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2007年11月 1日 (木)

聖徳太子の子・山背大兄王を殺したのは蘇我入鹿?

 

皇極天皇二年(643年)11月1日、聖徳太子の息子・山背大兄王を蘇我入鹿が攻撃・・・山背大兄王は一族とともに自害に追い込まれます。

・・・・・・・・・・・

かの日本書紀にこのように書かれている事から、教科書なのでもそう書かれています。

攻撃した理由については、聖者・聖徳太子の息子で、彼自身も人望があった山背大兄王(やましろのおおえのおう)に対して、蘇我入鹿(そがのいるか)は自分の意のままになる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を、次期天皇候補として推していたため山背大兄王が邪魔になった・・・というのが一般的です。

皇極天皇二年(643年)11月1日斑鳩宮にいて、入鹿の軍に襲われた山背大兄王は、一族郎党を連れ生駒に逃れます。

ところが、なぜか再び、斑鳩の法隆寺へ戻ってきます。

山背大兄王が言うには・・・
「戦えば勝つのはわかっている。しかし、私は戦いたくない」
のだそうです。

・・・で、結局、11月11日、法隆寺に戻った山背大兄王一族は、法隆寺の五重の塔に行き、ある者はその中で山背大兄王とともに自害し、ある者は塔に上り、西に向かって飛び降り、一族の全員が亡くなったと言うのです。

「はぁ?」と突っ込みを入れたくなりますよね。

平和な時代じゃないんですよ。
血で血を洗う王権争奪戦が繰り返されていた時代に、「戦いたくないから死のう」なんて・・・しかも、戦えば勝つのがわかってるのに・・・

百歩譲ってそう思うなら、最初から「僕は皇位継承を辞退しますんで・・・」的な発言をしておけば、襲われなかったかもしれないわけですし・・・。

何か、違和感を感じてしまいます。

ここで、思い起こされるのは、『日本書紀は勝者の歴史である』という事です。

書紀は、あの中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)とともに大化の改新に一役買った中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)の息子・藤原不比等(ふひと)が全盛の時代に編さんされた物・・・もちろん、その編さん事業には不比等以下、藤原一門が深く関わっているのです。

そうです。
この山背大兄王の死は、藤原一族の重要な事件に関わる出来事なのです。

それは、この山背大兄王の死から2年後に起きる『乙巳(いっし)の変』・・・有名な「蘇我入鹿・暗殺事件」です。

事件の詳細は、その日のページに書いていますので(6月12日参照>>)、そちらで見ていただくとして・・・

日本書紀の記述を信じるならば、この時、中大兄・鎌足らに襲われた入鹿は、倒れながら目の前の皇極天皇に向かって「私が何をしたと言うのでしょうか?」と言い寄ったと言います。

皇極天皇も、「何事か!」と叫んで大変うろたえた様子です。

つまり、天皇もこの暗殺計画を知らなかったし、入鹿もなぜ自分が殺されなくてはいけないのかを知らなかった事になります。

そこで、中大兄皇子は天皇に向かって・・・
「王家を滅ぼして、天皇家を傾けようとた者を罰した」
と、高らかに宣言するのです。

王家とは聖徳太子とその息子・山背大兄王の一族の事で、つまりは、山背大兄王の仇を討ったのだ・・・というのです。

そして、入鹿の暗殺後に行われる大化の改新・・・と、ここで、「なるほど・・・」と納得するわけには行きません。

時代の流れを見てみると、腑に落ちない事が出てきます。

聖徳太子は、それまで百済一辺倒だった外交を、新羅といった大陸全体に向け、天皇の国際的地位を飛躍的に向上させた人です。

遣唐使制度をはじめ、あの冠位十二階も、唐を意識しての事なのは、誰もがわかっています。

この間、蘇我馬子蝦夷入鹿ら蘇我氏は、太子と対立関係にあったと思われがちですが、そうも言えません。

彼らは渡来人の子孫であり、日本に住む渡来人たちの束ね役でもありましたから、むしろ、渡来人たちの活躍に比例するように蘇我氏の権力も強くなっていっています。

ですから、おそらく、この「太子の外交政策に反対する」という事は無かったはずです。

最近では、「聖徳太子=蘇我入鹿説」まで登場するくらい、同じ視野で大陸を見ていたに違いないのです。

それに比べて、大化の改新の後はどうでしょう・・・。

ふたたび、百済一辺倒の外交に戻り、あげくの果てに百済再興を願う百済の王子を支援して出兵までし、白村江の戦いで大敗(8月27日参照>>)を喫してしまいます。

中大兄皇子や鎌足が、太子の遺志を継ぐ者とは、とても思えませんよねぇ。

そして、もう一つ、入鹿暗殺後に摩訶不思議な現象が起こっている事も見逃せません。

暗殺直後に、入鹿の首が中大兄と鎌足を追いかけまわし、二人が大慌てで逃げる・・・この話はかなり有名で、明日香村・甘樫の丘近くには入鹿の首が、力尽きて最後に落ちた場所に入鹿の首塚なる石塔もあります。

さらに斉明元年(655年)には大空を龍に乗った何物かが出現、続いて斉明七年(661年)5月には笠を深くかぶった何者かが、斉明天皇(先の皇極天皇と同一人物)の前に現れ、その2ヶ月後に天皇は亡くなり(7月24日参照>>)その葬儀の時も、その者が出現した・・・と言います。

それらの事から、いつしか「祟り」という言葉が囁かれるようになるのですが・・・このブログでは、早良親王(9月23日参照>>)崇徳天皇(8月26日参照>>)などなど、他にも怨霊伝説をいくつかご紹介していますので、もう、おわかりでしょうが、祟り&怨霊伝説という物が、殺された本人より、殺した側の人間の負い目から発生する事は明白です。

中大兄・鎌足の言い分通りなら「入鹿は大悪人で殺されても仕方が無い人間・・・俺らは仇を討ったんだ」って事ですが、それなら、なぜ?怨霊伝説などが発生するのでしょう?

諸悪の根源に正義の鉄槌を下したのなら、何の負い目も感じるはずがありません。

さらに、鎌足の子孫である藤原氏は、8世紀頃から法隆寺に多大なる支援をしはじめます。

そう、天然痘で不比等の息子たちが次々に死に、大仏建立を発案(10月15日参照>>)した頃です。

皆さんは、法隆寺の秘仏で、普段は夢殿に安置され、春と秋にだけ公開される「救世観音」様という仏像をご存知でしょうか?

この仏像は、聖徳太子の等身像と言われ、太子の生前の姿を映したものだそうですが、この救世観音は、その後頭部には、直接、光背(こうはい)が打ち込まれ、まるでミイラのように布でグルグル巻きにされて、何世紀もの間、誰も見た事が無かったというのです(6月25日参照>>)

確かに、「秘仏」と呼ばれる仏像は、他にもたくさんあります。

しかし、たいていの場合、それは「一般に公開していない」という事・・・僧侶たちが大切に保管しているという類の物で、「布でグルグル巻きにされて、誰も見た事が無い」というのとは、何か違う気がするのです。

まるで、その仏像の中に、何かを封じ込めたような・・・そんな気持ちさえしませんか?

ならば、誰が何を封じ込めたのでしょう。

そう、天皇家と藤原氏は、蘇我入鹿だけでなく、聖徳太子も怖かったという事ではないでしょうか?

そうなると、もちろん、山背大兄王を死に追いやったのは蘇我入鹿では無い事になるのですが・・・。

★聖徳太子関連で、ついでに、翌日の法隆寺再建のお話もどうぞ>>
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飛鳥時代」カテゴリの記事

コメント

……(ノ゚ο゚)ノミ(ノ _ _)ノ           今まで、考えたことのないような内容がいっぱいあって、ビックリビックリです。面白い情報、ありがとうございました。good

投稿: | 2013年10月31日 (木) 19時48分

ご訪問、ありがとうございます。

喜んでいただけたのなら良かったです。

投稿: 茶々 | 2013年11月 1日 (金) 01時04分

どうも最近分かってきたことは新羅、百済は日本系なのと唐も古代中国の民族と違うトルコ系です。
それと唐の進撃を阻んだのはチベット系の吐蕃ですので、あまり単純に見ない方が良さそうです。
韓国の学者も新羅が慶州に都を置き続けた理由として1990年代中ごろですがどうも半島を統一しきれずに日本に頼っていたとNHKだと思いますが解説していました。当時のアジアにきちんとした統一国家は無かったのではと思います。それぐらいに入り組んでいたでしょう。実際に新羅は百済滅亡後も唐と一緒の行動をしていません。
日本の方も謎だらけでしょう。私のDNAも最近になってYoutubeで分かったし、当時の日本は今の感覚で考えない方が良いでしょう。怨霊と言うのを奈良時代以前に考えていたかどうかは分かりませんが、蘇我=朝敵、中臣=忠臣でも無いと思いますし、蘇我は馬子の死後は分裂していますね。まりせが山背大兄王に近づき、石川麻呂が鎌足にです。馬子の死後は強力なリーダーシップは発揮できなかったところに突かれた悲劇が聖徳太子の一族の滅亡、蘇我本家の滅亡かなと思います。
最後に聖徳太子の子孫が生き残っている話をたまに聞きます。どう思われますか?

投稿: non | 2016年4月22日 (金) 18時48分

nonさん、こんばんは~

聖徳太子も謎だらけですからね~
何人かの集合体の事であるなら、その子孫となる人もいるかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年4月24日 (日) 04時50分

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