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2007年11月 7日 (水)

あの東郷ターンを生んだ武田信玄の甲州水軍

 

昨日の水軍つながりで、今日は、今年の大河の主役(主役は勘助か・・・)武田信玄の水軍について、書かせていただきます。

・・・・・・・・・

海の無い甲斐の国を治める武田信玄にとって、水軍を持つ事は長年の夢

「海を制する者は宇内(天と地の間)を制す」
と、ご本人もおっしゃってるように、海への進出には並々ならぬ情熱を持っていました。

そんな信玄が本格的に水軍を編成したのは、今川義元亡き後の駿河を攻略した永禄十一年(1568年)からの事です(12月13日参照>>)

念願の海を手に入れた信玄さん・・・しかし、さすがに甲斐の国の昔ながらの家臣たちには、海の知識はほとんどありません。

まずは、今川の旧臣で清水港を拠点としていた岡部長宗興津港伊丹康直らを船大将に登用します。

それから、伊勢・駿河の海を把握しつくしていた後北条氏の間宮武兵衛間宮御酒丞(みきのじょう)らをヘッドハンティング!

さらに、伊勢の北畠氏の旧臣・小浜景隆向井正勝には、50の艪(ろ)を持つ大型の安宅船(昨日のブログを見てちょ>>)を与えて、船隊の指揮をまかせます。

・・・と、仕方が無い事ですが、ほとんど助っ人による寄せ集め軍団

それでも、信玄は、清水を拠点とした駿河湾の制海権を掌握するため、来るべき、VS後北条氏との海戦を想定した、緻密な海上作戦をも考えていたのです。

それは、孫子の兵法(3月11日参照>>)をベースにした船隊の陣形を持つ甲州水軍独特の物です。

その基本の陣形は二つ・・・

まずは、『天地人の構え』
これは、船団を三手に分け、1手は正面から、他の2手は左右から敵の側面を狙う・・・という陣形です。

もう一つは、『陰陽の構え』
これは、船団を二手に分け、1手は正戦、もう1手は奇襲攻撃をかける・・・という物です。

『陰陽の構え』は、波の様子、気象条件によって『天地人の構え』が行えないとき用の作戦です。

結局、信玄が、この水軍を出して、実際に海戦をする事はありませんでしたが、天正八年(1580年)3月15日に、息子の勝頼駿河・浮島ヶ原の合戦で、北条氏直の水軍を迎え撃ち、水軍強しの北条氏と互角に戦っています。

武田氏滅亡の後、この甲州水軍の叡智は、向井・間宮・小浜らによって、徳川家康の水軍へと受け継がれ、山鹿素行といった軍学者が『甲州流軍学書』として書き残しました。

その軍学書を読んだうちの一人が、あの東郷平八郎です。

東郷はかなりの信玄兵法ファン。
信玄の出生地である甲府の積翠寺「信玄出生の地」なる碑を建立したくらいです。

東郷が、あの日本海海戦で、信玄の『天地人の構え』『陰陽の構え』を駆使し、ロシアのバルチック艦隊を破って、世界をアッと言わせたのは、信玄が水軍を組織した300年後の明治三十八年(1905年)の事でした。(5月27日参照>>)
 

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