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2007年12月 5日 (水)

日本書紀に登場する二人の初代天皇

 

戌寅の年(紀元前30年頃?)の12月5日、第10代・崇神天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・

この時代は元号という物がまだありませんから、『日本書紀』には、「戌寅」・・・と、没した年が干支(えと)で書かれています。

そこに、西暦を当てはめてみると、258年か318年のどちらかの戌寅の年・・・という事になるのだそうです。

崇神(すじん)天皇・・・なんか、つい最近この名前を聞いたなぁ~と思いきや、先日の『桃太郎と製鉄の関係』(12月1日参照>>)で、吉備の国の平定に、息子の吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣した天皇でしたね。

古代の日本と天皇を語る上で、この崇神天皇はキーマンとなる人物の一人です。

初代・神武天皇から始まって昭和天皇まで、124代の歴代天皇の中で「神」の文字が名前に使われているのは、その神武天皇と、この崇神天皇と、第15代・応神天皇の三人だけ・・・この状況を見ても、重要人物である事がうかがえます。

初代天皇の神武天皇が、日向・高千穂から大和東征したくだりは、以前『建国記念の日』のページ(2月11日参照>>)に、サラ~ッと書かせていただきましたので、そちらを読んでいただけると、お解かりいただける通り、神武天皇は最初の天皇なので、別名「始馭天下之(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)と呼ばれます。

その言葉通り、初めて国を治めた天皇・・・まさに初代天皇という事です。

しかし、日本書紀には、崇神天皇のところにも「御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)と書かれています。

『始馭天下』「初めて天下を治める」という意味で、『御肇国』「初めて整った国を治める」という意味である・・・という解釈もあるそうですが、どうも怪しい・・・。

これは、日本書紀・編者のチョンボなのでは?

今、この平成の世で、「天皇家が万系一世でつながっていて、すべての天皇が実在している」と信じている人は、ゼロとは言いませんが、かなり少ないのは確かです。

しかし、正史と呼ばれる歴史書が『古事記』『日本書紀』などしかないこの時代の歴史は、それを否定する史料もないわけで、決定的証拠が無い限り「無かったかもしれないし、あったかもしれない」としか言えず、断定する事はできませんが、先ほどのような、ちょっと腑に落ちない部分をほじくり返しながら、推理を巡らしていくのは、実に楽しい。

そんな中で、本日の崇神天皇は実在だと思われる最初の天皇だとも言われています。

つまり、崇神天皇こそが本当の初代天皇ではないか?という事です。

そして、そのキャラがかぶるところ、両方が「ハツクニシラス」であるところから、神武天皇と崇神天皇は、同一人物ではないか?という考えもあるのです。

事実、神武天皇は高千穂から大和に来るまでのいきさつなどが詳しく書かれているのに対し、即位してからの事については、それほど多くありません。

逆に、崇神天皇は、即位前後の事は少なく、天皇となって国を統治した部分に重点が置かれています。

しかも、神武天皇は、出雲神・大物主神(おおものぬしのかみ・大国主のミコトの別名)の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后にしていますし、崇神天皇は、以前『運命の赤い糸』(8月21日参照>>)で書かせていただいたように、疫病の一件からその大物主神を崇拝しています。

もう一つ、神武天皇の奥さんの名前の中の「蹈鞴(たたら)は、ご存知のように製鉄(炉)の事。

そして、桃太郎のところで書いた通り、崇神天皇が息子を吉備に派遣したのは、製鉄の利権が欲しかったのでは?
・・・という事で、これも何だか関連がありそうです。

こうして見ると、神武・崇神、二人の天皇の記述を合体させてはじめて、一人の人生が浮かんで来るような気がしないでもないです。

では、もし、この二人の天皇が同一人物だったとしたら、なぜ?記紀の編者は、この一人の初代天皇を二人に分ける必要があったのでしょうか?

それは、おそらく、崇神天皇が大和を統一する以前に、すでに大和にあった王権を併合して統一を成し遂げた事を、隠したいがためではなかったでしょうか?

以前からあった王権も、天皇家であるとするためには、この時代に崇神天皇が東征をしたのでは、年代が合わなくなります。

つまり、以前からあった王権の成し遂げた様々な出来事の前に、崇神天皇の東征という前半生を神武天皇がやった事として描き、すべては天皇家の成し遂げた事・・・という風につなげてみたのではないでしょうか?

崇神天皇というのは、ご存知のように天皇としての名です。
崇神天皇の実際の名前は、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと・御間城入彦五十瓊殖尊)といいます。

この「ミマキイリヒコ」というのは、かつて朝鮮半島にあった国・「任那(みまな)から日本に入った」という意味であるとする説もあり、この崇神天皇の東征は、以前から囁かれている大陸の騎馬民族による征服説ともシンクロしているようです。

「なら、やっぱり天皇家は大陸の騎馬民族なのかもね」
・・・と、思ってしまうのも、まだ早いです。

なぜなら、最初に書いたもう一人の「神」の文字を持つ天皇・・・第15代・応神天皇は、この崇神王朝を倒して政権を勝ち取った新政権であるとも言われているからです。

しかし、その応神王朝も、さらに、第26代・継体天皇の政権(12月8日参照>>)にとって代わられたとの話もあり・・・そして、かの『崇峻天皇暗殺』(11月3日参照>>)のところでも、政権交代の可能性あり・・・という事で、ますます、天皇家の万世一系が揺らぐ事になるのですが、そこんところのお話は、また、おいおい書かせていただく事にして・・・

とりあえず、今日の崇神天皇の時代は、「農は天下の本であり、民が生きるたのみである」として、水の少ない地域に池や溝を掘ったり、人民の戸口調査を行ったり、手工業や狩猟生産物の発展にも力を入れて、民は大いに栄え、天下が平穏に治まった・・・と記紀には書かれていますが、この崇神天皇の没年齢が、古事記では168歳、日本書紀では120歳となっていて、そのギネス並みの年齢を見ると、その前後の記述も鵜呑みにはできないなと感じる今日この頃・・・でした。
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コメント

本日の記事もかなり面白かったです!
出雲へ行ってきたばかりなので大変興味深く読ませて頂きました。過去の記事も読み出すと止まらず、ハマッてしまうことが分かっているので、お掃除・洗濯を終わらせて、お茶を淹れてからゆっくり読ませていただきます!

投稿: hal@くるり京都 | 2007年12月 5日 (水) 09時26分

hal@くるり京都さま、コメントありがとうございます。

>お掃除・洗濯を終わらせて・・・

ドキッ・・・私もついつい・・・耳が痛い

投稿: 茶々 | 2007年12月 5日 (水) 18時24分

茶々様
はじめまして。茶々様の広範な知識には甚だ敬服致しております。
私が考えるに、やはり崇神天皇が初代かと。しかしながら天皇記(?)を書くにあたって、初代が祟る事を恐れなければならないような方では具合が悪かろうと。

投稿: とーぱぱ | 2016年10月21日 (金) 01時46分

とーぱぱさん、ご訪問、ありがとうございます。

やはり、初代のような…?
記紀の編さんにあたっては様々な事情があったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2016年10月21日 (金) 03時04分

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