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2008年1月31日 (木)

人は別れる時、なぜ手を振るのか?

 

今日の話題は・・・
「何の日?」には関係の無いお話で恐縮ですが、『人は別れる時、なぜ手を振るのか?』という話・・・

・・・・・・・・・

この、「別れる時に手を振る」という行為。
小さな赤ちゃんは、言葉を覚える前に、すでにこの仕草をマスターしています。

お母さんの腕に抱かれた赤ちゃんが、仕事に出かけるお父さんに「いってらっしゃ~い」とばかりに手を振る姿はかわいいものです。

お年寄りにとっても、息子・娘夫婦が帰る時、あるいは、おじいちゃん・おばあちゃんが自宅に戻る時、お孫さんに「バイバ~イ」ってやられたら、たまらく愛しくなる事でしょう。

実は、この行為、単なる合図や挨拶の類ではなく、神話の時代から受け継がれた、れっきとした意味のある行為・・・神代の昔から行われていた『タマフリ(魂振り)という儀式に由来するものなのです。

「タマフリ」とは・・・上記の字で何となくおわかりの通り、神を呼び起こし、魂を奮い立たせる儀式。

Yamafurigoheicc わかりやすい所では、神社はもちろん、建築物などの地鎮祭や、その他もろもろの場所で、神主さんが、紙を切ったような折ったようなビラビラが先っぽについた棒のような御幣(ごへい)という道具を左右に振り、お祓いをしますよね。

あれが、「タマフリ」です。

もちろん、あれは、神官となった人が行う正式なタマフリですが、他にも、色々なタマフリがあるのです。

タマフリの基本は、空気を震わせて波長を起こす事で、神を呼び、場を清め、魂を奮い立たせるワケですから・・・もう、察しの良いかたは、おわかりですね。

そう、神社で拍手を打ったり、鈴を鳴らしたりというのもタマフリなのです。

音が、空気を振るわせる波長である事は、近代になってからわかった事だと思うのですが、不思議な事に神代の昔から、行われていたんですね。

手を振るのも同じ事・・・もちろん、昔は着物ですから、手を振るというよりは、(そで)を振る」という事なのですが、とにかく、振って空気を揺るがして波長を起こし、その波長をその身に受けて人は奮い立つのです。

では、なぜ?別れる時に・・・?

それは、古代の人々にとって別れ=旅立つ事が命がけだったからです。

古代において、遊覧を目的とした旅は、まず考えられません。

特別な事情がない限り、一般庶民は、一山越えた向うに何があるのかさえ知らずに一生を終える事が多々ありました。

そんな中、大和朝廷が形成され、律令制度の導入とともに、都から地方へ役人が派遣され、逆に都の造営や防人などに地方の一般庶民がかり出されるようになり、普通の人が、故郷を離れて遠方へ旅立つ・・・という事になってくるのです。

以前、『平城京遷都』(3月10日参照>>)や、『防人の歌』(2月25日参照>>)のページでも書かせていただいたように、旅立ったまま帰れなくなった人が山ほどいたのが、当時の旅だったのです。

ですから、人は、旅立つ人の無事を祈って・・・その行く道に神のご加護があるように・・・何も道具を持たない庶民は、そのありったけの力を込めて袖を振り、願いを込めてタマフリを行ったのです。

「別れる時に、手を振る」
これは、自分にではなく、別れる相手への愛溢れる行為・・・

無事の帰還を祈る思いが込められているのです。

万葉集4379・防人の歌
♪白波の 寄そる浜辺に 別れなば
 いともすべなみ 八度
(やたび)袖振る♪
「白い波が打ち寄せるこの浜辺で別れてしまったら、もう、どうしようもないから、何度も何度も袖を振ってるのよ」

このような思いを込めて、人は手を振っていたんですね・・。

そんな、神代の儀式が、今も残っているなんて・・・何だか、今度、手を振る時は感動モンですね。

ちなみに、空気を伝わる波動は。袖を振る、音をたてる以外に、もう一つ、色も空気を伝わる波動・・・という事で、目で見るタマフリもあります。

それが、お花見です(2月27日参照>>)
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2008年1月30日 (水)

「みその日」なので、お味噌の歴史+味噌天神の話

 

毎月30日は、「みそか=三十」の語呂合わせで、『みその日』という記念日なのだそうです。

・・・で、毎月30日が来るたびに、いつ書こうかと悩んでいた『お味噌の歴史』を、今日、書かせていただく事にします。

・・・・・・・・・・

日本には、古代から草醤(くさびしお)穀醤(こくびしお)宍醤(ししびしお)など、「醤(ひしお)と呼ばれる調味料がありました。

現在の漬物のような、塩辛のような、お味噌のような・・・といった感じの物でした。

中でも、穀醤は、大豆や小麦、豆などの穀類を発酵させた物で、お味噌のルーツと言える物でしょう。

これには、発酵し過ぎないように塩が加えられていたそうですが、逆に塩を入れずに加熱して発酵を止め、この醤の原料からお酢やお酒も造られていました。

あの大宝律令にも、大膳職(だいぜんじき・宮中の食を管理する役所)「醤・豉(し・くき)・未醤等」をつかさどる役人がいた事が書かれています。

豉とは、紀元前の中国西域で造られていたお味噌のルーツと言われている物です。

大陸との交易が盛んな奈良時代になると、そんな中国の技法が取り入れられるようになり、昔からある醤に改良が加えられ、いろんなパターンの醤が造られるようになります。

中国から伝わった技法で改良された醤を「唐醤(からびしお)
朝鮮から伝わった技法で改良された醤を「高麗醤(こまびしお)と呼んでいたそうです。

しかし、唐醤や高麗醤の中にも様々な種類があり、現在のお味噌のような物から、むしろ醤油に近い物まで多くの種類が混在していました。

平安時代の都の市には、東の市には唐風の醤を売る「醤屋(醤油屋)があり、西の市には高麗風の醤を売る「未醤屋(味噌屋)があった事が記録されています。

こんな感じの味噌とも醤油ともつかない時代がしばらく続きますが、鎌倉時代の建長年間(1294年~55年)に、(中国)に渡った僧侶によって新たな技法が伝えられ、お味噌は画期的な変化をします。

信州(長野県)の僧侶だった覚心は、宋の径山寺(きんざんじ)というお寺で、そのお寺独特のお味噌に出会います。

なめさせてもらった、その味が忘れられず、お味噌の技法をマスターして帰国・・・その後、紀州興国寺で、その造り方を後輩僧侶に教えます。

それが、『金山寺味噌』だと言われています。

室町時代の僧の日記には、味噌や醤を醸造する話が多く書かれていて、当時は自給自足の意味もあって、お寺の中でお味噌造りが盛んに行われていた事がわかります。

やがて、もっともっと盛んになったお味噌造りは、お寺から売り出されるようになり、寺院の収入源の一つとなっていきます。

そして、僧侶から公家へ、公家から武士へと広まっていき、以前、「戦国時代の食べ物事情」(2月13日参照>>)で書かせていただいたように、合戦時の非常食としても重宝されるようになるのですが、一般庶民の口に入るようになるのは、やはり江戸時代頃からです。

それでも、種類の多さは、大昔のまんま・・・各地方・各家庭によって違うのは当たり前の事でした。

第二次世界大戦以前の日本では、お味噌は、買う物ではなく自宅で造る物・・・それが当然であり、それぞれの家庭の味を自慢する物でもありました。

・・・で、なんやかんやと、ちょっとした自慢話をする時に「手前みそですが・・・」という言葉で切り出すんですね。

この時の「手前」というのは、「自分の」あるいは「ウチの」という意味です。

ところで、九州は熊本県に、「味噌天神」なる神社があるそうです。

その由来は、天平十五年(743年)、聖武天皇から各地に国分寺建設のお達し(10月15日参照>>)があった時、この肥後の国にも国分寺が建設される事になるのですが、それが今村(現在の熊本市出水町)という場所。

・・・で、この味噌天神の建っている場所は、その国分寺の味噌倉があった場所で、当時は味噌の鎮守として祀られていたそうです。

そんな国分寺の味噌倉には、寺に属する多くの僧が食するため、たくさんのお味噌が保管されていたのですが、ある日、倉の中のお味噌全部が酸味をおびて食べられなくなってしまったのです。

その時、この社に祈願したところ「境内にある笹の葉を味噌に突き刺しなさい」という神のお告げがあり、言われるがままその通りにしたところ、お味噌の酸味が消え、食べられるようになったのだとか・・・。

それ以来、お味噌の守護神として祀られるようになったのだそうです。

この神社、明治「神仏分離令」によって、正式名称は「大江村本村神社」と言うそうですが、今でも味噌醸造業者や販売業者の厚い信仰を受け、通称の「味噌天神」で呼ばれています。
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2008年1月29日 (火)

人口調査記念日~昔の人口ってどれくらい?

 

明治五年(1872年)1月29日、日本で初めての人口戸籍調査が行われた事を記念して、今日は『人口調査記念日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・・・

ちなみに、聞くところによれば、当時の日本の総人口は、約3300万人だったとか・・・。

平成十七年(2005年)の国勢調査の数字を見てみると、現在の総人口は約1億2千700万人・・・ごく最近は減少傾向にあるとは言え、130年間でたいしたモンです。

ところで、近代史よりも、古い時代が好きなワタシとしては、昔々(特に奈良時代とか)の日本の人口ってどのくらいだったんだろう?・・・と気になるところではあります。

・・・と、なんと、それを計算した数学者さんがいらっしゃるとか・・・

沢田吾一さんというかたで、正倉院などに現存する税の徴収記録や、戸籍・計帳の記載はもちろん、国民生活と民政経済の実態をも数字にして計算した結果、平城京に都があった奈良時代の総人口約600万人と算出されました。

この数字は、昭和二年(1927年)に発表された研究で、異論もない事はありませんが、これをくつがえすほどの意見は未だ存在せず、現在もこの数字が定説となっています。

以前、「大宝律令」のページ(8月3日参照>>)で書かせていただきましたが、しっかりと税金を取るためとは言え、当時は、ほぼ完璧な形で人口の掌握がされていた事を考えれば、かなり信用できる数字です。
(もちろん、平城宮跡は現在も発掘調査が進行中ですから、新発見でくつがえされる事もあります。)

そして、その全国600万人のうち、約30分の1に当たる20万人ほどが、首都=平城京に住んでいたと言われています。

もちろん、華麗な都生活をしていたのは、ごく一部の人ですが・・・(11月8日参照>>)

現在の首都・東京都の人口が1257万人ですから、全国の約10分の1の人が東京に集中している事になります。

しかし、実はこの数字。
現在のこの10分の1という人口比率が別格なのであって、日本の歴史上、長きに渡って、この首都の人口が全国の30分の1という数字は、あまり変わる事は無かったのです。

その時代には、世界一の大都市と言われた江戸も、奈良時代から続く全国の人口の30分の1という数字を保っていたのです。

もちろん、江戸という町は、徳川家康が幕府を開くまでは、小さな漁村しかなかった場所ですから、急激な民族大移動が起こった事は確かですが・・・。

家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)頃から、江戸城の大規模な増築が行われ、その城郭は現在の千代田区全域に及ぶほどで、その周囲に、京橋・日本橋・神田などの町が次々と誕生していったわけですが、わずか10年後の慶長十八年(1613年)に江戸を訪れたイギリス大使が、「イギリスのどの都市よりも大きい」と言ったという逸話も残っていますから、その急成長ぶりは、さぞかしスゴイものだったでしょうね。

ぞくに『大江戸八百八町』と言いますが、八百八町どころか、徳川のお膝元、成長し続けた江戸の町は、正徳三年(1713年)頃には、合計九百三十三町あったそうです。

その頃の首都・江戸の人口は約110万人

大名やその家臣・奉公人が28万人。
旗本とその家臣・奉公人が21万人。
町人が55万人で、無職が2万人。
牢屋に捕まっている人が2万人。
・・・という事なので江戸の街中での武士と町人の比率は半々といった感じでしょうか。

さらに町は大きくなり、最終的に幕末の頃には二千七百七十町となった江戸の町でしたが、それでも実際の市街地は、現在の山手線の内側に収まる程度だったそうです。

これって、いかに現在の首都集中がスゴイかわかりますね。

ちなみに、武士と町人の人口の比率は、四民平等となる明治の頃まで変わらず、やはり半々ぐらいでしたが、土地の所有権に関しては、明治二年(1869年)の正式な調査によると、江戸の町の60%が武家所有20%が社寺所有・・・って事は、残りの20%に、武士と同じくらいの人数の町人が住んでいた?・・・。

ありゃりゃ・・・庶民は、ぎゅうぎゅう詰め( ̄○ ̄;)!

平成の世となった今も、お役人が、街中の一等地に、広~くて、デカ~イ公舎をお建てあそばすのは、日本の伝統なのかしらん・・・。
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3月の歴史の出来事カレンダー

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

3ohinasamacc

出来事とリンク
1 1186
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1582
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1600
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1834
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1854
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1939
捕えられた静御前が鎌倉に入る
 【静御前も白拍子なる職業】
武田方の穴山梅雪が織田&徳川に降る
 【裏切った穴山梅雪…運命の分かれ道】
 【穴山梅雪を寝返らせた大久保忠世】
龍造寺隆信の母:慶誾尼・没
 【戦国のゴッドマザー=隆信の母・慶誾尼】
水野忠邦が老中に就任
 【建て直し不可能?水野の天保の改革】
島津斉彬が江戸に入り西郷がお庭方に
 【島津斉彬江戸入り「お庭方」西郷隆盛】
陸軍禁野火薬庫が大爆発
 【未来への記憶・枚方平和の日】
2 1179
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1336
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1572
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1569
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1580
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1582
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1652
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1840
鬼界ヶ島に流された俊寛が死亡
 【鬼界ヶ島に1人~俊寛の悲しい最期】
多々良浜の戦い
 【足利尊氏・再起~多々良浜の戦い】
信玄配下の秋山信友が岩村城を落とす
 【岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断】
織田信長が副将軍を拒否する
 【信長が副将軍を断り「銭ゲバ」と化す?】
花隈城の戦いが始まる
 【荒木村重VS池田恒興~花隈城の戦い】
高遠城が陥落し仁科信盛が自刃
 【勝頼の唯一の味方・高遠城の仁科盛信】
栗山大膳が没す
 【黒田騒動を起こした栗山大膳】
遠山左衛門尉景元を北町奉行に任命
 【北町奉行・遠山の金さん】
3  .
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1551
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1599
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1792
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1860
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1868
ひなまつり
 【意外に新しい?雛祭りの起源と歴史】
織田信秀が死去
 【信長の父ちゃん~織田信秀】
前田利家・没
 【ケチと呼ばせない!利家の金の知恵袋】
柳沢信鴻が没す
 【赤裸々日記~信鴻の華麗なる隠居生活】
桜田門外の変
 【桜田門外の変~井伊直弼の覚悟】
赤報隊の一番隊長・相楽総三が斬首
 【赤報隊・相楽総三 諏訪に散る】
 【赤報隊・相楽総三 諏訪に散る2】
4 720
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1053
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1571
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1599
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1771
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1806
大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命
 【大将軍・大伴旅人と隼人族の悲しみ】
平等院鳳凰堂が完成
 【藤原頼通の平等院鳳凰堂の見どころ】
織田信長が東福寺で茶会を開催
 【戦国武将と茶の湯の流行】
加藤清正ら7名が石田三成を襲撃
 【徳川家康・天下へのシナリオ】
杉田玄白らが医学書の翻訳を開始
 【杉田玄白・解体新書の話】
文化の大火
 【火事と喧嘩は江戸火消しの華】
5 1562
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1607
 .
1714
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1907
 .
1931
久米田の戦い
 【久米田の戦い~三好実休が討死す】
徳川家康の四男・松平忠吉・没
 【関ヶ原の先陣を飾った松平忠吉】
大奥・大年寄の絵島を信州に追放
 【大奥スキャンダル絵島の真相】
日本初のミス・コンテスト開催
 【ミス日本に選ばれて退学処分】
日本初のスチュワーデス・誕生
 【はじめてのスチュワーデス物語】
6 1170
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1297
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1337
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1549
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1584
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1868
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1907

流罪となって伊豆大島にいた源為朝が自刃
 【源為朝・琉球王伝説】
永仁の徳政令・発布
 【日本初!幕府公認の借金踏み倒し】
金崎の戦いで金崎城が開城
 【壮絶な籠城…南北朝・金崎城攻防戦】
松平広忠が死亡
 【流浪となって次世代へつないだ家康の父】
織田信雄が重臣3名を殺害
 【小牧長久手へ…信雄の重臣殺害事件】
勝沼戦争
 【甲陽鎮撫隊の勝沼戦争~近藤勇の失敗】
立見尚文・没
 【歴史上屈指!無敵の将軍・立見尚文】

7 628
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1195
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1332
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1594
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1867
推古天皇・崩御
 【女帝・推古天皇の素顔】
頼朝暗殺を計画した平(藤原)景清・没
 【平家の生き残り・平景清】
後醍醐天皇が隠岐に流罪に…
 【隠岐へ…後醍醐天皇と児島高徳】
豊臣秀吉が伏見城の築城を開始
 【秀吉亡き後の大坂城と伏見城の役割】
徳川昭武が将軍名代としてパリに到着
 【徳川慶喜の弟がパリ留学の間に・・・】
8  .
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1587
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1668
さばの日
 【山姥はサバが好き?】
吉岡妙林尼が鶴崎城を奪回
 【島津から鶴崎城を奪回!女城主・妙林尼】
江戸幕府が長崎貿易の禁制品を定める
 【日本の輸入品好きは昔から】
9 711
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1523
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1580
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1735
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1856
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1868
現在の群馬県に多胡郡を設置
 【1300年のタイムカプセル…「多胡碑」】
京極氏の後継者会議を機にクーデター
 【負けるたびに強くなる…浅井亮政の底力】
柴田勝家らが金沢御坊を攻撃
 【金沢御坊・落城~加賀一向一揆の終焉】
青木昆陽が、著書『蕃藷考』を発表
 【甘藷先生と芋代官】
長崎などの開港地で踏み絵を廃止
 【「絵踏み」の「踏み絵」は、今、どこに?】
西郷隆盛と山岡鉄舟が会見
 【江戸無血開城】
10 700
 .
710
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866
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1184
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1276
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1905
僧・道昭が日本初の火葬に・・・
 【日本の火葬の習慣はいつから?】
平城京・遷都
 【なんと(710)大きな平城京】
応天門炎上事件発生
 【「応天門炎上事件」真犯人は誰だ!】
一の谷で捕えた平重衡を鎌倉へ護送
 【平家の公達・平重衡と輔子】
鎌倉幕府が博多湾岸に防塁を構築
 【準備万端!北条時宗の元寇防塁】
日露戦争で日本軍が奉天を占領
 【日本軍・極寒の奉天占領!】
11 1368
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1493
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1575
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1583
後村上天皇・崩御
 【足利相手に戦う…第97代・後村上天皇】
洞松院と赤松政則が結婚
 【鬼瓦と呼ばれた細川勝元の娘・洞松院】
武田氏・滅亡
 【武田勝頼、天目山に散る】
 【天目山…武田勝頼の最期】
武田勝頼夫人・自害
 【内に秘めたる烈女魂~北条夫人桂林院】
秀吉が佐和山城に入る
 【秀吉VS勝家・一触即発の賤ヶ岳前夜】
12 751
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1333
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1584
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1822
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1876
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1907
東大寺・二月堂のお水取り
 【あをによし奈良の都のお水取り】
三月十二日合戦
 【赤松則村の三月十二日合戦】.
小牧長久手~亀山城の戦い
 【小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い】
上杉鷹山・没
 【理想のリーダー・上杉鷹山】
日曜=休日、土曜=半休を官公庁で実施
 【半ドンの日~号砲1発!大阪城の大砲】
松本良順・没
 【徳川家茂&新撰組の主治医~松本良順】
13 1355
 .
1578
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1584
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1599
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1705
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1868
東寺合戦(京軍)の終結
 【南北朝・東寺合戦の終結】
上杉謙信・没
 【謙信・暗殺説~容疑者・信長&直江兼続】
小牧長久手の戦い・勃発
 【秀吉VS家康~犬山城攻略戦】
長宗我部元親が配下の者に手紙を
 【長宗我部元親、最後の手紙】
東大寺・大仏殿の再建工事がスタート
 【東大寺・大仏殿の再建】
西郷隆盛と勝海舟が会見・1日目
 【西郷隆盛と勝海舟の会談・その内容は?】
14 1568
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1701
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1868
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1868
今川義元の母・寿桂尼が没す
 【女戦国大名・寿桂尼】
刃傷・松の廊下
 【事件を目撃した松はどんな松?】
五箇条のご誓文・発表
 【五箇条のご誓文・発表】
西郷隆盛と勝海舟が会見・2日目
 【西郷隆盛と勝海舟の会談・その内容は?】
15 .
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1333
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1577
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1580
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1600
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1868
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1870
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1895
涅槃会
 【釈迦の入滅~涅槃会と涅槃図】
山崎合戦
 【鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦】
織田信長が雑賀衆を攻撃
 【鉄砲を駆使した雑賀の風雲児・鈴木孫一】
駿河・浮ヶ原の合戦
 【あの東郷ターンを生んだ信玄の甲州水軍】
村上天流VS樋口定次の烏川原の決闘
 【村上天流VS樋口定次~烏川原の決闘】
川路聖謨・自刃
 【江戸総攻撃の予定日に散った忠義の幕臣】
靴の記念日
 【日本初の靴製造工場】
平安神宮が創建される
 【千年の思いを込めて創建された平安神宮】
16 1181
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1575
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1600
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1908
墨俣川の戦い
 【平家の圧勝~墨俣川の戦い】
織田信長が今川氏真と対面
 【敵も時代も恨まず…今川氏真の後半生】
三浦按針・日本に漂着
 【そしてヤン・ヨーステンの名は・・・】
松平信綱・没
 【幕府と家光を支えた知恵伊豆こと】
大楽源太郎が斬殺される
 【混乱に散った長州藩士~大楽源太郎】
東京・松屋呉服店が「安売り」を開始
 【日本で最初のバーゲン!】
17 681
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1576
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1628
天武天皇が「日本書紀」の編さんを命じる
 【末梢しきれなかった記紀神話の真と偽】
上杉謙信が富山に侵攻開始
 【信長の動きを受け~謙信が富山侵攻】
御館の乱で御館への総攻撃開始
 【謙信の死後・御館の乱】
 【景虎VS景勝~御館・落城】
小牧長久手の戦いの中盤・羽黒の戦い
 【森長可の屈辱】
朝鮮出兵の先発隊が九州へ向けて出陣
 【豪華!伊達男・政宗の出陣in文禄の役】
安楽庵策伝が『醒睡笑』を提出
 【乱世に笑顔を…落語の祖・安楽庵策伝】
18 720?
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1473
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1560
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1927
柿本人麻呂・没
 【謎が謎呼ぶ柿本人麻呂】
小野小町の忌日
 【美人と言えば…伝説に彩られた小野小町】
 【美人の代表…小野小町、伝説の後半生】
山名宗全・没
 【無骨な総大将~応仁の乱を率いた宗全】
徳川家康の長女・亀姫誕生
 【宇都宮釣天井の仕掛け人】
西南戦争・二重峠戦で佐川官兵衛が戦死
 【佐川官兵衛~会津魂・未だ衰えず】
「青い目の人形」が日本に到着
 【青い目の人形・到着】
19 667
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1513
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1574
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1584
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1615
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1845
近江遷都
 【天智天皇~一大決心の近江大津京・遷都】
毛利元就が志道広良へ起請文を作成
 【毛利を支えた執権・志道広良】
羽柴秀吉が長浜城へ入る
 【豊臣に生まれともに眠った秀吉の城】
小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防
 【小牧長久手~峯城&松ヶ島城攻防戦】
真田幸村が義兄・小山田茂誠に手紙を出す
 【真田幸村・最後の手紙】
酒井忠世が死去
 【徳川譜代の雅楽頭~酒井忠世の失敗】
大関増業が没す
 【大関メッキ開発者~隠れた名君・大関増業】
20 1604
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1864
 .
1873
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1877
黒田官兵衛・没
 【「若者よ!本を読め」~黒田如水の名言】
第二次遣欧使節団がフランス外相と会見
 【池田団長が日本人で初めてした事は?】
明治天皇がまげを断髪する
 【ザンギリ頭を叩いてみれば・・・】
西南戦争で政府軍が田原坂を占領
 【激戦!田原坂・陥落~薩摩の敗因は?】
21 835
 .

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1468
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1585
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1612
弘法大師・没
 【弘法大師没】
和泉式部・没
 【和泉式部・恋のテクニック】
応仁の乱・稲荷山攻防戦
 【足軽登場で戦激変~応仁・稲荷山攻防戦】
豊臣秀吉が紀州征伐を開始
 【根来寺の数奇な運命】
岡本大八事件でキリシタン禁止令を出す
 【岡本大八事件と徳川のキリシタン禁止令】
22 646
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752
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1581
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1584
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1908
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1925
「薄葬令」発布
 【埴輪の使用目的は?】
新羅からの使者が大宰府に到着
 【新羅と日本…古代の関係】
第三次・高天神城の戦い
 【武田滅亡へのカウントダウン~高天神城】
小牧長久手の戦い~岸和田城・攻防戦
 【小牧長久手~岸和田城・攻防戦】
デバガメ事件・発生
 【出歯亀事件・発生】
ラジオ放送・開始
 【放送記念日~初めてのラジオ放送】
23 1238
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1246
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1869
鎌倉の大仏・建立
 【鎌倉の大仏と奈良の大仏】
北条時頼が第5代執権に就任
 【「いざ!鎌倉」~鉢の木と北条時頼】
根来寺炎上
 【根来寺の数奇な運命】
小西行長らが朝鮮と講和のため捕虜送還
 【朝鮮出兵後の関係改善に尽くした宗義智】
小学校の設置を発布
 【登校拒否は当前!明治初めの学校事情】
24 1185
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1352
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1582
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壇ノ浦の合戦
 【潮の流れと戦況の流れ】
 【壇ノ浦・先帝の身投げ】
 【安徳天皇・生存説】
 【平家の勇将・平教経の最期】
 【平知盛の最期】
八幡合戦が始まる(~5/11)
 【南北朝~京都争奪の八幡合戦】
御館の乱で追い詰められた上杉景虎が自刃
 【謙信の死後・御館の乱】
武田戦を労い信長が諸隊に兵糧を支給
 【武田滅亡後の信長…論功行賞と訓令】
沖田畷の合戦で龍造寺隆信が討死
 【沖田畷の戦い~龍造寺隆信の敗因】
 【龍造寺四天王~それぞれの沖田畷】
佐野政言が田沼意知を殺害
 【佐野政言の田沼意知・刃傷事件】
25 649
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1499
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1829
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1869
謀反の疑いをかけられ山田石川麻呂が自害
 【数奇な運命をたどった山田寺】
「安和の変」で源高明が失脚
 【藤原一族最後の陰謀?「安和の変」】
蓮如上人・没
 【元祖イクメンで女性ファン多し~本願寺蓮如】
宮部善祥坊・継潤が没す
 【秀吉に「日本無双」と言わせた男】
シーボルトが将軍・徳川家定に謁見
 【遠く離れても親子の絆~シーボルトとイネ】
宮古湾海戦
 【榎本武揚・3つの誤算~宮古湾海戦】
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1592
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1646
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1914
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1935
近江鈎の陣中で足利義尚が病死
 【母の期待とご落胤…足利義尚の苦悩】
朝鮮出兵の指揮をとるため秀吉が京を出発
 【豊臣秀吉・朝鮮出兵の謎】
柳生宗矩・没
 【政治家・柳生宗矩~忘れえぬ剣豪魂】
上演された「復活」の劇中歌が大ヒット
 【カチューシャの歌に寄せてヒット曲の歴史】
与謝野鉄幹・没
 【ラブソングの帝王・与謝野鉄幹】
27 . 
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1483
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1904
さくらの日
 【お花見の歴史】
 【勝利の聖地・吉野の花見の意味は?】
懐良親王が没す
 【九州南朝で強気外交…懐良親王】
徳川家康の気賀堀川城一揆
 【徹底根絶やし~気賀堀川城一揆】
深沢城・攻防戦の終結
 【武田信玄・強気の深沢城矢文】
水野十郎左衛門成之が切腹
 【チーム旗本奴の水野十郎左衛門成之】
伊達騒動・終結
 【伊達騒動の影に幕府の思惑】
大塩平八郎・爆死
 【めざせ救民!大塩平八郎の乱2】
天狗党・挙兵
 【父の遺志継ぐ藤田小四郎~天狗党誕生】
日露戦争・旅順閉塞作戦で広瀬中佐・没
 【旅順港閉塞作戦に散った広瀬武夫】
28

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1870

平維盛が入水自殺
 【清盛嫡流の誇りと責任…維盛の決断】
東大寺・正倉院の蘭奢待を削り取る
 【信長の蘭奢待・削り取り事件の真意は?】
小牧長久手の戦い~小牧の陣
 【秀吉VS家康の睨み合い~膠着・小牧の陣】
紀州征伐で太田城攻防戦を開始
 【秀吉の紀州征伐~太田城攻防戦】
徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見
 【会見で家康が感じた事】
 【二条城で出された饅頭は・・・】
 【二条城の会見と軍師・白井龍伯】
廃刀令が発布される
 【廃刀令発布】
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1590
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1683
羽柴秀吉が三木城を包囲
 【秀吉包囲網・三木城籠城戦】
 【三木の干殺し~別所長治の籠城戦】
豊臣秀吉が小田原征伐を開始
 【秀吉の小田原征伐開始~山中城・落城】
 【小田原征伐・オモシロ逸話】
八百屋お七が鈴ヶ森刑場で火炙りの刑に
 【八百屋お七と丙午】
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1560
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1573
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1617
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1827
物部守屋が蘇我馬子の仏塔を焼く
 【物部VS蘇我~仏像投げ捨て事件】
 【仏教を否定した河内の老舗豪族=物部氏】
上杉謙信が越中へ攻め入る
 【上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い】
義昭が信長方の京都所司代屋敷を包囲
 【足利義昭~ボロは着てても心は将軍】
江戸幕府が吉原遊郭の開設を許可する
 【遊びの殿堂の誕生・移転】
蘭学者・大槻玄沢が没す
 【江戸時代に西洋式の正月を祝った玄沢】
31 1877
. 
1920
大分県中津の士族が西郷に呼応して叛乱
 【西南戦争で西郷隆盛に呼応した党薩隊】
「日本作曲家協会」設立
 【次世代に残したい歌】
春分
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下旬
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お彼岸の起源
 【ひとりの怨霊を鎮めるために・・・】
 【春の陽気に浮気が?…「今昔物語」】
 【比良八講荒れじまい~近江の昔話】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・18日 観音様の縁日
 【観音様のお話】
鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
毎月・19日 トークの日
 【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
毎月・24日 かつお節の日
 【かつお節の歴史】
愛宕の縁日
 【愛宕神社のお話】
地蔵の縁日
 【お地蔵様のお話】
毎月・25日 天神の縁日
 【菅原道真・没】
毎月・26日 風呂の日
 【お風呂の歴史】
毎月・28日 鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
不動明王の縁日
 【不動明王のお話】
毎月・30日 みその日
 【お味噌の歴史+味噌天神のお話】
毎月・末日 そばの日
 【お蕎麦の歴史】

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2008年1月28日 (月)

1月28日は「初不動」、不動明王のお話

 

毎月28日は『不動明王の縁日』です。
中でも、1月28日『初不動』という事で、今日は『不動明王のお話』を・・・。
(1月は「初○○」が多いな・・・(^o^;))

・・・・・・・・・

そもそも、明王というのは、国や人民、仏法や信者を守る天の仏神で、大日如来の命を受けて、悪を退治するところから、多くは怒りの形相をしています。

不動明王・降三世明王・軍茶利夜叉明王・金剛夜叉明王・大威徳明王五大明王と呼ばれ、その中でも、大日如来の化身(裏側)とされて、一番有名なのが『不動明王』です。

サンスクリット語のお名前は阿修羅(アシュラ・Acala)で、これが「動かない」という意味なので訳して不動です。

『不動』とは、「道心の大にして寂(しず)かなるの義」だそうで(なんでこんな難しい表現のしかたするかな~(汗))「見ため穏やかに微動だにせず、それでいて心の中は道心(正しい道を求める心)を大きく」という事らしいです。

『大日経』という仏典では、仏教の守護神として、明王の中でも最高位の位置に、不動明王を置いています。

顔が四面あったり、手が4本あったりという異形のお不動さんもおられますが、多くは、左手に絹索(けんさく・縄)を持ち、右手に剣を持っています。

これは、左手の縄で悪しき心を縛り、右手の剣で悪しき心を断つためです。

右手に持つ剣は『黒龍の剣』で、この剣が不動明王の化身として独立したのが倶利伽羅(くりから)竜王・・・倶利伽羅竜王が剣に巻きついた像は倶利伽羅不動として、不動明王とは別に祀られている事もあります(2月21日参照>>)

不動明王はその髪を七つに結んで垂れさせていますが、これは古代インドの奴隷の髪型で、その身にまとった衣も奴隷の姿をしています。

その意味は、外見の醜さをものともせず、内面の美しさを重視しなければならないという事を教えるとともに、奴隷が荷物を運ぶように、迷える人々を悟りの岸(彼岸)へ導く事を現しているのだとか・・・。

後ろに火を背負っているのは、火生三昧(かしょうざんまい・火渡りのような捨て身の行の事)に入っても不動である事を象徴し、座っている石に水が流れているのは、その清らかな水で、人々の火のような苦しみを流し消すという意味が込められているそうです。

悪しき悪魔を断ち切るため、恐ろしい形相の不動明王は、人が道を踏み外した時に、すべてを包み込むように諭す大日如来に対して、叱咤激励して正しい道に導いてくれる・・・その表の顔と裏の顔は別々でも、心の内は同じなのです。
 

Fudoumyououcc 久しぶりにイラストを書いてみました~。

今日は、もちろん『不動明王』で・・・。

仏像ではなく、人物として描いてみましたが・・・
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2008年1月27日 (日)

迷宮入り?将軍・実朝暗殺事件の謎

 

建保七年(承久元年・1219年)1月27日、鎌倉幕府・第3代将軍・源実朝が、甥・公暁によって暗殺されました。

・・・・・・・・・・・

正治元年(1199年)1月13日、源頼朝という大黒柱を失った鎌倉幕府(12月27日参照>>)

その第2代将軍は頼朝と北条政子の息子・源頼家に決まりますが、あの日「打倒平家!」を掲げて、頼朝と苦楽をともにした御家人たちにとっては、頼家など、まだまだ若造です。

そこで、同じ年の4月12日・・・頼朝時代からの13名の重臣を「宿老」という役職に定めて、その13人による合議制で政治を行う事になるのです。

考えて見れば、当時としては画期的かつ、実に先進的なシステムです(4月12日参照>>)

しかし、鎌倉幕府にとっては、これが良くなかった・・・。

この合議制によって、将軍のリーダーシップは失われ、常に、力のある御家人の思惑に左右されてしまう事になるのです。

そうなると、当然の事ながら、そのトップの座を誰もが狙うようになり、御家人同士の足の引っ張り合いが発生します。

頼朝の死後、わずか一年で、頼家のお気に入りだった梶原景時を宿老全員で、よってたかって抹殺したのを皮切りに(1月20日参照>>)壮絶な追い落とし作戦が開始されます。

そんな中、ここに来て力をつけてきたのは、頼家の嫁・若狭局の実家の比企氏です。

その状況がおもしろくないのは、初代・頼朝の嫁・北条政子の実家・北条氏

特に、政子の父・北条時政は、この先、北条氏が実権を握るべく、孫にあたる頼家に、幼い頃から将軍となるべき教育をほどこしてきたにも関わらず、嫁にベタ惚れの頼家が、二人の間に生まれた息子・一幡(いちまん)に後を継がせたいと思い始めた事が許せません。

その一幡にすべてを持っていかれたら、それこそ嫁の父親の比企能員(よしかず)に、御家人トップの座も持っていかれてしまいます。

ちょうど、その頃、頼家が重い病気にかかったドサクサで、時政は、政子のもう一人の息子・・・つまり頼家の弟・千幡を、一幡の対抗馬として押し出すのです。

この千幡が、実朝(さねとも)です。

そして、うまい口実をつけておびき出した能員を騙まし討ちにした北条氏は、さらに比企氏を追い込み、一幡もろとも比企氏を滅亡へと追いやり(9月2日参照>>)、まんまと実朝を第3代将軍とし、時政は、その後見人として初代・執権の座を射止めます。

やがて、病状が快復した頼家でしたが、時すでに遅し・・・北条氏によって幽閉され、比企氏滅亡の一年後に暗殺されてしまいます(7月18日参照>>)

その後、有力御家人の一人だったライバル・畠山重忠を倒した(6月22日参照>>)北条氏は、老いた時政に代わって、政子の弟・北条義時が第2代・執権となりますが、この時に、再び事件が起こります。

信濃の住人・泉親衡(ちかひら)が、亡き頼家の三男・千寿丸を奉じて、北条氏を倒そうとしたのです。

しかし、この謀反は未然に発覚・・・しかも、この一件に関与していたとして、有力御家人の一人で、実朝のお気に入りだった和田義盛を、一族もろとも抹殺してしまいます(5月2日参照>>)

最大のライバルであった義盛を倒した事にによって、御家人トップの座を不動の物とする北条氏・・・残る有力御家人は、この義盛の乱の時に、真っ先に相談にのっておきながら、寸前で北条に寝返った三浦義村三浦氏ぐらいになってしまいました。

そんな中で起こったのが、今日の事件・・・実朝暗殺です。

建保七年(1219年)1月27日鶴岡八幡宮に参拝した帰り道、襲われた実朝は、わずか28歳で、その命を落とすのです。

実行犯は公暁(くぎょう)という20歳の僧・・・(2013年1月27日参照>>)

実は、彼は頼家の遺児・・・つまり、長男・一幡と三男・千寿丸の間に生まれた頼家の次男なのです。

父も兄も弟も殺されているわけですから、そりゃ、恨みもつのりますわな。

しかし、この事件・・・「犯人=公暁」「動機=怨恨」であっさりと収まる事件ではなく、推理小説さながらの複雑な要素が絡みあっているのです。

もちろん、実行したのは公暁に間違いないわけですが、果たしてそれが、単独犯なのか?それとも黒幕がいるのか?いるとしたら誰なのか?という事です。

実は、この時、実朝とともに、従者として付き添っていた源仲章(なかあき)も殺されているのですが、本来、ここには、北条義時が付き添う事になっていたのです。

しかし、義時は参拝の直前に、体調不良を訴え、急遽、仲章に、その役を交代してもらっているのです。

それは、ひょっとしたら、事前に、この日、公暁が犯行に及ぶ事を知っていたからではないか?という事です。

北条氏が擁立した将軍・実朝を?・・・と思ってしまいますが、その前の頼家だって、もともとは北条氏の息のかかった将軍です。

「その将軍が、思い通りにならないのなら、いっその事抹殺して、お飾りの将軍を仕立てて北条氏自らが実権を・・・」と考える事も、ありえないとは限りません。

しかも、この日、言わば義時の身代わりとなって殺されてしまった仲章は、もともと後鳥羽上皇に仕えていた人物で、実朝のヘッドハンティングによって鎌倉幕府の役人になったものの、未だ朝廷とは太いパイプがあります。

後鳥羽上皇は、この二年後に、あの承久の乱(5月14日参照>>)を引き起こす人・・・この時から、北条と仲が悪かったのは目に見えていますよね。

つまり、言う事を聞かなくなった実朝を殺すと同時に、うっとうしい後鳥羽上皇の信頼厚い仲章も亡き者にしようと考えた義時が、恨みを抱く公卿を操って暗殺を決行させた?という事です。

しかし、しかし、鎌倉幕府の正史とも言える『吾妻鏡』には、『公暁が犯行を行った時、「義時!」と叫びながら仲章を斬った』と書かれています。

つまり、彼は、実朝の横にいる人物が、義時ではない事を知らずに斬った事になります。

実朝を恨んでいるのなら、北条を恨んでもいるでしょうから、本当の狙いが義時だったかも知れないというのは、当然と言えば当然です。

そして、実朝殺害後、彼はミョーな行動をとります。

三浦義村に会いに行くのです。
そう、あの和田義盛の乱で、北条に寝返って、御家人として生き残った義村です。

彼は、「義村を頼って、次期将軍なろうとしていた」とも言われていますが、そんな公暁は、将軍殺害犯として、あっさりと義村に殺されてしまいます

このことから、ひょっとしたら黒幕は義村で、実朝と義時を殺害するはずが、義時の殺害に失敗し、その事が発覚する前に実行犯の公暁を斬ったという推理も成り立ちます。

とにかく、この義村がすぐに公暁を殺してしまった事で、単独犯かどうかさえもわからなくなってしまうわけですから・・・。

しかも、実朝と義時=北条氏が、目の上のタンコブだと思っているのは、三浦氏だけではありません

北条が大物を抹殺し続けたとは言え、まだまだ御家人は他にもいるわけですから、そうなると、鎌倉幕府に関わる人物の全員が怪しい・・・ひょっとしたら、アガサ・クリスティの小説のように、全員が犯人という可能性さえあるのですから・・・。

・・・にも関わらず、「公卿は実朝の隣の人物を義時だと思って斬った」と書いている先ほどの『吾妻鏡』では、「私的な怨恨による公暁の暴挙」と、単独犯説を主張しています。

果たして、真実はいかに・・・?

いずれにしても、この実朝の死によって、源氏の血統は、わずか3代で途絶える事となり、以後、飾り物の将軍の隣で執権・北条氏が実権を握る事になります。

・・・て、事は、一番得をしたのは北条義時・・・なら、やっぱり・・・って、これぞまさしく迷宮入りです。

*謎が謎よぶ・・・このお話の続きは2009年1月27日の【実朝暗殺事件の謎パート2】へどうぞ>>
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2008年1月26日 (土)

「風呂の日」なので、お風呂の歴史

 

今更ながらではありますが、毎月26日は、「ふ(2)」「ろ(6)の語呂合わせで、『風呂の日』・・・という事で、今日は「お風呂の歴史」を書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・

現在では、お湯を浴びて身体を洗い、湯船のお湯に入る事を『風呂』と言いますが、奈良・平安の昔から風呂というのは蒸気で蒸される「むしぶろ」の事で、お湯に浸かる湯船のある物は『湯屋・湯殿』と呼ばれる別物でした。

最初は原始的な蒸気浴であったそれが、徐々に発展して、すのこを敷いて密室にした部屋に、お湯を沸かして立てた蒸気を導くというやり方で、発汗した身体は、同じ室内や、隣に設けられた『陸(おか)湯』で流すという・・・まさにサウナ状態ですね。

これに対する湯殿は、湯船があって、そこに入浴するわけですが、当然の事ながら、湯船に燃焼装置を取り付けた物ではなく、お湯を沸かして桶などて汲みこんだり、(とい)などで引き込んだりしていました。

有名なところでは、「東大寺の大湯屋」周防(山口県)「田尻阿弥陀寺の切石風呂」などですが、大小の差はあれ、これらのお風呂は後乗坊重源という人が考案した方式で、湯船用のお湯を焚く、釜の火力をお風呂の室内にも利用した物で、昔の原始的なお風呂に比べて、約半分の薪で済んだ事から「大湯屋の宝」と称され、多いにもてはやされました。

これらの鉄湯船から発展したのが、いわゆる『五右衛門風呂』

あの石川五右衛門が、その形の鉄湯船で釜煎りされた(8月24日参照>>)事から、そう呼ばれるようになりました。

Syoukokuziyokusitu26nohicc いずれにしても、浴室を各自で備える事ができるのは、貴族や武家や寺院に限られていて庶民には到底ムリでした。

しかし、その分共同浴場は古くからありました。

以前、このブログでも書かせていただいた光明皇后(4月17日参照>>)をはじめ、貴族や寺院や幕府が、その徳を誇示する手段・・・いわゆる庶民の人気取りの一環として、貧しい人や病人・囚人に対する浴場施設を建設したりしたのです。

室町時代には、このようなお風呂を「功徳風呂(くどくぶろ)と呼んでいたそうですから、まさに、福祉のために造られたのがお風呂という感じだったんでしょうね。

それでも、室町時代頃までは、もっぱら「むしぶろ」のほうが主流であったお風呂が、しだいに「半蒸半浴場」となり、ご存知のように江戸時代に入って大流行する事になります。

この頃から、お風呂と湯屋の区別も無くなってきます。

そして、有名な『湯女(ゆな)・・・身体を洗ってくれる女性も登場するのです。

身体を洗ってくれる女性と聞くと、「対男性専門」のように思っていまいますが、この頃はまだ男女混浴ですから、別に専門という事も無かったんでしょうね。

ちなみに、この男女混浴だったのは、単に男女に分けて別々の湯船に湯をはると光熱費が倍になるから・・・という理由だけだったらしいですね。

ただし、今、ニンマリした男性陣に申し上げていきますが、それは、私たちが、「混浴」と聞いて思い浮かべるような状況の混浴ではありませんよ。

なんせ、江戸の初めの頃は、下帯や腰巻をして入るのが普通でしたから、残念ながら、それほどのお楽しみはありません。

しかし、何事も徐々にエスカレートしていくのが世の常・・・。

悲しいかな、その気持ち良さから湯女に手を出す者が出始め、湯女は湯女のほうで、湯からあがった後、お酒やお茶の接待までして、あげくの果てには、その肉体をすりよせて大サービスする者も現れ、あの吉原をしのぐ勢いとなってしまいます。

そうなると、当然の事ながら、お上からの禁止令・・・明暦三年(1657年)に湯女を廃止します。

しかし、何事も徐々にエスカレートしていくのが世の常・・・。

悲しいかな、今度は湯の中で女性にいたずら・・・つまり痴漢行為をする者が現れ始め、寛政三年(1791年)に、ついに混浴の禁止令が発令されます。

とうとう、湯屋は入浴するだけの場所に・・・
と思いきや、そうではありません。

湯屋には、その二階に、今で言うところのレストルーム・・・休憩するための広い座敷があるのが常でした。

そう、お色気は無くなりましたが、ここで、顔なじみの者と将棋を指したり、囲碁を打ったり、お茶を飲みながら噂話に花を咲かせたり・・・これが、けっこう・・・いや、実際に風呂に入る以上に楽しみなんです。

ここには、お茶はもちろん、歯磨き粉や膏薬などのくつろぎグッズも売られていますし、時には生け花教室や俳句会なんかのイベントも開かれたりなんかして、まさに庶民の社交場。

ただし、無料ではなく、少々の利用料がかかりました。

しかし、それは、銭湯の入浴料と同額くらいの金額で、当時の庶民にとっても、さほど負担となる額ではなく、むしろ、その金額で楽しめ、果ては江戸で最先端の情報を入手する事ができるのですから、風呂に入らずにそこだけを利用する者もいたとか・・・。

どうやら、このあたりから、私たちの知っている銭湯のイメージ通りのお風呂になってきたようですね。
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2008年1月25日 (金)

菅原道真は学者じゃない?その策謀的政治手腕

 

延喜元年(901年)1月25日、右大臣だった菅原道真が、第60代・醍醐天皇の命によって大宰府に左遷された事により、1月25日は『左遷の日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・

・・・って、人の不幸を記念日にしちゃっていいのか?
という疑問が残りつつも、今日のこの日に左遷された菅原のミッチャン・・・もう、皆さんご存知のように、復帰を訴え続けながら、赴任先の大宰府で非業の死を遂げ、その後、立て続けに起こった悪しき出来事によって、日本三大怨霊の一人に数えられるようになり、恐怖におののいた人々から『天神様』として祀られました(6月26日参照>>)

怨霊だった天神様が、やがては学問の神様として、多くの受験生の心の支えとなっているのも、ひとえに菅原のミッチャンが、学問一筋のマジメ人間だったというイメージが定着しているからでしょうね。

そんな学問一筋のマジメな人が、ワナにはめられた感満載で、左遷となり失意のまま死を迎える・・・だからこそ、そこに怨霊伝説が生まれ、祀られた後も、そのマジメさゆえに、学問の神様となる・・・。

確かに、菅原道真は、代々学者の家に生まれ、本人も学問肌である上に、当時としては異例の遅咲き、47歳までは、ただの国司だったわけですから・・・。

でも、その遅咲きには、当時は藤原一族全盛の時代であって、菅原家は、はなから出世コースには乗れないという背景もあったわけです。

しかし、そんな背景がありながらも、異例の遅咲きが異例の出世をし、最終的に右大臣まで、上りつめるのですから、そこには、「学問一筋のカタブツ」ではない何かを、彼は持っていたのでは?と、思えてなりませんねぇ。

彼の出世の糸口は、第59代・宇多天皇に重く用いられた事に始まるのですが、では、彼はどうやって宇多天皇の心を掴んだのか?

実は、宇多天皇が即位して間もなくの頃、藤原北家の藤原基経(もとつね)を関白に任命しようと、『阿衡(あこう)に任ず』という勅書(天皇の命令書)を出したところ、「阿衡とは位だけで、職をともなわない」として、基経は朝廷へ出仕しなくなったのです。

つまり・・・「上司が変わったんで、出社拒否ししゃいま~っす」てな感じです。

これを基経に進言したのは、基経に可愛がられていた学者の藤原佐世(すけよ)でした。

もちろん、宇多天皇にはそんなつもりはありません。
単に、当時普通に使われていた摂政・関白の異名として阿衡を使用しただけ・・・というか、この勅書の下書きをしたのが、天皇のお抱え学者の橘広相(ひろみ)という人・・・。

この広相は、自分の娘を宇多天皇の女御としていて、まさに学者界のトップを行く人なのです。

要するに、佐世が学者界のトップの座を狙い、ライバルを陥れようと、重箱の隅をつつくような「あげあし」をとった・・・というのが真相ぼようです。

結局、宇多天皇が「勅書の『阿衡に任ず』は自分の本意ではない」という内容の宣言をして、事態は丸く納まるのですが、基経のゴネ得、上であるはずの天皇が敗北感を味わう結果となってしまったのです。

この時、讃岐(香川県)に赴任していた道真は、宇多天皇の心の内を読み取り、基経に長い手紙を送ります。

そこには、基経をいさめるとともに、広相を養護する内容が書かれてあったと言います。

そう、彼は宇多天皇が言いたくても言えなかった事を、やりたくてもできなかった事をやってのけたのです。

この一発で、宇多天皇のハートをバッチリ掴んだ道真は、任期を終えて、讃岐から京へ戻った瞬間から、異例の出世を遂げていくのです。

それは、まさしく藤原一族が、その地位を犯されるのではないか?と恐怖を抱くほどの出世です。

そんな藤原氏が考えた「宇多天皇と道真の切り離し作戦」遣唐使の再開だったのです。

ここんとこ休んでいる遣唐使を再開して、その遣唐大使として道真を任命し、外国へ追い払ってやろうというのです。

しかし、道真はバッチリ防御します。

それが、寛平六年(894年)の、あの「白紙(はくし=894)に戻そう遣唐使」でお馴染みの、遣唐使の完全廃止です。(9月30日参照>>)

確かに、宇多天皇を納得させるだけの理由をつけてはいますが、なんだかんだ言っても、自分が任命された途端の廃止論提出です。

とてもじゃないが、学問一筋・世渡りべたのマジメ人間のする事ではありません。

さらに、その間に、娘を宇多天皇の息子・斉世親王に嫁がせています。

しかし、これが彼の命取りになるのです。

宇多天皇の後を継いで天皇になったのは、斉世親王ではなく、その兄の敦仁親王=醍醐天皇だったのです。

これは、ひょっとしたら道真の判断ミスかも知れません。

・・・というのも、この醍醐天皇の即位は、異例中の異例なのです。

そもそも、宇多天皇の父・光孝天皇にはたくさんの息子がいて、あまりに多いため、その中ほとんどの人がの姓を賜って臣籍に下っているのですが、第七皇子だった宇多天皇もその一人だったのです。

たった3年間ではありましたが、宇多天皇は、天皇家から離脱し、源氏を名乗っていた・・・実は、醍醐天皇はその時期に生まれた子供なのです。

天皇家を離脱していた時に生まれた子供が皇位を継承するのは、後にも先にも、この醍醐天皇以外に例はありません。

この時の道真のホンネは、「まさか兄の敦仁親王が皇位を継承するとは、思っていなかった」って感じかも知れませんね。

しかし、それでも、この時点ではまだ道真が失脚したわけではありません。

醍醐天皇も父・宇多天皇同様、道真をあつく信頼していましたから、昌泰二年(899年)2月14日には、この醍醐天皇のもとで道真は右大臣に任命され、人生の頂点となるのです。

しかし、この時、同時に左大臣になった藤原時平は、道真の判断ミスを見逃しませんでした。

「道真はあなたを失脚させて、弟の斉世親王を皇位につけようと画策している」
時平は、醍醐天皇にこう進言するのです。

実際に、道真の娘が斉世親王に嫁いでいる事が、逆にこの話に信憑性を持たせてしまいます。

醍醐天皇の道真を疑いはじめた気持ちは、もう止まりません。
・・・で、結局、延喜元年(901年)1月25日右大臣・菅原道真は大宰権帥(だざいごんのそつ)として、大宰府に左遷されるのです。

「なんだ、やっぱり無実の罪じゃん」
・・・と思うのは、まだ早い・・・

道真は、後に、大宰府に道真を訪ねていった藤原清貫(きよつら)に、
「自分からは誘ってはいないけど、源善(みなもとのよし)から、醍醐天皇の失脚を誘われて話し合った事がある」
と、告白しています。

つまり、具体的に行動こそ起していませんが、その気持ちはあったという事になります。

こうなると、もはや、政治と無関係の悲劇の学者ではありません。

菅原道真は、れっきとした政治家・・・それも様々な策略を張り巡らし、己の出世を夢見た人。

ただ、政治家同士の権力闘争に負けてしまったという悲劇はつきまといますが・・・
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2008年1月24日 (木)

1月24日は「初愛宕」、愛宕神社のお話

 

毎月24日『愛宕の縁日』・・・中でも、今日1月24日『初愛宕』という一年で最初の愛宕の縁日。

・・・という事で今日は『愛宕神社』について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

あの十返舎一九『東海道中膝栗毛』にも、そして、『浄瑠璃・糸桜本町育(いとざくらほんちょうそだち)にも、
「伊勢へ七度ななたび)、熊野へ三度(みたび)、愛宕様へは月参り・・・」
と、まったく同じフレーズが登場します。

どうやら、これは江戸時代の当時、今で言うところの流行語大賞となるような大ヒットのフレーズらしい・・・。

もちろん、フレーズが流行っただけではなく、実際に愛宕へお参りするのも、かなりのブームだったようです。

Atagozinzyatizucc 愛宕・愛当・愛太子・阿多古・愛宕護・・・と書いて、すべて「あたご」と読みますが、これら日本の各地に点在する愛宕神社のおおもとは、京都市右京区嵯峨愛宕町愛宕山の山頂にある愛宕神社です。

古くから『愛宕権現』の名で親しまれ、多くの信仰を集めた愛宕山は、比叡・比良・伊吹・神峰(しんぽう)・葛城・金峯(きんぷ)とともに『七高山』と呼ばれていた霊山でした。

あの桓武天皇が、怨霊から身を護りたい一心で究極の魔界封じをほどこした京の都(10月22日参照>>)では、東の比叡山とともに、西の愛宕山が王宮守護の神とされていました。

あの徳川家康も、慶長八年(1603年)に江戸城に入ってすぐ、城の西方、芝の小山に、京都の愛宕大権現を分霊して愛宕神社を建立し、江戸の護りを固めています
(江戸の場合の東の護りは、東叡山寛永寺となります)

明治の始めの神仏分離によって、お寺を廃し、本宮の祭神は稚産日科(わくむすびのかみ)伊弉冉尊(いざなぎのみこと)で、若宮には雷神(いかづちがみ)火之迦具土命(ほのかぐづちのみこと)を祀って、名称も愛宕神社となりましたが、それ以前は、真言宗の白雲寺を別当寺として、勝軍地蔵泰澄大師不動明王毘沙門天竜樹菩薩の五尊をお祀りし、奥の院には、役行者宍戸司前(ししどしぜん)太郎坊栄術を祀り、愛宕山大権現と呼ばれていました。

先の五尊の中でも、本尊とされていた勝軍地蔵は、冥界と現世の境界線に立って、人々を護ってくれるという菩薩で、以前、『左義長の由来』のページ(1月14日参照>>)でも書かせていただいた日本古来の「さいの神」と同じ性格を持つ神様だと言われています。

やはり、昔は丹波との国境であったこのあたりに祀られたというのも、ここで、災いをくい止める・・・災難除けの意味合いが大きかったのでしょうね。

その頃は、お山には六つの宿坊があり、京都・嵯峨の大覚寺が管理する修験の道場でもありました。

今も、毎年9月28日の愛宕神社の例大祭に行われる、お神輿の大覚寺参拝は、この名残だそうです。

その他にも、京都では、3歳になった子供が、この愛宕山にお参りすると、一生涯、火からの災難に遭わないとされていたり、7月31日の『千日詣り』の日に参拝すると、日頃の千日分の御利益があるとして、現在でも多くの信仰を集めています。

大和朝廷が成立する以前から、そして、仏教が伝来する以前から、日本にあった神々への信仰・・・あらためて京都の長い歴史と伝統を感じさせてくれますね。
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2008年1月23日 (水)

危機一髪!坂本龍馬・寺田屋事件

 

慶応二年(1866年)1月23日、伏見の船宿・寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行配下の捕り方が襲撃・・・世に言う『寺田屋事件』です。

・・・・・・・・・・

Ryoumateradayacc 世に『寺田屋事件』と呼ばれるものは、二つあります。

一つは以前、書かせていただいた文久二年(1862年)に起こった薩摩藩士同士による殺傷事件(4月23日参照>>)・・・こちらは、『寺田屋騒動』と呼ばれる事もあります。

そして、もう一つは今日の話題、慶応二年(1866年)1月23日に起こった伏見奉行所による坂本龍馬の逮捕劇・・・でも、こちらも『寺田屋騒動』と書いてる本もいくつか・・・もう、ややこしい・・・どっちがどっちかに統一してほしいモンです。

さてさて話は、このところ、犬猿の仲だった薩摩長州・・・。

なんせ、あの『蛤御門の変』(7月19日参照>>)でも、『第一次長州征伐』でも、薩摩は先頭になって戦い、そのため長州藩は多くの犠牲者を出しています。

たった2年前の事ですから、たとえその間に、薩摩が討幕派に変わったとしても、長州の根強い恨みが消えるわけもありません。

ちょうどその頃、薩摩藩の出資で海軍兼商社の海運会社=亀山社中を立ち上げ、その社長に納まっていた土佐出身の坂本龍馬は、武器や軍艦などの調達を一手に引き受けていました。

それにしても、同じ討幕派同志が犬猿の仲では、到底、幕府を倒す事はできません。

ここは、一つ薩摩と長州に仲良くなってもらうしかない・・・まぁ、そうすれば武器も売れて亀山社中は大儲け

いや、もちろん龍馬さんには、もともと高い理想があった事でしょうが、とにもかくにも、彼は、友人の中岡慎太郎とともに薩摩と長州の仲人として奔走します。

その甲斐あって、慶応二年(1866年)1月21日、薩摩の西郷隆盛と、長州の桂小五郎の間で、討幕への方針が一致し、『薩長同盟』(1月21日参照>>)が結ばれる事になるのです。

これで討幕への第一歩を踏み出しました。

Ryoumateradayaumenomacc その2日後の1月23日の夜の事です。

京都・伏見の船宿・寺田屋に潜伏していた龍馬を、伏見奉行所の捕り方が取り囲みます。

坂本龍馬、最大のピンチです。

ちょうどその時、お風呂に入っていた寺田屋の養女・お龍

入浴中に、外で物音が聞こえ、気になって外を見ようとしたところ、風呂の外からヤリが突きつけられます。

Teradayamitorizucc

慌てて真っ裸で外に出たところ、裏口から入ってきた役人に
「裏から二階へ上がれるか?」
と、尋ねられます。

このお龍さんは、この時、すでに龍馬とは内々の結婚式を挙げている仲・・・「愛しいダンナの大ピンチ」とばかりに、とっさに機転をきかせて・・・
「裏からはムリ!表の入り口から入って左手の階段を使って!」
と、嘘の情報を流します。

Ryoumateradayaofurocc ・・・で、捕り方が表に回っている隙に、風呂の前の通路から洗面所の横の裏階段を駆け上がり、二階の「梅の間」にいた龍馬に知らせに行きます。
 

Ryoumateradayayanecc 知らせを聞いた龍馬は、一つ隣の部屋から、一階の屋根に飛び移りここでピストルを発砲して捕り方を威嚇し、屋根から裏へ飛び降りて、裏木戸から外へ出て、裏の家を通って脱出します。

どさくさで軽傷を負った龍馬は、近くにあった材木小屋に身を潜め、その間に、ともにいた長州藩士・三吉慎蔵(みよし しんぞう)薩摩屋敷に駆け込み、救援要請・・・薩摩屋敷が船を出して、龍馬を救出しました。

この後、西郷の宿所で一ヶ月間、傷の療養に専念します。
もちろん、かのお龍さんの手厚い看護のもと・・・。

その後、西郷の勧めもあって、療養を兼ねてお龍さんと二人で九州旅行・・・これが、日本初の新婚旅行?(ホネー・ムーン)だなんて話は有名ですね。

ただし、正式に結婚していれば・・・ですけど。
なんたって内々の結婚式=内縁だし、それも、お龍の証言だと2年も前なので、新婚がどうかも微妙・・・(どうやら、この九州旅行が日本初の新婚旅行という話は、司馬遼太郎氏があの『竜馬がゆく』の中で披露した戯言のようで…そもそも桂小五郎や小松帯刀が奥さんと旅行した方が時期的にも早いですし…)

しかも、坂本龍馬と言えば、奥さんはお龍さん・・・とドラマでも、ほとんど、この人しか出てきませんが、実際には、龍馬さんには、他にも「奥さん」と呼ばれる方がチラホラと・・・(2009年11月15日参照>>)

あの暗殺の日にも、実は別の彼女を「部屋に来い」と誘っていますしね。(彼女は仕事のため断って、難を逃れました)

そんな、夢の無い話を・・・と、ついでに夢の無い話と言えば、上記の捕物事件の現場となった寺田屋。

お龍さんは風呂から階段を上がって、龍馬は屋根に飛び移り・・・と寺田屋の見取り図を書かせていただき、寺田屋の主張通りに紹介させていただきましたが、この寺田屋は、どうやら鳥羽伏見の戦いで消失し、風呂や部屋を含む現在の建物は、明治に隣の敷地に建て直された別物・・・という事で・・・。

*追記:2008年2月5日付けで、京都市は『現在の寺田屋は明治以降に再建されたもの』との鑑定結果を発表しました・・・上記の寺田屋内での細かな描写は、あくまで寺田屋側の説明としてご理解ください。
ちなみに、現在の寺田屋の隣に京都市所有の空地
(現在の寺田屋の庭みたいになってるww)が、幕末に寺田屋が建っていた場所で、そこには維新後に元薩摩藩士たちによって建立された「寺田屋騒動」(冒頭に紹介させていただいた薩摩藩士同士による事件です)の慰霊碑が建っています。

いやしかし、私は真実を探求する歴史家ではありませんので、今日のところは、龍馬さんの危機一髪をドラマチックに・・・お龍さんは、龍馬の最愛の妻で、あの刀傷も含め、寺田屋もおっしゃる通りに存在したと、考えておく事にしておきましょう。

京都伏見の散策と、寺田屋への行き方はHPでどうぞ>>
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2008年1月22日 (火)

幕末・「遣欧使節団」珍道中

 

文久二年(1862年)1月22日、竹内下野守保徳を正史とする「文久遣欧使節団」が、イギリス軍艦オーディン号に乗り、品川港を出航しました。

・・・・・・・・

万延元年(1860年)に、例の咸臨丸「遣米使節団」を派遣した日本。(2月26日参照>>)

その後、イギリスフランスの公使から「ウチには来ないの?」との催促を受け、2年後の文久二年(1862年)1月22日竹内下野守保徳を長とする38名が、ヨーロッパに向けて旅立つ事になったのです。

彼らの一番の目的は、当時、ヨーロッパ諸国から要求されていた江戸・大阪・兵庫・新潟の各港の開港の延期を直談判する事。

そして、現地では、樺太(からふと)国境問題についてのロシアとの会談も予定されており、なかなかの重大任務を背負ってのヨーロッパ行きでした。

しかし、そんな重大な任務にも関わらず、案の定、あの咸臨丸に負けず劣らずの珍道中をやらかしてくれるのです。

・・・というのも、そもそも二つのグループに分けられる今回のメンバー・・・

一つは、渡米経験もありオランダ語にも長けていた福沢諭吉(当時29歳)や、後にジャーナリストとなる福地源一郎(桜痴・おうち・当時22歳)といった新進気鋭の若手のグループ・・・彼らは、外国の事情にもくわしく、言わばサポート役です。

もう一つは、先ほどの重要任務を背負ったお歴々・・・任務が重要なので仕方ないのですが、彼らは、旗本の殿様クラスの重鎮たちばかりのグループ

お察しの通り・・・この頭カッチカチの殿様たちが、イロイロと、しでかしてくれるのです。

すなおに外国の事情に精通している若手たちのアドバイスを聞けば良い物を・・・本来、彼ら若手はそのためにいるんですからねぇ。

なのに、ちっとも若手の言う事を聞かなかった事で、彼らの旅は大騒ぎの連続となるのです。

もう、ゴタゴタは出発前から始まります。

出発のいでたちは、甲冑に身を包み、ヤリをひっさげてのご登場・・・さすがに、これは、若手メンバーが何とか止めましたが、その荷物を見ると、米や醤油やお味噌まで・・

それを、見つけた福地が必死に止めようとすると、「このケツの青い若造が何をぬかすか!」と逆ギレ状態・・・「まぁ、ヤリと違って危険物ではないので」と、ここは福地のほうが大人になって折れ、とりあえず出発はしたものの、案の定、シンガポールのあたりで、お味噌の入れ物から異臭が・・・

・・・で、かの殿様は、入れ物ごとお味噌を海へ投げ捨てて、一言・・・「味噌は竜王に献上した」
・・・だそうです。

では、お米はどうなったのか?
これは腐りませんからねぇ。

かの殿様たちが「本陣」と呼んだパリのホテルでは、夜な夜な山海の珍味が登場し、これがまた、けっこうおいしく、皆、喜んで食べまくりで、お米なんて炊く必要も無し。

しかも、殿様たちはご丁寧に、お米だけではなく、炊くに必要な道具一式を持ってきていたものだから、この先、ヨーロッパ各地を回るのにも、荷物になってしょうがありません。

結局、お米と道具一式は、ホテルの接待係のボーイにタダで貰っていただいたのだとか・・・若手の面々から見れば、「だから、出発前に止めただろうが!」って感じでしょうね。

しかし、そんな事より、一番、大迷惑だったのが、トイレです。

ホテルのトイレを殿様がお使いあそばさる時は、数人の侍がSPよろしく、刀に手をかけた戦闘状態でスタンバイ。

様式トイレの使い方がわからない殿様は、便器に腰をかけずに、当然のごとく、上におまたがりあそばします。
もちろん、ケツをこっちに向けて・・・

不安定な便座の部分に足を置いてしゃがむ事になるので、側近の者が「ぼんぼり」を持って、その部分を照らします。

しかも、ドアを全開にして・・・

当時は、各部屋にトイレが・・・という形ではなかったので、トイレの前のローカを通る外国人は、この奇妙な光景に腰もぬかさんばかりです。

この時は、あの福沢諭吉が通りがかり、あわててドアを閉めたのだとか・・・

いやはや、やってくれますね~殿様・・・。

しかし、肝心の殿様は、諭吉がなんであわてているのか、まったく理解できなかったそうですよ。

何事も初めての時は、経験者の話をちゃんと聞かなければ・・・ですね。
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2008年1月21日 (月)

巴御前~木曽義仲からの最後の使命

 

寿永三年(1184年)1月21日、源頼朝の命を受けた義経と戦った木曽(源)義仲が琵琶湖のほとり・粟津で敗死しました

・・・と、実は昨年の今日も、木曽義仲・討死をテーマに書かせていただきました。(昨年のページ参照>>)

昨年は、木曽義仲と乳兄弟である今井四郎兼平の主君と家臣の愛情、散り行く者への涙を誘う場面を、『平家物語』に沿って書いたのですが、今回は、義仲の愛妾・巴御前にスポットを当てた『源平盛衰記』を中心にした内容でご紹介させていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・

巴御前は、義仲が父を殺され、さらにその命を狙われた2歳の時に、彼を預かった中原兼遠の娘で、義仲の一番の家臣・今井兼平の妹(8月16日参照>>)

幼い頃から義仲とともに育った乳兄弟でありながら恋人でもあり、そして、ひとたび戦となれば、片翼をになう一騎当千の女武者となるのです。

武勇にすぐれた女武者・・・そんな男勝りの彼女は、おそらく、すぐ上の姉と遊ぶよりも、兄の樋口兼光(長兄)や兼平(弟)、そして2歳年上の義仲たちと遊ぶ事の多い少女時代を送ったのかも知れません。

小さな頃から兄たちとともに馬に乗り、木曽の山々を駆け巡りながら、いつかともに平家を倒し、都に上る夢を語ったに違いなく、兄たちがそう誓ったように、彼女も「死ぬ時は、皆一緒に・・・」、そう心に決めて合戦にのぞんでいたに違いありません。

木曽だけにとどまらず、北陸・越後一帯を制圧した義仲(6月14日参照>>)を警戒して、平家が10万の大軍を率いて北へ押し寄せて来たのは寿永二年(1183年)の事でした。

倶利伽羅峠の合戦(5月11日参照>>)で平家に大勝した義仲は、その勢いのまま京へ攻め上り、平家は西国へと都を落ち、木曽軍は堂々の入京を果たすのです。

この間も巴御前は、義仲とかた時も離れず、一軍の大将として、男に負けない大活躍をしています。

しかし、運命の時は刻々と迫ります。

都の治安維持に失敗した義仲は、後白河法皇や公家たちからの信用を失い、そのタイミングで、逆に貴族からの信用を手中に収めた彼のライバル・源頼朝が法皇に大接近。

やがて、頼朝の弟・義経が大将となって京にのぼって来るのです。

宇治川・淀・瀬田の3箇所で、義経の京都侵入をはばもうとした木曽軍も、怒涛のごとく押し寄せる義経軍の前に、敗走を余儀なくされてしまいます。(1月17日参照>>)

やがて瀬田で戦っていた兼平とも合流し、散り散りになった兵を何とかかき集めて、約300騎・・・ここ、大津で義仲は、最後の戦を決意します。

もちろん、そこには、巴御前の姿・・・。

鎧は、目にも鮮やかな萌黄糸縅(もえぎいとおどし・鎧をつなげている萌黄色の糸)、その下には紫裾濃(すそご)のひれ垂(鎧の下に着る着物)を着用・・・そんな彼女は、この時、やにわに兜を捨て、長い黒髪を後ろへさっと流し、天女のような天冠(額に当てる冠)を額に着け、白づくりの笠(塗りをほどこしていない笠)をかぶります(笠が無いほうがカッコいいかも・・・)

その美貌が一段と増した事は言うまでもありません。
女・巴・・・28歳。
女ざかりの最後の戦です。

その決意の現れ勇ましく、先陣を切るべく先頭に立って敵陣と対峙した巴・・・。

その時、目の前に現れた敵は、遠江(静岡県)の住人・内田三郎家吉・・・(平家物語では恩田八郎師重(もろしげ))

家吉は、最初は「子供か?」と思ったものの、その進み出た武者が、かの巴御前だと知り、「これは話のタネに生け捕りにしてやろう」と考えます。

前に進み出て、ひととおり一軍を見渡した巴は、目に付いた最も猛々しい男に名乗りをあげます。

「これこそは、木曽殿の乳母子(めのとご)に、中三納言守兼遠(ちゅうさんなごんのかみかねとう)が娘・巴である。
木曽殿にお目にかける最後のいくさの相手をせよや!」

もちろん、声をかけた相手は家吉です。

生け捕りにしたい家吉は、矢も射掛けず、太刀も抜かず、馬を近づけます。
そうなれば、当然の事ながら、巴も太刀は抜かず、自然に組み討ちとなります。

家吉は東国に聞こえた剛の者・・・しかし、巴も一歩も退けをとりません。

そうこうするうち、女が相手であるにも関わらず、なかなか勝負が着かない事に焦った家吉は、巴の長い髪を手に絡ませ、引きつけると同時に腰刀を抜きました。

そのやり方に怒った巴・・・ひじで、相手の刀を叩き落とすと、逆に家吉を我が馬に引きつけ、あっと言う間にその首を斬り落とし、その首を義仲のほうに向け、高々とさしだします。

何ともかっこいい~勇姿!・・・この時の巴御前は、やっぱし「どや顔」をしてたでしょうね。

巴御前が口火を切ったこの合戦・・・しかし、何と言っても多勢に無勢で、木曽軍は、徐々に、再び散り散りとなってしまいます。

この頃から、そう・・・義仲は、巴を木曽に返そうと説得し始めるのです。

しかし、「死ぬ時は一緒」と固く決意した巴は、自分だけが戦場を離れる事を拒否し続けます。

その間も一人減り、二人減り・・・やがて、義仲に従う者は、わずか5騎となってしまいます。

そして、昨年も書かせていただいたように・・・

「お前は女だから、早く今のうちに逃げろ」

「生きるも死ぬも一緒と誓った仲じゃない!兄貴もいるのに、なんで女だからって私だけ逃げなくちゃいけないの?」

「お前は、男と同等のつもりでも世間はそうは思わない。木曽は命が惜しくて最後まで女を盾にした・・・と、何年経っても言われるだろう。それでも、良いのか?」

という一連のやりとりがあり、何度も首を横に振る巴も、あまりにきつく義仲に諭され、最後には心を決め、しかたなく一人故郷を目指す事に・・・と、軍記物などには書かれているのですが、ここに一つの逸話が残っています。

出どころがはっきりしないので、あくまで伝承の一つとしいぇ受け止めていただきたいのですが・・・実は、私、昨年も書かせていただきました通り、かなりの義仲ファン&巴ファンであります。

そんな私が、この逸話を小耳に挟む前から、本当はこうじゃなかったのか?
いや、私が巴御前なら、こう言われなきゃ、一人で木曽には帰らない
・・・と思っていた義仲の言葉と行動があります。

それは・・・命令です。
逃げろという説得ではなく、上官の命令として「木曽に帰れ」という事・・・。

義仲は、こう言ったのでは?
「これは、大将の命令だ。
ここで、見た事、聞いた事、俺の最期を、木曽で待つ妻子に報告せよ」
と・・・

そうです。
木曽には、義仲の妻となった巴の姉がいます。

そして、私は、その時の巴御前の脳裏には、その姉が産んだ清水冠者義高が、未だ人質として頼朝のもとにいる事(7月14日参照>>)が浮かんだに違いないと思うのです。

「木曽に残った姉、そして捕らわれの義高を守る事ができるのは自分しかいない」

もしかしたら、それが彼女への最後の使命だったのかも知れません。
いや、私なら、そうでないとその場を離れません。

ご存知のように、結局彼女はその使命を果たす事はできず、義高は頼朝に殺されてしまいますが・・・。

それは、さすがに一騎当千とは言え、多勢に無勢では・・・という事になるのでしょうが、少なくとも、「きつく説得された」というよりは、「大将の命令だった」というほうが、巴御前の戦線離脱の理由にふさわしいのではないかと思う次第です。
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2008年1月20日 (日)

玉の輿に乗りたい!~平安時代の自分磨き

 

明治三十八年(1905年)1月20日、祇園で芸妓をしていた雪さんをみそめたアメリカ金融財閥・モルガン商会の創始者の甥・ジョージモルガンが、そのお雪さんと結婚・・・「日本のシンデレラ」と呼ばれた事から、今日1月20日『玉の輿(こし)の日』なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

玉の輿・・・は、日本でが古くから美しい物やすばらしい物を例えるのに使用された言葉です。

「玉のような声」「玉のような赤ちゃん」・・・

このブログの武烈天皇のところでも、「君を玉に例えるなら大好きな真珠だ」と、美女をくどいたお話を書かせていただきましたね。(12月8日参照>>)

輿は、ご存知のように、時代劇などで見る身分の高い人が乗る乗り物です。

つまり、言葉の直訳は、玉のように美しい輿にのるような身分になる・・・という事ですが、今では、今回のお雪さんのように、自分よりはるかにお金持ちだったり、身分の高い人と結ばれる女性の事を言いますね。

男性の場合は「逆玉」と言ったりします。

もう一つには、江戸幕府・5代将軍・徳川綱吉のお母さん・桂昌院(けいしょういん)が、もとは京都の八百屋の娘・お玉で、彼女の事をみそめた徳川家光の側室となって、最後には将軍の母となった事から、このような結婚を、「玉の輿」と呼ぶようになったとも言われています。

でもねぇ・・・シンデレラも白雪姫も、王子と結婚してハッピーエンドなのかどうか・・・ホントは玉の輿って結婚してからが大変なんですよね~。

姑とか小姑とか、口やかましい親戚とか・・・難関がいっぱい待ってますからねぇ。

これで王子がマザコンだったら、地獄ですよね~

・・・てな、イケズな考えは、やめにして・・・
今日は、平安時代の花嫁修業について書かせていただきます。

でも、今は、花嫁修業というより、「自分磨き」と言ったほうがいいですけどね。

世の女性は、今も「玉の輿」を目標に、せっせと花嫁修業をするわけですが、それは平安の昔も同じ・・・特に、平安貴族のお姫様ともなれば、お妃として入内して、何とか、時の帝のお目にとまって最終的には、天皇の母に・・・

そうすれば、親戚一同が権力握りまくりで、ハッピーハッピーですから、もう両親から祖父母からが、よってたかって娘の教育に金をかけるかける!

それで、あの有名な清少納言(1月25日参照>>)紫式部といった指折りの才女が家庭教師としてマンツーマンで教育に当たるのですよ。

その清少納言の『枕草子』には、時の左大臣・藤原師尹(もろただ)が娘に言った言葉が書かれています。

「一つには御手を習ひたまへ。
次には琴の御ことを人よりことに弾きまさらむとおぼせ。
古今の歌二十巻をみなうかべ・・・」

つまり、字の練習をして、お琴を人よりうまく弾けるように、そして古今和歌集・二十巻の歌を暗記して・・・という事です。

これが、当時の花嫁修業の三条件なのだとか・・・

「たった三つなの?」
と、思いますが、これがどうして、けっこう大変です。

まぁ、はわかりますわな・・・これは、パソコン時代の今でも、ウマイにこした事はありません。

次のお琴ですが・・・実は、この平安時代のお琴は、中国から伝わった七弦の物で、現在でも目にするあのお琴と比べると、とてつもなく難しいのだそうです。

これを、誰よりもうまく弾けと・・・
かなりの難題ですなぁ~。

そして、最後に古今和歌集・二十巻・・・これ、歌の数が千首以上あるんですって。

百人一首を覚えるだけでも、相当なものですよ。
それを10倍以上の歌を暗記・・・これは受験勉強に匹敵する難しさですね~。

しかも、当時の結婚適齢期(←この言葉も今や死語ですが・・・)は14歳か15歳頃・・・。

現に、オヤジからこの三条件をつきつけられた師尹の娘は、13歳前後で入内を果たしています。

えらいね~娘さん・・・
まるで、今ハヤリの中学受験ですね~。

今も昔も、玉の輿に乗るのは、ホント楽じゃないです~。
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2008年1月19日 (土)

幻の首都・大阪~大久保利通の『大坂遷都案』守口宿

 

慶応四年(明治元年・1868年)1月19日、大久保利通『大坂遷都案』を建議しました

今日は、「もしかしたら江戸時代の次ぎは、大阪が首都になっていたかも知れない」というお話と、その一件に大きく関わる大阪・守口をご紹介します。

・・・・・・・・・

慶応四年(明治元年・1868年)1月2日挙兵した幕府軍・・・翌1月3日に、その幕府の隊列に、官軍が大砲を打ち込む事によって勃発した鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)は、官軍の大勝利に終わります。

前年の10月には大政奉還(10月14日参照>>)
12月には王政復古の大号令(12月9日参照>>)を出した官軍・・・。

今回の鳥羽伏見戦いにも勝利したとは言え、幕府はまだまだ健在で、未だに官軍には、幕府にはむかう「逆臣・薩長」のイメージがぬぐえきれない部分がありました。

そんなイメージを打破して、天皇中心の新しい政治が始まる事を印象づけるために・・・と、慶応四年(明治元年・1868年)1月19日、官軍の中心人物の一人であった大久保利通が提出したのが、『大坂遷都白書』だったのです。

そして、もう一つ・・・天皇中心という事で、昔々の政治に戻ると思っている公家たちに、そうではなく、欧米諸国をお手本にした天皇中心のまったく新しい政府が政治を行うのだという事も、彼は印象づけたかったのです。

それには、公家がウヨウヨいて、古いしきたりにとらわれる京都を離れ、新天地・大坂を首都に・・・それが大久保の考えでした。

しかし、予想通り・・・この案は、提出したしりから公家たちの猛反対にあいます。
しかも、公家だけでなく、身内の官軍内からも反対意見が・・・。

あまりの反対ぶりに、大久保はしかたなく、当面の目標を、天皇の「大坂行幸」に変更し、1月29日明治天皇の大坂行きが決定します。

つまり「首都にはまだ決定してないけど、とりあえず、天皇陛下は大坂に滞在してください」って事です。

Morigutinansyuuzicc そして、3月21日京都を出立した明治天皇は大坂に入り、翌22日の夜お寺に一泊・・・それが、現在の大阪府守口市にある難宗寺です。

このあたりは、以前、このブログでご紹介した京街道・守口宿(8月10日参照>>)のあった場所です。

豊臣秀吉が淀川の氾濫のために築いた堤防・文禄堤・・・そして、その堤を利用して、京都と大坂を結ぶ道路・京街道が造られます。

その京街道は、徳川の時代になって、東海道の一部に組み込まれ、伏見・淀・枚方・・・そして、守口宿は大坂の玄関口・・・最後の宿場となっていたのです。

そんな守口には、現在も、約700mの部分が文禄堤跡として往時を偲ばせています。

Dscn5300a1100
写真の、階段で周囲より高くなっている部分が文禄堤の名残で、上を通る橋が京街道です。

Morigutiitiridukacc 京都方面から来て守口宿に差し掛かるあたりには、一里塚がありました。

現在の一里塚跡には、石碑が建ち、何代目かの木が植えられています。

昔は、高い建物がありませんから、大きく茂った木が遠くの方から見え、「あ・・・あそこが守口宿なんだ、もうすぐ大坂だぞ~」と、街道を歩く旅人の目印となっていた事でしょう。

ひょっとしたら、この時の明治天皇も、この一里塚を目にされたかも知れませんね。

・・・と、いうところで、話を幕末に戻しますが・・・

Morigutitizucc 難宗寺で一泊された明治天皇は、翌3月23日同じく守口にある東本願寺の末寺・盛泉寺(じょうせんじ)に入られます。

ここは、明治天皇の滞在中に内侍所(ないじところ・賢所)が置かれた場所です。

賢所(かしこどころ)とは、宮中にある天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る場所で、天皇が祭祀を行う最も重要な場所・・・つまり、この時、わずか数週間の間だけではありますが、この場所に天皇がいて賢所があったという事は、厳密に言えば、ここが日本の中心=首都であったという事になります。

もちろん、実際に首都として機能していたわけではありませんが・・・。

Morigutizyousenzicc 現在の盛泉寺には、『内侍所奉安所跡』という石碑が建っています。
(←この写真は拡大できます。門の右側の石碑がそうです。)

 
しかし、そうこうしているうちに、やがて、大久保の『大坂遷都案』対抗する案が提出されます。

それが、前島密(ひそか)『東京遷都論』です。

当時は、まだ江戸と呼ばれていた東京・・・その新案の主な理由は・・・
1、江戸には各大名の藩邸があり、その建物をそのまま政府の建物に転用できるという事、
2、近い将来、蝦夷(北海道)を本格的に開拓しようとする(1月12日参照>>)場合、大坂では遠すぎるという事、
3、大坂は経済が発展しているのでこのままでも都市機能は継続できるが、江戸は荒廃してしまうだろうという事でした。

・・・で、結局、1ヶ月後の4月には、新しい官制が発表され、7月には江戸は東京に改められます。

ただし、大坂であろうが東京であろうが、遷都自体に猛反対の公家たちの手前、この時点ではまだ、京都と東京の二箇所を拠点にするという形で、あくまで京都に在住の天皇が、東京に行幸して政治をする・・・というたてまえでの東京誕生でした。

こうして、残念ながら首都の座を逃してしまった大阪・・・。

もし、大阪が首都になっていたら・・・
標準語が大阪弁?
小泉さんも・・・
「痛いのんに絶えて、よ~頑張った!感動したでぇ」
もちろん、
暴れん坊将軍の主役は足利義満?(←そりゃ京都だろ!)

いろんな妄想をかきたてられます・・・( ´艸`)プププ

・‥…━━━☆

難宗寺や盛泉寺への行き方、京街道・守口宿については、本家HPの「大阪歴史散歩」でさらにくわしく紹介していますので、よろしければコチラからどうそ>>>
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2008年1月18日 (金)

観音様のお話

 

毎月18日は、観音さまの縁日です。

その中でも1月18日が、新年になって初めての縁日という事で『初観音』と呼ばれ、各地の寺院は大いに賑わいます。

・・・という事で、今日は観音さまのお話をさせていたきます。

・・・・・・・・・・・

昔、あるところに、早離(そうり)即離(そくり)という幼い兄弟がいました。

しかし、ふたりの両親は、彼らの成長を見る事なく、亡くなってしまいます。

途方に暮れている兄弟に、ある男が「両親に会わせてやろう」と声をかけます。

その幼さゆえ、悪人の言う事を真に受けてついて行った先は無人島・・・。

騙されたふたりは、この無人島に置き去りにされてしまいます。

疲れと飢えに絶えながら何日か暮らしますが、幼いふたりは、何も無い無人島でどうする事もできず、もう死を待つ事しかできません。

「僕たちは、なんて不幸なんだ!
両親を亡くして、人に騙されて、このまま、人知れず死んでいくなんて・・・」

嘆き悲しむ弟に、兄が語りかけます。

「僕も最初はそう思ったよ。
でも、嘆いても仕方ないじゃないか。

僕たちは、こうして、親と別れる悲しさ、人に騙される悔しさ、そして、飢えと疲れの苦しさを、他人の何倍も知る事ができた。

どうだろう?
今度、生まれてくる時は、この経験を生かして、同じ悲しみに泣く人々を救っていこう。

他をなぐさめる事で、自分もなぐさめられるんだよ。」

兄の言葉を聞いて、弟の心の中にも何かが目覚めました。

死を前にして、悲しいという気持ちはなくなり、なにやら晴れ晴れとした気分・・・兄弟は、ともに誓いをたて、ほどなく、静かに息をひきとります。

その死顔は、とてもおだやかで、静かなほほえみをたたえていたと言います。

この兄が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
弟が勢至菩薩(せいしぼさつ)です。

・・・・・・・・・・・

もちろん、これは『華厳経(けごんきょう)という経典の中にある仏教説話です。

観音さまのもともとは、インドアバロキテーシュバラという神様が中国に伝わり、あの『西遊記』でお馴染みの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)法師が、『観自在菩薩』と訳したとされています。

しかし、上記の説話は、観音さまがどのような仏様なのか?という事が、すごく理解しやすいので、あえて、ご紹介させていただきました。

観音さまと勢至さまは、阿弥陀如来の両側に立ち、今も、その時の兄弟の誓いを貫くためにおられるのです。

勢至さまは、単独で信仰の対象になる事はほとんどなく、大抵、阿弥陀如来の右側に・・・そして、左側のお兄さんとともにおられます。

しかし、観音さまはご存知のように、「○○観音」という様々な名前がついて、単独で信仰されている事が多くあります。

それは観音さまが、ありとあらゆるものに変身・変化されるからです。

観音さまは、性別を越えた存在で、すべての生き物を越えた存在。
ときには馬や魚や蛤などの姿で現される事もあります。

もちろん、別の形をした仏様にも・・・

十一面観音は・・・
東西南北の四方と、東南・東北・西南・西北の四維(けい)と、天と地の二方・・・全部で十方向に自分という者をプラスして十一面・・・つまり、「すべて」という事を現しています。

千手観音は・・・
千というのは無数・無量・いっぱいを現していて、その一本一本の手には目がついていて、「物を見極める」「実行する」事を現しています(8月19日参照>>)

不空羂索(ふくうけんさく)観音は・・・
羂は鳥獣を捕える網、索は魚を釣る糸の事・・・
これで、苦しみの山野や悲しみの海にいる人々を救うのです。
不空とは、失敗しない・・・必中という事です。

如意輪(にょいりん)観音は・・・
如意とは思いのままという事、輪は、そのものズバリ始めも終わりも無いという事。
この如意輪で、心にやすらぎを与えるのです。

・・・と、とりあえず有名どころをご紹介しました。

まだまだ、色々な観音さまがおられますが、悲しむ人を救うという基本は同じです。

このように、観音さまは、ありとあらゆるものに変身するのです。

ときには獣に、ときには仏の姿に・・・
そして、ときは人に・・・

「他をなぐさめる事で、自分もなぐさめられる」
この心を感じる事があれば、その人が観音さま。

人にやさしくしてあげたい・・・と思うその瞬間、あなた自身の中に、観音さまがおられるのです。
 

Kannonsamacc 今日のイラストは、
一応、『観音さま』を書いてみましたが・・・

いやぁ~難しい・・・
ほのかに微笑んで、そして気品にあるお顔・・・

なかなか描けません・・・
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4月の歴史の出来事カレンダー

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

 4sakuracc

出来事とリンク
1  .
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1252
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1464
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1580
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1600
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1895
エイプリルフール
 【はりぼての野田城】
 【ウソも方便…遠めがねの福助さん】
宗尊親王が鎌倉幕府6代将軍に就任
 【鎌倉幕府・初の皇族将軍…宗尊親王】
将軍・足利義政主催の猿楽興行
 【将軍・義政の贅沢猿楽興行】
信長の命で秀吉が播磨英賀城を攻撃
 【秀吉の中国攻め~播磨英賀城の戦い】
上杉景勝が徳川家康の上洛要請を拒否
 【関ヶ原の幕開け~上杉景勝・上洛拒否】
京都で第四回内国勧業博覧会を開催
 【芸術か?ワイセツか?裸体画で大論争】
2 773
 .
1641
 .
1872
第10回・遣唐使船が日本を出港
 【ルート変更で命がけ~遣唐使のお話】
オランダ人を長崎の出島に移住させる
 【鎖国の象徴=出島のいま・むかし】
『湯島聖堂』を「書籍館」として公開
 【図書館記念日】
3 604
 .
1333
 .
1341
 .
1557
 .
1578
 .
1582
 .
1590
聖徳太子が憲法十七条憲法を制定
 【十七条憲法~その言いたい事は?】
四月三日合戦
 【四月三日合戦の名勝負】
謀反の疑いをかけられた塩冶高貞が自刃
 【高師直に横恋慕された高貞の悲劇】
大内義長・自刃
 【義長の自刃で大内氏・滅亡】
信長配下の秀吉が野口城を攻撃
 【中国攻略戦~野口城の戦い・青麦合戦】
織田信長が恵林寺を攻撃
 【織田信忠の恵林寺焼き討ち炎上事件】
豊臣秀吉が小田原城を包囲する
 【秀吉VS北条の持久戦・小田原城包囲】
4 909
 .
1573
 .
1582
 .
1609
 .
1615
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1868
藤原時平・没
 【意外に敏腕?左大臣・藤原時平】
織田信長が京都・上京を焼き討ちする
 【信長の「上京焼き討ちの謎】
信長が公家へ書状~安土へ帰還
 【書状と安土帰陣と息子・勝長の事】
家康が駿府城にて肉人に遭遇
 【家康の未知との遭遇&「虚舟」の話】
九男結婚のため徳川家康が駿府を出発
 【大坂夏の陣・開戦!】
大村益次郎が江戸に着陣
 【上野戦争へのカウントダウン~大村・着陣】
5 1574
 .
1590
 .
1609
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1827
家康が武田に内通した大賀弥四郎を処刑
 【家康を鬼にした?大賀弥四郎の処刑】
伊達政宗・毒殺未遂事件
 【政宗・毒殺未遂事件は本当か?】
琉球王朝が薩摩に屈する
 【悲しみの琉球王朝~尚寧王】
高田屋嘉兵衛が没す
 【日本とロシアの架け橋・高田屋嘉兵衛】
6  .
 .
1531
 .
1534
 .
1586
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1868
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1882
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1896
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1927
城の日
 【戦国から江戸の城の変貌】
箕浦合戦
 【浅井亮政VS六角定頼~箕浦合戦】
里見義堯が稲村城の里見義豊を攻撃
 【里見VS後北条~鎌倉・鶴岡八幡宮の戦い】
大友宗麟が羽柴秀吉に島津討伐を要請
 【大友宗麟~秀吉へ救援要請in大坂城】
小栗忠順・斬首
 【名奉行・小栗忠順の汚名を晴らしたい!】
板垣退助が襲われる
 【板垣死すとも自由は死せず】
ギリシャのアテネで近代オリンピック開会
 【第1回・近代オリンピック】
志賀重昂・没
 【世界を見たから日本が好き・重昂の愛国】
7 772
 .
1488
 .
1564
 .
1890
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1895
 .
1945
道鏡・没
 【道鏡が法王になり和気清麻呂・失脚】
英賀坂本城の戦い
 【赤松VS山名の最終決戦~英賀坂本】
長宗我部元親が本山親茂を攻撃
 【永遠の好敵手~長宗我部元親と本山親茂】琵琶湖疏水が完成する
 【琵琶湖疏水の完成】
正岡子規が従軍記者に…
 【日清戦争と正岡子規~従軍記者として】
鹿児島沖で戦艦大和が攻撃を受けて沈没
 【戦艦大和・海に散る】
8 606
 .
1186
 .
1333
 .
1457
 .
1555
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1569
飛鳥大仏・完成
 【悠久の時を駆け巡る飛鳥大仏の謎】
静御前が鶴岡八幡宮で舞を奉納
 【鶴岡八幡宮・静の舞】
京合戦
 【千種忠顕&児島高徳の京合戦】
太田道灌が江戸城を築城
 【公方から関東を守れ!江戸城を築城】
陶晴賢の配下が厳島の毛利方を攻撃
 【元就VS晴賢~厳島へのカウントダウン】
信長が宣教師に京都での布教を許可
 【信長とキリスト教~神になろうとしたか?】
9 752
 .
 .
1180
 .
1584
 .
 .
 .
1863
東大寺の大仏の開眼供養が行われる
 【大仏開眼・大仏大きさデータ】
 【大仏開眼と光明皇后】
以仁王が平家追討の令旨を発する
 【逆賊・平清盛を追討せよ~以仁王の令旨】
長久手の戦い・森長可討死
 【天下は何処・長久手の戦い】
 【鬼武蔵・森長可~遺言に託された願い】
 【ヒデヨシ感激!本多忠勝の後方支援】
玉蟲左太夫が獄中にて切腹
 【動乱に散った悲劇の人・玉蟲左太夫】
10 593
 .
1151
 .
1560
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1617
 .
1857
 .
1864
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1886
聖徳太子が摂政に就任
 【聖徳太子のどこが怪しいのか?】
源頼政の鵺退治
 【源頼政の鵺退治】
後藤又兵衛基次が誕生
 【又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?】
徳川家康の遺霊が日光に移される
 【神になった徳川家康】
板倉勝明が死去
 【板倉勝明~「安政遠足」侍マラソン】
天狗党が挙兵表明
 【尊王と敬幕と・・・攘夷の魁・天狗党の模索】
木戸松子(幾松)が没す
 【逃げの小五郎を捕まえた…幾松の恋】
11 1584
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1590
 .
1602
 .
1868
秀吉が戦死した恒興の母に手紙を出す
 【池田恒興の母に送った豊臣秀吉の手紙】
秀吉の怒りをかった山上宗二が殺される
 【千利休・切腹の謎】
家康が島津の所領を安堵
 【見事なネバり勝ち!島津義久の関ヶ原】
江戸城・無血開城
 【江戸城・無血開城】
 【最後まで残ったのは今年話題のアノ人】
12 1199
 .
1424
 .
1573
 .
1611
鎌倉幕府が合議制を決定
 【先進システム?鎌倉幕府の合議制】
後亀山天皇・崩御
 【南北朝合一の後…後亀山天皇の後南朝】
武田信玄・没
 【武田信玄公のご命日なので・・・】
後水尾天皇が即位
 【戦国最後の天皇・徳川相手に王の意地】
13 1477
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1568
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1592
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1612
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1776
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1874
江古田・沼袋の戦い(長尾景春の乱)
 【足軽戦法炸裂~道灌の江古田・沼袋】
松倉城攻防戦
 【謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦】
豊臣秀吉の軍が韓国・釜山の上陸
 【文禄の役・釜山上陸】
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘
 【宮本武蔵は名人か?非名人か?】
 【佐々木小次郎の実態】
文人画家・池大雅が没す
 【オモシロ夫婦・池大雅とその妻】
江藤新平が梟首刑に処させる
 【天知る地知る~江藤新平・英雄伝】
14  .
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1536
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1588
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1600
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1867
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1876
ポスト愛護週間・初日
 【今日からポスト愛護週間】
伊達稙宗が「塵芥集」を制定
 【伊達家を奥羽随一に引きあげた伊達稙宗】
豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招く
 【後陽成天皇と豊臣秀吉in聚楽第】
直江兼続が西笑承兌に返書を送る
 【本物?ニセ物?直江兼続の「直江状」】
高杉晋作・没
 【高杉晋作と幕末の人々】
品川弥二郎が前原一誠を説得
 【萩の乱近し~前原と木戸と品川と】
15 1488
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1589
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1643
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1877
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1910
飯篠長威斎家直・没
 【日本武術の祖・飯篠長威斎の伝説】
毛利輝元が広島城を築城開始
 【毛利輝元・広島城を築城】
青山忠俊・没
 【将軍・家光に苦言を呈した青山忠俊】
西南戦争で政府軍が孤立した熊本城を救出
 【西南戦争~熊本城・救出作戦】
京阪電車が運転営業を開始
 【京阪電車の歴史】
16 1333
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1397
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足利尊氏が後醍醐天皇攻撃のため京に入る
 【鎌倉討幕を内に秘め足利高氏が上洛】
 【足利尊氏・裏切りの要因】
足利義満の別荘・北山殿の金閣が棟上式
 【金閣寺・建立】
 【奈良の昔話「楠の木の秘密」】
結城氏朝が自害し結城合戦が終結
 【結城合戦~関東と大和と東北と…】
武田勝頼が父・信玄の葬儀を行う
 【信玄・最後で最大の失策~勝頼への遺言】
丹羽長秀・没
 【丹羽長秀・人生最後の抵抗】
徳川秀忠が江戸幕府2代将軍となる
 【2代将軍・秀忠誕生~縁の下の基礎造り】
松平乗邑が死去
 【茶器図録を残した敏腕老中・松平乗邑】
札幌農学校のクラーク博士が北海道を去る
 【生涯の誇り~クラーク博士のambitious】
17 730
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1802
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1895
光明皇后が施薬院を設立
 【奈良に始まる福祉の歴史】
三の山・赤塚の合戦
 【当主・織田信長の最初の戦い~赤塚】
九鬼嘉隆が秀吉の配下となる
 【九鬼嘉隆と長久手~もう一つのシナリオ】
高城・根白坂の戦い(九州征伐)
 【島津・背水の陣~高城・根白坂の戦い】
徳川家康・没
 【徳川家康・その死のまぎわに・・・】
朽木昌綱が死去
 【学者大名~福知山藩主・朽木昌綱】
下関条約・締結
 【下関条約締結で日清戦争・講和成立】
18 905
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1593
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1849
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1874
古今和歌集が奏上される
 【たった一首で大歌人?猿丸太夫の謎】
文禄の役で休戦協定が成立
 【文禄の役~休戦協定と加藤清正】
葛飾北斎・没
 【葛飾北斎のご命日なので・・・】
 【北斎からの挑戦状?北斗信仰と古図】
「台湾出兵」反対で木戸孝允・辞職
 【近代日本初の対外戦争・征台の役】
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1871
斉藤道三が遺言状を書く
 【道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状】
柳生宗厳・没
 【男・柳生宗厳~68歳で掴んだ大きな一歩】
家康が大野治純をして治長の負傷を問う
 【かりそめの講和が破れ大坂夏の陣へ…】
伊能忠敬が測量のため江戸を出発
 【50の手習い、伊能忠敬の日本地図】
田宮如雲・没
 【生涯、主君に捧ぐ…田宮如雲の忠誠心】
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1868
仲恭天皇が即位
 【承久の乱に翻弄された幸薄き帝】
河越夜戦
 【戦国屈指の夜襲・河越夜戦で公方壊滅】
斉藤道三と織田信長が会見
 【斉藤道三×織田信長…正徳寺の会見】
信長が清州城を奪う
 【織田信長、清州城を乗っ取る!】
長良川の戦い
 【長良川の戦い~斎藤道三の最期】
 【美濃のマムシは二人いた】
賤ヶ岳の合戦・開戦
 【決戦開始!賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し】
世良修蔵が暗殺される
 【会津戦争の呼び水…世良修蔵の暗殺】
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1729
舎人親王らによって日本書紀が完成
 【末梢しきれなかった記紀神話の真と偽】
高屋・新堀城の戦いが終結
 【石山合戦~高屋・新堀城の戦い】
武田勝頼軍が長篠城を囲む
 【いよいよ始まる長篠城・攻防戦】
賤ヶ岳の戦い
 【決着!賤ヶ岳…鬼玄蕃・佐久間盛政奮戦】
 【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】
引田表の戦い
 【長宗我部元親・讃岐を平定】
天一坊事件
 【ウソかマコトか?将軍の隠し子】
22 1553
 .
1583
更級八幡の戦い
 【川中島の前哨戦・更級八幡の戦い】
大和郡山城の天守閣が完成
 【筒井順慶から羽柴秀長…大和郡山城】
23 1583
 .
 .
 .
1862
 .
 .
1895
 .
1897
前田利家が秀吉軍の先鋒として出陣
 【賤ヶ岳の合戦~前田利家の戦線離脱】
柴田勝家が北ノ庄城で最後の酒宴を催す
 【勝家&お市~北ノ庄城・炎上前夜】
寺田屋事件
 【今日は、寺田屋事件】
 【寺田屋に散った有馬新七と薩摩九烈士】
露・独・仏が三国干渉
 【日清戦争の後の「三国干渉」のこと】
東京朝日新聞が伝書鳩で記事を送る
 【戦国の伝達システム~のろしと髻の綸旨】
24 1580
 .
1583
 .
1615
 .
1734
 .
1818
 .
1932
秀吉が播磨宍粟郡に侵攻
 【秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期】
北ノ庄城にて柴田勝家と妻・お市が自刃
 【柴田勝家とお市の方の最期】
家康が大蔵卿局を帰阪させる
 【大坂の陣の交渉人~大蔵卿局】
紀伊国屋文左衛門・没
 【一攫千金ミカン船~紀伊国屋文左衛門】
松平治郷=不昧が没す
 【茶人藩主・松平治郷の侘びっぷり】
第一回・日本ダービー開催
 【日本ダービー記念日・競馬の歴史】
25 671
 .
735
 .
1613
 .
1695
 .
1868
水時計によって鐘を打つ「漏刻」の完成
 【漏刻で時間をお知らせ…飛鳥・プロジェクトX】
遣唐使・吉備真備が聖武天皇に書簡を献上
 【天平の陰陽師・吉備真備】
大久保長安・没
 【江戸初期の謎~大久保長安の懲罰事件】
松平直矩が没す
 【「引っ越し大名」松平直矩の泣き笑い】
新撰組・近藤勇が斬首刑に処せられる
 【さらば・・・近藤勇】
新政府軍が北越へ進攻(閏4月)
 【戊辰戦争~新政府軍・北へ】
26 770
 .
1336
 .
1393
 .
1570
 .
1601
 .
1615
 .
1866
百万等陀羅尼が完成
 【戦国の活版印刷と世界最古の印刷物】
尊氏が大宰府を発つ
 【いよいよ上洛…尊氏・大宰府を出発!】
後円融天皇が崩御
 【DVに自殺…暴れまくりの後円融天皇】
織田信長が朝倉義景を攻撃
 【手筒山・金ヶ崎城の攻防戦】
松川の戦い
 【岡左内~そのケチ的ポリシー】
夏の陣・大和郡山城の戦い
 【戦端を切った大和郡山城の戦い】
松前崇広・没
 【外様から老中抜擢…松前崇広の無念】
27 1559
 .
1570
 .
1579
 .
1582
 .
1919
上杉謙信が2度目の上洛を果たす
 【上杉謙信・2度の上洛の意味は?】
織田信長が金ヶ崎城から撤退
 【危機一髪~金ヶ崎の退き口】
大村純忠がイエズス会に長崎・茂木を寄託
 【長崎開港・初のキリシタン大名・大村純忠】
羽柴秀吉が清水宗治を攻撃
 【備中高松城・水攻め】
前島密・没
 【郵便の父・前島密の功績】
28 1477
 .
1615
 .
1651
 .
1586
 .
1729
 ,
1909
大田道灌が石神井城を攻撃
 【豊島泰経と照姫…石神井城の伝説】
紀州一揆
 【大坂夏の陣に連動した紀州一揆】
左甚五郎・没
 【謎の彫刻師・左甚五郎】
秀吉の妹・旭姫と家康が結婚
 【秀吉の妹・旭姫の悲しみ】
中御門天皇が来日した象と面会
 【象の日】
由利公正が没す
 【藩の政府の財政建て直し…由利公正】
29 1189
 .
1584
 .
1615
 .
 .
1868閏.
1869
 .
1891
武蔵坊弁慶・討死
 【武蔵坊弁慶=架空人物説について・・・】
小牧長久手~美濃の乱
 【秀吉VS家康…美濃の乱】
大坂夏の陣・樫井の戦い
 【豊臣滅亡を決定づけた?樫井の戦い】
 【私はカモメ~塙団右衛門・樫井の戦い】
海援隊・解散命令
 【どうなった?龍馬亡き後の海援隊】
函館戦争・矢不来の戦い
 【函館戦争・終盤戦~矢不来の戦い】
二宮忠八・初飛行に成功
 【ライト兄弟よりも早く?日本人が空を制す】
30 1189
 .
 .
1358
 .
1615
 .1630
源義経・衣川にて自刃
 【衣川の合戦~義経・主従の最期】
 【夫・源義経との最期を選んだ郷御前】
足利尊氏が没す
 【室町幕府初代将軍=足利尊氏…死す】
大阪夏の陣で大和口要撃作戦を採用
 【大和口要撃作戦~道明寺誉田の戦い】
織田信雄・没
 【織田家生き残り~人間・普通が一番?】
中旬 大阪・天王寺の茶臼山が立入禁止に
 【騒ぎすぎ?~茶臼山・立入禁止令】
花見 お花見の季節
 【お花見の歴史】
 【勝利の聖地・吉野の花見の意味は?】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・18日 観音様の縁日
 【観音様のお話】
毎月・19日 トークの日
 【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
毎月・24日 かつお節の日
 【かつお節の歴史】
愛宕の縁日
 【愛宕神社のお話】
地蔵の縁日
 【お地蔵様のお話】
毎月・25日 天神の縁日
 【菅原道真・没】
毎月・26日 風呂の日
 【お風呂の歴史】
毎月・28日 鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
不動明王の縁日
 【不動明王のお話】
毎月・30日 みその日
 【お味噌の歴史+味噌天神のお話】
毎月・末日 そばの日
 【お蕎麦の歴史】

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2008年1月17日 (木)

応仁の乱の口火を切る御霊合戦

 

応仁元年(1467年)1月17日、管領職を追われた畠山政長が、自宅に火を放ち、御霊神社に籠りました

時代は、応仁の乱に突入します。

・・・・・・・・・・

このブログでも、5月20日>>のところで、『応仁の乱・勃発』という記事を書かせていただいてますように、一般的には、「応仁の乱=5月20日・勃発」となっていますが、実は、何を以って勃発とするか?で、少々、日づけに差があります。

・・・と言いますのも、ご存知のように応仁の乱は、歴史上屈指の大乱です。

歴史好きでなくても、名前くらいは大抵の人が知っているくらい有名で、日本全国を東西、真っ二つに分けて、11年間も続き、京の都を焼け野原にしました。

しかし、これだけ長期にわたって、これだけ多くの大軍が対峙したにも関わらず、名のある大将が命を落とす事もなく、最終的に決着さえ着かなかった・・・考えて見れば、とても不思議な乱なのです。

しかも、東の将・細川勝元花の御所に・・・、西の将・山名宗全(持豊)(3月18日参照>>)自宅(現在の西陣)に・・・、それぞれ本陣を構えていましたが、この二つの陣の距離は、わずか数百メートルです。

敵同士が、こんな近くにいて、この有様はいったい?・・・。

実は、それには、この乱にご参加の皆様がたの、それぞれのお家の事情がからんで来るのです。

この応仁の乱の原因の一つとなった将軍家の後継者争いについては、先日、足利義視(よしみ)さんのご命日の日(1月7日参照>>)に書かせていただきましたので、ここではサラッと・・・

とにかく、室町幕府8代将軍の足利義政が、仏門に入っている弟・義視をわざわざ呼び寄せて、次期将軍に任命したにも関わらず、そのすぐ後に、奥さん・日野富子との間に、実子・義尚が生まれてしまったために起こった、次の将軍が弟か?息子か?という一件です。

ちなみに、義視が細川勝元(東軍)と・・・、義尚と富子が山名宗全(西軍)と組みます。

・・・で、その将軍家と同じように、管領家である畠山家では畠山政長(東軍)畠山義就(よしなり・西軍)が、斯波(しば)では斯波義敏(よしとし・東軍)斯波義康(よしかど・西軍)とが、親戚同士で争っていたわけです。

そこに、各地の諸大名が、西と東に分かれてつく事になって大乱となるわけですが、つまりは東軍VS西軍というよりは、将軍家VS将軍家、畠山VS畠山、斯波VS斯波の同時進行・・・という戦いなのです。

この時代、武家では、すでに嫡男の単独相続というのが定着しつつありましたが、そのすべてを相続できる惣領の任命権が幕府にあったのです。

嫡男=長男で、すんなり決まれば問題はありませんが、その家の長となる者が、ある意味、実力で決まるようなところがあり、将軍が力のあるほうを後継ぎに任命してしまうわけで、当然、そこには後継者争いが生じます。

しかし、彼らは、任命権が幕府にあるため京に参上しますが、それぞれの地元に戻れば、彼らの下に守護代や国人・土豪といったそれぞれの味方の武士がいるわけです。

すでに、幕府には地方を統治する力はなく、京都で、東軍あるいは西軍として戦って勝ったとしても、地元に戻れば、また覇権を争わなくてはなりませんから、正直なところ彼らは、地元に帰って地元で決着をつけなければ勝負は決まらないワケで、京都で本気になって戦う気は、あまりなかった・・・というのがホンネでしょうね。

つまり、応仁の乱は、将軍家の争いに諸大名が支援したのではなく、諸大名の家督争いに将軍家が乗っかった大乱という事になるかも知れません。

・・・で、前置きが長くなりましたが、その口火を切ったのが、今日書かせていただく畠山VS畠山の『御霊合戦』と呼ばれる戦いなのです。

当時、管領職にあったのは畠山政長でした。

以前、細川勝元のせいで追放され、京を去っていた政長の従兄弟・畠山義就は、この応仁元年(1467年)の正月、山名宗全を頼って復権を願い出ます。

実力者である宗全に口説かれた将軍・義政は、あっさりと政長を捨て、畠山家の惣領を義就にしてしまうのです。

もちろん、この処置に政長は怒り心頭・・・一気に合戦の様相を呈してきます。

当然、政長のバックには勝元、義就のバックには宗全がいたわけですが、今回に限り、将軍・義政は、何とか中立の立場を取ると同時に、戦火の広がりを防ごうと、他者の参戦を禁止します

Ouninnorankamigoryoucc 勝元の加勢を受けられないと知った政長は、単独で戦う決意のもと、応仁元年(1467年)1月17日の夜、自宅に火を放ち、上御霊神社を占拠したのです。

しかし、この自宅への放火を「政長の都落ち」だと、配下の者の一部が勘違いして、その者たちが散り散りに去って行ってしまったため、上御霊神社に集結した政長の兵は2千ほどになってしまいます。

それを、知った義就は、チャンスとばかりに翌・1月18日の早朝数千の兵を率いて上御霊神社に押し寄せたのです。

しかし、少数とは言え、政長の手勢は覚悟を決めた者ばかり・・・義就勢もなかなか思うようには攻められませんでした。

士気の高い少数精鋭でふんばる政長勢でしたが、兵が疲れたところで、義就勢と入れ替わりに押し寄せてくるのは宗全の孫・山名政豊・・・(って、他者の参戦禁止のはずやのに~!)

やがて、夜になり、双方一旦退却し、明日に備える事になりますが、さすがに少数の政長勢の疲れはハンパじゃありません。

政長は、自刃する決意をし、勝元に使者を送ります。

「もう、疲れました・・・最期に酒宴を開き、その後、皆で自刃しようと思いますので、陣中にお酒を送っていただけないでしょうか?」

これを、聞いた勝元・・・政長を助けよう!と決意します。

しかし、戦況は義就が有利。

このまま、この合戦で勝利する事は不可能とだ考えた勝元は、この合戦は負け戦に見せかけておいて、一旦終了し、敵を油断させた後、ころあいを見計らって将軍・義政を取り込み、相手を朝敵にした後、将軍公認のもとで合戦を仕掛けようと考えます。

そして、政長には酒を送らず、使者に(かぶら)を一つ持たせて帰らせるのです。

鏑とは、矢の先端につける道具で、それをつけて矢を放つと大きな音とともに矢が飛び、その音が合戦の合図となる・・・という物です。

使者の持ち帰った鏑を見て、勝元の心の内をさとった政長・・・昼間の合戦で死んだ者たちの遺体を神社の本殿の回りに集め、火を放ちました。

燃え盛る炎・・・疲れて眠ろうとしていた義就の陣に歓声があがります。

この期に乗じて、一気に叩き潰そうと、再び神社へ押し寄せる義就勢・・・

しかし、彼らが見た物は、消失した拝殿と、焼け焦げた死体の数々です。

「政長もこの中にいるだろう・・・」
その場所は、誰もがそう思う光景でした。

宗全も義就も、「天下は決した」と勝利の美酒に酔い、諸大名も国元へ帰参します。

しかし、上記の通り、焼かれたのは、すでに死亡していた者たちの死体のみ・・・政長以下、無事だった者は、皆、その炎と闇に紛れ、御霊の森を抜け、隣接する相国寺から逃走していたのです。

そして、その後の勝元は、将軍・義政を何とか味方につけようと画策し、一方の政長は諸国を巡り、各地の武将に東軍に参戦するように働きかけるのです。

やがて、勝元は花の御所を制し、両軍が激突する時がやってきます

それが、応仁元年(1467年)5月20日・・・(5月20日参照>>)というわけですね。

京都の上御霊神社の説明板には、「応仁の乱勃発の地」と書かれてあります。

はてさて、勃発は1月か5月か・・・もう少し悩ませていただく事に致しましょう。
 .

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2008年1月16日 (水)

あなたにとって名城と言えば?の結果発表

 

「あなたにとって名城と言えば?」のアンケートにご協力いただいてありがとうございました。

ではでは、早速,、結果発表を・・・

得票数
五稜郭 5
仙台城 6
金沢城 4
江戸城 2
小田原城 6
名古屋城 2
大阪城 20
姫路城 17
岡山城 1
熊本城 5
首里城 1
松本城 1
松代城 1
焼きそば 1

 

う~む・・・なるほど、やはり、大阪城姫路城の二大巨頭・・・といった感じですね~。

実は、私も、地元意識から大阪城に一票を投じてしまいました~。

もちろん、現在、建っているお城の現状を考えれば、断然、姫路城なんですけどね。

何と言っても、あれほどの大城郭が現存している事がスゴイですからね。

でも、多分、私と同じだと思いますが、大阪城に投票していた皆様は、豊臣時代の・・・いわゆる大阪城ではない大坂城を想像して投票していただいたんじゃないでしょうか。

現在の大阪城は、以前書かせていただきましたように(8月18日参照>>)、市民の寄付による大阪人の心意気はあるものの、コンクリート製の、言わばビルですからね。

その希少価値からいったら姫路城には及ばないかも知れませんが、やはり、「太閤さんの時代のお城を再現したい」という夢の結晶ですので・・・。

大阪城・姫路城の後ろは、順位が密着してますね~。

仙台城小田原城が6票、五稜郭熊本城が5票、金沢城が4票ですか・・・。

仙台城・五稜郭はやはり伊達政宗榎本武揚の人気の証しみたいなものなのでしょうか?

この人が建てた、あるいは、この人がかかわった城なのだから、すばらしいお城なんだろうなぁ、という感じがありますね~

仙台城は、イスパニアビスカイノ『水深き川に囲まれ、厳山に築かれし、日本の最も強固なるもの』と称した壮大なもの、五稜郭も、開拓使庁舎に転用のため取り壊され・・・と、どちらも、ぜひとも全盛の頃を見てみたかったですね。

小田原城・熊本城は、やはり、小田原城は東海随一の要衝と讃えられ、熊本城はあの西郷さんに「官軍ではなく、清正公に負けた」と言わせたほど・・・どちらも、天下無双の名城というのが伝えられていますから・・・。

金沢城は、水の便があまりよくなかったようで、慶長の落雷によって、壮麗な天守閣が炎に包まれた時、空堀になってしまっていたために、消火がうまくいかず消失してしまったとか・・・。

きっと、戦国の頃はその事を考慮して、いつも満面の水を確保していたでしょうから、そんな水面に映る金沢城の天守閣はさぞかし美しかった事でしょうね。

江戸城名古屋城が2票・・・というのは少し意外でした。
しかし、やはりどちらも、昔の面影が少ない気がしないでもありませんので、やはり、そういうところが得票に至らなかったのでしょうか。

それは、やはり建てかえられている岡山城にも言える事なのでしょうね。

首里城は・・・そうですね。
これは、お城ではなく、グスクという別のもの・・・という感じでしたね。

松本城松代城は、コメントで投票をいただきました~。
このアンケートパーツは、あまりたくさん選択技を増やすと、なぜか下の部分が切れてしまい、投票ボタンをクリックする事ができなくなってしまうため、いつも選択技を11個か12個にしていましたので、選択にないお城に関してはコメントで受け付けていました。

それぞれ思い入れのあるお城を選んでいただきましたね。

実は、私も、上田城に一票入れたかったんですけどね・・・真田びいきなので・・・

・・・で、最後に、名城と言えば・・・焼きそば、という事で、選択技にないお城を受付ようと焼きそばとしていたところ、なんと、アンケートを作って間もなく、一番に焼きそばに一票入っていました。
そのスピードに驚いてしまいました(笑)

・・・という事で、ご協力をいただいた皆様、本当にありがとうございました
このブログを楽しい物にできて、とてもうれしかったです。
 .

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2008年1月15日 (火)

ネズミを捕って天丼を食おう!明治のペスト流行の話

 

明治三十三年(1900年)1月15日、ペストの流行に困惑した東京市は、『ペスト菌を媒介する家ネズミ・ドブネズミを一匹五銭で買い上げる』という通達を出しました。

・・・・・・・・・・・

前年の明治三十二年(1899年)10月初めて広島でペスト患者が発生しました。

その後、輸入の貨物から病原菌が進入し、神戸大阪で相次いで患者が発生し、ペストは大流行の兆しを見せはじめます。

政府は慌てて、清国・インドなどからのボロや古綿等の輸入を禁止すると同時に、その対策に躍起になるのですが、当時は、対策と言えるような対策法はなく、患者が出るとその家の回りに囲いをして、立ち番の巡査を置いて家への出入りを禁止し、石灰で消毒するくらいの事しかありませんでした。

しかし、やっと文明国の仲間入りをしたばかりの日本国の首都・東京に蔓延しては一大事です。

東京にペストがやって来る前に、何とか予防しようと、東京市は、翌・明治三十三年(1900年)1月15日『ペスト菌を媒介する家ネズミ・ドブネズミを一匹五銭で買い上げる』という通達を出したのです。

これで、東京市民はエライ事になってしまいます。

なんせ、まだまだ一般庶民には、「ちょっと高いかな?」と思われるワンランク上の大エビ2匹入りの上天丼が、ちょうど五銭の時代だったのですから・・・

ちまたには、
「ネズミを捕って天丼を食おう!」
なる流行語が生まれます。

天丼だけではありません。

お酒も、当時は1升・三〇銭・・・て事は、一日一匹でもネズミを捕れば、その晩は、一合半の晩酌にありつけます。

そうなると、家族を総動員してネズミを追いかけまわし、中には、一家の大黒柱が仕事を休んでまで・・・まさに、猫も杓子もネズミ狩りへと走るのです。

確保したネズミは、各派出所などに持って行き、そこで金券と交換。

ネズミさんのほうは、石灰で消毒後、火葬場にて天国へ行ってもらい、金券を貰った市民は、指定の金融機関で現金に換えてもらうという仕組み。

Pesutoccそのため、派出所の巡査は、朝から晩まで、ネズミを持って来る市民の対応におおわらわ・・・とてもじゃないが、市内巡回なんてできやしない状態です。

でも、考えてみたら、危ない橋を渡って泥棒するより、ネズミを追っかけたほうが、効率よく稼げるかも知れませんから、意外に犯罪は少なかったかも・・・ですね。(勝手な想像ですが・・・)

なんせ、この時、完全に会社を辞めて、ネズミ捕りの没頭したある人物は、何と1ヶ月で2400匹のネズミを捕まえ120円を手にしたと言います。

今の上天丼が1000円前後と想定して簡単に計算すると、月・240万円ですからね。
かなりセレブな月収ですよ。

しかも、ご存知のようにネズミの繁殖力はハンパじゃありませんからね。

妊娠期間は約3週間で、一度に10匹強の赤ちゃんを産んで、その後6日経ったら次の妊娠が可能となります。

生まれた赤ちゃんは約1ヶ月で大人になって、またまた、3週間と6日おきに出産可能って事は、生まれる赤ちゃんの半分が女の子として単純な計算でいくと、オス・メスつがいの2匹のネズミのご家族は一年後には約3億匹って事に・・・

まさにネズミ算式に増えていきます。
こりゃ、捕っても捕っても追いつきやしません。

当然、東京市の財政の事を考えると、増え続けるネズミの買い取りを長く続けていけるはずもなく、港に臨時の検疫所を設けるなどの処置と入れ替えに、この制度は、ほどなく打ち切りに・・・。

しかし、翌・明治三十四年(1901年)になっても、ペストは、まだ衰えず、その年の5月には、今度は、またも東京市から『屋内を除くほか、はだしでの歩行を禁ずる』というお達しが・・・

しかも、これはちゃんとした通達で、違反者には罰金はもちろん、禁固刑もありという厳しい物。

これを聞いた庶民は、またまた大騒動です。

なんせ、当時は車夫や馬丁・職人などの技術系の職業の人は、「はだし」で仕事をするのが当たり前の時代でしたからね。

そして、結局、ペスト流行で、最後の最後に儲けたのは、下駄屋だったとか・・・。

「風が吹いたら、桶屋が儲かる」というのは聞いた事ありますが、
「ペストが流行れば、下駄屋が儲かる」とは・・・
 .

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2008年1月14日 (月)

左義長・どんど焼きの由来と意味は?

 

正月の14日と15日に行われる火祭り・・・

その呼び方は、全国各地・津々浦々・・・ホントにたくさんあります。

一般的なのは『左義長(さぎちょう)』『どんど焼き』、他にも『せいと焼き』『おんべ焼き』、後ほど、くわしく書かせていただきますが、「道祖神」「さいの神」のお祭りと一緒になって『さいのかみ祭り』『さいとばらい『三九郎(さんくろう)なんて呼ぶ地方もあるみたいです。

ちなみに、ウチは大阪ですが『とんど焼き』と呼びます。

でも、一つとなりの町で行くと、もう違う名前だったりするんですよね~。

名前がこれだけ多くあるにも関わらず、そのやりかたは、案外、似てたりなんかします。

野外に、お正月の松飾りや門松、書初めなどを各家から持ち寄り、集めて燃やし、その火にあたると、一年間無事に過ごせると言われたり、その火でお餅や団子を焼いて食べたりもします。

書初めを燃やした場合は、灰が高く上るほど、字が上達するというのもあります。

ただ、この行事があまりにも古いため、その由来というのがはっきりせず、いくつかの神様のための説に分かれています。

先日、お歳暮のところで書かせていただいた「お正月にやって来て、そして、お正月が終ると去っていく神様=年神様」を見送るため(12月20日参照>>)というのも、一つの説です。

火祭りの中には、周囲が燃え尽きる頃を見計らって、真ん中に立てた柱を、その年の恵方(年神様のやってくる方角)へ倒し、最後に一年災難を祓うおまじないとしている所もあり、そうなると、やはり、その由来は、年神様のお見送り・・・という事なのでしょう。

しかし、東日本の一部では、この火祭りを『道祖神のお祭り』としている場合も多くあります。

道祖神というのは、村のはずれや、道の辻などなある石の神様で、神像や僧像のほか、男女が寄り添って手をつないでいる物、抱き合って愛し合ってる物や、モロ男性の象徴や女性の象徴の形をした石の場合もあります。

聞くところによれば、この道祖神の信仰は、日本アルプスで縦に縦断されたあたりから東へと、昔、相模と呼ばれていたあたりまでの地域・・・現在では、神奈川県・長野県・新潟県といったあたりに集中していて、そこから西にも東にも、あまり見当たらないのだそうです。

この道祖神は、性の守護神・・・せいの神様とも呼ばれます。

近頃では、性というと何かとタブー視されがちですが、古代の人々にとっては、それこそ民族の血を絶やさないための大事な営み・・・これも、年神様と同じで、仏教が伝わる以前・・・いえ、ひょっとしたら、大和朝廷が成立する以前からあったかも知れない日本の原始の大切な神様なのです。

この道祖神のお祭りとしての火祭りは、やはり、昔から道祖神が無い集落はないと言われるくらいその信仰が盛んな相模・・・神奈川県が一番多いようです。

中には、この道祖神を石ではなく木像で作る地方もあるようで、松本市多賀神社には、今も数体の木像の道祖神が納められてられているそうです。

また、野沢菜で有名な長野県野沢温泉では、毎年、木製の男女の神像を造り「三九郎人形」と呼んで道祖神としているのだとか・・・火祭りの事を『三九郎』と呼ぶ地域があるのは、この人形に由来しているのかも知れません。

そんな道祖神と、よく同一視されるのが『さいの神』です。

さいの神には、「塞の神」「幸神」「妻神」「斉神」「才神」「歳神」「障神」「性神」など、様々な字が当てられます。

『古事記』の上巻では、あの国産みで有名なイザナギが、亡くなった奥さん・イザナミに会いに黄泉の国(死後の世界)に行き、変わり果てた奥さんの姿を見て、怖くなって逃げ帰るくだりで、さいの神が登場します。

逃げる夫・・・追う妻。
その追っ手を防ごうと、イザナギは、千人力でやっと動くかという大きな石を、道の中央に据えて道を塞ぎ、くい止めたのです。

その石の名前は塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)・・・これがさいの神です。

なので、さいの神は、良縁・妊娠・出産・性病などの性の守護神の他に、防災の守護神としての一面もあります。

さいの神様と道祖神とが、まったく同じであるのか?
それとも、道祖神がさいの神から枝分かれした別の神様なのか?
は微妙なところですが、『今昔物語』『宇治拾遺物語』『源平盛衰記』でも、「道祖神」と書いて「さえのかみ」と読ませているという事があるので、かなり古くから同一視されていたのは間違いないでしょう。

さいの神は、石像というよりも、大きな石そのものにしめ縄を張り、祀っている事が多いようですが、いずれにしても、このさいの神も、先の神様たち同様、日本の原始の神様である事は間違いようです。

ちなみに、さいの神のお祭りは火祭りではなく、神の石に張ったしめ縄を、一年に一度取り替えるという形のものが多いようですが、こちらも、1月15日の小正月の前後に行われるようです。
(・・・ようです。・・・ようです。と何か頼りない書き方になっておりますが、なんせ地方によって多種多様な行事ですので・・・すみません)

火祭りの中には、先ほどの木製の人形に疫や災いを封じ込め火の中に投じたり、稲に害を与える虫を防ぐための虫送りとして火を燃やすという、厄除けや農業の願いを込めた物もあります。

おそらく、年神や道祖神・さいの神といった原始の神様は、もともと性の神様・子孫繁栄や、災害除けを願っていた神様であったのが、日本に稲作がもたらされ農耕民族になった事で、新たに五穀豊穣などの農業の願いも込められるようになり、やがて、現在の火祭りという姿になったのではないでしょうか?
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2008年1月13日 (日)

尼子氏衰退への第一歩?安芸郡山城・攻防戦

 

天文十年(1541年)1月13日、毛利氏の籠る安芸郡山城に、尼子氏が総攻撃を開始しました。

・・・・・・・・

応仁の大乱から約80年・・・

世はまさに戦国・群雄割拠の時代。

後に、中国地方一帯を手中に収める大大名となる毛利元就も、この頃はまだ安芸(広島県西部)有力国人にすぎませんでした。

しかも、近隣には出雲(島根県東部)を治める尼子氏や、周防(すおう・山口県東部)を治める大内氏といった平安・鎌倉からの名門が、デ~ンと幅をきかせています。

そんな中の毛利は、むしろ彼らに従事する存在だったのです。

最初、尼子氏の傘下に収まっていた元就・・・天文六年(1537年)に先代の尼子経久が、まだ年若い孫の晴久に家督を譲ったのをきっかけに(11月13日参照>>)、元就は大内義隆の傘下へとその身を投じるのです。

もちろん、この元就の行動に怒り爆発なのは、当主になったばかりの晴久です。

なんせ、尼子氏と大内氏は、これまでも度々、その覇権をめぐってぶつかり合っていましたから・・・ライバル関係にある大名のところへ、そうやすやすと行ってもらっては困ります。

そして、天文九年(1540年)の6月、晴久は毛利討伐の大軍を派遣するのです。

しかし、この時の軍勢は、元就の居城・郡山城の強固な守りに阻まれ、城を落とすことなく帰還してしまします。

そこで、翌々月の8月には、尼子氏の中でも勇将の誉れ高い尼子久幸(ひさゆき・晴久の大叔父)を筆頭に、尼子氏精鋭部隊・新宮党を操る尼子国久(晴久の叔父)と、その息子の尼子誠久(さねひさ)率いる、3万という大軍を編成し、再び、郡山城を攻めるのです。

迎え撃つ元就の毛利軍はわずか8千・・・しかも、その数の中には正規の軍ではない領民も含まれていたと言いますから、もはや、郡山城は、蛇に睨まれたカエルです。

籠城を決意する毛利軍・・・
ネズミ一匹逃がすものか!と、その城を包囲する尼子軍・・・

まずは9月5日、城の周辺に放火をし始めた尼子軍は、やがて10月21日、本格的に、全面攻撃を開始します。

しかし、またしても・・・
さすがに、この大軍では、敗走する事はありませんでしたが、総攻撃をかけても、わずか8千の城を落とせないでいる事は、尼子軍にとって、負けに等しい屈辱でしたが、その後も、毛利の巧みな守りに、そのままズルズルと睨みあいを続けていた両者。

やがて、12月に入ると、元就が待ちに待っていた大内氏の援軍が到着します。

毛利を救うため、一万の兵を従えてやってきたのは、陶隆房(すえたかふさ・晴賢)

彼は、後に主君・大内義隆を謀殺(8月27日参照>>)して、大内氏を我が物とする男・・・、元就とも屈指の奇襲戦・厳島の戦い(10月1日参照>>)で雌雄を決する事になる因縁の人です。

明けて天文十年(1541年)、大軍を率いても郡山城を攻めあぐねている事も・・・そして、援軍が到着した事もあって、その姿勢にあせりが見え始めた尼子軍

かくして天文十年(1541年)1月13日・・・「もう、後が無い」とばかりに、この郡山城へ総攻撃をしかけるのです。

しかし、最初のわずか8千の時でも落とせなかった城です。
まして、一万の援軍も加勢するわけですから、その攻撃がうまいくはずもくありません。

開始早々、あっという間に、総大将の久幸が討ち取られてしまいます。

それを、目の当たりにした国久・誠久父子は、あわてて撤退を開始しますが、時すでに遅し・・・何とか命からがら出雲へと逃げ帰りますが、負けた尼子氏にとっては、大きな打撃となるのです。

そして、その後は・・・
ご存知のように、大内も尼子も衰退する中、やがて元就がその頭角を現してくる事になるわけですが・・・それは、もう少し先のお話。

思えば、当主の交代劇と、この負け戦とが、名門・尼子氏の衰退への第一歩だったのかも知れません。
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2008年1月12日 (土)

北海道のパイオニア~屯田兵・募集

 

明治八年(1875年)1月12日、青森・宮城・酒田の3県に対して、屯田兵募集の通達が出されました。

・・・・・・・・・

江戸時代まで、蝦夷(えぞ)と呼ばれていたその地は、明治二年(1869年)に北海道と改められ(2月10日参照>>) 、広大な大地に開拓の嵐が吹き荒れる事になります。

翌年の明治三年(1870年)には、すでに移住者の数は3千人を越えていましたが、その苦難は並大抵ではありませんでした。

明治五年(1872年)頃から、本格的に開拓政策を進め始めた政府は、玄米と味噌や塩などの支給を始めとする援助を実施し、それから10年間にわたって、当時のお金で1400万円という金額を投資するのです。

それほど、北海道の開拓というものが過酷だったんですね~。

やがて、明治七年(1874年)、政府は、対ロシアを念頭においての北方の警備と、北海道開拓の両方を任務とする兵士を募集するとなります。

それが、『屯田兵(とんでんへい)です。

この屯田兵制度は、維新で職を失った士族の失業対策のための物でもありましたから、当初は、原則・士族からのみの募集(最後には平民も募集の対象になります)・・・ただの農業従事者ではなく、有事には兵士となる事で、武士としての誇りを捨てる事なく、新たな自活へと導くものでした。

そんな中での明治八年(1875年)1月12日・・・青森・宮城・酒田の3県に対しての屯田兵募集を行ったのです。

とにかく、北海道の開拓はこの屯田兵なくしては語れません。

普段は農業をやっていて、有事には兵士となる・・・とは言うものの、それは基本的には兵士という事ですし、常備兵という事になると、同行する家族も、その軍律に従わなければなりません。

Tondenheicc 午前4時に起床ラッパが鳴り、5時から訓練が始まり、6時からは農耕。

週に一度は、兵舎や武器の点検も行わなければなりませんでした。
 

開拓当時は土地も痩せていて、とてもじゃないが米の生産は難しく、トウキビイモソバアワなどが作られていましたが、それとても、厳しい寒さのために冷害に遭う事もたびたびありました。

このため、日々の主食はそのトウキビや麦で、お米のご飯は盆と正月くらいだったそうです。

さらに、広大な大地に先住する動物たちにも、彼らは悩まされます。

明治十年(1877年)に政府が出した通達によると、カラス一羽につき4銭、クマやオオカミに至っては一匹2円の賞金を出すとしています。

めったに口に入らないお米でさえ1升7銭の時代に・・・いかに、動物の被害が多かったかが想像できますね。

しかし、ご存知のように北海道は開拓されます。
だからこそ、今の北海道があるわけですからね。

やがて、この屯田兵制度は、明治三十三年(1900年)には、募集を中止・・・明治三十六年には制度そのものが廃止されます。

この間に、屯田兵の村は道内37箇所、人口は4万人近くなり、開拓された土地は7400ヘクタールにまでなったそうです。

ヘクタール・・・と言われても、ピンと来ないので・・・
東京ドーム、約1580個ぶん・・・それでもピンと来ませんが・・・

とにかく、開拓移民の皆様の努力に感謝ですね。

ちなみに、北方の警備のための兵士だった屯田兵でしたが、実際に兵士として動員されたのは『西南戦争』(9月24日参照>>)の1度だけだったそうです。
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2008年1月11日 (金)

武田信玄最後の戦い~野田城・攻防戦

 

天正元年(1573年)1月11日、上洛途中の武田信玄が、徳川方の籠る三河野田城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

戦国武将と言って思いうかぶ、天下に手が届いた感のある5人の武将・・・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

群雄割拠するこの5人の中で、突出して年齢が上なのは信玄です。

この天正元年の時点で、信玄53歳、謙信44歳、信長40歳、秀吉・家康にいたってはまだ、30代。

しかも、5年前の永禄十一年(1568年)、年下の信長に、室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じてに先に上洛を果たされてしまっています。(9月7日参照>>)

しかし、今現在の信長は、畿内の平定に躍起になっているようす・・・まさに、信玄にとってはラストチャンス!です。

「京を制する者は天下を制す」

元亀三年(1572年)10月・・・大軍を率いて甲斐を出発。
充分天下を狙える位置にいた信玄にとって、満を持しての上洛です。

途中、まだまだ青かった家康を三方ヶ原で撃破(12月22日参照>>)した信玄は、家康の居城・浜松城へは行かず、浜名湖畔で年を越し、翌・天正元年(1573年)に入って徳川方の三河(愛知県東部)野田城を目指すのです。

そして、天正元年(1573年)1月3日・・・野田城を包囲した信玄は、1月11日攻撃を開始します。

三方ヶ原で大敗したばかりの家康は、援軍を出してはみるものの、もはや、見守るばかりで、何もできずじまい。

2万5千とも数万とも・・・諸説あるものの、とにかく万単位の武田軍に対して、野田城を守るのは、城主・菅沼定盈(すがぬまさだみつ)は、わずか400程度

とてもじゃないが守りきれるはずは・・・と、思いきや、これが小城ながらも、意外に守りが堅く、信玄ともあろう者がけっこう手こずるのです。

そこで、信玄は、従軍していた甲斐の金山衆にトンネルを掘らせて、野田城の水源を断つ作戦に出ます。

強固な守りに城兵の士気も高かった野田城も、さすがに飲料水が無くては、長期にわたる籠城は不可能です。

それでも、何とか1ヶ月余り絶えた野田城でしたが、とうとう2月15日に降伏・・・城主・定盈は己の命と引き換えに、城兵の助命を申し出ます。

しかし、信玄は、定盈に切腹を申し渡す事はなく、徳川方に捕えられていた奥平貞勝との人質交換となり、幸いにも定盈自身は、家康のもとに戻ります。

この野田城の落城によって、三河での家康の防衛線は壊滅し、もはや岡崎城も風前のともし火で・・・おそらく、家康も、覚悟を決めた事でしょう。

もう、信玄の上洛への障害物は無くなった・・・かに見えました。

しかし、ここで、武田軍の西への進軍はストップします。

それどころか、突然甲斐に向かって後戻りをし始めるのです。

実は、この野田城の攻防戦の真っ最中のある夜の事・・・・
どこからろもなく、美しい笛の調べが聞こえてきます。

「そう言えば、野田城には、松林芳林(まつばやしほうりん)という笛の名手がいるという事を聞いた事がある・・・」
その事を思い出して、その清らかな笛の音を聞こうと、野田城に近づく信玄・・・

しかし、この野田城には笛の名手とともに、鳥井三右衛門(さんえもん・鳥居半四郎)という鉄砲の名手もいたのです。

三右衛門の放った弾丸は、見事!信玄に命中します。

そう・・・先の武田軍の後戻りは、信玄の死によるもの・・・と、この逸話は、たびたびドラマや映画の題材となり、信玄の最期は、大抵この逸話をもとにしてドラマチックに描かれます。

しかし、現実には、担当医師の書状という物が残っていて、そこには、信玄の病状の経過が事細かく記されて、どうやら持病の悪化・・・というのが本当のところのようです。

ただし、西へ進軍していた武田軍が、この野田城攻略を境に、後戻りをしたのは事実ですから、この時点で、信玄の病状が、限界に近いほど悪化していた事は確かでしょう。

そして、野田城攻防戦から3ヶ月後の4月12日、帰還途中の信濃(長野県)伊那にて、上洛の夢を果たせぬままに信玄はこの世を去るのです(4月12日参照>>)

力づくでスピード攻略・イケイケ派の信玄にしては、めずらしくじっくりとトンネルを掘っての城攻め・・・この野田城での攻防戦が、戦国武将・武田信玄の最後の戦いとなりました。
 

Singennodazyoucc 今日のイラストは、
野田城攻防戦の一場面・・・やはり、逸話とは言え、こちらのほうが断然ドラマチックなので・・・

たおやかに流れる調べに耳を傾ける『信玄最後の夜』といった感じでしょうか・・・
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2008年1月10日 (木)

五臓六腑って、どこ?

 

五臓六腑(ごぞうろっぷ)・・・・

よく、「いやぁ、こりゃ、五臓六腑にしみわたるねぇ」
な~んて事を言いますが、『五臓六腑』って何?どこ?って思いませんか?

もちろん、ホルモン焼きチェーンの五臓六腑じゃありません。

「体全体の事を指しているんだろうな?」という漠然とした意味はわかりますけど・・・実は、この五臓六腑、あの暦などでたびたび耳にする『陰陽五行説』とも関わりがあります。

『陰陽五行説』は、古代の中国で考えられるようになった哲学的な宇宙の法則。

「宇宙が、まず、始めに陰と陽の二つの気に分かれて、その陰と陽から、さらに五つ(五行)が流れ出て、この五行の相互作用で、地球上の万物を生み出した」
という物です。

五行と言うのは、「木・火・土・金・水」の五つの元素で、この世のすべての物が、この五元素によって形成されるというのです。

・・・で、その宇宙エネルギーである陰陽と、そこから出た五行ですから、当然、地上に生きる人間の状態にもそのエネルギー作用があるわけです。

そして、人間の体も、一つの小宇宙という考えから、それぞれが陰陽五行に当てはめられました。

Gozouroppucc_2陰=五臓が、肝臓心臓脾臓(ひぞう)
        腎臓の五つで、
陽=六腑が、胆嚢(たんのう)小腸
       大腸膀胱(ぼうこう)そして、
       三焦(さんしょう)の六つです。

この三焦というのは、上焦・中焦・下焦に分かれた、三つの生命を動作させる場所・・・という事ですが、現在の西洋医学では、それにあてはまる臓器はありません。

一応・・・
上焦が邪気を排出し、気を取り入れる場所。
中焦が食物を栄養に変える場所。
下焦が不要な物を排出させる作用の場所
・・・という事になってます。

この五臓六腑に、経路を通って陰陽2気の宇宙エネルギーが循環していて、順調に巡っている状態が健康。

経路に毒素が溜まって、順調に気が循環しなくなって、ある場所に止まった状態になるのが、「気が病んでいる」・・・つまり『病気』という風に考えたのです。

宇宙エネルギー(気)の溜まる場所がツボで、その場所に刺激を与えて、エネルギーを順調に循環させようというのが鍼灸、様々な薬を服用して巡りを良くしようというのが漢方薬

これらが、漢方医学へと発展していくのです。

このような中国の考え方が日本に伝わったのは、欽明天皇の頃(540年~571年)・・・あの仏教伝来(10月13日参照>>)とともに、朝鮮半島を経由してやってきます。

その後、推古天皇の時代(593年~628年)には、斐世清という人物率いるの使節団が海を越えて来日し、中国から直輸入されます。

さらに、小野妹子犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らの遣唐使たちによって、様々な書物が持ち帰られ、日本にも漢方が根付く事になるのです。

ところで余談ですが、上記の表を見ていただければわかるように、五臓=陰ののところにあるのが肝臓。
それに相対する六腑=陽ののところにあるのが胆嚢となっていますよね。

よく、心が通じ合った仲の良い関係の事を「肝胆あい照らす」と言いますが、この言葉は、五臓六腑の対応関係から生まれた言葉なんだそうです。
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2008年1月 9日 (水)

歴史クイズ~クイズの日にちなんで・・・

 

今日は1月9日・・・「いっ(1)きゅう(9)」の語呂合わせで「一休さんの日」・・・ではなくて、一休さんがとんちで有名なところから、1月9日は『クイズの日・とんちの日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

とは言え・・・一休さんはすでに、このブログに登場済みですし【一休さんのとんちは本当?】(2月16日参照>>)、クイズの歴史的な物は、以前、室町時代のなぞなぞについて書かせていただきました【なぞなぞのルーツ・室町時代の謎かけ】(4月22日参照>>)があるので・・・

とりあえず、今日は、お気楽な感じで、一つ、『歴史クイズ』などやってみようと思います。
どうぞ、肩の力を抜いて、挑戦してみてください。

答えを見るには・・・
PCの場合は「答」の右側「」内をマウスでドラッグして文字を反転させてください。
携帯で閲覧されている方はメニューから「テキストをコピー」を選んで、やはり「答」の右側の「」内の文字を反転させてみてください。

問題一:
607年に初の遣隋使として、中国に渡った小野妹子・・・
さて、中国人とどうやって会話をしたのでしょうか?
 1 日本から中国語を話せる者を連れて行った。
 2 途中の朝鮮で、通訳を雇った。
 2 妹子は朝鮮語が話せたので、中国側の朝鮮語の話せ
   る者と会話した。

1…鞍作止利(くらつくりのふくり)という渡来人が通訳として同行しています

問題二:
「和を以って貴(たっと)しと為す」で有名な、聖徳太子の十七条憲法・・・何語で書かれていたでしょう?
 1 日本人なんだから日本語
 2 ちょっとエエかっこして中国語
 3 最先端の渡来人が使っていた朝鮮語

2…この頃の公式文書は中国語です

問題三:
歴史に名高い源平の合戦・・・
平家が負けた一番の理由をあげるとしたら?
 1 清盛という大黒柱を失った。
 2 貴族化しすぎて戦いの備えをしていなかった。
 3 飢饉で腹がへっていた。

3…1180年~1181年にかけて近畿地方は未曽有の大飢饉に襲われました

問題四:
北条政子の本名は?
 1 名字なしで、ただの政子
 2 源政子
 3 平政子

3…北条家が伊豆平氏なので平政子(たいらのまさこ)です

問題五:
室町幕府8代将軍・足利義政は、あの雪舟に銀閣寺の襖絵を描くように命じますが、雪舟は、それを拒否します・・・
その言い訳は?
 1 「最近、病気で筆が持てませんのや」
 2 「お前なんかのために絵書くか!っちゅーねん」
 3 「お宅の家臣にもっと上手な人がいてまっせ」

3…雪舟が紹介したのが狩野正信、あの狩野派の元祖です

問題六:
ご存知、参勤交代の時の大名行列・・・
その歩くスピードはどのくらい?
 1 普通の旅人と同じくらい
 2 旅人のほうが早い
 3 大名行列のほうが早い

3…1日でも早く到着しないとそれだけ出費が多くなるので、メッチャ早かったんです

問題七:
子供時代の福沢諭吉は月代(さかやき)を剃るのが大嫌いだったとか・・・困った母親は、「ちゃんと散髪したらイイモンあげるよ!」と約束して我慢させたそうです。そのイイモンとは?
 1 甘いモン大好き!ようかん
 2 子供だけど大好き!お酒
 3 ちょっとエッチな浮世絵

2…甘党の諭吉少年ですが、お酒も大好きなのです

問題八:
1872年に東京に設置された郵便ポスト・・・しかし、この用途を間違えて使用する人が続出しました。
さて、何と間違えたのでしょう?
 1 トイレ
 2 目安箱
 3 消防用具入れ

1…郵便を垂便(たれべん)と読み違えたのです

問題九:
明治六年(1873年)、滋賀県では、「文明開化の世になっても、まだ、そんな事やってるんなら税金取るゾ!」と、ある江戸の名残の風習に税金をかけましたが・・・
さて、どれに税金をかけたでしょう?
 1 既婚女性のおはぐろ
 2 ちょんまげを結っての外出
 3 儀式の時の帯刀

2…なぜか、ちょんまげが一番嫌われていたようです

問題十:
では、最後に、日本の歴史を彩る古典文学作品の数々・・・
いくつ読めますか?

 1 蜻蛉日記
 2 和漢朗詠集
 3 狭衣物語
 4 更級日記
 5 千載集
 6 十訓抄
 7 十六夜日記
 8 冥途の飛脚
 9 寄生木
 10 細雪
答「かげろうにっき
答「わかんろうえいしゅう
答「さごろものがたり
答「さらしなにっき
答「せんざいしゅう
答「じっきんしょう
答「いざよいにっき
答「めいどのひきゃく
答「やどりぎ
答「ささめゆき

以上、10問・・・どうでしたか?
中には、難しいのもあったでしょ?
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2008年1月 8日 (火)

里見VS後北条~第二次国府台の合戦

 

永禄七年(1564年)1月8日、北条氏康軍が江戸川を越え、対岸に布陣する里見義弘軍に奇襲攻撃を開始・・・『第二次国府台の合戦』がありました

・・・・・・・・・・

天文七年(1538年)、小弓公方足利義明を交えて、ここ国府台(こうのだい)で一戦を交えた相模(神奈川県)北条氏と、安房(千葉県南部)里見氏・・・これを第一次国府台の合戦と言います(10月7日参照>>)

その後、北条氏は、天文十五年(1546年)の河越夜戦で勝利(4月20日参照>>)公方関東管領といった旧勢力を名ばかりの状態にして、関東北部へ勢力を伸ばしていきます。

一方の里見氏も、北条と一触即発の状態を保ちながら、関東に勢力を伸ばすチャンスをうかがい続けていたのです。

そして、第一次国府台の合戦から約30年・・・北条・里見それぞれの当主が息子たちへと継がれ、ふたたび、この地で雌雄を決する時がやって来るのです。

しかし、今度の戦いには、北条VS里見だけではなく、彼らの間には、戦国屈指の大物がからんでいました。

それは、越後(新潟県)上杉謙信甲斐(山梨県)武田信玄です。

永禄四年(1561年)、北条の勢いで、もはや名ばかりとなった関東管領・上杉憲政(のりまさ)から、その関東管領職を譲られた上杉謙信

しかし、この関東管領就任は謙信に重くのしかかってくる事になります。

なんせ、信州(長野県)の国境付近から越後を脅かす武田信玄を防ぐ一方で、これからは関東に勢力を振るう北条氏康とも戦わなければならなくなったわけですから・・・。

例の有名な第4次川中島の戦い(9月10日参照>>)でも、決着が着かずじまいの謙信と信玄・・・その後も、謙信は毎年のように関東へ出陣しますが、たいした成果も得られず、いぜん、関東は北条の支配が続くばかり・・・。

一方の信玄も、たびたび上野(群馬県)などへの進攻繰り返していました。

そんな永禄六年(1563年)、謙信は、里見義弘に密使を送り、関東に進出した信玄の背後を突くよう要請・・・謙信の要請を受けた義弘は、翌年・永禄七年(1564年)、明けて間もなく行動を開始します。

義弘は、武蔵(埼玉県)太田資正(すけまさ・太田道灌の曾孫)(9月8日参照>>)ら、太田一族に誘いをかけ、彼らとともに下総国府台まで進攻しますが、この時、里見勢に加わった太田一族の中に、太田康資(やすすけ)がいた事で、北条氏康が激怒するのです。

実は、この康資、氏康の娘を娶っていたのです・・・つまり、氏康にとって康資は娘婿という事になります。

北条と武田が同盟を結んでいる事は誰もが承知している事・・・なのに、百も承知で裏切った娘婿に、怒り心頭の氏康は、上杉・武田そっちのけで、2万の大軍を率いて利根川(現在の江戸川)を挟んだ敵の対岸に布陣したのです。

永禄七年(1564年)1月8日の真昼間、浅瀬を選んで一気に川を渡り、奇襲を仕掛ける北条軍・・・しかし、これを事前に察知していた里見軍はあっさりと攻撃をかわし、この日の合戦は里見の勝利に終わります。

しかし、その夜の事です。

国府台の陣にて宴会を開いて勝利の美酒に酔いしれる里見軍に対して、闇に紛れて密かに、その国府台を取り囲む北条軍・・・

翌・9日早朝・・・北条軍は、まだ、勝利の歓喜覚めやらぬ里見軍に、一気に総攻撃を仕掛けるのです。

思いっきり油断していた里見軍は、ものの見事にしてやられてしまいます。

ただ、記録によれば、この時の里見側の死傷者は5300人。

一方の北条側も3700人の死傷者を出した・・・という事なので、北条の大勝と呼ぶにはほど遠い、かなりの激戦であったようです。

しかし、ギリギリとは言え、勝利は勝利・・・義弘は慌てて安房へ、資正も居城・岩付(いわつき)城へと敗走します。

・・・で、結局、謙信と信玄は?・・・

その後、今度は信玄が、陸奥南部(福島県)芦名盛氏(もりうじ)に、「謙信の背後を突いてチョーダイ」と要請したりなんかしながら、結局、この半年後に、またまた川中島(第5次)でぶつかる事になるのですが、その時は、第4次の悪夢がお互いを警戒態勢に走らせたのか、本格的な決戦になる事はありませんでした(8月3日参照>>)

その後、謙信は北陸へ、信玄は東海へと路線変更したため、上杉VS武田のぶつかり合いよりも、むしろ武田と北条の同盟のほうが崩れてしまい、武田VS北条+今川(12月12日参照>>)の戦いへと進んで行く事になるのです。

それにしても、油断大敵です・・・勝利の美酒には、完全に勝ってから酔いしれなければ・・・
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5月の歴史の出来事カレンダー

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

5syoubucc

出来事とリンク
1  .
 .
1560
 .
1561
 .
1602
 .
1615
 .
1868
扇の日
 【江戸の媚薬・イモリの黒焼き】
今川義元が出陣命令を発する
 【今川義元・出陣の理由は?】
十河一存が死去
 【三好政権を支えた「鬼十河」~十河一存】
徳川家康が二条城の築城を命令する
 【二条城・・・その動乱の歴史】
後藤又兵衛が平野へ出陣
 【夏の陣~幸村の平野・地雷火伝説】
白河口攻防戦
 【会津戦争・勃発~白河口攻防戦】
2  .
 .
713
 .
1213
 .
1583
 .
1589
 .
1667
八十八夜(閏年は5/1・たまに5/3)
 【夏も近づく八十八夜♪雑節のお話】
風土記の編さんを開始する
 【丹後風土記の「浦の島子」の物語】
和田義盛の乱
 【幕府を揺るがす和田合戦】
織田(神戸)信孝・自刃
 【報いを待つのは秀吉か?信雄か?】
雑賀(鈴木)孫一・没
 【重秀・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一】
江戸幕府が「堕胎禁止令」を発令
 【本邦初?大江戸・堕胎禁止令】
3 1183
 .
1569
 .
1576
 .
1609
 .
1917
越前・加賀の合戦
 【倶利伽羅峠の前哨戦!越前・加賀の合戦】
毛利元就が立花城を奪回
 【毛利元就・九州制覇へ~立花城・攻防戦】
天王寺合戦
 【織田信長VS石山本願寺~激戦!天王寺】
京極高次・没
 【姉と嫁のおかげで大出世?ホタル大名】
伊沢修二が没す
 【近代日本の教育者…伊沢修二】
4 850
 .
878
 .
1555
 .
1578
 .
1586
橘嘉智子(檀林皇后)・没
 【美しき者も高貴な者も~皇后・橘嘉智子】
藤原保則が蝦夷制圧に出発
 【善政で蝦夷を制圧した藤原保則】
ノストラダムスが『諸世紀』を出版
 【ノストラダムスの大予言】
秀吉が上月城の支援に向かう
 【信長に見捨てられた上月城…奮戦空し】
荒木村重・没
 【荒木村重・謀反の真意は?】
5  .
 .
668
 .
1520
 .
1615
こどもの日・端午の節句
 【端午の節句は女の祭り】
蒲生野で狩りが催される
 【額田王を巡る三角関係2】
等持院表の戦い
 【管領職・争奪戦~等持院表の戦い】
夏の陣・前夜、木村重成が兜に香を…
 【露と消え…木村重成の夏の陣・前夜】
6 763
 .
1571
 .
1587
 .
1615
鑑真和上・没
 【男・鑑真、66歳…6度目で悲願の来日】
箕浦の戦い
 【信長&秀吉VS浅井~箕浦の戦い】
北条綱成が没す
 【「地黄八幡」の闘将…北条綱成】
大坂夏の陣
 【大坂夏の陣・開戦!】
 【後藤又兵衛・起死回生の大坂夏の陣】
 【奮戦!薄田隼人IN夏の陣】
 【若江に散った四天王=木村重成】
 【八尾の戦い~ちょっとイイ話】
7 1333
 .
1568
 .
1582
 .
1602
 .
1615
 .
 .
 .
 .
 .
1703
足利高氏が六波羅探題を攻撃
 【六波羅探題攻撃…守る北条仲時】
謙信の母・虎御前が病没
 【両・長尾家のために…謙信の母・虎御前】
秀吉が、備中・高松城へ水攻めを開始
 【備中高松城・水攻めと吉川元長】
豊臣五奉行の一人・前田玄以・没
 【ただ一人生き残った運命の別れ道】
大坂夏の陣で大坂城総攻撃開始
 【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】
 【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦】
 【渡辺糺と母・正栄尼の最期】
 【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】
 【大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語】
『曾根崎心中』初上演
 【近松門左衛門と曾根崎心中について】
 【大江戸心中ブーム】
8  .
 .
1605
 .
1615
世界赤十字デー
 【世界赤十字デー】
織田秀信(三法師)・没
 【信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い】
大坂夏の陣・大坂城落城
 【大坂夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説】
 【自害した淀殿の素顔と生存説】
 【脱出した秀頼の娘は・・・】
 【唯一の脱出成功者・明石全登】
 【落城記念~大阪城の怖い話】
 【「秀頼自刃・山里丸の遺構発見」のニュース】
9 1183
 .
1333
 .
1564
 .
1724
般若野の合戦
 【義仲・快進撃の幕開け!般若野の合戦】
六波羅探題北方・北条仲時ら432人が自刃
 【432名の忠臣と供に…北条仲時・自刃】
三好長慶が弟の安宅冬康を謀殺
 【やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶】
前田綱紀が没す
 【加賀百万石の中興の英主…前田綱紀】
10 1333
 .
1354
 .
1605
 .
1863
 .
1900
千早城攻防戦・終結
 【楠木正成・最大の見せ場!千早城の戦い】
南朝の総参謀:北畠親房が没す
 【後醍醐天皇を支えた北畠親房】
徳川家康の上洛要請を豊臣秀頼が拒否
 【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係】
長州藩が下関に停泊中の米商船に砲撃
 【長州が外国船を攻撃!下関戦争・勃発】
『鉄道唱歌・第一集』発行
 【空前のヒット!鉄道唱歌のプロモーション】
11 1183
 .
1333
 .
1865
 .
 .
 .
1869
 .
 .
1891
倶利伽羅峠の合戦
 【義仲・圧勝!倶利伽羅峠の合戦】
新田義貞が小手指原で幕府軍に勝利
 【鎌倉討幕…新田義貞の挙兵】
人斬り以蔵こと岡田以蔵が処刑される
 【半平太さま命!人斬りに徹した岡田以蔵】
武市半平太(瑞山)は切腹する(閏5月)
 【土佐勤皇党・武市半平太~切腹す】
函館戦争・総攻撃開始
 【総攻撃開始~土方歳三・最期の日】
 【土方最後の命令を預かった市村鉄之助】
ロシア皇太子襲撃・大津事件
 【ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・1】
 【ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・2】
 【大津事件…その後】
12 653
 .
1186
 .
1469
 .
1534
 .
1574
 .
1583
 .
1600
鎌足の息子・定恵が唐へ出発
 【鎌足の息子=定恵の留学】
源行家が斬首される
 【寄らば大樹の陰も最後に~行家・斬首】
東常緑が斎藤妙椿と会見
 【和歌で領地を取り戻す~歌人・東常緑】
織田信長・誕生
 【織田信長さんのお誕生日なので・・・】
第二次高天神城の戦い
 【武田勝頼が高天神城を奪取】
賤ヶ岳に敗れた佐久間盛政を処刑
 【「鬼玄蕃」佐久間盛政の最期】
家康がウィリアム・アダムス(三浦按針)らと会見
 【三浦按針ことウィリアム・アダムスのその後】
13 1401
 .
1477
 .
1566
 .
1868
足利義満が遣明使節を派遣
 【ペコペコ外交でトクトク貿易…義満の戦略】
長尾景春の乱・用土原の戦い
 【太田道灌とライバル・長尾景春】
信長の妻・生駒吉乃が死去
 【信長、最愛の女性~生駒吉乃】
北越戊辰戦争・朝日山争奪戦
 【朝日山争奪戦~河井継之助の決意】
14 1221
 .
1561
 .
1578
 .
1588
 .
1606
 .
1878
承久の乱・勃発
 【承久の乱勃発で北条政子・涙の演説】
織田信長と斉藤龍興~森部の戦い
 【森部の戦い…前田利家の復帰】
上月城に大砲が撃ち込まれる
 【毛利VS尼子…上月城の大砲争奪戦】
佐々成政・切腹
 【黒百合事件と呪いの黒百合伝説】
榊原康政・没
 【歯に衣着せぬ…徳川四天王・榊原康政】
大久保利通・暗殺
 【大久保の見た二つの夢~悪夢と未来】
15  .
 .
1333
 .
1338
 .
1615
 .
1868
 .
1873
 .
1932
葵祭(路頭の儀=王朝行列)
 【徳川家だけ、なぜ葵?家紋のお話】
分倍河原の戦い
 【起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い】
畠顕家が後醍醐天皇に奏状を呈す
 【後醍醐天皇に苦言…北畠顕家の奏状】
長宗我部盛親・斬首
 【盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣】
上野戦争
 【幕臣の意地・彰義隊~散り行く上野戦争】
妻からの離婚請求権が認められる
 【三くだり半~江戸の離婚事情】
五・一五事件(犬養毅・暗殺)
 【「話せばわかる」から「問答無用」へ】
16 1336
 .
1441
 .
1571
 .
1575
 .
1869
楠木正成が兵庫に出発
 【楠木正成&正行…桜井の別れ】
結城合戦で敗れた春王と安王が殺害される
 【鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦】
織田信長が長島一向一揆を攻撃
 【信長 最大のピンチ!対・長島一向一揆戦】
奥平の伝令・鳥居強右衛門が磔になる
 【史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商】
遊撃隊・伊庭八郎が没す
 【銃弾に倒れた隻腕の剣士…伊庭八郎】
中島三郎助が戦死
 【函館に散ったサムライ…中島三郎助】
17 1600
 .
1804
 .
1809
 .
1868
 .
1927
芳春院(まつ)が江戸へ向かう(20日とも)
 【前田利家の妻・まつの江戸下向の謎】
喜多川歌麿が手鎖50日の刑に・・・
 【遠島・入墨・百タタキ~江戸の刑罰色々】
間宮林蔵が、間宮海峡を発見
 【忍者・間宮林蔵 樺太発見の後に・・・】
原田左之助・没
 【「もっと生きていて…」~死にぞこね左之助】
大審院で不倫は貞操義務違反の判決
 【公認?明治に浮上した「権妻」の話】
18  .
 .
736
 .
1575
 .
1576
 .
1869
ことばの日
 【ことばの日】
インド僧・菩提僊那が来日
 【奈良にやって来たインド僧…菩提僊那】
織田・徳川連合軍が設楽原に到着
 【設楽原で準備万端…どうする?勝頼】
本願寺顕如が上杉謙信と和睦
 【北陸争奪戦~謙信と信長と顕如と…】
函館戦争・終結
 【五稜郭開城!蝦夷共和国 最後の日】
 【敵味方の区別なく・・・医師・高松凌雲】
19 1560
 .
 .
 .
 .
1565
 .
1570
 .
1574
 .
1579
 .1645
 .
1855
 .
1868
 .
1910
桶狭間の合戦
 【一か八かの桶狭間の戦い】
 【二つの桶狭間古戦場】
 【名を挙げた毛利良勝と服部一忠】
 【桶狭間の戦い~その時、家康は・・・】
足利義輝が暗殺される
 【剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期】
信長が杉谷善住坊に狙撃される
 【逃げる織田信長を狙撃した杉谷善住坊】
真田幸隆(幸綱)が死去
 【謀将と呼ばれた真田の祖~真田幸隆】
丹羽長秀が玉巻城を攻撃
 【織田信長軍による福知山攻略戦】
宮本武蔵・没
 【宮本武蔵は名人か?非名人か?】
安中藩で「安政遠足」開催
 【板倉勝明~「安政遠足」侍マラソン】
北越戊辰戦争で長岡城が陥落
 【ガトリング砲も空しく~長岡城・陥落】
ハレー彗星が地球に最接近
 【ハリーとハレー彗星の話】
20 626
 .
1467
 .
 .
1496
. 
1575
 .
1614
 .
1863
蘇我馬子が死去
 【謎が謎呼ぶ蘇我馬子の時代】
応仁の乱・勃発
 【応仁の乱・勃発】
 【応仁の乱のきっかけとなった足利義視】
日野富子が没す
 【悪女?有能政治家?日野富子】
武田勝頼が進発し酒井忠次が奇襲作戦に
 【長篠の勝敗を決定?鳶ヶ巣山砦・奇襲】
前田利長・没
 【加賀百万石~前田利長・毒殺疑惑】
姉小路公知が猿ヶ辻にて暗殺される
 【鬼門の猿が目撃者?公知・暗殺事件】
21 1333
 .
1575
 .
 .
 .
1615
新田義貞が稲村ケ崎の干潟から奇襲
 【新田義貞・稲村ケ崎の龍神伝説】
長篠の合戦・設楽原の戦い
 【決戦!長篠の戦い】
 【長篠の合戦!武田の真の敵は?】
 【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】
佐野道可(内藤元盛)・切腹
 【毛利の存続を賭けた「佐野道可事件」】
22 1333
 .
 .
1338
 .
1865
 .
1874
 .
1891
 .
1903
 .
1904
北条高時の自刃で鎌倉幕府が終わる
 【鎌倉炎上…北条高時・自刃】
 【鎌倉幕府の滅亡】
北畠顕家が戦死
 【無双の勇者…北畠顕家の最期】
長州征伐・奏上のため徳川家茂が上洛
 【いかにして長州征伐は始まったか?】
台湾征討軍が台湾に上陸
 【近代日本初の対外戦争・征台の役】
エジソンが活動写真を公開
 【映画の歴史】
藤村操が華厳の滝で投身自殺
 【夏目漱石をも悩ませた一高生の投身自殺】
上野彦馬・没
 【日本初の写真家・彦馬の伝えたかった事】
23 1333
 .
1561
 .
1615
 .
1634
 .
1868
 .
1877
後醍醐天皇が京に向け船上山を出発
 【「鎌倉炎上…北条高時・自刃」の後に】
美濃十四条の戦い
 【信長VS斉藤龍興…美濃十四条の戦い】
豊臣秀頼の遺児・国松が処刑される
 【事実は大河ドラマより~秀頼の子供たち】
豪姫・没
 【「男なら関白」秀吉最愛の秘蔵っ子・豪姫】
飯能戦争
 【イケメン揃い幕末・上野の後の飯能戦争】
日本初の気球実験
 【明治の珍事件~風の神様の落し物?】
24 699
 .
1185
 .
1576
 .
1636
 .
1868
役行者が流罪となる
 【役行者の流罪のウラに利権問題?】
源義経が大江広元に兄への手紙を託す
 【義経の腰越状】
前田利家が越前一向一揆平定
 【越前一向一揆虐殺「呪いの瓦」】
伊達政宗が没す
 【齢70…晩年の伊達政宗】
徳川宗家に駿河70万石が与えられる
 【徳川の未来を託された幼き主・徳川家達】
25 1336
 .
 .
 .
1755
湊川の戦い
 【新田義貞…小山田高家の忠義】
 【楠木正成…七生報国・湊川の戦い】
 【楠木正成伝説】
【宝暦治水事件で平田靭負が自刃
 【薩摩義士・平田靭負 男の決断】
26 1180
 .
 .
1514
 .
1560
 .
1863
 .
1877
宇治の橋合戦で以仁王と源頼政が敗れる
 【源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦】
 【以仁王・生存説】
越後永正の乱・終結
 【守護・上杉定実VS守護代・長尾為景】
長浜表の戦い
 【長宗我部元親・初陣!長浜表の戦い】
田中新兵衛が自殺する
 【真犯人?冤罪?人斬り新兵衛は語らず】
木戸孝允が京都で没す
 【「逃げの小五郎」で逃げまくった孝允も…】
27 1235
 .
1482
 .
1567
 .
1579
 .
1590
 .
1615
 .
1868
 .
1905
百人一首・完成
 【百人一首に隠された暗号】
陶弘護が暗殺される
 【大内の留守を守った若き重臣・陶弘護】
信康と徳姫が結婚する
 【信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫】
安土宗論
 【法華宗VS浄土宗の安土宗論】
堀秀政が病死
 【大器が満たぬうちに…秀政・無念の病死】
増田長盛が自刃
 【五奉行・増田長盛…最後の大仕事】
箱根戦争
 【遊撃隊奮戦!ここが最後の箱根戦争】
日本海海戦
 【日本海海戦・伝説の東郷ターンは?】
28 880
 .
1193
 .
1467
 .
1575
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1582
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1615
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1865
在原業平・没
 【伊勢物語に見る藤原氏への抵抗】
曽我兄弟の仇討ち
 【曽我兄弟の仇討ち もう一人のターゲット】
足利義政が山名・細川両軍に停戦命令
 【応仁の乱~初戦は激しい五月合戦】
立花道雪が娘の誾千代に家督を譲る
 【わずか7歳で女城主となった立花誾千代】
明智光秀が愛宕山で連歌会を催す
 【連歌会の句は本能寺の意思表明か?】
賤ヶ岳七本槍の一人・片桐且元が自刃
 【方広寺鐘銘事件・片桐の交渉空しく・・・】
長州藩の椋梨藤太が斬首される
 【動乱に散った長州の保守派・椋梨藤太】
29  .
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.
1177
 ,
1582
 .1590
呉服の日
 【江戸時代の帯結び…呉服の日に因んで】
 【たっつけ袴を作ってみました】
鹿ヶ谷の陰謀
 【悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀】
徳川家康が堺を見物する
 【本能寺の変~家康・黒幕説について・・・】
石田三成が館林城を攻略
 【館林城・攻防戦と「狐の尾曳伝説」】
30 1868
 .
1934
沖田総司・没
 【新撰組・沖田総司の最期】
東郷平八郎が没す
 【東郷平八郎…最期の時】
31  .
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1911
 .
1941
世界禁煙デー
 【明治の珍騒動~未成年・喫煙禁止令】
タイタニック号の進水式
 【タイタニック号にまつわる不思議な話】
内務省が迷信暦を禁止
 【やっぱり気になる?大安・仏滅って何よ】
 1868 山本覚馬が新政府に建白書を提出
 【山本覚馬の建白書『管見』】
第2日曜 母の日
 【母の日の起こり】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・18日 観音様の縁日
 【観音様のお話】
毎月・19日 トークの日
 【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
毎月・24日 かつお節の日
 【かつお節の歴史】
愛宕の縁日
 【愛宕神社のお話】
地蔵の縁日
 【お地蔵様のお話】
毎月・25日 天神の縁日
 【菅原道真・没】
毎月・26日 風呂の日
 【お風呂の歴史】
毎月・28日 鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
不動明王の縁日
 【不動明王のお話】
毎月・30日 みその日
 【お味噌の歴史+味噌天神のお話】
毎月・末日 そばの日
 【お蕎麦の歴史】

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2008年1月 7日 (月)

応仁の乱のきっかけとなった足利義視

 

延徳三年(1491年)1月7日は、足利義視さんのご命日です。

足利義視(よしみ)は、あの銀閣寺で有名な室町幕府8代将軍・足利義政の弟で、その後継者である9代将軍の座をめぐって、歴史上屈指の大乱・応仁の乱のきっかけを作る人でもあります。

義視さんの心の奥底は、もちろん彼本人しかわかりませんが、はたして本当に彼は最初から将軍の座を狙っていたのでしょうか?

・・・・・・・・・・・

一般的には、応仁の乱の勃発をもって「戦国時代の始まり」とする事が多いですが、実は戦国時代になるべき前兆は、6代将軍・足利義教(よしのり)の頃から、すでにありました。

話はさかのぼりますが・・・
3代将軍・足利義満によって、崩れぬ将軍家を造りあげたかに見えた足利家でしたが、それも順調だったのは、4代将軍の義持(よしもち)の頃まで・・・

代々足利将軍は、現将軍が次期将軍を指名する形で引き継がれていましたが、5代将軍・足利義量(よしかず)が19歳という若さで、次期将軍を指名しないいまま亡くなってしまいます。

そのため、4代将軍の義持が、将軍が空席のまま政務をこなしていましたが、この義持も、次期将軍を指名しないまま死去します。

そして、残った将軍候補四人の中から、くじ引きで将軍の座を引き当てたのが6代将軍の義教だったのです。

そんな義教が、すでに鎌倉公方管領の間に溝ができているのを幸いに、公方の足利持氏を攻め滅ぼし(2月10日参照>>)、守護大名の一色義貫(よしつら)土岐持頼(もちより)謀殺したりしたために、不安になった備前の守護大名・赤松満祐(みつすけ)によって殺されてしまいます。(6月24日参照>>)

くじ引きで将軍を選ぶのも前代未聞なら、その将軍が守護大名に殺されてしまうのも前代未聞です。

やがて、1年半の空席の後、将軍の座についた7代将軍・足利義勝(よしかつ)は、在位わずか1年で病死・・・その年齢が10歳だったため、またまた5年間の空席があり、やっと8代将軍・足利義政・・・となったのです。

長い前置きになりましたが、要するに、この頃の足利将軍にとって、現将軍が次期将軍を指名せずに亡くなる事や将軍の席が空席になる事はトラブルのもと・・・絶対に避けたい状況だったのです。

そんな中、将軍になった義政・・・その義政の奥さんが、かの日野富子です。

16歳で義政に嫁いだ富子でしたが、最初に出産した男の子は、出産後まもなく死亡し、その次に女の子が二人続きます。

義政は、ご存知のように政務がキライで、趣味に走った人・・・おかげで、東山文化という、日本建築や日本庭園、侘び、さびといった、いわゆる和風の基礎となる文化が花開く事になるわけですが、彼は、とにかく早く将軍の座を退いて、気楽な身分で趣味に没頭したくてたまらなかったのです。

しかし、先ほども書きましたように、将軍の座を空席にするわけにはいかず、自分が隠居するためには次期将軍を決めておかなければなりません。

もともと、あまり夫婦仲が良くなかった二人・・・義政は、「もはや男の子は望めない」と早々とあきらめて、弟を次期将軍に決めてしまうのです。

それが、足利義視です。
彼は、幼い頃に仏門に入れられ、浄土寺の僧侶となって、義尋(ぎじん)と称していました。

おそらく、当時は将軍になるなど考えてもいなかった事でしょう。

そんな彼が、修行を積んで一人前の僧侶になった途端、「還俗(僧侶から一般人に戻る事)して、次期将軍になってチョーダイ」と兄・義政からのラブコール。

あまり、乗り気ではなかった彼に、義政は、「わざわざ還俗させる限りは、もし、今後、男の子が生まれても後継者にはしない」という条件をつけて、是非にとお願い・・・

「そんなに言うなら・・・」と、彼は還俗して義視と名乗り、富子の妹を正室に向かえ、将軍となる日を待つ事となります。

どころが、それから間もなく富子は妊娠(夫婦仲悪かったんちゃうんかい!)、一年もたたないうちに男の子を出産してしまいます。

後の義尚(よしひさ)です。

当然の事ながら、富子はわが息子を次期将軍に・・・と望みます。

しかし、すでに「たとえ、男の子が生まれても・・・」という条件を出しちゃってますからねぇ。

富子は夫・義政をけしかけます。
「アンタ!義尚が小さい間は将軍やめたらアカンでぇ。」

Ouninnoransoukanzucc そう、まだ義尚が幼い間に義政が隠居したら、当然、次期将軍は義視です・・・と、いうか、そうでなくても、もう決まってしまっているわけで・・・こうなったら、富子としては、少しでも長く、義政に将軍でいてもらって、その間に何とか義尚を次期将軍の座につけるよう画策するしかありません。

ならば・・・と、富子は、幕府の実力者・山名宗全(持豊(3月18日参照>>)に近づきます。

一方の義視も、一刻も早く隠居したがっていた兄が、いつまでたっても将軍を辞めない現状を見て、子供が生まれて気が変わった事を悟り、富子に対抗して、元管領の細川勝元に相談します。

そこへ、もともとそれぞれの家内で、後継者争いをしていた管領家の畠山氏斯波(しば)が、義尚派と義視派に分かれ、諸国の守護大名も、いずれかの派にくっつく・・・といった戦いの構図が生まれるのです。

こうして、日本を真っ二つに分けた応仁の乱が勃発する事になります。(5月20日参照>>)

・・・で、ご存知のように、10年余りの長きにわたって京の町を焼き尽くした大乱も、決着が着かないまま、山名宗全・細川勝元の両大将の病死により、終わりを告げる事になるのですが、その後も、富子の画策は続き、その頃には、ようやく、義政と義視との間にも講和が成立し、9代将軍は足利義尚となります。

しかし、その義尚は、長享元年(1487年)、出陣中に25歳の若さで亡くなってしまいます(12月2日参照>>)

義尚には、まだ後継者がいなかった事から、10代将軍の座は、義視の息子・義材(よしき)に転がり込んで、ここでようやく義視は将軍の父という形で、念願を果たす事になります。

しかし、それもつかの間、あの時、講和は成立したものの、大乱まで引き起こした富子と義視の間がうまくいくわけもなく、結局、二人はもとの対立関係に・・・

そして富子は、亡き勝元の息子・細川政元と結託し、今度は義視VS政元の構図ができあがる事になるのですが・・・そんな延徳三年(1491年)1月7日義視は、53歳のその生涯を閉じるのです。

思えば、将軍になるなど、考えてもみなかった僧侶の頃・・・。

しかし、たとえ最初は「別に」と思った物でも、いったん「譲る」と言われた後に「やっぱりダメ~!」と言われれば、なんだか欲しくなるのが人情という物です。

そのまま、そっとしておいてくれれば、僧侶としての人生を真っ当したかも知れない義視さん・・・

彼は、遊び好きの兄・義政と、わが子大好きママの富子に、大きく人生を狂わされた、時代の犠牲者なのかも知れません。
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2008年1月 6日 (日)

徳川慶喜の敵前逃亡~その本心は?

 

慶応四年(1868年)1月6日、3日から始まった鳥羽伏見の戦いでの幕府軍の負けを聞いた徳川慶喜が、密かに大坂城を抜け出し、江戸へ逃亡しました

・・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)10月、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が行った大政奉還(10月14日参照>>)は、天皇の下に幕府主導の新組織を置いて・・・という、言わば幕府生き残り作戦でした。

それに対抗して12月には、薩摩藩の大久保利通と公卿・岩倉具視が、幕府を徹底的に排除し、天皇自らが政権を握る王政復古の大号令(12月9日参照>>)を発します。

当然、幕府はこの王政復古の大号令というクーデターを前面否定し、両者は対決する事になります。

明けて、慶応四年(1868年)1月2日、幕府軍が朝廷へ宣戦布告の書状を提出するために挙兵し、翌3日に、薩摩がその隊列に大砲を撃ち込む・・・こうして、幕府VS新政府の『戊辰戦争』が始まったのです。
  ●大坂湾での海戦:1月2日参照>>
  ●鳥羽伏見での激突:1月3日参照>>

この、最初の決戦を、その起こった場所から『鳥羽伏見の戦い』と呼びますが、この時、新政府軍の3倍ほどの兵力を持っていたにもかかわらず、幕府軍は敗走してしまうのです(1月5日参照>>)

そして、幕府軍の敗戦を大坂城で聞いた将軍・慶喜は、慶応四年(1868年)1月6日の夜・・・わずかな側近だけを従えて大坂城を脱出し、幕府の軍艦・開陽丸で江戸に帰ってしまうのです。

つまり、大坂城内にも、そして、鳥羽伏見の各戦場にも、兵を残したまま、トップだけが逃げちゃった・・・という事になります。

この、慶喜の行動は「大将の敵前逃亡」として非難の対象となるのですが、それには、「慶喜は決断力が無く、場当たり的な行動を取る人物であったから・・・」とか、「進軍をさせておきながら、自分はいつも逃げ腰だった」とか、批判的な意見が囁かれます。

このブログでは、先の戊辰戦争・勃発のページでも、この時の慶喜は、戦う意志が無かったであろう事を書かせていただきました。

では、その戦う意志が無かったというのは、一般的に言われるように、決断力が無かったから・・・あるいは、逃げ腰だったから・・・という事なのでしょうか?

この敵前逃亡の時の心境については、あまり多くを語らなかった慶喜さん。

しかし、晩年、息子にポツリと・・・
「あの時は、ああするしかなかった・・・あれが一番良かったんだ」
・・・と語った事があったそうです。

ひょっとしたら、この敵前逃亡は、彼の感情的で場当たり的な行動ではなく、考えに考え抜いたあげくの最善の決断だったかも知れないのです。

実は、彼が、大坂を捨て、江戸に帰って間もなく、フランス公使・ロッシュが彼のもとを訪れ、「フランスが全面的に協力するから、薩摩を倒せ」と言ったのを、慶喜はキッパリと断っています。

そうです。
慶喜が一番恐れていたのは、この内紛に乗じて、外国の勢力が日本を支配してしまう事・・・「それだけは、絶対に避けなければならない」と考えていたのではないでしょうか?

冒頭で、「大坂を脱出する時に、わずかの側近を連れて・・・」と書かせていただきましたが、その側近というのは、京都守護職の会津藩主・松平容保(かたもり)京都所司代の桑名藩主・松平定敬(さだあき)です。

京都守護職と京都所司代という京都を守る最も強力な軍の指揮官を連れて行ってしまった・・・指揮官がいないわけですから、当然の事ながら、残った兵は戦う事なく、大坂を明け渡すほかありません。

鳥羽伏見の戦い勃発の前後、大坂城内はとてつもない興奮状態だったと言います。

「日本人同士が戦う事を避けたい・・・」
慶喜の思いはただ一つ。

もちろん、以前も書かせていただいたように、そのうち、新政府にスキがあれば、天皇の下で幕府の各人が腕を振るうという事も考えていたでしょうが、とにかく、今、ここでの衝突は避けたい・・・。

しかし、将軍とは言え、慶喜一人で、テンションがマックスの兵士たちを、どうやって説得ができたでしょう。

これは、慶喜に戦う意志がまったくない事を、敵味方に表明するとともに、それが、突発的な行動ではなく、計画的に考えた行動である事を示していると思うのです。

後に、この時の様子を容保は・・・
「庭を散歩するのかと思ってついて行ったら、どんどん城の外に出てしまった」
・・・と、言っていたそうです。

やはりこの時、幕府内で、戦う意志が無かったのは、慶喜だけだったという事なのかも知れません。

それを、物語るかのように、江戸城を出て上野寛永寺に移った時も、故郷・水戸に戻った時も、その後静岡に移された時も、彼は、実に恭順な態度で、すべてを受け入れています。

弱腰と言われた敵前逃亡は、混乱を避け、外国につけ入れられないすきに、すみやかに日本を一つにまとめるための行動だったのではなかったでしょうか?

それゆえ、彼は、京都守護職と京都所司代を連れ、幕府で一番の軍艦に乗って大坂を去った・・・これ以上、幕府軍を戦わせないために・・・

私には、そう思えてなりません。

★このお話の続き=総大将がいなくなった大坂城は・・・
  徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎>>
  鳥羽伏見の戦い終結~大坂城の炎上>>  

★慶喜がかたくなに恭順を貫いたその奥底には・・・2009年1月6日の【慶喜の敵前逃亡~その原因は御三家にあり?】もどうぞ>>
 
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2008年1月 5日 (土)

キリシタン大名・高山右近、神に召される

 

慶長二十年(1615年)1月5日、茶人としても有名であったキリシタン大名高山右近が、マニラにてこの世を去りました
(6日・8日など、諸説ありますが、今日書かせていただく事にしました)

・・・・・・・・・

大友宗麟小西行長と並んで、キリシタン大名の代表格である高山右近・・・。

Takayamaukoncc 通称は彦五郎で、名は長房とも重友とも友祥とも言われます。

茶人としても有名な彼は「利休七哲」の一人に数えられ、号を南坊と称します。

12歳でキリスト教に帰依し、洗礼名はジュスト・・・。

これだけ名前がありながら、一番有名なのは、なぜか右近・・・。

この右近は呼び名だったという事ですが、やはり、今日のところは右近さんで行きます。

そもそもは、織田信長の上洛(9月7日参照>>)に乗じて、摂津一帯を手に入れた荒木村重の傘下となって、ドサクサまぎれ?にちゃっかり高槻城の城主となった高山氏

右近の父・友照熱心なキリスト教徒であった事から、その後、高槻にはたくさんの教会が建てられ、領民の多くも改宗し、領内は貧困の差もあまりなく、おおむね平和な国として運営されていました。

しかし、天正六年(1578年)、村重が信長に対して謀反を起した(5月4日参照>>)事から、その状況は一転します。

村重は父・友照に・・・
そして、信長は息子・右近に・・・
それぞれ味方につくように打診してきます。

要請に応じて村重のもとに参戦する父・・・。

悩む右近に追い討ちをかけるように、信長は「お前が来なければ、領内のキリスト教徒を皆殺しにしてやる」と脅してきます。

脅しとは言え、あの信長さんならやりかねない???

なんせ、あの長島一向一揆(9月29日参照>>)の記憶が、まだまだ生々しい頃ですから・・・。

父と領民の間で苦しみ抜いた末、彼は、信長の傘下となり、結果的に領民の命を救ったわけですが、そのわずか4年後、信長は本能寺にて倒れます(6月2日参照>>)

その11日後、中国からとって返し「主君の仇討ち」の大義名分を掲げた羽柴(豊臣)秀吉とともに、山崎の合戦(6月13日参照>>)では左翼の先陣を努めて明智光秀に勝利・・・その功績で、秀吉から明石六万石を与えられます。

また、秀吉と宣教師・コエリヨとの大坂城での謁見の案内役を務めたりもしました。

この頃の右近は、まわりの大名たちにも、熱心にキリスト教への改宗を勧め、まさにキリシタン大名の代表格として、大いに本領を発揮したノリノリの時でした。

しかし、そのコエリヨとの2度目の謁見で、秀吉の態度が一変します・・・そう、キリシタン禁止令を発令するのです(6月19日参照>>)

当然、右近にも改宗の命令が下るわけですが、今更・・・というより、もう、すでにどっぷりとキリスト教に浸かっている彼の思いが変わる事はありません。

命令に従わなかった右近は領地を没収され追放処分を受けてしまいます。

同じキリスト教徒だった小西行長に助けられ、しばらくは小豆島に隠れ住んだ後、加賀前田利家の口添えで金沢にやってきます。

ここで、細々と布教活動を続けていた右近でしたが、徐々に厳しくなるキリシタンへの弾圧・・・その間に関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、やがて慶長十七年(1612年)3月21日徳川のキリシタン禁止令が発令する(3月21日参照>>)事となります。

もう、細々と続ける活動さえ許されなくなった右近に、当然の事ながら、更なる処分が下ります。

その2年後の慶長十九年(1614年)、右近は、内藤如安とともに、フィリピンのマニラに追放されてしまうのです。

ただし、これには、「そろそろ大坂攻めを・・・」と企んでいた家康の、「少しでも豊臣の息のかかった敵になりうる可能性のある者を処分しておこう」という意図が裏にあったとも言われます。

現に、この年の7月には、大坂の陣の発端となる方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)が起こっていますから・・・。

もちろん、その事は豊臣方も察していたようで、右近を保護しようと、マニラ行きの船が出る長崎へ使者を走らせたという話も残っています。

しかし、この使者は間に合わず、長崎に到着した時は、すでに、右近の乗った船は出港した後だったのだとか・・・。

右近がマニラに発ったのは10月7日・・・この同じ日に、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)豊臣の呼びかけに答えて大坂城に入城しています(5月15日参照>>)から、もし、使者が間に合っていれば、右近も大坂の陣に参戦していたかも知れませんね。

やがて、1ヶ月余りの船旅の後、マニラに到着した彼らは、国賓待遇での歓迎を受けます。

なんせ、フィリピンはキリスト教一色でしたから、逃げ隠れする必要もなし・・・やっと右近にも安住の地が確保できたかに見えました

しかし、マニラに到着後わずか40日・・・慶長二十年(1615年)1月5日、熱病におかされた右近は、追放先のマニラにて64歳の生涯を閉じたのです。

彼のためにマニラ全市をあげて盛大な葬儀が行われたと言いますが、何とも・・・。

でも、キリスト教の観念から言えば、死は天に召され、神のそばに引き寄せられるという事であり、悲しむべきではないという事なので、右近さんにとっては、それこそ安住の地・・・乳と蜜の流れる地にようやくたどりつき、安らかなる眠りについたという事でしょうか。
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2008年1月 4日 (金)

名古屋城の伝説~金の鯱に触れた者は・・・

 

昭和十二年(1937年)1月4日、名古屋城の金の鯱のうろこ・58枚が盗まれるという事件が起こりました。

・・・・・・・・・・・・

「尾張名古屋は城で持つ」と言われるくらい、今現在も名古屋のシンボルである名古屋城

その名古屋城の天守に輝くのが金の鯱(しゃちほこ)です。

残念ながら、太平洋戦争で全焼してしまったために、現在の名古屋城は、昭和三十四年(1959年)の再建によるものですが、当時のお金で4千8百万という巨費を投じて、見事!復活した金の鯱は、やっぱり名古屋のシンボルである名古屋城のシンボルですよね。

そんな金の鯱が、昭和十二年(1937年)1月4日ミシン工をしていた佐々木賢一という男に盗まれたのです。

彼は、昼間のうちに天守閣に登っておいて、物陰にひそみ、夜になってから、おもむろに屋根に登り、金の鯱のうろこ・58枚分をはがして盗んだと言います。

しかし、犯人の名前も、その手口もわかっている・・・って事は、お察しの通り、彼はすぐに捕まってしまったんですねぇ~。

実は、この名古屋城・・・「金の鯱に触れた者は必ず捕まる」という言い伝えがあるのだとか・・・。

それは、一世一代の思いを込めて、この城を築城したあの加藤清正の思いが、この金の鯱に込められているからなのだそうです。

名古屋城は、その昔、織田信長が一時、本拠地としていた那古野城・・・そのお城が、信長が清洲城に移った後に廃城となっていたのを、関ヶ原の合戦後に事実上天下を取った徳川家康が、自らの江戸城を大坂方から守るための防御の城として構築を命じた物です。

その命に応じたのが、かの加藤清正・・・

清正は、石田三成への反発から、関ヶ原では東軍についたものの、豊臣家への思いは多分にあった人物です。

なんせ、あの「賤ヶ岳の七本槍」の一人ですから・・・。

秀吉亡き後の豊臣家を支え、関ヶ原合戦の後も、何とか豊臣家の存続を願って、家康と秀頼の間に入り、二条城での会見にこぎつけたお話は、以前、このブログでも書かせていただきました(6月24日参照>>)

この名古屋城の構築にも、その思いが込められていた事は確かでしょう。

それは、「家康へのごきげん取り」という意味だけではなく、大坂方が反抗心を持っていない安全な存在である事を、家康に印象づけたかったに違いありません。

家康のドギモを抜くような立派な城・・・堂々たる名城を造りあげて、その事を証明して見せたのです。

そして、家康の天下のもと、豊臣家が大名として末永く生き残っていく姿を、彼は夢見ていたのでしょう。

しかし、清正は、この城の完成を見る事なく亡くなります。

金の鯱は、彼の遺志を汲んで、大判1900枚余りが投じられ、その死後に天守閣に取り付けられました。

しかも、その後、彼の思いとはうらはらに、ご存知のように、豊臣家は滅亡してしまいます(5月8日参照>>)

やがて、江戸時代になって、名古屋の人々の間では、奇妙な噂が囁かれる事になるのです。

「豊臣の滅亡をあの世で知った清正は、家康に自分の思いが通じなかった事に怒り、その魂は冥土から舞い戻って、あの金の鯱に住みついたのだと・・・。

その時から、あの金の鯱に触れた者は、必ず、凶運に見舞われると言われるようになったのだそうです。

それ以来、誰も触れる事がなかった金の鯱・・・この昭和の犯人のスピード逮捕のウラには、清正さんの思いが影響していたのかも知れませんね。

もちろん、現在の金の鯱も、未だ、よこしまな人の手には、一度も触れられていません。
きっと、今も、清正さんは・・・。
 

Syatihokocc 今日のイラストは、
やっぱり。『金の鯱』ですよね~。

ちなみに鯱とは、魚の身体に虎の顔、背中に鋭いトゲのような背びれを持つ想像上の生き物・・・あの水族館でジャンプするシャチとは、別物だそうです。
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2008年1月 3日 (木)

羽根突きはただの遊びじゃない!羽子板の由来と起源

 

今日は、凧、独楽と並ぶお正月の遊び、『羽根突き』のお話をさせていただきます。

ご存知、羽根突きは、「和製バトミントン」といった感じのお遊び・・・羽子板なる板で、羽根をを打ち合うゲームです。

しかし、実は、この遊び・・・もともとは、単に、お正月に楽しむだけの遊びではなく、深い意味のある儀式とも言える物なのです。

その片鱗が垣間見えるのは、あのキレイに飾られた『羽子板』・・・あれが、単なる遊び道具であるなら、むしろ、押し絵などの美しい飾りが邪魔になるだけです。

美しい飾りがほどこされた羽子板は、きちんとケースに入れられ、家に丁寧に飾られる・・・この事が、羽子板がただの遊び道具ではない事を物語っていますよね。

それは、『世諺問答(せげんもんどう)という書物の中にあります。

『世諺問答』は、天文十三年(1544年)に、室町時代の無双の才人と呼ばれた公家の一条兼良(かねら)と、その孫の孫・兼冬(かねふゆ)によって書かれたもので、日本に古くからある風習やしきたりの由来や起源を、物知りの老人に尋ね、それに老人が答えるという問答形式で書かれた「しきたりマニュアル」のような書物なのです。

それによると・・・
『これはをさなきものの蚊にくはれぬまじなひなり。
秋のはじめに蜻蛉といふ虫出できては蚊をとりふくものなり。
胡鬼の子といふは、水連子などを蜻蛉頭
(とんぼがしら)にして、羽根をつけたり。
これを板にて突きあぐれば、おつる時、蜻蛉がへりのやうなり、さて、蚊をおそれしんがために、胡鬼の子といひはべるなり』

なのだそうです。

つまり、「蜻蛉(とんぼ)の形をまねた板で、蚊にみたてた羽根を打ち、トンボが蚊を取る姿を再現して、それを『胡鬼(こき)の子』と呼んだ」というのです。

文安元年(1444年)に書かれたとされる、室町時代の三大辞書の一つ『下学集』にも、胡鬼板(こきいた)を用いた胡鬼の子という遊びをお正月に行う事、その胡鬼板を贈り物にしていた事が書かれています。

蚊は、ご存知のように疫病を媒介します。

ワクチンの副作用の問題で、いま現在は希望者のみとなっている日本脳炎の予防接種・・・この日本脳炎という病気がコガタアカイエカという蚊によって運ばれるのは、皆さんもご承知の事だと思います。

「羽根突き=胡鬼の子」は、幼い子供が蚊に刺されないように、蚊に見立てた羽根を、トンボに見立てた板で突かせた「魔よけ」「病気よけ」の儀式だったのです。

ただ、永享四年(1432年)には宮中で「胡鬼の子の勝負」が行われたとの記録もある事から、神代の昔からあった相撲がそうであったように、この羽根突きも、儀式とは言え、勝負のある試合としても行われていたようです。

もちろん美しく飾られた羽子板を、贈り物として送ったり、ケースに入れて飾ったりという行為も、この病気を跳ね除ける「魔よけ」の意味が込められているのです。

胡鬼板が羽子板と呼ばれるようになるのは江戸時代になってから・・。

そして、羽子板市などでよく見かける、歌舞伎の役者絵などの押し絵の羽子板が作られるようになったのも、江戸時代からだそうですよ。

今年は一つ、その由来を踏まえ、お子様の健康と無事を祈って、羽根を突いてみようではありませんか!

Hanetukihanecc 今日のイラストは、
パルテル調の『羽根突きの羽根』を、幻想的にデザインしてみました~

ちなみに、羽根についている黒いオモリは、ムクロジという木・・・その実の中にある種だそうです。

ムクロジは漢字で書くと『無患子』
つまり、「子供が患(わずら)わない」・・・
こんなところにも、羽根突きの由来・起源がちゃ~んと生きているんですね~スゴイ!
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2008年1月 2日 (水)

いい夢見ろよ~初夢と七福神のお話

 

今日は、『初夢』のお話です。

初夢とは、年が明けて、初めて見る夢ですから、本来、1月1日の夜明け前か、その夜から2日のかけての睡眠中というのが、本当の「初」となるのでしょうが、一般的には1月2日・・・つまり、2日の夜から3日の朝にかけての睡眠中に見る夢の事を言うそうです。

2日の夜・・・というのが一般的になったのは、江戸時代頃からで、これは、初荷、初売り、書初め・・・等等、民間の事始が2日に多い事から、「1月2日が最初の日」という考えに基づいてではないか?と言われます。

やはり、江戸期の町民文化の発展とともに、「2日の夜=初夢」というのが一般的になったようですね。

一般的と言えば、「夢判断」で、最もめでたいとされる吉夢の種類は・・・
「一富士・二鷹・三茄子」
というのが、一般的ですよね。

このあとに、
「四扇・五煙草・六座頭」
と、続くそうですが、全国的に知られているのは、先の「三なすび」まで・・・。

しかし、これが、由来となると、まったくもってお手上げ状態・・・様々な説があるものの、どれも、あとづけ、こじつけっぽい雰囲気です。

一説には、あの徳川家康が隠居した後に・・・
「俺の国で、1番高いのは富士山。
 2番目が足高
(愛鷹)山。
 値段が高いのは初茄子だ」
と、言ったから
・・・というのがありますが、「なんで、3番目だけ値段の高さなの?」という違和感残りまくりです。

よく似た説では、家康が言った言わないに関わらず、これが駿河の「三大名物だ!」とするのもありますが、これも「山・山・野菜」となる事の不可思議さは同じです。

「三大仇討ち説」というのもあります。
以前、このブログでも登場した「日本三大仇討ち」・・・

・建久四年(1193年)5月28日の
 曽我兄弟の仇討ち(5月28日参照>>)
・元禄十五年(1702年)12月14日の
 赤穂浪士の討ち入り(12月14日参照>>)
・寛永十一年(1634年)11月7日の
 伊賀上野鍵屋の決闘(11月7日参照>>)

これが、その三大仇討ちなのですが・・・
富士の裾野の宴会場に突入した曽我兄弟は100%ヨシとしても、「赤穂浪士の紋が『鷹の羽』なので」というのは、ちょっと・・・って感じです。

それでも、何とか五分五分で許される範囲内としても、最後の「三に名を成す(茄子)伊賀上野」は苦し過ぎます。

「名を成す」「茄子」が当てはまるなら、何だって当てはまりますからね。

単に「縁起が良いから」という説でも、日本一で雄大な富士山と、勇猛果敢に獲物を捕え、空高く滑空する鷹は、何となくわかりますが、やっぱり3番目の茄子は、なぜ?たくさんある野菜から茄子が選ばれたのかが、今一つ納得できませんよね。

やっぱり謎です。

ところで、そんな良い夢を見るための方法として、昔から言い伝えられているのが・・・
「枕の下に、七福神の乗った宝船の絵を入れて眠る」
という、おまじないのような物・・・。

絵には、
♪ながきよの とおのねふりの みなめざめ
  なみのりふねの おとのよきかな♪

という、「上から読んでも下から読んでも同じ」=「回文」の歌が書かれていて、寝る前に、この歌を3回唱えて寝ると、良い夢が見られるという言い伝えです。

宝船以外にも、七福神と(ばく)が書かれた物もあるのですが、これは、獏が「悪い夢を食べてくれる動物」とされていた事に由来するもので、昔は、旧暦の正月・・・つまり、節分の夜に、枕の下に入れて寝ました。

七福神というのは、ご存知・・・

恵比須:蛭子尊と同一視(10月2日参照>>)
大黒天:大国主命と同一視(12月21日参照>>)
弁財天:音楽・弁才を司るインドの神様。
福禄寿:北極星のこと。
寿老人:中国の福寿の神様。
毘沙門天:四天王で十二天の一つ別名・多聞天。
布袋和尚:禅僧・契此(かいし)のこと。

以上の七神で、この七福神の信仰は室町時代・末期・・・商業が盛んになった頃から始まったとされています。

由来は、『仁王般若波羅密経(におうはんにゃはらみきょう)の下巻にある「七難即滅、七福即生」という言葉から七人の神様が創りだされたそうです。

そんな七福神を、最初に絵にしたのは、狩野派の3代目・狩野松栄(しょうえい・1519~1592年)で、あの桃山文化の代表的絵師・狩野永徳のお父さん・・・家康が、あの天海僧正から七福神の話を聞いて描かせたとも言われています。

この中で、福禄寿と寿老人は、ともに北極星を神格化した神様で、同一視されるところから、江戸時代の元禄の頃には福禄寿の代わりに吉祥天を入れて七福神とされていたそうです。

現在の7人が不動のメンバーになったのは、江戸も末期になってからの事だそうで、神社への七福神詣でなども生まれ、七福神信仰が最も栄えたのがこの頃。

初夢の宝船の絵の話も、どうやらこの頃に生まれたようです。
 

Hatuyumetakarabunecc 今日のイラストは、
やっぱり、『宝船と七福神』ですよね~。

枕の下に入れれば、今夜はいい夢が見られそう・・・かな?
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2008年1月 1日 (火)

ぶろぐ河原の落書2008~新年のごあいさつ

 

この頃 都にハヤル物
ルー語 どんだけ そのまんま
ハニカミ王子にオッパッピー

 

人気の女優はふてくされ 別に 別にと 返答チュ~
ネット難民がばい増え 仕事探しに五里霧中

 

反則 投げワザ かわいがり スポーツ精神失いチュ~
産地偽装に期限切れ 老舗精神失いチュ~

 

大食いブームに乗せられて ちょっとメタボが気にかかり
ビリーと一緒に鍛えれば ついていけずに挫折チュ~

 

嫁もいっしょの接待で 毎週末はゴルフチュ~
ちゃっかり貰った退職金 返す返さん思案チュ~

 

役人天国 民地獄 さらに格差は拡大チュ~
どげんかせんといかんげど 日々の暮らしに無我夢中

 

巨額事務所費 産む機械 しょうがないかと発言チュ~
出てくる 出てくる 社保庁の 消えた年金 捜索チュ~

 

KY(空気が読めない)独法に メスを振るえず停滞チュ~
着いた離れた 連立で 次の選挙を模索チュ~

 

 
鈍感力を養って 袋の鼠の国民も
首鼠両端な政治家に 窮鼠猫噛む事もある

 

今は大山鳴動し 鼠一匹だとしても
盛者必衰 時あえば いつか鼠も虎になる
 

Sinnennezumimoticc
 

まずは、昨年同様、建武の新政を風刺した“二条河原の落書”っぽく、「ネズミづくし」といった感じで、昨年の世相を振り返り、新年のご挨拶とさせていただきました~(昨年のはコチラからどうぞ>>)
 

では、あらためて・・・
皆様、あけましておめでとうございます

新年早々、ブログに遊びに来てくださって感謝感激です。

どうぞ、本年もよろしくお願いいたします。
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