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2007年10月 7日 (日)

第一次・国府台合戦~小弓公方の最期

 

天文七年(1538年)10月7日、室町将軍の支族である足利義明と、安房の戦国大名・里見義堯が、相模の戦国大名・北条氏綱国府台で戦った『第一次・国府台合戦』がありました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先日も立河原合戦(9月27日参照>>>)のところでチョコッと書かせていただきましたが、足利尊氏が開いた室町幕府・・・関東中心の武士たちが、京都で幕府を開いたために、留守になりがちな地元・関東を支配するための鎌倉公方関東管領という新たな役職を設けます。

しかし、なんせ、京都と鎌倉という遠い距離・・・当時の通信システムでは、常に睨みを利かせておくなど、到底ムリな事で、しだいに関東は鎌倉公方中心の独立国家のようになっていきます。

その鎌倉公方の役を代々引き継いでいたのが、尊氏の次男・足利基氏の子孫たち。

やがて、永享十年(1439年)に、関東の独立ぶりに危機感を感じた本家将軍・足利義教(よしのり)によって、公方は足利持氏の代に潰されてしまします(2月10日参照>>)

しかし、その持氏の遺児・足利成氏が乱を起こし、公方職を奪回しようと関東の諸豪族と戦いますが、鎌倉へは入る事ができず、古河という場所で、『古河公方(こがくぼう)を名乗り、徐々に関東一帯に勢力を伸ばしはじめます

もちろん、これは幕府の認可を受けた正式な公方ではありませんから、当然、幕府は正式な鎌倉公方を派遣しますが、この正式な公方も、もはや独立国家と化した鎌倉には入れず、伊豆の堀越に居を構え『堀越公方』と呼ばれます。

こうして、一時期、二人いた公方も、下克上激しい戦国時代、堀越公方が北条早雲に滅ぼされ(10月11日参照>>)、残ったのが古河公方・・・。

この古河公方の3代目・足利高基の時の後継者争いで、兄と弟が対立・・・その弟のほうが、今日の主役・足利義明(よしあき)です。

メッチャ前置きが長くなりましたが、足利義明さんが誰かわかっていただけましたでしょうか・・・。

この義明が、結局、兄とは決着がつかず、対立したまま下総・小弓(おゆみ・千葉市)に館を構え、そこを『小弓御所』と呼び、これまた無認可のさらに無認可となる『小弓公方』を名乗っていたのです。

そんな義明さん、やっぱり最終目標は鎌倉を手に入れて、名実ともに本来の『鎌倉公方』を名乗りたい。

しかし、そんな時に鎌倉を占領し、武蔵江戸城(東京都・千代田区)まで進出してきたのは、相模(神奈川県)の戦国大名・北条氏綱です。

もともと小弓に自分を迎え入れてくれた上総(千葉県北部)真理谷氏と、隣国・安房(千葉県南部)の戦国大名・里見義堯(よしたか)の協力を得た義明は、天文七年(1538年)秋、この房総の軍勢を率いて、武蔵(東京・神奈川)に進攻し、北条氏を倒す決意を固めます。

足利・里見連合軍となった軍勢は、下総から武蔵への玄関口で交通の要所であった江戸川の東岸国府台(こうのだい・千葉県市川市)に陣を立てます。

兵は、わずか千・・・まだ全軍が到着しきれていない状況であるにも関わらず、心がはやる義明は、すぐにでも江戸川を渡ろうとする構えです。

一方の北条氏綱が、居城・小田原城で、この義明らの行動を知ったのは10月2日・・・氏綱は、負けじとばかりに、すぐに、小田原城を出陣します。

一旦、江戸城に入城し、軍勢と態勢を整えた後、10月5には江戸城を出発し、国府台近郊に到着します。

北条の軍勢は、2万・・・と言われていますが、これはちょっとオーバーで、現在では、本当は5千くらいだったであろうとされていますが、それでも足利・里見連合軍の5倍の数です。

やがて、足利・里見連合軍の軍儀の結果、兵の数の差を埋めるためにも、北条勢が江戸川を渡岸中に攻撃を仕掛ける事に決定しますが、義明は、これがど~も気に食わないのです。

将軍家のプライドというのでしょうか・・・「将軍家に対して弓を引くはずがない」という気持ちと、「将軍家の自分がセコイ手段で勝ちたくない」という気持ちが相まって、軍儀の決定をくつがえし、独断で、北条勢が川を渡り、上陸してから攻撃を開始する事に変更をさせてしまいます。

おかげでヤルき満々の義明が、「俺が先頭切って、やったる!」と意気込んで、北条が上陸するであろう川べりの最前線に、義明の陣。

里見はそのずっと後方に、しかも、ヤバくなれば、いつでも安房方面に逃げられる位置に、後方支援のような形で陣取るという、奇妙な陣の配置。
(普通、大将が後ですからね)

かくして天文七年(1538年)10月7日いよいよ北条勢が川を渡りはじめ、決戦の火蓋が切られました。

最初こそ、イイ勝負をした連合軍でしたが、やはり、まともに戦えば、数の差は埋めようもなく・・・徐々に負けの色が濃くなる連合軍。

その時です!
敗戦の色を払拭すべく、予告通り、自らが最前線にたって北条軍に突進していく義明・・・。

しかし、北条側には、踊り出たその大将にキリキリと照準を合わせる弓の名手が・・・。

北条きっての弓の達人・横井神助(しんすけ)放った矢は、見事、義明の胸板を射抜きます。

連合軍の総大将=義明は、呆気なく討ち取られてしまいました。

この様子を見ていた後方の里見勢は、戦う事なく戦線を離脱し、自国の方面へと撤退を始めます。

義明直属の足利軍の将兵たちも、次々と戦場を去って行き、結局、そのまま北条へ勝利が転がり込んで来た形となりました。

その後、氏綱は、小弓御所を押さえ、義明を支援していた真理谷城真理谷信応を降伏に追い込み、下総をも北条の手中に収めます。

そして、安房に逃げ帰った里見勢も、この合戦が無かったかのように、なりをひそめてしまいます。

しかし、北条VS里見のしこりが無くなったわけではありません。

戦いは30年後・・・それぞれの息子たちによって、再びこの国府台で火蓋が切られる事になるのですが、そのお話はやはり第二次・国府台合戦のあった1月8日のページでどうぞ>>

★この日、父・義明が亡くなった事で、里見家に引き取られた姫と、里見家の嫡男・義弘の恋のお話:【逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼】もどうぞ>>>
 

Kounodaiyosiakicc 今日のイラストは、
『国府台に散った足利義明』さんを・・・。

足利義明さんの、人物像のイメージがつかめず、肖像画か何かないものか?と、ググってみれば、逆に「もしかして足利義昭?」と聞かれる始末・・・
それは、15代将軍だっつーの!

結局、シルエットになってしまいました~秋らしく、江戸川の川面に紅葉を散らしてはみましたが・・・。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

肖像画のない人・・大変ですよね。想像で描いててもどこかで残っていたりするので、私も出来る限り、「肖像画」アサリをします。でも・・なかなか難しいので、結局、「保留」になったりしますがシルエット・・・ありかも~♪

投稿: 乱読おばさん | 2007年10月 7日 (日) 19時42分

肖像画でも、よそゆきのイッチョーラを着てる場合は、その人の特徴が出にくくて・・・
私は、顔がワンパターンなので、そういう時は苦労します~。

武将の場合は、独特の甲冑を見つけた時はガッツポーズですね~。
それで、その人の趣味とか、好みとかが垣間見える気がして、イメージが湧いてきます~。

投稿: 茶々 | 2007年10月 7日 (日) 21時40分

茶々さん
ご無沙汰してます。
でも記事は楽しみに読んでますよ。
ホント、よく勉強なさっていて、いつもへぇ~そうなんだと感心してばかりです。
国府台は私が10年間通った地、里見公園を懐かしく思い出しました。
春、お花がとってもきれいな公園ですが、土塁も少し残っています。

投稿: みどり | 2007年10月 9日 (火) 21時53分

みどりさん、こんばんは~。
コメントありがとうございます。

毎度エラそうに書くだけ書いてますが、関東のほうへはほとんど行った事がなく、この「国府台」という場所も、実際にはどんな場所が知らないで書いてます。

土塁が残っているんですか・・・イイですね~そういう場所で、風に吹かれて空を見上げていると、時の流れを越えて歴史上の人物と話ができるような気がして、私は歴史の舞台となった場所へ行くのが大好きなんです。

いつか、関東のほうへも・・・と思っています。

投稿: 茶々 | 2007年10月10日 (水) 00時03分

茶々さん

 先ほどは同じの送ってしまってごめんなさい。

>歴史上の人物と話が出来る・・
 
 同感です。先週浦賀に行ってきました。
 浦賀城跡、奉行所跡、船番所他お寺や神社
 燈明台後など歩いて廻りました。どんな思いで黒船を見たのか、まるで赤鬼のように書かれたペリーの絵がありました。

投稿: みどり | 2007年10月10日 (水) 00時30分

みどりさん、こちらこそ・・・
一時、スパムのコメントがヒドくて、「また送られているんじゃないか」と、一日に何度も自分のブログを確認するような時期がありまして、それ以来コメントは一旦保留にする設定にさせていただいてましたが、最近スパム防止画面がつくようになったので、とりあえず、一旦、即公開の設定にしてみます。

ところで・・・
浦賀ですか・・・まさに、歴史の舞台ですね~。
ペリーの肖像画は、私も見たことあります。
もちろん、本か何かですが・・・

投稿: 茶々 | 2007年10月10日 (水) 01時06分

小弓公方の拠点は、江戸時代になってから表記が変わって、生実藩となったようです。地元の人じゃないと読めませんね。

 それにしても義明さんは、茶々様がおっしゃるようにプライドが高い上に、直情径行の人だったのでしょうか?最前線に進み出て、結局討ち取られちゃうとは…

 宇宙の帝王と名乗りながらあっさりウルトラセブンに倒されたバド星人みたいです。
 でもバド星人のように卑怯な振る舞いはありませんから正々堂々として立派です!

投稿: とらぬ狸 | 2015年4月 3日 (金) 21時18分

ウィキペディアによると、「小弓」から「生実」に表記が変更されたのは、江戸時代より前のこと、との記載がありました。正確な年代は不明ですが、まぎらわしい書き方をしてしまい申し訳ありませんでした。

投稿: とらぬ狸 | 2015年4月 4日 (土) 00時33分

とらぬ狸さん、こんばんは~

足利義明さんは、登り調子の時期もありましたから愚将では無い事は確かでしょうが、性格は、その行動から想像するしかありませんね。

足利の血を引く者として、それ相当のプライドは持っていただろうし、兄から独立するところを見ても、なかなかに血気盛んな方だったのかな?
と個人的に想像しています。

投稿: 茶々 | 2015年4月 4日 (土) 03時01分

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