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2008年1月 6日 (日)

徳川慶喜の敵前逃亡~その本心は?

 

慶応四年(1868年)1月6日、3日から始まった鳥羽伏見の戦いでの幕府軍の負けを聞いた徳川慶喜が、密かに大坂城を抜け出し、江戸へ逃亡しました

・・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)10月、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が行った大政奉還(10月14日参照>>)は、天皇の下に幕府主導の新組織を置いて・・・という、言わば幕府生き残り作戦でした。

それに対抗して12月には、薩摩藩の大久保利通と公卿・岩倉具視が、幕府を徹底的に排除し、天皇自らが政権を握る王政復古の大号令(12月9日参照>>)を発します。

当然、幕府はこの王政復古の大号令というクーデターを前面否定し、両者は対決する事になります。

明けて、慶応四年(1868年)1月2日、幕府軍が朝廷へ宣戦布告の書状を提出するために挙兵し、翌3日に、薩摩がその隊列に大砲を撃ち込む・・・こうして、幕府VS新政府の『戊辰戦争』が始まったのです。
  ●大坂湾での海戦:1月2日参照>>
  ●鳥羽伏見での激突:1月3日参照>>

この、最初の決戦を、その起こった場所から『鳥羽伏見の戦い』と呼びますが、この時、新政府軍の3倍ほどの兵力を持っていたにもかかわらず、幕府軍は敗走してしまうのです(1月5日参照>>)

そして、幕府軍の敗戦を大坂城で聞いた将軍・慶喜は、慶応四年(1868年)1月6日の夜・・・わずかな側近だけを従えて大坂城を脱出し、幕府の軍艦・開陽丸で江戸に帰ってしまうのです。

つまり、大坂城内にも、そして、鳥羽伏見の各戦場にも、兵を残したまま、トップだけが逃げちゃった・・・という事になります。

この、慶喜の行動は「大将の敵前逃亡」として非難の対象となるのですが、それには、「慶喜は決断力が無く、場当たり的な行動を取る人物であったから・・・」とか、「進軍をさせておきながら、自分はいつも逃げ腰だった」とか、批判的な意見が囁かれます。

このブログでは、先の戊辰戦争・勃発のページでも、この時の慶喜は、戦う意志が無かったであろう事を書かせていただきました。

では、その戦う意志が無かったというのは、一般的に言われるように、決断力が無かったから・・・あるいは、逃げ腰だったから・・・という事なのでしょうか?

この敵前逃亡の時の心境については、あまり多くを語らなかった慶喜さん。

しかし、晩年、息子にポツリと・・・
「あの時は、ああするしかなかった・・・あれが一番良かったんだ」
・・・と語った事があったそうです。

ひょっとしたら、この敵前逃亡は、彼の感情的で場当たり的な行動ではなく、考えに考え抜いたあげくの最善の決断だったかも知れないのです。

実は、彼が、大坂を捨て、江戸に帰って間もなく、フランス公使・ロッシュが彼のもとを訪れ、「フランスが全面的に協力するから、薩摩を倒せ」と言ったのを、慶喜はキッパリと断っています。

そうです。
慶喜が一番恐れていたのは、この内紛に乗じて、外国の勢力が日本を支配してしまう事・・・「それだけは、絶対に避けなければならない」と考えていたのではないでしょうか?

冒頭で、「大坂を脱出する時に、わずかの側近を連れて・・・」と書かせていただきましたが、その側近というのは、京都守護職の会津藩主・松平容保(かたもり)京都所司代の桑名藩主・松平定敬(さだあき)です。

京都守護職と京都所司代という京都を守る最も強力な軍の指揮官を連れて行ってしまった・・・指揮官がいないわけですから、当然の事ながら、残った兵は戦う事なく、大坂を明け渡すほかありません。

鳥羽伏見の戦い勃発の前後、大坂城内はとてつもない興奮状態だったと言います。

「日本人同士が戦う事を避けたい・・・」
慶喜の思いはただ一つ。

もちろん、以前も書かせていただいたように、そのうち、新政府にスキがあれば、天皇の下で幕府の各人が腕を振るうという事も考えていたでしょうが、とにかく、今、ここでの衝突は避けたい・・・。

しかし、将軍とは言え、慶喜一人で、テンションがマックスの兵士たちを、どうやって説得ができたでしょう。

これは、慶喜に戦う意志がまったくない事を、敵味方に表明するとともに、それが、突発的な行動ではなく、計画的に考えた行動である事を示していると思うのです。

後に、この時の様子を容保は・・・
「庭を散歩するのかと思ってついて行ったら、どんどん城の外に出てしまった」
・・・と、言っていたそうです。

やはりこの時、幕府内で、戦う意志が無かったのは、慶喜だけだったという事なのかも知れません。

それを、物語るかのように、江戸城を出て上野寛永寺に移った時も、故郷・水戸に戻った時も、その後静岡に移された時も、彼は、実に恭順な態度で、すべてを受け入れています。

弱腰と言われた敵前逃亡は、混乱を避け、外国につけ入れられないすきに、すみやかに日本を一つにまとめるための行動だったのではなかったでしょうか?

それゆえ、彼は、京都守護職と京都所司代を連れ、幕府で一番の軍艦に乗って大坂を去った・・・これ以上、幕府軍を戦わせないために・・・

私には、そう思えてなりません。

★このお話の続き=総大将がいなくなった大坂城は・・・
  徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎>>
  鳥羽伏見の戦い終結~大坂城の炎上>>  

★慶喜がかたくなに恭順を貫いたその奥底には・・・2009年1月6日の【慶喜の敵前逃亡~その原因は御三家にあり?】もどうぞ>>
 
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、あけましておめでとうございます。私のブログに新年のコメントありがとうございました。

最近の「今日は何の日?徒然日記」の充実ぶりには感服しています。これも、茶々さんの日々の積み重ねの結果、見習いたいものです。

1月6日は徳川慶喜の大阪逃亡の日とのこと。従来、幕末の歴史での徳川幕府の評価は芳しくありませんが、一昨年の11月に岩波新書から発売された『幕末・維新』(井上勝生著)では、従来の明治新政府礼賛の史観に疑問符を呈し、外交面では、むしろ徳川幕府の方が、見るべきものがあったのではないかと再評価しています。

明治維新については、現在の日本の支配構造に繋がっている「クーデタ」であり、まさに「勝てば官軍」だったのでしょう。
薩摩・長州の立場で書かれた勝者の歴史であり、潤色や幕府の不当な評価なども多いのかもしれません。
徳川慶喜についても、もっと詳細な研究と再評価が必要なのかもしれませんね。

本年もよろしく、お願いします。

投稿: 拓庵 | 2008年1月 6日 (日) 09時26分

おはようございます。

慶喜については、以前から色々と考えるところがあり、大変興味深く読ませていただきました。

取り残された兵士にしてみれば、将軍たるものが多くの臣を残し、保身に走った血の通っていない冷たい殿様・・・これは否定しようがないと思います。

そして、大坂を立ち退かず、自らが陣頭に立ち徹底抗戦したならば、あるいは、江戸に帰って体制を建て直し、十分に残っている兵力と持ち前の政治力を発揮したならば・・・

結果はどうなったでしょうか?

その後の政治主体が薩長側か幕府側かに関わらず、やはり茶々さんの指摘のとおり外国の介入を許しただろう事は、他国の例を見ても間違いないことでしょう。

私も一番に、その事を考慮して慶喜を評価すべきだと思います。

って少し熱くなっちゃいました(汗)

投稿: 清正 | 2008年1月 6日 (日) 12時02分

拓庵さん、あけましておめでとうございます。

やはり、歴史は勝者が造るものですから、どうしても評価が官軍寄りになるのでしょうね。
>一昨年の11月に岩波新書から発売された『幕末・維新』(井上勝生著)では・・・
ご紹介の書籍は、まだ読んでいませんが、私も、慶喜さんへの評価は、今後変わっていくのだと思います。

本年もよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2008年1月 6日 (日) 14時46分

清正さん、コメントありがとうございます。

歴史が大好きとは言え、幕末は未だ勉強しながらのブログ執筆ですが、そんな中で、文中にも書いた「あれが一番良かったんだ」という慶喜さんの言葉がグサッと来ました。

そういう目で他の史料も読んでいくと、その行動が突発的な逃亡というよりは、計画的な戦争回避のように思えてきて、今日ブログに書かせていただいたような内容になりました。

やはり、慶喜さんは、もう少し評価されるべきでしょうね。

清正さんの貴重なご意見・・・また、聞かせてください。

投稿: 茶々 | 2008年1月 6日 (日) 14時57分

こんにちは。
楽しく拝見させていただいております。

慶喜さんは、世間的には「敵前逃亡」ばかりが強調されていたため、「家康以来の傑物」などとの評価があることは最近知りました。

14代家茂が20歳そこそこで将軍になった後、
すぐにストレス死…。引き継いだ若き慶喜は、海千山千の列強と、経験地が低いにも関わらずイキイキと戦っているわけですから、
スゴイとしかいいようがないですよね。

「容保がとにかく戦争をしたくて仕方がなく、それを回避するため」というもの、敵前逃亡の理由の一つだったとも聞きます。
「四方を平穏に丸く治めるには、自分が泥を被るより他はない」と覚悟を決めていたのかもしれませんね。

“実は手裏剣の名人だった”という、お茶目なオプションがあるのも好きです。笑。

また遊びにきます~。

投稿: 八河清郎 | 2013年6月15日 (土) 10時15分

八河清郎さん、こんにちは~

そうですね。
本年の大河ドラマは会津が主役なので、その黒い部分は描かれる事は無いかも知れませんが、実際には、会津は「プライドを捨てるくらいなら戦う」てな雰囲気で、「そのためには、この国の国土の一部を外国に売り渡してでも…」という勢いだった事もあるようですので、「それを修めるためには…」という部分も慶喜にはあったかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2013年6月15日 (土) 14時19分

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