千利休・切腹の謎~利休の握っていた秘密とは?
天正十九年(1591年)2月28日、大名をしのぐほどの権威を持っていた茶の湯の大家・千利休が豊臣秀吉から切腹を命じられ、自害しました。
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時をさかのぼる事、その九年前・・・天正十年(1582年)6月13日午後4時過ぎ・・・京都は山崎の地にある妙喜庵(みょうきあん)というお寺で、勝利の知らせを今か今かと待つ一人の男がいました。
男の名は、千宗易。
大阪・堺に生まれ育った彼は17歳で茶の湯を志し、詫茶(わびちゃ)を大成させ、茶道を芸術にまで高め、今は・・・いえ、つい先日までは織田信長に仕えていました。
そう、彼が戦況を気にするその戦いとは、本能寺の変で主君・織田信長を討った明智光秀を、中国大返しの離れワザで京都目前のこの山崎の地で攻撃範囲に捕らえた羽柴(豊臣)秀吉・・・この二人の間で繰り広げられた天下分け目の天王山・山崎の合戦(6月13日参照>>)です。
小雨がそぼ降る中、午後4時から開始された合戦は、わずか1~2時間でその勝敗が見え始め、光秀軍は次々と敗走して行きます。
その知らせを聞くやいなや、宗易は、秀吉が陣を敷く宝積寺へとおもむき、寺へと招いて勝利の茶を点てました。
そして、秀吉がこの天王山に築城するのと同時期に、宗易も、この妙喜庵に茶室・待庵(たいあん)を建てるという同調ぶりです。
この待庵という茶室は、現在もこの妙喜庵の中に存在し、各地に残る利休好みの庭や利休好みの茶室とうい物の中で、唯一現存する実際に利休が造った茶室として国宝に指定されています。
*待庵は非公開ですが、近くの大山崎町歴史資料館に、実物大で復元展示されています。
妙喜庵・大山崎町歴史資料館・その他天王山などへのくわしい行き方はHPの歴史散歩で紹介していますので、コチラからどうぞ>>
やがて、天下を取った秀吉のもとで厚遇され、天正十六年(1588年)には、宗易は、利休居士の称号を与えられ、その名声は天下に轟く事となるのです。
しかし、わずか三年後の天正十九年(1591年)、2月13日に謹慎処分を受け、半月後の2月28日・・・上記の通り、秀吉からの命令により切腹をするのです。
こんなに仲の良かった二人の間に、いったい何があったのでしょう。
それとも、仲が良さそうに見えたのは、打算ありありのポーズとしてだけで、本当は心の底で相容れない何かが存在したのでしょうか?
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一般的な説では、わび・さびを重んじる利休に対して、何かと派手好みで、その派手さを茶の湯にまで持ち込もうとする秀吉を利休が批判したからだという説や、秀吉が利休の娘を側室にと望んだのを断ったためであるとか、茶の湯とゆかりのある大徳寺の山門に利休の木像を掲げたからであるとか、諸説あって現在もなお、利休切腹の理由については大きな謎となっています。
一番目の好みの違いに関しては、利休自身は、心の中での葛藤はあったものの、表立って批判する事はありませんでしたが、利休の弟子である山上宗二(やまのうえそうじ)が、信念を曲げない頑固な性格であったため、ことごとく秀吉の趣味の悪さを批判し、天正十八年(1590年)4月11日、小田原北条攻めに従軍した際に、秀吉によって惨殺される・・・という事件が起きています。
この事があってから、利休も秀吉の傲慢さに耐えられなくなり、表立って批判するようになったとも言われていますが、宗二惨殺に関しては、彼が、秀吉から密かに、北条の内情を探るように命じられたのを断わったからだという意見もあります。
また、3番目の大徳寺の木像に関しては、大徳寺が利休に恩を感じて木像を制作し、山門に掲げたわけですが、そうすると、秀吉が山門をくぐる時に、利休像の下を歩く事になり、失礼にあたるだろうと言われる物です。
確かに、これに関しては、秀吉も激怒していたふしがあり、利休死亡の3日前の2月25日に、利休に対して切腹を申し渡すと同時に、その木像を磔(はりつけ)にしているところからも、その激怒ぶりが垣間見えます。
そんな諸説が入り乱れる中、新しい説も登場しています。
その一つは、『利休・スパイ説』・・・千利休は徳川家康のスパイではなかったのか?という説です。
家康は、この時期に、すでに将来自分が天下を取った時の事を考えて、あるいは、取るためには、必ず大坂という大都市を手中に収めなければならない事をさとっていて、そのためには、堺商人の中でも最も力のある利休と手を結んでおく事が大事であると利休に近づく・・・利休のほうは利休のほうで、天下は秀吉の手中にあるとは言え、どう転ぶかわかったモンではありませんから、もう一人の実力者・家康と、水面下で太いパイプをつなげていれば、これほど安心する事はありません。
この説の最も説得力のあるところは、切腹の命令に利休が素直に従ったという事実がある事です。
この切腹の命令が出た時に、周囲の者は秀吉のもとに赴いて許しを乞うように利休にアドバイスしますが、利休はそれを聞き入れなかったのです。
現に、先の宗二の場合も、追放されながらも一度は許されていましたから、この時、利休が許しを乞えば、何とかなったかも知れません。
しかし、利休はそうせずに、素直に命令に従って自害します。
それは、自分に思い当たるふしがあったから・・・という風にも考えられます。
そして、もう一つの説は『秀吉の秘密を握っていた説』です。
信長天下の時代には、茶会を開くには信長の許可が必要で、それを戴く事は、武士としてのステータスでもありました。
秀吉は、天正五年(1577年)に上月城など播磨(兵庫県)や備前(岡山県)に点在する毛利の諸城を制圧したご褒美として、信長から許可を得ています。
その時、秀吉は利休(当時は宗易)の事を「お師匠」と呼び、15歳年上の利休に対して「父のようにお慕いします」とも言っていて、かなり深刻な悩みなども相談していたと言います。
この頃、上り調子の秀吉の悩みと言えば唯一つ・・・子宝に恵まれないという悩みだった可能性大です。
しかし、天正十七年(1589年)、長年の秀吉の悩みが解決します。
あの淀殿が、男児・鶴松を出産するのです。
以前から、いろいろと噂される淀殿の懐妊・・・利休は、その不可思議さにいち早く提言したのではないでしょうか?
昔から、散々悩み事を聞かされていた立場としては、当然と言えば当然の意見でしょうが、秀吉にとっては、そこは触れてほしくない部分だったのかも知れません。
秀吉自身が疑いながらも、「自分の子供だと信じたい」と思っていたところに、それをバッサリ打ち砕く提言をされては、どうしても「その口をふさぎたい」という心境になった、というのもわからないではありません。
しかし、もし、利休が秀吉の秘密を握っているとするならば、もう一つ可能性があります。
それは、以前書かせていただいた『信長と堺の関係』(1月9日参照>>)に関係のある事です。
本能寺の変の時、何と言っても不可解なのは、天下の信長がわずかの手勢しか連れず京都に滞在していた事・・・それさえなければ、光秀が攻めようにも攻められなかったわけですから・・・。
そこに、関与していたのが、堺の商人たちではないか?・・・つまり、光秀の謀反を後押しした形だったのでは?という事を書かせていただきましたが、もし、そうだったとしたら、信長亡き後、天下を掌握するのが、誰かわからない状況では、いたって不安・・・という事になりませんか?
信長よりもっと強引な人が天下を握ってしまえば、またまた堺の町は、その人の傘下に収まるしかない事になってしまいます。
ひょっとしたら、利休をはじめとする堺の商人たちは、信長亡き後に、天下を握る人物を知っていた?・・・そして、それが彼らの納得のいく人物なら、その者とタッグを組んで、本能寺の変を誘発したという事もありうるかも知れません。
信長死去のニュースを聞いて、秀吉が帰って来るタイミングと言い、それを山崎の地で待ち構える利休のタイミングと言い、出来すぎなくらいのナイスアシスト感が拭えないのです(6月13日【本能寺の変~豊臣秀吉・黒幕説】参照>>)。
もし、その秘密を利休が握っていたとしたら・・・
そして、この時期に、秀吉と利休の間に、亀裂が入り始めていたとしたら・・・
諸説があるという事は、こんなにも楽しい・・・推理するだけで、わくわくしませんか?
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コメント
おもしろいです。
私の漫画でもそのうち登場するであろう千利休(・・・もとい今のところ登場するのは茶室だけかもしれませんが)
資料にと思って、2/15号のpenを購入したら、更に色々知りたくなってしまってここにきました。
秀吉との確執気になりますね。徳川スパイ説はちょっと、作品にも使えそうですし・・・。
直木賞の「利休にたずねよ」も買っちゃうかも。
投稿: ざぶとんうさぎ | 2009年2月15日 (日) 00時59分
ざぶとんうさぎさん、コメントありがとうございます~
大山崎歴史博物館にある待庵はメチャメチャ狭かったです。
あれが、「わび・さび」っちゅーもんなんでしょう・・・
直木賞の「利休にたずねよ」・・・
私は、歴史小説(とゆーか小説全部)を読まないので・・・とりあえず保留です(#^o^#)
投稿: indoor-mama | 2009年2月15日 (日) 02時13分