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2007年10月26日 (金)

観応の擾乱~足利尊氏+高師直VS足利直義

 

正平五年・観応元年(1350年)10月26日、兄・足利尊氏と対立していた弟・直義が、失脚の引き金となった高師直を攻撃すべく挙兵・・・『観応の擾乱(じょうらん)』が勃発しました。

・・・・・・・・・

室町幕府を開いたのは初代将軍・足利尊氏・・・これは、もう教科書でも定番の出来事ですが、実際には、室町幕府は二人の将軍によって運営されていました。

それは尊氏と、その弟・足利直義によってです。

確かに、征夷大将軍になったのは尊氏ですが、幕府内の権限は完全に二分化されていて、尊氏は全国の武士を支配する武家の棟梁・・・直義は全国を統治する政治の責任者

簡単に言えば、軍のトップと政治家のトップ・・・現在なら、軍と政治家なら政治家のトップがイコールその国のトップとなるのでしょうが、室町幕府は武家政権・・・という事は軍事政権ですから、軍のトップがその国のトップという事になります。

もちろん、この担当は兄と弟、軍と政治の上下関係だけではなく、二人の性格も踏まえての事です。

感情の起伏が激しい軍人タイプの尊氏と、冷静沈着な政治家タイプの直義・・・武功があった家臣に恩賞を与える尊氏、所領の揉め事に判決を下す直義といった具合に、この二人の関係は、室町幕府の初期を支え、見事な相乗効果をもたらしていました。

これは、鎌倉幕府の将軍と執権の関係に似ているかも知れませんが、鎌倉幕府もそうであったように、世の中、「両雄並び立つ」というのはなかなか難しい物で、やはり、この二人の間にも、徐々に亀裂が生じて来るのです。

特に直義は、尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお)と、肌が合わなかったようです。

確かに、『太平記』よると高師直という人は、出雲の守護・塩冶高貞(えんやたかさだ)の奥さんに一目惚れし、猛アタックを試みたものの、あえなく断られ、「夫がいなきゃいいんだ」とばかりに高貞を失脚させ死に追い込んだ(2月15日参照>>)・・・という逸話の持ち主です。

これが、本当だとすると、そりゃぁ、冷静沈着な政治家タイプの直義から見れば、師直のような行動は考えられない・・・まさに水と油。

肌が合わないなんて言葉では収まらないくらいの嫌悪感を感じてした事でしょう。

それは、師直から見ても同じ事。
さらに、荘園問題が二人の確執に拍車をかけます。

貴族との対立を防ぐためにも、公家や社寺の領地である荘園は、武士の支配とは離して考えるべきと主張する直義と、武功のあった武士に正統な報酬を与えるためには、実質的に荘園の管理者である武士に支配させるべきと主張する師直。

こういうのを犬猿の仲って言うんでしょうか・・・。

そんなこんなの貞和三年(正平二年・1347年)、南朝の動きが活発になったため、直義は配下の細川顕氏らを派遣するのですが、彼らが南朝軍に敗れてしまったのに対し、逆に、師直は、翌年、南朝軍を撃ち破り吉野へ攻め込み、南朝を敗走させ大勝利を収めます。

この事で、幕府内での師直の発言権が強くなった事に危機感を抱いた直義は、尊氏に師直の悪口をチクリまくり、執事を解任させてしまいます。

しかも、この時、師直の暗殺計画もあったとか・・・

そんな事を聞かされちゃぁ、師直も黙っていられません。
すかさず、武力でもって直義を攻撃!

お兄ちゃん・尊氏邸に逃げ込んだ直義を包囲します。

しかし、この時は、直義が出家し、その地位を尊氏の息子・義詮(よしあきら)に譲るという条件で、一件落着させる事に・・・って、あれ?尊氏の息子って・・・そうです、どうやら、師直のバックには、お兄ちゃん・尊氏が・・・

やっぱり、後を継がせるなら弟より息子・・・と誰しも思うところ。
弟がデキル弟なら、なおさらの事。

さすがの尊氏さんも、いつか弟一派に幕府のトップを脅かされるんじゃないかとビビッてたのかしら?

とりあえず、話は収まったものの、やっぱり納得いかない直義・・・何とか反撃しようと機会をうかがっていたところ、九州で勢力を拡大しつつある直義の猶子・直冬を追討すべく、尊氏が出陣、京都を留守にする事に・・・

正平五年観応元年(1350年)10月26日「よっしゃぁ~!」とばかりに直義は、京都を脱出して、一路南朝へ走ります。

そう、直義さん、今まで敵対していた南朝行っちゃいました~。

そして、師直を討つべく挙兵するのです。
北朝は、すぐさま『直義追討令』を発令・・・『観応の擾乱』の勃発です。

しかし、南朝を味方につけた直義軍は強かった~翌・観応二年(正平六年・1351年)の2月、師直を倒し、高一族を滅亡に追いやりました(2月26日参照>>)

師直がいなくなった後、義詮の補佐役として、ちゃっかり政界に復帰する直義。

すると、今度は尊氏・義詮父子が京都脱出し、南朝と和睦を結び、今度は南朝から『直義追討令』が発布されるのです。

当然、逃亡する直義。
尊氏は、南朝との和睦の細かな交渉を息子・義詮にまかせ、自分は直義を追います。

直義は、北陸を経て、11月に鎌倉へ入りました。

追う尊氏は東海道を下り、直義軍を破り、翌・正平七年文和元年(=観応三年)(1352年)の正月直義を降伏させるのです。

そして、直義はその1ヶ月後の2月26日に病死・・・病死!?あやしい・・・実にあやしい。

これには、やはり尊氏さんの毒殺説も浮上していますが、一応公式記録では黄疸となってます。

ところで、「何をゴチャゴチャやっとるんだ!」と、キレたくなるくらいややこしい南北朝の関係・・・尊氏が和睦を結んで南北朝の合一はどうなっちゃったの?

この一時的な合一を『正平の一統』と呼びますが、尊氏が南朝に降伏して、こうなったわけですから当然、南朝主体で合一の話が進む事となり、北朝陣営は無視されっぱなし。

・・・で、合一したんだか、してないんだかの短い期間で、和睦は解消される事となり、ご存知のように、南北朝の動乱はまだまだ続きます。

結局、これって、尊氏派と直義派に分裂しつつあった北朝が、一つにまとまっただけで、南朝との関係は何ともなってないじゃん!と思ったあなた・・・正解です。

弟が降伏したかと思えば、兄貴が降りる・・・和睦したかと思えば解消したり・・・ややこしいったらありゃしない南北朝の動乱ですが、このドタバタで、夜もじっくり眠れないのは、京都に住むお公家さん。

・・・と、このお話、まだまだ長くなりそうなので、『南北朝の動乱に怯えるお公家さんのお話』は次のページに書かせていただきました~コチラからどうぞ>>>
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