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2007年11月 3日 (土)

崇峻天皇・暗殺事件の謎

 

崇峻五年(592年)11月3日、第32代・崇峻天皇が、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒によって暗殺されました

・・・・・・・・・・

この1ヶ月前の10月4日、崇峻(すしゅん)天皇のもとにイノシシが献上された時の事です。

目の前で料理されるイノシシを見て天皇はこうつぶやきました。
「あぁ、いつになったら、このイノシシの首を切るみたいに、憎たらしいアイツの首を切る事ができるんやろ・・・」

その天皇のつぶやきが、6日後には時の権力者・蘇我馬子の耳に入ります。
しかも、「何やら天皇が兵を集めている」という情報・・・

「このまま、天皇の襲撃を受けてはたまらん」と、崇峻五年(592年)の11月3日、なんやかんやと理由をつけて、天皇を儀式の席に誘い出し、配下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に、崇峻天皇を暗殺をさせたのです。

・・・と、『日本書紀』には書かれています。

出ました!またまた、突っ込みどころ満載の『日本書紀』!
(前日・前々日と聖徳太子一族の話題だったもので・・・)

『日本書紀』は公式文書です。
その文書に「国家元首が、配下の者に暗殺された」なんて事を書くのは前代未聞じゃありませんか?

確かに、幕末の孝明天皇の場合も暗殺説(12月25日参照>>)として、ブログに書かせていただきましたが、あくまで疑わしいというのであって、こんなにはっきり実行犯の名前まで記録しているなんて事はありません。

しかも、事件後に黒幕である馬子が処分を受けた様子もありません。

逆に、崇峻天皇は天皇であるにもかかわらず、その日のうちに埋葬されています。

当時は、位の高い人が亡くなった時はもがりと言って、2~3年間は鎮魂の儀式をするのが慣わしでしたが、そんなものは一切無く、一般人扱いで葬られてしまっています。

そんな事しといてお咎めなしはあり得ない出来事です。

『日本書紀』の言い分では、「馬子が周到な計画を立てて実行したために、詳しい事がわからなのでお咎め無しは仕方が無い」のだそうです。

その周到な計画というのは、・・・
天皇の遺体の埋葬が素早かった事。
事前に馬子の命令で、主だった臣下の者を九州に出張させていた事。

また、実行犯である東漢直駒が、事件直後に天皇の妃に手を出しちゃった・・・という事で、馬子に処刑されているのですが、、それがいわゆる口封じであって、真実を知る者がいない・・・と言うのです。

真実を知る者がいない・・・だから処分は無し・・・でも、暗殺とハッキリ書く・・・と、まったく、つじつまが合いません。

確かに、当時は、蘇我氏の目の上のタンコブであった物部氏を倒して、頂点を掌握していた蘇我馬子です。

崇峻天皇は、馬子と額田部皇女(後の推古天皇)とが擁立した傀儡(かいらい・あやつり人形)だったとも言われています。

しかし、豪族は蘇我氏だけではありません。

もし、本当に天皇が暗殺されたのであれば、他の豪族だって、出張先の九州からでも、即刻、馳せ参じて問題にしなければなりません。

天皇暗殺は、それくらい重要な出来事です。

この一大事件を罪に問わない・・・という不可解な結末の理由について、以前書かせていただいた推古天皇のページでは、崇峻天皇の次に天皇となる推古天皇自身がこの暗殺に関与していたからではないか?という事を書かせていただきました(3月7日参照>>)

臣下の者が天皇を暗殺したのではなく、天皇家同志の争いなら、当然、罪に問われる事はありませんからね・・・。

・・・という事で、前置きが長くなりましたが(えぇ?今まで前置きやったんかい!)、今日は、もう一つ、推古天皇黒幕説とは別の推理をしてみましょう。

蘇我馬子が、崇峻天皇を暗殺したのが、事実だったとして、もう一つ、罪に問われない場合があります。

それは、蘇我馬子こそが王であった場合です。

Susyuntennoukeizucc それ以前からくすぶっていた蘇我VS物部の関係が、実際の戦争となるのは、第30代・敏達天皇の後継者争いからです。

一般的な歴史でも、敏達天皇の二人の弟の間で後継者争いが起こり、物部氏が推していた穴穂部皇子が真っ先に殺され(6月7日参照>>)、もう一人の蘇我氏が推していた弟・用明天皇が即位しますが、この戦争が終る前に亡くなり、戦争が終った後に穴穂部皇子の弟・崇峻天皇が即位した事になってます。

この物部氏を倒した時に、蘇我氏が天皇家も陵駕していたとしたら、たとえ、崇峻天皇が馬子を倒そうと兵を集めても、それは、謀反となるわけです。

よって、謀反人を成敗したところで、馬子が罪を問われる事はありません。

ひょっとしたら、蘇我馬子→蝦夷→入鹿のこの蘇我氏三代は、この時、政権を握っていたのではないでしょうか。

「西暦600年に、日本から隋に使者がやって来た」と、日本には無い歴史が中国の『隋書』に書かれていて、この時の使いが「わが国の王は男である」と言ったという話は有名です。

日本では、西暦600年は女帝・推古天皇の時代・・・この男の王が誰のことを指すのかは、今も議論されるところですが、当時、蘇我氏が政権を握っていたのなら納得できる話です。

そして、敏達天皇のひ孫に当たる天智天皇(中大兄皇子)クーデターを起し、入鹿を暗殺して、政権を奪回したのです。

クーデターとは政権の無い者が現政権に対して行う物・・・国家元首の息子がクーデターを起す必要は無いわけですから、この時、やはり、天皇家には政権が無かったと考えるほうがつじつまが合います。

ただ、『日本書紀』を編さんした藤原氏にとっては、天皇家は万世一系の一本線でつながっていていただかなければ・・・その万系一世の天皇家を支え、サポートしたのが中臣鎌足に始まる藤原氏なのですから・・・。

蘇我氏が政権を握っていた間の重要な部分を推古天皇の在位として、歴史を書き換える事によって、天皇家は一本につながります。

推古天皇という初の女性天皇の誕生も、他の女性天皇が中継ぎの役割だったのに対し、推古天皇の在位期間が非常に長い事も、この時代の政権交代を暗示しているような気がします。

あくまで推理ですが・・・
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コメント

歴史が好きなので、こちらのブログで楽しく勉強させて頂きます。面白い!
今月出雲へ旅行するので、マンガ版古事記を読んでみたのですが、マンガ版でもややこしかったです。

投稿: hal@くるり京都 | 2007年11月 3日 (土) 19時40分

hal@くるり京都さま、コメントありがとうございます。
記紀の時代は、お母さんが違えば兄弟でも結婚の対象でしたから、人間関係だけでも、とてもややこしいですね~。

投稿: 茶々 | 2007年11月 3日 (土) 21時19分

茶々さん、こんばんは。
この時代辺りで天皇家は武力をもって戦う一族ではなく、すっかり公家化して象徴天皇となっていたのではないでしょうか?(それが顕著になったのが継体天皇?)
ただし、軍事力は突出しなくなっても(おそらくは初めて自分ちの家系図をキチンと書いた崇神天皇以来の)しっかりとした家格は維持していた。
なので、「◯◯政権」と言う言葉は極めて正しいのかもしれませんね。
新規参入の蘇我氏なら政権奪取にも抵抗感は少なかったと考えられますし。
この形態が後の藤原氏や平清盛、武家の頭領の面々から現在の政党政治まで続く訳で、まっ言ってみれば、この国の形のルーツがここにあるのかもしれない、などと茶々さんの徒然日記を読んで考えさせて頂きました。

投稿: とーぱぱ | 2016年10月25日 (火) 02時05分

とーぱぱさん、こんばんは~

そうですね。
謎は多いです。

この後、その蘇我政権から天智政権へ、そして天智から天武政権へと代わってからの、記紀編さんですから、このあたりの出来事には、記紀編さん時の政権の意向が含まれているかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年10月25日 (火) 03時32分

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