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2008年1月25日 (金)

菅原道真は学者じゃない?その策謀的政治手腕

 

延喜元年(901年)1月25日、右大臣だった菅原道真が、第60代・醍醐天皇の命によって大宰府に左遷された事により、1月25日は『左遷の日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・

・・・って、人の不幸を記念日にしちゃっていいのか?
という疑問が残りつつも、今日のこの日に左遷された菅原のミッチャン・・・もう、皆さんご存知のように、復帰を訴え続けながら、赴任先の大宰府で非業の死を遂げ、その後、立て続けに起こった悪しき出来事によって、日本三大怨霊の一人に数えられるようになり、恐怖におののいた人々から『天神様』として祀られました(6月26日参照>>)

怨霊だった天神様が、やがては学問の神様として、多くの受験生の心の支えとなっているのも、ひとえに菅原のミッチャンが、学問一筋のマジメ人間だったというイメージが定着しているからでしょうね。

そんな学問一筋のマジメな人が、ワナにはめられた感満載で、左遷となり失意のまま死を迎える・・・だからこそ、そこに怨霊伝説が生まれ、祀られた後も、そのマジメさゆえに、学問の神様となる・・・。

確かに、菅原道真は、代々学者の家に生まれ、本人も学問肌である上に、当時としては異例の遅咲き、47歳までは、ただの国司だったわけですから・・・。

でも、その遅咲きには、当時は藤原一族全盛の時代であって、菅原家は、はなから出世コースには乗れないという背景もあったわけです。

しかし、そんな背景がありながらも、異例の遅咲きが異例の出世をし、最終的に右大臣まで、上りつめるのですから、そこには、「学問一筋のカタブツ」ではない何かを、彼は持っていたのでは?と、思えてなりませんねぇ。

彼の出世の糸口は、第59代・宇多天皇に重く用いられた事に始まるのですが、では、彼はどうやって宇多天皇の心を掴んだのか?

実は、宇多天皇が即位して間もなくの頃、藤原北家の藤原基経(もとつね)を関白に任命しようと、『阿衡(あこう)に任ず』という勅書(天皇の命令書)を出したところ、「阿衡とは位だけで、職をともなわない」として、基経は朝廷へ出仕しなくなったのです。

つまり・・・「上司が変わったんで、出社拒否ししゃいま~っす」てな感じです。

これを基経に進言したのは、基経に可愛がられていた学者の藤原佐世(すけよ)でした。

もちろん、宇多天皇にはそんなつもりはありません。
単に、当時普通に使われていた摂政・関白の異名として阿衡を使用しただけ・・・というか、この勅書の下書きをしたのが、天皇のお抱え学者の橘広相(ひろみ)という人・・・。

この広相は、自分の娘を宇多天皇の女御としていて、まさに学者界のトップを行く人なのです。

要するに、佐世が学者界のトップの座を狙い、ライバルを陥れようと、重箱の隅をつつくような「あげあし」をとった・・・というのが真相ぼようです。

結局、宇多天皇が「勅書の『阿衡に任ず』は自分の本意ではない」という内容の宣言をして、事態は丸く納まるのですが、基経のゴネ得、上であるはずの天皇が敗北感を味わう結果となってしまったのです。

この時、讃岐(香川県)に赴任していた道真は、宇多天皇の心の内を読み取り、基経に長い手紙を送ります。

そこには、基経をいさめるとともに、広相を養護する内容が書かれてあったと言います。

そう、彼は宇多天皇が言いたくても言えなかった事を、やりたくてもできなかった事をやってのけたのです。

この一発で、宇多天皇のハートをバッチリ掴んだ道真は、任期を終えて、讃岐から京へ戻った瞬間から、異例の出世を遂げていくのです。

それは、まさしく藤原一族が、その地位を犯されるのではないか?と恐怖を抱くほどの出世です。

そんな藤原氏が考えた「宇多天皇と道真の切り離し作戦」遣唐使の再開だったのです。

ここんとこ休んでいる遣唐使を再開して、その遣唐大使として道真を任命し、外国へ追い払ってやろうというのです。

しかし、道真はバッチリ防御します。

それが、寛平六年(894年)の、あの「白紙(はくし=894)に戻そう遣唐使」でお馴染みの、遣唐使の完全廃止です。(9月30日参照>>)

確かに、宇多天皇を納得させるだけの理由をつけてはいますが、なんだかんだ言っても、自分が任命された途端の廃止論提出です。

とてもじゃないが、学問一筋・世渡りべたのマジメ人間のする事ではありません。

さらに、その間に、娘を宇多天皇の息子・斉世親王に嫁がせています。

しかし、これが彼の命取りになるのです。

宇多天皇の後を継いで天皇になったのは、斉世親王ではなく、その兄の敦仁親王=醍醐天皇だったのです。

これは、ひょっとしたら道真の判断ミスかも知れません。

・・・というのも、この醍醐天皇の即位は、異例中の異例なのです。

そもそも、宇多天皇の父・光孝天皇にはたくさんの息子がいて、あまりに多いため、その中ほとんどの人がの姓を賜って臣籍に下っているのですが、第七皇子だった宇多天皇もその一人だったのです。

たった3年間ではありましたが、宇多天皇は、天皇家から離脱し、源氏を名乗っていた・・・実は、醍醐天皇はその時期に生まれた子供なのです。

天皇家を離脱していた時に生まれた子供が皇位を継承するのは、後にも先にも、この醍醐天皇以外に例はありません。

この時の道真のホンネは、「まさか兄の敦仁親王が皇位を継承するとは、思っていなかった」って感じかも知れませんね。

しかし、それでも、この時点ではまだ道真が失脚したわけではありません。

醍醐天皇も父・宇多天皇同様、道真をあつく信頼していましたから、昌泰二年(899年)2月14日には、この醍醐天皇のもとで道真は右大臣に任命され、人生の頂点となるのです。

しかし、この時、同時に左大臣になった藤原時平は、道真の判断ミスを見逃しませんでした。

「道真はあなたを失脚させて、弟の斉世親王を皇位につけようと画策している」
時平は、醍醐天皇にこう進言するのです。

実際に、道真の娘が斉世親王に嫁いでいる事が、逆にこの話に信憑性を持たせてしまいます。

醍醐天皇の道真を疑いはじめた気持ちは、もう止まりません。
・・・で、結局、延喜元年(901年)1月25日右大臣・菅原道真は大宰権帥(だざいごんのそつ)として、大宰府に左遷されるのです。

「なんだ、やっぱり無実の罪じゃん」
・・・と思うのは、まだ早い・・・

道真は、後に、大宰府に道真を訪ねていった藤原清貫(きよつら)に、
「自分からは誘ってはいないけど、源善(みなもとのよし)から、醍醐天皇の失脚を誘われて話し合った事がある」
と、告白しています。

つまり、具体的に行動こそ起していませんが、その気持ちはあったという事になります。

こうなると、もはや、政治と無関係の悲劇の学者ではありません。

菅原道真は、れっきとした政治家・・・それも様々な策略を張り巡らし、己の出世を夢見た人。

ただ、政治家同士の権力闘争に負けてしまったという悲劇はつきまといますが・・・
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コメント

時平ファンの私としては、道真を「学者」なんかじゃなくて、好敵手として見たいですね~♪
 野心満々の、シタタカなおじさん・・。基経と渡り合い、宇多天皇が実は恐怖するような(彼が、いわば道真を捨てたように見えるのは、本当に、この男のコワサがわかったからなんじゃないのか・・な~んて)。
 で、結局は、先祖伝来のお家芸のような策謀に満ちた藤原氏に軍配が上がった・・っていうのはどうでしょう。だからこそ、恨みもただ事ではないのでは?
道真がわが身を「天」に捧げたがどうかわかりませんが、とってもドラマチックな「怨霊伝説」・・・。もともとが、葬祭をつかさどる家柄ですから、此の世のことより、あの世でのほうが専門でしょう。だから、夢枕獏も安倍晴明と対決させたくなる・・? あ、これを書くと、また天神さまの「神罰」があたるか? 以前、あたったことああるのです(コケてドブにはまった!)。

投稿: 乱読おばさん | 2008年1月25日 (金) 09時53分

日本史初心者の私としては、面白い話ばかりです。
遣唐使の部分は、切り離し作戦だったのですね。面白い!
しかし、昔は、周りのうわさに左右される難しい時代だったんだなあ、と勉強するたびに思います。

投稿: きょうこ | 2008年1月25日 (金) 09時59分

あの道真は「学問の神様」というイメージさが強いですね。
遣唐使の廃止は894という年は、学生時代にあの暗記を思い出します。

また私のブログも見に来て下さい。

投稿: sisi | 2008年1月25日 (金) 17時02分

■乱読おばさん様・・・

あの平将門のところでも道真さんは登場しますからね~
平安時代におけるナンバー1のスターですね。
ナンバー1の怨霊に睨まれて、「ドブにはまる」ですんだのなら、それは、ラッキーな部類に入るのでは?

投稿: 茶々 | 2008年1月25日 (金) 17時22分

■きょうこさん・・・

まわりの噂や、娘を誰の嫁にするかで、出世が決まる・・・たいへんな時代です・・・

投稿: 茶々 | 2008年1月25日 (金) 17時24分

■sisiさん・・・

「年号覚え」が苦手な私も、これと、「鳴くよウグイス」「いい国つくろう」くらいは覚えていますww・・・

あ・・・今は、鎌倉幕府も「いいはこ=1185」になったそうですが・・・

投稿: 茶々 | 2008年1月25日 (金) 17時27分

田舎神主です。HN変えました。いやぁ…今日は左遷の記念日ですかぁ。それは初耳でしたねぇ。初天神てのは聞いた事も有るし同級生が北野天満宮に勤めてるんで知ってましたが、左遷の記念日になってるナンテ知ったら天神様もビックリでしょうね。

投稿: マー君 | 2008年1月25日 (金) 22時46分

田舎神主改めマー君さん・・・こんばんは~。

本文の冒頭に書いたように、私も驚きました。
『左遷の日』を記念日に・・・って、感じですね。

でも、千年以上に渡って、ここまでになれば、それも有名税みたいなモンですかね。

投稿: 茶々 | 2008年1月26日 (土) 00時25分

わたしも時平公ファンです。
もっと道真は悪い奴だと思います。
道真はそれはそれは精力絶倫男で少なくとも
子供(ガキ)が23人もいます。
時平公を高く評価している文書があるように
聞きましたが、なんだったか書名を忘れました。お分かり(御存じ)だったら教えてください。

投稿: あんあん | 2016年10月 8日 (土) 22時23分

あんあんさん、こんばんは~

時平さんは、『延喜式』や『日本三代実録』の編さんの中心人物だったですから、リーダーシップや政治力があった人なんでしょうね。

精力絶倫な話は『今昔物語』に出てきますが、政治力の評価のお話の出典書名は、私も忘れてしまいましたm(_ _)mスミマセン

投稿: 茶々 | 2016年10月 9日 (日) 02時37分

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