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2007年12月10日 (月)

足尾銅山闘争で田中正造が直訴

 

明治三十四年(1901年)12月10日、代議士を辞職したばかりの田中正造が、足尾銅山の鉱毒事件で、明治天皇に直訴しました。

・・・・・・・・・・・

時は、明治二十九年(1896年)9月・・・関東北部を流れる渡良瀬川流域で、50年ぶりという大洪水が起こります。

Asiodouzancc 直接の原因は、もちろん雨ですが、何と言っても、上流にある足尾銅山の山林の伐採が、その被害をより大きくしたのです。

しかも、銅山から流れ出た鉱毒が、河川はもちろん、その流域をも汚染し、田畑は枯れ果て、あたり一帯は見渡す限りの不毛の地となってしまいます。

Asiodouzantizucc 作物だけではありません。

井戸水も汚染され、沿岸の住民は、水を飲むことさえできません。

最初、この一件に関して、鉱山側は示談を提案しますが、あまりの被害の大きさに、住民側は金銭の問題ではなく、「銅山そのものを停止させて欲しい」を訴えました。

しかし、当然の事ながら、鉱山側が停止に応じる事はありません。

そうなると、住民側は法に基づいて、政府にその要求を訴えなければならないわけですが、住民のほとんどが農民層である彼らの訴えを、当時の政府がまともに聞いてくれるはずもありません。

当時の日本は少しでも早く、欧米諸国に追いつきたいと必死です。

そのためには何と言っても、近代的軍備を整えるのが先決・・・それには、この銅で獲得する外貨収入が必要不可欠だったのです。

農民たちは、翌年の明治三十年(1897年)からは、『押出し』と呼ばれる集団直訴という手段に出ます。

3月2日には、被害者800名が徒歩で上京し、鉱毒問題の請願運動をはじめますが、翌年の明治三十一年(1898年)にも、再び洪水が起こり更なる被害をもたらします。

Tanakasyouzoucc たまりかねた農民たちは、今度は、1万3千人という集団で、陳情しようと東京に向かいますが、それを途中で止めたのが、当時、栃木県選出で代議士を務めていた田中正造(しょうぞう)でした。

彼は、当時、生まれたばかりの大隈重信初の政党内閣に期待していました。

正等な筋道で、ちゃんと陳情すれは、新内閣はきっと取り上げてくれるだろうと、農民たちの運動を、代表五十人による『代表陳情』に変更させます。

彼は、何度も議会で質問に立ちました。

「大抵の国は滅びるまで知らないが、人民を殺すというのは、国家が自分で自分の体に刃物を突きつけているのと同じである」
「鉱毒の被害は、他の被害と違い元を亡くしてしてしまう・・・地面が無くなれば同時に人類も亡くなってしまう、永遠にかかわる損害である」

この間の明治三十三年(1900年)には、陳情に出かけようとした農民が、群馬県の川俣村で警官と衝突!
流血の惨事となり多くの農民が逮捕されるという『川俣事件』も起きました。

翌、明治三十四年(1901年)の、結果的に最後の質問となった正造の質問に対する政府の答弁は・・・「質問と認めず、答弁はしない」という物でした。

正造の期待は見事に裏切られました。

この時・・・あの日、東京に大挙押し寄せ、直訴しようとした農民たちを引き止めて、自分が推し進めた代表陳情が失敗に終わった事で、正造の中に、「生涯をかけて、その責任を果たさねばならない」という決意が生まれたのは間違いありません。

その年の10月、正造は代議士を辞職します。

そして、明治三十四年(1901年)12月10日・・・
紋付袴に身を包んだ正造は、右手に高く紙包みを差し上げて、開院式に向かう天皇陛下の馬車に駆け寄りました。

Asiodouzanzikisocc 「陛下!お願いがございます」と、直訴したのです。

結局、彼は警備をしていた警官に、空しく取り押さえられ、その願いが聞き入れられる事はありませんでした

本来、死刑にも値する罪であるはずの「天皇への直訴」でしたが、この時の正造は、「乱心者」という事で、その日の夕刻には釈放されます。
(政府は穏便に事をすませたかった?)

しかし、その日の出来事が新聞紙上でも大きく報道され、直訴状の内容が一般市民の知るところとなると、世論が黙ってはいませんでした。

社会問題となった鉱毒事件・・・とうとう、世論に後押しされる形で、政府は動きます。

しかし、それは谷中(やなか)村を抹消し、その場所に貯水池を造り、渡良瀬川の氾濫を防ぐというもの・・・

つまり、巧みに鉱毒問題を氾濫・治水問題に置き換えられたものだったのです。

当然、政府の対策に納得できない正造は谷中村に住まいを移転し、村の貯水池化に反対します。

しかし、そんな正造も年齢には勝てません。

大正二年(1913年)9月4日・・・政府の治水対策の正誤を知るべく行っていた河川調査を終えての帰宅途中、73歳でこの世を去ります。

その間にも、栃木県会は谷中村全体を買収して、住民を北海道へ移転させ、反対する住民の家屋は強制的に解体され、谷中村は廃村となり、大規模な河川工事が行われる事となります。

結局、昭和四十八年(1973年)の閉山まで、足尾銅山の停止という最初の願いが果たされる事はありませんでしたが、正造の強い意志は、若き後継者によって、その後も受け継がれていく事となります。

公害問題というと、戦後の高度成長期の頃の事を思い出してしまいますが、こうして明治のこの頃にも、すでに発生していたんですね。

~真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし~
これは、正造の日記の中の言葉だそうです。
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コメント

田中正造に対しては、明治以降では数少ない、尊敬に値する政治家である、と考えている方が多いみたいです(私もそう思います)。

今だって立派な政治家はいるはずだと思うのですが、同時代の人間にとっては、いろいろなことが見えすぎてしまうために業績に気が付き難いのでしょうか?

それとも複雑になりすぎた社会では、政治の力そのものに限界があるのでしょうか?

政治が苦手な私ですが、政治家が尊敬されない時代が続くのは、不幸なことに思えてしまいます…。

投稿: とらぬ狸 | 2015年6月19日 (金) 21時45分

とらぬ狸さん、こんばんは~

そうですね~
時代の流れもあるでしょうね。
一昔前なら、尊敬する人物に政治家の名を挙げる小学生や中学生も少なく無かったでしょうが、今は、ほとんどいないんでしょうね。

政治にはくわしく無いですが、そんな自分が見ていても、政治手腕では無い部分でばかり、足の引っ張り合いをしているように思えてしまいます。

投稿: 茶々 | 2015年6月20日 (土) 01時15分

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