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2007年11月 6日 (火)

水軍の転換期!石山合戦の第2次木津川海戦

 

天正六年(1578年)11月6日、織田信長の配下である九鬼水軍が、大坂湾・木津川口で、毛利の水軍600隻を撃破!
第二次木津川沖海戦がありました。

・・・・・・・・・・

これは、元亀元年(1570年)8月から天正八年(1580年)の8月まで、十年間にわたって続いた織田信長と浄土真宗の総本山・本願寺との戦い・・・石山合戦での戦いの一つです。

信長の上洛(9月7日参照>>)によって、畿内から敗走した三好三人衆(9月29日参照>>)、元亀元年頃、失地を回復の協力を得ようと本願寺への接近を試みます。

「そうは、させるか!」
・・・と、信長は、浄土真宗の総本山・石山本願寺を取り囲み、その地の明け渡しを要求します。

当時の本願寺の法主(ほっす)顕如(けんにょ)は、信長のその強引な態度に、真っ向から立ち向かう姿勢を見せて、全国の真宗門徒に決起を呼びかけます(9月12日参照>>)

元亀元年(1570年)8月・・・石山合戦の勃発です。

さらに、顕如は、2ヶ月前の6月に姉川の合戦(6月28日参照>>)で信長に敗れたばかりの越前朝倉義景北近江浅井長政ら戦国武将にも声をかけます。

9月には、その浅井・朝倉によって、北の守りに着いていた森可成(蘭丸の父)織田信治(信長の弟)が討死(9月20日参照>>)、11月には伊勢長島で発起した一向一揆(5月16日参照>>)によって、もう一人の弟・織田信興が自刃に追い込まれてしまいます。

あまりにも多すぎる敵に、信長は作戦を変更・・・朝廷に間に入ってもらって本願寺・浅井・朝倉と講和を結びます。

こうして、一つ一つ潰す作戦に出たのです。

最初のターゲットは、可愛い弟を死に追いやった長島一向一揆です。

抵抗を続ける一揆勢に散々苦しめられながらも、天正二年(1574年)9月に長島一向一揆を討伐します(9月29日参照>>)

その間に越前の朝倉氏(8月6日参照>>)北近江の浅井氏を倒し(8月27日参照>>)、さらには越前の一向一揆をも打ち砕きます。

天正三年(1575年)には、あらためて信長と顕如の間で講和が結ばれますが、結局それも、すぐ破られてしまいます。

翌年、顕如は安芸毛利輝元に声をかけ、信長との全面対決を決意します。
これには、信長によって京都から追いやられた足利義昭も大喜び(7月18日参照>>)

早速毛利方は水軍による兵糧の運搬という形で、本願寺に協力するのです。
それを阻止しようとする織田方の水軍・・・両者は大坂湾沖で激突します。
これが第一次木津川沖海戦(7月13日参照>>)です。

その時、毛利方の水軍として大活躍したのが、村上武吉(たけよし)率いる村上水軍でした・・・この時の指揮をとったのは武吉の息子・元吉(もとよし)

ちょうど、この頃は水軍の戦い方に、一大転換期の訪れた時期・・・水軍が、契約社員から戦国武将の正規軍に変わるのも、この頃からです。

それまでの水軍というのは、敵の領地の海岸線や、海に近い都市へ、突如、海から上陸して襲い、一気に暴れまわってサッと引き揚げる・・・言わばゲリラ戦・かく乱作戦の手法でした。

水軍どうしで戦う時も、敵の船にサッと近づき、怒涛のごとく乗り込んで刀で斬りつけるという方法・・・つまりマンツーマンのような形だったのですが、鉄砲伝来とともに、少しずつその戦闘形態が変わっていった真っ只中でした。

当時の村上水軍は、いち早く投炮碌(なげほうろく)なる武器をあみ出していました。

それは、火薬が詰った玉にヒモがついた物で、ハンマー投げのように相手に向かって投げ、地に落ちたところで爆発するという物で、この武器のおかげで、相手の船に乗ることなく、規律正しい船団を組み、一糸乱れぬ団体での攻撃を仕掛ける事ができました。

信長の水軍は、この戦術に見事に破れ、この時の救援物資は、無事、石山本願寺へ運び込まれる事となったのです。

しかし、皆さんご存知のような信長さんの性格・・・このまま黙っているわけはありません。

信長は、配下の滝川一益(かずます)九鬼嘉隆(くきよしたか)らに、甲鉄製の大きな軍船の建造を命じるのです。
そう、投炮碌に屈しない強固な鉄壁を持つ船です。

機動性バツグンの小型の快速船から、鉄砲・大砲を装備した大型の軍船へと水軍の主流が変わった瞬間でした。

やがて、2年後の天正六年(1578年)、再び、毛利方の水軍と織田方の水軍が大坂湾で戦います。

見た事もない鉄の船・・・しかも、投炮碌よりはるかに威力のある大砲・・・。

毛利方の主流であった村上水軍は、これらの攻撃に翻弄され、得意の一糸乱れぬ布陣を崩してしまいます。

11月6日第二次木津川沖海戦と呼ばれるこの戦いは、織田信長の勝利に終るのです。

これによって完全に孤立してしまった形の本願寺は、朝廷からの命令により、信長との講和へと向かう事になります(8月2日参照>>)

水軍のほうはと言いますと、この後、安宅(あたか)と呼ばれる、より大型の軍船が登場します。

信長亡き後、豊臣秀吉の傘下となった九鬼水軍の安宅船は、長さ十三間(約23m)、幅七間、数門の大砲を積み、海上から敵の城にさえ攻撃を加える事も可能だったと言います。

★追記2009年11月6日のページ>>ではさらにくわしく
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん

 こんばんは!
 ココログランキング2位おめでとうございます。本当にいつも楽しく読んでますよ!
1位目指して頑張ってくださいね。

村上水軍対九鬼水軍の戦いとっても興味津々
船が大きくなり、武装化も進んで、やがて戦艦が出来上がっていくのでしょうか・・因島辺りには船幽霊が出るとか・・?

投稿: みどり | 2007年11月 6日 (火) 20時24分

みどりさん、こんばんは~
いつも、ありがとうございます。

ランキング2位は突発的な出来事・・・宝くじに当たったようなモンで、とてもとても1位なんか・・・。

でも、その時にブックマークしてくださったかたが多くいてくださり、また、来ていただいているようなので、うれしく思っています。

水軍と海賊は紙一重・・・それは、陸も同じですが・・・

投稿: 茶々 | 2007年11月 6日 (火) 22時46分

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