月16日参照>>)外交顧問に任命し、盛んに外国との交易を押し進めていました。

慶長九年(1604年)に、朱印船制度を実施して以降、多くの大名や商人が、朱印状を交付してもらい、海の向うへと旅立ったのです。

当時は、上記のアユタヤだけでなく、現在のフィリピンベトナムなど、アジアの各地に、日本人の居住地や日本人町が存在していました。

そんな中、江戸時代を通して、長政はまったく重要人物としては扱われておらず、それこそ、朱印船で外国に渡った多くの日本人の中の一人・・・という感じです。

ひょっとしたら、長政は、朱印船で交易をしていた、ただの商人、あるいは密航者というだけの可能性もあるのです。

あまりの史料の少なさに、架空の人物かもしれないと噂される山田長政が、歴史の教科書や、年表に記されるほどの有名人になったのは、近代の満州事変以降の事・・・

それには、日本がアジアへ進出するにあたって、強き日本をアピールするための宣伝として、遠い昔、東南アジアで活躍をした戦士がいた事を利用したからなのではないか?とも言われています。

無名だった彼が、歴史の表舞台に登場する事になったのには、そんな、もう一つの悲しい日本の歴史がからんでいたのですね。

とは言え、金地院崇伝(こんちいんすうでん)『異国日記』という文献の中に、「山田仁左衛門長正」なる人物の名前もあり、「幕府が朱印状公布」という記録もありますので、有名人では無かったとしても、山田長政という人が実在の人物である事は、ほぼ間違いないところでしょう。

さらに、その『異国日記』の中には、「元和元年(1615年)に国王・ソンタムが将軍・徳川秀忠へ親書を送った時、長政から老中・土井利勝への手紙と贈り物が同封されていた」という記述があります。

親書という正式な外交文書の場合、礼儀として、同じ位の人物同士が文書の交換をするのが常識だった事を考えると、「将軍⇔国王」「老中⇔長政」となるわけで、これが本当だとしたら、確かにシャムの高官であった事になるわけです。

教科書に載ってるわりには、あまり時代劇などでお目にかからない山田長政さん。

ずいぶん前に、一度ドラマになった事がありましたが、かなりボヤけた記憶で、筋書きもよく覚えていませんが、長政役の林隆三さん(たしか・・・間違ってたらスミマセン)象に乗っての合戦シーンが、かなりカッコ良かったのだけは記憶にあります。

近代の戦争に利用されたのは悲しい出来事ですが、もし、本当に山田長政が、400年前の東南アジアで、象に乗って大活躍したのだとしたら、何やら、最近、大リーグで活躍する日本人選手を見るようで、同胞として、とてもうれしくなります~。

Yamadanagamasacc 今日のイラストは、
アユタヤの戦士という感じで、象に乗った山田長政さんを書いてみました~。

タイにある像では(帽子?)をかぶってますが、色がわからないので、冠は無しにしてしまいました。

タイでは映画にもなってる長政さん・・・どんな風に描かれているのか?見てみたいですね。
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2007年10月 2日 (火)

賄賂政治家・田沼意次の汚名を晴らしたい!

 

天明七年(1787年)10月2日、時の老中・田沼意次が失脚しました。

・・・・・・・・・・・・・・

田沼意次と言えば『賄賂』
『賄賂』と言えば田沼意次

昔、見た時代劇『紫頭巾』では100%の悪役・・・いやいや、『紫頭巾』だけじゃありません。

田沼意次が出てくれば、どんな時代劇でも、大抵、彼は悪役・・・男前の主人公にいつも暗殺計画を立てられてしまってるお気の毒な役どころ

是非とも、今日は、そんな田沼さんの汚名を晴らしてみせましょう!

Tanumaokitugucc 田沼意次さんは、徳川10代将軍・家治に仕え、御用人から老中にまで上りつめ、約15年間にわたって、その権勢を振るいました。

しかし、その時代は賄賂が横行し、道徳が地に落ちた時代と言われ、彼の失脚の後に登場して『寛政の改革』を行う松平定信(6月19日参照>>)を、幕府が、清廉潔白なクリーンなイメージの政治家として描きたいがため、対照的にダークな印象を植えつけられてしまったようですが、どうしてどうして、彼の政治手腕はなかなかのものです。

彼が老中となったのは、安永元年(1772年)、意次さん54歳の働き盛り。
トップに立って、やっと彼の政治手腕が発揮できる舞台が整いました。

早速やらねばならない事は、財政の建て直しです。

当時、幕府はたいへんな財政難でしたが、先々代の徳川吉宗の時代に、『享保の改革』で、新田開発をやりつくしてしまったため、年貢を増やそうにも、もうこれ以上はムリの状態でした。

・・・で、彼が着手したのが商業による財政改革

株仲間を公認して税を徴収。
銅や鉄などを幕府の専売とし、さらに、鎖国令を緩めて貿易を促進します。

もちろん、吉宗時代に手つかずたっだ沼地などの国土開発も商業資本で行ない、蝦夷地(北海道)の開拓にも着手。

開拓後には、ロシアとの貿易なども視野に入れていたと言いますから、なんて進歩的な政治家なんでしょう。

当時、ロシアはすでに強大な国として君臨していましたから、そのロシアと対等に交易を行えば、世界の日本を見る目も変わるというものです。

確かに賄賂はあったでしょう。

しかし、それは商業が発達し、経済が豊かになればこそ、生まれ出てくるシロモノです。

意次さんが、デキル男なら、そのデキル分だけ、そのおこぼれに預かろうという人間がくっついてくるのは、自然の成り行きとも言えます。

けして、良いとは言いません。
いえ、もちろん悪いです。

しかし、ことさら、賄賂だけを強調して、その政治手腕に目を向けず、一斉にタタキまくるのは三流のマスコミのようです。

それまでの江戸時代の財政改革は、ほとんどが農業一辺倒。

財政に行き詰れば「新田開発」・・・当然、そこには賄賂など生まれてくる事もありません。

彼の財政建て直しの手腕は、江戸時代の政治家の中でもグンを抜いて光っています。

しかし、古い体質の武士からは、商業を卑しい職業として見る価値観がなかなか拭いきれなかったのです。

何も無い所から、ものを作り出す農業は美しく、右の物を左にやってお金を稼ぐ商業はきたないというのです。

そんな譜代門閥層の昔ながらの武士たちからは、躍進的な彼の政治は反発を買い、ただでさえ異例の出世に対する妬みもあいまって、徐々に風当たりが強くなってくるのです。

そして、もう一つ、天も、彼に味方しなかった・・・
江戸の大火(2月29日参照>>)浅間山の噴火(7月6日参照>>)天明の大飢饉(12月16日参照>>)・・・。

不安にかられる庶民たち、沸き起こる打ちこわしの嵐・・・

経済のしくみもよくわからない一般人から見れば、意次が豪商たちとツルんで、何かよからぬ事ばかりやってるように見えたかも知れません。

そんな中の天明六年(1786年)、彼の最大の理解者であった将軍・家治が死去し、松平定信らの反対派が、一気に強くなり、彼に圧迫をかけてきます。

天明七年(1787年)10月2日、周囲からの弾劾を受け、田沼意次はまだ、志半ばで政治家の座を追われる事になるのです。

おそらく、彼にしてみれば、「今はまだ産みの苦しみ・・・実がなるのはこれから・・・」という思いが強かったに違いありません。

そして、彼の後を継いで老中となった松平定信・・・たしかに、定信は清廉潔白でクリーンな政治家です。

しかし、クリーンな政治家が、政治手腕を持っているかどうかは別物。
定信が押し進めた『寛政の改革』は、「財政回復のためには、とにかく倹約・・・倹約」

そんな倹約は、消費を鈍らせ、経済を冷え切らせるだけでした。

結局、定信の改革は、たった3年で行き詰まり、意次が頑張って備蓄した幕府の資産を食いづぶすだけ食いつぶして7年後に崩壊してしまいます。

田沼意次の事を書いた書物は、ほとんどが後世に書かれたもので、松平定信のクリーンさを際立たせるために、意次像がゆがめられて書かれています。

今に伝わる意次さんのイメージは、これらの書物によって、後付されたに過ぎません。

『悪い事はしないが良い事もしない政治家と、悪い事もするが良い事もする政治家とどっちがいい?』
これは、つい先日も、何かの報道番組で耳にした言葉です。

何とかなりませんかね~、
どこかに、いませんか?クリーンな田沼意次・・・両方を併せ持つのは、そんなに難しい事なんでしょうかね。
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2007年10月 1日 (月)

戦国屈指の奇襲戦・厳島の戦い

 

弘治元年(1555年)10月1日、主君・大内義隆に対してクーデターを起し、周防(すおう・山口県東部)の実権を握っていた陶晴賢と、中国地方全土への勢力拡大をもくろむ毛利元就とが戦った『厳島の戦い』がありました

2万の大軍の陶軍に対して、4千足らずの毛利軍が、謀略と奇襲で挑んだ戦国屈指の奇襲戦です。

・・・・・・・・・・

天文二十年(1551年)8月、家臣との衝突を繰り返していた周防(すおう=山口県)の戦国大名・大内義隆(おおうちよしたか)に、不満をつのらせた重臣・陶晴賢(すえはるかた=隆房は、クーデターを起し、主君・義隆を自刃に追い込みます(8月27日参照>>)

そして、元・養子でありながら、義隆に実子が誕生したため、実家に戻されていた豊後(ぶんご=大分県)大友宗麟(おおともそうりん)の弟・大友晴英(はるふさ)を再び迎え入れました。

晴英は、大内義長(よしなが)と名乗り、大内氏の当主となりますが、当主とは名ばかりで、実権は、すっかり晴賢以下・家臣たちのもの・・・当然の事ながら、当主と家臣の関係はギクシャクしたものとなります。

そんな大内氏のゴタゴタを絶好のチャンスと見てとったのは、かねてより中国地方全土を手中に収めたいと願う安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)です。

元就は早速、数々の謀略を張り巡らします

まずは、本州から大野瀬戸(おおののせと)を挟んで向かい側にある厳島宮尾城なる城を新築します。

これは、敵の本拠地・周防と、味方の本拠地・安芸との間の制海権を握る上での重要地点に城を築く事で、水運の掌握を計る目的でもあり、晴賢ら陶軍を厳島におびき寄せるエサでもあったのです。

次に、晴賢の右腕・江良房栄(えらふさひで)を消しにかかります。

房栄は、敵方の中でもグンを抜いた勇将で、まともに戦った場合、必ず一番の壁となるであろう人物でした。

そこで元就は、「房栄が毛利軍に寝返った」事を記したニセの書状を作成し、それをわざと敵方にもぐりこませたのです。

元就の張った策略にまんまと引っ掛けられ、その書状を本物と信じ込んだ晴賢は、事もあろうか房栄を斬ってしまいます。

そして最後の謀略は、そのものズバリ。
晴賢を・・・それも大軍を引き連れて、厳島におびき寄せる事・・・。

それまでも、厳島に築城した事によって、陶軍と毛利軍の小競り合いは何度かあったものの、陶方を壊滅させるには至りませんでした(4月8日参照>>)

壊滅させるためには、この狭い厳島に大軍をおびき寄せて、身動きできない状態に陥れてしまおうというのです。

そして、弘治元年(1555年)の9月に入って、作戦決行!・・・毛利の重臣・桂元澄(かつらもとずみ)が、晴賢へ内通を申し出る内容の書状を送ります。

もちろん、これは、敵を騙すためのウソの申し出・・・しかし、それをすっかり信じた晴賢は、9月21日、500隻の船団を率いて、2万の大軍を以って厳島に上陸し、宮ノ城を包囲したのです(9月21日参照>>)
(そんなに信じやすいと、戦国は生き抜けないゾ!)

一方の毛利軍・・・すでに元就は、厳島の対岸の草津城に主力部隊・約4千を集結させていましたが、陶軍の上陸を知って、安芸伊予水軍村上水軍の協力のもと、周辺の海上を封鎖します(9月28日参照>>)

相手は、思惑通りに厳島へやって来てくれましたが、4千足らずという少ない兵で、この奇襲作戦を成功させるためには、コチラが相手に気づかれず上陸しなければなりません。

天は毛利に味方したのか・・・絶好の日がやってきます。
9月30日、夜半から、風雨に見舞われた最悪の天候・・・そう、元就はこれを待っていました。

荒天を突っ切って草津城を出陣する毛利軍。
本隊の毛利元就隆元(たかもと=元就の長男)吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男は、宮尾城をやり過ごし(鼓)ヶ浦から上陸・布陣します。

Itukusimakassenzucc 画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

同時に別働隊の小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)は、敵方にさとられないよう、一旦、大野瀬戸を南西へと向かい、途中から北東へ向きを変えて、厳島神社に近い正面から上陸します。

弘治元年(1555年)10月1日日の出を合図に本隊は包ヶ浦から背後へ、別働隊は宮ノ尾から正面へ、一斉に陶軍めがけて攻撃が開始されました。

昨夜の悪天候に油断していた事と、2万というあまりの大軍でかえって身動きがとれない事・・・この二つが重なって陶軍は、またたく間に総崩れとなってしまいます(10月3日参照>>)

大軍を生かした組織的攻撃がまったくできないまま、島内の高安原に追い詰められ、もはや陶軍は壊滅状態です。

味方の大敗を目にした晴賢は、船で本拠地の周防へ逃げようと大元浦までやってきますが、すでに海上封鎖された海に、船は一隻もありません。

呆然とする晴賢に、やがて迫り来る毛利の軍勢・・・。
覚悟を決めた晴賢は、大江浦にて自刃し果てるのです(10月5日参照>>)

(さらにくわしい決戦の様子は2011年10月1日の【決戦!戦国三大奇襲・厳島の戦いVer.2】でどうぞ>>

あの織田信長桶狭間の戦い(5月19日参照>>)とともに、わずかの兵で大軍を撃ち破った奇跡の奇襲作戦と称される『厳島の戦い』

しかし、桶狭間がそうであったように、この厳島も、合戦前の謀略・情報戦線と、一か八かの賭けに勝てる運の強さが、何よりもその勝因と言えるでしょうね。

相手も相手で、大軍であるが故のちょっとした油断が、運を逃してしまった・・・というところでしょうか。

この後、元就は、厳島の戦いには参戦していなかった若き当主・大内義長を、これまた謀略で自刃に追い込み(4月3日参照>>)、権勢を誇った大内氏を滅亡に追いやる事となります。
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