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2007年12月31日 (月)

おせち料理とお雑煮の由来・起源

 

もはや語りつくされ、今更ながらで恐縮ですが、31日という事で、『おせちとお雑煮の由来』なんぞについてお話させていただきたいと思います。

まずは、「おせち料理」ですが、これは本来、「御節供(おせちく)料理」と呼ばれていた物で・・・
「人日(じんじつ)=1月7日」
「上巳
(じょうし)=3月3日」
「端午
(たんご)=5月5日」
「七夕(ひちせき)=7月7日」
「重陽
(ちょうよう)=9月9日」
・・・と、以上の季節の変わり目の五節句に神前にお供えした料理の事を指しました。

それが、いつしか、お正月の料理の事だけを「おせち」と呼ぶようになったんです。

正式なおせち料理は、4段重ねの重箱に詰め込みます。

一の重・・・口取り:きんとん・かまぼこ・ごまめ・黒豆・数の
       子・玉子焼きetc
二の重・・・焼き物:ブリ・イカ・エビetc
三の重・・・酢の物:紅白なます・酢レンコンetc
四の重・・・煮物:サトイモ・レンコン・クワイ・ゴボウ・シイタケ
       etc

もちろん、これらの食材にそれぞれ意味があるのは、ご存知の通りです。

代表的なものでは・・・
黒豆・・・マメに元気で暮らせるように
数の子・・・子だくさん
ゴマメ(田作り)・・・五穀豊穣
エビ・・・腰が曲がるまでの長寿
きんとん・・・黄金の団子
・・・などなど・・・。

一方の「お雑煮」の由来・起源としては、一つには、もともと、大晦日に作って神様にお供えした物であったとされています。

もちろん神様とは、『お歳暮の由来』(12月2日参照>>)『お年玉の由来』(12月25日>>)で度々登場している年神様です。

今では、元旦に作るようになってしまいましたが、本来は、こちらも、お年玉と同様、31日から神様にお供えして、神様の力をしっかりと吸収した食品を口にする事で、神様から霊的な力をいただこうという考えの物なのです。

このような神様にお供えした神聖な品を食べる事を「直会(なおらえ)と呼ぶのですが、九州の各地には、今でもお雑煮の事を「ナオライ」と呼ぶ地方があるそうです。

そして、もう一つ、コチラは書物に残るお雑煮の起源になるのですが、江戸時代の天保十四年(1843年)に書かれた『貞丈雑記』という書物には、南北朝時代伊良親王が戦いに敗れて伊勢に逃れた時、元旦に蛤の吸物と大根の汁物を食したのが、伊勢・尾張地方のお雑煮の起源であると書かれています。

それによると、『保蔵』と書いて「ほうそう」と読み、この「ほうそう」がお雑煮の本当の名前で、それには「五蔵を保養する」という意味があるのだとか・・・。

ただし、この伊良親王という人・・・あの後醍醐天皇の息子である宗良(むねなが)親王の息子という事なのですが、この人に関する史料がほとんど現存せず、その名前・伊良親王の読み方すら「ただなが」なのか?「ゆきよし」なのか?といった感じで、実在さえも疑問視する人も多くいるという人物なので、この場では、あくまで一つの説・・・「『貞丈雑記』にはこのように書かれている」という事をお伝えしておく・・・という形にとどめておきます。

ところで、このお雑煮・・・地方によって様々な作り方があるのは、もう、ご存知でしょう。
それこそ、千差万別。

特に材料などは書き出したらきりがありません。
家庭によっても、先祖伝来の特徴があったりします。

一つ一つはたいへんなので、その違いを大きく分けさせていただくと・・・
入れるお餅は・・・「丸餅か?切り餅か?」
そのお餅は・・・「焼いて入れるか?煮るのか?」
汁は・・・「すまし仕立てか?味噌仕立てか?」

・・・という分け方ができると思うのですが、関東は、「すまし仕立ての汁に、焼いた切り餅を入れる」というのが一般的でしょうか。

そして、関西は、「白味噌仕立ての汁で、丸餅を煮る」というのが多いようです。

私は、大阪ですが、やはり「白味噌仕立ての汁で、丸餅を煮る」というお雑煮です。

ただし、これは1月1日のお雑煮で、2日には「すまし仕立てで焼いた丸餅を入れる」という風に変わります。

おもしろい事に、すましか?味噌か?というのは、全国各地、混在しているのですが、お餅が切り餅か?丸餅か?というのは、けっこう東西で線引きできるのだそうです。

一部、江戸時代の国替えなどで、あてはまらない地域もあるのですが、おおむね「東はきり餅」、「西は丸餅」・・・このラインが例の、北は富山から関ヶ原を通って三重に抜ける日本列島を縦断するラインです。

麺類の代表がそばか?うどんか?
そのだしは、かつおだしか?こんぶだしか?
エスカレーターを立ち止まらずに歩く人は左か?右か?

様々な東西の文化がこのラインで分かれていると言われていますが、お雑煮に入れるお餅も例外ではないようです。

いずれにしても、このお餅自体が、神様にお供えする神聖な食べ物・・・という事は、全国に共通するところで、そのお餅を入れたお雑煮を、特別に用意した「雑煮箸」という専用の箸でいただくわけですから、まさに特別の特別=神様からの贈り物という意味合いがあった事は確かでしょうね。
 

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2007年12月30日 (日)

ついに禁止令!明治の決闘ブーム

 

明治二十二年(1889年)12月30日、『決闘罪ニ関スル件』・・・つまり、「決闘をすれば処罰されますよ」っていう法律=『決闘処罰令』が公布されました。

・・・・・・・・・・

何事も「禁止令」が出る背景というのは、だいたい同じような経緯をたどる物で・・・要するに、この頃、メッチャ決闘が大流行して、この法律も、困った末の禁止令というお決まりのパターンだったんですよねぇ。

明治に・・・決闘??
これも、文明開化の一つ?・・・西部劇で見るあの決闘が、西洋の風習の導入、時代の最先端とばかりにもてはやされたのだそうです。

もともと、ヨーロッパでも決闘は違法な行為ではなく、日本にも「果し合い」という物があり、それまでは、罪に問われる事は無かったのですが、あまりの流行に社会現象となり、「このままでは秩序が乱れる」として、『禁止令』の発布と相成ったのです。

もちろん、流行するには、『決闘』なる物を世間一般に知らしめた、ある出来事があったワケですが・・・

そもそもの発端は、前年の明治二十一年(1888年)6月18日、雑誌『日本人』に掲載された「三菱高島炭鉱の惨状」という記事に始まります。

新聞記者である松岡好一は、高島炭鉱を訪れ、そこで見聞きした炭鉱夫の労働の実態を記事にしました。

「その労働状況は過酷極まりない物で、まるで牛馬のごとく働かされ、炭鉱社長は閻魔大王のごとし」と・・・。

すると、今度は、それに反論する記事が「朝野(ちょうや)新聞」に掲載されます。

当時、立憲改進党で活躍していた政治家・犬養毅(いぬかいつよし)が、松岡の書いた炭鉱事情を否定し、炭鉱主側を正当とする論理を展開したのです。

これに、怒り爆発した松岡は、同じ年の9月・・・
「如何にも天下の公道に相背(あいそむ)き候と心外無念に存じ候」
・・・と、犬養に決闘状を送りつけました。

介添人が志賀重昴(しげたか)三宅雪嶺(せつれい)という、当時の有名人であった事もあって、この決闘の話題はたちまち大評判になります。

世間が事の成り行きに注目する中、決闘状を受け取った犬養は・・・
「日頃から、決闘なる物は野蛮な風習だと思っていて、こんなのは廃止すべきと考えているから、せっかくお申し込みいただいたけれど、それに応じる事はできません」
・・・と、あっさりと、右から左に受け流してしまったので、この決闘に関しては、これ以上、事態が悪化する事はありませんでした。

しかし、事が大きくなったのは、この後・・・世間一般の多くの人は右から左に受け流す事はできなかったんです。

「決闘が良いか?悪いか?」をめぐって、各地の法律学校では大討論会が開かれ、毎日のように新聞紙上をはじめ、いたるところで決闘論議が交わされる事になるのですが、議論を戦わせているだけなら良かったのです。

問題は、それに影響されて、本当に決闘の申し込みが相次ぐ事になってしまった事です。

それは、「猫も杓子も寄るとさわると決闘々々とせり詰める」と、称される程の社会現象と化しました。

ただし、まだ、この時は「決闘の申し込みが相次ぐ」だけで、実際に決闘を行う段階には至っていませんでした。

しかし、それこそ、ハヤリの波に乗り、勢い余って本当に被害者が出ては大変な事。

そうなる前に・・・とばかりに、明治二十二年(1889年)12月30日『決闘罪ニ関スル件』という法律を発布し、決闘を行った者には、「二年以上五年以下の重禁錮」の厳罰が科せられる事になったのです。

ちなみに、この法律、現在も立派に生きている現役の法律です。
(重禁錮は有期懲役に変更されていますが・・・)

この法律・・・明治のこの時は、すみやかに法律が制定されたおかげで、実際に決闘が広まる事もありませんでしたし、制定以来ほとんど適用される事がなく、長い間、過去の遺物として法律のみが存在する状態となっていました。

しかし、残念ながら、最近になって適用される事例がいくつかあるそうです。

不良少年グループのリーダー同士などの間で行われる、いわゆる「タイマン」というヤツが、この法律の決闘の定義に当てはまるのだとか・・・。

もちろん、実際に殴りあった当人だけではなく、あおった人、止めなかった人、見ていた人等等・・・関係者すべてに適用されますので、くれぐれもご注意を・・・

決闘は時代劇の中だけにとどめておきたいものです。
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2007年12月29日 (土)

東海道線に食堂車・登場!

 

明治三十四年(1901年)12月29日、東海道線の急行列車に食堂車が登場しました

・・・・・・・・・・・・・

・・・と、言っても、それ以前の明治三十二年(1899年)に、民営の山陽鉄道神戸⇔広島間で、食堂車らしき物はすでに走っていました。

しかし、それは、「一等車両の一部に食事ができるコーナーを設置した」といった感じの物で、現在「食堂車」と聞いて、頭に思い描く感じの食堂車では無かったようで、やはり、本格的な食堂車は、明治三十四年(1901年)12月29日に登場した官設の東海道線の物・・・という事になるかと思います。

ただし、これも新橋⇔神戸間のすべてを走っていたわけではなく、つないだり、切り離したり・・・と、メチャメチャややこしい物だったんです。

・・・と、言うのも、食堂車をつないだままでは、当時、難所と言われていた箱根と逢坂の山を越える事ができなかったんですねぇ。

まぁ、以前も書かせていただきましたように、あの『鉄道唱歌』が発表されたのが、前年の明治三十三年(1900年)(5月18日参照>>)ですから、あの雰囲気を想像してみると、少しは納得できる感じですね。

とにかく、食堂車・1両を連結して新橋を出発した列車は、国府津(こうず)でこれを切り離し沼津にて今度は2両を連結して馬場(膳所・ぜぜ)で、また切り離す

そして、京都で、またまた1両を連結して終点・神戸まで向かう・・・といった物でした。

そんなこんなの食堂車は、とにかく高級志向・・・もともと、1等・2等車両を利用する紳士たちの社交場的な目的で作られたのが食堂車ですから、当然っちゃ-当然なんですが・・・。

では、では、東京精養軒が担当した、開業当時のメニューをご紹介。

12銭スープ、オムレツ、魚フライ
15銭タンシチュー、コールドチキン、ビフテキ、ライスカレー(カレーライスではなくライスカレーな所が、いかにも高級そうです~)
その他に、パン3で、コーヒー5銭

「汽車の料理屋」と呼ばれた食堂車・・・上記の値段はすべて、単品の値段です。

やがて、単品だと、ややこしかったのか、明治三十九年(1906年)になると、セットメニューに変更されます。

メニュー名は「西洋料理」となり、1等が70銭、2等が50銭で、他にビール25銭コーヒー5銭

かけそばがだいたい2銭5厘の時代だそうですから、列車内での食事としてはかなりのお値段という事になります。

とても、とても、庶民には、手が出るシロモノではありませんから、当然のごとく食堂車は、最初の目的通り、高級紳士・淑女の社交場としての役目をはたす事になります。

一般庶民が利用する3等列車に食堂車が登場するのも、やはり明治三十九年。

こちらには、洋食35銭で、和食の朝食20銭で登場・・・それでも高い気がするけど、朝食のしじみ汁は大人気だったとか・・・。

当時は長時間乗りますからねぇ。

現在は、列車の運行速度が向上して、あまり長時間乗車する事が無くなったため、ごく少数の列車のみのサービスとなってしまった食堂車。

けっこう旅情をそそられる物だっただけに、少なくなるのは寂しいですが、駅弁という楽しみもあるので、まぁ、ヨシとしましょう。

駅弁・お茶・冷凍みかん・・・この三種の神器は不動のアイテムですね~。

普段まったく食べない冷凍みかんを、電車に乗る時だけ買っていたのは、どういういきさつなのか?未だにわかりませんが・・・。

アッ!しまった!
ゆで玉子を忘れるところでした~まわり塩だらけのヤツ・・・
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6月の歴史の出来事カレンダー

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

  6azisaicc_2

 
 

出来事とリンク
1 1183
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1582
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1785
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1868
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1918
篠原の合戦
 【無残やな 甲の下の篠原の合戦】
信長が本能寺にて茶会を催す
 【天正十年6月1日~本能寺・前夜】
秋田藩主・佐竹義敦が死去
 【「秋田蘭画」の佐竹義敦と小田野直武】
北越戊辰戦争・今町攻略戦
 【河井継之助の時間差攻撃~今町攻略】
板東俘虜収容所で捕虜が第九を演奏
 【武士の情けの収容所に響く「歓喜の歌」】
2 1186
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1575
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1582
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 .
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1615
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1894
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1905
平頼盛が死去
 【生き残った清盛の弟・平頼盛】
備中兵乱で三村元親が自刃
 【第3次・備中松山合戦、三村元親自刃】
本能寺の変
 【本能寺の変~『信長公記』より】
 【その時、安土城では…】
 【数時間のタイム・ラグを埋める物は?】
 【家康、暗殺計画説】
 【信長の首は静岡に?】
海北友松・没
 【小谷落城の生き残り~友松の熱い思い】
伊藤博文内閣が朝鮮への派兵を決定
 【近代日本の日清戦争への足音】
津田出が没す
 【明治政府のモデルとなった藩政改革】
3 1582
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1614
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1647
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1853
富山・魚津城攻防戦
 【柴田勝家未だ信長の死を知らず・・】
板部岡江雪斎・没
 【世渡り上手な外交軍師・板部岡江雪斎】
本多政重・没
 【エリートから波乱万丈~政重・流転の半生】
ペリーが浦賀に到着
 【黒船来航~そこには琉球の運命も・・・】
 【ペリーが予測した「ものづくり日本」】
4 822
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1570
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1582
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 .
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1611
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1612
 ,
1711 
最澄・没
 【比叡山を日本仏教の母山とした最澄】
野洲川の戦い
 【背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い】
羽柴秀吉が備中高松城を落とす
 【備中高松城・落城~清水宗治・自刃】
徳川家康が伊賀越えをする
 【徳川家康・決死の伊賀越え】
真田昌幸が没す
 【徳川に2度勝った男…智将・真田昌幸】
前田慶次郎・没
 【人気の慶次郎~爺ちゃんでもカッコイイ!】
伊達綱宗・没
 【遊郭通い?綱宗の汚名を晴らしたい】
5 1028
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1589
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1590
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1684
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1864
平忠常の乱が勃発
 【源平合戦に繋がる…平忠常の乱・勃発】
摺上原の合戦で伊達政宗が勝利
 【破竹の独眼竜・摺上原の戦い】
伊達政宗が、秀吉の小田原攻めに参陣
 【決死の死装束~政宗の小田原参陣】
井原西鶴が大矢数で新記録樹立
 【一昼夜に2万余句~西鶴「吟じます!」】
新撰組が池田屋を襲撃
 【新撰組・絶好調!池田屋事件】
6 1281
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1333
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1582
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1615
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1893
元軍が博多湾に侵入
 【第2次蒙古襲来~弘安の役】
後醍醐天皇が京入り新政を開始
 【後醍醐天皇の建武の新政】
豊臣秀吉が高松城を出発
 【秀吉の大バクチ・中国大返し】
母里太兵衛友信が死去
 【母里太兵衛~これぞ真の黒田武士】
寺島宗則が死去
 【条約改正に尽力した電気通信の父】
7 587
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760
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1575
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1863
1866
蘇我馬子が穴穂部皇子を誅殺
 【物部滅亡ヘのカウントダウン~穴穂部・誅殺】
光明皇后・没
 【慈愛と懺悔の藤原氏期待の星】 
備前常山城が落城~常山女軍の戦い

 【女戦士・鶴姫の勇姿~常山女軍の戦い】
高杉晋作・奇兵隊を結成
第二次・長州征伐開始
 【高杉晋作と幕末の人々】
8 1216
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1562
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1582
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1866
鴨長明・没
 【鴨長明さんのご命日なので・・・】
毛利元就が石見銀山を手に入れる
 【銀山争奪戦~尼子氏衰退のポイント】
本田・北方合戦
 【本能寺のドサクサ…稲葉一鉄VS安藤守就】
第二次長州征伐・大島口攻防戦
 【第二次長州征伐・開始~大島口攻防戦】
9 1353
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1488
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1558
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1582
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1590
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1619
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1866
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1887
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1894
南朝に降った山名父子が京都に進入
 【足利直冬と山名時氏・師氏の談合】
加賀一向一揆で富樫正親が自刃
 【長享一揆~高尾城の戦い】
 【加賀一向一揆は、なぜ100年続いたか?】
 【一味同心・一揆へ行こう】
白川口(北白川)の戦い
 【義輝VS三好長慶~白川口の戦い】
光秀が幽斎に同調を求める書状を送る
 【明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道】
石田三成が忍城攻略のため堤防を築く
 【小田原征伐!水の要塞・忍の浮城】
福島正則が信濃川中島へ減封
 【戦国とともに…福島正則の転落人生】
大坂城の堀から未確認生物の死体
 【大阪城の堀に恐竜がいた?】
花井お梅が八杉峰三郎を殺害
 【『明治一代女』花井お梅の心意気】
大鳥圭介が海軍陸戦隊と供に仁川に上陸
 【いよいよ日清戦争へ…】
10 671
 .
 .
1225
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1536
 .
1595
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1863
初めて漏刻にて時を知らせる
 【漏刻で時間を…飛鳥・プロジェクトX】
 【時間にキッチリ?奈良の都の勤め人】
大江広元・没
 【大江広元を祖に持つ戦国武将…4本目の】
花倉の乱で岡部親綱が方ノ上城を攻撃
 【今川義元登場!花倉の乱】
松平忠直・誕生
 【暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!】
緒方洪庵・没
 【緒方洪庵と適塾】
11 1172
 .
1582
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 .
 .
1602
 .
1615
平清盛が厳島神社に法華経を奉納する
 【平清盛と厳島神社】
明智光秀、洞ヶ峠に布陣
 【洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀】
 【光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…】
 【古文書の虚偽と真実~歴史の醍醐味!】
藤堂高虎が今治に築城開始
 【戦国随一の築城術~藤堂高虎】
古田織部・自刃
 【家康暗殺計画は本当にあったのか?】
島津忠恒の「真田日本一の兵」発言
 【「真田日本一の兵」by忠恒の心の内は】
12 645
 .
 .
1589
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1597
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1893
蘇我入鹿・暗殺「乙巳の変」
 【入鹿暗殺≠大化の改新】
 【乙巳の変の首謀者は誰か?】
上杉景勝が佐渡を攻略
 【金のなる木は俺のモノ!景勝・佐渡攻略】
小早川隆景・没
 【自らの死後も見据える智略の将=隆景】
清水次郎長・没
 【海道一の大親分・その知られざる後半生】
13 1011
 .
1224
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1579
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1582
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 .
1615
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1691
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1798
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1866
一条天皇が譲位
 【一条天皇、悲しみの譲位】
北条義時が死去
 【鎌倉2代執権~北条義時の最期の謎】
竹中半兵衛が陣中で病死
 【流星のごとく駆け抜けた天才軍師】
山崎の合戦
 【天下分け目の天王山!】
 【本能寺の変・秀吉黒幕説】
徳川幕府が「一国一城令」を発布
 【天下人だけが成しえた城割の重要性】
朝日文左衛門が鸚鵡籠中日記の執筆開始
 【公費で…朝日文左衛門の出張日記】
本居宣長の『古事記伝』が完成
 【宣長と『古事記伝』…未だ夢の途中】
第二次長州征伐で長州が大島を奪回
 【高杉の奇襲で幕を開けた大島奪回作戦】
14 645
 .
1181
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1467
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1541
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1586
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1866
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1932
第36代・孝徳天皇が即位する
 【蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説】
横田河原の合戦
 【北陸に義仲あり!横田河原の合戦】
後花園天皇が出家を決意
 【乱の責任を感じ…後花園上皇の出家】
武田信玄が父・信虎を追放する
 【信玄が父・信虎を追放したワケは?】
秀吉の要請を受けて上杉景勝が上洛
 【上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事】
第二次長州征伐・芸州口の戦い(小瀬川)
 【明暗分ける芸州口の戦い】
新島八重(山本八重子)・没
 【幕末から昭和を駆けた新島八重】
15 1572
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1580
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1582
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1584
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1592
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1678
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1868
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1963
日宮城攻防戦
 【謙信VS一向一揆~日宮城攻防戦】
祝山合戦
 【宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦】
安土城が炎上する
 【安土城・炎上】
 【明智秀満の湖水渡り】
蟹江城び羽柴秀吉の水軍が入城
 【小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦】
梅北の乱(梅北一揆)勃発
 【歴史のifを思う…謎多き梅北の乱】
東福門院徳川和子が逝去
 【天皇と徳川の架け橋に…徳川和子】
東武皇帝が即位
 【もう一人の天皇?東武皇帝・即位事件】
「上を向いて歩こう」が全米チャート1位に
 【すき焼きは、日本=国際的の証】
16 848
 .
1590
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1659
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1866
疫病退散祈願で菓子を供える「和菓子の日」
 【和菓子の歴史~そのルーツと豆知識】
忍城攻めの堤防が決壊(小田原征伐)
 【忍城…留守を守った成田夫人と甲斐姫】
生駒高俊・没
 【生駒騒動を引き起こした美少年好き】
 【生駒騒動を引き起こした亡霊】
第二次長州征伐・石州&小倉口の戦い
 【晋作・龍馬・益次郎~役者が揃った・・・】
17 1176
 .
1569
 .
1592
 .
1854
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1857
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1866
 .
1869
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1885
義経と弁慶が五条大橋で対面
 【義経と弁慶、運命の出会い】
武田信玄の長女・黄梅院が死去
 【乱世に咲いた可憐な花・黄梅院殿】
梅北の乱(梅北一揆)終結
 【歴史のifを思う…謎多き梅北の乱】
琉米和親条約・締結
 【黒船来航~そこには琉球の運命も・・・】
阿部正弘・没
 【連合を図った瓢箪鯰~未だ夢の途中】
第二次長州征伐で長州が小倉に再び上陸
 【いよいよ大詰め~長州・小倉口ゲリラ作戦】
版籍奉還・発布と華族制を定む
 【明治政府が華族制度を造ったワケは?】
淀川大洪水(~18日)
 【明治の災害~明治十八年淀川大洪水】
18 1582
 .
 .
 .
1587
 .
1723
神流川の戦い
 【本能寺の余波!神流川の戦い】
河尻秀隆が死亡
 【余波に散る織田の重臣・河尻秀隆】
秀吉が「六月十八日付覚」を発布
 【2日連続の二つの『切支丹禁止令』】
徳川吉宗は「足高の制」を制定
 【徳川吉宗の「享保の改革」に学ぶこと】
19 645
 .
1570
 .
1587
 .
1787
 .
1866
元号を大化と定める
 【元号のお話】
浅井討伐に信長が岐阜城を出陣
 【いよいよ姉川…小谷に迫る信長と家康】
豊臣秀吉が「切支丹禁止令」を発布
 【切支丹禁止令を今日出したワケは?】
松平定信が「寛政の改革」に着手
 【「寛政の改革」は個人的恨みから・・・】
第二次長州征伐・芸州口の戦い(四十八坂)
 【明暗分ける芸州口の戦い】
20 941
 .
1349
 .
1510
 .
1590
 .
 .
1652
 .
1884
藤原純友・没
 【海賊将軍~藤原純友・天慶の乱】
雲景の魔界体験
 【魔界へ訪問…太平記の「雲景未来記」】
長森原の戦い
 【長尾為景が上杉顕定に勝利~長森原】
天正遣欧少年使節が8年ぶりに帰国
 【天正遣欧少年使節の帰国】
 【戦国の活版印刷と世界最古の印刷物】
幕府が若衆歌舞伎と男色を禁止
 【男と男のアブナイ関係…若衆歌舞伎】
女性の医術開業試験の受験を認可
 【初の女医が二人?楠本イネと荻野吟子】
21 756
 .
1185
.
1517
 .
1646
 .
1669
 .
1681
 .
1872
東大寺の正倉院・建立
 【正倉院・アッと驚く豆知識】
平宗盛が斬首される
 【愛溢れる敗軍の将~平宗盛】
第3次・引馬城の戦い
 【今川氏親~引馬城の戦い×3】
鮭延秀綱・没
 【直江兼続を手玉に取った最上の重臣】
シャクシャインの戦い・勃発
 【北の大地に蜂起!シャクシャインの戦い】
越後騒動の詮議開始
 【徳川綱吉の恨み?~越後騒動の結末】
山内容堂・没
 【鯨海酔侯・容堂…幕府存続に賭けた日々】
22 1205
 .
1648
 .
1867
 .
1940
1941
武蔵二俣川の合戦で畠山重忠が敗死
 【畠山重忠の最期~武蔵二俣川の合戦】
松平正綱・没
 【松平正綱が日光に造った「人生の並木路」】
船中八策を土台に土薩盟約成立
 【龍馬の「船中八策」土薩盟約~大政奉還】
フランスがドイツに降伏
ドイツがソ連に攻撃を開始
 【史上最恐の暗号・エニグマ】
23 1185
 .
1507
 .
1571
 .
1590
平重衡・斬首
 【捕らわれた敵将との恋…平重衡と千手】
細川政元・暗殺
 【戦国の幕を開けた男~細川政元・暗殺】
島津貴久・没
 【島津四兄弟の父となった中興の祖・貴久】
秀吉の小田原攻めで八王子城が陥落
 【最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦】
 【八王子城の怖い伝説】
24 672
 .
1441
 .
 .
1542
 .
1549
 .
1564
 .
1581
 .
1611
 .
1613
大海人皇子が吉野を出発
 【吉野出発で壬申の乱勃発】
嘉吉の乱
 【将軍暗殺!赤松満祐の嘉吉の乱】
 【万人恐怖のくじ引き将軍・足利義教】
武田信玄が信濃攻略開始
 【武田信玄・信濃攻略への第一歩in諏訪】
江口の戦い
 【三好長慶が天下を取る~江口の戦い】
上杉謙信が弥彦神社に願文を奉納
 【上杉謙信の「武田晴信悪行の事」】
清源寺是鑑が直江兼続に占いの報告
 【上杉に仕えた軍師・清源寺是鑑】
加藤清正・没
 【加藤清正・疑惑の死】
可児才蔵・没
 【笹の才蔵~愛宕にまつわる死の予言】
25 672
 .
1189
 .
1882
 .
1884
大海人皇子一行に高市皇子が合流
 【壬申の乱~大海人皇子の鈴鹿越え行軍】
頼朝が「泰衡追討の院宣」を要求する
 【頼朝が『泰衡追討の院宣』を要求】
新橋⇔日本橋間で東京馬車鉄道・開業
 【鉄道馬車と『車会党』】
フェノロサと岡倉天心が救世観音を調査
 【日本美術の救世主・フェノロサと岡倉天心】
26 930
 .
1368
 .
1419
 .
1499
 .
1555
 .
1559
 .
1582
 .
1590
 .
1748
清涼殿への落雷で公家たちが死傷
 【清涼殿に落雷!菅原道真の怨霊か?】
南禅寺事件に幕府が軍隊を動員
 【坊さんどうしのケンカに幕府が…】
朝鮮半島の李氏朝鮮が、対馬に来襲
 【朝鮮軍来襲!応永の外寇】
龍安寺の石庭が完成
 【世界一有名な龍安寺の石庭が完成】
信長の弟・織田秀孝が射殺される
 【秀孝射殺事件~その処置に問題あり?】
上杉謙信が関東管領並みの格式を得る
 【名誉?重荷?謙信にとっての関東管領職】
森長可が大森城包囲
 【本能寺直後~森長可の東濃制圧前半】
石垣山一夜城・完成
 【秀吉・もう一つの一夜城~石垣山城の謎】
前田重煕への毒殺未遂が発覚
 【加賀騒動~大槻伝蔵の無念】
27 1483
 .
1578
 .
1582
.
1615
 .
1939
銀閣寺・完成
 【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】
秀吉が播磨神吉城を攻撃
 【秀吉の中国攻め~神吉城攻防戦】
清洲会議
 【清洲会議~信長の後継者】
大野治胤が処刑される
 【灰になっても…大野治胤の壮絶最期】
林権助・没
 【敗者だからわかる平和…外交官・林権助】
28 1556
 .
1570
.
.
.
1739
 .
1793
謙信の出家願望~駒返の戦い
 【謙信の出家願望と大熊朝秀~駒返】
姉川の合戦
 【信長の判断ミス?姉川の合戦】
 【姉川の七本槍と旗指物のお話】
 【遠藤喜右衛門・命がけの奇策in姉川】
松本藩主・水野忠恒が没す
 【勘違い水野忠恒の刃傷・松の廊下】
高山彦九郎が自刃
 【勤皇の先駆者・高山彦九郎~謎の自刃】
29 672
.
.
1841
壬申の乱で大海人皇子側が飛鳥を制圧
 【壬申の乱~大伴吹負・飛鳥を制圧!】
 【壬申の乱での装備や武器は?】
松浦静山が死去
 【老いても…『甲子夜話』を著した静山】
30  .
 .
1336
 .
1635
 .
.
 .
 
1898
夏越の祓え
 【茅の輪くぐり神事のお話】
京都合戦
 【尊氏VS義貞の一騎打ち?京都合戦】
徳川家光が参勤交代の制度を定める
 【参勤交代、始まる】
 【大江戸・旅マニュアル】
 【箱根の関所は6ヵ所あった?】
初の政党内閣・隈板内閣誕生
 【大隈重信~初の政党内閣・誕生】
1584 豊臣秀吉が大坂城に果心居士を招く
 【秀吉を驚愕させた幻術師:果心居士】
第3日曜 父の日
 【父の日・事始め】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・18日 観音様の縁日
 【観音様のお話】
毎月・19日 トークの日
 【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
毎月・24日 かつお節の日
 【かつお節の歴史】
愛宕の縁日
 【愛宕神社のお話】
地蔵の縁日
 【お地蔵様のお話】
毎月・25日 天神の縁日
 【菅原道真・没】
毎月・26日 風呂の日
 【お風呂の歴史】
毎月・28日 鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
不動明王の縁日
 【不動明王のお話】
毎月・30日 みその日
 【お味噌の歴史+味噌天神のお話】
毎月・末日 そばの日
 【お蕎麦の歴史】

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2007年12月28日 (金)

風林火山~孫子兵法・全十三章:目次

 

Sonsihatamokuzicc 2007年の大河ドラマ・風林火山の放送に合わせて、この2007年には、ほぼ1年に渡り、風林火山の旗印のもととなった『孫子』の全十三章を、普段の歴史ページ更新の合間、おりに触れて、ご紹介させていただきました。

このページは、バラバラな日づけで公開した、それらのページを見やすくするための目次として制作しました。

このページを起点に各ページを閲覧・・・という形で利用していただければ幸いです。

 

・‥…━━━☆

 

また、このブログにupした個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
 .
 

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順徳天皇の心の内は・・・

 

承元四年(1210年)12月28日、土御門天皇が退位し、守成親王が第84代・順徳天皇として即位しました

・・・・・・・・・・

第84代・順徳天皇・・と聞いて、すぐに『承久の乱』を思い出せる人はスゴイです(゚ー゚;。

承久の乱は、何かと、オヤジさんの後鳥羽上皇が目立っていて、順徳天皇はその影に隠れてる・・・って感じがしますからね。

そう、順徳天皇は、後鳥羽上皇の第三皇子・・・この順徳天皇の生母が、メチャメチャ後鳥羽上皇に愛されていたため、彼もその寵愛を一心に受ける事となったのです。

そんな後鳥羽上皇の強い働きかけで、土御門天皇は退位し、この承元四年(1210年)12月28日にその後を継いで即位したのです。

温厚でおとなしい土御門天皇とは違って、順徳天皇は気性の激しい人だったようですが、この頃は、もっと気性の激しい父・後鳥羽上皇が院政をしいていたため、政治面では、「何をした」と、特筆するような実績を残せずじまいでした。

しかし、その気性の激しさは、歌の面で発揮されます。

18歳の時には、あの『小倉百人一首』で有名な藤原定家(5月27日参照>>)に、歌で勝負を挑んだりなんかしてますし、他の人との勝負のジャッジを定家に頼んだりもしています。

確かに、歌では、単なる強気だけでははく、実力も、ともなっていたようで、わずか9歳で『古今集』竟宴(きょうえん・編集後の宴会)に、物歌人に混じって名を連ねたり『新古今集』の撰者にもあげられています。

しかし、そんな天皇の生活は、承久三年(1221年)に一変します。

その二年前に、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝が暗殺され、頼朝の直系の源氏が途絶えてしまったのを、絶好のチャンスと見た後鳥羽上皇が、幕府打倒に兵を挙げた・・・これが世に言う承久の乱です。(5月14日参照>>)

気性の激しいオヤジのとばっちりで・・・と言いたいところですが、実は、順徳天皇はけっこうノリノリで、オヤジさんの計画に関わっていたようで、挙兵の1ヶ月前の4月には、息子・懐成(かいなり)親王に皇位を譲って、上皇という自由な立場になって、はりきって参加しています。

しかし、彼が迎え撃ったのは、天皇家の謀反という前代未聞の実態に、逆に結束を固めた鎌倉武士・19万という大軍でした。

あっという間に敗退し、7月には佐渡へと流される順徳天皇・・・この時、25歳という若さでした。

それから20年余り、島を一歩も出る事なく仁治三年(1242年)9月12日46歳で、彼はこの世を去りました。

お互いに切磋琢磨して、歌の道に励んだ藤原定家は、さすがに『新勅撰和歌集』には、鎌倉幕府に気をつかって、順徳天皇の歌を選ぶ事はありませんでしたが、あの『小倉百人一首』には、しっかりとその歌を採用して、順徳天皇の心の内を偲んでいます。

♪百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも
 なほあまりある 昔なりけり♪

「皇居は軒にしのぶ草が生えるほど荒れ果ててしまった・・・華やかだった昔が懐かしい」

父とともに、現実の状況を、見事に見誤ってしまった順徳天皇。

彼もノリノリだったとは言え、生涯流罪となるには、25歳というのは、少し若すぎる・・・お気の毒でなりませんねぇ。

♪ながらえて たとえば末に かえるとも
 憂
(う)きはこの世の 都なりけり♪
 .

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7月の歴史の出来事カレンダー

 

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

 7asagaocc

 

 

 
 

出来事とリンク
1  .
 .
1281
 .
1863
祇園祭
 【京都・祇園祭の由来】
嵐で元軍が壊滅し弘安の役が終結
 【第2次蒙古襲来~弘安の役に神風が…】
イギリスが薩摩への強硬姿勢を決定
 【未遂に終った「スイカ売り決死隊」】
2 672
 .
798
 .
1156
 .
1338
 .
 .
1580
 .
1848
 .
1863
壬申の乱・大海人軍進発と朝廷軍内紛
 【大海人皇子・進発…その時朝廷軍は】
清水寺・建立
 【田村麻呂が清水寺建立に込めた思い】
鳥羽天皇・崩御
 【保元の乱のきっかけを作った天皇の死】
新田義貞・討死
 【運命を変えた遭遇戦…義貞の最期】
 【恋に戦に・新田義貞の純情】
花隈城の戦いが終結
 【荒木村重VS池田恒興~花隈城の戦い】
雪の殿様・土井利位が没す
 【顕微鏡で観察…雪の殿様・土井利位】
薩英戦争・勃発
 【薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ】
3 607
 .
1549
 .
1573
 .
1578
 ,
1582
 .
1585
 .
1683
 .
1912
第一回遣隋使・小野妹子を派遣
 【国書を失くした小野妹子が出世する】
フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸
 【ザビエルが以後よく広めるキリスト教】
信長の大船が完成
 【琵琶湖の水運と織田信長の大船建造】
上月城内にて尼子勝久が自刃
 【山中鹿之介奮戦!上月城の攻防】
森長可が加治田城を攻撃
 【森長可の東濃制圧後半戦…】
甲斐宗運(親直)が没す
 【島津を翻弄した阿蘇の軍師:甲斐宗運】
松平忠輝・死去
 【幕府転覆??松平忠輝の長い勘当】
新世界ルナパークと通天閣が誕生
 【新世界ルナパークと初代通天閣の誕生】
4 672
 .
757
 .
1863
壬申の乱で大和周辺の戦いが勃発
 【伊賀で当麻で箸墓で…大和の戦い】
橘奈良麻呂の乱
 【歴史の闇に消えた橘奈良麻呂の乱】
薩英戦争・終結
 【薩英戦争を挟んで…孝明天皇と島津久光】
5 1215
 .
1546
 .
1564
 .
1590
 .
 .
1949
栄西が死去
 【茶祖・栄西がまいた臨済宗とお茶の種】
信玄が春日源助へ手紙を…
 【春日源助殿へ~武田信玄のラブレター❤】
宇佐美定満と長尾政景が溺死
 【宇佐美定満~長尾政景とともに池の中】
小田原城・開城
 【城攻めの天才・秀吉VS北条の籠城作戦】
 【小田原城・開城への道】
下山定則・国鉄総裁が行方不明に…
 【謎の下山事件】
6 723
 .
781
 .
825
  .
1783
 .
1794
 .
1858
太安万侶・没
 【古事記をSFとして読めば・・・】
富士山・最古の噴火
 【富士山~最古の噴火記録】
高棟王が平姓を賜って臣籍に下る
 【「八色の姓」を払拭…桓武平氏の誕生】
浅間山が大噴火
 【天明の大噴火~鎌原村の秘話】
慶光天皇・崩御
 【歴代天皇表にない天皇~尊号一件】
第13代将軍・徳川家定が死去
 【動乱の将軍・徳川家定…暗殺疑惑】
7  .
 .
 .
 .
 587
 .
747
  .
1364
 .
1615
 .
2007
2008
2009
七夕の由来と様々な伝説
 【日本の七夕伝説~天稚彦物語】
 【星月夜の織姫~大阪・池田の民話】
 【南西諸島の七夕伝説】
蘇我VS物部合戦で物部守屋が討死
 【決戦~物部守屋の討死と鵲森宮】
七夕の宴で、初の相撲が行われる
 【七夕の夜に日本最古のK-1ファイト】
光厳天皇が崩御
 【最期は心安らかに…波乱万丈の光厳天皇】
徳川幕府が「武家諸法度」を発布
 【「武家諸法度」…元和偃武に徳川の基礎】
京阪電車・七夕イベント~織姫&彦星の出会い
 【京阪電車イベントと交野ヶ原七夕伝説】
 【京阪電車・新車両と七夕イベント】
 【京阪電車・七夕イベント2009】
8  .
  .
1176
 .
1578
 .
1582
1588
質屋の日
 【質屋の歴史】
建春門院・平滋子が死去
 【平家の盛と衰を導いた女性…平滋子】
本願寺が雑賀衆に信長迎撃を要請
 【雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは・・】
秀吉が近江で初の検地を実施
刀狩令・海上賊船禁止令を発布
 【太閤検地と刀狩り】
 【瀬戸内水軍の全盛期と没落~村上武吉】
9  .
  .
672
 .
1333
 .
1615
 .
1854
 .
1864
.
1868
ほおずき市
 【ほおずき市の起源は頼朝さん】
壬申の乱で鳥籠山の戦い
 【大津京へ迫る大海人軍・近江の戦い】
幕府軍の全面降伏で阿蘇治時ら処刑
 【鎌倉幕府軍…最後の全面降伏】
徳川家康が豊国神社の破却を命令
 【豊臣の影を払拭…豊国神社・破却】
幕府が日の丸を日本船の船印に定める
 【日の丸はいつから国旗になった?】
下妻夜襲
 【天狗党大暴れ!下妻夜襲】
水野忠徳が死去
 【小笠原諸島を守った「屏風」水野忠徳】
10  .
 .
1316
 .
1525
 .
1587
 .
1623
 .
1651 
ボーナスシーズンなので・・・
 【日本で初めてのボーナスは?】
北条高時が第14代執権に…
 【鎌倉幕府14代執権・北条高時】
尼子経久が、毛利・大内氏を攻撃
 【覇権をめぐって~幻の毛利と尼子の縁組】
肥後国人一揆・勃発
 【佐々成政の失態~肥後・国人一揆】
徳川秀忠が南宗寺を参詣
 【南宗寺の無銘の塔~家康のお墓説】
松平定政が突然の出家
 【将軍の死に所領返上…定政・出家事件】
11 1156
 .
 .
1225
 .
1600
 .
1864
保元の乱
 【武士の時代の幕開け…保元の乱】
 【天皇・摂関・源平…それぞれの保元の乱】
北条政子・没
 【北条政子~尼将軍・誕生への道】
大谷吉継が石田三成に賛同
 【関ヶ原への決意~大谷吉継と石田三成】
佐久間象山が斬殺される
 【思想家・佐久間象山~幕末の京に散る】
12 1192
 .
1303
 .
1490
 .
1581
 .
1596
 .
1908
源頼朝が征夷大将軍に任ぜられる
 【鎌倉幕府の誕生は…いつ?】
北山十八間戸を造った忍性が没す
 【「衆生救済」…北山十八間戸と忍性】
一乗山の戦い
 【乱が終わっても~畠山義就VS政長】
秀吉・鳥取城の包囲完了
 【鳥取城攻防戦~秀吉の兵糧攻め】
瓜生島を大津波が襲う
 【日本のアトランティス~瓜生島・沈没伝説】
旧桑名藩主・松平定敬が没す
 【兄・容保とともに…桑名藩主・松平定敬】
13 1128
 .
  .
1221
 .
1516
 .
1576
 .
1590
藤原清衡・没
 【奥州藤原氏・100年の基礎を築いた清衡】
オカルトの日
後鳥羽上皇・隠岐に流罪となる
 【オカルトの日と後鳥羽上皇】
北条早雲が相模を平定す
 【新井城の攻防!北条早雲・相模を制覇】
第一次木津川口海戦
 【織田信長を悩ませた村上水軍】
家康に関八州への転封命令が出される
 【秀吉の失策?小田原城での論功行賞】
 【徳川家康…江戸転封の発想の転換】
14 70
 .
1156
 .
1197
 .
 .
1600
 .
1633
 .
1867
 .
1871
垂仁天皇・崩御
 【垂仁天皇が~佐保の中心で「愛」を叫ぶ】
藤原頼長・没
 【保元の乱に散った藤原頼長の悲しい末路】
源頼朝の娘・大姫が病死
 【源頼朝の愛娘・大姫のお話】
 【大姫の死にまつわる疑惑】
大谷吉継が北陸諸将の勧誘に…
 【関ヶ原へ向けて…北陸と越後が動く】
前田利政・没
 【利政に見る親兄弟が敵味方に分かれ…】
~15日三河地方に伊勢神宮のお札が降る
 【ええじゃないか!で大騒ぎ】
廃藩置県の詔書・発布
 【一か八かの廃藩置県~県名の由来は?】
15  .
 .
1595
 .
 .
1598
 .
1600
 .
1866
中元
 【お中元の起源と歴史】
豊臣秀次が謀反の罪で切腹
 【殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい】
 【豊臣秀次ゆかりの京都・瑞泉寺】
秀吉が諸大名に忠誠を誓う誓詞を要求
 【秀吉が次世代に託した武家の家格システム】
毛利輝元・広島城を出陣
 【西軍総大将~毛利輝元の関ヶ原の勝算】
第2次長州征伐・石州口で長州が勝利
 【長州の完全勝利~石州口・浜田城陥落】
16  .
 .
110
 .
1575
 .
1595
 .
1596
 .
1617
 .
1720
 .
1858
閻魔斎日
 【地獄の釜開き~閻魔大王のお話】
ヤマトタケルノミコトに東征の命令が下る
 【ヤマトタケルは実在したか?】
長宗我部元親・土佐を統一
 【土佐統一!四万十川の戦い】
秀次事件に連座~熊谷直之が切腹
 【熊谷直之と7人の小姓たち】
本多重次・没
 【家康の兄代わり~鬼作左が一筆啓上】
前田利家の妻・まつが死去
 【前田家を支えた良妻賢母・芳春院】
間部詮房・没
 【大奥スキャンダルで失脚した間部詮房】
薩摩藩主・島津斉彬が病死
 【幕末の名君~島津斉彬の毒殺説】
17 842
 .
1532
 .1578
 .
1600
 .
1614
 .
1870
承和の変
 【藤原繁栄の基…実に怪しい承和の変】
天文法華の乱~大和一揆
 【天文法華~飯盛城戦と大和一揆】
山中鹿介が謀殺される
 【山中鹿介の忠義は忠義なのか?】
細川ガラシャが昇天
 【花と散る~細川ガラシャの壮絶最期】
織田信包・急死
 【病死か?毒殺か?織田信包・疑惑の急死】
小松帯刀・没
 【ポッチャリ型が好み?小松帯刀と2人の妻】
18 1204
 .
1244
 .
1573
 .
 .
1600
 .
1657
源頼家が暗殺される
 【父に愛され、母に抹殺された将軍・源頼家】
道元が永平寺を建立する
 【曹洞宗の開祖・道元~永平寺を建立】
槇島城の戦い
 【槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重】
 【ネバる!義昭~ボロは着てても心は将軍】
高取城の攻防
 【関ヶ原~最初の戦い…高取城の攻防】
幡随院長兵衛・暗殺
 【旗本奴VS町奴…幡随院長兵衛・殺害】
19 931
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1555
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1600
 .
1864
宇多天皇・崩御
 【御室桜のごとき宇多天皇の寛平の治】
第二次川中島の合戦
 【第二次川中島の合戦~犀川の戦い】
関ヶ原の前哨戦~伏見城攻撃
 【伏見城攻防戦と養源院の血天井】
禁門(蛤御門)の変
 【禁門の変~来島又兵衛アラ50にの挑戦】
 【禁門の変で散る久坂玄瑞】
20 776
 .
1428
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1592
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1866
 .
1876
 .
1883
田中広虫女が病死(日本霊異記)
 【牛になった女房~田中広虫女の話】
称光天皇・崩御
 【戦国の足音…光を背負った称光天皇】
京への帰還中、秀吉の乗った船が座礁する
 【「三本の矢」の毛利を救った4本目の矢】
第14代将軍・徳川家茂・没
 【薄命の将軍・家茂が後世に残した物は?】
明治天皇が明治丸にて横浜に帰港
 【国民の祝日と海の記念日】
岩倉具視・没
 【貧乏公家から政界の中心・岩倉の功績】
21 1203
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1600
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1614
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1619
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1856
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1864
僧・文覚が配流中に死亡
 【頼朝に挙兵を決意…強力ブレーン・文覚】
真田昌幸・幸村親子が光秀の密書を受け取る
 【兄は東に父・西~真田親子・犬伏の別れ】
西軍が細川忠興の田辺城へ攻撃開始
 【関ヶ原の勝敗を左右?田辺城・攻防戦】
方広寺の鐘銘事件・勃発
 【家康のイチャモン・方広寺鐘銘事件】
島津義弘・没
 【兄弟・父子の連携で生き抜いた義弘】
初代・アメリカ領事・ハリスが下田に到着
 【日本の思い出を…駐日総領事・ハリス】
 【ハリスと唐人お吉】
禁門の変で幕末の十七烈士が自刃
 【禁門の変のシンガリ・幕末の十七烈士】
22 672

1572
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1595
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1600
壬申の乱~瀬田合戦
 【壬申の乱の山場!瀬田合戦】
信長が小谷侵攻~山本山城の戦い
 【山本山城の戦いと虎御前山城構築】
秀吉が藤堂高虎に宇和島7万石を与える
 【築城名人~藤堂高虎の転身】
直江兼続が越後一揆を扇動
 【直江兼続・越後一揆を扇動】
23 672
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1335
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1651
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1918
大友皇子が首吊り自殺
 【大海人皇子と大友皇子…どっちが正統?】
 【切腹のルーツは五穀豊穣の祈り?】
中先代の乱で北条時行が鎌倉を占拠
 【北条復興を…中先代・時行の反乱】
足利直義が護良親王を暗殺
 【かりそめの征夷大将軍~護良親王の最期】
冨田勢源VS梅津某の他流試合
 【朝倉氏に仕えた盲目の剣豪・冨田勢源】
由比正雪の乱
 【由比正雪の乱・発覚!】
富山の騒動をきっかけに米騒動が起こる
 【女一揆・米騒動を報道したマスコミは・・・】
24 661
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1203
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1927
斉明天皇・崩御
 【斉明天皇の心の内は・・・】
運慶が東大寺の金剛力士像の制作を開始
 【鎌倉版プロジェクトX…東大寺復興と運慶】
第2次井戸城の戦い
 【松永久秀の奈良攻略~井戸城の戦い】
佐久間信盛・没
 【ともに30年~佐久間信盛の悲惨な末路】
島津の軍師・川田義朗が死去
 【島津のメンタルトレーナー~川田義朗】
家康の会津征伐軍が小山に着陣
 【「小山評定」前夜…家康と花房職之】
北越戊辰戦争・長岡城奪回作戦決行
 【河井継之助の長岡城奪回作戦】
芥川龍之介・没
 【河童忌なので、河童のお話】
25 1183
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1585
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1894
平家・都落ち
 【平維盛の都落ち】
 【忠度の都落ち】
 【経正の都落ち】
豊臣秀吉が四国を平定
 【一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏】
小山評定
 【老獪・家康…西へUターンの小山評定】
伊達政宗が白石城を攻略
 【伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原】
真田信幸の妻が昌幸・幸村の入城を拒否
 【あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助の功】
豊島沖海戦
 【日清戦争・開戦!豊島沖海戦】
26 1461
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1824
備中・新見荘の直務代官・祐清が京を発つ
 【たまがきの恋物語~手紙に託した思い】
文明一揆・勃発
 【まさに最初の加賀一向一揆~文明一揆】
家康が大仏開眼供養の中止を命令
 【秀吉の京の夢…幻の方広寺・大仏殿】
徳川吉宗が新田開発を推し進める
 【暴れん坊の享保の改革】
四谷怪談・初上演~幽霊の日
 【もう一つの忠臣蔵・四谷怪談】
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1866
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1867
蓮如が吉崎に道場を建てる
 【蓮如、吉崎に道場を建立】
天文法華の乱
 【祇園祭の長刀鉾は宗教戦争の証…】
島津が岩屋城を攻略
 【全員討死!岩屋城の激戦】
徳川家光が第3代江戸幕府将軍に就任
 【戦国からの脱却…第3代将軍・家光誕生】
第2次長州征伐で長州が3度目の小倉上陸
 【長州征伐大詰め!最後の小倉・上陸】
陸援隊が発足する
 【中岡慎太郎と陸援隊】
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1565
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1570
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1693
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1698
木曽義仲が京に入る
 【木曽義仲・堂々の入京】
足利義昭が興福寺を脱出
 【孤高の将軍・足利義昭~興福寺を脱出!】
信玄の妻・三条殿が死去
 【武田信玄の奥さん~三条殿】
豊臣秀頼と千姫が結婚
 【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
喜多見重政・没
 【綱吉に寵愛された喜多見重政の末路】
永代橋・完成
 【大江戸第三セクター・永代橋のお話】
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1868
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1894
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1943
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1978
静御前が男児を出産する
 【静御前・男児出産】
北越戊辰戦争で長岡城が再び落城
 【河井継之助・無念~長岡二番崩れ】
成歓の戦い
 【日清戦争・成歓の戦い】
キスカ撤退作戦
 【キスカ撤退作戦・成功!】
隅田川の花火大会・復活
 【花火の歴史】
30 1502
 .
1912
連歌師・飯尾宗祗が没す
 【放浪詩人・飯尾宗祗の旅】
明治天皇・崩御により大正に改元
 【激動の時代を生きた明治天皇・崩御】
31  .
 ..
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1888
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1909
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1986 
夏越の祓え
 【茅の輪くぐり神事のお話】
大の月が続くのは?
 【7月と8月、大の月が続くのはナゼ?】
大久保一翁が死去
 【無血開城に尽力した「幕府の三本柱」】
大阪で「キタの大火」
 【大阪駅の変貌・大火で消えた曽根崎川】
杉原千畝・没
 【六千人のユダヤ人を救った杉原千畝】
土用 土用の丑
 【夏バテに鰻は万葉の昔から…】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・18日 観音様の縁日
 【観音様のお話】
毎月・19日 トークの日
 【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
毎月・24日 かつお節の日
 【かつお節の歴史】
愛宕の縁日
 【愛宕神社のお話】
地蔵の縁日
 【お地蔵様のお話】
毎月・25日 天神の縁日
 【菅原道真・没】
毎月・26日 風呂の日
 【お風呂の歴史】
毎月・28日 鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
不動明王の縁日
 【不動明王のお話】
毎月・30日 みその日
 【お味噌の歴史+味噌天神のお話】
毎月・末日 そばの日
 【お蕎麦の歴史】

夏の夜の
怪談話

【播州皿屋敷】
【会津若松・新町化物屋敷】
【宮本武蔵の妖怪退治】
【姫路城の刑部姫】

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2007年12月27日 (木)

今川氏滅亡~掛川城・攻防戦

 

永禄十一年(1568年)12月27日、先日の駿府・今川館の攻防戦で、武田信玄に追われ、遠江へ逃亡した今川氏真を攻撃すべく、信玄と同盟する徳川家康が、氏真の籠る掛川城の包囲を完了しました

・・・・・・・・・・・

駿河(静岡県東部)今川氏相模(神奈川県)北条氏との同盟を破棄し、今川氏真の居館・今川館を攻撃した甲斐(山梨県)武田信玄(12月13日参照>>)

追われた氏真は、重臣・朝比奈泰朝の居城である遠江(静岡県西部)掛川城へと逃げ込みます。

ところが、そんな掛川城を、永禄十一年(1568年)12月27日包囲を完了したのは、その信玄ではなく、三河(愛知県東部)の武将・徳川家康(松平元康)でした。

実は、信玄は、桶狭間の戦い(5月19日参照>>)今川義元が、織田信長に討たれた後、衰退の一途をたどる今川氏に見切りをつけ、家康と組んで今川を攻撃し、今川の領地を手にしたあかつきには、二人で分割する約束を交わしていたのです。
『浜松御在城記』によれば、織田信長が二人の仲介役になったとの事)

この年の12月の始め、信玄が甲斐から駿河へと進攻するのと同時に、家康は三河から遠江へと進攻を開始していたのでした。

この日の包囲完了後、翌・永禄十二年(1569年)1月12日には、徳川勢による掛川城・総攻撃が開始されます。

城主である朝比奈泰朝は、今川の重臣の中でも、屈指の智将・・・義元亡き後の今川氏を支えた名補佐役でもありました。

そんな泰朝の名采配に答える城兵たち・・・

徳川方の攻撃は、あまり功を奏さず、3月7日には家康自身が総大将となって掛川城攻めに加わります

それまで、徳川の攻撃に見事に耐えていた今川勢でしたが、ちょうどこの頃、相乗効果を狙ってか、武田の重臣・秋山信友(晴近)信濃(長野県)から遠江・北部へ進攻しはじめ、徐々に戦況が徳川有利に傾き出したのです。

やがて、春になる頃には、形勢は完全に逆転してしまい、ついに5月17日氏真と泰朝は掛川城を開城し、ともに城を脱出・・・北条氏政を頼って、相模へと逃走するのです。

南北朝から続く駿河の名族としての今川氏は、ここに、滅亡する事となります。

後に、氏真の孫・今川直房江戸幕府の旗本となっていますので、今川氏自体は、北条の滅亡後も生き残る事になりますが、当然の事ながら血筋が残ったというだけで、駿河を制した頃の今川の面影はありませんので、一応この時点で滅亡とさせていただきました。

歴史の歯車がもう少し違っていたら・・・
もし、あの日、桶狭間で休憩をとらなければ・・・
もし、あの日、大雨が降らなければ・・・

その後の氏真さんについては…2011年3月16日のページでどうぞ>>
  .

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2007年12月26日 (水)

海賊将軍~藤原純友・天慶の乱

 

天慶二年(939年)12月26日、配下の者に、備前介藤原小高を襲撃させた藤原純友が瀬戸内海の日振島を出発・・・世に言う藤原純友の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・

当時の中央政府・朝廷は、九州の大宰府「遠の朝廷」・・・言わば出張所として、大陸との交易の玄関口としていました。

そんな大宰府と、京の都をを結ぶのが海路・・・この頃の瀬戸内海は、政治的にも、軍事的にも、そして文化交流においても、最も重要な交通路でした。

しかし、重要になればなるほど、その場所に、中央の支配が及んでくる事になります。

特に、かつて国造(くにのみやつこ・律令制が導入される以前の大和朝廷の国の長)の家系であった越智氏が勢力を伸ばし始めると、瀬戸内海の島々に住む島民たちの土地が荘園となり、中央の公家の支配下に組み込まれてしまうのです。

そのような支配に反発する島民は、島を離れ、海の民として生きていく事になります。

こうして瀬戸内海には、承平二年(932年)頃から、急激に海賊が出没するようになるのです。

そんな海賊の制圧のため、伊予(愛媛県)国司として派遣されたのが藤原純友(すみとも)です。

通説では、純友は、藤原北家の出身の藤原良載(よしのり)の息子という事になっていますが、ご存知のように、後に中央に対して乱を起すという今後の行動を見ると、ちょっとひっかかります。

なぜなら、当時の摂政太政大臣は、藤原忠平・・・彼も藤原北家の人

つまり、中央のトップの人間と、純友は同族同士という事になります。

そこで、一つの異説・・・
純友は、実は、越智氏の本家である高橋家高橋友の長男で、当時、伊予の国司として派遣された良載の養子になって藤原純友と名乗り、京に滞在していたところへ、伊予の国司に任ぜられ、故郷に舞い戻ったというものです。

京での滞在中には、比叡山にて、眼下に広がる都を眺めながら、あの平将門大いに語り合ったという噂までもが、まことしやかに語られています。

確かに、これなら、もともと彼は、瀬戸内の海の民という事になり、その海の民に対する中央の支配が徐々にきつくなる事に反発して乱を起こした・・・というストーリーも成り立ちますが・・・

さらに、承平五年(935年)、純友が塩飽(しあく)諸島松島に水城を築き、その彼のもとに、賛同する豪族たちが続々と集まる・・・という動きに対して、摂政・時平は、越智氏の一族である紀淑人(きのよしひと)という人物を伊予守として派遣するのですが、その途端、純友のもとにいた豪族たちが、次々と淑人に投降するのです。

この出来事も、ひょっとしたら、純友の動きが、この時点では、越智氏という同族同士の内紛であったという事を暗示しているのかも知れません。

しかし、これはあくまで、推測・・・純友が高橋家の者であるというのは、一部の家系図などに残るだけで、一般的な歴史では、あくまで藤原北家の出身という事になっています。

・・・で、淑人に押さえられ、日振島に移り、少しおとなしくしていた純友が、再び決起する日がやってきます。

淑人の制止を振り切って、日振島を後にした純友・・・天慶二年(939年)12月26日、純友の動きを中央に知らせようとした藤原小高を、純友の配下の者が摂津(大阪府)にて襲撃した事から、一連の純友の動きが、本格的な乱の勃発として中央に認識され、朝廷は、摂津丹波(兵庫県)但馬播磨備中(岡山県)備前備後の7ヶ国に、純友の討伐命令を出します。

『藤原純友の乱』の勃発です。

朝敵となった純友でしたが、塩飽諸島の釜島に城を築いて、その近辺を掌握し、翌年・天慶三年(940年)2月には淡路を襲撃します。

しかし、朝敵という事は、同時に、もしかしたら同族かも知れない越智氏を敵に回す事にもなるのです。

副将・藤原恒利(つねとし)の寝返り・・・
東国の平将門の死・・・(2月14日参照>>)

これらを乗り越え、さらに、8月には、讃岐の国府を焼き、備前・備中の船を焼き、伊予の国府を襲撃し、10月にはとうとう大宰府を制圧します。

しかし、このあたりから、東国を鎮圧した政府が、純友討伐に全勢力を傾け始めるのです。

翌・天慶四年(941年)5月、博多津の合戦において、純友は手痛い敗北を喫してしまいます。

小舟にて脱出し、日振島へと逃亡する純友・・・しかし、日振島の住人は、もはや敗北した純友には冷たかったと言います。

島の山中に、息子・重太丸(しげたまる)とともに逃げ込んだ純友が討たれたのは、天慶四年(941年)の6月20日の事でした。

同時期に勃発しながらも、実際には、お互いの盟約や連携は無かったであろうと言われている平将門・承平の乱藤原純友・天慶の乱・・・

将門と純友の、最も共通するところは・・・どちらも、中央政権を転覆させようという気など無かったというところではないでしょうか?

純友とて、中央に支配された瀬戸内の制海権を、海の民のもとに取り戻したかっただけ・・・おそらく、京を制圧する気などまったく無かったのでは無いか?と想像します。
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2007年12月25日 (火)

お年玉の由来とオリジナル「ポチ袋」

 

クリスマスという一大イベントが終れば、いよいよお正月・・・という事で、今日は『お年玉の由来』について・・・

今では、「お年玉」と言えば、お正月に家族や親戚からもらう現金・・・お金を意味しますが、もともと「お年玉」というのは、先日のお歳暮の由来(12月20日参照>>)でも登場した、お正月にやって来る神様=年神(としがみ)様が授けてくれる霊的な力の事を「お年玉」と呼んでいたんです。

霊的な力と言っても、今ハヤリのスピリチュアルなあんな力とか、瞬間移動できるこんな力の事ではなく、言ってみれば、活気、あるいは元気・・・生きる気力を与えてくれるという事です。

今でも、「大晦日に年神様が年玉を配って回る」という伝説の残っている地方(島根県など)もあり、本来は、家族から貰う物でも現金でも無かった事がわかります。

霊的な目に見えない物だった年玉が、やがて、いつのほどからか、「お餅」や「お米」といった具体的な物品に変化していきます。

それは、日本が農耕民族であったが故に、お米や、そのお米から作られるお餅が、神様からの贈り物であり、パワーの源であり、心=魂(たましい)でもあるという風に考えられ、そのお米やお餅を紙に包んで、年神様の代理である家長や年長者が家族に配る・・・という風習に変わっていったようです。

もちろん、そのお米やお餅は、暮れの段階から、年神様をお迎えする例の年棚(としだな・年神様専用の神棚・12月20日のお歳暮の由来のところでお話しました)に備えられていて、神様のパワーがしっかりと、お米やお餅の中に詰っているという事になり、基本的には、最初に書いた霊的な力を授かるという考えには変わりありません。

鹿児島県(こしき)には、鬼のお面と蓑(みの)を身に着けた「年殿(としどん)と呼ばれる年神に扮した若者が、各家々を回り、怖がって泣きわめく子供たちにお餅を配って回るという行事が残っているそうですが、これなどは、まさに、お年玉の原型に近いと言える物ではないでしょうか。

かつて、神様から与えられる霊的パワーが、神の恵みの象徴であるお餅やお米に変化し、やがて、現代的な幸せの象徴である現金に変化する・・・現金というのは、ちょっと現実的すぎて、夢が無いような気がしないでもありませんが、神様の代理である年長者から若年者へという、この授ける形だけは変化しないで残っている・・・なんだか、うれしい気がしますね。

今度の、お正月は、そんなお年玉の本来の意味を思いつつも、シビアに現金を、ありがたくいただいてみる事に致しましょうか・・・

・・・今日は、イラストというか・・・話題がお年玉なので、オリジナルのポチ袋を作ってみました~。

Otosidama1cc  
左のイラストをクリックしていただいたら、イラストギャラリーにある大きなイラストが開きますので、気に入ったのがあれば、コピーしてお持ち帰りください。
 
Otosidama2cc そのまま印刷して、糊付けすれば「ポチ袋」として使っていただけます。

また、ペイント系のお絵かきソフトに取り込んでいただいて、適当な場所にお子様のお名

Otosidama3cc 前を入れたり、ねずみの顔の部分や、ご来光の朝日の部分に、お手持ちのお子様の写真などを挿入すると、まさにオリジナルな「ポチ袋」に仕上がりますよ。

ぜひ、試してみてください。
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2007年12月24日 (月)

「かつお節」の歴史~かつお節の日にちなんで

 

毎月24日は『かつお節の日』という事で、今日はかつお節のお話を・・・

・・・・・・・・・

『日本書紀』によれば、「第12代・景行天皇の頃(71年~130年頃)、天皇が上総(千葉県)に旅行された時、供をしていた磐鹿六雁命(いわしかむつかりのみこと)が、弓弭(ゆはず)なる道具で、カツオを釣りあげて「カタクナウオ」と名付けた」とあります。

この磐鹿六雁命という人は、別の日には白蛤(しろはまぐり)を取って(なます)として料理し、天皇から(かしわで)という姓を賜ったとされる人で、現在も料理の神様として祀られています。

そんな磐鹿六雁命が釣った「カタクナウオ」・・・。

その名前でも想像がつくように、カツオは古代からすでに、生ではなく、加工されて食されていた魚でした。

昔は、「生カツオは中毒になる」とされていて、生で食べる習慣がなかったのです。

江戸時代に勇気ある武士によって初めて生で食され、その美味しさが一気に広まるまでは、一般的には、頭と尾を取り、軒において雨に打たせて「毒性(古代にはそう信じられていたので・・・)を流し、堅く干した後、削って食べていたので、堅魚(かたうお→かつお)・・・その文字も「鰹」となったと言われています。

平安時代には、その干しカツオは『堅魚煎汁(かつおいろり)という名前で、各地から中央への税として納められるようになります。

朝廷での食事の際は、天皇自らが腰にさした小刀でカツオを削り、そこに女官が熱湯を注ぎ入れ、おめぐり(塩や酢・醤=ひしおなどの調味料の事)を使って、味を調え、食したとされています。

平安時代の貴族の魚介類の食べかたは、カツオに限らず、固く干した物を上記のように湯でもどして・・・といった形で、品数こそ十・・・二十とあって豪華でしたが、その内容はかなりかたよっていたようです。

カツオが現在のように、燻乾法によっていぶされ、本格的に「かつお節」となるのは江戸時代からです。

紀伊・熊野甚太郎という漁師が、嵐に遭い土佐(高知県)に漂流した時、土佐にはカツオが豊富にある事を知り、土佐に移り住んで、大々的にかつお節製造業を始めたのが最初なのだとか・・・。

土佐藩もそれを保護し、「御用節」として幕府に献上し、土佐のかつお節の名は、全国的に知られる事となるのです。

やがて、太平洋岸の各地で、かつお節の生産が盛んになりますが、やはり元祖・土佐の座は揺るがずといった感じでしょうか・・・。

寛永年間(1660年頃)には、かつお節問屋も登場し、その記録の中には「にんべん」の名も見えます。

カツオはいぶす事によって、煙の中のクレオソートという成分が筋肉の部分まで入り込み、腐敗を防ぐとともに風味を与えるのだそうです。

つけられたカビ酵素を作り出し、カツオの脂肪を分解し、うま味と香りをもたらす・・・かつお節のうま味成分・イノシン酸Naと、昆布のうま味成分グルタミン酸Naの相乗効果は、日本だけにとどまらず、もはや、世界的に知られるものです。

かつお節の発明は、チーズの発明に匹敵する食の世界の大発明・・・世界に誇れる日本の味なのです。
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2007年12月23日 (日)

東京タワーが333メートルのワケは?

 

昭和三十三年(1958年)12月23日、東京・芝公園東京タワーが完成し、完工式が行われました。

・・・・・・・・・・

Toukyoutowercc 東京の・・・そして、日本の高度成長の象徴とも言える東京タワー
正式名称は、ご存知「日本電波塔」です。

昭和30年代に入って、東京を中心に次々とデレビ局が開局されました。

そこで、電波科学の権威たちが集まり、話し合った結果、当時6局あったテレビ局の電波塔を一箇所にまとめ、東京を中心とした関東一円に電波を発信する電波塔の構想が持ち上がります。

そして、東は銚子、西は甲府、南は沼津、北は水戸の関東一円・半径約100kmの範囲に電波を送る場合、鉄塔の高さが300m以上は必要である事がわかり、それならば・・・と高さ380mの電波塔の建設が計画される事となったのです。

しかし、いざ、建設に着工すると、なかなか見積もり通りに工事が進まず、建設途中で資金が足りなくなるというアクシデントに見舞われ、高さを、当初の計画より、少し低く変更される事になりました。

・・・かと言って、日本国内のただのお国自慢的な物になってしまっては残念です。

当時の世界一は、フランスのエッフェル塔の高さ320m・・・どうせなら、その高さを抜く、世界一の鉄塔を・・・

そこで、ぞろ目でキリが良いという事で、その高さが333mと決定したのです。

ちなみに、高さ333mが昭和三十三年に完成したのは、あくまで偶然だそうで、33年だから333mにしたのではないそうです。

ところで、余談ですが・・・
夜になると、美しく東京の街を彩る東京タワーのライトアップ

電気代は一日に2万5000円ほどかかるそうですが、この照明ランプ・・・たとえ1箇所でも切れたら、直接、人の手で交換されるのだとか・・・

「ひぇ~」と、一応、一般的に怖がりつつも、実は私は高い所が大好き!
幼い頃、よく「アホと煙は高いとこに登る」(←このことわざは多分大阪だけだと思いますが・・・)と親に言われたものでした。

でも、やっぱ、いくらなんでも333mはちょっと怖い・・・大変なお仕事です。

ついでに、もう一つ余談を・・・
東京タワーのあの色・・・「白」と、もう一色は「赤」ではなく、「インターナショナルオレンジ」という名称の色で、航空法で高さ60m以上の鉄塔に塗らなければならないと定められている色なのだそうです。

ただし、今では、航空法の改正によって、「障害灯をつける」という事になっているそうなので、新しく建設される東京スカイツリーでは、また、違った物になるのでしょうね。
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2007年12月22日 (土)

女帝・持統天皇の葛藤~ご命日にちなんで・・・

 

大宝二年(704年)12月22日、第41代・持統天皇58歳で崩御しました

・・・・・・・・・・・・・・

♪春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
  衣乾すちょう 天の香久山♪

Zitoutennouyamatosanzancc 明日香・甘樫丘から見た大和三山

子供の頃、あまり意味もわからないまま手にした『小倉百人一首』・・・百枚のカードの中で、ひときわ美しく、ひときわ豪華な一枚がありました。

この歌が書かれた持統天皇のカードです。

彼女は、亡き夫・天武天皇の後継者に・・・と思っていた実子・草壁皇子を失い、その草壁皇子の息子・皇子(かるのみこ)が、まだ幼いため、自らが天皇となって、その座を守った女帝。

この歌は、自らが造りあげた壮大な藤原京(12月6日参照>>)に立ち、大和三山を眺めながら、まもなく夏を迎える真っ青な空と、心地よい風をはらんではためく真っ白な洗濯物に目を細め、まさに天下を掌握した、堂々たる勝利の歌に聞こえます。

しかし、実際の彼女の心の内は、おそらく、生涯、休まる事はなかったでしょう。

愛する夫の残した地位を、子へ孫へバトンタッチするために、彼女は心を鬼にして、冷酷に、冷徹に生き抜いていったに違いないのです。

持統天皇が生まれたのは、大化元年(645年)、あの蘇我入鹿の暗殺(6月12日参照>>)から大化の改新へと、時代がめまぐるしく変わったその年です。

父は、自らの手で、その入鹿を斬った中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)・・・母は、蘇我一族でありながら、その中大兄皇子のクーデターに協力した蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)の娘・造媛(みやつこひめ)

しかし、その大化の改新が成された、わずか4年後・・・つまり彼女が4歳の時に、石川麻呂は謀反の疑いをかけられ自害し、傷心の母・造媛も、石川麻呂の後を追って自殺します(「12月4日参照>>)

父が、祖父を攻め、その苦悩に耐えられず母が自殺・・・幼い彼女には、その光景がどのように映ったのでしょう。

やがて13歳の時に、彼女は、父・中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)と結婚します。

兄弟でも母親が違えば結婚の対象となったこの時代ですので、叔父と姪の結婚は不思議ではないのですが、この時、大海人皇子はすでに27歳・・・当時としては親子ほど離れた、この歳の差は、あきらかに政略結婚です。

なぜなら、彼女が結婚した翌年には、あの有間皇子の事件(11月10日参照>>)が起こっているからです。

有間皇子(ありまのみこ)は、入鹿暗殺のすぐ後に即位した第36代・孝徳天皇の息子・・・将来、天皇の後継者を争う事になるであろう人物を中大兄皇子が抹殺したのは明白です。

そう、中大兄皇子の弟である大海人皇子も、中大兄皇子にとっては、来るべき将来、後継者を争う事になるかもしれないライバルなのですから・・・。

自分の娘を嫁がせて、そのライバル心を押さえようとでも言うのでしょうか・・・大海人皇子のもとには、同じ両親から生まれた姉・太田皇女(おおたのひめみこ)も、すでに嫁いでいました。

しかし、たとえ政略結婚であったとしても、亡き母の事件を目の当たりにしてきた少女にとっては、酸いも甘いも噛み分けた大人の夫は、頼れる伴侶だったようです。

やがて、中大兄皇子が、第38代・天智天皇として即位する頃には、皆が心配していた通り、兄と弟の間には、亀裂が生まれはじめるのです。

それは、日に日に成長する天智天皇の息子・大友皇・・・。

最初は、ともに政治を行っていた弟・大海人皇子に皇位を譲るつもりでいた天智天皇に、やはり息子・大友に皇位を譲りたいという気持ちが出てきたと言われます。

彼女・持統天皇にとっては、今度は父と夫の争いという事になりますが、この時、彼女は父ではなく、夫を選びます。

天智天皇の気持ちを察した大海人皇子が吉野へと身をひそめますが、彼女は夫に従い、ともに吉野へ向かうのです(10月19日参照>>)

この時、ともに大海人皇子に嫁いでいた姉・太田皇女はすでに病死・・・彼女は大海人皇子の妃の中ではトップの座についていたのです。

そして、天智天皇の死後、一旦は大友皇子が後継者となりますが、大海人皇子は間もなく挙兵・・・壬申の乱の勃発です(6月25日参照>>)

壬申の乱に勝利した大海人皇子は、第40代・天武天皇として即位し、彼女はその皇后となります

様々な政権争いに翻弄された彼女にも、やっと平和な日々が訪れたかに見えましたが、実は、水面下では彼女の最大の苦悩が待ち受けていたのです。

そう、今度は、天皇となった夫の後継者です。

彼女には、夫との間に設けた草壁皇子という息子がいましたが、そのライバルは一つ年上の大津皇子・・・彼は、亡き姉・太田皇女の息子・・・彼女にとっては、かわいい甥っ子にあたる人物です。

しかし、明るく有能で積極的な大津皇子に対して、わが息子・草壁皇子は病弱で少し弱気な性格・・・帝王となるには、誰が見ても大津皇子のほうが勝っていたのです。

ここで、偉大なる母は、鬼となるのです。

朱鳥元年(686年)、天武天皇が亡くなると、わずか、その1ヵ月後に、謀反の罪で大津皇子を死刑にしてしまうのです(9月24日参照>>)

この時の一連のやり方は、様々な人間に大津皇子を誘惑させながらも、最終的に大津皇子だけを抹殺し、自らの息子を後継者にしようと・・・まさに血も涙もない鉄の女のように映ります。

しかし、おそらく、彼女の心の中には、冷酷にはなりきれない様々な葛藤があったに違いないのです。

彼女は、この大津皇子の死の直後から、10年間に、26回も吉野へ通います。

吉野は、あの時、後継者争いを避けて、夫・天武天皇とともに向かった思い出の場所・・・彼女は、幼い頃から目の当たりにして、嫌でたまらなかった後継者争いに、気がつけば自分自身が手を染めていた事に耐えられなかったのではないでしょうか?

しかし、助けてほしい頼れる夫は、もうこの世にはいません。
何とか、亡き夫の心に触れようと、吉野へ通ったのかも知れません。

やがて、心を鬼にしてまで、ライバルを消したにも関わらず、わずか3年後に、最愛の息子・草壁皇子が病死してしまうのです。

悪に手を染めて行った自分の一連の行動は何だったのか?・・・彼女にとって、この時ほど、自暴自棄になった事はなかったでしょう。

しかし、折れそうになる心を奮い立たせて、偉大なる母は戦い続けます。

「亡き・草壁皇子の息子・軽皇子が成長するまでは、この天皇の座を譲れない」と・・・彼女自らが即位して持統天皇となるのです。。

最初に、紹介した持統天皇の有名な歌は、この頃(持統九年・695年)詠んだとされています。

天下を掌握したおおらかな帝王の歌の裏には、彼女の、人には言えない影の部分が隠されていたのかも知れません。

それは、この同じ頃に伽藍が完成したあの薬師寺(10月4日参照>>)・・・その薬師寺の東院堂にある聖観音菩薩像は、持統天皇が大津皇子をモデルにして造らせたと言われる仏像です。

その、爽やかですがすがしい表情の仏像が、本当に大津皇子の姿だとしたら、持統天皇の心の中は、悔やんでも悔やみきれない、大津皇子への懺悔の気持ちでいっぱいだったように思うのです。

やがて文武元年(697年)、成長した軽皇子は文武天皇として即位します。

退位した持統天皇は、若き天皇をサポートしつつ、あの大宝律令(8月3日参照>>)を成し遂げ、大宝二年(704年)12月22日58歳でこの世を去るのです。

果たして、最後に彼女の脳裏をかすめたのは、すべてを成し遂げ、最高の状態で孫に皇位を譲り、愛する夫のもとへ旅立つ満足感だったのでしょうか?

それとも・・・。
 

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2007年12月21日 (金)

大豊神社の狛鼠~オオクニヌシとねずみの関係

 

Ootoyozinzyatizucc  ♪もう、いくつ寝ると~♪
新年には、やはり初詣・・・

京都・銀閣寺から南禅寺まで続く、琵琶湖疏水沿いの哲学の道にある大豊神社・・・

この大豊神社の中にある末社の大国社の両脇には、狛犬ならぬ、かわいい狛鼠(こまねずみ)がいるのです。
Ootoyozinzyacc 向かって左のねずみはを持ち、向かって右のねずみは巻物を持っています。

Ootoyokomanezumicc 玉ねずみは、安産・長寿・豊穣。
巻物ねずみは学問成就のご利益がある
そうです。

来年はねずみ年・・・なんだか、いつも以上にご利益がありそうですね。

ところで、この大国社・・・
その名前でおわかりの通り、あの大国主命(おおくにぬしのみこと)を神とする神社です。

そこに「狛鼠」がいるわけで、このねずみは、大国主神の使いという事になるのだそうです。

オオクニヌシと言えば、あの『因幡の白うさぎ』を思い出してしまいますが、意外にも、このねずみとも関係か深いのです。

それは、『古事記』の中・・・その「因幡の白うさぎ」のお話の後に出てきます。

♪大きな袋を肩にかけ~大黒(大国)様が来かかると
  そこに因幡の白うさぎ~皮を剥がれて赤裸♪

最近は、あまり歌われなくなった「だいこくさま」の歌ですが、有名な神話なので、歌を知らなくても、このお話は、よくご存知だと思います。

そもそも、オオクニヌシが因幡(鳥取県)に大きな荷物を持ってやって来たわけというのは、80人(多い・・・)のお兄さんの荷物持ち(一人で持てんやろ)

その80人のお兄さんたちは、「因幡にヤカミヒメ(八上比売)というメッチャ美人がいる」というのを聞きつけて、80人全員が彼女に結婚を申し込むために、因幡へ旅をする事になります。

・・・で、日頃から、この兄貴たちにいじめられていたオオクニヌシが「荷物持ちとして着いて来い!」と言われてついて来て、例のうさぎに出会って、うさぎを助けたというわけです。

そして、その後、80人の兄さんたちは、ヤカミヒメにプロポーズしますが、姫の返事は・・・
「アンタたちなんてキラ~イ!私は、男前のオオクニヌシと結婚する~!」
と、ピシャリとフラれてしまいます。

激怒した兄貴たちは、「アイツさえいなければ・・・」と、一斉にオオクニヌシを攻撃!

死にかけ・・・いや、一旦、死んでしまったあと、母の愛で快復したオオクニヌシは、「このままでは危険だから(相手80人やもんなぁ)、おじいちゃん所へ行きなさい。きっと良いアイデアをくれるわよ。」という母の助言に従って、祖父・スサノヲノミコト(須佐之男命・古事記では6代前の祖先)のいる黄泉(よみ)の国へと逃走します。

もちろん、ヤカミヒメと結婚の約束をして・・・。

根国(ねのくに・黄泉の国の別名)に着いたオオクニヌシは早速、スサノヲの宮殿へ・・・。

すると、出迎えてくれた宮殿の受付嬢・スセリビメ(須勢理毘売)が、メッチャかわいいじゃあ~りませんか!

スセリビメとしても、人も寄りつかないような辺ぴな場所での受付業務に、いいかげん飽き飽きしていた所へ、目の前に現れた男は80人の兄貴の上をいく、超イケメンのオオクニヌシ・・・久々の大ヒットですから、これまた一目惚れ。

ふたりは、その場で恋に落ち、その場で一発・・・・
(ヤカミヒメの立場は・・・?)

そして、スッキリしたオオクニヌシは、そもそもの目的だったスサノヲに会うのですが、なぜか、スサノヲはオオクニヌシを蛇だらけの部屋に一泊させます。

だって、スセリビメはスサノヲの娘ですから、オヤジに挨拶する前に、手ぇつけるなんざ・・・そりゃ、オヤジもカンカン。

スサノヲの仕打ちも、わからんでもありませんが、もう、すでに、彼まっしぐらのスセリビメは、「このままでは、彼氏の命が危ない!」
と、ばかりに、蛇を追い払う「魔法のひれ」を手渡します。

そのひれに助けられ、翌朝、無事に部屋を出てきたオオクニヌシでしたが、2日めの夜、今度はムカデと蜂の部屋に泊まらされてしまいます。

しかし、またもやスセリビメの渡したムカデと蜂用の魔法のひれで助かります。

そして、次ぎにスサノヲは、矢を一本、果てしない野原の中に射込んで「あれを取って来い!」と命令します。

健気にも、その命令どおり、野原へ向かうオオクニヌシ。
期を見計らって、彼のまわりに火を放つスサノヲ。

気がつけば、オオクニヌシは360度の火に囲まれてしまっていました

さすが、のオオクヌヌシも今回ばかりは絶体絶命・・・諦めかけたところに、現れたのが一匹のねずみでした。(やっと出た~)

「内はほらほら、外はすぶすぶ・・・」と、洞穴なら安心だと教えてくれます。

草を掻き分けて見ると、そこには、うつろな洞穴が・・・
そこに、身をひそめていると、炎は上を通りすぎて行き、オオクニヌシは助かったのです。

しかも、オオクニヌシが持って帰らなければならない、あの矢を・・・ねずみたちの親が矢の鏑(かぶら)の方を、子が羽根の方を持ってきてくれたのです。

一方のスサノヲは、あまりの激しい炎に「さすがにこれでは生きていないだろう」と思いながら・・・そして、スセリビメも葬式の道具を持って泣きながら、その焼け焦げた野原へとやってきます。

しかし、そこには、命じられた矢を高々と差し出す爽やかイケメンヒーローの姿が・・・カッコイイ~。

・・・て、事は、ねずみは大国主神の使い・・・というよりは、恩人・・・いや、恩鼠ですやん!
という、疑問は置いといて、こういう経緯で、オオクニヌシとねずみには密接な関係があるのです。

結局、この後、スサノヲの眠っているすきに、おじいちゃんの宝物コレクションの数々を手に、スセリビメと駆け落ちするオオクニヌシ君。

気づいて追ってきたスサノヲは、咎めることなく「幸せに暮らせよ~」とお見送り・・・おじいちゃんの数々の意地悪は、かわいい孫に与えた試練・・・って事なんでしょうか?

しかし、本当の試練はここからです。
そう、国に戻れば、結婚の約束をしたヤカミヒメがいるじゃあ~りませんか!
どうするんです?オオクニヌシ君。

・・・と、ここで、帰宅したオオクニヌシ君、早速、何事もなかったかのように、ヤカミヒメと寝所でシッポリ・・・。(えぇ?!!(゚ロ゚屮)屮)

でも、何事もなかった事にできないのが女の嫉妬という物で、当然のごとく激怒するのは、スセリビメ。

結局、スセリビメのしつこいまでの嫉妬に嫌気がさしたヤカミヒメは、オオクニヌシとの間に生まれた子供を隠して、実家に帰ってしまったとさ。

燃え盛る炎から脱出した爽やかヒーローが、一転、ドロドロまみれの昼ドラヒーローになっちゃいましたね・・・。

とにかく、来年はねずみ年・・・狛鼠に願いをかければ、満願成就も夢じゃない!・・・かも
 .

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2007年12月20日 (木)

お歳暮の由来~お歳暮はお正月の神様のため

 

ちょっとピークは過ぎてしまいましたが、デパートではまだまだお歳暮商戦が続いていますね~。

もともと、お歳暮は12月31日の大晦日に贈る物であった・・・という事で、まだ、間に合うかと、今日は、お歳暮のお話から入らせていただきます。

今では、上司や親戚・取引先に贈り物を送るという、まったく同じ事するようになったお中元とお歳暮・・・

しかし、皆さんお察しの通り、この二つ・・・由来・起源となると、まったく異なる物なのです。

以前、お中元の時期に、その由来を書かせていただきました通り、お中元とは7月15日の事で、「今、生きている人々が、犯した罪を反省するとともに、お互いの無事を喜び合う」という行事から贈り物に発展した物でした(7月11日参照>>)

それに対して、お歳暮は、お正月にやってくる神様にお供えするお供え物として始まったのが、その起源なのです。

暮れになると、どこの家でもお正月を迎える準備を始めます。

この「お正月を迎える準備をする」という行為・・・今では、ほとんどの人が「様々な事にケリを付けて、すがすがしい気持ちで新しい年を迎えるための準備」みたいな感じに思っておられるかも知れませんが、実は本来、これらの準備は、単に年を迎える準備ではなく、「新しい年とともにやって来る神様をお迎えする準備」という事なのです。

鏡餅やお神酒など、これらはすべて、神様にお供えする供え物。

そんなお供え物のうちの一品を、子供から親へ・・・
あるいは、分家から本家へ・・・
と、神様を迎えるお家へ送って、「これもお供えしといてね」というのがお歳暮だったのです。

ですから、最初に書いたように、お歳暮を送るのは、12月31日の大晦日で、鮭やブリといったなまぐさ物や、お餅などの食品を送る・・・というのが定番でした。

では、お正月にやって来る神様とは、どんな神様なんでしょうか?

それは、「年神(としがみ)と呼ばれる神様で、新年にあたって人々に幸福をもたらしてくれる神様です。

「歳徳(としとく)様」「御歳(おとし)様」などど呼ぶ地方もあるそうです。

迎える準備としては、まず、年棚(としだな)という年神様専用の祭壇を、その年の吉方(その年に神様がやって来る方角=恵方というヤツです)に向けて設置します。

この祭壇は、まれに、常設の神棚を使う場合もありましたが、本来は毎年造り変える物・・・そう、この年神様は、またお帰りになるので、その時に片付けるのが正式なのです。

そして、そこに、注連縄(しめなわ)を張り、灯明をつけてお餅やお酒をお供えします。

お歳暮にいただいた品は、この時に、いっしょにお供えするのです。

注連縄というのは、「占縄」「七五三縄」「標縄」とも表記され、神聖な神の領域を作る・・・つまり結界を作る道具です。

もちろん、神聖な神様の居場所を作り出すだけではなく、しめ縄には「内を守り、外を払う」作用がある・・・つまり、その部分には「魔物が通れない」という事なので、玄関に飾り、「悪を家の中に入れない」ようにするのです。

最近は神棚の無いお家も多くなりましたが、そういったお家では、玄関や車に着ける「しめ飾り」で結界を張って、「鏡餅」が年棚の代わりをしていると言えるでしょう。

また、神様が宿る「依り代(よりしろ)として、常緑樹を備え付けます。

これには、椿などを使います。
これが、「門松」の原型ですね。

年神様は、依り代としての松飾りに宿り、そして、また去っていきます。

その、去って行く日は、小正月と呼ばれる15日・・・

各地で行われる「左義長」「とんど焼き」という行事(1月14日参照>>)・・・これは、【節分の起源】(2月3日参照>>)のところでも書かせていただきましたが、お正月にやって来た年神様をお見送りする行事なのです。

ですから、しめ縄や正月飾りなど、神様をお迎えした時に用意した様々な物を燃やして、神様に帰っていただく・・・送り火という事なのですね。
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本日の内容は、その起源が古いため、諸説あるうちのひとつではありますが、
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2007年12月19日 (水)

豊臣という姓に秘められた秀吉のコンプレックス

 

天正十四年(1586年)12月19日、前年に関白となった羽柴秀吉太政大臣に任ぜられ、朝廷から豊臣の姓を賜りました。

・・・・・・・・・・・

織田信長豊臣秀吉徳川家康・・・
この三人は、戦国武将の中でも突出した有名人。

日本人で、彼らの名前を知らない人は、おそらく、いないんじゃないでしょうか?

しかし、この三つの名前の中で、豊臣秀吉という名前は、他の二人の名前とちょっとばかし種が異なる・・・あえて、重箱の隅を突けば本来、こういう風に三人の名前を並べて書くのは正しくないのです。

それは、今日の話題・・・「朝廷から豊臣の姓を賜る」という所にあります。

「朝廷から姓を賜る」・・・これは「本姓・姓(かばね)という物で、朝廷からいただくわけですから、もちろん勝手に名乗る事はできません。

朝廷から賜る姓には・・・
一夫多妻だったために増えすぎた天皇家の皇子や皇女に姓を与えて臣籍に降下させる(=源・平など)と、

天皇家の臣下であるという意味「臣(おみ)の姓」(=藤原・橘・伴・物部など)、というのがあります(7月6日参照>>)

つまり、姓というのは、○○一族といった意味で、氏素性といった感じの名前です。

臣下の姓の代表としては、藤原鎌足・・・彼が、中臣という姓だったのを、その功績によって新たな藤原という姓を天智天皇から賜ったのは有名ですね。(10月15日参照>>)

そして、臣籍の姓で有名なのは、平清盛源頼朝と言ったところ・・。

こうして見ていただくとわかる通り、姓の場合は、読む時に、姓と名前の間に「の」が入ります。
藤原鎌足=ふじわらかまたり
平清盛=たいらきよもり
源頼朝=みなもとよりとも

豊臣秀吉の豊臣は、これらと同じ、朝廷から賜った姓ですから、本来は・・・
豊臣秀吉=とよとみひでよし
と読むのが正解なのです。

対する織田信長の織田、徳川家康の徳川は、苗字という事になります。

この苗字というのは、自分で勝手に名乗ってもよい物で、その支配している土地の名前をつけたりなんかする場合が多いようです。

こちらは、一家・家族といった家単位の名前という事になります。

平安時代や鎌倉時代までは、姓を名乗るのが一般的だった物が、それぞれの子孫もどんどん増えてきて、枝分かれするにつれ、家単位が重視されるようになり、室町時代の頃からは、苗字を名乗る事が多くなるのです。

たとえば、足利尊氏・・・
彼の足利氏は、ご存知のように、関東の足利近辺を支配していたので、清和天皇から6代目の(八幡太郎)義家の孫・義康が、領地の名を苗字として足利と名乗って、その6代目が尊氏という事ですから、苗字は足利、姓は源となります。

つまり、武家としては足利尊氏(あしかがたかうじ)と名乗り、朝廷に対しては源尊氏(みなもとのたかうじ)と名乗る事になるのです。

尊氏と同じ南北朝時代に活躍したあの新田義貞も、同じ義家の孫・義重が新田を名乗り、その6代目が義貞・・・という事で、新田義貞(にったよしさだ)源義貞(みなもとのよしさだ)という事になります。

・・・で、信長と家康の場合は・・・

織田信長の織田氏は、福井の織田荘を本拠地としていた藤原氏の末裔だとして、信長は最初、藤原を名乗っていましたが、途中から平重盛の遺児・親真を祖とする織田剣神社の神官の家系であるとしてを名乗っています。

つまり織田信長(おだのぶなが)平信長(たいらののぶなが)、という事ですが、上記の通り、途中で変えるというあたりがとても怪しい・・・。

徳川家康は、これまた、真偽のほどは明らかではありませんが、新田の子孫である事を主張していますので、苗字は徳川で姓はという事になり、徳川家康(とくがわいえやす)源家康(みなもとのいえやす)という事になります。

長い説明になりましたが、信長・秀吉・家康の三人の名前を並べて表記するとしたら・・・
正しくは、
織田信長・羽柴秀吉・徳川家康か、
もしくは
平信長・豊臣秀吉・源家康になるという事です。

もちろん、正式には、苗字と姓、さらに通称や役職名を全部並べた長~い名前で、確か秀吉の場合は「羽柴関白太政大臣豊臣朝臣藤吉郎秀吉(はしばかんぱくだいじょうだいじんとよとみのあそんとうきちろうひでよし)だったと思いますが、今となっては通常の表記で良いと思い、このブログでもそうしてます。

ちなみに・・・
「羽柴」=苗字
「関白」=役職
「太政大臣」=位・家柄の格
(関白とセットで実権を握れる)
「豊臣」=氏
「朝臣」=姓
(7月6日参照>>)
「藤吉郎」=通称
「秀吉」=名

てな感じ?・・・ちなみのちなみに「太閤」というのは、関白の座を後継者に譲った人の事です。

とにもかくにも、足利・新田という家柄は、正式な系図もありますし、源の姓は間違いの無いところでしょうが、戦国武将の姓はどう考えてもウサン臭い気がします。

こうして見ると、下克上・実力主義の戦国時代でありながら、いざ天下を取るとなると、ことさら既成の権威=姓にこだわってしまう矛盾が見え隠れしますね。

「我こそは王」と主張していたはずの信長さんでさえ平氏を名乗ってしまう・・・そんな中で、その氏素性に最もコンプレックスを感じていたのが、かの秀吉でしょう。

なんせ、秀吉は武家でさえないわけですから・・・。

しかし、そんな秀吉も、まだ、出世途上の頃は、そんなにこだわってもいなかったようです。

ご存知のように、秀吉の幼名は日吉丸だと言われていますが、これは、秀吉が天文五年(1536年)申年の1月1日生まれで、日吉山王社の使いが猿であるのにちなんで、その名前がつけられ、ニックネームとして「猿」と呼ばれていたなどと言われています。

しかし、以前「豊臣秀吉1月1日誕生日説」(1月1日参照>>)でも書かせていただいた通り、後々の創作で、現在では天文六年(1537年)の2月9日生まれというのが最も有力視されています。

そうなると、申年ではないので、日吉丸・猿というのも根拠が無くなってしまいます。

まして、この「丸」というのは、当時は、武士の子供につけるもので、農民の子供にはつけないとされていますので、もはや幼名も正しかったかどうかはわからない状況です。

やがて、信長に仕えるようになった秀吉は「木下藤吉郎」と名乗ります。

この木下というのも父・弥右衛門の苗字という事になってますが、この話も永禄八年(1565年)頃にいきなり登場してます。

そして、天正二年(1574年)には、織田家の重臣であった柴田勝家丹羽長秀にあやかって「羽柴秀吉」と名乗ります。

それでも、まだ、出自にはこだわっておらず、『もとこれ貴にあらず』・・・つまり、「いいとこの出身じゃないですよ」ってな事を、自分自身で明言しちゃったりなんかしてます。

ところが、天正十年(1582年)に山崎の合戦(6月13日参照>>)明智光秀を倒し、天下が手に届く頃になると、なんだかんだと、こだわるようになってくるのです。

信長を討った光秀を討った事から、織田家家臣の中での優位に立ち始めた秀吉は、信長の継承者であるがの如く、信長が名乗っていた「平」を使って、「自らの姓は平だ」としますが、これは、逆にまわりの武士たちから変な目で見られる結果となってしまいます。

なんせ、信長や家康のように、つじつまを合わせて、どこかのご先祖にくっつける系図すら無い事が、これで浮き彫りになってしまったわけですからね。

そんな周囲の白い目を払拭しようと、秀吉が狙いを定めたのは、落ちぶれかけた足利最後の将軍・足利義昭です。

何とか頼み込んで猶子(契約的な養子)になって源の姓を取得しようとしますが、プライドの高い貧乏将軍に断られ、あえなく撃沈。

そして、天正十三年(1585年)、関白になった秀吉は、もう、なりふりかまっていられません。

大体、関白職は、代々藤原氏北家の血筋が継ぐ事になっていたにも関わらず、その飛ぶ鳥を落とす勢いで、半強制的になってしまったわけで、そのために、秀吉は、わざわざ藤原の血を引く近衛家の養子になって「藤原秀吉」と名乗り、周囲を納得させようとするのです。

さらに、「秀吉の祖父と祖母が、昔、宮仕えをしていた頃、無実の罪で流罪となってしまい、宮中を去った途端、ともに宮仕えをしていた娘(秀吉の母)が、男の子(秀吉)を生んだ」・・・つまり、自分は天皇の子であるとか、「母は、太陽が懐中に入る夢を見て自分を懐妊した」ので、自分は日輪の子であるとか・・・様々な話を作りあげていくのです。

しかし、そんな事をやっても、秀吉が武士でもなく、まして貴族でもない事は、誰もが知っている事。

こうして天下を取っても、「武士の出」ではない秀吉は、周囲の武士からは軽蔑の眼差しで見られてしまう・・・実際にそう見られていたのか?秀吉のコンプレックスによる被害妄想なのか?

いずれにしても、実力ではどうしようもない氏素性が、天下を握った秀吉のアキレス腱であった事は確かです。

そして、そんな秀吉の最終手段が、「豊臣」という姓です。

かつて、藤原鎌足が・・・橘三千代(1月11日参照>>)がそうしたように・・・
誰も名乗った事のない新たな姓を、天皇の臣下として、朝廷から賜る事によって、自分自身の氏素性を明確にしたかったのでしょう。

これで、貴種である源平藤橘(げんぺいとうきつ)に肩を並べたわけですから・・・。

一介の百姓から、この国のすべてを手に入れた男が、願っても願っても手に入れられなかった「血筋」というもの・・・

きっと「豊臣」という姓には、自分の力だけではどうにもならない、秀吉の歯がゆさとコンプレックスが凝縮されているのでしょうね。
 .

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2007年12月18日 (火)

「誰の政権の時代に行ってみたいですか?」の結果発表

 

『誰の政権の時代に行ってみたいですか?』のアンケートにご協力いただき、ありがとうございました。

では、まずは結果を・・・

得票数
卑弥呼 6
仁徳天皇 1
蘇我馬子 9
藤原不比等 1
藤原道長 4
平清盛 9
源頼朝 3
足利尊氏 1
織田信長 8
豊臣秀吉 14
徳川家康 12
伊藤博文 3

う~ん・・・なるほど・・・やっぱり一番は豊臣秀吉さん、そして僅差で徳川家康さん。

このお二人の時代が一番楽しげですもんね。

こと街づくりに関しては、秀吉さんと家康さんがダントツですから、街づくりがウマイという事は、住むのにも良いという事で・・・

そういう点では、このお二人につけている平清盛さんも、何だかんだで、街づくりにはかなり長けていたようですから、「平家にあらずんば人にあらず」というワリには、住みよい印象がありますね~。

そして清盛さんと、同じ獲得数の蘇我馬子さん。
こちらは、どっちかと言うと、「藤原氏によって汚名着せられまくりの蘇我一族の実態を見てみたい」という感じでしょうか。

これは、私も見てみたいです。
おそらく、聖徳太子の偉業は、イコール蘇我氏の偉業という事で、本当なら馬子・蝦夷・入鹿さんたちの業績である可能性大ですからね。
彼らを悪人にしたいがために、すべての栄誉を、天皇家の血を引いた蘇我氏の一員の聖徳太子がやった事にしちゃったんじゃないか?と、私も思っています。

そして、次に来るのは織田信長さんと卑弥呼さん・・・
信長さんは、やっぱ、楽市楽座・・・楽しそうですもんね。
この時代なら、私はぜひ、堺の町に住んでみたいです。
職人になって腕を磨いて、一発当てる・・・なんていうのも良いんじゃないかと・・・

卑弥呼さん・・・この時代は、もう、謎だらけで、どんな時代なのかも想像の仕方によってまちまちですからね。
ただ、それだけに、見てみたい・・・あるいは、卑弥呼に会ってみたい・・・というのはありますね。
第一、邪馬台国がどこにあったかがわかるので、ぜひともその場所を解明したい気分です。

その次ぎは、藤原道長さんと源頼朝さんと伊藤博文さん・・・。
道長さんの時代は、華やかで煌びやかな、まさに、平安王朝真っ只中・・・貴族になれるなら、優雅な源氏物語の世界に浸れるでしょうが、庶民だと、ちと苦しい・・・。
やはり、この時代で暮らすのなら、愛しの源氏の君と恋に落ちるのがよろしかろうと思います。

頼朝さんの時代は始めての武士政権・・・。
なんだか、男臭さ満載の時代のような印象を受けます。
男なら、この時代もアリかな?といったところでしょうか?

伊藤博文さんは、明治の代表としてエントリーしていただきました。
これも、鹿鳴館のパーティに参加できるならうれしいですが、特権を奪われまくりの士族だとちょっとツライかな?
でも、時代の変貌を目の当たりにできて、ワクワク気分は上昇ですね。

最後、仁徳天皇藤原不比等さん、足利尊氏さんは、ちょっと残念な結果でした。
仁徳天皇も、応神天皇と同一人物であるとの噂もあり、実在してたのかどうか、怪しいところもあるので、ちょっとその時代というのが想像し難い感じがありますね~淀川氾濫の人柱に選ばれるのもイヤなので、ちょっと避けたい気分かな?

藤原不比等さんは、まさに、蘇我氏を悪者にして、歴史を変えちゃった人ですから、その時代に藤原氏の息のかかった人物なら幸せに暮らせるでしょうが、庶民には到底耐えられない時代のように思いますので、やっぱり避けたいですね。

そして、足利尊氏さん・・・室町時代を代表してアンケートにエントリーしていただいたつもりだったのですが、それなら3代将軍の義満さんのほうが、金閣寺のイメージで良かったかも知れませんね~。
尊氏さんだと、南北朝のゴタゴタばかりで、時代が確固たる物になっていなかった感がありますもんね・・・ちょっと、これは選択ミスだったかも・・・

以上、今回のアンケート結果でした。
ご協力いただいた皆様・・・本当にありがとうございました~。

・・・で、例のごとく、新アンケートを考えましたので、またまたご協力をお願いします。

次のアンケートは、『あなたにとって名城と言えば?』という事で、純粋に好きだと思うお城に一票を投じていただければありがたいです。
くわしくは次ぎのページをご覧くださいませ>>
 ,

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「名城と言えば?」アンケートご協力のお願い

 

本日から、新しいアンケートを展開させていただきたいと思いますので、ぜひとも、またまたご協力をお願いします。

今度のアンケートは『あなたにとって名城と言えば?』というものです。

とにかく、純粋に・・・
現存しているものであれば、形が好きとか、
難攻不落だったと言われているとか、
好きな武将のお城なので・・・とか、
単純に「好き」という事で結構ですので、是非とも清き一票をまたまた、よろしくお願いします。

では、少しだけ、エントリーしたお城のご紹介などさせていただきます。

  • 五稜郭・・・
     築城:安政四年(1857年)
     主な城主:榎本武揚
    ご存知、函館戦争の舞台となったお城。開拓使庁舎に転用の為、取り壊された幻の西洋式要塞。
  • 仙台城・・・
     築城;慶長六年(1601年)
     主な城主:伊達政宗
    東北の雄・独眼竜政宗が「百万石にふさわしい名城を・・・」と、天下取りの夢を託して建築した杜の都・仙台を象徴する青葉城。
  • 金沢城・・・
     築城:天正八年(1580年)
     主な城主:前田利家
    加賀百万石の城下町・金沢にふさわしい強固な守りの城。創建当時から現在も残る石川門にその思いが偲ばれます。
  • 江戸城・・・
     築城:長禄元年(1457年)
     主な城主:徳川家康
    太田道灌から扇谷上杉、北条と渡り歩いた慎ましやかな城が、徳川家康によって、徳川300年の歴史の象徴でもある大城郭に変身しました。
  • 小田原城・・・
     築城:鎌倉初期
     主な城主:北条早雲
    北条家が史上最大規模に仕上げた東海随一の鉄壁の要塞。上杉謙信も武田信玄も落とせなかった名城中の名城。
  • 名古屋城・・・
     築城:慶長十五年(1610年)
     主な城主:徳川義直
    大坂方から江戸城を守る要所として再構築され、那古野城から生まれ変わった城は「尾張名古屋は城で持つ」の通り、名古屋のシンボルとなりました。
  • 大阪城・・・
     築城:天正十一年(1583年)
     主な城主:豊臣秀吉
    古代より水運が発達した天然の要害の地に、最初に目をつけた信長に変わって秀吉が建築したご存知、天下無双の錦城です。
  • 姫路城・・・
     築城:正平元年(1346年)
     主な城主:池田輝政
    白鷺城の名でも知られる国宝・姫路城。太平洋戦争の戦火をくぐりぬけた天守閣は貴重なオリジナル。
  • 岡山城・・・
     築城:天正十八年(1590年)
     主な城主:小早川秀秋
    幕末の動乱を生き抜いた城も太平洋戦争で失われましたが、今は烏城の名にふさわしい姿に復元されました。
  • 熊本城・・・
     築城:慶長六年(1601年)
     主な城主:加藤清正
    築城の天才・加藤清正と、彼の理想に仕上げた技術者たちの匠のワザが光ます。
    武者返しと呼ばれる独特の石垣を持つ名城
  • 首里城・・・
     築城:15世紀初期
     主な城主:尚円
    約450年間続いた琉球王国の代表的建築物。グスクと呼ばれる城は、王族の住まう王宮でもあり、政治を行う行政機関でもありました。
  • 焼きそば(上記以外)・・・
     「ふざけるな!」と怒らないでください。
    ちょっとは遊んでますが・・・(^o^;)
    実はこのアンケートのブログパーツ、途中で選択項目を変更する事はできるんですが、増やす事ができないんです。
    「もしかして重要なお城を項目に入れ忘れていたら・・・」と思い、予備の一つとして「焼きそば」としておきました~一応、名城の焼きそばは有名なので・・・

・・・という事で、自分なりに「これは」と思うお城を、北から南まで選んでみたつもりですが、選択項目以外で、「このお城がいい」と思われましたら、「焼きそば」に一票を投じていただいて、どうぞコメントでその事をお知らせください。

後日、結果発表のところで、そのご意見を反映させていただきますので・・・。
(*コメントはメルアドなしで投降できますのでお気軽に・・・)

お好きなお城に一票を投じてみて下さい
ご協力、よろしくお願いします。

もちろん、またこのブログ上で、結果発表させていただきますので、お楽しみに・・・

追記:この投票は締め切らせていただきました~
    結果発表はコチラからどうぞ>>
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2007年12月17日 (月)

ライト兄弟よりも早く?日本人が空を制す~明治の二宮忠八と江戸の浮田幸吉

 

1903年12月17日、アメリカ・ノースカロライナ州で、自動車製造業のライト兄弟が製造したフライヤー1号のテスト飛行が行われ、一度目は12秒だったものの、4度目に59秒・距離260mという記録を達成し、これが世界最初の公開飛行・・・という事で、今日は『飛行機の日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

上記の通り、1903年の今日に世界初の公開飛行・・・ライト兄弟が世界初の公開フライトをしたという事になっています。

そうです。
アメリカさんには、ぜひとも、公開・・・あるいは公式とつけていただかなければ・・・

なぜなら、実は、ライト兄弟よりも12年早く、飛行に成功していた日本人がいたのですから。

その人の名は二宮忠八・・・

現在の愛媛県八幡浜市で生まれた忠八は、幼い頃から飛ぶ事に興味があったのか、自ら考案した『忠八凧』なる凧を製作し、それを売っては、貧しい家計の足しにしていたと言います。

そんな彼は、ある日、カラスが滑降する時に羽ばたいていない事に気づきます。

そして思い出した、幼い頃に造り続けていた凧・・・そう、「凧やカラスのように、風を受け止める事ができたなら、空を飛べる事ができるかも知れない」と思ったのです。

さらに、船のスクリューを見て、同時にこれを動かせば前へ行くのでは?プロペラを製作し、聴診器のゴムを使用して動力とし、鳥型模型飛行器を完成させます。

そして、明治二十四年(1891年)4月29日・・・丸亀練兵場にて、わずか10mではありますが、見事!飛行に成功しました。

忠八、25歳の春でした。

しかし、間もなく、日本は日清戦争(6月2日参照>>)に突入・・・

忠八も兵士となりますが、彼は、「この飛行器が完成すれば、必ず戦争に有効であるはず」と考え、上官である長岡外史に、飛行器の開発を相談します。
(ちなみに忠八は、死ぬまで、自らの開発した空飛ぶ機械の事を、飛行機ではなく飛行器とよんでしました)

今度は、ちゃんと人が乗って飛べる4枚翼の本格的な仕様です。

しかし、長岡は、こんな機械は戦争には役に立たないと考え、「何考えとんねん!今は戦争中やぞ!」と怒られてしまいます。

忠八は、「それなら、自力で資金を集めて制作するしかない」と考え、軍を辞めて製薬会社に就職・・・コツコツと資金を貯めながら、新作への意欲を燃やします。

途中、ゴムよりも断然良いという事で、オートバイのエンジンを購入・・・しかし、この間にライト兄弟の初飛行・・・となってしまうのです。

このニュースを聞いた忠八は、おもむろにハンマーを手にし、製作途中の飛行器を破壊!・・・以来、2度と飛行機の研究をする事はありませんでした。

彼の、飛行記録は、研究途中の記録とみなされ、「正式には認められない」という事になっています。

その後、大正時代になって、日本国内では徐々にその研究が評価されるようにもなり、忠八は、名誉回復が成ったとばかりに、京都八幡市に航空事故で死亡した人たちを祀る『飛行神社』を設立しました。

Dscn1273a900_2 ●ジェラルミンの鳥居がまぶしい飛行神社→
(飛行神社への行き方は、HP=京都歴史散歩でどうぞ>)

 .

しかし、日本人の空への憧れは、これだけではありません。

この二宮忠八をさかのぼること130年・・・あの田沼意次(10月2日参照>>)の頃の天明の時代に、空にあこがれ、そして、空を飛んだ男がいたのです。

備前(岡山県)八浜に生まれた浮田幸吉

当時、瀬戸内海の重要な港であった八浜の船宿・桜屋の息子として生まれた幸吉でしたが、父親が亡くなると、一家は離散・・・親類の傘屋にひきとられた後、次に弟が引き取られていた表具屋で働きます。

この二つの家に引き取られた事が、彼には幸いしました。

天職・・・とでも言うのでしょうか、その素質が開花し、またたく間に腕をあげたのです。

そんな、ある日、お寺にいる鳩を見て、幸吉は無性に飛びたくなります。

早速、竹と紙を購入、傘屋と表具屋で身につけた技術を活かし、2週間で、2mほどの2枚の羽を作りました。

そして、弟たちの目の前で、屋根から飛び降りての飛行実験です。

その時は約20mほど飛びますが、その後急激に落下し、足を痛めてしまうはめに・・・。

しかし、幸吉はめげません。
「さらに、距離を伸ばしたい」と、鳥を捕まえて解剖し、その羽の構造をも研究します。

やがて、天明五年(1785年)8月21日・・・幸吉、29歳の夏・・・彼は、旭川京橋にやってきます。

岡山の夏は、あまり風か吹かないので、風を求めて、この川べりを選んだのか?

それとも、夏となれば夕涼みの客を目当てに露店まで建ち並ぶ最も賑やかなところで、派手にパフォーマンスをやってみたかったのか?

とにかく、彼は、2枚の翼につけられた輪っかに腕を通し、京橋の欄干に飛び乗ったかと思うと、そこから、河原めがけて飛び降りたのです。

月明かりの中を、白く浮かぶ巨大な羽根・・・。
「アレは何だ?」
「鳥だ!」「飛行機だ!」「スーパーマンだ!」
・・・ではなく「天狗だ」「幽霊だ」と、あたりにいた夕涼みの群集は大騒ぎです。

「あかん!このままでは・・・」
空を見上げる見物人の真っ只中に落っこちそうになった彼は、何とか向きを変えようとしますが、もちろん、そんな装置はついていません。

あれよ、あれよ、という間に人ごみの中へドッカ~ン。

この時の飛行時間は10秒足らずでしたが、約30mほど飛んだと言われ、その時から彼は『鳥人幸吉』と呼ばれます。

ところが、その後、世間を騒がせた罪で、奉行所から呼び出され、「所払い」を命じられてしまい、彼は、岡山を去る事になってしまいました。

しかし、これも・・・

イギリスの航空界のパイオニアと言われるジョージ・ケイリーが、有人グライダーの飛行に成功する1853年より60年も早い、世界初の飛行という事になります。

う~ん、こういう同胞の先駆者の話を聞くと、なんだかうれしくなってきますよね~。
 .
 

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2007年12月16日 (日)

今日は電話の日~電話はじめて物語

 

明治二十三年(1890年)12月16日、東京⇔横浜間で日本で初めての電話創業が開始されました・・・これを記念して、今日12月16日は『電話の日』『電話創業の日』という記念日だそうです。

・・・・・・・・・

電話を発明したのは、ご存知、アメリカ人のアレキサンダ・グラハム・ベル・・・1876年3月の事でした。

とは言え、日本人と電話の関わりは意外に早い・・・

このベルの発見を聞きつけた、当時、アメリカへ留学をしていた金子兼太郎という人物が「日本語でも通じるのか?」という疑問を抱き、ベルの研究室を訪問したのです。

友人・伊沢修二(いさわしゅうじ)(5月3日参照>>)とともに、早速、試させてもらうと・・・当然の事ながら日本語もOK!

なんと、電話線を通った最初の外国語は日本語だったという、同胞としてはうれしい記録も残っています。

翌年の明治十年(1877年)には、発明者・ベルをお迎えして、工部省での通話実験が行われました。

これは、東京・溜池にある工部省と、2㎞離れた赤坂御所内宮内省とを結ぶ電話で、明治天皇も大いに喜ばれたという事です。

しかし、一般の人々が電話を利用できるようになるのは、もう少し先の事・・・。

明治二十二年((1889年)1月、やっと東京⇔熱海間で、長距離通話が開設され、5分=十五銭という料金で利用できるようになりました。

翌・明治二十三年には、東京⇔横浜間で開設しようという計画が発足し、4月からは、広く一般に電話加入者を募集しはじめますが、なんせ使用料が年間40円・・・かなりハイレベルな高給取りの月給が20円だった時代ですから、その使用料では、なかなか加入者が集まらなかったようです。

しかも、一般の人には、電話という物がどんなに便利なのか?という事も理解できない時代ですから、結局、応募したのは、東京で179人、横浜45人・・・それも、ほとんどが大企業・大会社でした。

そして、いよいよ明治二十三年(1890年)12月16日東京⇔横浜間での電話創業の運び・・・となったわけですが、当時の電話は、すべて交換手による手動での電話交換で、開業当時の交換手は女子9名、夜勤要員の男子・2名で行われました。

最初は、電話という物をよく理解していなかった庶民からは、「発火して火事になる危険がある」とか、「電話線を通じてコレラが感染する」なんていった、今では考えられないような噂も出たりなんかもしますが、徐々にその便利さに気づきはじめると同時に、そんな噂は無くなり、逆に、便利でおしゃれでちょっとセレブなアイテムとして人気が急上昇していき、いつしか加入者が殺到するようになります。

やがて、明治三十三年(1900年)には、新橋駅上野駅の2箇所に公衆電話が設置され、翌・明治三十四年には、飯田橋・四谷・王子・大森・本所・新橋・品川の7箇所に同時に電話ボックスが登場し、電話は、徐々に庶民の物となっていきます。

明治三十七年(1904年)には、先ほどの交換手という職業がすべて女性となり、時代の最先端を行く、花形職業となって、やがて、大正十五年(1926年)には、ダイヤル式の電話機が登場し、その後も、電話は更なる発展を続けて現在に至る・・・という事になります。

今や、携帯電話の時代・・・交換手どころか、公衆電話も無くなりつつあるご時世・・・テレホンカードさえ過去の遺物となって、もはやコレクションアイテムですね。

ところで、電話と言えば、あの「モシモシ」という、最初の言い回し・・・これを考えたのは『テレホン大臣』の異名を持つ加藤木重敬さんだと言われています。

明治二十三年の電話導入時にアメリカに視察に行った彼が、アメリカで使用されている「ハロー」に変わる日本語はないか?と考えた時、浄瑠璃などで、相手を呼ぶかけ声として「もし・・・」と言ったり、「もうし、もうし」と言ったりするところから、「よし!モシモシでいこう!」となったらしいです。

まぁ、その「モシモシ」も最近はあまり使われなくなってきましたが・・・。
かく言う私も、あまり「モシモシ」とは言いませんね~。

それにしても最近の携帯電話の発達はスゴイ!
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8月の歴史の出来事カレンダー

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

8hotarucc

出来事とリンク
1 983
 .
1507
 .
1567
 .
1590
.
  .
1600
 .
1940
奝然が宋に向け出港
 【大陸に渡った奝然と釈迦像と清涼寺と】
百々橋の戦いで細川澄之が自害
 【細川政元の後継~百々橋の戦い】
美濃三人衆が信長に内応
 【美濃三人衆内応~いざ信長・稲葉山城へ】
徳川家康が江戸に入る
 【八朔と家康、江戸入府】
 【家康はなぜ?江戸城を選んだか】
伏見城・落城
 【伏見城・落城…鳥居元忠の本望】
杉原千畝がユダヤ人へのビザ発給を決意
 【六千人のユダヤ人を救った杉原千畝】
2 1547
 . 1580
 .
1585
 .
1595
 .
1928
1931
今川に送られた家康が織田に奪われる
 【少年・徳川家康の命の値段】
石山本願寺、焼失
 【石山合戦・終結~石山本願寺炎上】
神川の合戦で、徳川家康が上田城に総攻撃
 【上田城・神川の合戦と石川の寝返り】
豊臣秀次の一族が処刑
 【豊臣秀次ゆかりの京都・瑞泉寺】
人見絹枝がアムステルダム五輪で銀
人見絹枝が没す
 【人見絹枝と8月2日】
3 701
 .
720
 .
759
 .
1561
 .
1564
 .
1593
 .
1600
大宝律令ができる
 【今も昔も役人天国~その年収は?】
藤原不比等・没
 【律令・平城京・記紀~新体制の仕掛人】
鑑真和上が唐招提寺を建立する
 【鑑真和上が唐招提寺を建立】
秀吉がおね(ねね)と結婚
 【秀吉の結婚+クイズ「おねの本名は?」】
第五次・川中島の合戦
 【第五次・川中島の合戦~塩崎の対陣】
豊臣秀頼・誕生
 【豊臣秀頼・出生のヒミツ】
前田利長が大聖寺城を攻略
 【北陸の関ヶ原~大聖寺城を攻略】
4  .
 .
1563
 .
1576
 .
1623
 .
1897
 .
1899
橋の日
 【橋姫の怖い話】
毛利隆元が急死
 【毛利隆元と尾崎局】
上杉i謙信が飛騨へ侵攻
 【織田の物には…謙信の飛騨侵攻】
黒田長政が死去
 【「褒めたげて!」黒田長政の関ヶ原】
後藤象二郎・没
 【大胆・豪傑~友に好かれた後藤象二郎】
日本初のビヤホール誕生
 【日本初のビヤホール誕生】
5  .
 .
-393
 .
630
 .
1028
 .
1585
 .
1600
 .
1912
箱の日
 【浦島太郎の変貌~開けてびっくり玉手箱】
孝昭天皇・崩御
 【記紀にはしょられた天皇たち…欠史八代】
第1回遣唐使・犬上御田鍬を派遣
 【世界情勢とともに変化した遣唐使の役目】
平忠常の乱で追討使・平直方が出立
 【源平の友情…平忠常の乱と源頼信】
伊東義祐・没
 雅を夢みた日向の王者~伊東義祐
石田三成から真田昌幸への手紙
 【三成&真田昌幸&上杉景勝の連携】
日本初のタクシー誕生
 【日本初のタクシー誕生】
6 1359
 .
1506
 .
1585
 .
1603
 .
1854
 .
1865
 .
1945
筑後川の戦い(菊池合戦)
 【九州における南北朝最大の合戦】
九頭竜川の戦い
 【朝倉VS加賀一向一揆~九頭竜川の戦い】
秀吉に降伏した佐々成政に処分が下る
 【武勇の佐々成政が秀吉に降伏】
宇喜多秀家が伏見へ護送される
 【意外に快適?八丈島での宇喜多秀家】
歌舞伎役者・8代め市川団十郎が自殺
 【8代め市川団十郎が大坂で自殺】
中岡慎太郎が桂小五郎に決意の手紙
 【中岡慎太郎・薩長同盟への決意を語る】
広島に原爆投下
 【広島平和記念日】
7 479
 .
1490
 .
1507
 .
1567
 .
1601
 .
1831
雄略天皇・崩御
 【万葉集1番の雄略天皇のお話】
政経が高清討伐の内書を受ける
 【京極騒乱~祇園館の戦い】
上杉房能が長尾為景に追われ自刃
 【長尾為景~守護を倒し戦国大名へ第一歩】
信玄が信濃を制覇
 【信玄・信濃制覇~その人材活用術と名言】
加藤清正が熊本城・築城に着手
 【熊本城~築城にまつわる怖い話】
十辺舎一九・没
 【煙とともに、灰、左様なら】
8  .
 .
498
 .
1443
 .
1506
 .
1561
 .
1600
 .
1864
ヒゲの日
 【乱世と平時で髭のある無し…ヒゲの日】
仁賢天皇・崩御
 【後継者を偶然発見!顕宗・仁賢天皇】
世阿弥・没
 【将軍に愛された美少年~謎の後半生】
雪舟・没
 【雪舟さんのご命日です】
上杉謙信が春日山城を出立
 【上杉謙信と春日山城…の怪現象】
加賀・浅井畷の合戦
 【北陸の関ヶ原~前田家の存続を賭け・・】
下関戦争の戦闘終了
 【幕府も新政府も借金まみれ~原因は?】
9  .
 .
1579
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1598
 .
1871 
野球の日
 【野球の歴史は1本のバットから】
明智光秀が黒井城を攻略
 【「丹波の赤鬼」赤井直正と明智光秀の…】
病床の秀吉が家康らに遺言する
 【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】
断髪令・発布
 【ザンギリ頭を叩いてみれば・・・】
10  .
 .
 .
 .
729
 .
1189
 .
 .
1232
 .
1585
 .
1600
 .
1628
 .
1904 
道の日
 【東海道は五十七次!】
トイレの日
 【「トイレの日」なのでトイレ歴史】
藤原光明子が皇后になる
 【夫婦円満?初の民間・光明皇后と聖武天皇】
源頼朝が奥州藤原氏を攻める
 【阿津賀志の戦い~進む頼朝VS防ぐ泰衡】
 【謎が謎呼ぶ結城城・埋蔵金伝説】
御成敗式目・制定
 【御成敗式目て何じゃらホイ?】
金森長近が飛騨攻略
 【金森長近の飛騨攻略作戦】
西軍・石田三成が大垣城に着陣
 【関ヶ原直前の「ちょっといい話」×2】
豊島明重事件
 【明重の武士の一分…江戸城刃傷事件】
日露戦争・黄海海戦
 【力づくの勝利~日露戦争の黄海海戦】
11 1338
 .
1569
 .
1584
 .
1600
 .
1900
足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられる
 【夢は自分でつかむ物…征夷大将軍・尊氏】
長宗我部元親の攻撃で安芸城が開城
 【長宗我部元親の安芸城攻略作戦】
筒井順慶が病死
 【筒井順慶・36歳…無念の死】
東軍・先発隊が岡崎城に入る
 迫る関ヶ原!先鋒進軍~その時家康は…】
落語家・三遊亭円朝が没す
 【三遊亭円朝と「怪談・牡丹燈籠」】
12 1512
 .
1575
 .
1578
 .
1580
 .
1600
 .
1736
北条早雲が三浦義同の岡崎城を攻撃
 【北条早雲~悲願の相模制覇に向けて】
越前一向一揆戦
 【織田信長VS越前一向一揆】
大友宗麟・ムシカに着陣
 【理想のキリシタン国家・ムシカに到着】
佐久間信盛・追放
 【信長とともに30年~信盛の悲惨な末路】
徳川秀忠が伊達政宗に協力を要請
 【関ヶ原の合戦と伊達政宗】
大岡越前守忠相を寺社奉行に任命
 【大岡・名裁きは本当?】
 【謎が謎呼ぶ結城城・埋蔵金伝説】
13  .
 .
 .
 .
1555
 .
1563
 .
1568
 .
1716
 .
1927
迎え盆
 【お盆の由来~大文字焼きは巨大灯籠?】
ペルセウス座流星群の極大日
 【平安時代の流れ星】
朝倉宗滴が加賀一向一揆を撃破
 【齢79!生涯現役~朝倉宗滴・長寿の秘訣】
~10月29日 白鹿城・攻防戦
 【息子の死を乗り越え…元就・白鹿城奪取】
朝倉義景が若狭に侵攻
 【粟屋勝久の国吉籠城戦】
徳川吉宗が江戸幕府8代将軍に就任
 【暴れん坊の怪しすぎる8代将軍・誕生劇】
日本初の野球中継
 【日本初の野球中継は・・・】
14 1573
 .
1748
 .
1867
刀禰(根)坂の戦い
 【生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興】
仮名手本忠臣蔵が初上演される
 【『仮名手本忠臣蔵』初上演】
原市之進が暗殺される
 【徳川慶喜の参謀・原市之進】
15 1336
 .
1519
 .
1530
 .
1567
 .
1747
光明天皇が即位
 【南北朝の幕開け…光明天皇の即位】
北条早雲・没
 【石橋を叩いて渡る北条早雲】
田手畷の戦い
 【佐賀の鍋島・下克上の幕開け】
稲葉山城が陥落する
 【信長・天下への第一歩~稲葉山城・陥落】
細川宗孝殺害・殿中刃傷事件
 【細川家・存亡の危機~板倉勝該・刃傷】
16 1155
 .
1339
 .
1478
 .
1600
 .
 .
 .
1868
悪源太・義平が叔父・源義賢を殺害
 【義仲が木曽にいたワケは?】
後醍醐天皇・崩御
 【北闕天を望みたい~後醍醐天皇の最期】
大田道灌が沼尻但馬守に手紙
 【その度量の大きさを物語る道灌の書状】
遠山友政が河尻秀長の苗木城を奪取
 【河尻VS遠山の関ヶ原~苗木城・開城】
福束城攻防戦
 【関ヶ原~福束城攻防戦】
河井継之助・没
 【長岡城落城とともに散った河井継之助】
17 1180
 .
1193
 .
1547
 .
1867
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1945
伊豆にいた源頼朝が挙兵
 【伊豆に白旗!頼朝挙兵】
頼朝が弟・範頼を殺害
 【頼朝は平凡な弟の何が怖かったのか?】
武田信玄が信濃志賀城を攻略
 【3000人のさらし首…信玄の志賀城攻略】
栗本鋤雲がパリに到着
 【幕末・日本と仏の架け橋~栗本鋤雲】
インドネシアが独立宣言
 【インドネシア独立のために戦った日本人】
18 1583
 .
1598
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1665
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1863
宇喜多VS毛利の境目合戦
 【難攻不落の矢筈城と草刈重継】
豊臣秀吉・没
 【なにわの事も夢のまた夢】
最上騒動
 【名門・最上を消滅させた最上騒動】
蒲生忠知の死亡で蒲生家断絶
 【断絶となった蒲生忠知の怖い話】
大坂城に落雷
 【秀吉の怨念?大阪城の不思議な話】
八月十八日の政変
 【新撰組を表舞台に押し上げた政変】
 【苦労人の宮さま~政変を決行した中川宮】
19 866
 .
1335
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1580
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1807
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1868
藤原良房が摂政に就任
 【藤原北家・独占!摂関政治の始まり】
足利尊氏が中先代の乱を鎮圧
 【高氏改め尊氏が中先代の乱の後に…】
信長の命で筒井順慶が筒井城を破却
 【信長・秀吉・家康だけができた城割とは?】
関ヶ原~南美濃攻防戦
 【高須城&駒野城&津屋城の戦い】
永代橋・崩落事故
 【大江戸第三セクター・永代橋のお話】
鼠小僧次郎吉・処刑
 【鼠小僧次郎吉・御用だ!】
榎本率いる旧幕府艦隊が品川沖を脱出
 【榎本率いる旧幕府艦隊…品川沖を脱出】
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1868
安倍仲麻呂が遣唐使として出発
 【三笠の山に出でし月かも】
佐嘉城攻防戦・今山の戦い
 【鍋島直茂の奇襲作戦~今山の戦い】
飛騨松倉城が落城
 【飛騨松倉城の人柱伝説】
細川幽斎・没
 【齢77!芸は身を助く~幽斎の長寿の秘訣】
方広寺鐘銘事件で家康が最後通告
 【片桐の交渉空しく家康の最後通告へ】
福知山城主・稲葉紀通が鉄砲自殺
 【寒ブリが食べたい為にお家断絶・取り潰し】
徳川幕府がフランスに600万ドルの借金契約
 【でるか?徳川埋蔵金伝説】
新政府軍が二本松城を進発
 【会津戦争も佳境に…母成峠の戦い】
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1868
忠盛の海賊討伐の功により清盛が昇進
 【平忠盛の海賊退治で息子・清盛が昇進】
若狭・太良荘にて一揆が勃発
 【中世の名も無き人の名前とは?】
本願寺蓮如が吉崎を退去
 【本願寺蓮如の吉崎退去と下間蓮崇】
元就が門司城の救援に小早川隆景を派遣
 【毛利水軍VSポルトガル船~門司城攻防】
「鳥人幸吉」が30mの飛行に成功
 【ライト兄弟よりも早く?日本人が空を制す】
生麦事件
 【島津を180度変えた生麦事件】
母成峠の戦い
 【会津戦争も佳境に…母成峠の戦い】
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1868
足利義満の誕生日
 【足利義満の「王権争奪計画」】
関ヶ原~加賀野井城&竹ヶ鼻城攻防戦
 【竹ヶ鼻城攻防戦に散る杉浦重勝】
岐阜城に迫る東軍に織田秀信が撃って出る
 【信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い】
村上武吉・没
 【瀬戸内水軍の全盛と没落を見た村上武吉】
十六橋・戸ノ口原の戦い
 【会津戦争~十六橋・戸ノ口原の戦い】
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石橋山の合戦
 【頼朝敗走・石橋山の合戦】
一遍上人・没
 【一代聖教みなつきて~】
山科本願寺の戦い
 【天文法華へ~山科本願寺の戦い】
駒返の戦い
 【謙信の出家願望と大熊朝秀~駒返】
トーマス・グラバーが長崎に赴任
 【幕末の外国人商人・グラバーの置き土産】
会津戦争・城下の戦い
 【会津戦争~会津若松城下の戦い】
 【山本八重の会津戦争】
 【白虎隊・飯盛山に散る】
村岡局(津崎矩子)・没
 【「勤王女傑」~皇室と志士のパイプ役】
黒田清隆が死去
 【北海道開拓に尽力した黒田清隆】
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イタリアのベスビオ火山が大噴火
 【ボンペイ最後の日】
船岡山の戦い
 【いよいよ戦国の幕が上がる】
稲生の戦いで信長が勝利
 【信長の大声で勝利?稲生の戦い】
諏訪原城が落城
 【長篠の直後~諏訪原城の戦い】
石川五右衛門・処刑
 【浜の真砂の五右衛門が歌に残せし・・・】
上杉景勝に大幅減封・決定
 【領地が1/4~上杉家・大幅減封の危機】
小林虎三郎・没
 【「米百俵」の精神~焦土の長岡に立つ】
陸奥宗光・没
 【世界と平等に…カミソリ外相・陸奥宗光】
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備中・新見荘の直務代官の祐清・暗殺
 【たまがきの恋物語~手紙に託した思い】
明応の大地震
 【大地震で北条早雲・堀越公方に引導】
鉄砲伝来
 【鉄砲伝来で戦国が変わる】
 【異説とその後】
毛利勢の攻撃で安濃津城・開城
 【東海の関ヶ原・安濃津城の攻防戦!】
陽明学者・中江藤樹が没す
 【近江聖人・中江藤樹の「心の学問」】
徳川家治・没
 【徳川家治・暗殺疑惑~犯人は誰だ!】
会津戦争で娘子軍が奮戦
 【戦場の華と散った娘子軍・中野竹子】
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光孝天皇・崩御
 【関白・藤原基経と怪しすぎる天皇交代劇】
崇徳天皇・崩御
 【史上最強!崇徳天皇・怨霊伝説】
野田福島の戦いが勃発
 【信長VS三好の野田福島の戦い】
井伊直虎・没
 【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】
サン・フェリペ号が土佐に漂着する
 【長崎二十六聖人殉教の日】
スペインに派遣されていた支倉常長が帰国
 【伊達政宗の幕府転覆計画】
有栖川宮と和宮の婚約解消
 【天下泰平のために・・・皇女・和宮の決意】
楠本イネ・没
 【初の女医が二人?楠本イネと荻野吟子】
アーネスト・サトウが没す
 【幕末の日本を駆け抜けた外交官・サトウ】
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白村江の戦い
 【古代海外出兵・白村江の戦い】
 【白村江の戦い~その敗戦の原因は?】
衣笠城の合戦
 【この命、頼朝公に捧ぐ~三浦義明の合戦】
後醍醐天皇が笠置山に入る
 【笠置山「楠の夢告」~後醍醐天皇と正成】
三木城の戦い(松平内紛)
 【松平広忠VS松平信孝~三木城攻防戦】
大寧寺の変~陶晴賢が大内義隆に謀反
 【あんなに愛した仲なのに…大寧寺の変】
織田信長が浅井長政の小谷城に攻撃開始
 【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】
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1868
大伴家持・没
 【万葉の貴公子・大伴家持】
信長の美濃侵攻~堂洞合戦
 【織田信長の美濃侵攻~堂洞合戦】
小谷城落城・浅井氏滅亡
 【落城の生き残り~海北友松の熱い思い】
佐々成政が前田利家の朝日山砦を攻撃
 【末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲作戦で・・・】
堀田正俊・刺殺事件
 【死人に口無し?大老・堀田正俊刺殺事件】
品川沖に砲台場の建設を開始
 【外国から江戸を守る…品川砲台場・建設】
歌人・橘曙覧が没す
 【松平春嶽を魅了…癒し系歌人・橘曙覧】
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1868
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1918
信玄VS謙信・第三次川中島の合戦
 【第三次川中島の合戦~上野原の戦い】
浅井長政が片桐直貞に感状を書く
 【浅井長政・最後の手紙】
徳川家康が妻・築山殿を殺害
 【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!】
越中征伐で佐々成政が降伏
 【富山城の戦いin越中征伐】
アヘン戦争・終結
 【アヘン戦争の終結】
会津・長命寺の戦い
 【幕末・会津戦争~長命の戦い】
日本初のケーブルカー開業
 【日本初のケーブルカー…生駒山に誕生】
30 1543
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1893
毛利元就の次男・吉川元春が元服
 【「女は顔やないで!」吉川元春の嫁選び】
郡司成忠海軍大尉ら、占守島に上陸
 【千島最北端に初の上陸!】
31  .
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1879
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1880
大の月が続くのは?
 【7月と8月、大の月が続くのはナゼ?】
龍馬の姉の坂本乙女・没
 【龍馬に影響を与えた姉・坂本乙女】
白石正一郎・没
 【勤王の志士を支えたパトロン・白石】
1866 横浜で、とび職人がフランス兵を殺害
 【幕末・横浜・フランス兵殺人事件】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・18日 観音様の縁日
 【観音様のお話】
毎月・19日 トークの日
 【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
毎月・24日 かつお節の日
 【かつお節の歴史】
愛宕の縁日
 【愛宕神社のお話】
地蔵の縁日
 【お地蔵様のお話】
毎月・25日 天神の縁日
 【菅原道真・没】
毎月・26日 風呂の日
 【お風呂の歴史】
毎月・28日 鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
不動明王の縁日
 【不動明王のお話】
毎月・30日 みその日
 【お味噌の歴史+味噌天神のお話】
毎月・末日 そばの日
 【お蕎麦の歴史】
夏の夜の
怪談話
【播州更屋敷】
【新町化物屋敷】
【姫路城天守閣の妖怪退治】
【姫路城の刑部姫】

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2007年12月15日 (土)

蝦夷共和国の誕生

 

明治元年(1868年)12月15日、榎本武揚らによる『蝦夷共和国』が誕生しました。

・・・・・・・・・・

この日、箱館(函館)一帯は、歓喜の嵐に包まれました。

100発以上の祝砲を打ち鳴らす軍艦は、五色に輝く旗をひらめかせながら岸に並び、陸には礼装に身を包んだ軍人が並ぶ・・・その様子を感激のまなざしで見つめていたのは、旧・幕府の役人・榎本武揚(えのもとたけあき)でした。

思えば、8ヶ月前の4月、新政府は旧幕府側に江戸城の明け渡し、将軍・徳川慶喜謹慎、そして、軍艦の引渡しを突きつけました(3月14日参照>>)

海軍を指揮する武揚・・・勝海舟の説得に応じて、一旦は軍艦の引渡しに応じる姿勢を見せたものの、まだまだ勝機があると考えていた彼は、最新鋭の軍艦・開陽丸以下8隻の軍艦とともに江戸を脱出し、旧幕臣たちとともに、一路、北を目指したのでした(8月19日参照>>)

そして、蝦夷に上陸した彼らは五稜郭松前城を占領し、蝦夷地を平定・・・この明治元年(1868年)12月15日の祝砲は、今ここに、新たに誕生した蝦夷共和国を祝う祝砲だったのです。

蝦夷共和国の誕生に関しては、以前、【五稜郭開城!蝦夷共和国 最後の日】(5月18日参照>>)でも書かせていただいた通り、後の武揚が多くを語らなかった事から、彼の胸の内は謎のままなのですが、若い頃にオランダ留学の経験があり、国際法に通じていた彼らしく、さすが!と言えるやり方でしたね。

維新前後の日本は、欧米の諸外国抜きには考えられませんでした。

蝦夷を占領したは良いものの、イギリスフランスといった国々に、新政府の味方につかれてしまっては、さすがに勝ち目はありません。

武揚は、蝦夷政権の首脳陣を投票によって選出する事で、正当な政権である事をアピールし、いち早く、この蝦夷共和国を、独立国家として諸外国から認めさせています

こうする事で、諸外国は中立の立場を取る事となり、新政府につく事を防いだのです。

それにしても、この独立国家への武揚の思いがどこまでのものであったのでしょうか?

本気で、日本からの完全な独立を考えていたのでしょうか?
もし、彼らが勝利していたら、現在、北海道は別の国になっていたんでしょうか?

ただ、これに関しては、武揚は、自分の国際的な知識や軍事知識を、何の縛りもない蝦夷という新天地で試してみただけだったという見方もあり、また、単に、彼が大好きだった軍艦・開陽丸を、新政府に渡したくなかっただけだという風な見方もあります。

先ほども言いましたように、後の武揚は、この蝦夷共和国については多くを語らず、「ちょっと反発してみたかっただけ・・・」なんて事くらいしか言っていないので、そのような解釈もあるわけなのですが、後日、新政府に提出した嘆願書には、「蝦夷に行ったのは、旧・幕臣の救済のため・・・」と書かれていて、幕府の崩壊で禄がもらえなくなった武士たちの生活を何とかするために、蝦夷地を開拓する計画を立てていたとも考えられます。

そうすれば、あの榎本さんの事ですから、日本から独立した蝦夷共和国の具体的な構想も、すでに、頭の中にあったのかも知れません。

しかし、時代はご存知のように、北海道の雪解けを待って、新政府の猛攻撃が開始され、蝦夷共和国の構想は、武揚の胸の内に納められたまま、歴史の闇へと消えて行く事になるのです。

おりしも、一昨日の夜、たまたまNHKで「新選組!!土方歳三、最期の一日・前編」の再放送をやっていて、またまた、榎本さん、土方さんへの思いが再燃していた今日・・・確かドラマでは、土方さんに共和国の理想など語っていたような・・・昨日はそのシーンは無かったので、後編に出てくるんだったかしら?。

蝦夷共和国誕生の時は、未だ33歳だった榎本さん・・・ちょっと、そのホンネを聞いてみたい気がしますね~。
 

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2007年12月14日 (金)

最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間!

 

弘仁三年(812年)12月14日・・・この日、高雄山寺(後の神護寺)にいた弘法大師・空海のもとには、大勢の人が続々と詰めかけていました。

大僧と呼ばれる位の高い僧が22人。
沙弥(しゃみ)と呼ばれる若い僧が37人。
近事(ごんじ)と呼ばれる在家信者が41人。
童子と呼ばれる年少の在家信者が45人。

総勢・145人という大量の人々が、空海のもとで胎蔵界の『灌頂(かんじょう)と呼ばれる密教入門の儀式を受けに来たのです。

その大僧の中には、あの天台宗の宗祖である伝教大師・最澄もいました。

もともと、空海と最澄は、ともに延暦二十三年(804年)、同じ遣唐使船に乗って中国へ渡ったライバル同士・・・ただし、当時の二人のレベルの差は、天と地ほどに離れていました(6月4日参照>>)

空海より7歳年上の最澄は、すでに名僧の名を欲しいままにした超有名人で、中国へ渡る費用のすべてを国が面倒みる特待生のエリート

かたや、空海のほうは、諸国を放浪していた無名の僧で、渡航費用はすべて自腹の私費留学生でした。

そして、最澄は一年、空海は二年の勉強を終え、それぞれ帰国した二人。

時の天皇・第50代桓武天皇の期待を一身に受けていた最澄は、天皇の期待通りのさらなる高僧に成長し、天台宗を開きます。

一方の空海は・・・もちろん、無名の僧がいきなりの出世、という事はありませんが、彼が中国から持ち帰った密教に非常に興味を示した人物がいました。

それは、桓武天皇の息子・神野親王・・・後の第52代嵯峨天皇です。

やがて、大同四年(809年)に、神野親王が即位して天皇になると、彗星のごとく現れた空海は、仏教界の大きな星となり、最澄と肩を並べるライバルとなるのです。

ただし、この頃の二人の関係は、ライバルと言っても、競争相手ではなく、ともに切磋琢磨する良きライバルという関係でした。

それを現しているのが、今日の話題でもある入門の儀式です。

年上でもあり、常にエリートコースのトップを走って来た高僧・最澄が、ポッと出の新人・空海に教えを乞い、あまつさえ「弟子になろう」というのですから、最澄さんの器のデカさ、仏教への熱心さを感じないではいられません。

もちろん、この弟子入りは最澄さんが空海さんの下・・・という意味ではなく、「日本語の権威が、語学の見聞を広めるために英語の達人に教えを乞う」といった感じのもので、わずか1年しか中国に滞在できなかった最澄は、思う存分密教を学ぶ事ができていなかった事が心残りだったのです。

なので、最澄さんが先輩である事には変わりありません。

しかし、今日のこの儀式を終えたのを境に、二人の関係はおかしくなっていくのです。

その亀裂のもととは・・・最澄さんのあまりの勉強熱心さにあるようです。

最澄さん、確かにもともと頭が良く、才能もあったでしょうが、エリートコースのトップを走り続けるには、それなりの努力が必要・・・つまり、彼はとても勉強家で熱心で、最後まで手を抜かず、常に新たな物を追求し、その先へ先へと努力する人なのです。

これまでも、何度も空海から経典を借りていた最澄・・・ちょうど、この日、空海と対面した最澄は、「これでもか!」と言わんばかりの丁寧なお礼を繰り返します。

最澄:「いつも大事な経典貸してもろておおきに~」
空海:「いえいえ、僕のほうこそ、もっと早いこと、そちらに教
    えを乞いに行かなあきませんのに・・・」

最澄:「いや、ホンマありがとう・・・いっつも感謝してます。
     いやホンマ、ほんまにほんまでほんまでっせ・・・」

どうやら空海さん、そんな最澄さんのあまりの丁寧すぎるお礼ぶりに「ウザッ」と思った?ようです。

最澄は本当にマジメ一筋の人なんです。

さらに、最澄は次から次へと経典の貸し出しを願い出る一方で、わからない事があると次から次へと質問を投げかける・・・

空海だって、真言宗の宗祖ですから、それなりに忙しい・・・どうやら、「いくらなんでも、アンタにだけかまってばかりもいられないんですよ」と言いたくなるくらいの熱心さだったようです。

もちろん、最澄さんに悪意は無いのですが・・・。

・・・で、とうとう、ある日、空海が「これ以上はムリ!」経典の貸し出しを断ったのです。

しかし、それでもめげない最澄・・・

愛弟子の泰範(たいはん)という僧を、「もっと奥深いところを学んで来て、僕に教えてチョーダイ」と、いわゆるスパイとして、空海のもとに送り込んだのです。

ところが、この泰範・・・いくら待っても最澄のところに戻って来ません。

「もう、充分、学んだだろう」と、最澄は、泰範に手紙を書きます。

『老僧を棄つることなかれ』
「年寄りを見捨てんといて~」と・・・。

しかし、泰範からの返事は・・・
「僕、これから密教一筋でいきますよって、もう戻りまへんわ~ほな、お世話になりました~」
と、とてもつれないもの・・・しかも、この手紙、どうやら空海が代筆した可能性も・・・

ここにきて、さすがの最澄もブチ切れ・・・二人は絶縁状態となってしまいます。

つまり、空海は最澄をウザイと思い、最澄は空海に弟子を盗られたと・・・

お二人とも、私たち凡人には、計り知れない徳のあるおかた・・・どちらが良い、悪いなんて事はなく、どちらもすばらしい尊敬すべき人格者なのでしょうが、やはり高僧も人の子・・・「肌が合わない」という事はあるんでしょう。

結局、お二人の仲に亀裂が入った最初の瞬間は、やっぱり『灌頂』の儀式の後の挨拶だったのでしょうね。
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2007年12月13日 (木)

今川館の攻防戦~武田信玄・駿河を攻略

 

永禄十一年(1568年)12月13日、昨日、駿河に侵入した甲斐武田信玄が、今川氏真居館・今川館を攻めました。

・・・・・・・・・・

昨日、事前の内通工作の成果が出て、戦わずして要所・薩埵(さつた)を制し、駿河静岡県東部)に進攻した甲斐(山梨県)武田信玄(昨日のページ参照>>)

自ら出陣して、薩埵峠の近くの清見寺に布陣して、信玄を迎え撃つつもりでいた駿河の今川氏真(うじざね)も、度重なる味方の寝返りに、慌てて本拠地である駿河今川館へと逃げ帰ります。

昨日の勝ちで勢いづいている武田軍は、その勢いのまま今川館にやってきます。

今川館というのは、後に駿府城となる場所ですが、その頃は、今川館という名前でも想像がつくように、平坦な場所に構築された、とても城と呼べるような建物ではなく、守るにはかなり危うい物でした。

当然、氏真も、この今川館で防御する事は不可能と考え、相模(神奈川県)北条氏政援軍の要請を行うとともに、館の背後にある賤機山(しずはたやま)(静岡市)籠城し、その北条の援軍を待つ作戦です。

しかし、その作戦を先に読んでいた信玄・・・「そうはさせるか!」と、侵入と同時に、駿府の武家屋敷や民家に火を放ち、混乱の渦に巻き込みながら、氏真より先に賤機山城へ到着し、またたく間に城を占領してしまいます。

しかたなく、守りが甘いのを承知で、今川館にて籠城作戦をとる氏真ですが、もはや、武田の軍勢に太刀打ちできないのは明白です。

この日、先陣を切って今川館に突入したのは、今年の大河ドラマでも大活躍の馬場信春・・・彼ら、武田の家臣団の猛攻撃によって今川館は、その日のうちにあえなく撃沈。

氏真は、遠江・掛川城(静岡県)へと逃走します。

ところで、昨日・今日の駿河進攻で、武田方に寝返った者の中には、今は亡き山本勘助を、最初に今川義元に紹介したと言われる朝比奈信置や、勘助のの親類で、兵法の弟子でもあったとされる庵原弥兵衛らがいましたが、彼ら今川の重臣たちは、この後、武田軍として再編成され、地の利を生かした駿河先鋒や、新たな城の構築などに活躍する事となります。

また、この戦いによって、南北朝以来、守り続けてきた駿河の地を失う事になった今川氏・・・逆に、山に囲まれた山梨で生まれ育った信玄にとっては、のどから手が出るほど欲しかった海を手に入れたわけです。

「海を手に入れたら、やりたい!」と、描いていた夢に着手する信玄は、今日の今川館の攻防戦で功績のあった信春に、早速、清水城の構築を命じるとともに、あの名高い甲州水軍の養成に力を注ぐ事となります。
(甲州水軍については11月7日のページでどうぞ>>)

一方、掛川城へと逃げた氏真・・・この先、彼を追い詰めるのは信玄ではなく、「今川領を手に入れた後は、二人で分割しよう」との約束を交わし、信玄と同時に別働隊として進攻していた、あの徳川家康なのですが・・・そのお話は、12月27日のブログでどうぞ>>
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9月の歴史の出来事カレンダー

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

  9cosmoscc

出来事とリンク
1 1553
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1596
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1600
  .
1659
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1865
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1915
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1923
第一次川中島の合戦~布施の戦い
 【第一次川中島の合戦~布施の戦い】
豊臣秀吉が2度目の朝鮮出兵を決意
 【悲劇の人・おたあジュリア】
家康・関ヶ原に向けて江戸城を出陣
 【関ヶ原に~徳川家康が江戸城を出陣】
江戸城天守閣の再建中止を決定
 【官のムダを省き被災者優先…正之の英断】
松原忠司・没
 【新撰組・松原忠司~命を賭けた2ヶ月の恋】
井上馨が死去
 【イメージ違う…志道聞多こと井上馨】
関東大震災
 【関東大震災での災害救援ボランティア】
 【関東大震災のチョットいい秘話】
2 1200
  .
1203
  .
1600
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1877
朝比奈義秀が兄・常盛と相撲勝負
 【鬼神の如き朝比奈義秀の話】
比企能員の乱
 【鎌倉幕府・震撼~比企能員の乱】
郡上八幡城の戦い
 【稲葉貞通VS遠藤慶隆の関ヶ原】
上田城攻防戦・開始
 【真田のゲリラ戦法炸裂!上田城攻防戦】
和宮・没
 【皇女・和宮とガラスの写真】
3 740
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1180
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1189
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1318
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1571
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1600
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1877
藤原広嗣の乱・勃発
 【身内思いの反乱者~藤原広嗣の乱】
頼朝が葛西清重に参陣要請
 【頼朝に味方した秩父平氏・葛西清重】
奥州藤原氏・滅亡
 【奥州・藤原氏の滅亡】
伏見天皇・崩御
 【南北朝の兆し?皇位の綱引き・伏見天皇】
近江一向一揆~金ヶ森の戦い
 【信長と近江一向一揆~金ヶ森の戦い】
京極高次が大津城に帰還
 【ホタル大名・京極高次…一世一代の決断】
火星大接近
 【西南戦争で敗れた西郷が星になった?】
4 1479
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1591
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1821
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1869
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1904
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1913
山名政豊が領国に帰還
 【戦国の幕開け・山名VS赤松・戦いの構図】
九戸の乱終結
 【秀吉のもと、東北の雄が散る】
 【最後の怪談話…九戸政実~怨みます!】
大日本沿海輿地全図・沿岸実測録が完成
 【50の手習い、伊能忠敬の日本地図】
大村益次郎が襲撃される
 【大村益次郎・暗殺犯と海江田信義】
日露戦争で遼陽に入城
 【日露戦争・初めての大野戦~遼陽会戦】
田中正造・没
 【足尾銅山闘争で田中正造が直訴】
5 361
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1557
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1563
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1628
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1905
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1944
神功皇后に神託が下る
 【神功皇后の三韓征伐】
後奈良天皇・崩御
 【戦国真っただ中に生きた後奈良天皇】
三河一向一揆で夏目吉信が投降
 【三河一向一揆~徳川家臣が真っ二つ】
鳥居忠政が没す
 【「鳥居忠政の仁義」雑賀孫一とのイイ話】
日露戦争・終結と日比谷焼き討ち事件
 【ポーツマス条約の調印と日比谷焼き討ち】
田辺朔郎が没す
 【清盛・秀吉の夢を実現させた田辺朔郎】
6 1342
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1468
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1607
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1624
土岐頼遠が光厳上皇に狼藉
 【調子に乗って…バサラしすぎた土岐頼遠】
一条教房が土佐へ下向
 【応仁の乱の影響・地方に伝わる京文化】
龍造寺高房・没
 【佐賀・鍋島藩~化け猫騒動の真相】
秀吉の妻・おね・没
 【秀吉の妻・ねねさんのご命日なので・・】
 【秀吉を支えた高台院が貫いた妻の役割】
7 1180
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1275
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1568
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1600
市原の合戦
 【義仲・初陣!市原の戦い】
北条時宗が、元からの使者を殺害
 【北条時宗が元との徹底抗戦を決意した日】
織田信長が上洛のため美濃を発つ
 【足利義昭を奉じて~信長の上洛】
西軍主力が南宮山に着陣
 【関ヶ原!西軍主力・南宮山に着陣】
大津城・籠城戦が始まる
 【大津城攻防戦~京極高次の関ヶ原】
徳川秀忠が上田城攻略を断念
 【真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い】
 【中山道で関ヶ原に向かった秀忠の任務は】
8 1555
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1581
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1591
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1680
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1868
朝倉宗滴・没
 【齢79!生涯現役~朝倉宗滴・長寿の秘訣】
瑞泉寺・井波の合戦
 【佐々成政の越中一向一揆攻め】
太田資正・没
 【道灌のDNAを受け軍用犬を駆使した智将】
安中藩主・水野元知が没す
 【夫婦ゲンカで改易…安中藩主・水野元知】
元号を明治に定める
 【明治に改元・一世一元を定む】
会津・飯寺の戦い
 【忠臣・渡辺豹吉の大芝居~飯寺の戦い】
9 686
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1536
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1550
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1561
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1586
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1600
天武天皇・崩御
 【天武天皇崩御で持統天皇が動き出す】
谷野一栢が「八十一難経」を出版
 【朝倉孝景を影で支えた軍師・谷野一栢】
戸石城・総攻撃開始
 【戸石崩れのはずが山本勘助ヒーロー?】
信玄が山本勘助の啄木鳥戦法を採用
 【『甲陽軍鑑』の真と偽】
滝川一益・没
 【滝川一益の人生波乱万丈】
上杉の執政・直江兼続が最上領に侵攻
 【関ヶ原の前に!直江兼続・最上に侵攻】
10 1561
 .
 .
 .
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1578
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1600
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1650
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1658 
川中島の合戦(第4次)
 【鞭声粛々・川中島の戦い】
 【川中島の合戦は無かった?】
 【補佐役に徹した武田信繁】
 【「山本勘助⇔山本菅助」その実在は?】
三木城攻防戦で谷大膳が討死
 【三木城・籠城戦~秀吉と谷大膳の話】
大友義統が杵築城を攻撃
 【黒田VS大友~石垣原前哨戦】
松平忠直・没
 【暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!】
松下長綱・没
 【何となく腑に落ちない松下長綱の改易】
11 764
 .
810
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 .972
 .
1581
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1585
藤原仲麻呂の乱
 【盛者必衰~藤原仲麻呂の乱】
藤原薬子の乱
 【悪女・藤原薬子の乱】
 【「私刑」?薬子の乱の藤原仲成】
空也上人が没す
 【市聖~空也上人の伝説】
織田信長の伊賀攻めで柏原城が開城
 【伊賀攻め~第二次天正伊賀の乱】
立花道雪・没
 【ハンディを克服して大友氏を支えた道雪】
12 1271
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1570
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1571
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1872
日蓮が佐渡に流罪
 【蒙古襲来を予言して流罪となった日蓮】
石山合戦・勃発
 【信長VS顕如の野田福島の戦い】
織田信長による比叡山・焼き討ち
 【信長の比叡山焼き討ち】
 【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】
 【殺戮か?完全主義か?戦国との相違】
新橋⇔横浜間に鉄道が完成
 【初めての陸蒸気…新橋⇔横浜を走る】
13 1566
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1568
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1577
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1600
 .
 .
 .
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1620
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1861
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1872
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1912
信長の妻・生駒吉乃が死去
【信長、最愛の女性~生駒吉乃】
観音寺城の戦い
 【信長の上洛を阻む六角承禎】
上杉謙信が七尾城を攻略
 【七尾城・攻防~上杉謙信の「九月十三夜」】
石垣原の合戦
 【天下を狙う第3の男】
 【豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原】
鳥羽城の戦い
 【九鬼嘉隆&守隆・父子の関ヶ原】
大坂城・千貫櫓の棟上式
 【大阪城~多聞櫓と千貫櫓の特別公開】
坂本龍馬が平井加尾に手紙を出す
 【「龍馬伝」&加尾ちゃんへの手紙】
マリア・ルーズ号事件で清国人奴隷・解放
 【副島種臣の英断~マリア・ルーズ号事件】
乃木希典・殉死
 【最後の武士・乃木希典】
14 894
 .
1546
 .
1600
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1859
 .
1863
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1868
菅原道真が遣唐使・廃止を建議
 【保身?英断?道真の遣唐使・廃止】
細川家内訌~嵯峨の戦い
 【細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】
関ヶ原の合戦・前夜祭
 【~前哨戦・杭瀬川の戦い&三成の決断】
 【~小早川秀秋の長い夜】
 【豊臣政権の五奉行~それぞれの関ヶ原】
梅田雲浜が獄死
 【勤皇のカリスマ~梅田雲浜・獄中死】
天誅組・結成
 【天誅組~吉村寅太郎の最期】
新政府軍が会津若松城への総攻撃を開始
 【いよいよ大詰め…若松城への総攻撃開始】
15 1554
 .
1566
 .
1579
 .
1600
 .
 .
 .
 .
 .
 .
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1626
折敷畑の戦い
 【厳島の前哨戦~元就の折敷畑の戦い】
墨俣の一夜城・完成
 【墨俣の一夜城凸建設中!】
徳川信康・自刃
 【家康はなぜ?息子・信康を殺したのか】
関ヶ原の合戦
 【天下分け目の関ヶ原の戦い】
 【ともに命を賭けた戦場の約束】
 【討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近】
 【島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳】
 【関ヶ原の合戦・大反省会】
直江兼続が長谷堂に到着
 【兼続・孤軍奮闘!長谷堂の戦い】
徳川秀忠の正室・江(崇源院)が没す
 【大河ドラマ主役の「江」~謎多き最期】
16 1600
 .
 .
 .
1620
 .
1890
 .
1894
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1948
関ヶ原を脱出した島津義弘が大坂へ・・
 【敵中突破の「島津の背進」】
直江兼続が長谷堂城に総攻撃・開始
 【直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い】
メイフラワー号がイギリスを出発
 【新天地への旅立ち】
エルトゥールル号・遭難事件
 【95年後の恩返し~エルトゥールル号・遭難】
平壌・陥落
 【日清戦争~平壌・陥落】
配給制だったマッチを自由販売化
 【マッチ王…清水誠と瀧川辧三】
17 1062
 .
 .
1347
 .
1600
 .
 .
 .
 .
 .
1635
 .
1894
前九年の役・終結
 【前九年の役で滅びる安倍一族のお話】
 【12年なのに「前九年の役」?】
藤井寺の戦い
 【南北朝…楠木正行の藤井寺の戦い】
佐和山城攻め
 【関ヶ原の後始末・佐和山城攻め】
大垣城の二の丸・三の丸が開城
 【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
伊予の関ヶ原~三津浜の戦い
 【毛利の伊予出兵~宍戸景世の関ヶ原】
神尾静・没
 【将軍・秀忠の影の女に徹したお静の方】
日清戦争・黄海海戦
 【日清戦争~制海権を握った黄海海戦】
18 1428
 .
1577
 .
1586
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1863
正長の土一揆・勃発
 【日本初!正長の土一揆】
手取川の戦い(23日とも)
 【謙信VS信長~1度きりの手取川の戦い】
島津征伐で仙石秀久が豊後府内に着陣
 【どん底からの復活・仙石秀久】
芹沢鴨・暗殺
 【わずか半年の新撰組・初代局長~芹沢鴨】
19 1324
 .
1506
 .
1542
 .
1600
 .
1611
 .
1902
正中の変・発覚
 【寝物語でバレちゃった】
般若野の戦い
 【長尾能景が討死~般若野の戦い】
第1次小豆坂の戦い
 【義元を支えた今川の名参謀・朝比奈泰能】
小西行長・自首
 【「キリシタンゆえ自害はできぬ」】
謝名利山が処刑される
 【琉球王国・最後の忠臣~謝名利山】
正岡子規・没
 【正岡子規は野球好き】
20  .
 .
1556
 .
1570
 .
1590
 .
1600
 .
1605
 .
1883
お手玉の日
 【お手玉の歴史】
明智光安自刃で明智城落城
 【明智城落城~明智光秀は脱出?】
宇佐山城の戦い
 【信長を支えた森可成・討死】
岩見重太郎の天橋立の仇討ち
 【重太郎=薄田隼人~天橋立の仇討ち】
徳川家康が大津城に入る
 【勲功1番の戦い~京極高次の関ヶ原】
山内一豊・没
 【したたかなのは一豊か?】
天璋院篤姫・没
 【晩年の篤姫~最初で最後の温泉旅行】
21 737
 .
1186
 .
1504
 .
1506
 .
1555
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1582
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1600
 .
1614
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1840
防人を廃止する
 【単身赴任のルーツ・防人の歌】
佐藤忠信・没
 【みちのくの勇者・佐藤忠信の最期】
井戸城・古市城の戦い
 【筒井順賢VS古市澄胤】
北条早雲が小笠原定基に誼を通じる
 【物議をかもしだした北条早雲の手紙】
陶晴賢が毛利方の宮尾城を攻撃
 【毛利元就VS陶晴賢~決戦の地・厳島へ】
長宗我部元親が勝瑞城を落とす
 【ラッキーサプライズ?で阿波平定】
関ヶ原で敗れた石田三成が捕まる
 【石田三成・逮捕!】
中井正清が家康に宇治川開削計画を上申
 【築城の匠~家康専属大工・中井正清】
蜂須賀一角が阿波踊りを踊って改易に
 【阿波踊りを踊っただけで…お取り潰し】
22 866
 .
1547
 .
1868
 .
1872
応天門炎上事件で伴善男が流罪に・・・
 【「応天門炎上事件」真犯人は誰だ!】
加納口の戦い
 【信長&濃姫の結婚へと向かわせた戦い】
会津戦争・終結
 【藩士と領民・それぞれの道】
明治天皇・誕生(新暦:11月3日)
 【皇子から武人へ~明治天皇の大変身】
23 1361
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1544
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1600
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1832
細川清氏が若狭に落ちる
 【南北朝動乱~北朝の細川清氏が南朝へ】
井ノ口の戦い
 【織田・朝倉連合軍VS斉藤道三】
安国寺恵瓊が捕まる
 【戦国のネゴシエーター・安国寺恵瓊の失敗】
頼山陽・没
 【革命の思想家・頼山陽の死】
24 686
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1533
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1578
 .
1877
大津皇子、謀反発覚!
 【大津皇子、謀反発覚!】
朝倉義景・誕生
 【朝倉義景の汚名を晴らしたい】
織田・上杉越中争奪戦に斎藤新五が参戦
 【織田VS上杉の越中争奪戦】
西南戦争・終結
 【城山の最終決戦】
 【西郷とともに生き、ともに殉じた桐野利秋】
 【西南戦争が変えたもの…】
 【西南戦争・全般】
25 769
 .
1546
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1829
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1864
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1866
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1870
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1985
和気清麻呂が大隈へ流罪となる
 【和気清麻呂、大隈へ流罪】
筒井順昭が貝吹山城を攻撃
 【奈良の戦国~越智と貝吹山城攻防戦】
シーボルトに国外退去処分
 【シーボルト事件のウラのウラ】
長州藩の井上聞多(馨)が襲撃される
 【九死に一生…井上聞多の「母の力」】
小栗忠正がフランスに借金申し込み
 【でるか?徳川埋蔵金伝説】
明治政府が入墨刑を廃止
 【遠島・入墨・百タタキ~江戸の刑罰イロイロ】
藤ノ木古墳・発掘
 【未盗掘で発見された藤ノ木古墳の主は?】
26 1005
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1542
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1568
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1864
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1904
安倍晴明・没
 【安倍晴明さんのご命日なので・・・】
駒井高白斎が福与城を包囲
 【武田の気象予報士・駒井高白斎】
織田信長が足利義昭を奉じて上洛
 【足利義昭を奉じて~信長の上洛】
周布政之助が自殺
 【長州動乱…周布政之助の自殺】
小泉八雲・没
 【小泉八雲=ラフカディオ・ハーンの見た物は】
27 923
 .
1499
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1504
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1550
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1599
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1600
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1863
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1945
平中こと平貞文が死去
 【モテモテ平中=平貞文の失恋話】
宇治木幡の戦い
 【足利義稙×細川政元~宇治木幡合戦】
立河原の戦い
 【関東の支配をめぐって~立河原の合戦】
毛利元就が吉川興経・父子を殺害
 【毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦】
家康が大坂城・西の丸に入る
 【家康の大坂城入りと「大河ドラマ・江」】
福知山城攻防戦
 【関ヶ原余波~細川忠興VS小野木重次】
天誅組の壊滅で吉村寅太郎・自刃
 【天誅組~吉村寅太郎の最期】
昭和天皇がマッカーサー元帥と会見
 【昭和天皇とマッカーサー元帥】
28 1331
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1555
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1601
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1863
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1915
元弘の変・勃発~笠置山の戦い
 【元弘の変~笠置山の戦い】
厳島の戦いに能島・来島村上水軍が参戦
 【運命を変えた能島・来島村上水軍の参戦】
毛利輝元が息子を江戸へ人質に出す
 【関ヶ原敗戦での毛利の転落】
第1回・薩英和平会談が開かれる
 【戦い終わって~薩英戦争・その後】
斉藤一・没
 【斉藤一~警察官でも新撰組魂は消えず】
29  .
 .
1568
 .
1574
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1600
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1657
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1675
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1872
招き猫の日
 【招き猫の由来】
織田信長が三好三人衆を攻撃
 【信長の登場で崩壊する三好三人衆】
長島一向一揆の終結
 【長島一向一揆の終結】
伊東祐慶が宮崎城を攻撃
 【関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃】
高崎2代藩主・安藤重長が没す
 【気はやさしくて力持ち…藩主・安藤重長】
柳生宗冬・没
 【柳生宗冬の総入れ歯】
日本初のガス灯がともる
 【文明開化『光』の競争】
30 894
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1351
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1497
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1566
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1578
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1605
遣唐使・廃止
 【白紙に戻そう遣唐使】
臨済宗の僧・夢窓疎石が没す
 【時の権力者に帰依された夢窓疎石】
古河公方・足利成氏が死去
 【古河公方・足利成氏の波乱万丈】
信玄の攻撃で上野箕輪城が陥落
 【箕輪城落城~新陰流・誕生の影に・・・】
信長が鉄甲船の観艦式を開催
 【信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場】
疋田景兼・没
 【三剣聖に次ぐ屈指の剣豪・疋田景兼】
秋分 お彼岸の起源
 【ひとりの怨霊を鎮めるために・・・】
仲秋 仲秋の名月
 【竹取物語は社会派風刺小説】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・18日 観音様の縁日
 【観音様のお話】
毎月・19日 トークの日
 【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
毎月・24日 かつお節の日
 【かつお節の歴史】
愛宕の縁日
 【愛宕神社のお話】
地蔵の縁日
 【お地蔵様のお話】
毎月・25日 天神の縁日
 【菅原道真・没】
毎月・26日 風呂の日
 【お風呂の歴史】
毎月・28日 鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
不動明王の縁日
 【不動明王のお話】
毎月・30日 みその日
 【お味噌の歴史+味噌天神のお話】
毎月・末日 そばの日
 【お蕎麦の歴史】

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2007年12月12日 (水)

武田信玄・駿河に進攻~薩埵峠の戦い

 

永禄十一年(1568年)12月12日、駿河に進攻しようとする武田信玄と、それを迎え撃つ駿河今川氏真とが、薩埵峠で衝突した『薩埵峠の戦い』がありました。

・・・・・・・・・

今川義元桶狭間の戦い(5月19日参照>>)織田信長に討たれた後、後を継いだのが嫡男の氏真(うじざね)です。

しかし、あの海道一の弓取りと呼ばれた義元の後継者の座は、彼には少し荷が重すぎたようで、その失政から家臣団の心は離れ、今川家はみるみると衰退していきました。

氏真の母親が武田信玄の妹・定恵院(じょうけいいん・義元の正室)であった事から、しばらくはおとなしくしていた信玄も、ここに来て、今川・北条と結んでいた同盟を破棄し、三河(愛知県東部)徳川家康と手を組んで、同時期に今川の領地へ攻め込み、奪った後は、駿河を信玄が・・・、遠江を家康が統治する事を協議しはじめます。

この今川との同盟破棄に反対したのが、信玄の嫡男・義信です。

もちろん、信玄と義信の対立については、この同盟破棄だけが理由ではなく、あの川中島の合戦(9月10日参照>>)の後ぐらいから・・・と言われ、その原因も、義信の母・・・つまり、信玄の正室である三条夫人(7月28日参照>>)と信玄の夫婦仲がうまくいっていなかったから、とか、義信より四男・勝頼のほうを気に入っていたからなど、様々に伝えられています。

中でも、義信は、今川義元の娘を正室としていて、どうやら、その奥さんにベタ惚れだったらしく、逆に信玄はその正室の事があまり気に入らなかったようで、そんなところにも原因があるようなのですが、とにかく義信にとって、大好きな奥さんの実家との同盟破棄は、やはり問題だったのでしょう。

・・・で、結局、永禄八年(1565年)に、「信玄の暗殺を企てた」として、飯富虎昌・長坂源五郎ら義信の側近たちが処刑となり、家臣団も追放され、義信自身は幽閉の身となり、その2年後の永禄十年(1567年)に自刃させられたと言われています(10月19日参照>>)

とにかく、ソリが合わなかったとは言え、大事な嫡男を死に追いやってまで、進めた今川攻め・・・信玄の胸の内にも、それなりの覚悟があった事は確かでしょう。

そして永禄十一年(1568年)12月に入って、いよいよ信玄は駿河へと・・・、そして、家康は遠江へと兵を進め、信玄は今日12日に、内房(うつぶさ・静岡県芝川)までやってきます。

もちろん、信玄の駿河侵入を知った氏真は、即座に、重臣である庵原安房守(いはらあわのかみ)小倉勝久といった面々を薩埵(さつた)に派遣します。

先日書かせていただいた、この2年後に起きる後北条との蒲原(かんばら)城争奪戦(12月6日参照>>)でも、薩埵峠に北条が砦を築いていましたが、この薩埵峠は甲斐から駿河に侵入する時の要所となる場所なのです。

氏真としては、何としても、守り抜かねばなりません。

氏真は、さらに援軍を増やすとともに、自分自身も近くの清見寺へ布陣します。
今川軍は、1万5千という大軍となります。

そして永禄十一年(1568年)12月12日、正午・・・『薩埵峠の戦い』の火蓋が切られる・・・はずだったのですが・・・

なんと、その場に布陣していた朝比奈信置(あさひなのぶおき)ら複数の重臣が、開戦直前にさっさと陣をたたんで、駿河に帰ってしまったのです。

実は、信玄は駿河に入る前から、すでに、今川方の複数の家臣たちに内通を打診していたのです。

最初に書いた通り、氏真と家臣団の間には、この時すでに溝が出来ており、氏真に見切りをつけた多くの家臣が、ここで武田に寝返る事になります。

この事実を知った、他の今川の家臣たちも、当然ガックリ・・・士気は下がりまくりで、皆順々に戦線を離脱していきました。

実は『薩埵峠の戦い』・・・と書きましたが、この日、この峠で戦いが繰り広げられる事はありませんでした。

信玄は、見事、戦わずして勝ち、要所である薩埵峠を落としました。

もちろん、他の家臣同様、駿河に戻ってしまった氏真・・・こうして信玄は駿河に入り、いよいよ明日は、氏真の本拠地・今川館での攻防戦(12月13日参照>>)が繰り広げられ、永禄十二年(1569年)1月18日には第2次薩埵峠の戦い(1月18日参照>>)へと展開していく事になります。
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10月の歴史の出来事カレンダー

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日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

 10inahocc

出来事とリンク
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770
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1183
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1555
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1587
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1600
醤油の日
 【醤油の歴史】
第49代・光仁天皇が即位
 【光仁天皇&桓武天皇・父子2代の改革】
水島の戦い
 【義仲・初の敗戦~源平・水島の戦い】
厳島の戦い
 【決戦!戦国三大奇襲・厳島の戦いVer.2】
秀吉が「北野大茶会」を開催
 【北野大茶会~秀吉と「茶の湯御政道」】
石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が斬首に
 【石田三成・斬首!】
直江兼続が長谷堂から撤退開始
 【自刃まで考えた~兼続の長谷堂・撤退】
2 110
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1568
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1581
 
1600
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1643
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1787
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1855
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1872
ヤマトタケルノミコトが東方征伐に出発
 【ヤマトタケルは実在したか?】
信長が堺に軍資金を要求
 【本能寺の変と堺の関係】
信長の高野攻めの先陣が根来に着陣
 【織田信長の高野山攻め】
富来城が開城
 【九州の関ヶ原~富来城が開城】
天海・没
 【黒衣の宰相・天海=明智光秀説】
田沼意次が失脚する
 【賄賂政治家・田沼意次の汚名を・・・】
安政の大地震・発生
 【安政の大地震でなまず絵が売れる】
藤田東湖・圧死
 【水戸学と尊王と倒幕~藤田東湖・志半ば】
娼妓解放令を布告
 【娼妓解放令と三英傑の人身売買禁止】
3 1467
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1555
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1571
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1600
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1629
応仁の乱・相国寺の戦い
 【応仁の乱・激戦~相国寺の戦い】
厳島の戦いで弘中隆兼が討死
 【厳島の戦い~勇将・弘中隆兼の場合】
北条氏康・没
 【謙信・信玄に撃ち勝った隠れた名将】
武田信玄・甲斐を出発
 【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
織田信忠が信貴山城に着陣
 【松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い】
長束正家が自刃
 【関ヶ原・水口岡山城の戦い】
江戸幕府が山田長政に朱印状を交付
 【アユタヤの戦士・山田長政は実在したか】
4 698
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1565
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1579
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1782
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1872
薬師寺の伽藍が完成する
 【薬師寺、伽藍完成】
足利義昭が上杉謙信に上洛を要請
 【「僕を京都に連れてって」義昭・上洛希望】
月岡野の戦いで織田が上杉に勝利
 【越中争奪戦~月岡野の戦い】
第6代松江藩主・松平宗衍が死去
 【美女の肌に刺青を…松江藩主・松平宗衍】
富岡製糸場が操業開始する
 【女性たちの過酷な労働の上に…経済大国】
5 528
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1274
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1339
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1392
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1555
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1599
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1600
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1630
達磨忌
 【ダルマさんのご命日】
対馬西岸に元軍が到着
 【フビライの日本侵略計画はあったのか?】
足利尊氏が天龍寺を創建
 【足利尊氏の天龍寺・創建で大モメ】
後亀山天皇が後小松天皇に譲位
 【南北朝の合一】
厳島の戦いで陶晴賢の首が発見される
 【大寧寺&厳島…陶晴賢の思いやいかに】
南部信直・没
 【盛岡の基礎を築いた中興の祖・南部信直】
鳥取城・総攻撃
 【関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略】
藤堂高虎・没
 【築城名人~藤堂高虎の転身】
6 1180
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1569
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1842
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1868
源頼朝が再起をかけて鎌倉入り
 【源頼朝・鎌倉で再起】
三増峠の戦い
 【三増峠の戦い~武田VS後北条】
幕府が普請役格に二宮尊徳を登用
 【二宮金次郎像のヒミツ…その隆盛と衰退】
水戸藩抗争~松山戦争
 【天狗党最後の戦い~水戸藩・松山戦争】
7 110
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1538
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1563
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1614
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1859
ヤマトタケルが草薙の剣を賜る
 【歴史に埋もれた名も無きヤマトタケルたち】
第一次・国府台合戦
 【第一次・国府台合戦~小弓公方の最期】
 【北条に仕えた謎の名軍師・中山修理介】
 【初恋を実らせた里見義弘と青岳尼】
観音寺騒動
 【六角氏の運命を変えた観音寺騒動】
毛利勝永ら有名浪士が大坂城に入城
 【大坂の陣~毛利勝永の入城】
高山右近がマニラに追放
 【キリシタン大名・高山右近、神に召される】
橋本左内・頼三樹三郎が死罪に
 【橋本左内と安政の大獄】
 【安政の大獄・井伊直弼の本心】
 【井伊直弼の女スパイ・村山たか】
8  .
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1585
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1764
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1871
入れ歯の日
 【世界最古の入れ歯は日本製?】
伊達政宗が父・輝宗を射殺
 【伊達政宗の父親射殺事件の謎】
徳川宗春・没
 【吉宗に反発した尾張の暴れん坊藩主】
岩倉使節団の派遣を決定
 【維新から44年…実現した対等の日本】
9  .
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764
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1614
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1870
金刀比羅宮の大祭
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
淳仁天皇が退位し称徳天皇が即位
 【道鏡事件のウラのウラ】
真田幸村が大坂城に向かって出発
 【幸村が九度山を脱出し大坂城へ…】
岩崎弥太郎が土佐開成社を開設
 【後藤象二郎様々?岩崎弥太郎の成功劇】
10 1555
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1567
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1577
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1600
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1629
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1719 
太原雪斎・没
 【今川を支えた黒衣の宰相・太原雪斎】
東大寺・大仏殿の戦いで大仏炎上
 【大仏殿の戦いby松永×三好・筒井】
松永久秀が没す
 【乱世の梟雄・松永久秀~運命の日に爆死】
岩村城が開城
 【関ヶ原~西軍・田丸直昌の岩村城開城】
家光の乳母・お福が春日局の称号を賜る
 【謀反人の娘で殺人犯?春日局が天下を】
「葉隠」の山本常朝が死去
 【「死ぬことと…」山本常朝の武士道】
11 641
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1185
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1231
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1491
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1881
南淵請安が唐より帰国する
 【大化の改新の影の立役者・南淵請安】
土佐坊昌峻が、源義経の屋敷を夜討ち
 【義経・危機一髪!堀川夜討ち】
土御門天皇・崩御
 【時代の波に呑まれた穏やかな天皇】
伊豆討ち入り
 【戦国の幕開け~北条早雲・伊豆討ち入り】
明治十四年の政変
 【大隈重信・失脚の原因は?】
12 1492
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1600
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1658
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1694
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1916
コロンブスが新大陸発見
 【西欧の地球分割支配と秀吉の朝鮮出兵】
九鬼嘉隆・自刃
 【戦国の水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃】
前田利常・没
 【バカ殿を演じきった二代目藩主・前田利常】
松尾芭蕉・没
 【夢は枯野を駆け巡る・芭蕉忌日】
 【松尾芭蕉…最後の旅】
高松凌雲・没
 【敵味方の区別なく・・・医師・高松凌雲】
13 522
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1336
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1572
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1597
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1867
百済が欽明天皇に仏像を献上
 【仏教伝来・物部VS蘇我】
新田義貞らが、敦賀に到着
 【新田義貞・北国落ちの悲劇は本当か?】
一言坂の戦い
 【家康に過ぎたる~本多忠勝・一言坂】
宇都宮国綱を改易処分にする
 【パワハラで改易?不運続きの宇都宮国綱】
「討幕の密勅」が薩摩に下る
 【幕府・朝廷~ともに歴史が動いた10・13】
14 1572
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1584
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1600
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1615
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1762
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1853
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1862
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1867
武田勝頼が二俣城を包囲
 【いよいよ三方ヶ原~信玄・二俣城を攻略】
前田利家が鳥越城を攻撃
 【利家VS佐々成政~鳥越城の攻防】
黒田如水が小倉城を落す
 【小倉城開城で黒田如水が北九州制圧】
片倉景綱・没
 【独眼竜の在るところ片倉小十郎あり】
思想家・安藤昌益が没す
 【封建社会を痛烈批判…思想家・安藤昌益】
プチャーチンが下田に来航
 【開国の嵐に不幸続きのプチャーチン】
津軽信順が死去
 【歴代1位のダメ藩主…夜鷹殿様・津軽信順】
大政奉還
 【大政奉還,~徳川慶喜の思惑】
 【「龍馬伝」第47回と徳川慶喜の思惑】
15 669
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743
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1140
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1203
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1582
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1896
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1898
中臣鎌足に藤原の姓が与えられる
 【中臣鎌足・藤原の姓を賜る】
聖武天皇・大仏造立の詔を発する
 【奈良の大仏の大きさは恐怖の大きさ】
佐藤義清が出家して西行となる
 【武士?僧侶?ストーカー?スパイ?謎の歌人・西行】
甘糟忠綱が法然を訪問
 【法然に見守られ~甘糟忠綱・最期の時】
秀吉が信長の葬儀を行う
 【後継者へ~秀吉演出の信長の葬儀】
千葉佐那・没
 【坂本龍馬の婚約者~鬼小町・千葉佐那】
岡倉天心・日本美術院設立
 【岡倉天心を転身させた奥さんのご乱心】
16 669
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1018
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1446
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1521
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1557
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1579
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1590
藤原鎌足・没
 【中臣鎌足・藤原の姓を賜る】
藤原道長が♪この世をば・・・の歌を詠む
 【藤原道長・栄華物語】
大和高田城の戦い
 【応仁の乱前哨戦~高田城の戦い】
飯田河原の戦い
 【武田信虎・甲斐統一!飯田河原の戦い】
三好長慶が丹波龍蔵寺城を攻略
 【三好長慶の八上城攻略戦】
有岡城・開城
 【有岡城・落城~如水と半兵衛と息子たち】
葛西大崎一揆・発生
 【独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆】
17 1573
 .
1586
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1600
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1877
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1887
浅井長政の嫡男・万福丸が処刑される
 【万福丸の処刑~浅井長政と息子たち】
家康が上洛の決意をする
 【負けたのに勝った?人たらし秀吉の離れ業】
加藤清正が宇土城・八代城を制圧
 【九州の関ヶ原~加藤清正の動き】
東京・神田に華族学校が開校
 【登校拒否は当然!明治初めの学校事情】
横浜に近代的上水道誕生・上水道の日
 【江戸の上水・大坂の下水】
18 1568
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1602
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1610
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1881
足利義昭が第15代・室町幕府将軍に就任
 【第15代室町幕府将軍・足利義昭 就任】
 【将軍・義昭擁立で初登場!明智光秀】
小早川秀秋・没
 【わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩】
 【秀秋を苦しめた~岡山城・開かずの間】
本多忠勝・没
 【家康とともに半世紀…四天王・本多忠勝】
板垣退助が自由党を結成
 【日本初の政党・自由党誕生】
19 671
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1274
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1567
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1584
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1609
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1952
大海人皇子が吉野へ出発
 【希望と不安~大海人皇子・吉野へ出発】
蒙古軍が博多湾に入港
 【蒙古襲来!文永の役】
武田信玄の嫡男・義信が自刃
 【武田の運命も変えた武田義信の自刃】
長宗我部元親が伊予を平定
 【伊予平定で実現!元親の四国統一】
徳川家康の重臣・石川家成が死去
 【家康様一筋…無二の忠臣・石川家成】
土井晩翠・没
 【「荒城の月」のモデルは?~土井の告白】
20  .
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1180
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1578
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1600
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1861
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1868
えびす講・10月=神無月の由来
 【神様出張の神無月~留守役の神様は?】
富士川の戦い
 【源平激突!富士川合戦】
大友宗麟配下の田原紹忍が高城を攻撃
 【耳川への序章~宗麟・高城攻撃へ…】
鍋島直茂らが久留米城を攻撃
 【生き残りをかけた鍋島直茂の関ヶ原】
家茂との結婚のため和宮が京都を発つ
 【皇女・和宮~替え玉説について】
榎本武揚ら旧幕府軍が蝦夷地に上陸
 【幕府最後の進撃~榎本武揚・函館を奪取】
21 1180
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1331
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1578
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1585
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1815
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1818
兄・頼朝と、弟・義経が対面する
 【頼朝と義経・黄瀬川の対面】
元弘の変・赤坂城の戦い
【楠木正成のゲリラ術炸裂!赤坂城の戦い】
荒木村重が有岡城に籠城
 【荒木村重・謀反の真意は?】
伊達政宗の側近・遠藤基信が殉死
 【フォローの側近・遠藤基信…殉死】
千住の酒合戦
 【花のお江戸の酒飲み大会~千住酒合戦】
司馬江漢が没す
 【江戸をおもしろくした天才・司馬江漢】
十七烈士・墓前祭
 【禁門の変のシンガリ・幕末の十七烈士】
22 794
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1517
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1555
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1570
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1572
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1578
桓武天皇が平安京に遷都
 【未完の都・平安京】
 【究極の魔界封じの都・平安京誕生】
 【平安京の移り変わり~朱雀大路と千本通】
毛利元就・初陣~有田城外の合戦
 【西国の桶狭間・有田城外の合戦】
 【有田城外に散る熊谷元直とその妻】
斉藤義龍が弟を殺害
 【道三より大物?義龍「親から国盗り物語」】
武藤友益らが織田信長に反旗を翻す
 【信長&秀吉の前に散る若狭武田氏】
伊平城・仏坂の戦い
 【井伊・伊平城の仏坂の戦い】
長連龍が越中へ逃走
 【ヤルからには徹底的…長連龍の復讐劇】
23 765
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1098
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1358
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1526
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1589
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1614
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1629
淳仁天皇・崩御
 【没後・1105年経て天皇に~悲しみの天皇】
源義家が昇殿を許される
 【武士で初の昇殿…八幡太郎の苦悩】
新田義興を討った江戸高良に落雷直撃
 【新田義興の怨念?神霊矢口の渡し】
神尾山城の戦い
 【細川高国政権が崩れるキッカケ】
北条が真田の名胡桃城を奪う
 【小田原征伐のきっかけ名胡桃城奪取事件】
徳川秀忠が江戸を出陣
 【大河「江」と大坂の陣直前の秀忠の手紙】
江戸幕府が女歌舞伎・女浄瑠璃を禁止
 【女歌舞伎の禁止令】
24 1185
 .
1579
 .
1581
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1708
 .
1873
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1876
鎌倉・勝長寿院の落慶法要
 【高綱~意地とプライドのパフォーマンス】
明智光秀が織田信長に丹波平定を報告
 【明智光秀と丹波・福知山の明智藪】
鳥取城・開城
 【鳥取城攻防戦~秀吉の兵糧攻め】
関孝和が死去
 【和算を世界レベルにした算聖…関孝和】
西郷隆盛は辞職する
 【征韓論で西郷隆盛・辞職】
神風連の乱・勃発
 【神風連の乱~ダンナハイケナイ・・・】
25 1573
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1581
 .
1637
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1864
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1880
第二次長島一向一揆戦
 【信長ピンチ~第二次長島一向一揆戦】
開城した鳥取城の城将・吉川経家が自刃
 【鳥取の干殺し~吉川経家の決断】
島原の乱・勃発
 【一揆か?聖戦か?島原の乱】
武田耕雲斎が天狗党の総大将に
 【総大将・武田耕雲斎~新生・天狗党誕生】
「君が代」が完成する
 【「君が代」の誕生】
26 1155
 .
1350
 .
1589
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1637
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1785
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1838
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1908
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1909
後白河天皇が即位
 【暗愚の後白河天皇が天下を動かす】
観応の擾乱・勃発
 【~足利尊氏+高師直VS足利直義】
須賀川城の落城で二階堂氏が滅亡
 【政宗VS二階堂盛義の妻・大乗院阿南】
江戸幕府が五人組制度を強化
 【江戸幕府の農民支配~五人組制度】
肥後の中興の祖・細川重賢が没す
 【見事な財政立て直し~肥後の細川重賢】
中山みきが天理教を開く
 【中山みきと天理教】
榎本武揚・没
 【榎本武揚・五稜郭の後は・・・】
伊藤博文・暗殺
 【伊藤博文・暗殺~真犯人は別にいる?】
27 1557
 .
1859
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1876
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1890
正親町天皇が即位
 【天皇の権威復活~正親町天皇と信長】
安政の大獄で吉田松陰が死刑になる
 【吉田松陰、死刑!】
秋月の乱・勃発
 【福岡で怒った士族の反乱~秋月の乱】
浅草・凌雲閣に日本初のエレベーター・設置
 【日本初のエレベーター…凌雲閣に誕生】
28 1199
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1587
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1596
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1600
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1876
鎌倉幕府の御家人が弾劾状を作成
 【梶原景時・弾劾状を作成】
新発田城落城で新発田重家が自刃
 【上杉の宿敵~独立を夢見た新発田重家】
酒井忠次・没
 【徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?】
赤松広秀(斎村政広)が切腹する
 【関ヶ原後の豊臣恩顧・最初の犠牲者?】
萩の乱・勃発
 【天皇をお諌めしたい~前原一誠の萩の乱】
29 1544
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1555
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1577
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1714
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1876
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1945
武田信玄が伊那に進攻
 【武田信玄の伊那進攻】
武野紹鴎・没
 【現在まで続く茶の心…武野紹鴎の侘び】
明智光秀が籾井城を落とす
 【光秀の丹波攻略戦~籾井城の戦い】
徳川と北条が和睦
 【天正壬午の乱で井伊の赤備え誕生】
貞享暦に改暦
 【初の国産改暦~渋川春海の『貞亨暦』】
池田綱政・没
 【女好き?名君?後楽園を造った池田綱政】
水戸藩が「大日本史」を幕府に献上
 【黄門さまの大日本史~日本初の発掘調査】
 【大日本史が皇室系図に与えた影響】
思案橋事件
 【東京で起こった士族の反乱~思案橋事件】
第一回・宝くじが発売
 【昭和の宝くじ・江戸の富くじ】
30  .
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1326
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1579
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31 1191
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2007
栄西が宋からお茶を持参して帰国
 【栄西のお土産・日本茶の日】
 【栄西のお茶・その後~闘茶と御茶壷道中】
Yahooニュースで「大阪城から慶長の宴会跡発見」の参考として下記頁を紹介して戴きました
 【戦国時代の食べ物事情】
5世紀 仁徳天皇が茨田堤を築く
 【最古の治水工事・茨田堤の物語】
1340 佐々木道誉・妙法院を襲撃
 【佐々木道誉・紅葉事件で婆沙羅を卒業】
寒露 毎年10月8日頃:二十四節季の一つ
 【二十四節季のお話】
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2007年12月11日 (火)

弟のニセ綸旨で反旗を決意?足利尊氏・箱根竹ノ下の戦い

 

建武二年(1335年)12月11日、後醍醐天皇の命令で、追討にやって来た新田義貞を、足利尊氏が破った『箱根・竹ノ下の戦い』がありました。

・・・・・・・・・・・

今日の『箱根・竹ノ下の戦い』は、「南北朝動乱の幕開け」と称されています。

つまり、今まで、ともに協力して鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、新政を成し遂げた後醍醐天皇足利尊氏が、ここに来て対立・・・そして合戦という形で表面化し、やがて「尊氏の北朝VS天皇の南朝」なるわけなので、まさに、「幕開け」です。

ただし、後醍醐天皇から派遣された新田義貞と足利軍が衝突したのは、この日が最初ではありません。

義貞が京を出たのは11月・・・迫り来る新田軍を最初に迎え撃ったのは尊氏ではなく、弟の直義でした。

しかし、三河・遠江・駿河と、直義が率いる足利軍は次々と破れ、新田軍は伊豆まで迫ってきます。

そこで、ようやく尊氏が立って、今日の『箱根・竹ノ下の戦い』となるのですが、なぜ?尊氏は、今日のこの時まで、戦わなかったのしょうか?

実は、もともと、尊氏には、「後醍醐天皇に反旗をひるがえそう」なんて気持ちはまったく無かったからなのです。

尊氏は、一度目は北条の鎌倉幕府を、そして2度目は今回の後醍醐天皇・・・と2度、主君に反旗をひるがえすわけですが、以前の【足利尊氏・裏切りの要因】(4月16日参照>>)のページにも書かせていただいた通り、それはひとえに、源氏の棟梁としての責任感のなせるワザなのです。

彼は、野心家でも反逆児でもなく、ただ、冷遇されている足利一門を・・・「自分の配下の武士たちの待遇を少しでも良くしたい」という思いからなのです。

尊氏は、根っからの親分肌。

昨日まで敵だった者も、味方となった限りは大いにかわいがり、新田の配下となってしまった元足利の者に「こっちに来いよ」と、駆け引き無しで説得したりするところは、まさに大親分です。

そもそも今回の出兵は、北条の残党が鎌倉を占拠したために、それを制圧する目的で尊氏は京を出発するのですが、その時、後醍醐天皇は、尊氏の強さを恐れ、「遠くに離したくない」という思いから、尊氏が鎌倉に向かう事を許しませんでした。

しかし、我慢できない尊氏は、令の無いまま、8月2日に出陣し、猛攻撃の末に19日には鎌倉を取り戻してしまうのですが(8月19日参照>>)、さすがに、この時は後醍醐天皇も「尊氏を手元に置いておきたい」というのは、自分の勝手な思惑とわかっていたらしく、後から「北条残党・追討」の命令を出しています。

そのかわり、尊氏に従二位の位を与え、その功績を賞した後は、すみやかに京に戻るよう命令しています。

しかし、すでに『建武の新政』で、武士が冷遇されていたのはご承知の通り(6月6日参照>>)

それでも尊氏は天皇の命令通り京に戻るつもりでいましたが、弟・直義は「せっかく関東を制圧したのに、また同じ待遇の所に、今更戻る必要があるのか?」と尊氏に問います。

やがて、尊氏は、10月には鎌倉に新たな屋敷を建築し、京に戻る意思が無い事をあらわにするのです。

それで、先に書いた後醍醐天皇の「尊氏・追討命令」となって新田義貞がやってきたわけですが、それでも尊氏は、天皇に弓を引くつもりはなく、あくまで「自分の主張(武士の待遇と幕府を開く事)を何とか認めてもらいたい」という姿勢だったのです。

長い説明になりましたが、そういうわけで、初めのほうの新田軍との戦いには、尊氏は参戦していなかったのです。

・・・で、最初に書いたように、弟・直義が率いる足利軍は新田軍に苦戦を強いられるのですが、これも直義が弱いわけではなく、その根っからの親分肌のおかげで、「今やカリスマとなった源氏の棟梁が参戦しない戦い」に、配下の武士たちの士気があがるわけがありませんからね・・・負けが続くのは仕方の無い事です。

案の定、この『箱根・竹ノ下の戦い』で、重い腰をあげ、やっと参戦した尊氏を見て、味方の軍の士気は一気に高まり、見事、新田軍を破る事になるのですが、この日の参戦を、尊氏が決意するにあたって、一つのエピソードがあります。

先に書いたように、どうしても後醍醐天皇に反旗をひるがえしたくない尊氏・・・「何とかその思いをわかってもらいたい・・・どうしたらわかってもらえるのか?」と悩んだ末に、鎌倉の建長寺へ行き「出家する!」と言って元結を切ってしまうのです。

兄のザンバラ頭の姿を見た弟・直義はびっくりします。
「これは何とかせな!」

・・・と、そこで直義は、『尊氏と直義を誅せよ』というニセの『綸旨(天皇の命令書・単なる命令より絶対度合が高い)を作成し尊氏に見せ・・・
「兄ちゃん、ほら、もうこんな事になってんねんから、今更、後に退いても、やられるだけやで」
・・・と、説得。

尊氏は弟のニセ綸旨のおかげて決意が固まって、やっとこさ参戦・・・という事になったのです。

こんなところにも、突進型で大将タイプの兄・尊氏と、策略家で参謀タイプの弟・直義の名コンビぶりがうかがえますね。

・・・で、この戦いに勝利した足利軍は、その勢いで新田軍を追撃しながら上京。

翌年の1月には近江(滋賀県)に迫り、その後、京都での戦いに突入する事となりますが、そのお話は1月27日のページでどうぞ>>
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2007年12月10日 (月)

足尾銅山闘争で田中正造が直訴

 

明治三十四年(1901年)12月10日、代議士を辞職したばかりの田中正造が、足尾銅山の鉱毒事件で、明治天皇に直訴しました。

・・・・・・・・・・・

時は、明治二十九年(1896年)9月・・・関東北部を流れる渡良瀬川流域で、50年ぶりという大洪水が起こります。

Asiodouzancc 直接の原因は、もちろん雨ですが、何と言っても、上流にある足尾銅山の山林の伐採が、その被害をより大きくしたのです。

しかも、銅山から流れ出た鉱毒が、河川はもちろん、その流域をも汚染し、田畑は枯れ果て、あたり一帯は見渡す限りの不毛の地となってしまいます。

Asiodouzantizucc 作物だけではありません。

井戸水も汚染され、沿岸の住民は、水を飲むことさえできません。

最初、この一件に関して、鉱山側は示談を提案しますが、あまりの被害の大きさに、住民側は金銭の問題ではなく、「銅山そのものを停止させて欲しい」を訴えました。

しかし、当然の事ながら、鉱山側が停止に応じる事はありません。

そうなると、住民側は法に基づいて、政府にその要求を訴えなければならないわけですが、住民のほとんどが農民層である彼らの訴えを、当時の政府がまともに聞いてくれるはずもありません。

当時の日本は少しでも早く、欧米諸国に追いつきたいと必死です。

そのためには何と言っても、近代的軍備を整えるのが先決・・・それには、この銅で獲得する外貨収入が必要不可欠だったのです。

農民たちは、翌年の明治三十年(1897年)からは、『押出し』と呼ばれる集団直訴という手段に出ます。

3月2日には、被害者800名が徒歩で上京し、鉱毒問題の請願運動をはじめますが、翌年の明治三十一年(1898年)にも、再び洪水が起こり更なる被害をもたらします。

Tanakasyouzoucc たまりかねた農民たちは、今度は、1万3千人という集団で、陳情しようと東京に向かいますが、それを途中で止めたのが、当時、栃木県選出で代議士を務めていた田中正造(しょうぞう)でした。

彼は、当時、生まれたばかりの大隈重信初の政党内閣に期待していました。

正等な筋道で、ちゃんと陳情すれは、新内閣はきっと取り上げてくれるだろうと、農民たちの運動を、代表五十人による『代表陳情』に変更させます。

彼は、何度も議会で質問に立ちました。

「大抵の国は滅びるまで知らないが、人民を殺すというのは、国家が自分で自分の体に刃物を突きつけているのと同じである」
「鉱毒の被害は、他の被害と違い元を亡くしてしてしまう・・・地面が無くなれば同時に人類も亡くなってしまう、永遠にかかわる損害である」

この間の明治三十三年(1900年)には、陳情に出かけようとした農民が、群馬県の川俣村で警官と衝突!
流血の惨事となり多くの農民が逮捕されるという『川俣事件』も起きました。

翌、明治三十四年(1901年)の、結果的に最後の質問となった正造の質問に対する政府の答弁は・・・「質問と認めず、答弁はしない」という物でした。

正造の期待は見事に裏切られました。

この時・・・あの日、東京に大挙押し寄せ、直訴しようとした農民たちを引き止めて、自分が推し進めた代表陳情が失敗に終わった事で、正造の中に、「生涯をかけて、その責任を果たさねばならない」という決意が生まれたのは間違いありません。

その年の10月、正造は代議士を辞職します。

そして、明治三十四年(1901年)12月10日・・・
紋付袴に身を包んだ正造は、右手に高く紙包みを差し上げて、開院式に向かう天皇陛下の馬車に駆け寄りました。

Asiodouzanzikisocc 「陛下!お願いがございます」と、直訴したのです。

結局、彼は警備をしていた警官に、空しく取り押さえられ、その願いが聞き入れられる事はありませんでした

本来、死刑にも値する罪であるはずの「天皇への直訴」でしたが、この時の正造は、「乱心者」という事で、その日の夕刻には釈放されます。
(政府は穏便に事をすませたかった?)

しかし、その日の出来事が新聞紙上でも大きく報道され、直訴状の内容が一般市民の知るところとなると、世論が黙ってはいませんでした。

社会問題となった鉱毒事件・・・とうとう、世論に後押しされる形で、政府は動きます。

しかし、それは谷中(やなか)村を抹消し、その場所に貯水池を造り、渡良瀬川の氾濫を防ぐというもの・・・

つまり、巧みに鉱毒問題を氾濫・治水問題に置き換えられたものだったのです。

当然、政府の対策に納得できない正造は谷中村に住まいを移転し、村の貯水池化に反対します。

しかし、そんな正造も年齢には勝てません。

大正二年(1913年)9月4日・・・政府の治水対策の正誤を知るべく行っていた河川調査を終えての帰宅途中、73歳でこの世を去ります。

その間にも、栃木県会は谷中村全体を買収して、住民を北海道へ移転させ、反対する住民の家屋は強制的に解体され、谷中村は廃村となり、大規模な河川工事が行われる事となります。

結局、昭和四十八年(1973年)の閉山まで、足尾銅山の停止という最初の願いが果たされる事はありませんでしたが、正造の強い意志は、若き後継者によって、その後も受け継がれていく事となります。

公害問題というと、戦後の高度成長期の頃の事を思い出してしまいますが、こうして明治のこの頃にも、すでに発生していたんですね。

~真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし~
これは、正造の日記の中の言葉だそうです。
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2007年12月 9日 (日)

ペンネーム・夏目漱石~ご命日によせて

 

大正五年(1916年)12月9日は、あの夏目漱石さんのご命日です。

・・・・・・・・・・・

どんなに国語が嫌いでも、漱石さんの名前は知らない人はいない・・・作家としては日本一有名な人でしょうね。

小説をまったく読まない私でも知ってるくらいですから・・・。

Natumesousekicc 慶応三年(1867年)に東京で生まれた漱石さんは、東大卒業後、松山中学・熊本五高の教師を経て、33歳の時に、文部省から2年間のイギリス留学を命じられ、帰国後、第一高等学校教授東大英文科の講師を兼任します。

この頃、第一高等学校の生徒が日光・華厳(けごん)の滝投身自殺を計り、漱石さんも、かなり心を痛めたようですが・・・。(5月22日参照>>)

その後、一発目に書いた『我輩は猫である』が大ヒットし、教師を辞めて作家に専念しますが、そんな40歳を過ぎた頃から胃潰瘍に悩まされるようになり、入院・手術を経て、精神的に落ち込む事が多くなります。

そんな中でも執筆活動を続ける漱石さんでしたが、大正二年(1913年)、46歳の時に、強度の神経衰弱と胃潰瘍が再発します。

さらに糖尿病と診断され、治療を受けながらも『明暗』を執筆していましたが、大正五年(1916年)12月9日、大内出血により危篤状態に陥り、午後6時45分、49歳でこの世を去りました。

歯切れの良い文体で、おもしろく風刺を効かす・・・「価値」「無意識」といった漱石さんの造語は、いまや完全に日本語となり、近代口語体小説への貢献は計り知れません。

そんな、漱石さん、本名は金之助で、「漱石」という名前がペンネームなのは、もうご存知でしょうが、親友・正岡子規(しき)から、もらったという「漱石」という名前・・・これは、「石に枕し、流れに漱(すす)ぐ」という、中国の名言に由来しています。

この名言は、もともと「隠遁(いんとん・世間から離れて隠れるようにひっそり暮らす事)精神を表す言葉として用いられていました。

ところが、中国はの時代(265年~316年頃)、孫楚という一人の男が友人との雑談中に、若い頃、哲学的な思いにふけって隠遁生活にあこがれたという話をしている最中に、「石に枕し、流れに漱ぐ」と言わなければならないところを、つい間違って「石に漱ぎ、流れに枕す」と言ってしまったのです。

即座にツッコミを入れる友人・・・
「流れに枕したり、石に漱いだりできるかいなっちゅーねん!」

・・・と、ここで、
「やってられんわ~」
「ほな、さいなら~」
と、漫才なら、落として終るところですが、この孫楚さんという人・・・負けず嫌いの頑固者。

自分が、つい間違ってしまった事をからかわれて、このまま引き下がるわけにはいきません。

そこで・・・
「流れに枕するのは、耳を洗うためで、石に漱ぐというのは、歯を磨くためだ」と主張し、絶対に言い間違いを認めなかったのです。

その逸話から、無理やりこじつける事、また、そのこじつけが上手である事を、「漱石枕流」という言葉で言い表すようになったんだそうです。

「流石」と書いて、「さすが」と読むのも、「さすがにうまい事こじつけるなぁ」という事で、この故事に由来するのでは?と言われています。

・・・で、夏目さんの「漱石」という名前を見てみると、昔からある中国の名言のほうではなくて、孫楚とう人の誤用のほうの逸話から名前をとったわけで、つまりは、頑固者、ひねくれ者といった意味が、この名前自体に込められている事がわかります。

流石!漱石さん・・。

*漱石の死に関連するお話【「明暗」を書き終えたら…夏目漱石のやり残した事】もどうぞ>>
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2007年12月 8日 (土)

武烈天皇の汚名を晴らしたい

 

武烈八年(506年)12月8日、第25代・武烈天皇が18歳(推定)で崩御されました。

・・・・・・・・・

この武烈天皇ほど、『日本書紀』「編者による天皇家を万系一世にしたいがためのムリヤリつなげ作戦」の犠牲者と言える天皇はいないのではないでしょうか。

先日の、崇神天皇のページ(12月5日参照>>)でも書かせていただきましたが、この時代の歴史書と言える物が『古事記』『日本書紀』等に限られる以上、それを否定する決定的証拠がないため、あくまで、憶測・推理となってしまうわけですが・・・。

だいたい「武烈」という諡(おくりな)からして、あまり良い印象は受けません。

自分たちの有利に運べる天皇には、崇神だの仁徳だの応神だのと、心地の良い諡を名乗らせておいて・・・まったく、もう、藤原クンったら・・・

一応、正史とされる通りに、武烈天皇をご紹介しますと・・・
その悪行は、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)と呼ばれた皇太子時代から始まります。

彼は、物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)の娘・影媛(かげひめ)に恋をします。

ちなみに、武烈天皇は、在位が八年で18歳で亡くなったとされていますので、皇太子時代という事になると10歳以下・・・という事になりますが・・・。

・・・で、一応、皇太子ですから、使いを立てて彼女を口説こうとするわけですが、実は彼女にはすでに恋人がいたのです。

それは、第20代・安康天皇の時代に大臣となり、当時の政界のトップに君臨する平群真鳥(へぐりのまとり)の息子・(しび)でした。

二人は相思相愛。
武烈さんこそ知りませんでしたが、まわりも周知の恋人同志でした。

しかし、皇太子の気性の激しさを知っている影媛は、その猛アタックぶりに断りきれず「海石榴市(つばいち・奈良県桜井)の辻お会いしましょう」と返事をします。

皇太子が出かけるための馬を借りようとした事から、この事実を知った父・真鳥は、当然息子にも連絡。

やがて、皇太子が海石榴市で彼女の袖を引っ張って、迫りまくりのところを、駆けつけた鮪とその家来に引き離されます。

納得がいかない皇太子は歌で・・・

・・・と、一応、ここで歌を交わしているので、その歌を♪で、その一般的な意味を( )で書きましたが、なんか、ミュージカルのようなセリフ回しなので、私の独断的解釈の現代風の現実的なセリフを「 」で書いてみました。
私の考えた勝手なセリフはあくまで参考程度で・・・

武烈:
♪塩瀬の 波折り見れば 遊び来る
 鮪が鰭手に 妻立てり美ゆ♪

(潮の流れを見てると泳いでくる鮪のそばに、私の妻が立ってるのが見えた)
「俺の目ぇつけた女のそばにお前がおる・・・なんでや?」

鮪:
♪臣の子の 八重や韓垣 許せとや御子♪
(私の何重にも囲った立派な垣の中に自由に入らせよとあなたはおっしゃるのですね)
「俺の女に手ぇ出してんのを見過ごせっちゅ-んかい!」

武烈:
♪大太刀を 垂れ佩き立ちて 抜かずとも
 末果たしても 会はむとぞ思ふ♪

(私は、立派な太刀を腰に垂らしているが、それを抜かなくても、いつか影媛と会おうと思っている)
「今、この刀抜いてもええねんでぇ…まぁ、そんな事せんでもいずれ彼女は俺のモンやけどな」

鮪:
♪大君の 八重の組垣 懸かめども
 汝を編ましじみ 懸かぬ組垣♪

(あなたは立派な垣を造って媛を取られないようにしようと思っているだろうが、あなたには立派な垣は造れはしないだろう)
「ムリムリ!」

武烈:
♪臣の子の 八節の柴垣 下動み
 地が震り来ば 破れむ芝垣♪

(お前の垣は、いかにも立派な垣に見えるが地震が来ればすぐ壊れるような垣だろう)
「お前こそ、ムリやっちゅーねん!」

武烈:影媛に向かって・・・
♪琴頭に 来居る影媛 玉ならば
 吾が欲る玉の 鰒白珠♪
(その琴の音に惹かれて神が寄って来るという影媛を、玉に例えるなら、私の一番好きなあわびの真珠だ)

「メッチャ可愛い影媛ちゃん、君は俺の大好きな真珠のようや」

鮪:
♪大君の 御帯の倭文服 結び垂れ
 誰やし人も 相思はなくに♪
(あなたの倭文服
(しつはた)の布が垂れる・・・のタレの言葉のように、タレが別の人を思う事があるでしょう)
「アホか!もう一緒になっとるっちゅーねん」

Buretukeizu2cc ・・・とまぁ、こんな具合で・・・。
最後のの歌は、歌の内容と私の解釈とは、全然意味が違いますが、日本書紀では、この最後の歌で、「皇太子が、鮪と影媛が、もうヤッちゃってる仲(失礼!)だと気づく」という事なので、このようにして解釈してみましたが・・・。

・・・で、このふたりがすでにデキちゃってる事を知った皇太子は「恥をかかされた」と激怒します。

そして、臣下の大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)が率いる数千の兵を、鮪のもとに差し向け、乃楽山(ならやま)に追い詰めた後、影媛の見ている前で殺害させたのです。

もちろん、その後に、父・真鳥も殺し、皇太子が天皇になった時には、この金村が大連(おおむらじ)となるのです。

しかし、不思議な事に、武烈天皇のところに、このエピソードが書いてあるのは日本書紀だけで、古事記ではこの出来事は武烈天皇の叔父さんの顕宗(けんぞう)天皇【(8月8日参照>>)のエピソードとして登場します。

古事記の中の武烈天皇は『八年間在位して子供(後継ぎ)がいなかった』という事だけしか書かれておらず、いたくあっさりとした物。
先の恋愛のエピソードはまったく書かれていないのです。

なのに、日本書紀での武烈批判はさらに、天皇になってからも続きます。

以下、箇条書きにしますと・・・

  • 在位二年め:妊婦の腹を裂いて胎児を見る。
  • 在位三年め:人の生爪をはがし、芋を掘らせる。
  • 在位四年め:人の髪を抜いて木に登らせ、その木を切り倒して落として喜んだ。
  • 在位五年め:人を池の樋(とい)に流し、流れて来たところを矛で刺しておもしろがった。
  • 在位七年め:人を木に登らせ、弓で射落として楽しんだ。
  • 在位八年め:女を馬と交わらせ、○○が潤っていたら死刑、潤っていなければ女官とした。

以下、宮廷への遅刻・早退・無断欠勤は当たり前、贅沢に明け暮れ、一日中低俗な音楽を聴いて、まったく良い事をせず、人民は大いに震え上がったというのです。

なぜ?6年目は休む?
・・・と、これ、嘘だと思うから書いてます。
本当だったら、とてもじゃないが書けません。

なぜなら、こんな事書いておいて、一方では、「法令に長けていて無実の罪は絶対に見抜き、朝早くから夜遅くまで政務についた」と書いています。

また、先ほどの真鳥・鮪父子に関しても、真鳥がその権力を笠に着て、好き放題の政治を行い「自分が天皇になる」などと言い出し、皇太子の入るべき宮殿を占拠して、そこに住んでいた・・・と書かれています。

もし、そうなら、悪代官を倒した暴れん坊将軍のような物で、武烈天皇のほうが正義という事になります。

たった18年の人生で、ありえない変貌ぶり・・・

ブログでは、話が前後してしまいましたが、日本書紀では、「こんな良い事をしました」の後に「だけど、こんなひどい事もしました」という順番で書かれています。

これは、書いてる途中で、明らかに路線変更しています。
武烈天皇を悪人にしなければならない編者の意図がミエミエです。

これは、他ならぬ、次の天皇、第26代・継体天皇へと引き継ぐための画策なのです。

継体天皇は、世阿弥作の能・花筺(はながたみ)の主人公でもありますので、ご存知のかたも多いでしょうが、応神天皇から数えて5代目・・・という事になってますが、福井または近江にいた人で、本当は天皇家ではなかった人なのかも・・・

Buretukuzuhanomiyacc 継体天皇が、樟葉宮(くずはのみや・大阪府枚方市)で即位してから20年間も大和に入る事ができなかったという事も、彼が、今までとは別の政権であった事を物語っているかのようです。

つまり・・・ここで政権交代があった事を隠し、万世一系の天皇家にするため、武烈天皇を悪の権化のように描いたのです。

善の固まりであるかのような継体天皇の正当性を主張したいがための、「武烈天皇=暴君」だというのが本当のところなのかも知れません。

名君とうたわれたあの仁徳天皇の御名は鷦鷯尊(おおさざきのみこと)

そして、武烈天皇は、最初に書いたように、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・・・。

きっと、彼は、仁徳天皇を思い起こさせるような若き名君であったに違いないと、私は思っています。
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2007年12月 7日 (金)

寒ブリが食べたいばっかりにお家断絶・取り潰し

 

以前も、どこかのページでお話をしたと思いますが、私は仕事の関係で10年間、富山に住んでおりました。

大阪生まれの大阪育ちで、他の場所を知らない私どもにとっては、ある意味カルチャーショック・・・教えていただく事がたくさんあり、ためになる事の連続でした。

中でも、驚いたのは、冬の雷です。

もちろん、大阪でも冬に雷は鳴りますが、やはり、ものずご~い雷と言えば、梅雨の終わり頃にあるもので、夏の風物詩というイメージでした。

ところが、日本海側では、ちょうど今頃・・・11月の終わりから12月の始めにかけて、秋が終って冬に入り、これから寒くなるぞ~という時期に、ものすご~い雷が鳴ります。

富山では、この雷の事を『ブリおこし』と呼びます。

雷が鳴ると、ブリの季節・・・そう、「寒ブリ」です。
富山の、寒ブリは最高においしいです

ところで、今日のお話ですが・・・
江戸の昔・・・そんな寒ブリのうまさに魅了された結果、とんでもない事になってしまったお侍がいたというお話です。

ある日、福知山城主の稲葉紀通(いなばのりみち)は、勘九郎という家臣と二人で、雪見酒を楽しんでいました。

酒が進むにつれ、以前、伊勢(三重県)田丸藩主だった時に食べた寒ブリの話になり・・・
「アレはうまかったなぁ~」
「ホンマ、最高ですゎ~」
と、大いに盛り上がります。

「なんとか、もっかい食べたいもんやなぁ~」
「ホンマですゎ、まだアレを食べた事のない藩のヤツらにも、食べさしてやったら、みな喜びまっせ~」

しかし、福知山は丹波(京都府中部)の山の中・・・そう簡単に、寒ブリが手に入るわけではありません。

思案の末、「隣国・丹後(京都府北部)京極高広(きょうごくたかひろ)に頼もう」という事になります。

丹後は、日本海に面した屈指の漁場です。
富山に、負けず劣らずのおいしい寒ブリが手に入る事まちがい無し。

そして、「どうか、寒ブリを100匹、送っては戴けないだろうか?」という書状をたずさえた使者が、九里の雪道を丹後へと駆け抜けます。

書状を受け取った高広さん・・・豊富な漁獲高を誇る丹後を統治する彼にとっては、ブリ100匹など、集めて送るのはたやすい事です。

しかし、ちょっと待った~!

京極高広は、「稲葉のアホンダラ・・・これを幕府への賄賂として献上しようとしとるんちゃうか?」と疑いを持つのです。

時は、あの関ヶ原の合戦から40年ほど経って・・・参勤交代の制度も確立し、島原の乱を鎮圧し、もはや江戸幕府はゆるぎない物となった寛永年間の頃。

先日の『吉原の花魁』(11月27日参照>>)のお話でもあったように、合戦の気配も無くなった今となっては、中央の幕府の役人に、いかに気に入られるかで、藩の存亡が決まるようなものですから、自分とこの名産品で、他の藩にイイ顔されるなんて・・・そんな気分の悪い物はありません。

そこで、一計を案じた高広は、ブリの頭の部分を切り落とし、他への贈答品に回す事ができないようにして『寒中見舞い』と称して、福知山に送ったのです。

待望のブリが届いて、大喜びでいそいそと荷物を開く紀通さん・・・。

ガ~ン!
頭を切り落とされたブリを見て・・・
「首をはねたブリやと?アイツ喧嘩売っとんのか!こんなもん、武士への最大の侮辱以外の何物でもないやんけ!」
と、激怒します。

確かに・・・とりようによってはそうなりますが・・・

今となっては、なんで高広さん、ブリの頭を落とした理由を説明しないのよ!って思いますが、もう、怒りが頂点に達した紀通は、あんなに欲しかったブリを、一口も食べずに、地べたに投げつけ、踏み倒し・・・城のお庭はブリだらけ~もったいない~

しかし、それでも、気持ちがおさまらない紀通は、何と「丹後の国の者が城下に入ったら首をはねろ!」という通達を出してしまいます。

先ほども言いましたように、丹後は京都の北部・・・幕府が江戸に遷ったとは言え、都は京都ですから、都に出るには、福知山を通らないわけには行きません。

それこそ、都の人々は丹後半島で獲れるおいしい魚を待っているわけですから・・・。
なのに、紀通は、武士だけではなく、町民から飛脚まで、京極からやって来る者を、次々と殺害。

紀通自らが火縄銃を乱射しまくりで、しかも、はねた首を国境から京極の領地へ投げ込む・・・といった事までしてしまうのです。

驚いた高広は、慌てて幕府に訴えます。

事実を知った幕府は、この一連の紀通の行為を、「稲葉紀通・乱心の末のテロ行為=謀反」と判断します。

さらに、この事件の前に、紀通が領民に重い税をかけたばかりという事もあって、領民からも、城主への不満がぼんぼん出て、とうとう幕府は、「稲葉淡路守紀通・追討命令」を出し、45700石改易・・・つまり、お取り潰しを決定します。

それを知った紀通・・・おもむろに、先祖伝来・家宝の甲冑に身を包み、天守閣にて火縄銃を乱射!

最後の一発を自分に向けて発射し、鉄砲自殺を謀ります。

慶安元年(1648年)8月20日稲葉紀通、46歳の夏でした。

彼には、生まれたばかりの嫡男がいましたが、4年後に死亡し、これによってお家も断絶してしまうのです。

・・・・・・・・・

何か変わった事をする時は、ちゃんと説明しましょう。
「おかしい」と思ったら、ちゃんと理由を聞きましょう。
モメ事は、話し合わなくては・・・

人の生き死にに関わる事なので、笑い話にはできませんが、そもそもの理由がねぇ・・・何とも言えない悲しい結果となってしまった事件でした。
 .

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11月の歴史の出来事カレンダー

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

 Momizi_11cc

出来事とリンク
1 643
 .
740
 .
1562
 .
 .
1840
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1864
 .
1868
蘇我入鹿に攻められ山背大兄皇子が自害
 【山背大兄王を殺したのは誰か?】
藤原広嗣・処刑
 【身内思いの反乱者~藤原広嗣の乱】
織田信長が信堅を追放して尾張統一
 【信長の前に散る尾張守護代・織田信賢】
 【ミジメな上洛を力に~信長・尾張統一】
庄内転封騒動~天保義民事件
 【天保義民事件となった三方領地替】
天狗党が京都に向け出発
 【天狗党・起死回生の西上~下仁田戦争】
観音崎灯台完成
 【灯台記念日に灯台の歴史】
2 1336
 .
1557
 .
1714
 .
1751
 .
1813
後醍醐天皇が北朝に三種の神器を渡す
 【三種の神器のお話】
織田信長が弟を暗殺
 【織田信長が信行を暗殺】
柳沢吉保・没
 【柳沢吉保の汚名を晴らしたい!】
大岡忠相が寺社奉行を辞任
 【御三家を相手に…江戸町奉行・大岡越前】
後桜町天皇・崩御
 【119年ぶりの女帝~国母・後桜町天皇】
3  .
 .
592
 .
1185
 .
1600
文化の日(明治天皇・誕生日)
 【皇子から武人へ~明治天皇の大変身】
蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺
 【崇峻天皇暗殺事件の謎】
源義経の都落ち
 【義経の都落ち】
筑後柳川城・開城
 【立花宗茂・最後の関ヶ原】
4 1180
 .
1530
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1578
 .
1589
 .
1591
 .
1596
 .
 .
1887
金砂城の戦い
 【源平争乱…金砂城の戦い】
安宅一乱
 【安宅水軍の内紛~安宅一乱】
毛利と本願寺に信長との講和の勅命
 【天皇への信長の態度は強圧的ではない?】
石川氏が伊達政宗傘下になる
 【仙道七郡掌握~伊達政宗に迫る影】
北条氏直が死去
 【北条氏直の肌の守りと督姫と】
服部半蔵・没
 【服部半蔵に影はあったか?】
 【忍者の教科書『万川集海』】
大阪府に合併されていた奈良県が独立
 【祝・復活!奈良県がなかった11年間】
5 797
 .
1614
.
.
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1854
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1857
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1869
坂上田村麻呂が征夷大将軍に・・
 【坂上田村麻呂の真実】
大坂方が平野郷を焼き討ちする
 【平野焼き討ちと「みしかよの物かたり」】
徳川方の来襲に大坂方が城へ帰還
 【冬の陣・直前~その時、大坂城内は?】
安政南海地震が発生
 【安政南海地震と濱口梧陵~稲むらの火】
吉田松陰が松下村塾を開講
 【熱血先生・吉田松陰の教育方針】
京都で襲われた大村益次郎が死亡
 【彗星のごとき軍略家・大村益次郎の暗殺】
6 1549
 .
1578
 .
1848
 .
 .
1860
 .
1867
安祥城の戦い
 【信長&家康に今川と絡む運命の糸】
石山合戦の第二次木津川口海戦
 【信長VS石山本願寺~第2次木津川口海戦】
滝沢馬琴が死去
 【八犬伝の滝沢馬琴、忌日】
 【滝沢馬琴の最期~嫁・路の献身】
堀利煕が自刃
 【外交交渉に命を懸けて…堀利煕の自刃】
野村望東尼・没
 【強き勤王の母・野村望東尼】
7 1336
 .
1579
 .
1628
 .
1634
.
1931
建武式目の制定
 【室町幕府の誕生?「建武式目」の制定】
毛利秀元・誕生
 【「三本の矢」の毛利を救った4本目の矢】
小野次郎右衛門忠明・没
 【戦国のトラブルメーカー・小野次郎右衛門】
伊賀上野鍵屋の決闘
 【荒木又右衛門は何人斬ったか?】
大阪城天守閣が復興される
 【祝!80周年 昭和の大阪城天守閣・復興】
8  .
 .
724
 .
736
 .
794
 .
 .
988
 .
1561
 .
1629
刃物の日
 【出っ歯の出刃包丁~刃物の日】
瓦葺・丹塗り建築を許可する
 【奈良の都の住宅事情~貧しい庶民の実態】
遣新羅使・雪連宅満が壱岐で死亡
 【万葉集に残された遣新羅使・雪連宅満】
新都を平安京と名付ける
 【平安京・命名の日】
 【平安京はいつから京都に?】
藤原元命が訴えられる
 【不正は許さん!尾張国郡司百姓等解文】
里見義弘が三浦に進攻
 【里見の全盛を築いた南関東の雄・義弘】
後水尾天皇が譲位~紫衣事件
 【後水尾天皇の譲位決行と紫衣事件】
9 755
.
1637
.
1872
.
1876
安禄山の乱
 【楊貴妃は日本で生きていた?】
幕府が島原の乱鎮圧に板倉重昌らを派遣
 【島原の乱~原城総攻撃に散る板倉重昌】
暦に太陽暦(グレゴリオ暦)を採用
 【今日は、太陽暦採用記念日】
野口英世・誕生
 【母から息子への思い~野口シカの手紙】
10  .
 .
658
 .
1603
 .
1696
 .
1730
 .
1915
1928
トイレの日
 【「トイレの日」なのでトイレ歴史】
有間皇子が死刑になる
 【悲劇の皇子・有間皇子死刑】
池田家家老・伊木忠次・没
 【恒興・輝政…2代の補佐役・伊木忠次】
明正天皇・崩御
 【父は天皇・母は徳川~859年ぶりの女帝】
徳川吉宗が御三卿・田安家を創設
 【いつの世も次期将軍はモメる?~御三卿】
大正天皇・即位の礼
昭和天皇・即位の礼
 【京都御所?皇居?昭和・平成の大礼】
11  .
 .
528
 .
736
 .
784
 .
1477
 .
1578
 .
 .
1584
下駄の日
 【かかとの無い履き物と「ナンバ」】
磐井の乱・終結
 【反乱?内戦?戦争?謎多き磐井の乱】
葛城王が橘諸兄に改名
 【王を辞めて臣下に~橘諸兄の決断】
長岡京へ遷都
 【渾身の新都~幻の都・長岡京遷都】
応仁の乱・終結
 【乱・終結~ゴネ得?大内政弘の帰国】
耳川の戦い
 【戦国大名・大友氏の落日】
 【戦い初日~大友の大砲と島津の奇襲】
織田信雄が羽柴秀吉と単独講和
 【佐々成政の北アルプスさらさら越え】
12 1526
 .
1578
 .
 .
 .
1864
 .
 .
 .
1871
鶴岡八幡宮の戦い
 【里見VS後北条~鶴岡八幡宮の戦い】
耳川の戦い・終結
 【耳川の戦い~島津の秘策・釣り野伏】
 【大友宗麟の軍師・角隈石宗】
 【戦いのその後…大友氏の落日】
福原越後・自刃
 【長州を守るため~福原越後の政治責任】
国司信濃・自刃
 【長州に尽くします!国司信濃の政治責任】
津田梅子ら女子留学生が米へ出発
 【津田梅子のアメリカ留学】
13 1468
 .
1541
 .
1585
 .
1602
 .
1656
 .
1933
応仁の乱で足利義視が比叡山に逃亡
 【足利義視トンズラ事件in応仁の乱】
尼子経久・没
 【尼子経久~下克上の果てに・・・】
家康の重臣・石川数正が秀吉に降る
 【石川数正・出奔の謎】
小田氏治が死去
 【不死鳥~小田氏治の負けっぷり】
黒田(加藤)一成が死去
 【黒田一成と岩佐又兵衛と夏の陣屏風】
ネッシーの写真撮影に成功
 【ネッシー写真で大論争】
14  .
 .
735
 .
1087
パチンコの日
 【日本のギャンブルの歴史】
舎人親王が没す
 【しこのますらを・舎人親王のカッコイイ生き方】
後三の役が終結
 【後三年の役・金沢柵の攻防】
15  .
 .
1584
 .
1586
 .
1864
 .
1867
 .
 .
 .
1906
七五三
 【七五三の由来】
秀吉と織田信雄で小牧長久手の講和成立
 【信雄の単独講和に退く家康】
島津討伐の小倉陣中で吉川元春が死去
 【小倉の陣中で…吉川元春の最期】
中山忠光が暗殺される
 【討幕の先駆けとなって散った中山忠光】
坂本龍馬が暗殺される
 【坂本龍馬暗殺の謎の謎】
 【坂本龍馬暗殺・紀州藩黒幕説】
 【どうなった?龍馬亡き後の海援隊】
龍馬の妻のお龍・没
 【恋多き人たらし~坂本龍馬と妻・お龍】
16 1584
 .
1614
 .
1630
 .
1858
 .
1930
小牧長久手の講和を受け家康が陣を撤収
 【信雄の単独講和に退く家康】
大坂冬の陣~野田福島の戦い勃発
 【初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い】
松倉重政・没
 【キリシタン弾圧・松倉重政の汚名を…】
西郷隆盛と月照が自殺を図る
 【西郷隆盛、月照と共に入水自殺を図る】
煙突男・登場
 【労働者のヒーロー・煙突男登場!】
17  .
 .
717
 .
1179
 .
1185
 .
1580
 .
1585
将棋の日
 【「将棋の日」にちなんで将棋の歴史】
養老の滝にちなんで養老に改元
 【記念に改元~元正天皇・養老の滝伝説】
治承三年の政変
 【ブチ切れ清盛の治承三年のクーデター】
静御前が吉野で捕まる
 【静御前、吉野にて捕まる!】
柴田勝家が鳥越城を落す
 【加賀一向一揆・完全終結と政教分離の話】
人取橋の合戦
 【独眼竜・政宗を智将に変えた合戦】
18  .
 .
1183
 .
1565
 .
1840
 .
1867
土木の日
 【石舞台古墳のあるじは?】
木曽義仲が法住寺殿を攻撃
 【木曽義仲、法住寺殿を焼く】
筒井城攻防戦が勃発
 【松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防】
光格天皇・崩御
 【御所千度参りで幕府に物申す天皇】
油小路の変
 【新撰組・最後の粛清~血煙!油小路の変】
 【油小路で命を落とす藤堂平助】
19 1335
 .
1527
 .
1588
 .
1789
 .
 .
1827
新田義貞ら尊氏討伐軍が出陣
 【尊氏を追討せよ…大将軍・新田義貞】
東山・川勝寺口の戦い
 【京の覇権を巡って~東山・川勝寺口】
稲葉一鉄・没
 【頑固一徹で天寿を全うした稲葉一鉄】
谷風が横綱免許を受ける
 【相撲の最高位・横綱誕生秘話】
 【第1期黄金期~谷風と釈迦ヶ嶽雲右門】
小林一茶が死去
 【残りの人生丸儲け~一茶、最期の時】
20 1598
 .
1655
 .
1864
 .
1890
慶長の役・終結
 【慶長の役~悲惨な戦の残した物は・・】
宇喜多秀家・没
 【意外に快適?八丈島での宇喜多秀家】
天狗党・和田峠の戦い
 【西行の天狗党~和田峠の戦い】
帝国ホテル、開業
 【帝国ホテル、開業】
21 900
 .
939
 .
1566
 .
1581
 .
1584
 .
1779
 .
1894
三善清行が「辛酉革命」を予言
 【三善清行の「辛酉革命」予言】
平将門の乱・勃発
 【平将門の乱~坂東のヒーロー・決意!】
元就が尼子氏の助命を約束
 【第二次・月山富田城攻防戦】
斎藤伝鬼坊が「天流」を開眼
 【天流の開祖~剣豪・斎藤伝鬼坊】
家康と秀吉の講和で小牧長久手の戦い終結
 【結城秀康~その運命の分かれ道】
平賀源内が殺人で逮捕される
 【非常の人・平賀源内,殺人で逮捕】
旅順口・攻略
 【日清戦争~旅順口攻略】
22 1681
 .
1686
 .
1724
 .
1913
沼田藩主・真田信利が改易処分に…
 【悪政を極めた藩主・真田信利】
多田加助の貞享騒動
 【怨念の松本城~多田加助の貞享騒動】
近松門左衛門・没
 【近松門左衛門と曾根崎心中】
徳川慶喜・没
 【最後の将軍~徳川慶喜の晩年は?】
 【「龍馬伝」と徳川慶喜の思惑】
23  .
 .
1131
 .

 .
1584
勤労感謝の日
 【新嘗祭は、もう一つの新年行事?】
平忠盛が自身の暗殺計画を回避
 【殿上闇討~平家物語の始まり】
丹波地方の伝説
 【今夜は雪が降る~弘法大師の伝説】
佐々成政・家康に会う為富山を出発
 【佐々成政の北アルプスさらさら越え】
24 1216
 .
1560
 .
1561
 .
1589
 .
1590
 .
1592
 .
1890
 .
1940
源実朝が陳和卿に大船の建造を命令
 【源実朝…実現しなかった夢の船出】
沢城の戦い
 【キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防】
将軍地蔵山の戦い
 【三好長慶に衰退の影~将軍地蔵山】
豊臣秀吉が北条に宣戦布告
 【小田原征伐を宣言!秀吉の宣戦布告状】
葛西・大崎一揆で佐沼城の木村吉清を救出
 【独眼竜政宗ピンチ!葛西・大崎一揆】
本願寺顕如・没
 【信長を一番困らせた男~本願寺・顕如】
第1回・帝国議会が召集される
 【第1回・帝国議会召集】
西園寺公望が没す
 【西園寺公望、パリのカフェで大暴れ】
25 1192
 .
1557
 .
1576
 .
1586
.
1643
 .
1876
熊谷直実が出家する
 【戦いの空しさに出家した源氏の猛将】
毛利元就が息子らに「三子の教訓状」を送る
 【毛利元就の三矢の訓え・・・その願いは?】
織田信長が三瀬の変で北畠氏を倒す
 【織田信長の三瀬の変…北畠の最後】
戸次川の合戦
 【秀吉の九州征伐~戸次川の合戦】
立花宗茂・没
 【立花宗茂・最後の関ヶ原】
福沢諭吉が「学問のすゝめ」を刊行
 【福沢諭吉の『学問のすゝめ』刊行】
26 1086
 .
1180
 .
 .
1347
 .
1556
 .
1570
 .
1579
 .
1614
白河上皇が院政を開始
 【白河上皇の院政の影に武士の存在】
福原から京都に都を遷す
 【平清盛・全盛からの転機~福原遷都】
 【わずか半年の都・福原】
住吉合戦
 【幕府VS楠木正行…住吉・阿倍野の戦い】
信長の叔父・織田信光が殺害される
 【信長が指示?謎が謎呼ぶ織田信光・殺害】
堅田の戦い
 【信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い】
龍造寺隆信が筑紫・肥後北部を平定
 【肥前の熊・龍造寺隆信の人生波乱万丈】
大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い
 【激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い】
27 1549
 .
1558
 .
1869
今川の人質として竹千代が駿府を出発
 【徳川家康は四人いた?説】
13代将軍・足利義輝が5年ぶりに入京
 【剣豪将軍・義輝~京都奪回作戦の日々】
奇兵隊・解散
 【高杉晋作の奇兵隊~維新後の悲しい結末】
28
 .
1262
 .
1539
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1566
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1575
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1601
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1883
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1884
小野小町の忌日
 【美人と言えば…伝説に彩られた小野小町】
親鸞聖人・没
 【本願寺門徒は一向宗じゃない】
足利晴氏と北条氏綱の娘が結婚
 【足利晴氏と北条氏綱の蜜月】
月山富田城・開城
 【山陰の雄・尼子氏の敗因は?】
織田信長が息子・信忠に家督を譲る
 【信長も認めた~暗愚ではない織田信忠】
30万石に減封された上杉景勝が米沢入城
 【関ヶ原後の上杉は?景勝の米沢入城】
鹿鳴館・誕生
 【鹿鳴館,バカ騒ぎ真の狙い】
間部詮勝が死去
 【幕末の動乱に老中となった間部詮勝】
29 1546
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1577
.
1614
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1872
黒田如水・誕生
 【ジッチャンの目薬で先を見る目を養った?】
信長配下の秀吉が播磨上月城を攻撃
 【信長の山陽戦線~秀吉の上月城攻め】
大坂冬の陣~野田福島の戦い終結
 【初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い】
山城屋事件で山城屋和助が割腹自殺
 【陸軍省で割腹自殺した山城屋和助】
30  .
 .
1546
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1880
 .
1884
 .
1948
鏡の日
 【古代日本における鏡とは?】
毛利元就の正室・妙玖が没す
 【毛利元就を支えた良妻賢母・妙玖】
土地売買譲渡規則・制定
 【飛鳥~現代・日本の土地制度の変化】
成島柳北・没
 【明治のジャーナリスト・成島柳北】
川田順が老いらくの恋で、かけおち
 【今日は、シルバーラブの日】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・18日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・19日 トークの日
 【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
毎月・24日 かつお節の日
 【かつお節の歴史】
愛宕の縁日
 【愛宕神社のお話】
地蔵の縁日
 【お地蔵様のお話】
毎月・25日 天神の縁日
 【菅原道真・没】
毎月・26日 風呂の日
 【お風呂の歴史】
毎月・28日 鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
不動明王の縁日
 【不動明王のお話】
毎月・30日 みその日
 【お味噌の歴史+味噌天神のお話】
毎月・末日 そばの日
 【お蕎麦の歴史】

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2007年12月 6日 (木)

武田信玄・蒲原城を奪取!

 

永禄十二年(1569年)12月6日、甲斐武田信玄が、北条氏信の居城・駿河蒲原城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・

海道一の弓取りと言われた駿河(静岡県東部)今川義元が、織田信長に討たれた桶狭間の合戦・・・(5月19日参照>>)

義元という大黒柱の死、後を継いだ嫡男・氏真(うじざね)はうまく家臣をまとめられず、今川氏の勢いは衰えはじめます。

氏真の母親が、甲斐(山梨県)自身の妹であった事から、義元の死後、しばらくはおとなしくしていた武田信玄・・・。

しかし、ここに来て、信玄は、以前から今川と武田そして相模(神奈川県)北条とで結ばれていた同盟関係を破棄して三河(愛知県東部)徳川家康と手を組んで、今川の領地を手に入れようと駿河に進攻し始めます(12月12日参照>>)

さらに信玄は、駿府(静岡市)の氏真の本拠地・今川館を攻め(12月13日参照>>)、その後も掛川城へと向かいます(12月27日参照>>)

危機一髪、城から逃げ出した氏真が、北条氏政を頼った事から、今度は武田VS北条の戦いがあらわになります。

永禄十二年(1569年)に入って信玄は、北条氏を警戒するためなのか、信濃(長野県)から武蔵(埼玉・東京)を通り、相模への遠征を試みます。(1月18日参照>>)

やがて、甲斐へと撤退する武田軍を北条が追撃したのが10月6日の三増(みませ)峠の戦い(10月6日参照>>)です。

しかし、この戦いは引き分け・・・ちょっとだけ信玄が優勢だったかな?と思われるこの戦いの最中ですが、一方では北条は、今川への援助を行っていたのです。

駿河にて、今川の残党が北条氏の力を借り、着々と反撃の機会を狙います。

そして、いよいよ11月28日、氏真の重臣であった岡部正綱が、かつて本拠地であった駿河の今川館を襲撃!奪回に成功します。

同時に、北条の保護を受けている氏真は、氏政の息子・氏直と養子縁組を行い、その駿河の地を治めるべき後継者が北条氏直である事を印象づけたのです(11月4日参照>>)

さらに、氏政は、ここで武田を一気に潰そうと、各領地から兵を総動員し、果ては越後(新潟県)上杉謙信にまで、助力を仰ぎます。

「そうは、させるか!」
と信玄も動きます。

永禄十二年(1569年)12月6日、信玄は、息子・勝頼を大将に、北条一族・北条氏信の居城・駿河蒲原(かんばら)城を攻撃します。

この蒲原城は、信玄が駿河を狙うとなった時、重要な拠点となる位置にある大事な城・・・奪われてはならない!と奮闘する氏信以下北条軍でしたが、実は信玄は影でしっかりと対策を練っており、この時点では、すでに内通者が武田方に降っていたと言われています。

結局、その日のうちに、氏信は討死し、蒲原城は落城してしまいます。

勢いに乗った武田軍は、さらに12日、北条が薩埵峠(清水市)に構築していた砦をかわ切りに、駿河内に置かれていた北条の拠点を次々と落としていったのです。

やむなく、相模へと撤退する北条軍・・・

13日には、あの今川館に武田の軍勢が殺到し、再び今川館は武田の物となります。

余談ですが・・・この時、館を守るべく奮闘した先ほどの岡部正綱は、この戦いの武勇が認められて、今川氏滅亡後は、信玄にヘッドハンティングされ、さらにその後、徳川家康にも仕えています。
よっぽどのスゴ腕だったんでしょうね。

さて、この戦いの勝利で、駿河の支配を強固な物にした信玄・・・しかし、もともと今川氏との同盟を破棄する際、それに反対する嫡男の義信切腹に追い込んでまで(10月19日参照>>)突っ走って挑んだ戦いです。

それが、駿河一国では、払った犠牲が大きすぎる・・・とばかりに、今度は家康の所領となっている遠江(静岡県西部)に狙いを定め、この後、信玄の目は西に向く事になるのですが・・・ご存じの三方ヶ原の前の一言坂の戦いについては10月13日のページでどうぞ>>
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12月の歴史の出来事カレンダー

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

Santa_12cc  

出来事とリンク
1  .
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1190
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1577
映画の日
 【映画の日に映画の歴史】
鉄の記念日
 【昔話・桃太郎と製鉄の関係】
源頼朝が右近衛大将・権大納言に任じらる
 【右近衛大将を3日で辞任した頼朝の思惑】
秀吉の中国攻め~福原城の戦い
 【黒田&竹中が迫る福原城の戦い】
2 951
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1487
.
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1557
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1587
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1645
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1864
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1968
醍醐寺・五重塔の落慶法要
 【京都で最古の醍醐寺・五重塔】
甲賀衆が近江鈎の陣へ奇襲
 【足利義尚・近江鈎の陣~奇襲作戦】
 【伊賀忍者VS甲賀忍者】
毛利元就が安芸・備後の国衆と連帯強化
 【国人から大名へ~元就を支えた国衆】
肥後国人一揆・終結
 【佐々成政の失態~肥後・国人一揆】
細川忠興・没
 【細川忠興の意外な才能】
桐野利秋が天狗党に面会
 【天狗党・雪の行軍~運命の新保入り】
田島道治・死去
 【不況に対峙し天皇家を救った田島道治】
3 671
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1552
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1849
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1876
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1986
天智天皇・崩御
 【天智天皇の死・政変の予感】
フランシスコ・ザビエルが死去
 【ザビエル死して奇跡を残す】
薩摩藩でお由羅騒動
 【幕末・島津の「お由羅騒動」】
前原一誠ら萩の乱の首謀者が斬刑に・・・
 【長州男児・前原一誠~萩の乱の終焉】
ピストル強盗逮捕
 【文明開化~初のピストル強盗現る!】
4 678
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880
 .
1027
.
1582
. 
1614
 .
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1872
山田寺の金銅丈六仏を鋳造
 【数奇な運命をたどった山田寺の遺産】
清和天皇・崩御
 【藤原・全盛の道を開いた天皇のジレンマ】
藤原道長が死去
 【全盛を誇った藤原道長の最期】
土岐頼芸・没
 【斉藤道三を有名にした国盗られ物語】
大坂冬の陣で真田丸の攻防戦
 【大坂冬の陣・真田丸の攻防】
 【真田幸村と松平直政】
河上彦斎が斬首される
 【佐久間象山を暗殺「人斬り」河上彦斎】
5 258
.
1600
 .
1607
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1772
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1893
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1945
崇神天皇・崩御
 【日本書紀に登場する二人の初代天皇】
浦戸一揆・終結
 【土佐・一領具足の抵抗】
津軽為信・没
 【独立して弘前藩の祖となった津軽為信】
将軍家から薩摩藩に嫁いだ竹姫が没す
 【将軍家と島津の架け橋に…竹姫の願い】
松平容保・没
 【賊軍の会津藩主・松平容保が残した物は】
アメリカ空軍機・消息不明事件
 【バミューダトライアングルの日】
6 694
 .
1569
.
1633
. 
1700
 .
1887
藤原京・遷都
 【日本初の本格的「都」~藤原京・誕生】
武田信玄が蒲原城を攻撃
 【武田信玄・蒲原城を奪取!】
徳川忠長・自殺
 【非業の3代目~徳川忠長の自殺】
水戸光圀・没
 【水戸黄門様の忌日】
島津久光・没
 【幕末・維新の激流…島津久光の泳ぎ方】
7 959
 .
1361
 .
1496
 .
1867
 . .
 
 .
1902
 .
1946
紫宸殿の前庭に「右近の橘」を植える
 【平安貴族の住宅事情】
南朝軍が京を制圧
 【新将軍京落での佐々木道誉と楠木正儀】
斎藤妙純が自害
 【家康愛刀「ソハヤノツルキ」の斎藤妙純最期】
天満屋事件
 【龍馬亡き後の海援隊Ⅱ】
岩倉が王政復古の予定変更の手紙を出す
 【意外にアタフタ?前々夜の岩倉の手紙】
佐野常民・没
 【形なき未来への遺産~常民の博愛精神】
川上貞奴・没
 【日本初の女優・川上貞奴】
8  .
 .
506
 .
592
 .
689
 .
1282
 .
1336
 .
1578
 .
1941
針供養
 【針供養の起源と針のお話】
武烈天皇・崩御
 【武烈天皇の汚名を晴らしたい】
推古天皇が即位
 【日本初の女帝・推古天皇の誕生】
双六禁止令・発令
 【天武天皇も怒られた?ギャンブルの歴史】
北条時宗が円覚寺を建立
 【蒙古襲来絵詞に隠された元寇のその後】
僧・了源が暗殺される
 【刺客に襲われて命を落とした僧・了源】
有岡城の戦いで万見重元が討死
 【たった一度の合戦~信長の側近・仙千代】
太平洋戦争・勃発
 【真珠湾攻撃】
9 1159
 .
1571
 .
1680
 .
1835
 .
1867
 .
1916
平治の乱・勃発
 【乱を引っ掻き回した主人公~藤原信頼】
下間頼総が追放される
 【石山本願寺の総大将・下間頼総の追放】
大老・酒井忠清が失脚
 【下馬将軍・酒井忠清の汚名を晴らしたい】
仙石騒動で仙石左京が処刑
 【仙石騒動に散った仙石左京】
王政復古の大号令
 【王政復古の大号令】
夏目漱石・没
 【ペンネーム・夏目漱石の由来】
 【夏目漱石のやり残した事】
10

1589
 .
1599
 .
1699
 .
1855
.
1901
 .
1968

小田原攻めの軍儀が開かれる
 【小田原攻め開始~その軍儀の内容は?】
施薬院全宗が死去
 【秀吉のもと医療福祉を復活させた全宗】
家光の長女・千代姫が没す
 【将軍家から尾張…生涯姫だった千代姫】
千葉周作・没
 【幕末の三剣士・千葉周作】
足尾銅山闘争で田中正造が直訴
 【足尾銅山闘争で田中正造が直訴】
三億円事件・発生
 【昭和最大のミステリー・三億円事件】
11 1335
 .
1485
 .
1596
足利尊氏~箱根・竹ノ下の戦い
 【弟のニセ綸旨で反旗を決意?】
山城の国一揆が畠山氏に要求
 【下克上の至り・山城の国一揆】
成田氏長・没
 【成田氏長と甲斐姫と「のぼうの城」と】
12 1491
 .
1568
 .
1586

  .
 .
1614
 .
1862
畠山義就・没
 【応仁の乱後も戦い続けた男・畠山義就】
武田信玄・駿河に進攻
 【薩埵峠の戦い】
戸次川の戦いで長宗我部信親が討死
 【元親を変えてしまった息子・信親の死】
島津が大友配下の鶴崎城に総攻撃
 【鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼】
熊野・北山一揆
 【熊野・北山一揆in大坂の陣】
英国公使館・焼き打ち事件
 【攘夷の先駆け~高杉の公使館焼き打ち】
13 1213
 .
1483
 .
1492
 .
1568
 .
1600
 .
1621
 .
1901
建礼門院・平徳子・没
 【建礼門院・平徳子の忌日】
福岡合戦で福井小次郎が討死
 【会えぬ母へ~福井小次郎の福岡合戦】
足利義材の六角征討
 【戦国の幕開け~将軍・義材の六角征討】
今川館・攻防戦
 【武田信玄・駿河を攻略】
真田昌幸&幸村父子が高野山へ…
 【真田昌幸&幸村・高野山へ…】
織田長益・没
 【本能寺・逃亡で「人でなし」】
中江兆民・没
 【ガンと戦い…東洋のルソー・中江兆民】
14 812
 .
1171
 .
1702
 .
 .
 .
1871
空海の密教入門儀式・灌頂
 【最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間!】
平清盛の娘・徳子が入内
 【建礼門院・平徳子の入内】
赤穂浪士の討ち入り
 【大石の綿密計画~赤穂浪士の討ち入り】
 【忠臣蔵のウソ・ホント】
 【忠臣蔵で不忠の悪役~大野九郎兵衛】
歓迎晩さん会で伊藤博文が日の丸演説
 【一世一代…伊藤博文の日の丸演説】
15 740
 .
838
 .
939
 .
1159
 .
1868
恭仁京へ遷都
 【恭仁京?志香楽宮?聖武天皇・迷走の謎】
小野篁が隠岐へ流罪に・・・
 【魔界の使者・小野篁】
平将門が上野・国府を占拠
 【新皇・平将門は独立国家を望んだか?】
平治の乱で信西の首が晒される
 【平治の乱に敗れ「さらし首」となった信西】
蝦夷共和国・誕生
 【蝦夷共和国の誕生】
16 1579
 .
1614
 .
 .
 .
1783
 .
1864
 .
1890
 .
1945
信長が荒木村重の妻子を処刑
 【有岡城の戦い~荒木村重・妻子の処刑】
塙団右衛門が夜襲をかける
 【夜討ちの大将・塙団右衛門in大坂冬の陣】
徳川方の大筒が大坂城天守閣に命中
 【家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係】
天明の大飢饉
 【未曽有の大災害~天明の大飢饉】
高杉晋作・功山寺で挙兵
 【高杉晋作・功山寺で挙兵】
東京⇔横浜間で、日本初の電話創業開始
 【今日は電話の日~電話はじめて物語】
近衛文麿が服毒自殺
 【近衛文麿、最後の一日】
17 1164
 .
1864
 .
1880
 .
1903
三十三間堂で落慶法要が行われる
 【蓮華王院=三十三間堂の建立】
天狗党が降伏を決定
 【維新のさきがけ~天狗党・概要】
臼井六郎が一瀬直久を殺害
 【日本最後の仇討ち】
ライト兄弟が初飛行に成功
 【ライト兄弟よりも早く?日本人が空を制す】
18 1499
 .
1635
 .
1672
 .
1798
 .
1867
 .
1898
京軍の大和侵攻
 【赤沢朝経率いる京軍の大和侵攻】
中馬重方・没
 【「島津の背進」の生き残り・中馬大蔵重方】
徳川秀忠の息子・保科正之・没
 【徳川の礎を築いた将軍の隠し子】
津山洋学の宇田川玄随が死去
 【宇田川玄随と津山洋学】
高台寺党・残党が近藤勇を襲撃
 【2度脱走・局長狙撃~元新撰組・阿部十郎】
西郷隆盛像・除幕式
 【西郷隆盛・生存説と銅像建立】
19 939
 .
1107
 .
1586
 .
1614
 .
 .
1898
 .
1951
平将門が新皇を名乗る
 【新皇・平将門は独立国家を望んだか?】
源義親の乱
 【平正盛の出世のキッカケ「源義親の乱」】
秀吉が太政大臣となり豊臣の姓を賜る
 【豊臣という姓に秘められた秀吉の・・・】
大坂冬の陣・講和成立
 【大坂冬の陣・講和成立】
 【浅井三姉妹の次女・初と大坂の陣】
河田小龍・没
 【海援隊の生みの親~龍馬も憧れた画家】
平塚雷鳥が再軍備反対婦人委員会結成
 【女性は太陽、男はツバメby平塚らいてう】
20 753
 .
1183
 .
1185
鑑真和上が6度目の渡航で日本に到着
 【男・鑑真、66歳…6度目で悲願の来日】
上総介広常が梶原景時に暗殺される
 【奥州制覇を狙う頼朝に消された広常】
佐藤忠信が吉野山で奮戦
 【佐藤忠信・吉野山奮戦記】
21 934
 .
1336
.
1399
 .
1561
 .
1850
 .
1864
紀貫之が国司の任務を終えて土佐を出発
 【紀貫之のツラ過ぎる土佐日記】
後醍醐天皇が吉野に移る
 【後醍醐天皇が吉野へ…南朝の誕生】
応永の乱が終結
 【応永の乱~大内義弘の最期】
島津氏と肝付氏が和睦
 【芝居が衰退に…肝付良兼のウソ合戦】
国定忠治・処刑される
 【赤城の山の国定忠治】
天狗党の降伏状を徳川慶喜が受理
 【天狗党・武田耕雲斎~悲しみの降伏状】
22 704
 .
1572
 .
.
 .
.
1597
 .
1885
持統天皇・崩御
 【女帝・持統天皇の葛藤】
三方ヶ原の戦い
 【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】
 【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
三方ヶ原で夏目吉信が討死
 【家康の影武者となって討死…夏目吉信】
慶長の役・蔚山城攻防戦
 【死守はしたけれど・・・蔚山城攻防戦】
内閣が誕生して初代総理大臣に伊藤博文
 【内閣総理大臣・伊藤博文君を評価したい】
23 1391
 .
1544
 .
1572
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1613
 .
1816
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1958
明徳の乱で山名氏清らが出陣
 【義満VS山名氏~明徳の乱への道】
井伊直満が殺害される
 【井伊家の家老・小野政直】
武田信玄が三方ヶ原の戦いの首実検を行う
 【戦いの後~犀ヶ崖の戦いと平手の死】
徳川秀忠が2度目のキリシタン禁止令を出す
 【切支丹禁止令と戦国日本】
浜松藩主・井上正甫がお役御免に…
 【「私はコレで飛ばされ…」~井上正甫の失態】
東京タワー・完成
 【東京タワーが333メートルのワケは?】
24  .
 .
 .
1560
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1656
クリスマス・イブ
 【クリスマスとサンタクロースの起源】
 【日本のクリスマスはいつから?】
尼子晴久・没
 【石見銀山争奪戦~尼子氏衰退のポイント】
幕府が吉原に移転命令
 【吉原が炎上したら…その誕生・移転】
25 1159
 .
1538
 .
1866
 .
1867
平治の乱で二条天皇が内裏を脱出
 【平治の乱~清盛の天皇救出劇】
前田利家・誕生
 【24歳からの再出発~若き日の利家】
孝明天皇・崩御
 【孝明天皇・暗殺説】
薩摩藩邸焼き討ち事件
 【討幕が決定的となった薩摩藩邸襲撃】
26 927
 .
939
 .
1159
 .
1573
 .
 .
1858
「延喜式」が完成
 【『延喜式』ってどんな物?】
藤原純友が瀬戸内にて反乱を起す
 【海賊将軍~藤原純友の乱・勃発】
平治の乱が終結する
 【平治の乱・終結】
織田信長が松永久秀の多聞城を攻略
 【松永久秀、信長に2度目の降伏】
 【信長をも魅了した松永久秀の築城センス】
吉田松陰・2度目の投獄
 【吉田松陰~生涯一度の獄中の恋】
27 967
 .
1198
 .
1568
 .
1863
三蹟の一人・小野道風が没す
 【空海に物申す~結構過激な小野道風】
源頼朝が落馬、翌年死亡
 【頼朝の死因をめぐる疑惑】
徳川家康が今川氏真の掛川城を包囲
 【今川氏滅亡~掛川城・攻防戦】
新選組の野口健司が切腹する
 【新選組・野口健司の切腹】
28 1180
 .
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1210
 .
1536
 .
1682
 .
1945
南都焼き討ち
 【故意か?失火か?平重衡の焼き討ち】
 【僧侶の武装と堕落】
第84代・順徳天皇が即位
 【順徳天皇の心の内は・・・】
武田信玄・初陣
 【武田信玄の初陣~海ノ口城・奇襲戦】
八百屋お七が放火
 【八百屋お七と丙午】
「宗教法人令」施行
 【施行で廃止された神社の社格】
29 1566
 .
1589
 .
1819
 .
1901
 .
1941
家康が松平から徳川に改姓
 【天下取りにパーフェクト?家康の改名】
秀吉が智仁親王との猶子関係を解く
 【2人の天下人に翻弄された智仁親王】
小林一茶の「おらが春」が成立
 【一茶が「おらが春」に込めた新年の希望】
東海道線に食堂車が登場
 【東海道線に食堂車・登場!】
南方熊楠・没
 【南方熊楠の最後の言葉】
30 1368
 .
1391
 .
1558
 .
1889
足利義満が第3代・室町幕府将軍に就任
 【将軍権力の確立に生涯をかけた義満】
明徳の乱で山名氏清が討死
 【明徳の乱~山名氏清の最期】
蜂須賀家政・誕生
 【阿波の古ダヌキ~蜂須賀家政】
「決闘処罰令」発布
 【ついに禁止令!明治の決闘ブーム】
31  .
 .
 .
 .
1945
大晦日
 【大晦日は除夜の鐘~108つの意味は?】
大晦日・恒例
 【大奥・裸おどり】
GHQが修身・歴史・地理の授業を停止
 【歴史からみる平時の武装放棄は是か?】
歳暮 お歳暮の由来
 【お歳暮はお正月の神様のため】
 【年末年始・お正月~由来・起源・豆知識集】
12月の異名
 【いよいよ師走~年賀状の由来とイラスト】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・18日 観音様の縁日
 【観音様のお話】
毎月・19日 トークの日
 【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
毎月・24日 かつお節の日
 【かつお節の歴史】
愛宕の縁日
 【愛宕神社のお話】
地蔵の縁日
 【お地蔵様のお話】
毎月・25日 天神の縁日
 【菅原道真・没】
毎月・26日 風呂の日
 【お風呂の歴史】
毎月・28日 鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
不動明王の縁日
 【不動明王のお話】
毎月・30日 みその日
 【お味噌の歴史+味噌天神のお話】
毎月・末日 そばの日
 【お蕎麦の歴史】

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2007年12月 5日 (水)

日本書紀に登場する二人の初代天皇

 

戌寅の年(紀元前30年頃?)の12月5日、第10代・崇神天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・

この時代は元号という物がまだありませんから、『日本書紀』には、「戌寅」・・・と、没した年が干支(えと)で書かれています。

そこに、西暦を当てはめてみると、258年か318年のどちらかの戌寅の年・・・という事になるのだそうです。

崇神(すじん)天皇・・・なんか、つい最近この名前を聞いたなぁ~と思いきや、先日の『桃太郎と製鉄の関係』(12月1日参照>>)で、吉備の国の平定に、息子の吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣した天皇でしたね。

古代の日本と天皇を語る上で、この崇神天皇はキーマンとなる人物の一人です。

初代・神武天皇から始まって昭和天皇まで、124代の歴代天皇の中で「神」の文字が名前に使われているのは、その神武天皇と、この崇神天皇と、第15代・応神天皇の三人だけ・・・この状況を見ても、重要人物である事がうかがえます。

初代天皇の神武天皇が、日向・高千穂から大和東征したくだりは、以前『建国記念の日』のページ(2月11日参照>>)に、サラ~ッと書かせていただきましたので、そちらを読んでいただけると、お解かりいただける通り、神武天皇は最初の天皇なので、別名「始馭天下之(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)と呼ばれます。

その言葉通り、初めて国を治めた天皇・・・まさに初代天皇という事です。

しかし、日本書紀には、崇神天皇のところにも「御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)と書かれています。

『始馭天下』「初めて天下を治める」という意味で、『御肇国』「初めて整った国を治める」という意味である・・・という解釈もあるそうですが、どうも怪しい・・・。

これは、日本書紀・編者のチョンボなのでは?

今、この平成の世で、「天皇家が万系一世でつながっていて、すべての天皇が実在している」と信じている人は、ゼロとは言いませんが、かなり少ないのは確かです。

しかし、正史と呼ばれる歴史書が『古事記』『日本書紀』などしかないこの時代の歴史は、それを否定する史料もないわけで、決定的証拠が無い限り「無かったかもしれないし、あったかもしれない」としか言えず、断定する事はできませんが、先ほどのような、ちょっと腑に落ちない部分をほじくり返しながら、推理を巡らしていくのは、実に楽しい。

そんな中で、本日の崇神天皇は実在だと思われる最初の天皇だとも言われています。

つまり、崇神天皇こそが本当の初代天皇ではないか?という事です。

そして、そのキャラがかぶるところ、両方が「ハツクニシラス」であるところから、神武天皇と崇神天皇は、同一人物ではないか?という考えもあるのです。

事実、神武天皇は高千穂から大和に来るまでのいきさつなどが詳しく書かれているのに対し、即位してからの事については、それほど多くありません。

逆に、崇神天皇は、即位前後の事は少なく、天皇となって国を統治した部分に重点が置かれています。

しかも、神武天皇は、出雲神・大物主神(おおものぬしのかみ・大国主のミコトの別名)の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后にしていますし、崇神天皇は、以前『運命の赤い糸』(8月21日参照>>)で書かせていただいたように、疫病の一件からその大物主神を崇拝しています。

もう一つ、神武天皇の奥さんの名前の中の「蹈鞴(たたら)は、ご存知のように製鉄(炉)の事。

そして、桃太郎のところで書いた通り、崇神天皇が息子を吉備に派遣したのは、製鉄の利権が欲しかったのでは?
・・・という事で、これも何だか関連がありそうです。

こうして見ると、神武・崇神、二人の天皇の記述を合体させてはじめて、一人の人生が浮かんで来るような気がしないでもないです。

では、もし、この二人の天皇が同一人物だったとしたら、なぜ?記紀の編者は、この一人の初代天皇を二人に分ける必要があったのでしょうか?

それは、おそらく、崇神天皇が大和を統一する以前に、すでに大和にあった王権を併合して統一を成し遂げた事を、隠したいがためではなかったでしょうか?

以前からあった王権も、天皇家であるとするためには、この時代に崇神天皇が東征をしたのでは、年代が合わなくなります。

つまり、以前からあった王権の成し遂げた様々な出来事の前に、崇神天皇の東征という前半生を神武天皇がやった事として描き、すべては天皇家の成し遂げた事・・・という風につなげてみたのではないでしょうか?

崇神天皇というのは、ご存知のように天皇としての名です。
崇神天皇の実際の名前は、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと・御間城入彦五十瓊殖尊)といいます。

この「ミマキイリヒコ」というのは、かつて朝鮮半島にあった国・「任那(みまな)から日本に入った」という意味であるとする説もあり、この崇神天皇の東征は、以前から囁かれている大陸の騎馬民族による征服説ともシンクロしているようです。

「なら、やっぱり天皇家は大陸の騎馬民族なのかもね」
・・・と、思ってしまうのも、まだ早いです。

なぜなら、最初に書いたもう一人の「神」の文字を持つ天皇・・・第15代・応神天皇は、この崇神王朝を倒して政権を勝ち取った新政権であるとも言われているからです。

しかし、その応神王朝も、さらに、第26代・継体天皇の政権(12月8日参照>>)にとって代わられたとの話もあり・・・そして、かの『崇峻天皇暗殺』(11月3日参照>>)のところでも、政権交代の可能性あり・・・という事で、ますます、天皇家の万世一系が揺らぐ事になるのですが、そこんところのお話は、また、おいおい書かせていただく事にして・・・

とりあえず、今日の崇神天皇の時代は、「農は天下の本であり、民が生きるたのみである」として、水の少ない地域に池や溝を掘ったり、人民の戸口調査を行ったり、手工業や狩猟生産物の発展にも力を入れて、民は大いに栄え、天下が平穏に治まった・・・と記紀には書かれていますが、この崇神天皇の没年齢が、古事記では168歳、日本書紀では120歳となっていて、そのギネス並みの年齢を見ると、その前後の記述も鵜呑みにはできないなと感じる今日この頃・・・でした。
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2007年12月 4日 (火)

数奇な運命をたどった山田寺の未来への遺産

 

天武八年(678年)12月4日、蘇我倉山田石川麻呂の発願による『金銅丈六仏』が鋳造されました。

・・・・・・・・・・

蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)という人は、あの蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺乙巳の変(いっしのへん)(6月12日参照>>)の一件に関わった人物です。

その日のブログを読んでいただくとわかるように、宮廷の大極殿にて、彼が外交文書を読み終えた瞬間が、入鹿に斬りかかる合図となっていました。

つまり、彼は、蘇我氏の一員でありながら中大兄皇子(後の天智天皇)中臣鎌子(後の藤原鎌足)にくみした、蝦夷(えみし)入鹿たち本家・蘇我氏から見れば裏切り者という事になりますが、石川麻呂の娘・造媛(みやつこひめ)中大兄皇子と結婚している事を考えると、まぁ納得の裏切り行為です。

強い本家が倒れたなら、自分が蘇我氏でトップに立てるかも知れないわけですから・・・。

案の定、蝦夷・入鹿が倒れ、大化の改新が成され始めると、石川麻呂は右大臣に収まり、羽振りの良さの頂点に達します。

そんな石川麻呂ノリノリの時期、かねてから建築を進めていた自身の名がついた山田寺の建設にも本腰が入ります。

最初に書かせていただいた『金銅丈六仏』は、石川麻呂の構想では、その山田寺の本尊となるはずでした。

石川麻呂が建築を始めた山田寺と、その本尊になるはずだった仏像・・・
この二つは、世間一般には、あまりお馴染みではないかも知れませんが、歴史好きにとっては、かなりのシロモノ・・・ご存知ない皆様にも、今宵はぜひ、そのズゴさを知っていただきたいです~。

まずは、山田寺のお話から・・・

羽振りの頂点に達して、山田寺の建築を急ぐ石川麻呂でしたが、あの乙巳の変からわずか4年後の斉明五年(649年)に、謀反の疑いをかけられてしまうのです。

中大兄皇子の派遣した軍に攻め込まれた石川麻呂は、建築中の山田寺の仏殿にて「無実で死ぬ事になるが、君王(きみ)を恨んだりしない!私は死んでも君王の忠臣である」と言い残して、斉明五年(649年)3月25日自害するのです。

この時に山田寺は炎上し、当然、その後の工事もストップ・・・父の非業の死と、攻めたのが夫の軍である事にショックを受けた造媛も、その後を追って自害してしまいます。

しかし後になって、石川麻呂の蔵から発見された様々の資財には、皇子に忠誠を誓っていたと思われる物が多数発見され、皇子も、「彼が無実であった事を知り、深く反省した・・・」と、『日本書紀』には書かれていますが、はてさて、本当にあの中大兄皇子が反省したのかどうか・・・むしろ、計画的に、先々邪魔になるであろう者を抹殺した感も拭えない一件ではあります。

本心はともかく、無実であった以上、その名誉も回復してあげなくては・・・と、即位して天智天皇となった中大兄皇子は、天智二年(663年)に中断されていた山田寺の工事を再開させるのです。

これには、造媛の娘(つまりは中大兄皇子=天智天皇の娘でもあるわけですが)鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)「おじいちゃんの名誉回復してあげて~」という願いが多分に含まれていると思われます

やがて、天智天皇が亡くなり、壬申の乱(7月22日参照>>)に勝利した天武天皇(天智天皇の弟)の世となり、この時期にやっと山田寺が完成します。

そう、その鵜野皇女は天武天皇の奥さんですから、思う存分ジッチャンの名誉回復ができたわけです。

・・・で、その山田寺がなぜ有名かと言いますと・・・

結局、その後、中世には衰退し、明治には廃寺となってしまったために山田寺は山田寺跡という史跡が残るのみだったのですが、昭和五十七年(1982年)12月に、奈良県桜井市にある、この山田寺跡の地中から、東回廊の部分が倒れた状態で発見されたのです。

飛鳥時代に建てられた多くの寺院が崩壊し、その姿が確認できない状態となっています。

Yamadaderahakkutucc しかし、この山田寺の東回廊はどうでしょう?
倒れた状態・・・というのが建築物としてみなされるのか、どうかわかりませんが・・・

そうです。
先日、書かせていただいたように、法隆寺が再建されていた(11月2日参照>>)事が濃厚となっている今、この山田寺は、その法隆寺より半世紀も早い、現存する世界最古の木造建築という事になります。

現在、この山田寺の東回廊は、状態の良い部分に補修をほどこし、14年という歳月を費やして見事!飛鳥資料館の内部に復元されています。
(資料館の場所はHPでどうぞ>>)

そして、今日の話題・・・天武八年(678年)12月4日『金銅丈六仏』の鋳造です。

天武十二年(685年)、ご本尊薬師如来は、開眼供養となり、鵜野皇女は、おじいちゃんの願っていたご本尊を、やっと造ったのです。

でも、「回廊のみが残る廃寺になって、仏像は無くなったんじゃないの?」
・・・と、お思いでしょうが、実はこの仏像も数奇な運命をたどり現存するのです。

先ほど書いたように、山田寺は徐々に衰退し、平安時代にはすっかり勢いが無くなっていました。

そんな時です。
例の平家との抗争・・・奈良の興福寺が、あの平重衡との一戦のため、ほぼ全焼の憂き目に遭ってしまいます・・・有名な南都焼き討ち(3月10日参照>>)です。

興福寺のご本尊が焼失してしまい、当然「何とかご本尊を・・・」という事になりますが、そう簡単に復興できるわけもなく・・・何と、興福寺の僧や衆徒が、山田寺のご本尊を盗んできて、興福寺・東金堂のご本尊にしてしまったのです。

「桜井市から奈良市まで、どうやって運んだの?」と聞きたくなるくらいけっこうな大きさだったご本尊・・・衰退の一途をたどる山田寺と、当時全盛の平家を相手に戦いを挑む興福寺とでは、その力の差が歴然としていたんでしょうね。

こうして、山田寺の薬師如来は、興福寺の薬師如来となります。

しかし、そのご本尊も応永十八年(1411年)、興福寺・東金堂に雷が落ち、火災となって仏像も頭部だけとなってしまいました。

その頭部も、「台座の下に入れた」という記録だけはあったものの、時が経つにつれ忘れ去られ、もはや、どこにいったのか?誰も確認した事がなかったのです。

ところが、昭和十二年(1937年)、修理中の東金堂の台座の下から、焼け残った頭の部分が本当に発見されたのです。

Yamadaderabuttoucc 現在、『胴造仏頭』という名称で興福寺・国宝館に収められているこの仏様がソレです。

白鳳時代のお手本とも言えるデザインで、しかも鋳造年月日が明らか・・・まして、すがすがしい青年のような顔立ち・・・今や国宝となった、貴重な日本の遺産です。

 

 
この仏頭なら、歴史の教科書や美術の教科書でご覧になったかたも多いんじゃないでしょうか。

そう、これが山田寺のご本尊だったのです。

少し、歴史の歯車が狂えば、現在の私たちが見る事は無かったかも知れない二つの遺産・・・「山田寺・東回廊」「ご本尊・仏頭」

これからも、歴史の重さ、歴史のおもしろさ、そして、歴史のすばらしさを教えてくれる未来への遺産となる事でしょう。
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2007年12月 3日 (月)

文明開化~初のピストル強盗現る!

 

明治十九年(1886年)12月3日の明け方、東京日本橋絵草子屋に押し入った強盗・清水定吉逮捕されました

・・・・・・・・・・

西南戦争が終結し、徐々に国会開設への道を進んで、時はまさに文明開化・・・

とは言えど、鹿鳴館(11月28日参照>>)で外国との付き合いにも右往左往し、まだ大日本帝国憲法も発布されてはいない頃・・・

Meizizyunsanoyaihogekicc_2 この犯人逮捕にあたっては、ちょうど、鬼と呼ばれた三島通庸(みちつね)が、初代・警視総監に就任したばかりで、警察の威信をかけて、自らが陣頭指揮に乗り出し、全力をあげての逮捕劇だったのです。

なぜ、そこまで、力を入れて、犯人逮捕を・・・?

実は、この定吉が犯人だと思われる強盗事件が起き始めたのは明治十三年(1880年)頃・・・。

それまでの強盗と言えば・・・
例の風呂敷をかぶって鼻の下あたりで結ぶいわゆる『盗人かぶり』・・・そして、手に持った出刃包丁を突きつけて「金を出せ」・・・とお決まりのパターン。

ところが、この強盗は、縞の袷(あわせ)に『オカマ帽』といういでたち
・・・と続きに行く前に・・・「オカマ帽って何?」と思ったのは、私だけじゃないですよね?

・・・で、調べてみますと、オカマ帽というのは、当時の最先端ファッションで、名探偵・金田一耕介ががぶってるあの帽子だそうです。

あれって、チューリップハットじゃなかったんですね~・・・って事は、『できるかな?』のノッポさんもオカマ帽?

・・・って、そんな事はどうでもいい!

とにかく、縞の袷にオカマ帽は、今ハヤリのナウいスタイルだったわけです。
もちろん、この強盗が特異だったのは、おしゃれなのではなく、その凶器。

なんと、彼は手にピストルを持って神田浅草といった東京の下町の商家に押し入り、主人が抵抗すれば、容赦なく射殺する・・・という極悪非道な方法で盗みを続け、当時の東京市民を震え上がらせていたのです。

そう、『日本初のピストル強盗です。

明治政府がグダグダして、警視総監もまだ任命していない間に、強盗のほうが先に文明開化しちゃってたのです。

これは、捨ておけません。
そりゃ、警察の威信にかけて捜査するわけです。

そして、警察が一体となった捜査の甲斐あって、明治十九年(1986年)12月3日、とうとう、御用とあいなったわけです。

犯人の清水定吉は、翌年9月に死刑となります。

時代の最先端を行く事はカッコイイですが、犯罪はいただけませんねぇ・・・。
 

・‥…━━━☆

・・・と、今日は、意外に記事が短かったので、次のページに、強盗で思い出した江戸時代『十両盗めば首が飛ぶ』というのは本当なのか?・・・というのを、続いて書いてみましたので、そちらも見ていただければうれしいです
                    ~(続きを見る>>)
 

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十両盗めば首が飛ぶ?

 

・・・と、『日本初のピストル強盗』のお話を書かせていただきましたが、今日は、意外と記事が短かったので、泥棒関連でもう一つお話を・・・(ピストル強盗の記事へはコチラからどうぞ>>)

ひとつの記事にまとめても良かったんですが、こっちのお話は江戸時代のお話なので、あとあとカテゴリー分けする時に、またややこしくなるので、別のページとして書かせていただきました~。

それにしても、、以前、このブログに登場した石川五右衛門(8月24日参照>>)の言葉・・・
♪石川や 浜の真砂(まさご)は尽くるとも
 世に盗人の 種は尽きまじ♪

じゃありませんが・・・本当に種は尽きませんねぇ。

先ほどのピストル強盗のように、時代が変わって手段が変わっても次から次ぎへと・・・。

ところで、本日2ページめの話題は、あの時代劇のセリフでよく耳にする「十両盗めば首が飛ぶ」っていうアレ・・・アレって本当だったんでしょうか?

先日の『花魁(おいらん)遊び』(11月27日参照>>)のところでも出てきましたが、単純計算で、だいたい一両が10万円としたら・・・十両は100万円。
「100万円盗めば死刑」って、ちょっと重過ぎるような気がしないでもありませんが・・・。

しかし、あの暴れん坊な8代将軍・徳川吉宗さんの制定した『御定書(おさだめがき)百箇条』には、「・・・金子(きんす)は十両より以上、雑物は代金に積もり十両位い以上は死罪」と書かれています。

やっぱり、本当だったんですね~。
でも、犯罪のランク分けは金額よりも手段の方が重要なような気もするんですけど・・・と思っていたら、やっぱり。

この規定は50年後くらいに改定されます。
・・・というのも、この御定書だと、金額しか提示していないので、十両に達していなければ何回やっても入墨刑どまり・・・それなら、一回に盗むのは、九両二分二朱までにしといて、また次ぎに九両二分二朱盗んで・・・てやれば、ず~っと死刑にはならないとばかりに、そうするやからが続出したのだそうです。

当然です。
最初に作った時に、「なんで気づかないんだ?」と言いたくなるくらい単純明快です。

・・・で、明和七年(1770年)には、10年間という期間がついて、その間の盗みはいくら少量でも加算され、合計十両に達したら死罪・・・という事に改められたそうです。

最初のままだと、抑止力ゼロですもんね。
いや、むしろ増長させてたかも・・・

・・・で、十両以下で死刑にならない場合は、先ほどもチラッと言いましたが、重くて入墨刑から、軽いのは(たたき)まで・・・となっています。

入墨は、小伝馬町の牢で、二の腕の部分に線を入れられ、再犯すると、その線の本数が増えていくという物・・・時代劇でよく見るパターンのヤツです。

そして、敲の場合は、やはり小伝馬町の牢の門前で、棒で50回、重罪の場合は100回叩かれます。

なんか、死刑と差がありすぎるような気がしないではありませんが・・・

しかし、江戸も後半になると、物価の上昇で、10両が以前ほど価値が無くなってきたために、よほど悪質な者でない限りは、十両以上盗んでも死刑にはならなかったとか・・・

たとえ十両以上盗んでいても、役人が「お前は十両も盗んでないよな!な!」と、何度もたずねて、犯人が「ハイ」って言ったら調書を書く・・・なんて、お目こぼしもあったようです。

「・・・なら法律変えろよ!」って感じですが、今も昔も、法律が後手後手に回るのも、やっぱり、変わらないとこなんでしょうか・・・
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2007年12月 2日 (日)

足利義尚・近江鈎の陣~甲賀衆の奇襲作戦

 

長享元年(1487年)12月2日、近江鈎に布陣していた将軍・足利義尚六角高頼配下の甲賀武士たちが奇襲をかけました

・・・・・・・・・

応仁元年(1467年)から10年間に及ぶ長い合戦となった応仁の乱

日本を東西真っ二つに分けて争われた歴史に残るこの合戦も、西軍の山名宗全(3月18日参照>>)と東軍の細川勝元・・・両大将の病死により、グダグダな終止符が打たれました。

グダグダ故に、その後の混乱も収まる事がなく、幕府将軍と諸大名はしばしば対立する事となります。

そんな混乱に乗じて、近江(滋賀県)南部の戦国大名・六角高頼は、近江内の公家領や寺社領を占拠し続けるという姿勢に出ます。

当然、公家や寺社は、室町幕府・第9代将軍・足利義尚(よしひさ)に訴え、義尚もさんざん退去するように申し渡すのですが、すでに足利将軍の軍事力の失墜・下克上の到来を感じていた高頼は、まったく聞く耳を持ちません。

高頼の態度が変わらない事を知った義尚は、長享元年(1487年)9月12日京都を出陣します。

高頼こそ、すでに見限っていたようですが、世間一般では、まだまだ将軍の権威は捨てたものじゃぁありません。

義尚のもとには、若狭(福井県南部)武田国信加賀(石川県南部)富樫政親(とがしまさちか)といった有力武将が集まり、その数は2万の大軍となります。

義尚の軍は、近江南部にある六角氏の砦を次々と落とし、やがて、高頼の居城・観音寺城(滋賀県安土)へと迫りますが、敵の襲来を知った高頼は、あっさりと観音寺城を捨て、配下の甲賀(滋賀県甲賀)の武士たちのもとへ転がり込むのです。

城を捨てた・・・というのは、おそらく高頼の作戦通りの行動でしょう。

何だかんだ言っても、やっぱり相手は将軍です。
今ここで、籠城をして直接対決するよりも、チャンスを待ったほうが得策と考えたに違いありません。

そんな高頼を追う義尚は、近江・(まがり・滋賀県栗東)に陣を敷き、さらに、そこを拠点に甲賀に向けて攻撃を仕掛けます。

しかし、高頼はすでに更なる他国へと逃亡。

そこで、「高頼討伐は長期に渡る」と判断した義尚は、長享元年(1487年)12月2日軍の一部を京都へ帰らせてしまいます。

義尚さん・・・ここに来て、ぼっちゃん気質が出ちゃいましたね~。
ツメが甘いと言うか、油断・・・ん?でも、ひょっとしたら怖いお母ちゃんのいる京都にも戻りたくなかったのかも・・・。

話が、今日の合戦からは、逸れますが・・・この義尚さん、あの銀閣寺で有名な8代将軍・足利義政とカカァ天下の代表格・日野富子の子供です。

結婚して10年間子宝に恵まれず、もはや、実子を後継者にするのを諦めた義政・富子夫婦が、義政の弟の義視(よしみ)を、僧侶をやめさせてまで後継者に任命した直後に生まれたかわいい息子

気の強い奥さん・富子が、政治に無関心な夫を見限って、その夢を託し、どうしても「次期将軍にしたい」と山名宗全を頼った・・・そもそも、あの応仁の乱は、その富子の息子溺愛から始まったような物(もちろん、それだけじゃないですが…)なのですから、その義尚の育った環境もわかろうというものです。

しかし、今回の相手は六角高頼・・・というよりも、高頼は逃げちゃってますから、むしろ敵は、高頼配下の甲賀の武士。

武士と言ってますが、甲賀という土地でわかる通り、彼らは忍術の心得のある一クセも二クセもある連中・・・坊ちゃん将軍の甘い先読みが通じる相手ではありません。

案の定、甲賀武士たちは、この12月2日の一部撤退を見逃しませんでした。

その夜、山中橘六を先鋒に、和田氏望月氏といった甲賀武士たちが、鈎の陣に奇襲をかけたのです。

不意を襲われた陣は大混乱に陥り、わけもわからず大騒ぎ。
義尚を無視して、早々に逃げ出す者が続出します。

この騒ぎに紛れて甲賀武士のひとりが義尚に斬りかかり、負傷させたとも伝えられていますが・・・。

とにかく、六角氏の砦を破竹の勢いで次々と落とし、ちょっとは回復しかけた将軍の権威も、またまた元の木阿弥に・・・

しかも、甲賀武士たちのゲリラ作戦は、ここで終らず・・・と、いうか、ここは、そもそも甲賀の武士たちの地元・・・地の利を生かし、あちらに火を放てば、こちらに奇襲をかけるといった具合で、とどまる事を知らず、その度に義尚の軍は苦渋をなめさせられる事になります。

結局、長享三年(延徳元年・1489年)の3月26日まで、1年半に渡って義尚は鈎の陣を離れる事ができず、六角+甲賀武士に悩まされ続けます。

・・・で、何で、この3月26日に、義尚が陣を離れたか?と言いますと・・・なんと、その義尚がこの陣中で病死してしまったからなのです。

享年25歳・・・(3月27日参照>>)
いつやって来るかわからない奇襲への恐怖からか?
それとも、いつ終るともわからない戦いへの空しさからか?

この陣中での義尚は、酒に溺れる生活になっていたようです。

武将たちの行列をともない京都に戻った義尚・・・その棺のかたわらには、泣き崩れる富子の姿があったとか・・・

この戦いによって、六角氏が横領していた多くの領地は、もとの公家や寺社のもとに戻り、将軍家の名誉もちょっとばかり回復しますが、軍事の弱体化は、これ以降、目立つようになります。

しかし、軍事の弱体化は、将軍家だけでなく六角氏も同じで、この長期の戦いは、双方ともにダメージを負った戦いになったようです。

  

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2007年12月 1日 (土)

昔話・桃太郎と製鉄の関係~鉄の記念日にちなんで・・・

 

安政四年(1857年)12月1日、岩手県の釜石高炉(後の新日鉄釜石製鉄所)が創業を開始し、日本の近代製鉄の幕開けとなった事をを記念して、今日12月1日は『鉄の記念日』なのだそうです。

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・・・で、鉄の記念日という事で、今日は、昔話『桃太郎』のお話を・・・

「風が吹くと桶屋が儲かる」的な発想ですが、実は私、個人的には、この桃太郎のお話は、製鉄と深い関係があると思っております。

いくら最近の子供たちが昔話に興味を持たなくなったと言っても、さすがに桃太郎の昔話は、「知らない人はいなだろう」と思うくらい、昔話の中でもダントツに有名なお話です。

そして、皆さんも、うすうすは感じておられるでしょうが、このお話の・・・
「子供のいないおじいさんとおばあさんがいて、おばあさんが川で洗濯中に大きな桃が流れてきて、その桃を拾って帰って食べようとすると、中から男の子が登場・・・」
・・・という前半の部分と、

「犬・猿・雉(きじ)の3匹の家来を連れて、鬼ヶ島に鬼を退治に行く・・・」
という後半の部分は、あきらかに別の昔話だと思われます。

そんな中で、ところどころ違う話が混じりながらも、全国各地に桃太郎の昔話が伝わっていて、それぞれ「これが、桃太郎のモデル」と言われるような人物の伝説が残っているわけですが、その中でも最も有力なのが岡山県です。

ご存知のように、岡山駅前には桃太郎の銅像が立ち、そのルーツを主張し続けておられます。

その一番の根拠は、岡山市にある吉備津神社・・・吉備津神社は、第10代・崇神天皇の時代に、天皇から派遣され吉備平定を成し遂げた吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祀る神社で、その吉備津彦命の伝説をもとにしたのが、桃太郎のお話だというわけです。

その吉備津彦の伝説とは・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔、崇神天皇の頃(250年~300年頃)、異国の鬼神が空を飛んで吉備の国(岡山県のあたり)にやってきます。

その鬼神は、百済の王の子供で、名前は温羅(うら)・・・背丈は一丈四尺(約4m)ほどあり、気性が荒く、力も強い。

しかも、口から火を吹き、水を油に変えるなどの神通力も持っていました。

そんな温羅は、吉備の国の新山鬼ヶ城という砦を造り、都へ向かう船をを襲っては略奪し、道行く人や猿を襲っては食べたりという悪行を繰り返していました。

見かねた天皇は、息子の五十狭斧彦命(伊佐勢理比古命・いさせりひこのみこと)を、温羅討伐に派遣します。

しかし、その戦いは激しく、五十狭斧彦命の放った矢は、ことごとく温羅の矢と空中でぶつかり、その度に地上に落ちてしまいます。

そこで五十狭斧彦命は、弓に2本の矢をつがえ、同時に放ちました。

すると、一本は温羅に落とされますが、もう一本は、狙い通り、温羅の左目に命中します。

手傷を負った温羅は、雉に変身して逃亡・・・追う五十狭斧彦命は鷹に変身します。

次に、温羅が鯉に変身して水中へと逃れると、今度は鵜に変身して追う五十狭斧彦命・・・。

ついに、追いついた五十狭斧彦命は見事!温羅の首を取ります

しかし、胴と離れたにも関わらず、その首は、大きなうなり声をあげて吠え続けます

犬に食われ、ドクロとなってもなお、うなり声をやめないのです。

勝利して名前を吉備津彦命と改め、そのドクロを吉備津宮釜殿の下に埋めた五十狭斧彦命は、ある夜、温羅の夢を見ます。

夢の中で温羅は、「俺の嫁さんを釜殿で奉仕させたなら、この国に災いが起こる時に、その釜を荒々しく鳴らして教えよう」と言ったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上が吉備津彦の伝説で、今も吉備津神社では、毎年10月19日に、お釜の音で吉凶を占う『釜鳴り神事』というお祭りが行われています。

確かに、桃太郎の後半の鬼退治の部分のお話に似ています・・・いや、こっちがルーツでしょうけど・・・。

ただ、犬は首を喰ってるので良いとして、雉は敵だし、猿は被害者・・・

まぁ、細かい事を言ってもしょうがないですし、これには、吉備津彦に同行した三人の武者が、犬飼武命(いぬかいたけるのみこと・犬飼部)中山彦命(なかやまひこのみこと・猿飼部)楽々森彦命(ささもりひこのみこと・鳥飼部)であった事がら、動物に例えられたという話もあるようですし・・・。

そして、桃太郎に登場するきび団子・・・このきび団子の「きび」が「吉備」ではないか?というのも、この吉備津彦が桃太郎のモデルの最有力候補にあげられる理由でもあります。

しかし、この桃太郎のお話は、戦争中にはプロパガンダとして使用されたという悲しい歴史も持っています。

「神国・ニッポンの子である桃太郎が鬼畜米英を退治する」物語として、国民(特に子供)の戦意を高上させる道具となったのです。

桃太郎のお話が、そのような使い方をされる事を予測していた人もいました。

あの芥川龍之介は、「怠け者で乱暴な桃太郎が、鬼ヶ島で平和に暮らす鬼たちを侵略し、物を略奪する」という桃太郎のパロディを書いているそうです。

そのように、正義のヒーローは、紙一重で侵略者になる可能性も秘めているわけです。

この桃太郎のモデルではないか?とされる吉備津彦も、実は大和政権から派遣された侵略者であるかも知れない・・・いや、おそらく、吉備津彦の伝説は、たとえ崇神天皇の時代ではなかったとしても、古代にあった戦争をモチーフにした伝説である事は確かでしょう。

吉備の国・・・という名称でもわかる通り、この地方がもともと別の政権であった事は明らかです。

それも、出雲と並ぶくらいの大国であった事でしょう。

では、古代の政権は、何が目的で吉備の国を攻めたのでしょう?
それが鉄・・・製鉄技術です(やっと出てきた~)

岡山県総社市には、古代に大国であった事をうかがわせる数多くの遺跡が確認されていますが、なかでも、平成元年(1989年)、工業団地の造成中に見つかった「久代・板井砂奥製鉄遺跡」・・・現在は工業団地の一角に遺跡公園が整備され、一部の遺跡が復元されているそうです。

ここには、6世紀の後半から約100年に渡って、計60基の製鉄炉と16基の炭窯があったそうです。

もちろん、製鉄でできた鉄を加工するいわゆる『鍛冶屋』鍛冶炉も、総社市ではたくさん見つかっています。

原料となる鉄鉱石と製鉄技術は、武器や防具はもちろんの事、さまざまな道具に使用され、膨大な富を産み出したに違いないのです。

古代・大和にあった王権は、軍事転用もできる技術の支配と、その利益に目をつけたのでしょう。

大陸からやって来た温羅・・・口から火を吹き、水を油に変える・・・まさに製鉄の様子を思い描いてしまいます。

現代、世界のあちこちで争いを巻き起こしている石油利権・・・それと同じ事が、古代の日本でも行われていたのです。

製鉄・・・金鉱・・・油田・・・時代と物は変れど、人の心=欲はいっこうに変わらない・・・あいも変わらず利権を巡って国と国とがぶつかり合う。

少し考えさせられますね。
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