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2008年1月 5日 (土)

キリシタン大名・高山右近、神に召される

 

慶長二十年(1615年)1月5日、茶人としても有名であったキリシタン大名高山右近が、マニラにてこの世を去りました
(6日・8日など、諸説ありますが、今日書かせていただく事にしました)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大友宗麟小西行長と並んで、キリシタン大名の代表格である高山右近・・・。

Takayamaukoncc 通称は彦五郎で、名は長房とも重友とも友祥とも言われます。

茶人としても有名な彼は「利休七哲」の一人に数えられ、号を南坊と称します。

12歳でキリスト教に帰依し、洗礼名はジュスト・・・。

これだけ名前がありながら、一番有名なのは、なぜか右近・・・。

この右近は呼び名だったという事ですが、やはり、今日のところは右近さんで行きます。

そもそもは、織田信長の上洛(9月26日参照>>)に乗じて、摂津一帯を手に入れた荒木村重の傘下となって、ドサクサまぎれ?にちゃっかり高槻城の城主となった高山氏

右近の父・友照熱心なキリスト教徒であった事から、その後、高槻にはたくさんの教会が建てられ、領民の多くも改宗し、領内は貧困の差もあまりなく、おおむね平和な国として運営されていました。

しかし、天正六年(1578年)、村重が信長に対して謀反を起した(5月4日参照>>)事から、その状況は一転します。

村重は父・友照に・・・
そして、信長は息子・右近に・・・
それぞれ味方につくように打診してきます。

要請に応じて村重のもとに参戦する父・・・。

悩む右近に追い討ちをかけるように、信長は「お前が来なければ、領内のキリスト教徒を皆殺しにしてやる」と脅してきます。

脅しとは言え、あの信長さんならやりかねない???

なんせ、あの長島一向一揆(9月29日参照>>)の記憶が、まだまだ生々しい頃ですから・・・。

父と領民の間で苦しみ抜いた末、彼は、信長の傘下となり、結果的に領民の命を救ったわけですが、そのわずか4年後、信長は本能寺にて倒れます(6月2日参照>>)

その11日後、中国からとって返し「主君の仇討ち」の大義名分を掲げた羽柴(豊臣)秀吉とともに、山崎の合戦(6月13日参照>>)では左翼の先陣を努めて明智光秀に勝利・・・その功績で、秀吉から明石六万石を与えられます。

また、秀吉と宣教師・コエリヨとの大坂城での謁見の案内役を務めたりもしました。

この頃の右近は、まわりの大名たちにも、熱心にキリスト教への改宗を勧め、まさにキリシタン大名の代表格として、大いに本領を発揮したノリノリの時でした。

しかし、そのコエリヨとの2度目の謁見で、秀吉の態度が一変します・・・そう、キリシタン禁止令を発令するのです(6月19日参照>>)

当然、右近にも改宗の命令が下るわけですが、今更・・・というより、もう、すでにどっぷりとキリスト教に浸かっている彼の思いが変わる事はありません。

命令に従わなかった右近は領地を没収され追放処分を受けてしまいます。

同じキリスト教徒だった小西行長に助けられ、しばらくは小豆島に隠れ住んだ後、加賀前田利家の口添えで金沢にやってきます。

ここで、細々と布教活動を続けていた右近でしたが、徐々に厳しくなるキリシタンへの弾圧・・・その間に関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、やがて慶長十七年(1612年)3月21日徳川のキリシタン禁止令が発令する(3月21日参照>>)事となります。

もう、細々と続ける活動さえ許されなくなった右近に、当然の事ながら、更なる処分が下ります。

その2年後の慶長十九年(1614年)、右近は、内藤如安とともに、フィリピンのマニラに追放されてしまうのです。

ただし、これには、「そろそろ大坂攻めを・・・」と企んでいた家康の、「少しでも豊臣の息のかかった敵になりうる可能性のある者を処分しておこう」という意図が裏にあったとも言われます。

現に、この年の7月には、大坂の陣の発端となる方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)が起こっていますから・・・。

もちろん、その事は豊臣方も察していたようで、右近を保護しようと、マニラ行きの船が出る長崎へ使者を走らせたという話も残っています。

しかし、この使者は間に合わず、長崎に到着した時は、すでに、右近の乗った船は出港した後だったのだとか・・・。

右近がマニラに発ったのは10月7日・・・この同じ日に、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)豊臣の呼びかけに答えて大坂城に入城しています(5月15日参照>>)から、もし、使者が間に合っていれば、右近も大坂の陣に参戦していたかも知れませんね。

やがて、1ヶ月余りの船旅の後、マニラに到着した彼らは、国賓待遇での歓迎を受けます。

なんせ、フィリピンはキリスト教一色でしたから、逃げ隠れする必要もなし・・・やっと右近にも安住の地が確保できたかに見えました

しかし、マニラに到着後わずか40日・・・慶長二十年(1615年)1月5日、熱病におかされた右近は、追放先のマニラにて64歳の生涯を閉じたのです。

彼のためにマニラ全市をあげて盛大な葬儀が行われたと言いますが、何とも・・・。

でも、キリスト教の観念から言えば、死は天に召され、神のそばに引き寄せられるという事であり、悲しむべきではないという事なので、右近さんにとっては、それこそ安住の地・・・乳と蜜の流れる地にようやくたどりつき、安らかなる眠りについたという事でしょうか。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

高山さんだ~♪
高槻は私の住所と比較的近いので、色々銅像なんかもありますし、高槻城の近くから十字架を描いた棺桶などが発掘されて、話題にもなりました(と言って、ご当地もので、あまり全国区ではないかもしれませんが、やはりキリシタン地域ですから)。なかなか、郷土人という感じで親近感がありますが、マニラも東洋のクリスチャンには面白いかも。
 うるわしい右近のイラストなど描いていただきたかった・・?

投稿: 乱読おばさん | 2008年1月 5日 (土) 09時54分

おお・・・そうでした~
おばさまは阪急沿線でしたね。

この話題を書く時は、右近さまの勇姿を描こうと思っていたのですが、お正月という事で、なかなか自分の時間がとれず、銅像の写真をupする事にしました~。

次に右近さんが登場の時には、是非そのお姿を・・・できれば10代の若き少年の姿で描きたいと思います。

投稿: 茶々 | 2008年1月 5日 (土) 10時43分

茶々さま、
あけましておめでとございます

本年も昨年同様、ご交流の程、
よろしゅうお願い致します

高山右近ですかぁ~そーいえば、大阪の玉造教会にあった、十字剣持った凛々しい姿の高山右近の銅像が、右近が一時潜伏していた地でもある香川県の小豆島教会に贈られたそうですよ。

投稿: 御堂 | 2008年1月 5日 (土) 11時51分

いつもながら、流れるような構成ですね。
毎日、こんなにも濃い内容を書かれるのは、相当なご苦労がおありだと思います。

茶々さんのようにはいきませんが私も時間を見つけて、少しブログに力を入れていこうと思います。

教えていただくこともあるかと思いますがよろしくお願いします。

投稿: 清正 | 2008年1月 5日 (土) 22時31分

茶々さん
あけましておめでとうございます。

昨年は幕末以外のことを沢山学ばせて頂きました。ありがとうございました!
何しろ江戸時代のことしかよくわからないもので、すごく勉強になりました。
今年も昨年以上に交流を深めることができたらいいなと思っています。
どうぞ今年もよろしくお願いします。

投稿: たまびとルンちゃん | 2008年1月 5日 (土) 23時34分

御堂さん、あけましておめでとうございます。

へぇ、高山右近の像が小豆島に・・・

またまた、ニュースな情報をありがとうございます。
いつもながら、御堂さんのウラ話や後日談などの豊富な情報には、感心させられてしまいます。

また、ご存知の事がありましたら教えてくださいね。
本年もよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2008年1月 6日 (日) 01時43分

清正さん、あけましておめでとうございます。
そして、コメントありがとうございます。

江戸時代に精通されている清正さんの新しいブログ・・・初めて知る事も多く、この先もとっても楽しみです。

今年もよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2008年1月 6日 (日) 01時49分

たまびとルンちゃん様、あけましておめでとうございます。

昨年は、ルンちゃんさんともお知り合いになれたし・・・とても有意義な一年でした。

今年の大河ドラマの舞台は幕末・・・ルンちゃんさんの筆運びもいっそう軽く、より楽しいブログになりそうですね。

また、勉強させていただきますね。

投稿: 茶々 | 2008年1月 6日 (日) 01時56分

只今日本のカトリックでは、一丸となって右近の列聖をローマに働きかけております。年に一回は、右近の為にミサを捧げます。私も、一回だけ右近ミサに参加した事があります。高槻のカトリック教会まで行って来ました。去年、フィリピンで右近の墓を探すプロジェクトが実行されましたが、発見には至りませんでした。また、何か動きがあったらお知らせします。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月15日 (金) 20時59分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

色々と情報ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2015年5月16日 (土) 01時46分

一月20日の読売新聞記事に「!」な記事が掲載されました。

高山右近「福者に」

戦国時代のキリシタン大名高山右近が、catholicで“聖人”に次ぐ“福者”に列せられる見通しとなった。ヴァティカンで19日、枢機卿に選る会議が行われて、“福者”としての認定が決まった。フランシスコ教皇が、22日にも正式に承認する見通し。
高山右近は、1587年の「バテレン追放令」で領地を没収された後も信仰を捨てず、1614年にmanilaに追放され亡くなった。没後400年の2015年に合わせ、catholic関係者や出身地である大阪の自治体が、認定を働きかけて来た。“福者”の敬称を与える「列福式」は、来春大阪で予定されている。

取り急ぎご報告に上がりました。

投稿: クオ・ヴァディス | 2016年1月22日 (金) 21時51分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

なるほど…地道に活動しておられた方々がいらっしゃったのですね。
願いが叶って良かったです。

投稿: 茶々 | 2016年1月23日 (土) 02時24分

茶々さん、こんにちは。
今にちりんという特急電車を見ながら投稿していますが、大分県はクリスチャン王国でした。大友以降は分裂され、そうでなくなりましたが今でも南蛮文化の風習が残っています。
ところで本題ですが、大阪の陣の時に結構クリスチャンが豊臣方にいました。もし高山右近がいたら日本は分裂したでしょう。西はカトリック王国、東は日蓮宗でしょう。そうならなかったのも右近を豊臣方が護れなかったからと思います。
ところで18世紀前半までルソンに日本人町があり、シドッチに日本語を指導したのも知られています。それなので秀頼、天草四郎などはルソンに逃げたのかなと思ったりします。勿論淀殿もと思います。ルソンの日本人町は豊臣亡命政権だったと思いますがどう思われますか?
フィリピンのスペイン系には日本人の血もあるかなと思います。ラヴリを見ていますとそう思えました。

投稿: non | 2016年4月29日 (金) 15時18分

nonさん、こんばんは~

う~~ん、どうでしょう?
あくまで予想ですが、秀吉の九州征伐の時に、秀吉自身は禁止したにも関わらず、これまでの合戦のならわしの如く、多くの負組の方々が、乱取のあげくに奴隷として売られたようなので、どちらかと言うと、彼らの方が多いような気がしないでもないです。

まぁ、生存説は何とも言えませんが…

投稿: 茶々 | 2016年4月30日 (土) 03時14分

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