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2007年11月 8日 (木)

奈良の都の住宅事情~貧しい庶民の実態

 

神亀元年(724年)11月8日、「平城京の美観を良くするため、身分の高い者やお金持ちに瓦葺や丹(たん)塗りを許可する」という詔りが出されました・・・とありますので、今日は、奈良の都の住宅事情・農民の暮らしについて書かせていただきたいと思います。

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♪あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の
  (にほ)ふがごとく 今盛りなり♪
と、歌に詠まれた奈良の都・平城京・・・
Heizyoukyusuzakumoncc 写真は、奈良の平城宮跡・・・現在復元中の大極殿から朱雀門を見たところ(遠くのほうに見えるのが朱雀門です)で、これでも広~いと感じますが、ここは宮殿の跡。
都はもっと広かったわけですからね。

Heizyoukyoutizucc よく、この平城宮跡平城京跡と思ってしまいがちですが、地図を見ていただけば一目瞭然!
この何も無い広い場所は、今で言うところの永田町のような場所です。
都は、生駒山の麓あたりから、東は東大寺、南は現在の郡山市あたりまでありました。

 

教科書などに載っているような平城京の模型などを見ると、波のように重なる甍(いらか)に朱塗りの柱が整然と・・・と、想像してしまいますが、上記のように『神亀元年(724年)11月8日、平城京の美観を良くするために瓦葺や丹塗りを許可』とあるところを見れば、和銅三年(710年)に平城京に都を遷してから、このあたりまでは、けっこうなお金持ちでも、瓦葺の屋根ではなかった事がわかります。

おそらく、平城宮の宮殿と一部の高級官僚だけが、あのような建物に住んでいたんでしょうね。

とは言え、以前、平城京遷都のページで書きましたように、そんな美しい都を、実際に造営したのは、かりだされた農民たちです(3月10日参照>>)

平城京の人口は約20万人と言われていますが、そのうちの19万人は貧しい農民たち。

律令制度によって、農民たちは厳しい支配下に置かれ、それぞれに与えられた田で採れた稲を納める『祖』、労働力を捧げる『庸(よう)、各地の特産物を献上する『調』という三つの税を徴収されるばかりか、働き盛りの男手には、任期一年間の衛士(えじ・宮殿の門番とか…)や任期三年の防人(2月25日参照>>)なる任務がまわってくる事もあるわけです。

そんな血税は、以前、大宝律令の完成のページ『今も昔も役人天国(8月3日参照>>)でご紹介したように、一部の高級官僚のメッチャ高い給料になるんです~またまた腹が立ってきましたね~。

そんな庶民の家は・・・というと、実は、まだ古墳時代の竪穴式住居
木材や瓦は高くて買えませんし、自分たちで建てるのだってムリですからね。

古墳時代と違うところと言えば、外にあったかまどが、中に造られるようになったくらいで、ほとんど変わらない物にず~っと住んでたんです。

ですから、国が『平城京の美観を良くするために瓦葺や丹を許可』・・・いや『命令』したって、一部のお金持ちしか建て替えなんてできません。

この頃の大臣たちは、大陸からお客様が来た時なんかは、これらの農民の家が見えないように案内・・・まるでオリンピック委員会を案内する○国のような事やってたんですよ。

かの『万葉集』に、山上憶良(やまのうえのおくら)が作った、有名な『貧窮問答歌』というのがあります。

長いので、おおまかな内容を書かせていただきますが・・・

憶良が問いかけます
「風雨の激しい夜・・・まして、それに雪がまじってるような夜は、メッチャ寒いから、アラ塩をちょっとづつかじって、粕汁飲んで・・・それでも寒いから麻のふとんかぶって、家中の服を重ね着するけど、まだ寒い・・・僕でもこんなミジメやのに、もっと貧しい君らはどうしてんのん?」

農民が答えます
「人として生まれ、人並みに働いてんのに、綿も入ってないペラペラの服しか着られへん。
つぶれかけた小屋で、地面にじかにワラ敷いて、オトンとオカンは俺の頭のほうに、嫁はんと息子は俺の足のほうに、身を寄せ合うようにして・・・あまりの苦痛に飯を炊く事も忘れて、
(こしき・かまどの上に乗せて米を蒸す道具)にはクモの巣はってしもとるがな。
せやのに、役人がムチ振り回して、寝てるとこまで来て呼び出しよるねん。
世の中って空しいなぁ。」

霊亀元年(715年)には、雑穀の生産を勧める詔りが出ますが、それまでは(あわ)などの雑穀の生産はされておらず、お米はほとんど税として徴収されるため、農民はいつも野菜しか食べていなかったようで、栄養状態も非常に悪かったのです。

彼らの対抗手段は、唯一、逃げる事・・・
田んぼも畑も家もほっぽらかして、行方不明になってしまえば、税を取られる事も、防人などにかりだされる事もありませんからね~。

でも、それは流浪の身になるという事・・・自分自身の存在感を考えると、つらいものがありますねぇ・・・。

今となっては、山上憶良の歌が万葉集に収められ、後世に残り、名もなき人々の生活の様子が少しでもわかった事が奇跡のように思えますね。

・‥…━━━☆

平城宮跡への行き方や地図はHPへどうぞ>>>
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