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2008年2月10日 (日)

鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦

 

永享十一年(1439年)2月10日、室町幕府VS鎌倉公方で争われた『永享の乱』で敗れた第4代鎌倉公方・足利持氏が自刃しました。

・・・・・・・・・

まだ南北朝の動乱の真っ只中で幕府を開く事になった足利尊氏は、自分の本拠地が関東であるにも関わらず、不穏な空気が収まらない京都を離れる事ができず、京都・室町で幕府を開く事になります。

しかし、幕府が成立しても、各地の旧勢力がくすぶり続けるため、奥州探題九州探題などを置いて監視する事になりますが、そんな中でも最も重視したのが、やはり本拠地である関東です。

最初は弟・実義(ただよし)鎌倉に派遣し、次に息子の義詮(よしらきら)、そして、貞和5年(1349年)には義詮と交替に次男の基氏(もとうじ)を派遣します。

基氏以降、この鎌倉を守る足利氏は鎌倉公方と呼ばれ、基氏の息子からまたその息子へと代々受け継がれていくのです。

この鎌倉公方は、関東はもちろん、伊豆甲斐(山梨県)をも含めた広大な範囲を統轄しており、幕府に准ずる組織でしたが、それだけ大きいと、やはり、徐々に幕府とは別の道を歩もうとし始めます。

まして、強大な2番手という物は、いつでも将軍の座を狙える位置にいるワケですし、同じ足利氏として、常に幕府の下という位置に不満を持つのも自然な事かも知れません。

徐々に、亀裂が入り始めた室町幕府と鎌倉公方・・・そんな正長二年(1429年)、「くじ引きで決められた将軍」=室町幕府第6代将軍・足利義教(よしのり)の登場・・・(2016年6月24日参照>>)

そんなドタバタの将軍決定劇に不満を持ったのが、基氏から数えて第4代目の鎌倉公方足利持氏

義教が将軍になったその年は、元号が正長から永享に改元された年なのですが、持氏はこの永享という元号を使用せず、旧元号を使い続けるという態度をとり、あからさまに独立国家の意思を表明し始めます。

しかし、関東だからと言って、全員が持氏の味方であるわけでもなく、鎌倉公方の補佐役である関東管領・上杉憲実(のりざね)ら幕府寄りの者たちと、一触即発の状態を続けながらも、しばらくの間は、大きく衝突する事は避けられているかのようでした。

やがて永享六年(1434年)、持氏は、鶴岡八幡宮『呪詛の怨敵を未兆にはらわんがため』という幕府を呪う内容の願文を血書にてしたためて祈願をするまでになります。

そして、永享十年(1438年)・・・
「もう、僕らだけでは、押さえきれませ~ん」
・・・と、憲実が幕府に泣きついた事によって、本格的な衝突が開始されます。

これが『永享の乱』と呼ばれる戦いです。

最初は、幕府勢、鎌倉公方勢、ともに一進一退の合戦を続けていましたが、なんせ、相手は幕府・・・何だかんだ言っても、幕府=将軍の地位というのは強大ですから、戦闘が長引くにつれ、徐々に、地元の者たちが、幕府に寝返るようになるのです。

そうなると、またたく間に持氏の敗色が濃くなってきます。

そして、永享十一年(1439年)2月10日、鎌倉の留守役だった三浦時高の攻撃によって、持氏の館は焼け落ち、持氏は自刃するのです。

しかし、その持氏には、四人の息子がいました。

その四人の兄弟は、この時、炎に包まれる持氏の館から脱出しますが、嫡男・義久は、乱の後、長男らしく兄弟を代表して鎌倉公方の復権を幕府に願い出ますが許されず、父の死の18日後の2月28日に自刃しました。

当然、残りの三人の兄弟は、乱の首謀者の息子として、幕府から追われる事になるのですが、その次男と三男が春王(しゅんのう)安王(あんのう)の二人・・・。

彼らを保護したのは、当時、関東屋形と呼ばれるほどの実力を持っていた下総結城城・城主の結城氏朝(ゆうきうじとも)でした。

結城氏は、ムカデ退治の逸話を残す勇者・俵藤太こと鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)・・・そう、あの平将門を討ち取った(2月14日参照>>)その人の子孫なのです。

氏朝は、かねてから憲実と対立しており、この永享の乱では、持氏をバックアップしていたのですが、その敗北により、さらに憲実と幕府への怒りが増大していたのです。

翌年の永享十二年(1440年)3月、氏朝は、公方の遺児である春王・安王を旗印に掲げ、幕府に反旗をひるがえします。

これが『結城合戦』と呼ばれる戦いです。

当時、関東各地の武将には、すでに幕府に反感を持っていた者も多く、しかも、この頃には、以前、足利義視さんのご命日のページ(1月7日参照>>)でも書かせていただいたように、嫡男がすべてを継ぐ惣領制が崩れつつある事で、各武将の家々にも何かしらの後継者争い・家督争いが起こっていた時期なので、氏朝の挙兵には多くの者が参戦し、関東の武士たちは、幕府派か氏朝(春王・安王)派かのどちらかに属して戦う事になります。

しかし、残念ながら、氏朝の結城城は、4ヶ月後の7月には、幕府軍に包囲されてしまいます。

それでも、何とか耐え抜いていましたが、翌・永享十三年(1441年)4月16日・・・ついに、氏朝は降伏を決意します。

幕府に降伏するにあたって氏朝は、城内にいる女子の命乞いを願い出ます。

もちろん、幕府はその条件をすんなり呑むのですが、実はこれには、幼い春王と安王を女装させて女子に紛れさせて、逃がそうという計略があったのです。

なんせ、春王が13歳、安王が11歳ですから、それくらいの少年って、女の子の格好をすれば、よほどガタイが良いか、とほどのオッサン面でない限り、それなりに見えるものですからねぇ。

しかし、幕府の兵がスルドかったのか?二人が思いっきりオトコだったのか?
二人はあっさり見つかってしまいます。

捕えられて、京へ護送される事になる二人ですが、その旅の途中の5月16日・・・美濃垂井(たるい)という場所に差し掛かったところで、警固の兵のもとに飛脚から手紙が届けられます。

いつもは、夜遅くまで歩き続けるこの旅で、ここ垂井では、まだ日の高いうちに宿の手配がされます。

いつもとは違うその雰囲気に、手紙の内容をさとる幼い兄弟・・・そう、手紙の主は将軍・義教で、その内容は「即、二人を斬れ!」という物でした。

運命を感じた二人は、風呂を所望し、その身を清めます。

そして警固の兵に、用意された布団で寝るように即されると、健気にも・・・
「けして、泣いたり騒いだりしませんから、殺す時は起してください」
と、頼んだと言います。

その役目を命じられたのは、漆崎小次郎という男・・・相手は幼い二人です。
もともと個人的な怨みがあるわけでもありませんから、命令された彼も心が痛みます。

でも、命令された以上、それを努めなければなりませんから、心を鬼にして、そっと寝所へ入って行きますと、幼い兄弟は、手と手をしっかりと結び、一つの布団に一つの枕で寄り添うように眠っています。

ますます、彼は胸がいっぱいになり、しばし号泣・・・しばらく考えたあと、やはり、兄弟が言ったように、起してから斬るべきだろうという結論に達した彼。

そっと揺り起こして、
「お命頂戴いたしまする」
と言うと、二人はすんなり起き上がって、
「もう、覚悟は決まっています。
兄弟二人で死ねる事、うれしく思います。」

と言って、手を合わせながら、小次郎のほうに首を差し伸べたと言います。

こうして、鎌倉公方は、4代=100年で断絶する事になるのですが・・・そうです、持氏の息子は、もう一人います。

一番末っ子の永寿丸(永寿王とも)・・・永享の乱の時は、まだ1歳でした。

彼も乱の後、信濃(長野県)に潜伏しているところを発見され、将軍・義教の命令により、殺されるところでしたが、そのあまりの幼さに管領・細川持之が猛反対。

持之のゴリ押しで、あの憲実に預けられる事になるのです。

この永寿丸が、後の足利成氏(しげうじ)・・・そう、彼は、父と兄の思いを背負って、鎌倉公方を奪回すべく乱を起こす初代・古河公方となる人なのです(5月13日参照>>)

世は、まさに乱世に突入・・・ですね。
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コメント

永享の乱や結城合戦、享徳の乱などは授業で、習った記憶がありません(私がぼーっとしてたからかなあ)。

関東の人間にとりましては、身近に当時の史跡がありますので茶々様のブログと合わせて、若いころの不勉強を今になって取り返そうとあがいております。

投稿: とらぬ狸 | 2015年3月28日 (土) 18時54分

とらぬ狸さん、こんばんは~

私も、学校で習った記憶がありませんね~(*´v゚*)ゞ
きっと習ったんでしょうけど…

投稿: 茶々 | 2015年3月29日 (日) 01時36分

結城合戦はその後の「応仁の乱」の引き金になったものです。結城の地元でも余り関心がありませんでしたが、市民劇でこれを上演したのでだんだん知られるようになりました。自分はその当時の鎌倉街道を調べています。色々面白いことが解ってきました。江川を遡ってきた幕府軍の上陸地点や戦に使ったと思われる石つぶてが残存しています。結城には歴史資料館がありませんので観光客の方は結城の歴史がよくわからないでしょうね。

投稿: ハルカゼ | 2016年5月24日 (火) 10時55分

ハルカゼさん、こんばんは~

この時代は、ドラマにも、あまり描かれないので、ご存じない方も多いかもしれませんね。
少しずつ、知られるようになっていくと良いですね。

投稿: 茶々 | 2016年5月25日 (水) 01時28分

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