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2008年2月29日 (金)

語呂合わせで改元~明和九年の迷惑大火

今日は4年に一度の(うるう)・・・という事で、今日2月29日という日が存在します。

もう、ご存知でしょうが、太陽の動きでいけば、1年は365.2422日・・・なので、1年を365日すると0,2422日ぶんずつズレていってしまうので、4年に一度1日だけ増やして調整するんですね。

でも、これだと0.25×4=1日ですから、4年に一度増やしてばっかりいると、今度は少し増えすぎてしまいます。

・・・で、100年に一度は、普段はうるう年に当たる年でも、2月29日が無い年もあるのですね~

・・・で、今度は2100年。
その年は、オリンピックのある4年に一度の年ですが、2月29日はありません

しかし、またまたそれだと少し足らなくなってくるので、400年に一度だけ、4年に一度だからうるう年だけど、100年に一度だからうるう年じゃなくて、でも400年に一度だからうるう年になる年があるのだそうです。

ややこし過ぎて、もう、わけがわからなくなってきましたが、とりあえず、あの2000年問題で揺れた西暦2000年が、その400年に一度の年だったのだそうです。
当時は気にも留めていませんでしたが・・・

それにしても、2月29日生まれの人は、普段の年は、いつ年齢を一つプラスするのでしょう?

実は、法律でちゃんと決まっているらしいんですよね。
なんせ、誕生日というのは、車の運転免許証や、少年法にも関わってくる重要な事ですからね。

・・・で、法律上では、2月29日生まれの人は、うるう年じゃない年には、2月28日の終る時・・・つまり、2月28日23時59秒で一つ歳をとる事になるのだそうですが、それでいくと、お誕生日が1秒しかない事になってしまって、何かちょっと寂しい気がしますね。

「うれしい」思うヒマさえないありゃしないし、ケーキを切る余裕もありません。

ところで、そんなほぼ4年に一度のうるう年・・・歴史上の出来事なんかも少ないんじゃないかしら?と思いきや、それが、けっこう色んな事が起こっているもんです。

天正六年(1578年)には、織田信長が安土城に、総勢300人の力士を集めて相撲大会を行った(2012年2月29日参照>>)とか、あの天下のご意見番・大久保彦左衛門ご命日も天文八年(1639年)の今日(2月1日or30日説あり)(2月1日参照>>)・・・あの遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元さんも安政二年(1855年)のこの日にお亡くなりになっております

そうです。
例の31日の逆パターンなのです。

毎度々々、1月・3月・5月・7月・8月・10月・12月31日には、旧暦に31日が無いため、「近代史&世界史が苦手の私はネタ切れ必至」と叫んでおりますが、逆に、旧暦では2月29日は毎年あり、今は亡き2月30日の出来事なんてのもある(3月29日参照>>)ワケです。

・・・という事で、今日は、その中から、江戸時代の『明和の大火』と呼ばれる大きな火災について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・

明和九年(1772年)2月29日、お昼をちょっと過ぎた頃・・・江戸は目黒行人坂大円寺から出火した火は、強い風にあおられてまたたく間に、麻布から京橋へと広がり、日本橋神田本郷浅草千住までの広い範囲をすべて焼き尽くしました。

しかも、午後には、本郷丸山町から再び火の手が上がり駒込谷中根岸など・・・町屋や橋も焼け落ち、大名屋敷や神社・仏閣も被害に遭い、14700人もの死者を出したという事です。

この目黒行人坂の火事は、明暦三年(1657年)の明暦の大火(振袖火事)(1月18日参照>>と、文化三年(1806年)の文化の大火(芝車坂の火事)とともに江戸三大火の一つ『明和の大火』と呼ばれる事になります。

それにしても、『火事と喧嘩は江戸の華』と言われるように、どうして、江戸はそんなに火事も多く、被害も大きかったんでしょうか?

それは、ご存知のように、江戸は、徳川家康が幕府を開くまで、小さな漁村がいくつか点々とあるくらいのかなりの田舎だったところに、いきなり多くの人々が集まり始めた事にあります。

そこには、アメンリカン・ドリームならぬ「江戸ドリーム」を求めて、「江戸に行けば何とかなる」といった風潮も生まれ、立身出世と大金を求めて、多種多様の人々が、埋め立てられたばかりの土地にワンサカ集まり、粗末な家屋が密集し、道幅を極端に狭くしていました。

そこに、江戸という場所の気候・・・冬から春先にかけて、また、秋の始めの頃などに、空気は乾燥し、強い季節風が吹くという気象条件が重なったのです。

しかも、この頃の家屋の半分以上が、燃焼率が極めて高いと言われていた葺きの家屋で、一旦火がつくとまたたく間に燃え上がり、狭い道幅ゆえに、その道路をものともせず火は燃え移り、密集した家が次々と焼かれる事になるのです。

この「杮(こけら)葺き」というのは、いわゆるバラック式の家。

本来、瓦葺の屋根の下地に使う、薄い1~2ミリ程度の杉の割板を、釘でトントンと打ちつけただけの物でした。

「なんでワザワザそんな燃えやすい物を・・・?」と思ってしまいますが、現在で言う火災保険が導入され始めたのは明治に入ってからで、当然の事ながら、江戸時代に火災保険はありません。

つまり、あまりの火事の多さに、火事が起こる事を防ぎようがないと判断した江戸の人々が、燃えてもあきらめがつくように杮葺きにしたという事のようです。

ですから、お金持ちは、土蔵を造り、周囲も土蔵と同じ分厚い土壁を建てて自ら守ろうとし、大家が店子(たなこ)に貸すためのような、いわゆる長家などは、「焼けてもともと」の杮葺きで造られていたワケです。

その代わりと言っては何ですが、火事の度に建築ブームが起こり、そこに商人が入り込み、大工や左官などの職人が活気に満ち溢れ、経済も盛り上がり町人の文化が花開く事にもなるので、そういう意味では、江戸が世界最大の都市になるために、火事も一役買った事になりますが・・・。

ところで、余談ですが、今日の『明和の大火』があった明和九年という年は、火事以外にも、風水害が多発し疫病なども流行した散々な年だったようで、どこからともなく、「明和九年だからめいわく年=迷惑年」などと、巷で囁かれ始め、幕府も民衆の不安を拭い去るため、やむなく元号を「安永」に改元するという処置をとっています。

語呂合わせで改元するなんて・・・よっぽど、町の人々は恐怖におののいていたんでしょうね。
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2008年2月28日 (木)

千利休・切腹の謎~利休の握っていた秘密とは?

 

天正十九年(1591年)2月28日、大名をしのぐほどの権威を持っていた茶の湯の大家千利休が、豊臣秀吉から切腹を命じられ、自害しました

・・・・・・・・・・・・・

時をさかのぼる事、その九年前・・・天正十年(1582年)6月13日午後4時過ぎ・・・京都山崎の地にある妙喜庵(みょうきあん)というお寺で、勝利の知らせを今か今かと待つ一人の男がいました。

Rikyuucc 男の名は、千宗易

大阪に生まれ育った彼は17歳で茶の湯を志し、侘茶(わびちゃ)を大成させ、茶道を芸術にまで高め、今は・・・いえ、つい先日までは織田信長に仕えていました。

そう、彼が戦況を気にするその戦いとは、本能寺の変で主君・織田信長を討った明智光秀を、中国大返しの離れワザで京都目前のこの山崎の地で攻撃範囲に捕らえた羽柴(豊臣)秀吉・・・この二人の間で繰り広げられた天下分け目の天王山・・山崎の合戦(6月13日参照>>)です。

小雨がそぼ降る中、午後4時から開始された合戦は、わずか1~2時間でその勝敗が見え始め、光秀軍は次々と敗走して行きます。

その知らせを聞くやいなや、宗易は、秀吉が陣を敷く宝積寺へとおもむき、寺へと招いて勝利の茶を点てました。

Rikyumyoukiancc そして、秀吉がこの天王山に築城するのと同時期に、宗易も、この妙喜庵に茶室・待庵(たいあん)を建てるという同調ぶりです。

この待庵という茶室は、現在もこの妙喜庵の中に存在し、各地に残る利休好みの庭や利休好みの茶室とうい物の中で、唯一現存する実際に利休が造った茶室として国宝に指定されています。
*待庵は非公開ですが、近くの大山崎町歴史資料館に、実物大で復元展示されています。
妙喜庵・大山崎町歴史資料館・その他天王山などへのくわしい行き方は本家HPの歴史散歩で紹介していますので
コチラからどうぞ>>

やがて、天下を取った秀吉のもとで厚遇され、天正十六年(1588年)には、宗易は、「利休居士」の称号を与えられ、その名声は天下に轟く事となるのです。

その親密ぶりは、(豊臣政権内での…)内々のことは宗易(利休) に、公儀のことは宰相(秀長)に…」と言われるほどだったとか(4月6日の後半部分参照>>) ・・・。

しかし、わずか三年後の天正十九年(1591年)2月13日謹慎処分を受け、半月後の2月28日・・・秀吉からの命令により切腹をするのです。

そんなに仲の良かった二人の間に、いったい何があったのでしょう?

それとも、仲が良さそうに見えたのは、打算ありありのポーズとしてだけで、本当は心の底で相容れない何かが存在したのでしょうか?

・・・・・・・・・・・・

一般的な説では、
わび・さびを重んじる利休に対して、何かと派手好みで、その派手さを茶の湯にまで持ち込もうとする秀吉を利休が批判したから
という説や、
秀吉が利休の娘を側室にと望んだのを断ったため
であるとか、
茶の湯とゆかりのある大徳寺の山門に利休の木像を掲げたからであるとか、
諸説あって現在もなお、利休切腹の理由については大きな謎となっています。

一番目の好みの違いに関しては、利休自身は、心の中での葛藤はあったものの、表立って批判する事はありませんでしたが、利休の弟子である山上宗二(やまのうえそうじ)が、信念を曲げない頑固な性格であったため、ことごとく秀吉の趣味の悪さを批判し、天正十八年(1590年)4月11日、小田原北条攻めに従軍した際に、秀吉によって惨殺される・・・という事件が起きています。

この事があってから、利休も秀吉の傲慢さに耐えられなくなり、表立って批判するようになったとも言われていますが、宗二惨殺に関しては、彼が、秀吉から密かに、北条の内情を探るように命じられたのを断わったからだという意見もあります。

また、3番目の大徳寺の木像に関しては、大徳寺が利休に恩を感じて木像を制作し、山門に掲げたわけですが、そうすると、秀吉が山門をくぐる時に、利休像の下を歩く事になり、失礼にあたるだろうと言われる物です。

確かに、これに関しては、秀吉も激怒していたふしがあり、利休死亡の3日前の2月25日に、利休に対して切腹を申し渡すと同時に、その木像を磔(はりつけ)にしているところからも、その激怒ぶりが垣間見えます。

そんな諸説が入り乱れる中、新しい説も登場しています。

その一つは、『利休・スパイ説』・・・千利休は徳川家康のスパイではなかったのか?という説です。

家康は、この時期に、すでに将来自分が天下を取った時の事を考えて、あるいは、取るためには、必ず大坂という大都市を手中に収めなければならない事をさとっていて、そのためには、堺商人の中でも最も力のある利休と手を結んでおく事が大事であると利休に近づく・・・

利休のほうは利休のほうで、天下は秀吉の手中にあるとは言え、どう転ぶかわかったモンではありませんから、もう一人の実力者・家康と、水面下で太いパイプをつなげていれば、これほど安心する事はありません。

この説の説得力のあるところは、切腹の命令に利休が素直に従ったという事実がある事です。

この切腹の命令が出た時に、周囲の者は秀吉のもとに赴いて許しを乞うように利休にアドバイスしますが、利休はそれを聞き入れなかったのです。

現に、先の宗二の場合も、追放されながらも一度は許されていましたから、この時、利休が許しを乞えば、何とかなったかも知れません。

しかし、利休はそうせずに、素直に命令に従って自害します。
それは、自分に思い当たるふしがあったから?・・・という風にも考えられます。

そして、もう一つの説は『秀吉の秘密を握っていた説』です。

Rikyuuhideyosicc 信長天下の時代には、茶会を開くには信長の許可が必要で、それを戴く事は、武士としてのステータスでもありました。

秀吉は、天正五年(1577年)に上月城など播磨(兵庫県)備前(岡山県)に点在する毛利の諸城を制圧したご褒美として、信長から許可を得ています。

その時、秀吉は利休(当時は宗易)の事を「お師匠」と呼び、15歳年上の利休に対して「父のようにお慕いします」とも言っていて、かなり深刻な悩みなども相談していたと言われます。

この頃、上り調子の秀吉の悩みと言えば唯一つ・・・子宝に恵まれないという悩みだった可能性大です。

しかし、天正十七年(1589年)、長年の秀吉の悩みが解決します。

あの淀殿が、男児・鶴松を出産するのです。

以前から、いろいろと噂される淀殿の懐妊・・・利休は、その不可思議さにいち早く提言したのではないでしょうか?

昔から、散々悩み事を聞かされていた立場としては、当然と言えば当然の意見でしょうが、秀吉にとっては、そこは触れてほしくない部分だったのかも知れません。

秀吉自身が疑いながらも、「自分の子供だと信じたい」と思っていたところに、それをバッサリ打ち砕く提言をされては、どうしても「その口をふさぎたい」という心境になった、というのもわからないではありません。

しかし、もし、利休が秀吉の秘密を握っているとするならば、もう一つ可能性があります。

それは、以前書かせていただいた『信長と堺の関係』(1月9日参照>>)に関係のある事です。

本能寺の変の時、何と言っても不可解なのは、天下の信長がわずかの手勢しか連れず京都に滞在していた事・・・それさえなければ、光秀が攻めようにも攻められなかったわけですから・・・。

そこに、関与していたのが、堺の商人たちではないか?・・・つまり、光秀の謀反を後押しした形だったのでは?という事を書かせていただきましたが、もし、そうだったとしたら、信長亡き後、天下を掌握するのが、誰かわからない状況では、いたって不安・・・という事になりませんか?

信長よりもっと強引な人が天下を握ってしまえば、またまた堺の町は、その人の傘下に収まるしかない事になってしまいます。

ひょっとしたら、利休をはじめとする堺の商人たちは、信長亡き後に、天下を握る人物を知っていた?・・・そして、それが彼らの納得のいく人物なら、その者とタッグを組んで、本能寺の変を誘発したという事もありうるかも知れません。

信長死去のニュースを聞いて、秀吉が帰って来るタイミングと言い、それを山崎の地で待ち構える利休のタイミングと言い、出来すぎなくらいのナイスアシスト感が拭えないのです(6月13日【本能寺の変~豊臣秀吉・黒幕説】参照>>)

もし、その秘密を利休が握っていたとしたら・・・
そして、この時期に、秀吉と利休の間に、亀裂が入り始めていたとしたら・・・

諸説があるという事は、こんなにも楽しい・・・推理するだけで、わくわくしませんか?
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2008年2月27日 (水)

秀吉も催した勝利の聖地・吉野の花見の意味は?

 

文禄三年(1594年)2月27日、豊臣秀吉が、豊臣秀次徳川家康前田利家らとともに、奈良の吉野にて花見の宴を開催しました。

旧暦の2月27日ですから、現在の暦で言えば、4月の半ば頃・・・吉野山の桜が、下千本→中千本→上千本の順に次々と咲き始め、まさに見頃の真っ只中といった感じでしょう。

この頃の豊臣秀吉と言えば、二年前の文禄元年(1592年)に、一度目の朝鮮出兵を行い(4月13日参照>>)、その翌年・・・つまり、この花見の前年には、男児=後の秀頼が生まれています。

そして、この花見の翌年・文禄四年(1595年)には、花見に同席している甥の関白・秀次を自刃に追い込む事になるのです。

秀次さんのご命日に、その汚名を晴らしたい!というタイトルで、彼の謀反の罪がでっちあげであろうという事、「殺生関白」と呼ばれるもととなった悪行の数々も無かったであろう事、そして、秀吉から見て秀次が、将来、わが子・秀頼の最大のライバルにあるであろう事を予測し、その存在が脅威となり、消されたのではないか?と書かせていただきました。(7月15日参照>>)

しかし、もう一つ、秀吉が秀次を脅威と感じた一因には、朝鮮出兵の時の内政のウマさにあったという説もあります。

この第一次朝鮮出兵=文禄の役の時は、秀吉は軍の指揮を取るために九州に出向いていますから、その間に留守を守り、内政を行ったのが秀次です。

この時、留守を預かった秀次の内政への采配が見事で、諸大名の中には、「外征は秀吉、内政は秀次」と、はっきりした役割分担を認識する者もいて、二極化する気のない秀吉とって、これ以上秀次の評判が上がる事が望ましくなかったのではないか?というのです。

もし、本当に、秀吉が秀次を切腹に追い込む要因が、二年前の朝鮮出兵と、前年の秀頼誕生にあるとしたら、この花見の宴でのお互いの心情というのは、いかばかりだったのでしょうか?

そばにいた、徳川家康前田利家は、どこまで、彼らの心の奥を読み取っていたのでしょうか?
興味はつきませんが、こればかりは、推測するしかありませんねぇ・・・。
Sakurayosinohanamicc
ところで、以前『お花見の歴史』(3月30日参照>>)のページで、本来、万葉の昔のお花見は、「悪い日=厄日」に出かけ、真っ盛りの花をその目で見る事によって、樹木からその生命力を分けてもらうのが目的であるという事を書かせていただきました。

これは、見るタマフリです。

タマフリというのは、空気を揺るがせて波長を起こし、神様を呼び寄せて場を清めたり、人の心を奮い立たせる行為・・・これも、以前『人は別れる時、なぜ手を振るのか?』(1月31日参照>>)で書かせていただいて、神社で拍手を打ったり、鈴を鳴らしたりするのが、のタマフリである事も、その時に書かせていただきました。

(袖)を振る事は、もちろん空気を揺るがし波長を起しますが、音も波長、光も波長・・・これらは、皆、同じ「タマフリ」という儀式がベースとなっているのです。

そんな中でも、合戦を主とする武人にとって、この吉野での花見=タマフリは特別な物と言えるかも知れません。

それは、万葉の昔にさかのぼります。

第38代・天智天皇が亡くなって、天皇の息子・大友皇子と、天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)の間で後継者争いが起こった時、身の危険を感じた大海人皇子は、一旦、吉野へ逃げる決意をするのです(10月19日参照>>)

確かに、ある程度の勝算はあったとは言え、その時、彼に従う人数は、わずかに舎人20人+女官10人という寂しい吉野入りでしたから、大きな不安にかられていた事は想像できます。

そんな彼が、やがて吉野で決起し、この地から出陣し、息子たちとともに近江の大友皇子を攻めた『壬申の乱』(7月22日参照>>)・・・。

この戦いに勝利し、大海人皇子は、第40代・天武天皇となるわけですが(2月25日参照>>)、そんな彼の歌が万葉集に残っています。

♪よき人の よしとよく見て よしと言いし
  芳野よく見よ よき人よく見♪

一見、言葉遊びのように思える歌ですが、遊んでいるのではなく、「よき物を見る」事を強調をしている歌なのです。

吉野で決起して勝利を得た大海人皇子にとって、吉野はまさに聖地・・・よき所なのです。

良き所、良き物をよく見て・・・という事を、良き人に向かって言いふくめているのです。

良き人とは、もちろん、彼の子供たちと、そして奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)の事・・・大事な子供たちと奥さんに、タマフリで英気を養いなさいという事を歌に託しているのです。

その夫の言葉を、しっかりと受け止めるかのように、持統天皇は、夫に先立たれ、後継者にと望んでいた息子・草壁皇子にも先立たれてから、女帝として君臨するそのかたわら、31回も吉野を訪れています。

女の身で国家という思い荷物を背負って、思い悩んだ時、疲れて倒れそうになった時、おそらく彼女は、夫に勝利を呼び込んだ聖地・吉野で、良き物を見て「見るタマフリ」を行い、良き歌(夫の歌)を口にして「音のタマフリ」を行う事で、その勇気を奮い立たせていたのではないでしょうか?

勝利の聖地・吉野での花見には、単に桜の名所というだけでなく、そんな昔の人々の思いが込められているのです。

この日、ここ吉野で盛大な花見を催した天下人・豊臣秀吉は、1首の歌を詠みます。

♪年月の 心にかけし 吉野山
 花の盛りを 今日見つるかな♪

長い年月・・・「いつかは、あの“たかみ”に・・・」と、駆け抜けた日々・・・
今、長年、夢見た吉野の桜とともに盛りを迎えたのは、まぎれもない己の人生・・・

吉野の花見は、勝利した男だけが味わえる最高の優越感だったのです。

今年は、一つ、良きところ・吉野で、良き花見といきたいものです。
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2008年2月26日 (火)

二・二六事件の残したものは・・・

 

昭和十一年(1936年)2月26日未明・・・その日は30年ぶりの大雪に見舞われ、あたりは一面の銀世界でした。

シンと静まりかえり、まだ、目覚めぬ首都・東京の街を、靴音を鳴らし闊歩する陸軍兵士・1400名・・・皇道派の青年将校の指示に従い、兵士たちはそれぞれの場所へと分散し、官庁街を制圧するとともに、次々と政府要人を襲います。

軍隊の反乱事件『二・二六事件』です。

彼らに襲撃された斉藤実(まこと)内大臣、高橋是清(これきよ)大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監の三人は死亡

岡田啓介首相は義弟が本人と間違えられて殺されている間に身を隠したため本人は助かりその時、湯河原の温泉にいた前侍従長の牧野伸顕(のぶあき)も、襲撃を受けながらも旅館を女装して脱出し難を逃れました。

そして、侍従長の鈴木貫太郎は、腹部に銃弾4発を撃ち込まれて倒れたところを、とどめを刺そうと近づいた青年将校の一人・安藤輝三が、鈴木の奥さんの泣きながら「助けて・・・」と懇願する姿にほだされ、「ほっといても死ぬだろう」と、そのまま引き揚げてくれたおかげで一命をとりとめました。

当時、陸軍は「軍部が一致団結して官僚や政治家を抱きこみ、軍部中心の国家にしよう」という『統制派』と、「政党や財閥を排除して、天皇中心の国家にしよう」という『皇道派』に真っ二つに分かれて、覇権を争っていました。

今回の反乱を起した彼らは、『皇道派』の青年将校たちです。

反乱軍は国会議事堂・陸軍省・参謀本部・警視庁・首相官邸などの政府の主要機関を占拠し、川島義之陸相に反乱の趣旨と要求をつき突きつけます。

しかし、その要求の内容は、「改革を断行しろ」と主張するも、具体的な内容としては「統制派軍人を排除して皇道派軍人を登用しろ」という事が書かれているたけで、「その改革の断行がどのような物なのか?」という事については、何やら漠然とした主張でした。

ともあれ、この事態を何とか収拾しなければなりません。

しかし、陸軍の長である川島は、陸軍を陸軍で討つ事・・・つまり同士討ちはしたくないと主張し、皇道派の要人は、当然のように反乱軍の主張を容認します。

陸軍大臣までが、「君たちの気持ちがよくわかる、その趣旨に従って改革を行おう」と、公式に告示します。

この事態に業を煮やして行動を起したのが、他ならぬ昭和天皇です。

「反乱軍をすみやかに鎮圧せよ」という命令に、「彼らは国家の事を思い行動を起こした者で反乱と言えるかどうか・・・」と弁護する周囲に対して、昭和天皇は「自ら近衛師団を率いてでも鎮圧する」と、まさに激怒です。

それは、青年将校たちが、「天皇の敵」とみなして殺害し襲撃した人々が、実は天皇にとっては、最も信頼できる臣下であり、彼らを排除するなどとは考えられなかったからなのです。

ですから、青年将校たちの主張が「天皇中心に改革するため」だと言われても、昭和天皇にとっては正真正銘の反乱軍だったのです。

その後、同士討ちを避けたい陸軍は、反乱軍に対して投降を呼びかけ、昭和天皇の支援を得られない事を知った青年将校たちも次々と説得に従い、事態は鎮圧に向かいました。

しかし、この事件は、その後の陸軍に大きな影響を与えてしまいました。
それは、この事件の首謀者たちへの処分です。

彼らは、非公開で弁護人なし、上告の許されない一審制により裁判され、首謀者15名全員が死刑となるのです。

この事によって、陸軍内の皇道派は一気になりを潜め、陸軍の権力を統制派が牛耳る事になるのです。

その後、彼ら統制派は、この二・二六事件を引き合いに出しては、たびたび軍部の意向を政策へと反映させる事になり、日本は軍部中心の軍国主義への道を歩み始める事になるのです。

やがて、その軍国主義の最終段階である太平洋戦争・・・

その太平洋戦争を終結するためにつくられた内閣の首班(総理大臣)が、この二・二六事件で、ひん死の重症を負いながらも、奇跡的に生き残った鈴木貫太郎であったという事に、何やら、運命のような物を感じてしまいますね。
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2008年2月25日 (月)

浄土真宗を日本一にした蓮如の経営戦略

応永二十二年(1415年)2月25日は、浄土真宗の「中興の祖」と呼ばれる蓮如さんのお誕生日です。

・・・・・・・・・・・・

先日、親鸞聖人のご命日のページ(11月28日参照>>)で書かせていただいたように、日本で最大の伝統仏教教団・浄土真宗の開祖は親鸞聖人です。

その親鸞から数えて7代目の存如(ぞんにょ)・・・この人が蓮如のお父さん。

17歳で得度した蓮如は、長禄元年(1457年)父の死後、異母兄弟との後継者争いの後に、47歳にて、第8代本願寺法主となりました。

しかし、親鸞のひ孫の時代に、門弟と対立して本願寺という寺号を称して、すでに独立した形をとっていた本願寺派・・・蓮如は確かに親鸞の血筋を継いではいますが、この頃の本願寺派は、真宗の宗派の中では最下位。

まさに、衰退の一途をたどっていたのです。

その頃、この本願寺を訪れた近江(滋賀県)本福寺の僧侶も、「一番人気の仏光寺は、群集に満ち溢れているが、本願寺はガラガラで、人っ子一人いなかった」と書き記しています。

蓮如本人も、毎日の食事にも事欠き、身に着ける衣も貧窮の極みでした(3月25日参照>>)

しかし、8代目を継いでから、わずか8年後の寛正六年(1465年)には、比叡山が脅威を抱くほどに成長し、その比叡山衆徒に京都を追われてしまうのですが、

その後、越前(福井)吉崎に逃れて御坊(道場)を建て、その後も、本願寺派は成長を続けて、23年後の長享二年(1488年)には、本願寺門徒が高尾城に押し寄せ、加賀の守護大名・富樫正親(とがしまさちか)自刃に追いやる『加賀の一向一揆』(6月9日参照>>)をやってしまうほどに成長します。

つまり、蓮如・一代で、教団内の最下位から、あの比叡山に肩を並べるくらいの大教団に仕立てあげたという事になります。

これが、「中興の祖」と呼ばれるゆえんです。

では、どのようにして、蓮如は、そこまで急激に教団を大きくする事ができたのでしょうか?

あくまで、個人的意見ですが、そこには、商売=経営と同様のテクニックがあったと思います。

無神論者の私が、「商売と同じ」と言うと、熱心な信者の方からお叱りを受けるかも知れませんが、もちろん、私利私欲の商売繁盛と仏教を広めようという精神とでは、根本的に違うわけですが、それを成長させるためのテクニックが似ているという事です。

どんなに良い教えでも、それを相手に理解してもらわなければ・・・いえ、その前に、心を開いて話を聞いてもらわなければ、その教えは広まってはいかないのですから・・・。

蓮如が、この時使ったのは、企業が商品を売り込む時、あるいは、政治家が選挙に挑む時に行う『メディア戦略』です。

自分の教えを、各地に散らばる末寺に浸透させるには・・・。

それぞれの末寺に、阿弥陀仏の仏像を寄進しても、信者の心には響きません。
・・・かと言って、彼が、全国行脚して、末寺を一つ一つ回ったとしても、その数には限りがあります。

そこで、蓮如は、自筆の手紙というメディアを利用します。

もちろん、単なる挨拶の手紙ではありません。

そこには、浄土真宗の教えや、蓮如の考えなどが書かれているのですが、当時、すでに貴族や武士には、既存の仏教が浸透していて参入が困難な事もあって、当然、蓮如のターゲットは、難解な仏教をまだ理解しきれていない庶民層・・・。

ですから、その手紙は、難しい言葉を使わずに、簡潔にわかりやすく、やさしく語りかけるような文章に仕上げられていたのです。

この『御文』と呼ばれる蓮如の手紙は、各末寺へ送られ、そこで、その寺の僧侶が信者の前で読み上げるのですが、それは、あたかも、目の前で蓮如が、信者一人一人に語りかけてくれていると錯覚するくらいの物だったのです。

御文を読み聞かされた者は、どんどんと引き込まれ、同時に各地のお寺に、蓮如自身が訪問するのと、同じ効果をあげる事ができ、本願寺派は一気に成長する事となるのです。

さらに、次に蓮如は、大きくなった教団の結束を固め、維持していくための戦略を実行します。

それは、以前『シルバーラブの日』(11月30日参照>>)に書かせていただいた子沢山・・・産めよ増やせよ作戦です。

蓮如は、27歳で初めて結婚して以来、85歳でお亡くなりになる前年まで、合計五人の奥さん(最後の奥さん以外は皆、他界されました)との間に、13人の男の子と14人の女の子を設けています。

ただ単に、元気でありまくりのハリキリまくりではありません。
ちゃんと計画的に、血縁関係で教団の結束を固めようとしたのです。

それも、ちゃんと将来の身のふりかたも考えておかなくては・・・なんせ蓮如さん自身が若い頃、後継者争いに巻き込まれてますから、しっかりとした計画が無い限り、むしろ、血縁関係だからこその争いが起こる事も考えられます。

蓮如さんがとった作戦は・・・「吸収合併」「のれんわけ」です。

長男・順如には光禅寺というお寺を経営させ、次男・蓮乗南禅寺に修行に出した後、加賀本泉寺如乗の娘の婿養子に出し、三男・蓮綱にも松尾寺というお寺を経営させています。

もちろん、女の子たちも、それぞれライバルになりそうな有力な寺院に嫁に出しているのです。

子供のうちに亡くなった子以外は、すべて、浄土真宗の僧か尼さんにして、何かしらの役割を、彼ら自身で与えています。

そして、まだ、自分の目の黒いうちに、75歳で引退し(84歳で最後の子供が生まれてるので、たぶん、まだ目は黒いです)、五男の実如本願寺住職を譲ります

しかし、引退しても、まだまだ蓮如さんの戦略は終りません。
そう、「アフターサービス」です。

引退後も、お寺での説法はもちろんの事、あの「御文」も続け、暇さえあれば、「名号」を書いていたのです。

「名号」とは「南無阿弥陀仏」の6文字の事・・・この文字を蓮如自らが書いて本尊として門弟に配布するのです。

晩年、彼は「俺ほど、名号を書いた人間は、日本にいないゾ!」と、楽しげに語っていたと言います。

この名号によって、お寺と信者との結びつきが、強固なまま維持できたのは間違いありません。

まさに、見事な戦略。
なるべくしてなった日本一・・・というところでしょうか。
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2008年2月23日 (土)

第二次・幕末遣欧使節団の珍道中~スフィンクスと侍

元治元年(1864年)2月23日、第二次幕末・遣欧使節団の池田隊が、エジプト国王を訪問しました。

・・・・・・・・・

先日、幕末にヨーロッパに渡った「第一次遣欧使節団・竹内隊の珍道中」(1月22日参照>>)を書かせていただきましたが、その三年後に派遣された池田筑後守長発(ながおき)を団長とする、この第二次使節団も、第一次に負けず劣らずの珍道中をやらかしてくれています。

まずは、出発前から、この使節団の派遣自体に、賛否両論の嵐が吹き荒れます。

なんせ、この使節団の一番の目的は、「一旦開港した横浜港を、もう一度閉鎖する」という事をヨーロッパ諸国に認めてもらうための直談判という物・・・一度進み始めた情勢を、無理やり後戻りさせる話し合いで、しかも、もう、それは、ほぼ不可能である事を幕府も重々承知した上の格好だけの交渉なのです。

攘夷論(外国排除)をかかげていた幕府が、外国の勢力に押されて、すんなり開港してしまって、ちょっとかっこわるいところを見せてしまったのを拭い去り、「ちょっとは抵抗したんだゾ」的なポーズを見せておくためだけの、はなから不成功覚悟の派遣でした。

・・・とは言え、団長の池田は、まだまだ血気盛んな27歳・・・ある意味幕府の名誉を背負っての出国でした。

文久三年(1863年)12月、江戸を出発した池田長発以下34名は、上海香港セイロンなどを経由して、一路ヨーロッパに向かうのですが、この時の随行員の一人である青木梅蔵が、詳細な日記を記していて、その内容がとてもおもしろいのです。

彼らが乗った船がフランスの船だったため、当然の事ながら、食事はすべてフランス料理・・・彼らは、初めての洋食をなかなか受け入れる事ができません。

乗船して2~3日たった頃、池田が家臣も連れず、たった一人で青木の所に突然現れました。

この梅蔵という人は、理髪師だったという事なので、本来なら、お殿様には、直接話す事すらしてもらえないような低い身分の立場・・・そんな、自分の所へ供も連れずの訪問にも驚きますが、彼が驚いたのは、その見た目の変貌ぶりです。

「顔色は青ざめ、ひょろひょろと歩き、まるで死人のようだった」と書き残しています。

そんな池田が・・・
「せめて、お粥でも・・・と思うのだけど、家来たちまで、まるで死人のようで役に立たない・・・何とかしてくれへんか」
と、悲痛な叫び。

「こんな雲の上の人が自分を頼ってくれている・・・」
そう思うと、うれしくなって・・
「喜んで!」
とばかりに、日本から持ってきたお米を取り出しますが、肝心の水がない・・・

身体に命綱をくくりつけ、船べりから吊るされ、必死の思いで、海水を汲み上げ、なんとかその海水にてご飯を焚きます。

できあがったご飯は、普段なら、とてもじゃないが食べられるようなシロモノではなかったそうですが、何日も食べ物を口にしていない彼らにとっては、それこそ、待ちに待った米のメシ・・・、皆、大いに喜んで、飢えをしのいだという事です。

青木の日記は、まだまだ続きます。

ようやく、洋食にも慣れてきて、ナイフとフォークのあつかいもサマになってきた頃・・・ある日の食事の席で、通訳の塩田三郎が、隣に座った武士のミョウな臭いに気づきます。

その武士本人も、何やら、自分の手から変な臭いがする・・・これは何の臭いだろう?と不安げです。

はたと気づいた塩田・・・
「ひょっとして、君、今さっきトイレ行けへんかった?」
「ああ・・・今行ってきたとこや」
「・・・で、どこで手を洗った?」
「ちゃんと、手水場(ちょうずば)で洗ったで」
「手水場ぁ~?」

そう、以前このブログの「トイレの歴史」(11月10日参照>>)で書かせていただいたように、日本では、かなり古い時代からトイレの後には、手を洗う習慣があり、トイレの横には、必ず手を洗う場所=手水(ちょうず)がセットになっていたのです。

しかし、外国のトイレに手水は無いはず・・・

「いや、手水が無いなぁ~と思いながら、ふと見ると、棚の上にキレイな壷があったんで、中を覗くと、なんか濁った水が入っていて・・・けど、ほかに手水らしきモンは見当たらないし、みんながここで手を洗うから濁ってるのかなぁ・・・なんて思いながら、その水で洗ってきた」
と・・・。

・・・で、塩田は納得。
「外国では、その壷に小水を溜めてから捨てるんや」
と、その武士に教えてやると、その場にいた全員がガ~ン!

実は、日本人の全員が、今まで、「何かおかしい」と思いつつも、その壷を手水だと思って、そこで手を洗い続けていたのです。

もちろん、かの殿様も、日記を書いている青木自身も・・・

そんなこんなでスッタモンダした船旅も、やがて船はスエズ港に到着。

未だスエズ運河が建設中であったので、アデンの港から上陸し、今度は、汽車に乗って、一路エジプトカイロへと向かうのですが、このカイロ行きの汽車の中でも、またまた下ネタの騒動が持ち上がります。

当時は、列車にトイレはついていませんから、途中途中で、ころあいを見計らっての停車=トイレ休憩が設けられていたのですが、当然、その事を知らない武士たち・・・。

その中の一人が、やにわに、大をもよおしてきてしまいます。
「カイロまで、どのくらいかかる?」
と聞いたところ、とてもじゃないが我慢できる時間では無かった・・・。

・・・で、青木の日記によると・・・
「車中にて、大便を山盛りに致せし人あり」
との事・・・山盛り(^o^;)・・・

しかし、考えようによっちゃぁ、山盛りできるほど、その時は食欲があったって事ですから、初めの頃のような食事の心配は無くなっていたという事で、ある意味安心しました~・・・ってそんな問題じゃぁないな。

まさか、外国の人に、日本人はトイレに行かず、そのへんで致す習慣がある・・・なんて思われてないでしょうね。

・・・と、心配を残しつつも、やっとの事でカイロに到着した池田隊長以下遣欧使節団ご一行様、元治元年(1864年)の2月23日、めでたく、エジプト国王と会見します。

そして、この5日後の2月28日、ご一行はピラミッドを見物するのです。

その時、撮影されたのが、この有名な『スフィンクスと侍』の写真

Kenousisetuikedacc この中に、「車中で山盛り致せし人」がいるかと思うと、感慨もひとしおです。

いや、出物腫れ物ところ嫌わず・・・私も他人の事は言えません。
むしろ、「マーキングしてきたった・・・もう、かの地は俺のテリトリー」くらいの気持ちでいきましょうよ。

そして、この後、無事、パリに到着した池田隊の面々・・・ヨーロッパの文化を目の当たりにした団長・長発は、すっかり開国派になってしまうのですが、そのお話は、3月20日【池田団長が日本人で始めてした事は?】でどうぞ>>
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2008年2月22日 (金)

猫と日本人~その交流の歴史

 

今日、2月22日は、「ニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)という、猫の鳴き声の語呂合わせで、『猫の日』という記念日なのだそうです。

・・・て事で、今日は、その『猫と日本人の交流の歴史』を書かせていただきます。

いったい、日本ではいつごろから猫をペットとして飼うようになったのでしょうか?

・・・・・・・・・・

犬と並んでペット界の二大巨頭である猫・・・。

その謎を秘めた妖しい雰囲気から、数々の伝説や昔話にも登場し、さぞかし、日本人とのおつき合いも、古いんだろうなぁ・・・と思いきや、意外にも、それほど古くはありません。

もちろん、金魚や熱帯魚よりは、だんぜん古いのですが、ペット界のライバルである犬が、縄文時代の頃から、すでに、番犬として、庭先で人とともに暮らしていた事に比べると・・・という事です。

猫のご先祖は、現在でもアフリカに生息する野生の猫・リビアヤマネコだと言われていますが、そんな野性の猫を、狩猟用に飼いならしたのは、紀元前3000年頃古代エジプトの第五王朝時代のファラオたち・・・この頃の出土品の中に、首輪をつけた猫の絵が書かれているそうです。

そして、狩猟目的だった猫は、今度はペットとして、ヨーロッパやインドへと伝わります。

やがて、紀元後まもなくの後漢(25年~220年)の時代、仏教伝来とともに、猫はインドから中国へと伝わるのです。

それは、仏教の経典をネズミの被害から防ぐための、ネズミ駆除の役割を荷った猫たちで、そんな猫が大陸から海を越えて、日本にやって来たのも、日本への仏教伝来より後という事になります。

ですから、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などには、猫の話は一切出てきません。

日本への持込は、おそらく、大切な経典を持ち帰ってきた遣唐使たちが、ネズミから経典を守るために連れて来たでしょうが、これは、あくまで推測・・・。

ただ、平安初期の仏教説話集『日本霊異記』には猫が登場しますが、お話に登場するだけでは実際に、日本に猫がいたかどうかは確認できません。

・・・で、正式な記録としては、平安時代の第66代・一条天皇の在位中に、朝鮮半島からの献上品として、送られたのが、日本に猫がやってきた最古の記録となります。

天皇は、寛和二年(986年)から寛弘八年(1011年)までの在位ですので、その間に・・・という事ですね。

紫式部『源氏物語』の中で、主人公・光源氏の奥さん・女三宮が、ペットの猫を可愛がるシーンが出てきますが、紫式部が一条天皇の中宮・彰子の家庭教師だった事を考えると、まさにトレンディ・・・流行りの最先端を小説に取り入れた事になりますね~お見事!

そんなペットの猫ちゃんですが、早くも室町時代、兼好法師が書いたあの『徒然草』の中で「妖怪・猫又(ねこまた)として登場します。

正式輸入から300年経っているとは言え、長い人間の歴史から考えると・・・化けるの早っ!て感じです~。

猫又とは、長年飼った猫の尾が二つに裂けて分かれ、妖しい力を持つ化け猫になるという物です。

今思えば、動物虐待もはなはだしいですが、この時代は、猫又になるのを防ぐため、子猫のうちに尻尾を切ってしまうという風習もあったくらいですから、相当、信じられていたのでしょう。

江戸時代になっても、猫の妖しい魅力は衰えず、化け猫は歌舞伎や小説の中にしばしば登場します。

中でも有名なのは、『佐賀・鍋島藩の化け猫騒動』(9月6日参照>>)です。

佐賀の鍋島藩主に殺された飼い主の、血をなめて生きながらえ、やがて妖怪となった猫が、お殿様のお妾に化けて入り込み、お家騒動などを引き起こして怨みを晴らそうとするというストーリーです。

もちろん、化け猫はフィクションだとしても、そのもとになる話は実際にあった出来事だったのです。

ただし、それは、九州の雄・龍造寺家と、その親戚で家臣だった鍋島家の、戦国にありがちなお家騒動・・・しかも、それは、家臣・鍋島があまりにも優秀だったため、「いつか乗っ取られるんじゃないか?」と不安になり、疑心暗鬼の末、勝手に殿様が自殺して龍造寺家が断絶してしまっった後、家臣たちの話し合いで、鍋島家がその後を引き継いだという物です。

どこでどう鍋島家が恨まれる部分があるのか、とても理解し難い状況で、猫のねの字も出てきやしません。

恨みを抱いて復讐するストーリーに引っ張り出された猫が、お気の毒なくらいです。

こうして長い間、妖怪あつかいされていた猫ですが、明治以降に登場する民話・世間話では、妖しい感じは残しつつも、いたって明るく描かれています。

ケガをして湯治に出かける猫の話や、あぐらをかいてニヤリと笑う猫など・・・

従順な犬に対して、飼い主に心を見せないその不思議な生き物は、今はもう、昔の人が描いた妖しいというイメージではなく、目が離せないイタズラっ子のようなカワイイさを振りまいて、現在の私たちを癒してくれる存在になったようですね。

Catscc 今日のイラストは、
妖しくもあり、かわいくもありという雰囲気の猫ちゃんを書いてみました。

彼らの人生・・・いや、猫生や犬生が、飼い主である自分にかかっているんだと思うと、幸せにしてあげられるかどうかの自信がなく、今日もペットショップを横目に見る私です。
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2008年2月21日 (木)

近代新聞と瓦版~大江戸情報ネットワーク

 

明治五年(1872年)2月21日、日本で初めての日刊新聞『東京日日新聞(現在の毎日新聞)が創刊されました。

・・・・・・・・

それまでの、主に『瓦版』を中心にした日本の情報メディアは、江戸時代の末期、近代新聞として大きな変貌を遂げます。

安政四年(1857年)に、上海でイギリス人が発刊していた漢字新聞『六合叢談』を、幕府が翻訳し、文久の始めに出版した物が、日本初の新聞とされています。

しかし、これは、なんだかんだ言っても、外国のを丸写ししただけ・・・やがて、元治元年(1864年)の4月に、岸田吟香浜田彦造本間潜蔵の三人によって、日本人の手による最初の新聞『新聞誌』が創刊されます。

最初は、印刷の予定もなく筆写での出版だった新聞誌も、翌年には『海外新聞』と名前を改め、木版印刷となりますが、最初の固定購読者が二人という悲惨な物でした。

・・・というか、この三人・・・作るのはいいが、売る作戦をまったく考えていなかったようで、その売り方は、作者本人が横浜の街中に立っての手売りで、広報的な事も一切しなかっという事なので、はなから、そんなに多くの買い手が着くとは考え難い状況です。

しかも、この海外新聞は、半紙を半分にした10ページほどの物で、どちらかというと、小冊子のみたいな物だったようで、発行も月2~3回と不定期でした。

そして、いよいよ明治四年(1871年)に、日本初の定期刊行新聞『横浜毎日新聞』が創刊され、その翌年の明治五年(1872年)2月21日日本初の日刊新聞である『東京日日新聞』が創刊され、やっと現在の新聞のような、それらしい形となったのです。

ところで、最初にも書いたように、よく「新聞のルーツは江戸時代の瓦版」という話を耳にしますが、この二つの決定的な違いは、やはり、上記の定期刊行・・・つまり、瓦版は不定期刊行物だったという事です。

今で言うところの号外ですね。
何か、災害や事件・事故があると発行されるという物でした。

そして、瓦版という名前も、実は幕末の頃から呼ばれ始めた名前で、江戸時代の最盛期には、売り子が大きな声で記事を読み上げながら売り歩いた事で『読売(よみうり)と呼ばれていました。

錦絵などの美術的価値まで囁かれるような印刷物に対して、情報伝達に重きをおく瓦版は、実際には木版であったにも関わらず、粘土版や瓦版で印刷したような粗悪な印刷が多くあったため、いつしか瓦版と呼ばれるようになったのだそうです。

現存する最古の瓦版(←今日のところは瓦版と呼ばせていただきます)は、元和元年(1615年)5月8日に起きた大坂夏の陣での大坂城落城(5月8日参照>>)を知らせる瓦版・・・『大坂阿倍之合戦之図』『大坂卯年図』の2枚だそうです。

そんなこんなで、大坂夏の陣から始まった瓦版・・・江戸も前半の頃は、心中物好色物といった身近な話題が中心で大いに盛り上がっていましたが、例の『大江戸心中ブーム』(2月20日参照>>)によって、危機感を抱いた幕府がその前後に、心中物の発行を禁止したため、一気に人気がガタ落ちとなってしまいます。

さらに、追い討ちをかけるように、寛政二年(1790年)、あの田沼意次に代わって老中筆頭となった松平定信(10月2日参照>>)は、田沼のイメージを払拭するべく、クリーンな政治を試みたため、好色物も禁止・・・そして、そんなマジメ一辺倒、倹約一辺倒の幕府に対する政治批判も禁止となります。

Yosiwarakawarabancc 売上の下がった瓦版屋は、ニュースの中心を災害情報に切り替え、売上の回復に当たります。

瓦版屋存亡の危機がかかっているせいか、この災害情報の伝達は極めて迅速。
当時としてはかなり早かったようで、「役に立つ」と大評判となります。

しかし、天災はそうそうやって来る物でもありませんし、その合間に幕府推奨の「道徳教育記事」などを載せるたびに、売上が落ちる・・・という状況が続く中、瓦版屋・起死回生のテーマを見つけます。

それは、仇討ち物・・・この仇討ち好きは、日本人のDNAに刷り込まれた物なのか、とにかく根強い人気で、江戸時代を通じて、幕末の頃まで、その人気は衰えなかったようです。

そうして、飢饉や物価の高騰、天災・事件・事故などを伝えてきた瓦版ですが、それらの記事の内容は、おおむね幕府の公式発表に沿った内容で、根も葉もない噂的な話や、強烈な政治批判は、あまり掲載されなかったようです。

それは、幕府の厳しい統制もあったでしょうが、それよりも、瓦版屋の自らの自粛といった感じです。

なんせ、当時の江戸は世界最大の都市でしたから、不用意に大衆を不安に陥れる事のない正確な情報が要求されていたのだと思います。

「火事と喧嘩は江戸の花と言われた時代に、瓦版の最も重要な役目が、災害時に迅速かつ正確な情報を伝え、情報不足から来る不安やパニックを回避させる事にあると、おそらく江戸の人たちはすでに、気づいていた?・・・としたら、スゴイ!

さすが、世界一の大都市です。
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2008年2月20日 (水)

江戸のホエール・ウォッチング~珍獣見世物事情

 

享保十九年(1734年)2月20日、江戸・両国で、『ホエール・ウォッチング』が行われました。

・・・・・・・・・・

『ホエール・ウォッチング』と言えば、最近のハヤリで、何だかカッコよく聞こえますが、ちょい昔風の言い方をすれば、「生きたクジラを捕まえてきて見世物にした」という事です。

これまた逆に「見世物にした」というと、何だか陰湿な響きがありますが、パンダを始め、かつては、阪神パークのレオポンや宝塚ファミリーランド(だったかな?)ホワイトタイガー、ちょっと前にはエリマキトカゲ人面魚などなど、なんだかんだ言いながら、今でも日本人は、けっこう、こういうの好きです。

・・・で、享保十九年(1734年)2月20日両国にお目見えした生きた2頭のクジラは、「天竺でなくては見られない大海獣!毎日、人間を一人ずつ食って生きている!」というふれ込みで、大々的に公開され、珍しい物見たさに江戸市民が殺到したそうです。

ホントは、千葉の浜辺で捕らえられたのだそうですが・・・。

江戸中期は、クジラに限らず、珍獣の見世物が大いに流行った時代であります。

それは、裕福な町民も増えて町民文化が華やかに花開くと同時に、幕府の意向も相まっての事・・・。

徳川幕府も安定期に入って、おおむね平和となったこの頃は、とにかくお抱えの武士の数が多すぎる状況となったものの、だからと言って、理由もなくクビにするわけにもいかず、中級・下級の武士たちは『三日勤め』・・・つまり、週休4日体制での勤務が当たり前の状態。

そんなヒマをもてあましている連中に、「遊ぶな」と言っても、ウップンが溜まるだけですから、「健全は娯楽なら・・・」と、むしろ幕府も娯楽を推奨する姿勢をとっていたため、どんどんと盛り場や大道芸などの娯楽が発達していったのです。

このクジラの見世物の5年前の享保十四年(1729年)には、第8代将軍・徳川吉宗ベトナムからゾウが献上され、長崎から大阪・京都を通って、江戸までの道のりをノッシノッシと歩き、沿道には多くの見物客が押し寄せて、大評判となりました(4月28日参照>>)

Hyoucc それ以外にも珍獣の見世物としては、孔雀ヤマアラシアザラシヒョウなんかが人気があったようですが、そんな中でも、大スターだったのが2匹のラクダでした。

実は、このラクダは、文政七年(1824年)にオランダ人のプロムホフという人が、時の将軍・第11代・徳川家斉に献上しようと日本に連れてきたのですが、なぜか、けんもほろろに断られ、しかたなく、馴染みの遊女だった糸萩という女性にプレゼントします。

しかし、貰った彼女も、どうしていいかわかりません。

・・・で、結局、回り回って見世物小屋に・・・

それが、「これは、はるばるハルシア(ペルシャ)からやってきたカメアルなり~。
飲まず食わずで万里を歩き、その小水はできものの特効薬になるという西方の霊獣である。」

というふれ込みで大人気を呼びます。

また、そのつがいの2頭のラクダが、大変仲が良かった事から、見るだけで夫婦仲が良くなるとの噂が広まり、連日、倦怠期を迎えた夫婦で・・・いや、恋人同士のカップルで大賑わいだったそうです。

ちなみに、同じ時期に、オランダ渡りの人魚や、肥後国大女という見世物もあったそうですが、なんか、これはちょっと怪しい気が・・・。

上方落語の中に、「一間の大イタチ」「天竺の白い孔雀」の見世物小屋の話がありますが・・・

「一間の大イタチ発見!」のふれ込みで、小屋の中に入ると、ドまん中にに赤い物がべったりついた板が立てかけてある・・・

この板の幅が一間(約1.8m)、まん中に着いているのは血・・・つまり、一間のイタチ→一間の板血。

今度は、天井から白い布切れが2枚ぶらさげてあって、一枚は越中ふんどし。
もう一枚は六尺ふんどし・・・どちらも天竺木綿でできている。

三尺の越中ふんどしと六尺ふんどし、合わせて九尺→くしゃく→くじゃく=天竺(木綿)の白い九尺(くじゃく)・・・

江戸時代の人も騙されたんだろうなぁ。
でも、笑ってすませられる範囲なら、それもアリかも知れません。

なんだか、今も昔も変わりませんね~
たまちゃんに大騒ぎするのも、代々受け継いだ日本人のDNAのなせるワザなんでしょうね。
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2008年2月19日 (火)

屋島の合戦~佐藤嗣信の最期

 

文治元年(寿永四年・1185年)2月19日は、源平合戦の屈指の名場面・扇の的で有名な『屋島の合戦』のあった日です。

・・・と、昨年の今日は、屋島の合戦の中でも、名場面と言われる『扇の的』(2月19日参照>>)のお話を書かせていただきましたが、屋島ではもう一つ、扇の的の前に、あの『佐藤嗣信の最期』という屈指の名場面があります。

・・・・・・・・・・・・

『一の谷の合戦』(2月7日参照>>)で破れ、四国の屋島へと向かった平家

兄・源頼朝の承諾を得ずに官位を貰った事で、しばらく謹慎処分になっていた源義経が、平家追討軍の大将に復帰するなり、わずかの兵で嵐の海を越えて四国に上陸したところまでは、先日の『めざせ!屋島・・・』のページで書かせていただきました(2月16日参照>>)

四国の勝浦に上陸した義経軍は、高松民家を次々に焼き払いながら、一路屋島を目指します。

それは、最初に義経とともにやって来た源氏勢が、わずかに5艘・・・途中から加わった近藤六の手勢を加えても、合計150騎の義経軍を、より多くの軍勢に見せかけるための作戦でした。

その狙い通り、屋島にいた平家一門に「高松に火の手が・・・」の情報が入るやいなや、平宗盛(清盛の三男)「源氏軍が相当な数で攻め寄せて来ている」との判断をします。

早速、安徳天皇の御座所を船に遷し、そこには建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の母)二位の尼(清盛の奥さん=時子)をはじめ、宗盛親子も乗り込み、早々に漕ぎ出します。

他の船も、われ先に女官や公達が乗り込み、次々と出ていきます。

少し沖へ出た頃、ちょうど浜辺に到着した義経率いる源氏軍の先頭集団・約80騎。

その先頭集団は、ちょうど引き潮であった海岸から海に入り込み、大きなしぶきを上げて沖の船に近づこうとします。

実は、これもまた義経の作戦。

わずか80騎の先頭集団が、浜辺に現れるなり、いきなり海に入り、馬の蹴上げる水しぶきの中、サッと白旗を掲げる事によって、より多くの軍勢に見せかけたのです。

やがて、到着した義経は、軍勢の一歩前に進み出て名乗りをあげます。
「我こそは、一院の御使、検非違使五位の尉源義経」

続いて、伊豆の住人・田代信綱武蔵の住人・金子家忠・・・そして伊勢三郎義盛以下、義経の郎党も次々と名乗りを上げます。

その間に、浜辺へは出ずにいた源氏方の後藤実基が、人影の無くなった内裏や総門などの建物に火を放ちます。

たちまちのうちに燃え上がる炎・・・それは、沖で留まる平家の船からもよく見え、この頃になって、ようやく宗盛は、源氏軍の兵の数が、予想以上に少ない事に気づかされるのです。

「しもた・・・こんな事なら、慌てて海に出んでも、浜辺で応戦したら、難なく撃退できたものを・・・」
悔やんでもしかたありません。

何とか、反撃に出る方法はないか?と思案する中、平家きっての猛将・平教経(清盛の甥)に、陸へとって返し一戦を交えるように指示します。

「ガッテン承知」とばかりに教経を大将にした平家軍・約500の兵士が小舟に分乗し、越中盛嗣を先頭に、陸へ向かって押し寄せ、焼け焦げた総門のあたりに陣を敷きます。

義経軍も、矢の飛距離を考えつつ、少し退いて陣を敷きました。

先頭きってやってきた盛嗣が・・・
「さっき、なんや、ボソボソと名乗りみたいなモンあげとったけど、海の上におったさかい聞き取れんかったわ!・・・で、いったい、今日の源氏の大将は誰やねん!」

すると、伊勢義盛が進み出て・・・
「今更言うまでも無いだろ?清和天皇から数えて10代目、鎌倉殿(頼朝)の御弟の九郎判官殿よ!」

「あ・・・思い出した!先の平治の合戦で、完敗してオヤジが死んで、鞍馬の小坊主になったあと、金商人にの手下になり下がって、商人の荷物持ちやりながら奥州をウロウロはいつくばっとったガキやな!」

「テメェが男のくせにおしゃべりだっつーのは、噂に聞いてたけどよ!ペラペラとウチの大将の悪口言うんじゃねぇよ!テメェらこそ、倶利伽羅峠の合戦で大負けして、北陸をさ迷い、物乞いをしながら帰って来たヤツラなんだろ?」

「何ぬかしとんねん!物乞いなんかするか~ちゅーねん!お前こそ鈴鹿の山で山賊やっとったくせに」

一見、ムダに見えるこの悪口の言い合い・・・実は、この間に、盛嗣の後ろからジリジリと弓を引いて狙いを定めていた者がおりました。

そう、平家の大将・教経です。
彼は、都一の弓の名手とうたわれた人物・・・「彼に狙われたら射抜かれない者はいない」と言われていたのです。

彼の狙いはただ一人・・・源氏の大将・義経です。

さすがに、そのスルドイ視線に気づいた源氏勢・・・義経の前に、馬の頭を並べて、その前をふさぎます。

教経は・・・
「オラ、どかんかい!矢おもてに立つザコども!」
と言うなり、立て続けに矢を何本も放ち、またたく間に、10人ほどが馬から落ち、その場に倒れます。

その中には、あの佐藤嗣信が・・・。

彼は、義経が奥州を出る時、藤原秀衡が与えてくれた家臣・佐藤兄弟の兄のほう。

「命を賭けてお守りします」と主従関係を結び、ともに平家打倒を夢見て旅立ったあの日から、その言葉の通り、我が命に代えても、義経を守る覚悟でいた嗣信は、誰よりも前に出て、主君の盾となっていたのです。

教経の放った矢は、嗣信の左手の肩から、右手の脇腹へと抜け、浜辺に落ちたその身体は、ピクリとも動きません。

そこへ、教経の従者である怪力自慢の菊王丸という18歳の若者が、嗣信の首を取ろうと、長刀を振りかざして近寄ります。

「させるか!」
と、弟の佐藤忠信が即座に放った矢は、菊王丸をまともに討ちぬき、彼もまたその場に倒れます。

そばにいた主君の教経が菊王丸を引きずり、船へと乗せますが、彼はもはや即死状態。
教経は、この菊王丸・討死のショックで、合戦から離脱し、船に籠ってしまいます。

一方、嗣信を取り戻して、何とか源氏の陣まで運び入れた義経主従・・・「大丈夫か?意識はあるか?」と、嗣信に声をかけます。

「もはや、これまでと思われます」
消えそうな声で、嗣信が答えます。

「武士たる者が敵の矢に当たって死ぬのは、もともと覚悟の上・・・何も悔いはありませんが、義経殿の天下となるこの世を見ずに死ぬ事だけが心残りで・・・でも、この源平の合戦で、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信という者が、讃岐の屋島の磯で主君の身代わりになったと末代までの語り草となるのは、何よりも武士の誉れ・・・」

自らがその手を取り、嗣信を励ます義経・・・その手を握り返す嗣信の指が、やがて、その力を無くし、ハタッと義経の手の中をすり抜け、浜辺の砂の上に投げ出されました。

そして、戦いは、このあと、扇の的の名場面へと切り替わる事になります。

【扇の的】>>
【弓流し】>>

・・・・・・・・・・・・

壮絶な、合戦が繰り広げられた屋島の地・・・現在、平行して走る屋島ドライブウェイと県道の間に挟まれた入り江を見下ろす高台に、佐藤嗣信の供養塔があります。

その前の道は、かつて江戸時代に屋島寺へと向かう巡礼者が通った遍路道なのだとか。

その道を、さらに少しだけ南に下ると見える小さなほこら・・・こちらは、菊王丸のお墓

今、屋島観光のガイドブックには、敵味方に分かれながらも、同じ屋島の地で命を落とした二人のお墓が、並んで紹介されています。

永遠の眠りについて、二人並んで見る夢は・・・平家栄華の思い出か、来たるべき源氏の世への憧れか・・・それとも、合戦の無い時代の屋島の風景なのでしょうか・・・。
 .

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2008年2月18日 (月)

法然の流罪は、イケメン弟子のサービス過剰?

 

建永二年(承元元年・1207年)2月18日、浄土宗の開祖法然が、四国・土佐に流罪となり、「専修念仏」も禁止されました。

・・・・・・・・・・

法然は、長永二年(1133年)、美作(みまさか・岡山県)の武士の長男として生まれました。

9歳の時に父を亡くし、その遺言に従って仏門に入りますが、彼の天性とも言うべき才能は、すぐに発揮されます。

13歳で比叡山に招かれ、15歳で正式に出家、当時の比叡山内で、当代一流と言われていた先輩僧・源光叡空の二人に認められ、二人の名前から一文字ずつ取った「源空」という名前まで賜っています。

しかし、その並々ならぬレベルの高さゆえ、なかなか納得のいく教えに出会う事がなく、日本や中国の様々な経典を読みあさる毎日・・・やがて、安元元年(1175年)、比叡山を下り、京都の東山に庵を構えて、そこで日本浄土宗を開くのです。

法然、43歳でした。

「ただ一心に阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を唱える事により、極楽に往生できる」という法然の『専修念仏』の教えは、またたく間に広がりを見せていきます。

あの親鸞が、この頃の法然のもとに百日間通い続けて弟子にしてもらい、後に日本最大の伝統仏教・浄土真宗の開祖となるのは、もうご存知でしょう。

しかし、「勢いがある」というのは、本人の意思とは関係なく、何かと波風を立てるのが世の常です。

当然の事ながら、その広まりの速さは、京都奈良の在来の仏教関係者に目をつけられる結果となります。

特に、延暦寺からは問答の挑戦があったり、興福寺からも、えらく反発を受けたりしてしまいますが、そんな状況にも関わらず法然の人気はうなぎ上り、彼に教えを乞いたい人はどんどん増え続けます。

そんな中の一人が、時の天皇・第83代・土御門天皇のお父さん・後鳥羽上皇でした。

後に起こる『承久の乱』(5月14日参照>>)の状況を見てもわかる通り、皇位こそ息子に譲ってはいるものの、当時、朝廷内の実権を握っていたのは、この後鳥羽上皇です。

その上皇が、法然をかばうような態度を見せていた事によって、延暦寺や興福寺といった強大な勢力から非難を受け続けても、何とか浄土宗は弾圧を受ける事なく、順調に信者の数を伸ばしていっていたのです。

ところが、どっこい建永二年(1207年)2月18日いきなりの「流罪+専修念仏の禁止」が言い渡されるのです。

法然が、四国・土佐(高知県)への流罪。
当時、弟子入りしていた親鸞も、越後(新潟県)・佐渡へ流罪。

さらに、当時はほとんど行われていなかった死罪に、弟子の安楽住蓮が処されています。

確かに、執行したのは鎌倉幕府ですが、もちろん、この処分を決定したのは、後鳥羽上皇ご本人です。

この180度の変わりようはいったい?

実は、この安楽と住蓮という二人の僧・・・めちゃめちゃイケメンの坊さんだったのです。

以前【平安のトレンド・イケメン僧侶に貝合わせ】(6月29日参照>>)にも書かせていただいたように、当時のイケメン僧侶は、アイドル並みの大人気。

法然は、たぶん無いと思いますが、人気取りのためには、顔のオーディションで弟子を選んでいた寺もあったようですから・・・。

事件が起こったのは、前年の12月・・・後鳥羽上皇が紀伊(和歌山県)熊野に参拝するため、御所を留守にしていた最中。

日頃、自由に出歩く事ができない女性陣・・・唯一許されるのは、仏事を催す事です。

上皇が留守なのを良いことに、ある日、女房たちは、その小御所に、日本一の美僧との評判高い安楽と住蓮を招きいれます。

もちろん、具体的にはっきりと、その内容を書いてある史料はありませんが、どうやら、一部の文献には、仏事の最中に女房たちが、灯りを消して二人のイケメンと・・・何やらあったらしいと書かれているとか・・・。

また、安楽恋しさに、出家して御所を出る女房が続出したり・・・といった事もあったとか・・・。

ただし、これらの出来事は、浄土宗をぶっ潰そうとする延暦寺や興福寺のでっち上げであるという史料も存在しますので、一概に事実であったかどうかはわかりませんが、この事が本当であれ、嘘であれ、留守中の報告を信じた後鳥羽上皇が、今までの態度を一変したのは事実です。

この変わりようは、まさしく、
「俺の留守中に女房たちを・・・!」
という、上皇のカンカンぶりが、伝わってくるような処分ですな。

とにかく、二人の僧侶は死刑となり、とばっちりを食った感じの法然は流罪・・・この年の暮れには、配流処分を解かれますが、その後4年間、京都に入る事が許されず、4年後に、やっと戻った翌年、80歳の生涯を閉じてしまいました。

同じく親鸞も、4年後に許されますが、彼のほうはバッチリ、配流先の越後で奥さんをゲットし、その後は常陸(ひたち・茨城県)にて布教活動を再開します(11月20日参照>>)

あまりにイケメンなのも考えモンですね。
きっと、二人の僧侶が、自分よりブサイクだったら、上皇も許してたかも・・・

いや、逆に「こんなブサイクに・・・」と、怒りが倍増する可能性もあるので、やっぱ、どっちにしても、大変です。
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1月の歴史の出来事カレンダー

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

1kadomatucc

出来事とリンク
1 745
 .
 .
 .
1820
紫香楽宮(しがらきのみや)へ遷都
 【木簡に万葉歌!「紫香楽宮」って?】
豊臣秀吉の誕生日
 【豊臣秀吉・1月1日誕生説】
清水次郎長・誕生
 【海道一の大親分・その知られざる後半生】
2 初夢
 1868
 1905
この日の夜に見た夢を初夢と言う
 【いい夢見ろよ~初夢と七福神のお話】
鳥羽伏見の戦いで大坂湾で海戦
【鳥羽伏見の大坂湾で~初の様式海戦】
日露戦争で旅順・陥落
 【日露戦争のキーポイント~旅順・陥落】
3 655
. 
668
. 
985
 .
1851
. 1868
皇極天皇が重祚して斉明天皇に…
 【日本初の譲位と重祚…斉明天皇の即位】
天智天皇・即位
 【天皇不在の7年間…天智天皇・即位の謎】
慈恵大師良源が没す
 【延暦寺・中興の祖…慈恵大師良源】
中浜万次郎が十年ぶりに帰国
 【ジョン万次郎の帰国】
鳥羽伏見の戦いで戦闘開始
 【薩摩の砲撃で戦闘開始!】
4 1160
.  1894
. 1937
源義朝が暗殺される
 【サウナで謀殺!無念・源義朝の最期】
辻将曹・没
 【維新の雄藩になれなかった広島・辻将曹】
名古屋城の金のシャチホコが盗まれる
 【名古屋城の金の鯱の伝説】
5 1348
 .
1494
. 1593
. 1615
. 1868
.
1869
. 1874
四条畷の戦い
 【四条畷の戦い~楠木正行の最期】
慈視院(朝倉)光玖が没す
 【朝倉を支えた名サポーター慈視院光玖】
蠣崎慶広が蝦夷地の支配を認められる
 【世渡り上手~松前・蠣崎慶広の生き残り】
高山右近・没
 【キリシタン大名・高山右近・神に召される】
鳥羽伏見の戦いで錦御旗がかかげられる
 【戦場に翻る錦の御旗~戦い・3日め】
横井小楠が暗殺される
 【龍馬もまねた~小楠の維新のシナリオ】
東京に「馬車・人力車専用道路」が完成
 【鉄道馬車と車会党】
6 .
.
661
. 1215
. 1484
 .
1831
. 1868
色の日
 【神代から現代まで…色の色々な歴史】
斉明天皇を乗せた軍船が九州へ出航
 【額田王巡る三角関係】
北条時政・没
 【若い嫁にはご注意を~北条時政の失脚】
福岡合戦で薬師寺貴能らが討死
 【薬師寺貴能ら討死~福岡合戦の終盤】
良寛・没
 【やるね!良寛~70歳のラブソング】
慶喜が大坂城を出る
 【徳川慶喜・敵前逃亡~その本心は・・】
 【慶喜の敵前逃亡~原因は御三家にあり?】
7  .
 .
1490
 .
1491
 .
1678
. 
1841
七草
 【七草粥の起源】
足利義政・没
 【室町幕府・崩壊の張本人~足利義政】
足利義視・没
 【応仁の乱のきっかけとなった足利義視】
夕霧太夫・没
 【夕霧太夫を生んだ大阪・新町遊郭】
徳川家斉・没
 【側室40人・子供55人・在位50年~歴代1位】
8 -581
 .
1338
 .
1564
 .
1868
綏靖天皇が即位
 【綏靖天皇・即位~記紀の「弟優先の法則」】
北畠顕家が上洛のため鎌倉を進発
 【天皇のため上京します!…北畠顕家】
第二次・国府台の合戦
 【里見VS北条~第二次国府台の合戦】
徳川慶喜が江戸へ出航
 【徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎】
9  .
 .
1569
 .
1781
. 1868
 .
1871
クイズの日
 【歴史クイズ】
織田信長が堺の町を攻撃
 【本能寺の変と堺の関係】
湯浅常山・没
 【『常山紀談』と湯浅常山】
鳥羽伏見の戦いで大坂城・開城
 【大坂城の炎上はもののふの魂】
広沢真臣が暗殺される
 【維新動乱の未解決事件~広沢真臣・暗殺】
10  .
 .
 .
 .
1520
 .
1598
 .
1709
十日戎
 【神無月の留守番:恵比須さま】
初金毘羅
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
腰水城の戦い
 【管領家後継者争い~腰水城の戦い】
秀吉が上杉景勝に会津転封を命ず
 【秀吉の置きみやげ~上杉の会津転封】
徳川綱吉・没
 【犬公方・徳川綱吉の忌日】
 【大奥・開かずの間~綱吉、刺殺の噂】
11 733
 .
1184
 .
1504
 .
1559
 .
1568
 .
1573
 .
1868
 .
1881
橘(県犬養)三千代・没
 【浮かぶ橘~県犬養三千代の出世物語】
木曽義仲が征夷大将軍に・・・
 【征夷大将軍・木曽義仲】
九条政基が湯起請により犯人を特定
 【昔のウソ発見器…湯起請と盟神探湯】
龍造寺隆信が少弐冬尚を攻める
 【少弐冬尚の自害で少弐氏が滅亡】
上杉謙信が武田信玄に「塩を送る」
 【謙信から信玄へ~「敵に塩を送る」】
武田信玄が三河野田城へ総攻撃
 【信玄最後の戦い~野田城・攻防戦】
アメリカ兵・射殺事件
 【幕末~日本最大の危機だった?】
からくり儀右衛門こと田中久重が没す
 【東洋のエジソン~田中久重】
12 1337
 .
1574
 .
1868
 .
1875
 .
1911
瓜生兄弟が討死
 【南北朝・杣山城の瓜生兄弟と強き母】
織田信長が瀬戸に焼物の特権を与える
 【信長が保護した瀬戸物の長き道のり】
佐々木只三郎・没
 【龍馬も斬った?見廻組随一の刺客】
屯田兵を募集する
 【北海道のパイオニア・屯田兵募集】
日本人が初めてスキーをする
 【日本のスキー発祥は?】
13 1398
 .
1530
 .
1541
 .
1553
 .
1653
 .
1860
崇光天皇が崩御
 【南北朝に翻弄され…崇光天皇】
斉藤道三が長井氏を乗っ取る
 【父子2代の…斉藤道三の長井氏乗っ取り】
安芸郡山城・総攻撃開始
 【尼子氏衰退へ?安芸郡山城・攻防戦】
織田信長の傅役・平手政秀が自刃
 【織田信長の傅役・平手政秀の死】
玉川上水の開発命令が出る
 【土木の英雄・玉川兄弟~子孫の末路】
咸臨丸がアメリカに向けて出航する
 【咸臨丸・品川沖を出航】
14  .
 .
1181
 .
1702
 .
1742
 .
1874
左義長・どんど焼き
 【左義長・どんど焼きの由来と意味は?】
高倉上皇・崩御
 【峰の嵐か松風か~天皇と小督の悲恋】
元赤穂藩士・萱野三平が自刃
 【忠臣蔵「お軽勘平」のモデル・萱野三平】
エドモンド・ハリー没
 【ハリーとハレー彗星の話】
赤坂喰違の変
 【岩倉具視・危機一髪~赤坂喰違の変】
15  .
 .
 .
 .
1153
 .
1576
 .
1862
 .
1900
 .
1904
小正月・小豆粥・嫁叩き
 【1月15日は…男も女も「嫁叩き」】
いい碁の日
 【いい碁の日に囲碁のお話】
平忠盛が没す
 【平家基礎を作った清盛の父・忠盛が死す】
波多野氏が信長に叛旗をひるがえす
 【八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけ?】
坂下門外の変
 【幕府の未来~安藤信正・坂下門外の変】
東京市がネズミの買いうけを実施
 【鼠を捕って天丼を食おう!ペスト流行】
元二本松藩主・丹羽長国が死去
 【心やさしき藩主の二本松戦争…丹羽長国】
16  .
 .
399?
 .
754
 .
1012
 .
1184
 .
1577
閻魔斎日
 【半年に一度・地獄の釜開き】
仁徳天皇・崩御
 【世界最大の陵墓の主?~仁徳天皇】
鑑真和上が平城京に到着
 【鑑真が日本に来たかったワケは?】
藤原道長の三男・顕信が出家
 【満月の陰り…息子・藤原顕信の出家】
近江に待機する源義経のもとに援軍が到着
 【義仲追討へ義経が動く】
新陰流の開祖・上泉信綱が死去
 【新陰流の開祖~剣聖・上泉信綱】
17 1160
 .
1467
 .
1549
 .
1868
 .
1887
源義朝の愛妾・常盤御前が都落ち
 【伝説に彩られた常盤御前…と信長?】
御霊合戦・勃発
 【応仁の乱の口火を切る御霊合戦】
犬山衆の信清が織田信秀に謀反
 【犬山衆・謀反~織田信秀と信長と信清と】
和宮が徳川慶喜の書いた嘆願書をチェック
 【徳川家の存続をかけて~和宮の尽力】
昭憲皇后が婦人に洋服を勧告
 【和から洋へ…女性の服装も文明開化】
18  .
 .
689
 .
1569
 .
1614
 .
1657
 .
 .
1871
初観音
 【観音様のお話】
持統天皇が1回目の吉野行幸へ
 【14年間に26回~持統天皇の吉野行幸】
第2次薩埵峠の戦い
 【武田VS北条~第2次薩埵峠の戦い】
最上義光・没
 【策士策に溺れる~謀略の将・最上義光】
明暦の大火
 【げに恐ろしきは振袖火事】
 【江戸都市伝説~明暦の大火の謎】
鍋島直正(閑叟)・没
 【幕末の名君…「肥前の妖怪」鍋島直正】
19 823
 .
1591
 .
1744
 .
1728
 .
1868
 .
1911
空海が東寺を賜る
 【弘法大師・空海と東寺】
豊臣秀吉が京都に寺地を寄進(西本願寺)
 【時代とともに生きた~東西・二つの本願寺】
幕府が偽虚無僧の取締令を発布
 【江戸時代の「ニセ虚無僧・禁止令」】
荻生徂徠が死去
 【海内一流の人物~荻生徂徠の死】
大久保利通が「大坂遷都案」を建議
 【幻の首都・大阪~明治天皇の在した守口】
御船千鶴子が服毒自殺を謀る
 【千里眼・御船千鶴子】
20 799
 .
1184
 .
1200
 .
1574
 .
1633
 .
1905
和気広虫・没
 【日本を2度救った慈愛の人・和気広虫】
宇治川の先陣争い
 【宇治川の先陣争い】
梶原景時の乱
 【露と消えた九州独立国家~梶原景時の乱】
富田長繁の桂田長俊攻め
 【信長VS越前一向一揆~桂田攻め】
金地院(以心)崇伝・没
 【容赦なし?家康の右腕・金地院崇伝】
祇園の芸妓・お雪が資産家と結婚
 【玉の輿の日~平安時代の自分磨き】
21 1184
 .
 .
1473
. 
1530
 .
1661
 .
1866
 .
 .
1899
 .
1945
木曽義仲が粟津で敗死
 【木曽(源義仲)の最期】
 【巴御前・義仲からの最後の使命】
伊勢貞親・没
 【室町幕府の佞臣・伊勢貞親が残した物は】
上杉謙信・誕生
 【上杉謙信・女説】
加藤明成・没
 【会津騒動で改易…会津藩主・加藤明成】
薩長同盟・成立
 【この日本国のために~薩長同盟・成立】
 【薩長同盟の龍馬の活躍に疑問?】
勝海舟・没
 【自分大好き~勝海舟の人生語録】
ラース・ビハーリー・ボースが日本で没す
 【インド独立に貢献したボースと頭山満】
22 1090
 .
1591
 .
1637
 .
1862
 .
1941
 .
1979
白河上皇が熊野三山に行幸
 【今も昔も信仰あつき…「蟻の熊野詣」】
豊臣秀吉の弟・大納言秀長が病死
 【豊臣政権の要~大和大納言・秀長の死】
阿茶局(雲光院)・没
 【家康の信頼を一身に受けた側室・阿茶局】
竹内遣欧使節団が品川を出航
 【幕末「遣欧使節団」珍道中】
林忠崇・没
 【藩主が脱藩~最後の大名・林忠崇】
海王星と冥王星の軌道が入れ替わる
 【冥王星と海王星が・・・】
23 1545
 .
1570
 .
1620
 .
1866
 .
1868
 .
1890
少弐氏が佐嘉城を攻撃
 【北九州の覇権を廻って…少弐氏と龍造寺】
織田信長が足利義昭に掟書を突きつける
 【信長・義昭に掟書を示す】
大阪城・再建始まる
 【徳川政権の最前線~江戸時代の大阪城】
坂本龍馬が京都・寺田屋にて襲撃される
 【危機一髪!坂本龍馬・寺田屋事件】
対・東征軍への幕府・作戦会議
 【幻となった勝海舟・二つのシナリオ】
新島襄が死去
 【後継者を育てたい~新島襄の思い】
24  .
 .
 .
 .
1554
 .
1872
 .
1911
初愛宕
 【愛宕神社のお話】
初地蔵
 【お地蔵様のお話】
信長VS今川義元・村木城(砦)の戦い
 【若き信長の村木城(砦)の戦い】
明治天皇が初めて牛肉を食す
 【味覚の文明開化~明治天皇・牛肉を食す】
大逆事件で幸徳秋水らが死刑に
 【明治に起こった「大逆事件」とは?】
25 901
 .
990
 .
1160
 .
1201
 .
1613
 .
1633
 .
1802
 .
1866
 .
1891
菅原道真が大宰府へ左遷される
 【道真は学者じゃない?策謀的政治手腕】
藤原定子が入内する
 【中宮・定子と清少納言】
源義平が平家に斬首される
 【世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平】
式子内親王が薨去
 【恋の歌姫~式子内親王と藤原定家】
池田輝政・没
 【「西国の将軍」と称された池田輝政】
佐竹義宣・没
 【秋田藩の祖・佐竹義宣の山と谷】
木村蒹葭堂が没す
 【江戸文化知識が集うサロン・木村蒹葭堂】
赤禰武人が斬首に…
 【奇兵隊・第3代総監…赤禰武人の無念】
小笠原長行・没
 【夢を夢見た非凡な貴公子・小笠原長行】
26 1593
.
.
1666
 . 
1948
 .
1949
文禄の役・碧蹄館の戦い
 【泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い】
 
【秀吉が家康を朝鮮に行かせなかったのは】
円空が蝦夷地に渡る
 【多くの仏像を残した修業僧・円空】
帝銀事件
 【謎の帝銀事件】
法隆寺金堂から出火し最古の壁画が消失
 【法隆寺と聖徳太子】
27 865
 .
1219
 .
 .
 .
1336
 .
1870
 .
1874
 .
1885
高丘親王が天竺に向けて船出
 【めざせ天竺!マレーに消えた高丘親王】
鎌倉幕府・第3代将軍・源実朝が暗殺される
 【迷宮入り?実朝暗殺事件の謎】
 【実朝~暗殺事件の謎・パート2】
 【謎多き…源実朝暗殺犯・公暁の最期】 
新田義貞が足利尊氏から京を奪回
 【新田義貞・京を奪回!】
太政官が日の丸を国旗と布告する
 【日の丸はいつから国旗になった?】
宮崎県の男性が外国人女性と初の国際結婚
 【結婚の歴史】
第1回・官約ハワイ移民が日本を出発
 【明治に始まった日本人移民の苦悩】
28  .
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712
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1338
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1867
初不動
 【不動明王のお話】
太安万侶は「古事記」を献上
 【太安万侶が古事記を作る】
 【稗田阿礼ってどんな人?】
南北朝~青野原の戦い
 【京都奪回を目指す北畠顕家~青野原】
牛馬の生類憐みの令・発令
 【未だ謎多き~生類憐みの令】
29 1374
 .
1578
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1872
 .
1957
 .
1968
後光厳天皇・崩御
 【前代未聞の後光厳天皇の即位】
信長が家臣の妻子を安土に移す
 【織田信長の夢半ば~安土城下の事…】
初の人口戸籍調査が行われる
 【昔の人口ってどれくらい?】
日本南極観測隊がオングル島に到達
 【南極探検と観測の歴史】
藤田嗣治が死去
 【最後まで日本を忘れなかった世界のフジタ】
30 1823
. 
1877
.
1981
勝海舟・誕生
 【勝海舟のトラウマ】
鹿児島私学校生による火薬庫襲撃
 【西南戦争の西郷に勝算はあったか?】
宮本常一・没
 【大阪で知った民俗学の種…宮本常一】
31 1879 強盗殺人犯・高橋お伝の死刑が執行される
 【最後の斬首・高橋お伝の話】
 【最後の斬首で役目を終えた山田浅右衛門】
正月行事  【羽根突きの由来・起源】
 【おせち料理と雑煮の由来・起源】
 【お年玉の由来とオリジナル「ポチ袋」】
 【えと・十二支の由来と意味】
 【古式ゆかしい正月行事と初詣の起源】
 【いよいよ師走~年賀状の由来とイラスト】
 【年末年始・お正月~由来・起源・豆知識集】
第2日曜 成人式
 【成人式=元服の歴史】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
毎月・19日 トークの日
 【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
毎月・24日 かつお節の日
 【かつお節の歴史】
毎月・25日 天神の縁日
 【菅原道真・没】
毎月・26日 風呂の日
 【お風呂の歴史】
毎月・28日 鬼子母神の縁日
 【鬼子母神のお話】
毎月・30日 みその日
 【お味噌の歴史+味噌天神のお話】
毎月・末日 そばの日
 【お蕎麦の歴史】

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2008年2月16日 (土)

義経の奇襲作戦Part2・めざせ!屋島~嵐の船出

 

文治元年(1185年)2月16日、源氏の大将に復帰し、平家追討をめざす源義経が、わずか五艘の船で海を渡り、平家が陣を敷く屋島に向かいました。

・・・・・・・・・・

「鵯越の逆落とし」の奇襲作戦を成功させ、『一の谷の合戦』(2月7日参照>>)に勝利をおさめた源義経が、京の都に凱旋したのは、合戦から2日後の寿永三年(1184年)2月9日の事でした。

すでに、都では義経の奇襲作戦の噂が届いていたのか、都を荒らした木曽義仲を倒し(1月20日参照>>)、栄華を極めた平家に勝利した時のヒーローに大歓声の嵐です。

この時、義経は未だ26歳・・・調子に乗ってしまうのも無理にない所でしょうか。

ちなみに、余談ですが、あの静御前とは、この頃に知り合ってます。

大人気のヒーローと、都一のアイドル・・・何となく、わかる気がしますね~。

さらに、義経の天狗度をアップさせるかように、後白河法皇は、その年の8月・・・彼を検非違使左衛門少尉(けびいしさえもんのしょうじょう・警察庁長官)に任命し、従五位下という官位を与えます。

しかし、当然の事ながら、この昇進は、兄・頼朝の許可を得ないで行われた物です。

源氏の棟梁である源頼朝は、多くの御家人をかかえる武士の長ですから、組織の統率をとるためにも、頼朝を通さずに朝廷から勝手に官位を貰ったり、昇進させてもらったりする事を固く禁じていました。

しかし、それを破ってしまったのが、事もあろうに弟・・・これを、弟だからと見逃してしまっては、家臣たちとの信頼関係が保てるはずはありませんから、すぐに義経を平家追討軍の大将から外し、もう一人の弟・範頼(のりより)だけを西へ向かわせる事にします。

一方の平家は、一の谷の合戦に破れた後、海を渡って四国の屋島に、第81代・安徳天皇のために仮の宮を設け、そこを拠点に、これからの源氏の攻撃に対処する構えです。

9月には、第82代・後鳥羽天皇が即位し、元号は元暦と改められますが・・・そう、天皇継承の証しである三種の神器は、安徳天皇とともに平家の手の中にあります。

南北朝で二人の天皇がいた時代にも、この三種の神器が手元にあるか無いかで、正統な天皇家がどっちか?なんて話があるくらいですから、この三種の神器はとても、重要な物・・・源氏にとって、三種の神器を奪回する事は最優先の重要任務です。

もちろん、平家も、神器なしで即位した天皇が一刻も早くそれを欲しがっている事は百も承知。

阿波(徳島県)讃岐(香川県)に勢力を誇っていた阿波重能(しげよし)を味方に引き入れ、士気あがる平家は、後鳥羽天皇の即位後まもなく、平資盛(清盛の孫)を総大将に、備前(岡山県)へと迫ります。

迎え撃つのは、頼朝から平家追討のすべてを任された範頼・・・しかし、範頼率いる源氏の軍は水軍を持たず、海戦に少々不安がありました。

上陸してくる平家軍を迎え撃っても、ここぞというところで、沖に逃げられてしまいます。
浅瀬を見つけて、馬で海に乗り入れても、さらに沖へ行かれてはどうしようもありません。

範頼の源氏軍は、相手に決定的な打撃を与えられないまま、だらだらと小競り合いばかりを繰り返します。

それだけなら、まだしも、長引く戦の骨休めと称して、近隣の遊女を招いては宴を催して、ヤル気があるんだか無いんだか・・・。

このダルダル劇に、当然、頼朝のイライラはつのります。

年が明ける頃・・・「このままではラチがあかないどころか、ボヤボヤしてたら、平家に挽回の機会を与えるだけだ」と判断した頼朝は、ようやく義経を再登場させます。

先の官位の一件があったとは言え、義経が戦略に長ける事は、頼朝も充分承知しています・・・いや、だからこそ、自分にはむかうような行為に、恐れとも言える物を感じての大将はずしだったワケですからね。

頼朝の許しを得て、後白河法皇の院宣(天皇家の命令)も受けた義経が、摂津(大阪北部と兵庫の一部)にて船の準備を整えたのは、文治元年(1185年)2月3日の事でした。

しかし、最初に船出を予定していた日は、予想以上の悪天候・・・しかも、いくつもの船がその波によってい崩壊してしまい、急遽、作戦変更とばかりに、義経を囲んでの軍儀に入ります。

もともと源氏にとって海戦は不慣れ・・・それに比べて、平家は海戦のプロとも言える水軍を要しています。

ここは、よほど慎重にいかないと、源氏の軍そのものが壊滅状態になってしまっては、もともこもありません。

Dscf3397pa700 そこに進み出たのは、鎌倉の頼朝の身代わりとして軍目付という形で派遣されていた、あの梶原景時です。

「ちょうど、船も修理している事やし、この機会に船に逆櫓(さかろ)をつけたらどうやろ?」

海戦がまったく初めてに義経は、その逆櫓という物を知りませんでした。

それは、船尾につける普通の櫓と同じ物を、船首にも付け、前にも後ろにも進めるようにするものです。

「馬を前後左右に、自由自在に扱うのと同じように、いざという時、船も後退できるようにしておくべきでしょ。
なんやったら側面にも櫓を付けて、どの方向へも行けるようにしときましょう」

と景時・・・。

すると、義経は・・・
「合戦に出向く前から、後退の準備とは・・・お前ビビリか!
あぁ・・・えぇで、お前の船には、そのサカロっちゅーヤツを何個でもつかたらえぇがな。
俺のんにはいらんで!」
と一蹴。

その義経の態度に、さすがの景時もブチ切れです。

なんせ、景時は棟梁・頼朝の名代・・・頼朝から、暴走気味の義経の補佐をするよう頼まれているわけですから、たかが26の若造にビビリと言われちゃぁ、カチンともきます。

「ええ大将っちゅーモンは、進む時は進んで、退く時は退くモンや。
進むばっかりで退くことを知らんのは、イノシシ武者って言うてな、愚将なんや」

イノシシか、鹿(か)のししか知らんけどな、正面切って押し進んで勝ってこそ、気持ちえぇんや!
そんなダッサイ考えするヤツは、とっとと帰れ!」

今の源氏軍を代表する両雄の、刀に手がかからんばかりの状態に、まわりの武士たちはどうする事もできませんでしたが、寸前のところで、何とか感情を抑えた二人・・・。

やがて、夜になって、未だ荒れ続ける暗黒の海を見つめる義経・・・。
彼の気持ちは、すでに決まっていました。

ちょうど、その頃、船の修理のために調達した近隣の船頭たちも、必死の作業の甲斐あって、おおむね、その修理を終えた頃・・・

「おお、お疲れさん。
修理もほとんど終ったようやし、どや?船の上で一杯・・・。」

と、船頭たちの目の前で、酒盛りの準備をすると見せかけて、米や武具を船に積み始める義経の家臣たち・・・。

もちろん、肝心の酒盛りの準備もされ、船頭たちにはお酒が振舞われます。
そして、一通りお酒を飲んで、酔いもほどほどになった頃・・・

「酒も、もう充分やろ?
さぁっ・・・そろそろ船を出してもらおか?」
と、義経。

船頭一同「え゛ぇ~?」
まさに、目がテンです。

確かに、方向的には風は追い風です。
しかし、その吹きようはハンパじゃありません。
この台風並みの低気圧の中、船を出そうなんて者はいるわけがありません。

しかし、それが、義経のネライ目・・・相手の平家だって、こんな嵐の中、船に乗って四国にやって来るヤツはいないと油断してるはず・・・
鵯越に続く、奇襲作戦・パートⅡです。

でも、当然、船頭たちだって命は惜しい。
なんせ、船底一枚の下は地獄なのですから・・・。

尻込みして、船を出そうとしない船頭たちを見て、イライラも頂点に達する義経は、
「船、出せへんねんやったら、お前ら一人ずつ射殺したる・・・ほら、いてもたれ!」

・・・と、武蔵坊弁慶をはじめとする伊勢義盛佐藤兄弟ら一騎当千に兵が、丸腰の船頭めがけて、弓をキリキリと引き、今にも討たんがの構えです。

ここで、射られて死ぬか?荒れた海に乗り出して死ぬか?
覚悟を決めた船頭が、一人、また一人と1艘ずつ船を出し始めました。

しかし、この船出が、景時の了解を得ていない事は誰もが知っています。

それに、この時の源氏軍はほとんど鎌倉の武士たちで、義経の家来ではありません。

船出すれば、風が怖いという事もありますが、景時を裏切る事にもなるわけですから・・・で、結局200隻のうち、船出をしたのは、たった5隻でした。

時に文治元年(1185年)2月16日午前2時。
タイタニックのように船の舳先に立った義経は、自分の船以外のすべての灯りを消し、まさに奇襲作戦とばかりに、一路四国を目指します。

本来、夜を徹して走り続けても、3日はかかる行程を、義経ご一行は、たった4時間で渡りぬき、早朝6時に、阿波の勝浦に到着します・・・と、『吾妻鏡』にはありますが・・・まぁ、強い追い風だったという事で、この異常な早さは大目に見ときましょう。

義経の目の前に、朝の光に輝きながら、うっすらと見えて来たのは、遥かなる平氏の赤旗・・・。

しかし、こちらから見えるという事は、平家側からも見えるという事で、陸ではあわただしく戦闘準備が始まり、幾人もの兵士が矢をつがえて、義経たちの上陸を待ち構えます。

そこで、義経は、先に50騎ほどの馬を、海に下ろし、船べりで泳がせたまま進み、浜辺が近づいたところで、一斉に馬にまたがり、そのまま陸に駆け上がりました。

ここは、あくまで最前線の見張り隊だったのか、驚いた兵士は、浜辺から逃げるように立ち去ります。

そこで、義経は、その場でしばし休憩をとるとともに、伊勢三郎義盛に命じて、誰か、こちら側に着くような者がいるかどうか、探りを入れさせます。

すると、間もなく義盛が、近藤六親家という人物を連れて戻ってきたのです。
近藤六の軍も加わり、士気あがる義経軍・・・。

さらに親家は、現在、平家の本隊・3000余騎が、伊予(愛媛県)へ出向いており、屋島は手薄だとの秘密情報を暴露。

近藤六の軍を加えたとは言え、もともとたった5艘で海を渡った義経軍ですから、まともに戦っては不利に決まってます。

「我らの行動を、敵にさとられては奇襲作戦の意味がない」
とばかりに、早々に出立を開始。

義経以下150騎・・・勝浦から約60km離れた決戦の地・屋島を目指します。

そしていよいよ屋島の合戦(2月19日参照>>)へ・・・
って事ですが、

どうですか?
梶原景時へのビビリ発言・・・ちょっと、義経さんへの見方が変わりましたか?

大河のタッキーとはほど遠いイメージですが、やはり義経も軍人ですからね。
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2008年2月15日 (金)

なぜ、平城京はあの場所に?影に潜む藤原氏の思惑

 

和銅元年(708年)2月15日、第43代・元明天皇(みことのり)によって、平城京の造営が布告されました。

・・・・・・・・・・・・

しつこいようで、心苦しいのですが、今日はまたまた、平城京のお話なので、以前『奈良の都の住宅事情』(11月8日参照>>)で、掲載させていただいた平城宮跡の写真と平城京の地図を、参考のために載せさせていただきます。

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そして、重箱の隅をつつく姑さんのようで恐縮なのですが、やはり、歴史好き、奈良好きとしては、そこは譲れない所なので、あらためて強調させていただきますが、写真のだだっ広~い史跡の名称は、『平城京跡』ではなくて『平城宮跡』

当時、西は、西大寺あたりから、東は春日山(春日大社のあたり)の裾野まで、南は九条・・・現在の大和郡山市あたりまであった平城京の、北の端に位置していた宮殿の跡が、平城宮跡なのです。

一昨年ほど前、九条の外に新たな遺構が発見されたため、おそらく、もっと・・・それほど、平城京というのは広かったのです。

永遠の都を願って造営された藤原京(12月6日参照>>)を、わずか十数年で遷都する事になるのも、第一の理由としては、その広さにあるとも言われています。

藤原京は、耳成山(みみなしやま)畝傍山(うねびやま)香久山(かぐやま)大和三山に囲まれた場所にあり、平地の面積が少ない。

律令体制を整え、より強固な中央集権を実現する国家となると、それに比例して都の人口も増えていくものですが、藤原京は、それ以上広くする事ができない場所にあり、いくら以前よりは格段に広い都であっても、いずれは人口の増加に対応しきれない事になります。

その点、奈良盆地は、面積が広く、後々、いくらでも都を大きくできます。

もちろん、広さだけではなく、地相という物も考慮されています。

先の元明天皇の詔の中には「それ平城の地は四禽図(きんと)に叶ひ三山鎮をなす」という言葉があります。

「四禽図に叶い」というのは、平安京遷都(10月22日参照>>)のところでも登場した風水の陰陽思想の『四神相応の地』の定義に叶っているという意味で、東に川=青竜、西に道=白虎、南に池=朱雀、北に山=玄武四方に住む神獣よって守られる土地という事です。

「三山鎮をなす」というのは、東の春日山、北の奈良山、西の生駒山(または西の京あたりの丘)三つの山が、悪を鎮めてくれるという事です。

さらに、都造営のための木材の確保という問題もありました。

十数年前に藤原京を造営した事で、付近の良質の木材は底をつき、当時はすでに、新たな寺院の建築などは、遠く近江(滋賀県)から木材を調達している状態でした。

琵琶湖の南から宇治川木津川を経て運ばれてきた木材は、藤原京だと陸揚げしてからの距離が非常に長く不便でしたが、奈良盆地なら、その悩みも解決できます。

広くて、土地柄が良く、資材の運搬に便利・・・しかし、何よりこの遷都を推し進めたのは、時の実力者・藤原不比等で、そこには、藤原一族の大きな思惑も秘められていたのです。

それは、第45代・聖武天皇の即位にも関係があります。

藤原京を造営したのは、ご存知、第41代・持統天皇・・・壬申の乱(7月22日参照>>)で勝利して頂点に立った夫・天武天皇の遺志を継がせようとした息子・草壁皇子は、皇位を継ぐ前に亡くなってしまい、その期待は草壁皇子の息子(つまり持統天皇の孫)・第42代・文武天皇へと移ります。

持統天皇が、幼い文武天皇を上皇という立場からサポートし、数多くいた天武天皇の息子たちも、それを支える・・・つまり、その頃は、政治の中心にいたのは、皆、皇族の人たちという事になります。

ところが、その文武天皇の夫人であった宮子が、男の子を出産します。
これが、首皇子(おびとおうじ・後の聖武天皇)です。

そして、宮子のお父さんが藤原不比等・・・この首皇子が天皇となれば、藤原一族は皇族の親戚として、大いに政治に関与できる事になります。

父・藤原鎌足が大活躍した乙巳の変(いっしのへん・蘇我入鹿暗殺)大化の改新(6月12日参照>>)の後、何とか踏ん張った不比等でしたが、ここまでは、あくまで脇役・・・皇族を助ける役回りでしかなかった藤原氏が、政治の中心に躍り出る絶好のチャンスが訪れた事になったワケです。

しかし、臣下の者の中には、まだまだ古い体制を維持しようという者や、もともと、中臣氏の中でも下層にいた鎌足の子孫である藤原一族に反対の姿勢をとる昔からの名門氏族たちもいました。

彼らの多くが飛鳥(明日香)の地に根をはった豪族たちですから、そんな飛鳥から離れた土地に都を遷して「旧勢力を払拭しよう」・・・それが、不比等の一番の狙いだったのではないでしょうか。

これまでの、天皇を中心に、皇族たちが行っていた『皇親政治』に代わって、天皇を中心に据えながらも、臣下である貴族・豪族が強い発言権を持つ『貴族政治』へ・・・

この先、何百年も続く、この政治体制が、今、この瞬間に生まれました・・・平城京遷都の一番の目的は、新たなる時代への第一歩となる新体制の確立だったという事なのでしょう。
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2008年2月14日 (木)

信玄・痛手~上田原の合戦

 

天文十七年(1548年)2月14日、甲斐の武田信玄VS信濃の村上義清による戦い『上田原の合戦』がありました。

・・・・・・・・・・・

7年前の天文十年(1541年)、父・信虎追放して(6月14日参照>>)甲斐(山梨県)の主となった武田信玄(晴信)

翌年の天文十一年に、隣国・信濃(長野県)諏訪頼重(すわよりしげ)を攻め、諏訪地方を手中に収めて、さらに、信濃の東部へ勢力範囲を広げようとします(6月24日参照>>)

しかし、そのあたりは、葛尾城主・村上義清の領地です。

村上義清は、当時、信濃一帯で最も大きな勢力を持っていた武将・・・埴科(はにしな)更級(さらしな)高井小県(ちいさがた)水内(みのち)といった各郡は、すべて義清の勢力範囲内だったのです。

小競り合いを続けながら、やっとの思いで天文十六年(1547年)に佐久郡の志賀城主・笠原清繁を撃ち破った(8月17日参照>>)信玄は、いよいよ小県へと進攻します。

そして、ようやく、ここに来て義清が動き始めるのです。

それは、義清の勢力範囲である埴科や更級などの各郡は、あくまで各郡の当主が義清の傘下に入っているという連合軍ような物でしたから、これ以上、信玄の勢いが増すと、彼らの中には武田に寝返る者も出てくるかも知れないと思われたからです。

義清が動いたと知った信玄は、翌・天文十七年2月1日、極寒の季節にも関わらず、甲斐を出陣します。

翌・2日、義清の本拠地・葛尾城近くまで攻め寄せた信玄は、千曲川の南岸・上田原に着陣します。

一方の義清は、川を挟んで北側の岩鼻に陣を敷きます。
その数、武田方7千VS村上方5千。

かくして天文十七年(1548年)2月14日、両者は上田原にて激突するのです。

この時、武田方の先鋒を務めたのは、父・信虎時代からの重臣・板垣信方(のぶかた)

戦況は、武田有利に運び、この先鋒の信方の手勢だけで、150以上もの首をあげ、陣中は勝利に沸きかえりました。

しかし、ここで信方は、重臣らしからぬミスを犯してしまいます

初戦の勝利に酔ったのか、まだ戦闘が継続中であるにも関わらず、首実検を始めてしまのです。

床机に腰をかけ、おもむろに敵の首を見聞する信方・・・。

そこへ、静かに忍び寄った村上方の一隊が、一気に突入し攻撃を開始。

哀れ信方は、馬に乗る間もなく、そのままの状態で討ち取られてしまい、信方勢は壊滅状態になってしまいます。

しかも、これに勢いづいた村上勢は、逆襲に転じ、あちらこちらで武田方を圧倒します。

しかし、そこは武田軍・・・窮地に追い込まれたまま終らせるわけにはいきません。

栗原左衛門佐(さえもんのすけ)飯富虎昌(おぶとらまさ)小山田昌辰(おやまだまさとき)といった歴戦の武将たちが敵陣の切り崩しを・・・諸角虎定(もろずみとらさだ)真田幸隆らが、その崩した敵を追撃するという形で、徐々に挽回をはかります。

『甲陽軍艦』では、この時、原昌俊山本勘介の作戦を実行し、わすか300の兵で鉄壁の防御を敷き、武田軍の大勝利に終った事になってますが、これは、どーも怪しい・・・。

確かに、記録されている死者の数を見れば、武田方・700余、村上方・2900と、武田の勝利に思えますし、最終的に午後4時、上田原において勝鬨(かちどき)をあげたのは信玄の方ですが、

武田方は、この合戦で、信方同様、父の代からの重臣中の重臣・甘利虎泰(あまりとらやす)を失っていますし、信玄自身も太刀をあび負傷・・・勝鬨をあげる時も、周囲に促され、やっとあげたという事ですから、どうやら、本人から見てもギリギリの勝ち方で、納得のいかない物だったようですね。

現に、信玄は終戦後もいっこうに甲斐に戻ろうとせず、上田原に留まり続け、心配した母・大井夫人説得によって、3月3日にやっと陣を引き揚げています。

よっぽどくやしかったんでしょうね。

死者の数はともかく、重臣クラスの大きな人材を失った事を考えれば、信玄にとっては、この上田原の合戦は負け戦に思えたのかも知れません。

そして、ここで一旦、信濃東部への進攻を白紙に戻す信玄でしたが、ご存知のように、巡り巡ってその2年後の天文十九年(1550年)、武田・村上の両軍は、再び戸石城で激突する事となります(続きは、9月9日参照>>)

それにしても、昨年の大河の千葉サニー信方さんの最期のシーンはカッコよかったですね~。
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2008年2月13日 (水)

大泥棒・日本左衛門ってどんな人?

 

またまた出ましたよ!

「そんなの記念日にしちゃっていいのかよ!」シリーズな記念日が・・・。

1866年(日本では慶応二年)2月13日、ジェシー・ジェイムズ兄弟が、アメリカで白昼堂々と、初の銀行強盗を成功させたのだそうです。

・・・で、それを記念して、今日2月13日『銀行強盗の日』って・・・オイオイって突っ込みたくなりますね~。

もちろん、『銀行強盗の日』だからと言って、銀行強盗を称賛するワケじゃないく、防犯訓練なんかが行われるんでしょうが、あまり良くない事を記念日にするのは、もひとつ、納得がいきませんよねぇ。

ところで、昔の日本には、銀行が無いので(質屋は奈良時代からありました:7月8日参照>>)、今日は強盗のお話をしようかと思いますが、鼠小僧(8月19日参照>>)石川五右衛門(8月24日参照>>)は、すでに登場していますので、彼らに並ぶ大泥棒と言えば、やっぱり、歌舞伎『白浪五人男』ですよね。

  • 日本駄右衛門(にっぽんだえもん)
  • 弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)
  • 忠信利平(ただのぶりへい)
  • 赤星十三郎(あかぼしじゅうざぶろう)
  • 南郷力丸(なんごうりきまる)

の、5人ですが、もちろん、彼らは、それぞれモデルとおぼしき人はいるものの、人物設定などは歌舞伎の中でのお話・・・

「知らざぁ、言って聞かせやしょ~」の名ゼリフでお馴染みの、弁天小僧菊之助は、当時、江戸で評判だった美青年の容姿だけをモデルにしていて、本人は泥棒ではありません。

忠信利平のモデルは、あの源義経に従って奥州からやってきた佐藤忠信(9月21日参照>>)に名前を借りた、同じ歌舞伎の義経千本桜に登場する源九郎狐がモデルなんだとか。

・・・で、実在したのは、残りの3人。

赤星十三郎は、白井権八というイケメン盗賊で、日本駄右衛門日本左衛門という大泥棒

南郷力丸は、実際に日本左衛門の手下だった南宮行力丸という人物がモデルだそうです。

そんな中でも、白浪五人男のリーダーでもある日本駄衛門

モデルとなった実在の日本左衛門(日本佐衛門・日本左右衛門)という人は・・・

常に数十人の手下を従え、
お金持ちそうな家に堂々と押し込み、
家族を縛り上げて、金のありかに案内させ、
女性陣には暴行まではたらいていた

てな感じの、極悪非道な大泥棒だったようで、とうとう、延享三年(1746年)に、幕府から全国指名手配されています・・・そう、このかたが、栄えある日本初の全国指名手配!

実は、その時の手配書が現存するのだとか・・・

本名:浜島庄兵衛
    仲間から日本左衛門と呼ばれるが本人はそう名乗ら
    ない。(そりゃぁ、逃亡中は偽名使うだろ!)
背丈:五尺八寸
    (170cmくらいか?当時としてはけっこう長身だ)
年齢:29歳
    見た目には31~32歳に見える
    (29歳と31歳の違いわかるのか?)
顔  :面長で色白、鼻筋が通り、目は中細、歯並び普通
    一寸五分の引疵
(きず)アリ
    (なかなかのイケメンだ!亀梨君っぽい気が・・・)
髪型:月代(さかやき)は濃く、鬢(びん)は中
    (当時はこれでわかるのか?)
服装:琥珀檳榔子綿入小袖(こはくびんろうじわたいりこそで)
    (光沢のある暗黒色のしま模様・・・て、服は着替えるやろ!)
所持品:脇差=長さ二尺五寸、
    
(さや)は黒で尻に銀張り
     鍔(つば)は無地覆輪(ふくりん)金福入り模様
     羅紗の鼻紙袋に鳥の蒔絵(まきえ)の印籠を持つ。
     (絶対、買い替えてると思うなぁ)

・・・と、まぁ、事細かに書いてあります。

でも、やっぱり、いくら細かく書いても、写真のない指名手配では、ちょっとムリなんじゃぁ・・・と、思いきや、翌年の延享四年(1747年)に、日本左衛門こと浜島庄兵衛は、京都にて逮捕されたのだとか・・・それも、自首・・・

やっぱ、銭湯とかに【おい!浜島】なんていうポスター貼られてたんでしょうか?

新しい職場で「あれ、お前ちゃうん?」とか言われたのかも・・・

実際に、全国指名手配で観念したというのが自首した理由なのだそうで、ならば効果があったって事ですもんね。

・・・とは、言え、当時は自首しても罪一等減じるという事がなかったのか、それとも、自首という行為を差し引いても、あり余る罪であったのか、延享四年(1747年)3月21日(11日説あり)日本左衛門こと浜島庄兵衛は処刑されます。

享年29歳だったそうです。
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2008年2月12日 (火)

ブログ開設・2周年を迎えました!

 

本日も、『今日は何の日?徒然日記』に訪問してくださって、ありがとうございます。
おかげ様で、閲覧してくださる数が、今でも徐々に増えていっております。

今日、2月12日、このブログは2周年を迎えました!
今日から3年目に突入です。

この2年間で合計・753ページの記事をupさせていただきました。
(おぉ・・・七五三だ・・・心なしか、めでたい気がする)

なんか、ものすごく早い2年間でした。

ただ、昨年、一周年を迎えた時も、書かせていただきましたが、本当は、2年目は、もう少しゆっくりしたペースで書き上げるつもりでおりました。

ライフワークのように長く続けていきたいからこそ、ゆっくりしたペースで・・・と思っていたのですが、基本的に「今日は何の日?」というテーマでやっていますと、「やっぱ毎日書かないといけないんじゃないか?」という気持ちになって、結局、またまた、毎日のように書く事になってしまっていました。

しかし、正直なところ、毎日となりますと、書きたいテーマで、余裕を持ってスラスラ書ける日と、悩みに悩んで焦ってしまう日があるのも確かなのです。

「このお話には挿絵を入れたいな・・・」と思っていても、結局時間がなくなって、そのままupしてしまう事もありましたし、同時に運営しているHPも、なかなか更新できないでいる事もありました。

そういう点では、反省しきり・・・です。

ですから、この2周年という記念の日をきっかけに、やはり少し、心に余裕を持って、HPとのバランスを考えながら、今後は、無理をせず、ゆっくりしたペースで書いていきたいと思います。

そうして、できるだけ長く続けていきたい・・・

どうぞ、今後とも『今日は何の日?徒然日記』をよろしくお願いします。。

・・・・・・・・・

    今日は何の日?徒然日記
     ー管理人・羽柴茶々より
 .

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孤軍奮闘も空しく~長屋王の悲劇

 

天平元年(神亀六年・729年)2月12日、長屋王が謀反の疑いで邸宅を包囲され、妻子とともに自害しました。

『長屋王の変』と呼ばれる事件です。

・・・・・・・・・・・・

事件をさかのぼる事5年・・・神亀元年(724年)2月4日、第45代・聖武天皇が即位します。

藤原一族にとって、待ちに待った外戚(がいせき)ゲット!です。

外戚とは、天皇から見て母親の実家という関係・・・これが、この時代、最も大きな権力を握る事のできる一族だったのです。

なんせ、ご存知のように、天皇は代々男系男子ですから、天皇の父親は絶対天皇家・・・その権力の中に入り込む余地があるとすれば、その天皇の母親の実家しかないワケですよ。

あの藤原鎌足に始まる藤原氏・・・鎌足の息子・不比等(ふひと)は、臣下の中でトップの地位を獲得し、天皇家をしのぐほどの権力を手にします。

そして、娘・宮子を第42代・文武天皇のもとに送り込む事に成功し、その二人の間に生まれたのが聖武天皇だったのです。

しかも不比等は、もう一人の娘・安宿媛(あすかべひめ・後の光明皇后)も、聖武天皇の妃として送り込んでいたのです。

養老四年(720年)8月3日、そんな不比等がこの世を去ります(8月3日参照>>

・・・と、ここに一人、不比等の死にホッと胸をなでおろす人物がいました(←あくまで個人の推測です)

第40代・天武天皇の孫・長屋王(ながやのおう)です。

Nagayanooukankeizucc 別に、不比等個人が憎いわけではありませんが、藤原氏がこれ以上天皇をしのぐ権力を握り続ける事に、天皇家の一人として、不安を感じていたのです。

長屋王は聡明でリーダ^シップもあり、まさにデキル男・・・皆の期待の星でした。

ただし、藤原一族以外の人たちの・・・。

不比等には、後に藤原四家として権力を振るう武智麻呂(むちまろ)房前(ふささき)宇合(うまかい)麻呂(まろ)の四人の息子(つまり、光明皇后のお兄さんたちです)たちがいましたが、彼らから見れば、天皇家の血を引く優秀な皇子は、目の上のタンコブ以外の何物でもありません。

まして、この時、長屋王は、この時、不比等に次ぐ地位にいましたから、不比等が亡くなれば、長屋王が主席となってしまいます。

藤原四兄弟は、すぐに手を打ちます。

長屋王が政権の主席にいたのは、不比等が亡くなったその日一日だけ・・・翌日には、時の天皇・第44代元正天皇の名のもとによって、長屋王の上に、仮とは言え、右大臣待遇の者を二人任命させるです。

この元正天皇という人は女性の天皇で、この時代にありがちな文武天皇と聖武天皇の間を埋める中継ぎ役の女帝で、その側近として仕えていたのが、藤原四兄弟・次男の房前ですから、もう、これは藤原氏の横槍が入った事が明らかです。

さすがに、そのままの状況ではマズイと思ったのか、翌年には長屋王を右大臣に据えていますが、その時は、藤原四兄弟全員も昇進し、しっかりとガードを固めています。

そして・・・そんなこんなの聖武天皇・即位です。

・・・って事で、藤原氏にとっては、父・不比等の時代から夢に見た外戚ゲットの日だったワケです。

「これで、少しは、長屋王を押さえ込む事ができる」
藤原四兄弟はそう思った事でしょう。

なぜなら、この即位のあった次の日・・・
「天皇の母・宮子夫人(おおとじ)を、今後は大夫人(おおみおや)と呼ぶように」
という(ちょく・天皇の命令)が出されるからです。

これは、明らかに法令違反・・・

当時、天皇の母にあたる人は、皇太夫人(こうたいぶにん)と呼ばれる事が、公式令(くしきりょう・儀式などの法律)で決められていましたが、これは皇室の人に対する称号で、未だかつて、臣下の者を皇太夫人と呼んだ例が無かった・・・

そこで、不比等の娘で皇室の人ではない宮子のために、藤原四兄弟は「大夫人」という新しい呼び方を作って聖武天皇の名のもと、このような命令を出したのです。

しかし半月後、その時には左大臣という役職についていた長屋王が、これに異議を申し立てます。

「法令に従えば勅に反する事になり、勅に従えば法令に反する事になる」と・・・

当然と言えば当然・・・そんな称号は法令にはありませんから。

さぁ、藤原四兄弟は困った・・・なんせ、長屋王の言う事はごもっとも、どう考えても非はありませんからねぇ。

そこで、苦肉の策として、先の勅を回収し、新たな勅をだすのです。
「『皇太夫人』と書いて「おおみおや」と呼べ」と・・・

もともと勅の回収自体も前代未聞ですが、昔からある漢字を、無理やり違う読み方させるのも前代未聞です。

藤原四兄弟は、悔しがったに違いないでしょうね~。

では、おそらくは無実であろう謀反の罪で、長屋王が最終的に自殺に追いやられるのは、この一件が原因なのでしょうか?

いえいえ、この時点では、藤原氏には、まだ余裕があり、長屋王を殺してまで権力を掌握しようとは、思っていませんでした。

なぜなら、まだ、現役・聖武天皇の夫人となった安宿媛=後の光明皇后がいます。

二人の間にできた子供が、次の天皇になれば、外戚としてまだまだ権力を握り続ける事ができますからね。

そして、神亀四年(727年)、待望の男の子が誕生します。

「よっしゃー!これでまた外戚ゲットや!」
藤原一族の屋敷は沸きかえります。

なんと、この時、生まれた基王(もといおう)は、わずか生後1ヶ月で皇太子に据えられるのです。

気が早いにもほどがあるゾ!藤原氏!
前代未聞のオンパレードです。

しかし、その期待の星は、翌年、わずか1歳で病死してしまうのです。

しかも、藤原氏にとっては、都合の悪い事に、安宿媛と同じ時期に聖武天皇の夫人となった県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)という女性が、基王が亡くなった同じ年に男の子を出産(後の安積(あさか)親王)してしまったのです。

安宿媛が、もう一人、男の子を生まなければ、藤原氏ではない人の子供が皇位を継いでしまうじゃありませんか・・・しかし、彼女はこの時、すでに27歳。

当時としては、かなり限界に近い・・・いや、その前に、長屋王自身が皇位に着く可能性もゼロではありません。

なんせ、天皇家期待の星ですから・・・。

こうなったら、安宿媛を聖武天皇の皇后にして、何とか権力を維持しなければ・・・。
しかし、先の「大夫人」の一件があります。

そう、未だかつて、皇族出身者以外で皇后になった人はいないのです。
もちろん、あの『大宝律令』にも、その事は定められています。

法律を盾に反対されれば、向うが正等なだけに、それを抑えるのは絶対に無理です。
まして、相手は聡明で優秀な長屋王なのですから・・・。

かくして神亀六年(729年)2月10日・・・従七位下・漆部造君足(ぬりべぼみやつこきみたり)、無位・中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまんど)という二人の男が、朝廷に駆け込み、訴えます。

「左大臣・長屋王が、密かに国家を傾けようとたくらんでいる」と・・・

わざわざ、訴えた二人の長い名前を書かせていただいたのは、その身分の低さを知っていただきたかったからです。

従七位下と無位ですよ。
普通なら、何を訴えたって、聞き入れてもらえそうにもないような人たちです。

そんな身分の低い二人の訴えで、朝廷はその日のうちに兵を出し、長屋王の邸宅を囲むのです。

そして、翌日には、長屋王の叔父である舎人(とねり)親王(11月14日参照>>)新田部(にいたべ)親王多治比池守(たじひのいけもり)、藤原武智麻呂らによる、厳しい尋問が始まるのです。

さすがに、天皇の血をひく人に拷問はなかったとは思いますが、おそらく、それに近いような厳しい詮議だったに違いありません。

なんせ、あの長屋王が、「もはや、これまで」とあきらめてしまうくらいなのですからね。

神亀六年(729年)2月12日・・・取調べも、2日目になったその日、長屋王は妻子とともに、屋敷内で自害するのです。

そして、電光石火のすばやさで、翌・13日には、その遺骸は生駒山に葬られます。

しかも、長屋王とともに自殺した妻の吉備内親は、聖武天皇の叔母であったからなのか、ともに死んではしまったものの、事件には関与していないとして無実となり、長屋王の第二夫人となっていた不比等の娘も無罪。

その他、一旦、捕らえられた90人のほとんどが無罪となり、すぐに釈放されました。

やがて、事件の半年後、元号は天平と改められ、安宿媛は光明皇后となるのです。

その後の藤原氏の栄えぶりは、もう皆さんご承知の通り・・・

もはや、謀反が本当だったかどうかに関係なく、この歴史的事実だけを見ても、長屋王への同情の気持ちが湧いてきますよね。

大きすぎる黒い壁・・・天皇家の一人として、孤軍奮闘した長屋王よ、どうか安らかに・・・
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2008年2月11日 (月)

平清盛の異常な出世~天皇ご落胤説

 

仁安二年(1167年)2月11日、平清盛が、左大臣・右大臣をすっ飛ばし、いきなりの3段飛びの昇進で太政大臣に就任しました

・・・・・・・・・

ご存知、平清盛と言えば、平安時代の最後に貴族ではなく、武士として初めて政権を握り、平家全盛時代を築きあげた人です(2009年2月11日参照>>)

清盛の異例の出世の影に、彼の出生の秘密『清盛・ご落胤説がある事は、歴史好きのかたでなくとも、もうご存知ではありましょうが、なにぶん、歴史学という学問の分野では、犯罪と同様に状況証拠だけでは立件できない・・・確固たる証拠がない限りは、それを事実とみなす事はできませんから、あくまで、歴史上の史実としては、清盛は平忠盛の嫡男という事になります。

しかし、この出世ぶりはどう考えても異例中の異例で、『平家物語』『源平盛衰記』にも、清盛ご落胤説が書かれているという事は、鎌倉時代からすでに噂になっていたという事になり、やはり、当時の人から見ても、その出世が異常だった事がわかります。

なんせ、清盛は12歳で、官位・従五位に任命されているのですが、この時、父の忠盛は従四位。

奈良・平安時代は、親の七光で出世する時代ではありますが、これは、どう見ても親を追い越さんがばかりの勢い・・・完全に忠盛の七光では無いでしょうね。

では、誰の七光?・・・つまり、父親は・・・
実は、第72代白河天皇だと言われています。

この、白河天皇が、なかなかのヤリ手オヤジ(失礼<(_ _)>)で、あの保元の乱を導いた人でもあります。

間単に言うと、現天皇である孫・鳥羽天皇の嫁に手をつけて、子供ができたら、孫を退位させ、その孫の子(ホントは自分の子)崇徳天皇を即位させてしまいます。

・・・で、そんな白河天皇が亡くなると、当然、鳥羽天皇はジィサンの子供である崇徳天皇を退位させて、自分の息子・後白河天皇を即位させるのです。

そしてその鳥羽天皇が亡くなった後に起こった後白河天皇と崇徳天皇の皇位争奪戦に武士が関与したのが『保元の乱』なのです。(くわしくは8月26日参照>>)

しかし、保元の乱の時点で、白河天皇は亡くなってるのに、その後の清盛の出世に、白河天皇の影響なんてあるの?
・・・と、思ってしまいますが、それがけっこうあるみたいなんです。

白河天皇は、この時代では指折りの専制君主ぶりを発揮した天皇で、天皇に仕えた藤原宗忠も、その日記に「その威光と権力は西海に満ち、天下はこれに帰服した」と書いています。

先ほども言いましたように、なんせ、息子の嫁ではなく、孫の嫁に手をつける人ですから・・・。

「思い通りにならない物は、賀茂川の水とサイコロの目と比叡山の僧兵・・・」という有名な言葉がありますが、これを言ったのが、この白河天皇なのです。

言い換えれば、その三つ以外は思い通りになったという事ですからね。

ある時、清盛のあまりの出世を妬む者がいたところ、鳥羽天皇がその人に向かって「清盛は身分の卑しい者ではないのだよ」と、たしなめたというエピソードも残っているそうですから、それがもし、本当だとすると、鳥羽天皇も清盛に一目置いていたという事になりますし、やはり白河天皇の隠し子というのが本当だったとしたら相当な影響があったのでしょう。

そんな白河天皇と、清盛の母とおぼしき祇園女御(ぎおんにょうご)と呼ばれる女性の出会いのシーンが『源平盛衰記』に書かれています。

祇園の西大門(八坂神社の楼門)の近くに住む女性が、ある日、水を汲もうと頭に桶を乗せ、共同井戸の前にやってきます。

「着物の裾が濡れてはいけない」と、サッと裾をからげた・・・そこへ、八坂神社へ参拝にやって来た白河天皇ご一行が登場!

そう、白河天皇は彼女のあらわな太ももに一目惚れ・・・なんせ当時は、宮中の女性は昼間の明るいうちに男性の前で十二単の一枚目でさえ、脱ぐなんて事もありませんし、男女間でしっぽりする時は、電気も何もない真っ暗闇ですから、顔すら確認できない状態で致してるわけで、おそらく、ヤリ手の白河天皇でさえ、女の太ももを真昼間に見たのは初めてなのでは?

そんな太もも一目惚れ恋愛で、しかも数々の女性遍歴のある白河天皇なのにも関わらず、祇園女御さんは、ことのほか愛されていたようです。

ただし、この祇園女御というのは、もちろん彼女の本名ではありません。

祇園の近くに、白河天皇が彼女のために館を造り、そこに住まわせていたので、そう呼ばれますが、この女御というのは、正式な地位を現す名称で、勝手に名乗る事はできません。

天皇の寵愛を受ける女性は、その出身の身分によって、「妃(ひ)」「夫人(ぶにん)」「嬪(ひん)」「女御(にょうご)」「更衣(こうい)という位があったのです。

祇園女御の場合は、完全に一般人ですから、本来なら、「女御」どころか「更衣」も名乗る事はできなかったのですが、まわりの人たちが気をつかって、通称・祇園女御と呼んでいた・・・つまり、一般人に通称であれ、女御と呼ぶのは、それだけ白河天皇が、彼女の事を愛していたから・・・という証拠なのです。

ところで、白河天皇が愛してやまない、そんな祇園女御のもとに、毎日、新鮮な鳥を献上する男がいました。

その事が、白河天皇の耳に入る事になったのは、ある偶然の出来事がきっかけでした。

白河天皇は、仏教に大変熱心だったので殺生という物を嫌い、永久二年(1114年)に獣や魚に対する『殺生禁止令』を出しています。

その直後、加藤大夫成家(たゆうなりいえ)という男が、検非違使丁(当時の警察)に呼び出されます。

容疑は「鷹を使って、鳥を捕った」という罪でした。

しかし、出頭してきた彼は、罪に問われているというのに、やたら元気で明るい・・・不思議に思ってその理由を聞いてみると・・・

「いやぁ・・・よかったですわ~。
ホンマ言うと、ちょっと困ってましてん。
ウチのダンナはんに、毎日、ある人んとこに、その日に捕った鳥を届けろって言われてますねん。
けど、狩りって運のモンでっしゃろ?
たまには、捕られへん日もあるっちゅーのに、一日でもサボったら、首斬んぞ!って言われまして、今日は捕れたけど、明日は捕れへんかも・・・どうしょ~って毎日ビクビクしてましてん。
罪、ゆーても、牢屋に入るくらいでっしゃろ?
命なくなるよりは、絶対そっちのほうがえぇですわ~」

この成家という男は、そう、平忠盛の家臣・・・毎日、祇園女御の所に鳥を届けていたのは忠盛だったのです。

この時も、その事を知った白河天皇は、「祇園女御のため・・・」という言葉一つで、あっさりと成家を許しています。

やっぱり、祇園女御への愛でしょうか・・・。

そして、同じ頃、もう一つの事件が起こります。

ある雨の降る夜、白河天皇は、祇園女御の家に行こうと、警固の武士を連れて向かったところ、屋敷の近くで、何やら不気味な者と出会います。

頭部がミョーに眩しく光り、高く上げた両手には、木槌のような物と、鋭く光針のような物を持っています。

「アレは何だ?」
「鬼ではないか?」

と、さすがの屈強な武士たちも、この世の物とは思えぬ怪しさに震え上がります。

そこへ、進み出たのが、未だ20歳の血気盛んな若者・忠盛・・・「私が退治してみせましょう」と、堂々とした態度で近づき、相手を睨みつけ、サッとその腕を掴みました

「何をなさいます~」
と、以外にも相手の怪物はひ弱な声・・・目をこらして見ると、それは、一人の老僧でした。

Tadamoritourou600 寺院に灯明をともそうと、土器に火を入れ、雨を避けるために頭にワラをかぶって、そこで雨宿りをしていたのですが、、雨のしずくに火がキラキラと光り、頭のワラが、これまた雨と炎に反射して、怪しい光を放っていただけだったのです。
(現在、八坂神社の境内に、この時に灯明を灯そうとした燈籠が残っていて「忠盛燈籠」と呼ばれています)

忠盛の勇気に感激した白河天皇・・・その褒美にと、祇園女御を彼に与えたというのです。

人のお古を、貰ってウレシイか?・・・というのは現代人の価値観。

当時は、天皇が寵愛した女性を賜るなんてのは、名誉の極みなのです。

しかも、この時、祇園女御はすでに妊娠中・・・そう、そのお腹の中の子供が清盛だっ『平家物語』は書いています。

その時
「生まれた子供が女の子だったら、私に返せ。
男の子だったら、武士として育てよ」

と天皇が言ったのだとか・・・

やがて、清盛が3歳になったある日・・・天皇のお供をして、熊野詣に出かけた忠盛は、山道の端にヤマノイモがたくさんあるのを見つけ、そのヤマノイモに引っ掛けて・・・

♪芋(妹)が子は 這(は)うほどにこそ なりにけれ♪
「あなたの愛した人の子供はハイハイをするくらいになりましたよ」
と、歌を詠みます。

すると、白河天皇は・・・
♪ただ盛り(忠盛)とりて 養いにせよ♪
「忠盛が養育せよ」
と歌を返し、忠盛は、清盛を正式に嫡男とした・・・というのです。

しかし、さすがに、これをこのまま鵜呑みにするのは抵抗があります。

・・・というのも、祇園女御が応徳年間(1084年~86年)頃の生まれであったと推測される事から、この計算でいくと30代半ばで清盛を出産した事になります。

12~13歳で結婚する当時としては、破格の高齢出産という事になります。

それとともに、近年、滋賀県胡宮(このみや)神社という所から、系図が発見され、祇園女御には妹がいた事が判明していて、最近では、この妹が清盛の母であるという説が有力になってします。

ただし、父親はやっぱり白河天皇・・・どうやら、祇園女御の妹も、天皇の寵愛を受けていたようなのです。

またまた、現代の価値観では、「姉妹で同じ男に?」と思ってしまいますが、当時としては、身分の高い人のところに、姉妹をはじめ、家ごと依存する・・・というのは、よくある事なのです。

あの木曽義仲という源氏の御曹司を手に入れた中原兼遠の一族が、長女を正室に、妹・巴御前を愛妾に・・・っていうのも、それによって一族が出世できるのですから、当然と言えば当然なのです。

・・・で、今では、その妹が亡くなったのが、清盛が3歳の時で、母を亡くした子を、祇園女御が猶子(名義だけの養子)として引き取り、育てたのであろうとされています。

しかし、育ての親とは言え、この祇園女御は、清盛にとって、たいへん良いお母さんだったようで、彼は、自分の館を構える時、母の家に近いからという理由で、西八条を選んだと言われていますし、現在、京都御苑にある厳島神社は、清盛が、母・祇園女御のために、安芸の厳島神社を分社して建立し、後に女御自身も合祀したと伝えられています。

Gosyoitukusimacc 京都御苑の厳島神社

以上、様々な状況証拠を並べてはみましたが、やはり、本当に白河天皇の隠し子だったかどうかは、新たな決定的証拠が出ない限り、藪の中・・・といったところでしょう。

しかし、清盛の異常な出世ぶりを見れば、やっぱり、限りなく黒に近いグレーではないか?と・・・
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2008年2月10日 (日)

鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦

 

永享十一年(1439年)2月10日、室町幕府VS鎌倉公方で争われた『永享の乱』で敗れた第4代鎌倉公方・足利持氏が自刃しました。

・・・・・・・・・

まだ南北朝の動乱の真っ只中で幕府を開く事になった足利尊氏は、自分の本拠地が関東であるにも関わらず、不穏な空気が収まらない京都を離れる事ができず、京都・室町で幕府を開く事になります。

しかし、幕府が成立しても、各地の旧勢力がくすぶり続けるため、奥州探題九州探題などを置いて監視する事になりますが、そんな中でも最も重視したのが、やはり本拠地である関東です。

最初は弟・直義(ただよし)鎌倉に派遣し、次に息子の義詮(よしらきら)、そして、貞和5年(1349年)には義詮と交替に四男の基氏(もとうじ)を派遣します。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

基氏以降、この鎌倉を守る足利氏は鎌倉公方と呼ばれ、基氏の息子からまたその息子へと代々受け継がれていくのです。

この鎌倉公方は、関東はもちろん、伊豆甲斐(山梨県)をも含めた広大な範囲を統轄しており、幕府に准ずる組織でしたが、それだけ大きいと、やはり、徐々に幕府とは別の道を歩もうとし始めます。

まして、強大な2番手という物は、いつでも将軍の座を狙える位置にいるワケですし、同じ足利氏として、常に幕府の下という位置に不満を持つのも自然な事かも知れません。

徐々に、亀裂が入り始めた室町幕府と鎌倉公方・・・そんな正長二年(1429年)、「くじ引きで決められた将軍」=室町幕府第6代将軍・足利義教(よしのり)の登場・・・(2016年6月24日参照>>)

そんなドタバタの将軍決定劇に不満を持ったのが、基氏から数えて第4代目の鎌倉公方足利持氏

義教が将軍になったその年は、元号が正長から永享に改元された年なのですが、持氏はこの永享という元号を使用せず、旧元号を使い続けるという態度をとり、あからさまに独立国家の意思を表明し始めます。

しかし、関東だからと言って、全員が持氏の味方であるわけでもなく、鎌倉公方の補佐役である関東管領・上杉憲実(のりざね)ら幕府寄りの者たちと、一触即発の状態を続けながらも、しばらくの間は、大きく衝突する事は避けられているかのようでした。

やがて永享六年(1434年)、持氏は、鶴岡八幡宮『呪詛の怨敵を未兆にはらわんがため』という幕府を呪う内容の願文を血書にてしたためて祈願をするまでになります。

そして、永享十年(1438年)・・・
「もう、僕らだけでは、押さえきれませ~ん」
・・・と、憲実が幕府に泣きついた事によって、本格的な衝突が開始されます。

これが『永享の乱』と呼ばれる戦いです。

最初は、幕府勢、鎌倉公方勢、ともに一進一退の合戦を続けていましたが、なんせ、相手は幕府・・・何だかんだ言っても、幕府=将軍の地位というのは強大ですから、戦闘が長引くにつれ、徐々に、地元の者たちが、幕府に寝返るようになるのです。

そうなると、またたく間に持氏の敗色が濃くなってきます。

そして、鎌倉の留守役だった三浦時高の攻撃によって御所が落とされた後、幕府側に投降したものの許されず、永享十一年(1439年)2月10日持氏は自刃するのです(2018年2月10日参照>>)

しかし、その持氏には、五人の息子がいました。

その四人の兄弟は、この時、炎に包まれる持氏の館から脱出しますが、嫡男・義久は、乱の後、長男らしく兄弟を代表して鎌倉公方の復権を幕府に願い出ますが許されず、父の死の18日後の2月28日に自刃しました。

当然、残りの三人の兄弟は、乱の首謀者の息子として、幕府から追われる事になるのですが、その次男と三男が春王(しゅんのう)安王(あんのう)の二人・・・。

彼らを保護したのは、当時、関東屋形と呼ばれるほどの実力を持っていた下総結城城・城主の結城氏朝(ゆうきうじとも)でした。

結城氏は、ムカデ退治の逸話を残す勇者・俵藤太こと鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)・・・そう、あの平将門を討ち取った(2月14日参照>>)その人の子孫なのです。

氏朝は、かねてから憲実と対立しており、この永享の乱では、持氏をバックアップしていたのですが、その敗北により、さらに憲実と幕府への怒りが増大していたのです。

翌年の永享十二年(1440年)3月、氏朝は、公方の遺児である春王・安王を旗印に掲げ、幕府に反旗をひるがえします。

これが『結城合戦』と呼ばれる戦いです。

当時、関東各地の武将には、すでに幕府に反感を持っていた者も多く、しかも、この頃には、以前、足利義視さんのご命日のページ(1月7日参照>>)でも書かせていただいたように、嫡男がすべてを継ぐ惣領制が崩れつつある事で、各武将の家々にも何かしらの後継者争い・家督争いが起こっていた時期なので、氏朝の挙兵には多くの者が参戦し、関東の武士たちは、幕府派か氏朝(春王・安王)派かのどちらかに属して戦う事になります。

しかし、残念ながら、氏朝の結城城は、4ヶ月後の7月には、幕府軍に包囲されてしまいます。

それでも、何とか耐え抜いていましたが、翌・永享十三年(1441年)4月16日・・・ついに、氏朝は降伏を決意します。

幕府に降伏するにあたって氏朝は、城内にいる女子の命乞いを願い出ます。

もちろん、幕府はその条件をすんなり呑むのですが、実はこれには、幼い春王と安王を女装させて女子に紛れさせて、逃がそうという計略があったのです。

なんせ、春王が13歳、安王が11歳ですから、それくらいの少年って、女の子の格好をすれば、よほどガタイが良いか、とほどのオッサン面でない限り、それなりに見えるものですからねぇ。

しかし、幕府の兵がスルドかったのか?二人が思いっきりオトコだったのか?
二人はあっさり見つかってしまいます。

捕えられて、京へ護送される事になる二人ですが、その旅の途中の5月16日・・・美濃垂井(たるい)という場所に差し掛かったところで、警固の兵のもとに飛脚から手紙が届けられます。

いつもは、夜遅くまで歩き続けるこの旅で、ここ垂井では、まだ日の高いうちに宿の手配がされます。

いつもとは違うその雰囲気に、手紙の内容をさとる幼い兄弟・・・そう、手紙の主は将軍・義教で、その内容は「即、二人を斬れ!」という物でした。

運命を感じた二人は、風呂を所望し、その身を清めます。

そして警固の兵に、用意された布団で寝るように即されると、健気にも・・・
「けして、泣いたり騒いだりしませんから、殺す時は起してください」
と、頼んだと言います。

その役目を命じられたのは、漆崎小次郎という男・・・相手は幼い二人です。
もともと個人的な怨みがあるわけでもありませんから、命令された彼も心が痛みます。

でも、命令された以上、それを努めなければなりませんから、心を鬼にして、そっと寝所へ入って行きますと、幼い兄弟は、手と手をしっかりと結び、一つの布団に一つの枕で寄り添うように眠っています。

ますます、彼は胸がいっぱいになり、しばし号泣・・・しばらく考えたあと、やはり、兄弟が言ったように、起してから斬るべきだろうという結論に達した彼。

そっと揺り起こして、
「お命頂戴いたしまする」
と言うと、二人はすんなり起き上がって、
「もう、覚悟は決まっています。
兄弟二人で死ねる事、うれしく思います。」

と言って、手を合わせながら、小次郎のほうに首を差し伸べたと言います。

こうして、鎌倉公方は、4代=100年で断絶する事になるのですが・・・そうです、持氏の息子は、まだいます。

4番目の永寿丸(永寿王とも)・・・永享の乱の時は、まだ1歳でした。

彼も乱の後、信濃(長野県)に潜伏しているところを発見され、将軍・義教の命令により、殺されるところでしたが、そのあまりの幼さに管領・細川持之が猛反対。

持之のゴリ押しで、あの憲実に預けられる事になるのです。

この永寿丸が、後の足利成氏(しげうじ)・・・そう、彼は、父と兄の思いを背負って、鎌倉公方を奪回すべく乱を起こす初代・古河公方となる人なのです(5月13日参照>>)

世は、まさに乱世に突入・・・ですね。
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2008年2月 8日 (金)

針供養の起源と針のお話

 

2月8日12月8日は、年に2回の針供養の日です。

普段、裁縫などに使用している針に感謝し、折れた針を供養する行事ですが、主に関東では2月8日に、関西北陸・九州などでは12月8日に行われる事が多いそうです。

その多くは、折れたり古くなったりした針を、豆腐やこんにゃくに刺して海に流したり、紙に包んで流したり、地中に埋めたりして供養し、その日、一日は針仕事を休み、針を休憩させるとともに、裁縫の上達を祈願します。

古代における針という物が、文献に登場するのは、あの『古事記』の中の「海幸・山幸」の神話のくだりです。

有名な神話なので、ご存知の方も多いでしょうが、一応・・・

・・・・・・・・・

アマテラスオオミカミ(天照大神)の孫で、高天原からの天孫降臨で有名なニニギノミコト(日子番能邇邇芸命)が、一目惚れして結婚した(7月9日参照>>)コノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)との間に生まれた兄弟が、兄・ホデリノミコト(火照命)と、弟・ホヲリノミコト(火遠理命)

兄が、海の漁師をして生計を立てていたので海幸彦と呼ばれ、弟は山の猟師だったので山幸彦と呼ばれます。

ある時、山幸彦は兄に、
俺の弓矢とアニキの釣り針を、一度、取替えっこしてみない?」
と、誘います。

「大事な商売道具だからヤダ!」
と、しぶる兄に何度も頼み込んで、交換してもらい、生まれて初めての釣りを楽しむ山幸彦。

しかし、魚はいっこうに釣れません。
それどころか、兄の大切にしている釣針をなくしてしまいました。

しぶしぶ兄になくした事を話しますが、当然の事ながら、兄は「返してくれ」と、食い下がります。
なんせ、それで生計を立ててますから・・・。

しかたなく、持っていた十拳剣(とつかのつるぎ)をつぶして、500の針を作って
「これで許してチョンマゲ」と、お願いしますが、兄は、
「あの針でなきゃ、ヤダ!」と、スネまくり。

途方にくれた山幸彦が、針をなくした海岸で思い悩んでいると、そこに現れたのは、潮路を司るシオツチノカミ(塩椎神)

「ニィチャン、どないしたんや?沈んだ顔してからに・・・」
「これ、これ、こういうワケで・・・」
と、説明すると、その神は、一つの籠を取り出して小舟を造り、
「ニィチャン、これに乗って行き。
ほんで、しばらく行ったら海の神の宮殿があるさかいに、そしたら、海の神の娘が何とかしてくれるやろ」

シオツチノカミの言う通りに、小舟に乗って宮殿に向かった山幸彦・・・迎えてくれたのは、海の神であるワタツミ(綿津見の娘・トヨタマヒメ(豊玉毘売)

そして、宮殿では、彼をすんなり受け入れ、いきなりの飲めや歌えの大宴会、タイやヒラメの舞い踊りの連続です。

あっという間に三年の月日が流れ、だんだんと毎日の宴会にも飽きてきて、わが家が恋しくなってきた頃、山幸彦の最近のテンションの低さに気づいたトヨタマヒメが父に相談し、やっとこさ、なくした針の話をします。

「あ・・・それやったら、こないだタイが、のどに何や刺さって物が食い難いって言うとったさかいに、それとちゃいまっか?」(こないだて…3年経っとるやんけ!)
と、実にあっさりと針はっけ~ん!

すると父は、針を返す時に「游煩鉤(おぼち・ネクラ針)須須鉤(すすじ・イラチ針)貧鉤(まじち・貧乏針)宇流鉤(うるじ・アホ針)と、謎の呪文を唱えて後ろ向きに渡し、これからは、常に兄のする事と反対の事をやっていれば、兄は、絶対に不幸になって、山幸彦は幸せになると教えてくれました。

そして、もし兄が弟をうらやましがって攻めて来た時のため、海の満ち干きを自在に操れる塩盈珠(しおみつたま)塩乾珠(しおひるたま)という宝物までもらって、一路帰宅します。

当然、その後は、ワタツミの言った通りになって、結局、兄は、山幸彦の家来となるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、この物語は釣り針ではありますが、古代には、鉄の針というのが、ものすごく貴重な物だった事がわかります。

このように、当時、鉄の針は、ごく一部の上流階級の人のみが使用していて、一般には、竹や木、獣の骨や魚の骨で作られた針を使用していたそうです。

そのように貴重だった針の大量生産が始まるのは、やはり、現在の着物の基礎ができあがった室町時代の頃から・・・。

最初は、京都姉小路で・・・後に御簀(みす)で作られるようになったので『みすや針』と呼ばれました。

一方、同時期に別ルートで中国から伝わった手法を使って、長崎でも針が製造されていました。

そんな針の、針供養が行われるようになるのは、江戸時代頃からです。

針供養で有名なのは淡島神社・・・全国各地にある淡島神社の本家本元は、和歌山県にある加太神社だそうですが、もともと、婦人病や安産など、とかく女性の病気にご利益があるとされていた淡島明神への信仰が江戸時代に大流行するのですが、

そのきっかけは、物売りを兼ねた淡島願人(がんじん)と呼ばれた放浪のお坊さんたちが、家々に門付けする際に唄っていた祭文(歌の形をした語り物)の歌詞にあるようです。

それは、アマテラスオオミカミの第6番目の姫が16歳の春に女性特有の病気にかかった時、巻物と神楽を小舟に乗せての浜から流したところ、あくる日に淡島に流れ着いたので、巻物を取り出し、ひな形を作った・・・これが雛遊びの始まりで・・・という内容の後に・・・

♪・・・丑寅の御方は針さしそまつにせぬ供養・・・紀州なぎさの郡加太淡島大明神、身体賢固の願、折針をやる・・・♪
と、続くのです。

このような、淡島願人たちの歌によって、針を供養する信仰が広がっていったようです。
淡島神社は、雛流しでも有名ですからね。

ですから、針供養というのは、供養という名前がついてはいますが、仏事でも神事でもないのです。

最近では、裁縫の専門学校などでも、針供養が行われたりしますが、それこそ、本来の姿・・・針に感謝する気持ちがあれば、それでいい・・・というのが針供養だという事なのでしょう。

「針供養 宗旨も知れず 寺もなし」
古い川柳にも、こう読まれています。
 。

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2008年2月 7日 (木)

一の谷の合戦~義経の鵯越の逆落とし

 

寿永三年(1184年)2月7日は、源平の合戦の中でも特に有名な『一の谷の合戦』のあった日です。

・・・・・・・・・・・・

前年の寿永二年(1183年)、破竹の勢いで西へと進軍する木曽義仲の軍に京を追われ、西海へと都落ち(7月25日参照>>)をした平家一門でしたが、源頼朝と義仲の対立によって源氏同士がモメている間に、屋島から少し戻り、かつて平清盛が一時、都を構えた福原現在の神戸)(11月26日参照>>)に落ち着いていました。

しかし、琵琶湖畔の粟津でその義仲を討ち取った(1月20日参照>>)範頼・義経の源氏軍は、大阪・摂津に入り、いよいよ平家に狙いを定め、西へと向かいます。

・・・と、昨年の今日のブログと同じ始まりかたをしてしましましたが・・・数ある一の谷の合戦の名場面の中で、昨年は、『敦盛の最期』(2月7日参照>>)をチョイスさせていただきましたが、今回は有名な源義経『鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし』を・・・。

一昨年の大河ドラマ義経でも、第一回目の冒頭・・・この逆落としのシーンから始まり、視聴者の心を掴んでおいてから、幼い頃の牛若時代へ・・・という流れになってましたよね。

それくらい、このシーンは、源平の合戦において屈指の名場面です。

しかし、有名であればあるほど、論争の耐えない場面でもあります。

・・・と、いうのも、神戸の地図を見ていただければ一目瞭然。

平家がこの時、城郭を築いていた一の谷とは、現在の須磨公園のあたり・・・一方の鵯越は、現在の神戸電鉄有馬線の鵯越駅付近。

この二つの場所が約8kmと、かなり離れた場所であるため、とてもじゃないが、眼下に平家の城郭を見下ろしながら、駆け下ったとは考えられないからです。

『平家物語』『吾妻鏡』が示す鵯越が、「一の谷の裏手」と書かれている事から、現在の一の谷の裏手にある鉄拐山がその鵯越ではなかったか?とする説と、逆に、鵯越は現在の鵯越であり、鵯越の側を流れる川に沿ってできた谷が、当時、一の谷と呼ばれていた場所なのでは?という説とがあります。

生田の森での激戦の話や、敦盛の塚などを考慮すると、どうしても平家が陣取っていた場所は海の近くという事になって、山奥の谷とは考え難いですし、かといって現在の鵯越がその鵯越だとすると、そこからは、なだらかな下り坂で、急な崖などなかった事になりますし、そこが鉄拐山だと地名そのものが間違っている事になります。

また、この時代の信頼度の高い書物である『玉葉』には、この鵯越がまったく出て来ないところから、逆落とし自体が無かった?という説もあります。

そんなこんなで、専門家でも激論になるのですから、ここで決着を着ける・・・という事は控えさせていただいて、本日のところは、『平家物語』に沿っての『鵯越の逆落とし』のお話を、痛快な軍記物として楽しませていただく事に致しましょう。

・・・・・・・・・・・・

さてさて、兄・源範頼(のりより)の生田への大手攻撃(2013年2月7日参照>>)と連動するように(から)め手担当の義経は山側から攻めるべく、神戸の北側に連なる山奥へ・・・

馬が通るのも難しいような道なき山に分け入った義経率いる3千騎・・・ここで、大活躍するのが、地元の猟師・鷲尾三郎義久・・・彼は、この後、義経と苦楽を共にし、最後の衣川の合戦では、主君を守って大いに奮闘する立派な武将になるのですが、この時は、老いて山道を歩くのが困難となった父に代わって、義経一行を道案内する役を任された18歳の若者です。

本来なら、到底抜け出る事のできない迷路のような山道を、義久の徹夜の道案内のおかげで切り抜け、眼下に一の谷を見下ろす鵯越の絶壁に、義経の軍が到着したのは、寿永三年(1184年)2月7日の朝の事でした。

義経が、この絶壁について義久に
「馬が下りれるか?」
と尋ねると・・・
「鹿が下りてんのは、見た事ありますけど、ここを馬で下りたんは聞いた事がありません」
と、彼は答えます。

「ふ~ん、ええ事聞いたぞ・・・鹿は下りるんやな」
・・・と、ここであの名ゼリフです。

鹿も四つ足、馬も四つ足・・・これくらいの崖、馬で下りるのは簡単や!
ソレ!行くぞ~!」

・・・と、本人は張り切ってみるものの、肝心の馬が怖がって、必死でムチを叩こうにも、いっこうに下りようとしません。

そこで、人を乗せないで、何頭かの馬を落としてみると、そのうちの何頭かは転げ落ち、何頭かは足の骨を折ったりして死んでしまいますが、3頭は無事、下までたどりつきました。

「ホレ見てみぃ!乗る者さえしっかりしてたら大丈夫や!俺を見とけ!」
(何頭か死んでるけどね)
・・・と、自らが先頭に立って、義経が駆け下りていったので、あとの3千騎も一斉に続きます。

Hiyodorigoenosakaotosi

途中、一箇所、垂直に切り立った部分があり、多くの兵がそこで、ちゅうちょしていると、佐原十郎義連(よしつら)という男が進み出て・・・

「僕らは、こんな崖なんか狩りの時に、いくらでも駆け抜けて来たんや!三浦の地元じゃぁ、こんな場所は乗馬センターみたいなモンだぜ!」

そう言って、飛び出したもんだから、他の兵たちも負けてなるか!と、頑張ります。

後ろの者の鎧が前の者の鎧に当たったり、あまりの危なさに目をつぶったりしながらも、何とか下りていきます。

もはや、人間技ではない鬼神のごとき技・・・

そして、その3千騎が山を下り終わらないうちに、一斉に(とき)の声があがり、それは、山々に反響して何倍もの兵の声に聞こえます。

まさか、断崖絶壁となっている一の谷城の裏手から攻められるとは思ってもいなかった平家は、慌てふためき、右往左往するばかりです。

駆け下りると同時に、村上康国の軍勢が火を放ち、館は炎に包まれます。

火に追われた平家の人々は、我先に海岸へと急ぎ、船へと乗り込みますが、あまりに皆が一斉に船に乗るため、最初の何隻かは、定員オーバーで沈んでしまいます。

そうなると、残った船は身分の高い人優先・・・身分の低い者が船に乗ろうと船端に手をかけると、太刀にてその手をひと断ち。

まさに、一の谷の海岸は修羅場と化してしまいました。

生田の森での合戦では、一進一退だった源氏軍と平家軍でしたが、この義経の奇襲作戦によって、形勢が一気に源氏の勝利に傾いていったのは言うまでもなく、その後、平家の名だたる武将が次々と討たれ、平家は屋島へと敗走する事になるのです。
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2008年2月 6日 (水)

目覚めた天才軍師!竹中半兵衛・稲葉山城乗っ取り事件

 

永禄七年(1564年)2月6日、竹中半兵衛重治が、主君・斉藤龍興稲葉山城を乗っ取りました。

・・・・・・・・・・

竹中半兵衛と言えば、豊臣秀吉に仕えた天才軍師・・・今でも「軍師・兵法家と言えば・・・」と問えば、必ず一番か二番にその名前が登場するほどの人物です。

そんな彼の父・竹中重元は、斉藤道三の代から斉藤家に仕える美濃岩手城の城主でした。

しかし、少年の頃の半兵衛は、武士とは思えないインドア派

おとなしくて、無口で、物静かで・・・一日中、本を読みふけり、何か言われても、あまり反応もしない・・・。

しかも、性格がおおざっぱなので、細かい事にもこだわらず、怒りをあらわにする事もほとんどないため、城兵たちからはボンクラ扱い、主君の斉藤龍興(たつおき)からは、そのナヨっとした仕草から「おネェ系」と馬鹿にされ、龍興の家臣たちからも、いじめのターゲットにされていました。

なのに、それでも反論一つしない・・・そんな少年だったのです。

しかし、彼が、ず~と読みふけっているその本は、まぎれもなく兵法書・・・そう、彼は中国の軍書を読みまくり、頭の中で戦略のシュミレーションを考えるが大好きだったのです。

でも、その事は、まだ、誰も知りませんでした。

彼が13歳のある日、父の留守中に、野武士の一団が、城に攻め寄せた事がありましたが、日頃のシュミレーション通りに事を運び、見事に退散させた半兵衛・・・

しかし、その報告を受けた父でさえ、半兵衛の「別に・・・たいした事なかったよ」という返答に、その野武士たちがアホ揃いで、かってに帰って行ったと勘違いしたくらいだったのです。

ところが、そんな半兵衛の堪忍袋の緒が切れる時がやってきます。

それは、半兵衛19歳の時・・・公用で稲葉山城に出仕した帰り道。

稲葉山の麓の道を歩いていると、山の中腹の(やぐら)から、例のごとく、龍興の家臣たちのからかいの声が・・・「アホ~、バ~カ」と聞こえてきます。

いつものように、知らんぷりして右から左に受け流していたところ、そのうちの一人が、上から半兵衛めがけてオシッコを引っ掛けたのです。

それが、見事命中し、雨のように半兵衛に降りそそぎます。

それでも、知らんぷりして、さりげなく、その場を去った彼でしたが、居城に戻って、早速、嫁さんの父・安藤定治に、「兵を貸してくれないか?」と頼みに行きます。

そう、彼は、すでに、ブチ切れていたのです。
あくまでも、静かにブチ切れる人ですね~。

事の成り行きを聞いた定治は、「気持ちはわかるけど、相手は主君・・・我々の兵を総動員したところで、稲葉山城の兵の数には到底およばない。
ムリムリ・・・バカな事は考えないで、ここは我慢しておけ!」
と、半兵衛を諭します。

たぶん、すでに、ここで、一発目の彼の戦略シュミレーションは出来上がっていたのでしょうが、兵を貸してもらえないのなら、作戦変更・・・今度は、稲葉山城に人質扱いで暮らしている弟の久作重矩(しげのり)を使う作戦に出ます。

まずは、その久作に仮病を使わせます。

そして、「良い治療と看護を受けさせるため」と称して、数人の家臣と人夫を、医療用具の入った長持などの荷物とともに城内に入り込ませます。

次に、自分が、「見舞い」と称して、またまた数人の家臣とともに城内へ・・・

こうして、弟の部屋に着いたがはやいか、すぐに武装します。

もちろん、長持ちに入っていたのは、医療用具などではなく武器・・・と、準備が整ったところで、一斉に城内に斬りこみ、慌てふためく城兵を、バッタバッタと斬りまくり!

不意を突かれた城内は、まさに、上を下への大騒ぎ・・・もう、どうする事もできません。

そのうち、侍大将の斉藤飛騨守(オシッコをかけた張本人との話も・・・)も斬られた事で、龍興は、気が動転してしまい、あわてて命からがら城外へ敗走してしまいます。

なんと半兵衛は、たった16名で、あの稲葉山城を占拠してしまったのです。

それは、永禄七年(1564年)2月6日の事でした。

あの織田信長が欲しくて欲しくてたまらないのに、8年間も落とせなかったあの稲葉山城をですよ!・・・て、でも・・・確か、この3年後の永禄十年(1567年)に信長が攻略した時(8月15日参照>>)、稲葉山城を居城にしていたのは龍興・・・半兵衛じゃないっすよね。

そうなんです。
一旦ここで、稲葉山城を乗っ取った半兵衛・・・後に、数々の非を認めて謝罪した龍興に、すんなりとお城を返しているんです・・もう、半兵衛さんったら・・・カッコイイたらありゃしない。

しかし、稲葉山城を手に入れなくても、半兵衛はもっとスゴイ物を手に入れました。

それは、「コイツは、只者ではない」という周囲の目・・・案の定、後に稲葉山城を手に入れた信長は、次に半兵衛が欲しくてたまらないようになるのです。

その後、信長の命を受けた秀吉が、半兵衛を味方につけようと奔走する話は、何度もドラマになっているので、皆さんもご存知の事と思います。

まぁ、ちょっと脚色あるみたいですが・・・(6月13日参照>>)そこンところは、痛快なドラマとして楽しむのもアリかと・・・

結局、信長が、その稲葉山城を落とすのは、永禄十年(1567年)8月の事・・・
8月1日【美濃三人衆内応~信長・稲葉山城へ】>>
8月15日【信長・天下への第一歩~稲葉山城・陥落】>>
を、ご参照いただけるとありがたいですm(_ _)m

Syounenhanbeecc 今日のイラストは、
お勉強中の竹中半兵衛くんで・・・

インドア派なので、たまにはお外で・・・でも、やっぱり本を読むんだろうなぁ・・・
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2008年2月 5日 (火)

文明開化の最先端!大阪造幣局・設置

 

明治二年(1869年)2月5日、明治新政府が新貨の鋳造を決定し、大阪に造幣局を設置しました。

・・・・・・・・・・・・・

Zouheikyokusakuranotoorinukekaisetu 今や、春の『桜の通り抜け』で有名な大阪造幣局・・・いやいや、勿論、造幣でも有名なんですが・・・

その『桜の通り抜け』を通り抜けた先の通称・銀橋と呼ばれる桜宮(さくらのみや)の西詰め、1号線を越えた北側に、かつては『明治天皇記念館』、次に『桜宮公会堂』、そして現在は『大阪市立ユースアートギャラリー』と呼ばれる建物があります。
(通り抜けの写真はフォトアルバムにあります)

以前、ブログで紹介した造幣局の迎賓館として建てられた『泉布観(せんぷかん)(3月25日参照>>)と同じ敷地内にある建物です。

Kyuuzouheikyokugenkancc 実は、この建物の正面玄関部分が、建設当時の造幣局鋳造所の正面玄関だったのです。

Kyuuzouheikyokugenkanupsscc 昭和十年(1935年)に、最初の場所から現在の場所に移築されて、別の用途で使用されたため、上記のように名前が変わったわけですが、日本における洋風建築の初期の姿が今に残る貴重な建物で、梁間15m、屋根は一重切妻造(きりづまづくり)銅板葺・・・もちろん、日本最古の洋風建築として、国の重要文化財に指定されています。

・‥…━━━☆

『鳥羽伏見の戦い』(1月2日参照>>)に勝利して、『江戸無血開城』(4月11日参照>>)を成した明治元年(慶応四年・1868年)の4月頃から、生まれたばかりの新政府は、近代的な貨幣制度を確立するため、新しい貨幣の鋳造に着手しはじめます。

ちょうどその頃、イギリス香港に設置していた造幣局が閉鎖となり、売りに出された事で、政府は、その建築材料や機械をはじめとする、すべての物を買い取り、当時川崎村と呼ばれていた淀川沿いのあの場所に、翌年の明治二年(1869年)2月5日造幣局を設置したのです。

当時の川崎村は、江戸時代から続いているセレブなお金持ちの別荘地で、淀川で舟遊びを楽しむための大阪の豪商の別荘が建ち並んでいました。

しかも、その中の何軒かは、すでに洋風建築で、造幣局の洋風の建物も違和感なく、美しく収まったと言う事です。

もちろん、建物の材料や機械を買ったからと言って、それですべてをまかなえる物ではありませんから、当時のお金で九十五万両という巨費を投じての一大プロジェクトとなりました。

その頃の日本の近代工業施設なる物は、未だ長崎江戸にわずかにその芽生え的な物が存在する程度でしたから、原材料を、国内のどこかから仕入れて来る・・・なんて事は不可能で、貨幣の鋳造だけでなく、その鋳造に必要な物を、すべて自給で生産できるシステムを造りあげなければなりませんでした。

硫酸Naや、コークス・石炭ガスといった物の製造所も同じ場所に造り、秤量や彫刻の技術、さらには、事務のための電信・電話施設やインクまでもを、自家製で製造するという、まさに時代の最先端の集合・・・近代工業技術の粋を集めた建物だったのです。

もちろん、工業技術だけでなく、断髪や廃刀、洋服の着用なんかも、ここが最先端だったようです。

Zouheikyokuseimoncc ちなみに、←こちらの写真は現在の造幣局の正門付近

右側にチラッと見える8角形の建物は、泉布観と同じく、イギリスの建築家・ウォートルスの設計による、正門を守る衛兵の詰所として使用されていた建物です。

創業当時から、大正八年(1919年)頃まで、大阪師団の兵士が警備のため詰めていたそうです。

やがて、時代の流れとともに、政府のそれらの技術は、民間への払い下げという形を通じて、大阪の工業の近代化へ一役買う事になります。

現在の大阪が日本の商工業の最先端の位置をキープし続けているのも、明治の初めにここに最先端技術が集結していたからでもあるわけで、そういう点でも、この造幣局の開設は、大阪にとって重要な出来事の一つなのです。

現在の造幣局では、貨幣の他、勲章なども製造し、鉱物の分析なども行っているそうです。
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2008年2月 4日 (月)

伊達男の本領発揮!政宗、起死回生の弁明劇

 

天正十九年(1591年)2月4日、先の葛西・大崎一揆の首謀者と疑われた伊達政宗が、豊臣秀吉に対して弁明するため上洛しました。

・・・・・・・・・・

独眼竜・伊達政宗・・・まさに絶体絶命のピンチです。

前年の天正十八年(1590年)7月に小田原城を落とし、関東に君臨した後北条氏を滅亡へと追い込んで(7月5日参照>>)、まさに天下を手中に収めた豊臣秀吉

秀吉は、その勢いのまま、奥州征伐へと駒を進めます。

それは、合戦というよりは、この小田原城攻めの時、参戦するように呼びかけていた東北の諸将のうち、参戦しなかった者を処分し、参戦した者を優遇するという物。

当然の事ながら、領地を没収される東北の武将たちが、おとなしくしているワケがありません。

彼らのほとんどは、南北朝の昔から奥州を治める名門ばかり、彼らから見れば、秀吉こそどこの馬のかわからない新参者なのですから・・・。

かくして起こる『葛西・大崎一揆』の嵐・・・ターゲットになったのは、秀吉の事務方から大抜擢で、旧葛西氏と旧大崎氏の領地をもらって領主となっていた木村吉清の居城・佐沼城

そして、その一揆の鎮圧を、秀吉から命じられたのが、小田原城攻めにギリギリセーフで間に合い、必死の弁明で許されたばかりの伊達政宗蒲生氏郷(うじさと)(2月7日参照>>)でした。

しかし、もともと奥州の人間である政宗と、それを理由に、むしろ一揆の影の首謀者ではないかと疑う氏郷の二人では歯車が噛み合わず、なかなか一揆の鎮圧は困難でした。

そんな中、氏郷は、政宗が一揆衆に宛てた『激励文』を見つけるのです。

しかも、直筆の花押(かおう・本人の物であるという証明のサイン)つき・・・。

動かぬ証拠を手にした氏郷は、もちろん秀吉に報告・・・そして、政宗は、その弁明のために、天正十九年(1591年)2月4日、上洛したというワケです。
(くわしくは11月24日の葛西大崎一揆のページでどうぞ>>)

・・・・・・・・・・・

秀吉と氏郷が待つのは、あの壮麗な聚楽第(じゅらくだい)・・・時に、秀吉56歳、氏郷35歳、動かぬ証拠を突きつけられて、絶体絶命の政宗は、未だ25歳・・・さぁ、二人を前にしてどうする?

政宗が、弁明のために秀吉の前に登場するのは、あの小田原城攻めの参戦に遅れた時(6月5日参照>>)に続いての2度目です。

その時は、死を覚悟した死装束で目の前に現れ、周囲の度肝を抜いた政宗でしたが、実は、今度はさらにスゴかった・・・

京の町を聚楽第へ向かう伊達家の行列・・・もちろん、政宗は例の死装束の姿に身を包んでいるのですが、その行列の先頭には、なんと金箔が塗られた磔柱(はりつけばしら・・・つまり、黄金の十字架をかかげての行進です。

さすがに、珍しい物を見慣れている京の人々も、びっくり仰天です。

しかし、度肝を抜く派手な演出は、秀吉だってお手の物・・・「こんな若造に負けてななるか」と、落ち着きはらって、こう尋ねます。

「ほほぉ・・・死を覚悟してるっちゅー事は、一揆をウラで操っとったちゅー事を認めんねんな」

「謀反などと・・・とんでも、ございません。関白殿下に対しての忠誠心、この政宗には、一点の曇りもございません」
堂々とした態度で答える政宗・・・。

氏郷は、思わずほくそえみます。
「こっちが、確固たる証拠の激励文を持っている事を、コイツは知らんねや・・・このエラそうな若造の鼻をあかしたる!」

氏郷は、やにわに手紙を取り出して・・・
「これを見てみぃ!覚えがないとは言わせへんゾ!どーすんねや、政宗!」

その手紙の登場に、政宗は一つもうろたえる事なく、落ち着きはらって、じっくりと手紙に目を通します。

そして、一言・・・
「自筆と見間違えるほど似ておりますが、私の書いた物ではありません」

なんだ、こんなモン!と言わんがばかりのサラ~ッとした態度に、さすがの秀吉もブチ切れ・・・

「ここには、ちゃ~んと、お前の鶺鴒(せきれい)の花押があるやないかい!」
・・・と、声を荒げます。

Damasamunesekireikaoubennmeicc
政宗の花押は、名前のサインだけではなく、右側に鶺鴒というズズメに似た鳥がデザインされた独特の物だったのです。

「恐れながら・・・殿下、私は大変うたぐり深い男でございます。
たとえ、家臣でも家族でも・・・花押など、身内ならマネようと思えばマネる事ができましょう。
そこで、一つ考えました。
誰にもマネができないような細工をほどこそうと・・・。」

「んん?」
・・・とばかりに、身を乗り出す秀吉・・・。

「私の書く花押には、鶺鴒の目のところに、よ~く見ないとわからないような、針で突いた穴を開けております。
残念ながら、一揆衆に宛てたこの激励文には、その針の目がありません。
ですから、これは私の書いた文ではありません」

「はぁぁ・・・?そんな、アホな・・・」

もちろん秀吉は、慌てて今まで自分のところに送られてきていた政宗の手紙をすべてを持ってこさせ、一つ一つ、見ていきます。

しかし、政宗の言う通り・・・それらの手紙の花押には、すべて、針であけられた鶺鴒の目がついていたのです。

バタバタと何度も、手紙を見比べる氏郷・・・。
唖然と座り込む秀吉・・・。

「この針の穴の事は、誰も知りません・・・極秘ですよ。
関白殿下だから、正直に申し上げたんです。
ナイショにしておいて下さいよ・・・マネされるといけませんから・・・」

シ~ンと静まりかえる場内・・・

少し笑みを浮かべた政宗と、やはり笑みを浮かべた秀吉の、静かなにらみ合いが続く中、その静寂を破るかのように、高らかに響く秀吉の笑い声・・・

「もう、えぇ・・・、わかった、わかった」

それは、すべてを許す笑い声でした。
もちろん、政宗の疑いが晴れたわけではありません。

いや、むしろ秀吉は、この一件で政宗が一揆の先導者であり、その手紙が本物であった事を確信したでしょう。

しかし、その先の先を読む知略に感服したのです。

一揆が成功しても、失敗しても・・・そして、たとえ手紙が見つかっても・・・
どうなっても、大丈夫なように、針の穴一つで、先手を打っておく・・・

見事なまでのやり口に、ひょっとしたら若き日の自分を見たのかも知れません。

その痛快な作戦は、もはや大陸に目を向けている秀吉にとって、むしろ政宗が必要な人材だと感じさせた事でしょう。

・・・・・・・・

その後、政宗は、5月には米沢城へ戻り、一揆討伐を再開させ、7月には一揆衆に占拠されていた佐沼城を奪回します。

拠点を失った一揆は、急速に勢いを失い、またたく間に終息を迎えます。

秀吉は、一揆が鎮圧された後、以前、木村吉清に与えた領地をそっくりそのまま政宗に与えます。

一揆の中心人物の一人であった大崎義隆は、その吉清とともに、氏郷の臣下となり、もう、一人の中心人物であった葛西晴信は、政宗との佐沼城攻防戦で討死したとも、城から脱出はしたものの、そのまま行方知れずになったとも言われています。

政宗、一世一代・・・起死回生のパフォーマンスでしたね。
ただし、上記のセリフ回しなど、主観的脚色が入っていますので、広~いお心でお読み下さいませ。
 

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2008年2月 3日 (日)

「黒船見物禁止令」~庶民の反応は?

 

安政元年(1854年)2月3日、江戸幕府が、1月16日に再び浦賀に現れた黒船の『見物禁止令』を発布しました。

・・・・・・・・・・・・・・・

禁止令を出すくらいだから、やっぱり見物人はスゴかったんでしょうかね。

♪太平の 眠りをさます 正喜撰(じょうきせん)
 たった四はいで 夜も眠れず♪

Kurofunekinnsireicc (↑6隻おる気がするが・・・)

この有名な狂歌でもわかる通り、日本列島は上を下への大騒ぎ・・・と一般的には言われています。

・・・が、どうやら、右往左往していたのは、幕府のほうで、一般庶民は意外と冷静だったようで、「驚き」という物ではなく、幕府とは、また違った感じだったようです。

考えてみれば、日本近海に外国船が登場するのは、何もペリーさんご一行が最初ではありません。

寛政四年(1792年)には、ロシアラックスマン根室に・・・。
文化元年(1804年)には、同じくロシアのレザノフ長崎に・・・。

文化五年(1808年)にはイギリスフェートン号が同じく長崎に侵入し、オランダ人を人質に3日間湾内をウロウロと航行し続け、この時は、その責任をとって長崎奉行・松平康英が自刃という悲惨な結果に・・・

さらに、文化八年(1811年)には、これまたロシアのゴロ-ウニン無断で国後島に上陸し逮捕されるという事件まで発生しています。

その後も、文政元年(1818年)にはイギリスのゴルドンが浦賀に・・・、文政七年(1824年)には、やはりイギリス船が常陸(茨城県)大津浜に・・・と。

そうこうしているうちに天保十三年(1842年)には、アヘン戦争(8月29日参照>>)で、(中国)イギリスの半植民地状態に・・・

この間、幕府の態度は『撫恤令(ぶじゅつれい・漂流船に燃料や水を補給し穏便に返す)を出したり、逆に『異国船打ち払い令』を出したり、またまた『薪水給与令(しんすいきゅうよれい・燃料補給OK)を出してみたりと、二転三転の対応策を講じています。

やはり、右往左往していたのは幕府のようですね。

しかも、アメリカだって弘化三年(1846年)に、ピットル率いる軍艦が、場所も同じく浦賀に来航し、同じように開国の要求をしているのですから、百歩譲ってイギリスやロシアは見慣れていて、アメリカの黒船だからこそ、見て驚く・・・という事だとしても、先にこっちで充分驚いてるだろう!って感じですよね。

この時のピットルの開国要求は幕府が拒絶したために、歴史では大きく扱われない・・・しかし、次にペリーがやって来た時には、例のごとく、幕府が右往左往して条約を結んじゃうもんだから歴史として残り、一般庶民もこの時に驚いた事になっちゃってるんでしょうねぇ。

あの吉田松陰が、黒船来航のニュースを聞いて、そのわずか25時間後に見物に行った時の事を日記に記していますが・・・

『土人(浦賀の地元の人)甚だ憂ふるの色あり、然れども絶えて騒擾(そうじょう)の態なし』

つまり、「地元の人は心配はしているけれど騒いではいない」と書いています。

それどころか、小舟を漕ぎ出して黒船のそばへ行き、乗員との物々交換で珍品を手に入れようとしたり、外国人相手に商売を始める者もいたようで、庶民は幕府より、はるかに冷静でしたたかだったようです。

やはり、「たった四はいで夜も眠れなかった」のは幕府のほうで、その敏感さゆえに『見物禁止令』なんて事になったんでしょうね。

国を荷ってるお歴々は大変だったのでしょうが、責任のない庶民にとっては、グラビア界の黒船・リア・ディゾンを迎えるがのごとく、熱烈歓迎だったのかも・・・
 .

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2月の歴史の出来事カレンダー

このページは、カレンダー方式のサイトマップです。

日付から、「その日何があったのか?」という感じで記事を探せるようにと作ってみました。

サイドバーに「出来事カレンダー」としてリンクをつけていますので、また、いつでもご利用ください。

2yukigesikicc

出来事とリンク
1

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400
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1333
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1601
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1602
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1639
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1895
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1922

二月礼者
 【京都の昔話~愛すべき貧乏神】
履中天皇・即位
 【カノジョ寝撮られ放火され…ゴタゴタ即位】
吉野で再起した護良親王が敗走
 【護良親王&楠木正成・再起~】
井伊直政が近江佐和山城に国替え
 【佐和山城~石田三成から井伊直政へ】
井伊直政・没
 【徳川の斬り込み隊長・井伊直政の赤備え】
大久保彦左衛門忠教が死去
 【天下のご意見番~大久保彦左衛門】
日本初の路面電車が京都に走る
 【京都で日本初の路面電車】
山県有朋・没
 【汚名返上?再評価高まる山県有朋】
2 749
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1071
 .
1074
.
1569
 .1895
大僧正・行基・没
 【弾圧の小僧・行基~大出世のウラ事情】
中国に向かう成尋が大雲寺を発つ
 【離れてもなお母の愛~成尋とその母】
藤原頼通・没
 【藤原頼通と平等院と末法】
信長が義昭御所の築造を開始
 【本圀寺の変からの二条御所の築造】
日清戦争で威海衛を攻略
 【終結へ向かう日清~威海衛・攻略】
3  .
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1672
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1854
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1874
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1901
節分
 【節分・豆まきの起源と鬼】
浄瑠璃坂の仇討
 【忠臣蔵のモデル?浄瑠璃坂の仇討】
徳川幕府が「黒船見物禁止令」を発令
 【「黒船見物禁止令」~庶民の反応は?】
佐賀の憂国党が小野組に資金を借用
 【立つ!江藤新平~迫る!佐賀の乱】
福沢諭吉が没す
 【漢学→蘭学→英学…夢止まぬ諭吉】
4 1181
 .
1355
 .
1591
 .
1703
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1865
平清盛・没
 【諸行無常・平清盛の死】
足利高氏と山名父子の神南合戦
 【足利VS山名~南北朝・神南合戦】
伊達政宗、一揆の弁明のため上洛
 【政宗、起死回生の弁明劇】
赤穂浪士46名が切腹
 【消えた47番目の赤穂浪士・寺坂吉右衛門】
天狗党が処刑される
 【早すぎた尊王攘夷~天狗党の最期】
5 1199
 .
1333
 .
 .
1558
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1574
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1597
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1869
平清盛の曾孫・六代が斬首に
 【生きさせては貰えなかった平家の嫡流】
~5/10・千早城攻防戦
 【楠木正成・最大の見せ場!千早城の戦い】
 【大阪の昔話~はりぼての野田城】
徳川家康の初陣~寺部城の戦い
 【徳川家康の初陣~三河寺部城の戦い】
武田勝頼が織田信長方の明智城を奪う
 【信玄の死後に勝頼が動く~明智城陥落】
長崎で26名のキリスト教徒を処刑
 【長崎二十六聖人殉教の日】
明治新政府が大阪造幣局を設置
 【文明開化の最先端!大阪造幣局・設置】
6 1336
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1564
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1647
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1666
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1863
豊島河原合戦
 【足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦】
竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取る
 【目覚めた天才軍師!半兵衛稲葉山事件】
小堀遠州・没
 【江戸の初めのクリエイター・小堀遠州】
千姫・没
 【千姫・ご乱行の真相】
 【姫路城・化粧櫓に千姫を偲んで・・・】
長井雅楽が自刃
 【長州一の知弁:長井雅楽~無念の死】
7 538
.
1184
 .
 .
 .
 .
1595
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1597
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1885
継体天皇・崩御
 【謎多き継体天皇】
一の谷の合戦
 【生田の森の激戦】
 【義経の鵯越の逆落とし】
 【忠度の最期】
 【青葉の笛】
蒲生氏郷・没
 【信長と秀吉を魅了した戦国一のイイ人】
直江兼続が閻魔大王に手紙を書く
 【ブラック兼続~閻魔大王に夜露死苦】
岩崎弥太郎が死去
 【幕末維新の実業家…岩崎弥太郎】
8  .
 .
.
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1008
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1192
 .
1831
針供養
 【針供養の起源と針のお話】
御事始め
 【農耕のはじまり~御事始めから連想】
花山天皇・崩御
 【平安の好色一代男~花山天皇の奇行の】
貞慶が隠遁を願い出る
 【エリートコースを捨てて…信西の孫・貞慶】
大坂・天保山の造成を開始
 【日本一低い、天保山造成】
9 1160
 .
1582
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1698
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1904
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1989
源頼朝が平家方に捕まる
 【少年・源頼朝を逮捕!死罪から流罪へ】
信長の甲州征伐、開始
 【織田軍怒涛の進撃~甲州征伐開始】
紀伊国屋文左衛門が材木で大儲け
 【一攫千金ミカン船~紀伊国屋文左衛門】
日露戦争・旅順&仁川海戦
 【日露戦争~旅順港と仁川沖・同時海戦】
手塚治虫・没で「漫画の日」
 【今日は漫画の日なので・・・】
10 1172
.
1187
 .
1439
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1550
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1868
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1888
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1904
平清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮に
 【女性の助力で清盛・頂点へ…】
源義経が奥州の藤原秀衡のもとに逃げ込む
 【義経を受け入れた奥州・藤原秀衡の思惑】
永享の乱
 【鎌倉公方・足利持氏の自刃】
 【永享の乱と結城合戦】
大友氏の家督争い・二階崩れの変
 【棚ぼた?計略?宗麟の「大友二階崩れ」】
松平容保が江戸城・登城禁止に・・・
 【鳥羽伏見から会津戦争へ~容保の決意】
探検家・松浦武四郎が死去
 【北海道の名づけ親~松浦武四郎】
日露戦争・勃発
 【日露戦争・勃発!】
11  .
 .
 .
1167
 .
 .
1571
.
1889
「建国記念の日」
「万歳三唱の日」
 【建国記念の日と神武天皇】
平清盛が太政大臣に就任
 【平清盛の異常な出世~天皇ご落胤説】
 【暴君ではない清盛のもう一つ顔】
塚原卜伝・没
 【神官生まれの剣聖~塚原卜伝の極意】
「大日本帝国憲法」発布
 【「大日本帝国憲法」誕生のお話】
12 729
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 .
1603
 .
2006
長屋王の変
 【孤軍奮闘空しく~長屋王の悲劇】
 【長屋王の邸宅跡の木簡発見で…】
徳川家康が征夷大将軍に・・・
 【徳川家康・征夷大将軍への道】
「今日は何の日?徒然日記」開設
 【ごあいさつ】
13  .
 .
1527
 .
1682
.
1875
銀行強盗の日
 【大泥棒・日本佐衛門ってどんな人?】
桂川原の戦い
 【畿内に三政権~桂川原の戦い】
宝蔵国師・鉄眼が大坂に戻る
 【1万人を救った救世大士…僧・鉄眼】
平民も苗字を名乗る
 【氏・素姓と苗字の話】
14  .
 .
.
.
940
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1184
 .
1548
 .
1739
ふんどしの日
 【2月14日は「ふんどしの日」】
祇王忌
 【平清盛の寵愛を受けた祇王と仏御前】
平将門が討たれる
 【平将門・怨霊伝説】
小宰相が入水自殺
 【ともに一つの蓮の上~平通盛の妻】
上田原の合戦
 【信玄・痛手~上田原の合戦】
本寿院(尾張藩主・徳川吉通の生母)・没
 【尾張藩主・吉通の生母・本寿院のご乱行】
15 .
.
310
 .
708
 .
1350
 .
1559
 .
1868
 .
1872
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1877
涅槃会
 【釈迦の入滅~涅槃会と涅槃図】
応神天皇・崩御
 【古代のTPP?応神天皇の時代と渡来人】
平城京遷都の布告
 【なぜ、平城京はあの場所に?】
兼好法師・没
 【兼好法師の恋愛感って・・・】
猿掛城攻防戦
 【庄為資と毛利元就と三村家親と…】
泉州堺事件
 【堺事件~土佐藩兵のフランス兵殺傷】
玉松操・没
 【王政復古・錦の御旗を作った玉松の苦悩】
薩軍が鹿児島を出発
 【西南戦争~薩摩軍・鹿児島を発つ!】
16 1185
 .
1474
 .
1495
 .
1643

1829
 .
1869
 .
1874
源義経が、屋島をめざし摂津を出航
 【めざせ!屋島~嵐の船出】
一休宗純が大徳寺の住職に就任
 【一休さんのトンチは本当?】
北条早雲が小田原城を奪取
 【騙して奪った小田原城】
青山幸成・没
 【将軍の教育係…青山幸成と兄・忠俊】
高橋景保が獄中死
 【シーボルト事件に殉じた学者・高橋景保】
山国隊が凱旋帰郷
 【時代祭の先頭を行く山国隊と北野天満宮】
佐賀の不平士族が佐賀城を攻撃
 【佐賀の乱・勃発~江藤新平の運命は?】
17 -3千
 .
1272
 .
1607
ノアの洪水が、この日から40日間続く
 【ノアの方舟・洪水伝説】
後嵯峨天皇・崩御
 【南北朝対立の火種をまいた後嵯峨天皇】
徳川家康が駿府城の天下普請を開始
 【豊臣の最期を見据える家康の駿府城】
18 1207
 .
1480
 .
1503
 .
1575
 .
1609
 .
1891
 .
1919
法然が流罪・「専修念仏」が禁止
 【イケメン弟子のサービス過剰?】
越中一向一揆~田屋川の戦い
 【越中一向一揆~蓮乗VS石黒光義】
「北野天神縁起絵巻」ができる
 【学問の神様・菅原道真の学力は?】
越前一向一揆戦で富田長繁が討死
 【先走り過ぎた若き猛者・富田長繁の最期】
田中吉政が病死
 【三成を捕えた田中吉政~出世物語】
三条実美が死去
 【幕末維新の公卿で政治家…三条実美】
大山(山川)捨松が死去
 【戊辰の恨みを越え~大山巌と捨松の愛1】
 【戊辰の恨みを越え~大山巌と捨松の愛2】
19 1185
 .
 .
 .
1743
.
1837
屋島の合戦
 【佐藤嗣信の最期】
 【扇の的の後に・・・】
 【弓流し】
第3代姫路藩主・榊原政岑が没す
 【吉原の花魁・高尾太夫を落とした政岑】
大塩平八郎の乱
 【めざせ!救民~大塩平八郎の乱】
20 .
.
1352
 .
1573
 .
1582
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1723
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1734
一夜官女祭
 【岩見重太郎のヒヒ退治と一夜官女の物語】
小手指原の戦い
 【尊氏VS新田義興…小手指原の戦い】
足利義昭の謀反に対し織田軍が出陣
 【信長の意見書に将軍・義昭が反旗】
依田信蕃が田中城を開城
 【家康が見込んだ殺すに惜しい男・信蕃】
幕府が「心中禁止令」を出す
 【大江戸心中ブーム】
江戸・両国でクジラの見世物興行
 【ホエール・ウォッチング~珍獣見世物事情】
21 799
 .
1825
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1865
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1872
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1877
和気清麻呂・没
 【和気清麻呂に思いを馳せる茶臼山古墳】
雷電為右衛門・没
 【史上最強力士・雷電の意外な本業は?】
新撰組・山南敬助が脱走(23日・切腹)
 【新撰組・山南敬助の心の内は・・・】
日本初の日刊新聞・東京日日新聞が創刊
 【近代新聞と瓦版~江戸情報ネットワーク】
三野村利左衛門が没す
 【三井の中興の祖・三野村利左衛門】
22  .
 .
622
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1577
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1609
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1685
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1803
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1868
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1877
猫の日
 【猫と日本人~その交流の歴史】
聖徳太子・没
 【聖徳太子・死因の謎】
信長の雑賀攻め開始
 【雑賀攻め~孝子峠の戦いと中野落城】
後西天皇・崩御
 【天変地異で…追号も微妙な後西天皇】
常陸国に虚舟が漂着
 【家康の未知との遭遇&「虚舟」の話】
足利三代木像梟首事件
 【幕末・足利三代木像梟首事件】
会津藩の神保修理が自刃
 【敗戦の責任を負った会津藩士・神保修理】
西南戦争での熊本城・攻防戦
 【西南戦争~熊本城・攻防戦】
23 1576
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1581
 .
1784
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1863
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1864
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1868
織田信長が安土城の築城に着手
 【1人=100文で見学OK!信長の安土城】
信長が宣教師の連れてきた黒人と対面
 【織田信長と黒人さん】
「漢委奴國王」の金印が発見される
 【「漢委奴國王」の金印の謎多きお話】
清河八郎が「浪士組」に攘夷を宣言
 【新撰組・誕生のきっかけ~清河の宣言】
幕末遣欧使節団がエジプト国王を訪問
 【遣欧使節団の珍道中~スフィンクスと侍】
彰義隊・結成
 【江戸を死守する最後の砦~彰義隊・結成】
24 1333
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1549
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1610
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1854
後醍醐天皇が隠岐を脱出し船上山へ…
 【後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場】
織田信長が斉藤道三の娘・濃姫と結婚
 【こつ然と姿を消す信長の正室・濃姫は?】
長谷川等伯・没
 【智積院と長谷川等伯・障壁画】
ペリーが有線電信機を実験
 【ペリーのお土産…電信機】
25 681
 .
903
 .
1415
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1663
 .
1723
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1953
天武天皇が律令制定の詔を発する
 【日本の歴史が始まる?天武の律令国家】
菅原道真・没
 【菅原道真・没】
蓮如・誕生
 【真宗を日本一にした蓮如の経営戦略】
小幡景憲・没
 【甲州流軍学を大成させた小幡景憲】
江戸幕府が葵紋の品の販売を禁止にする
 【徳川家だけ、なぜ葵?家紋のお話】
斉藤茂吉・没
 【歌王~斉藤茂吉の強烈ラブレター攻撃】
26 1351
 .
1551
 .
1608
 .
1860
 .
1877
 .
1936
高師直が謀殺される
 【極悪人?観応の擾乱に散った高師直】
志賀の戦い
 【三好VS六角の志賀の戦い】
堀直政・没
 【秀吉をうならせた天下の陪臣・堀直政】
咸臨丸がサンフランシスコに到着
 【咸臨丸・シスコへ到着】
佐久間象山の息子・三浦啓之助・没
 【幕末の極楽トンボ~三浦啓之助】
二・二六事件
 【二・二六事件の残したものは・・・】
 【暗殺された高橋是清】
27 673
 .
1063
 .
1594
 .
1863
天武天皇・即位
 【天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑】
源義家が出羽守に任ぜられる
 【武勇の八幡太郎義家が冷遇されたのは?】
秀吉が吉野で花見を開催
 【勝利の聖地・吉野の花見の意味は?】
「浪士組」結成
 【今日は新撰組の日】
28 1352
 .
1581
 .
1591
 .
1638
笛吹峠の戦い
 【足利尊氏・危機一髪…笛吹峠の戦い】
信長が御所東門外にて馬揃えを行う
 【織田信長主催の一大イベント=御馬揃え】
千利休・秀吉の命で切腹する
 【千利休・切腹の謎~握っていた秘密とは】
原城が落城し島原の乱が終結
 【島原の乱・終結】
 【天草四郎・生存説】
 【島原の乱が残した物は…】
29 1578
 .
1772
織田信長が相撲大会を開催
 【織田信長と相撲大会】
明和の大火(目黒行人坂の火事)
 【語呂合わせ改元~明和九年の迷惑大火】
30 1691 ケンペルが徳川綱吉に謁見
 【将軍・徳川綱吉に謁見したケンペル】
最初の
午の日
初午
 【初午の日と稲荷信仰】
毎月・8日 屋根の日
 【「うだつ」があがらない】
毎月・10日 金毘羅の縁日
 【金毘羅?金刀比羅?こんぴらさんのお話】
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2008年2月 2日 (土)

弾圧の小僧・行基~大出世のウラ事情

 

天平勝宝元年(749年)2月2日、奈良・東大寺の大仏造営に尽力した大僧正・行基が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

大仏造営は、乱が勃発したり、天然痘の大流行で身近な人が次々と亡くなったりした事で、恐怖におののいた聖武天皇が、何とか国家の安泰を願って、天平十五年(743年)発案した一大事業です(10月15日参照>>)

この頃と言えば、以前書かせていてだいた『橘奈良麻呂の乱』(7月4日参照>>)に見えるように、藤原不比等以来、朝廷の実権を握る藤原氏と、その強大になりすぎた藤原氏に反発する古くからの名族たちとの反目が繰り返されていた時代です。

奈良麻呂の事件は、乱の勃発こそ大仏建立の後ですが、その火種はすでにあり、天平元年(729年)には、藤原氏に反発した長屋王(天武天皇の孫)自殺に追い込まれる悲劇もありました(2月12日参照>>)

大仏開眼の時には、すでに娘の孝謙天皇に皇位を譲っていた聖武天皇ですが、その藤原氏の勢いを警戒して、皇位を譲る際に、あえてトップの左大臣に橘諸兄(たちばなのもろえ)を据えるという事を行っています。

当時の藤原氏のトップは、光明皇后と孝謙天皇の信頼を受けて、事実上朝廷の実権を握りつつあった藤原一族の若きエース藤原仲麻呂(恵美押勝)です。

しかし、そんな反目し続ける諸兄と仲麻呂が、めずらしく意見が一致し、ともに行った事がありました。

それが、弾圧を受け、小僧(つまらない僧)のレッテルを貼られていた行基(ぎょうき・ぎょうぎ)を、いきなり大僧正に任命し、大仏造営の総指揮をまかせる事だったのです。

行基は、奈良時代に栄えた『南都六宗』の中の『法相宗』の僧・・・それまでの、彼の布教活動は民間伝道とも言うべき物でした。

それは、貧困にあえぐ人々や浮浪の民へ向けての布教で、もともと、渡来系氏族の出身であった行基は、土木技術にも長けており、地方を巡っては、そこに橋を架けたり、堤防を築いたり、福祉事業のような事をやりながら、人々に仏教を説いていたのですが、これがお上には気にいらなかったのです。

当時の仏教のありかたは、「国家安泰」「天皇家の繁栄」を願う物であって、決して民間を対象にすべき物ではなかったのです。

養老三年(717年)には、聖武天皇自らが「小僧・行基とその弟子たちは、往来に出て、みだりに罪業や福徳の事を説いて歩き・・・人民を惑わしている」との(みことのり)を発表し、国家をあげての弾圧に踏み切っています。

ところが、その30年後の天平十七年(745年)1月21日、先に書いたように、弾圧から180度の方針転換・・・大僧正任命です。

もちろん、諸兄と仲麻呂の意見で、そうなったわけですが、実際に任命したのは、30年前、弾圧をした聖武天皇、その人です。

しかも、それまで、大仏造営の主導権を一手に引き受けていた僧正・玄昉(げんぽう)を、大宰府に左遷してまでの大抜擢・・

この朝廷の方針転換は、いったい何なんでしょう?

教科書等の定説では、「弾圧されても、それにくじける事なく、地道に布教活動を続けていた行基の姿に、朝廷も感銘を受け、その「徳」を評価するようになったからだ」とも、「仏教に熱心だった光明皇后の助言を受けて・・・」などとされていますが・・・。

いやいや、そんなキレイ事では納得できませんゾ~!

そうです、これには、朝廷の必死の思惑が絡んでいるんです。

そもそも、大仏の造営には、莫大な費用がかかります(4月9日参照>>)

朝廷は、全国の貴族や豪族はもちろん、民間に向けてもその寄付をつのり、金品のある者はそれを・・・、無い者はその労力を提供するように呼びかけていましたが、もともと、「この大変な時に、何でそんなデカイもん造るんじゃい!」と思っている国民(またまた10月15日参照>>)が、積極的に協力してくれるわけもありません。

そこで、目を着けたのが行基の絶大な人気です。

貧困層に、地道な活動を続けていた行基は、一般庶民にかなりの人気があったのです。

もともと、朝廷が彼らを弾圧したのも、その人気が怖かったからですが、「今はこの人気にあやかる他は無い」・・・おそらく、朝廷は、そう考えたのではないかと・・・

案の定、「行基様がなさるのなら・・・」と、あちこちから協力の申し出・・・貧しい庶民たちも、貧しいながら、惜しみなく協力をするようになるのです。

今なら、さしずめ、低迷気味の政府が、人気タレントを議員に・・・と、これは、政治の話になるので、ここでは、やめておきましょう。

Gyoukidaibutucc_2 とにもかくにも、行基の協力で、大仏造営の一大事業は成功を収める事になるのです。

ただ、当の行基は、残念ながら、大仏開眼を見る事なく、その3年前の天平勝宝元年(749年)2月2日82歳で、この世を去ります。

 
彼の死後も、その恩恵に預かった人々は、彼の事を「行基菩薩」と呼び、役行者・聖徳太子・弘法大師と並ぶ仏教界のスターとして崇拝し続け、各地には様々な伝説が今も生き続けているのです。
 

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2008年2月 1日 (金)

徳川の斬り込み隊長・井伊直政の赤備え

 

慶長七年(1602年)2月1日は、徳川四天王のひとり・井伊直政さんのご命日です。

・・・・・・・・・・・・・

ちなみに、四天王の残り三人は、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・・・と、これが皆、先代からの重臣ばかり。

そんなオッサンたちに混じって、親子ほど歳の離れた井伊直政が、四天王と称されるのも、これ、ひとえに徳川家康お気に入りの座を確保したに他ならないのですが、その出会いは、天正三年(1575年)2月15日の事になります。

浜松で催された鷹狩りで、当時、虎松と名乗っていた初々しい15歳の少年・直政に、一目惚れした・・・もとい、一目でその、武将としての才能を見抜いた家康が、すぐさま自分のもとへ呼び寄せて、いきなりの2000石で直臣として迎えるのです。

これには、もともと藤原の名門の家柄で、駿河今川氏に仕えていた井伊家が、直政の曽祖父の代に、徳川への内通の疑いがかけられ、曽祖父が殺されたため、当時2歳だった直政が、その後、各地を点々とする不遇の子供時代を送った事を(8月26日参照>>)、家康が自らの少年時代に重ね合わせ、彼を優遇した・・・という事だそうですが、そこは、例のごとく、男と男のLOVEな関係であったとも、直政は家康の隠し子だったなんて噂もチラホラと・・・

とにかく、そんな噂が出るほどに、家康は、新参者の直政を優遇するのですが、その噂をかき消すかのように、直政は、初陣から見事な活躍をし、日に日に頭角を現していきます。

・・・て、事で、ここは一つ、二人の関係は、家康のスルドイ目が直政の武将としての素質を見抜いた・・・という事にしておきましょう。

やがて、天正十年(1582年)3月、家康は織田信長とともに、あの宿敵・武田を滅亡させます(3月11日参照>>)

信長から駿河を与えられ、武田の旧臣を受け入れる事になった家康は、その『武田の赤備え(あかぞなえ)を、そっくりそのまま直政に受け継がせます。

この「赤備え」というのは、もともと武田の武将・山県昌景が考えたもので、指物・鎧・旗はもちろん、馬具や鞍・ムチまでが赤一色で統一された軍隊で、当時、無敵とうたわれた名誉あるもの・・・それを「そのまま『井伊の赤備え』にしろ」と言われたのです(10月29日参照>>)

これは、すなわち家康が、直政を徳川最強の一番打者=斬り込み隊長として認めた事でもあったのです。

この、戦場でひと際目立つ「赤の軍団」は、その後の合戦でも、度々先鋒を努めて大活躍・・・『井伊の赤備え』の名前は、天下に轟く事となるのです。
(ちなみに、ひこにゃんも「赤備え」です)

しかし、その名に、おごる事なく、生キズ覚悟の捨て身の特攻として、常に合戦に挑んでいた直政でしたが、慶長五年(1600年)9月15日、運命の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)がやってきます。

この日、徳川勢の先鋒は、福島正則が努める事になっていました。

しかし、直政は、この関ヶ原に来る以前から、家康に対して
「福島君なんて、この前まで豊臣にいたヤツですよ。そんなのに先鋒なんかやらせて、そいでもって勝ったりなんかしたら、どんなに、この先デカイ顔されるか・・・今度の戦いでは、ぜひ僕に先鋒を・・・」
と、言い続けていたのです。

結局、先鋒が変わる事はありませんでしたが、家康は直政の気持ちを汲んで、関ヶ原の合戦の布陣では、福島正則隊・黒田長政隊と並べて、直政隊も一番前の最前線に置いていました。

しかし、やはり心の中では納得がいかない直政・・・運命の日の午前8時。

それまでかかっていた霧がようやく晴れはじめ、関ヶ原の視界が開け、東西両軍ともに、合戦の開始が近づいた事を感じていた頃でした。

最前線に構えるのは、先鋒を努める福島隊の先陣・可児才蔵(かにさいぞう)です。

その横をスルスル~っと、通り過ぎ、その前へ出ようよする直政・・・。

「おいおい、何しとんねん!俺らが先陣やって聞いてるやろ!何、前出よとしとぉんねん!コラ!」
才蔵さんとしては、当然のお言葉・・・。

「いやぁね、ホラ・・・のちのちの合戦の勉強のためにも、先陣とはどんな物かってのを、見ておいてもらったほうが良いと思って・・・」
と、直政・・・。

才蔵がふと見ると、直政のそばには、松平忠吉の姿・・・。
そう、この松平忠吉は、家康の四男坊で、今回の関ヶ原が初陣。

真田相手の上田城に手間取り(9月7日参照>>)関ヶ原に間に合わなかった三男・秀忠に代わって、思わぬ最前線での初陣となった若き四男坊でした。

直政は、そんな忠吉の後見人の立場でもあったのです。

総大将・家康様のおぼっちゃまのお出ましとあらば、無理に止める事もできませんから、「さぁ、どうぞ」とお通しする可児隊・・・しかも、その時の直政らは、隊というよりもわずか十数騎のグループだったため、才蔵も、すっかり信じ込んでしまい、まんまと直政たちは、軍団の最前線の位置へもぐり込みます。

・・・と、もぐり込んだが早いか、あれよあれよという間に、敵方の最前線にいる宇喜多秀家隊に向かって、鉄砲の乱れ撃ち。

そして、その轟音が、まるでスタートの合図であったかのように、福島隊も一斉射撃を開始・・・こうして関ヶ原の合戦の幕が上がったのです。

かろうじて、徳川直臣の意地を見せましたね・・・まったく、直政さんらしいエピソードです。

ところで、この関ヶ原の合戦は、東西両軍にとっても、雌雄を決する運命の戦いでありましたが、直政個人にとっても運命の戦いであったのです。

それは、合戦が開始されてから6時間後の午後2時頃・・・やっとこさ徳川に寝返った小早川秀秋が、大谷吉継を攻撃し、戦況は一気に東軍有利となり、壊滅状態となった大谷隊とともに、徐々に西軍が敗走し始めた頃。

最後まで戦場に残っていた島津隊が、敵の後方にある伊勢路を目指し、戦場を横断する形で決死の敵中突破を開始したのです。

Sekigaharafuzin14hcc_2 <見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

★このイラストは、昨年9月16日の【関ヶ原の合戦・反省会~朝まで生合戦】のページにupした合戦図です~よかったら、そのページも覗いてみてください。
【関ヶ原の合戦・反省会~朝まで生合戦】はコチラからどうぞ>>

それは、地面に点々と座って銃を撃つ『坐禅陣』

後ろの兵が銃を撃っている間に、前にいた兵がその兵の後ろに回って銃を撃ち、また前の兵が・・・という風に、銃を撃ちながら後退していくというはなれワザ=「島津の背進」です(9月16日参照>>)

さらに、大将・島津義弘の甥である島津豊久は、義弘の陣羽織を着て、「我こそは島津義弘なり!」と、敵の注意をひきつけます。

そう、この島津の背進を追撃したのが、井伊直政と本多忠勝でした。

何とか追いつき、豊久を討ち取った直政・・・しかし、その時、島津の放った鉄砲が直政に命中するのです。

結局、その時の鉄砲傷がもとになり、1年半後の慶長七年(1602年)2月1日直政は42歳の生涯を閉じます

常に最前線を駆け抜けた男の無念の死・・・しかし、彼の活躍によって、家康より、彦根城の築城(11月4日参照>>)&彦根藩主という大きなプレゼントを獲得し、江戸時代を通じて井伊家は栄える事となるのです。
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