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2008年2月14日 (木)

信玄・痛手~上田原の合戦

 

天文十七年(1548年)2月14日、甲斐の武田信玄VS信濃の村上義清による戦い『上田原の合戦』がありました。

・・・・・・・・・・・

7年前の天文十年(1541年)、父・信虎追放して(6月14日参照>>)甲斐(山梨県)の主となった武田信玄(晴信)

翌年の天文十一年に、隣国・信濃(長野県)諏訪頼重(すわよりしげ)を攻め、諏訪地方を手中に収めて、さらに、信濃の東部へ勢力範囲を広げようとします(6月24日参照>>)

しかし、そのあたりは、葛尾城主・村上義清の領地です。

村上義清は、当時、信濃一帯で最も大きな勢力を持っていた武将・・・埴科(はにしな)更級(さらしな)高井小県(ちいさがた)水内(みのち)といった各郡は、すべて義清の勢力範囲内だったのです。

小競り合いを続けながら、やっとの思いで天文十六年(1547年)に佐久郡の志賀城主・笠原清繁を撃ち破った(8月17日参照>>)信玄は、いよいよ小県へと進攻します。

そして、ようやく、ここに来て義清が動き始めるのです。

それは、義清の勢力範囲である埴科や更級などの各郡は、あくまで各郡の当主が義清の傘下に入っているという連合軍ような物でしたから、これ以上、信玄の勢いが増すと、彼らの中には武田に寝返る者も出てくるかも知れないと思われたからです。

義清が動いたと知った信玄は、翌・天文十七年2月1日、極寒の季節にも関わらず、甲斐を出陣します。

翌・2日、義清の本拠地・葛尾城近くまで攻め寄せた信玄は、千曲川の南岸・上田原に着陣します。

一方の義清は、川を挟んで北側の岩鼻に陣を敷きます。
その数、武田方7千VS村上方5千。

かくして天文十七年(1548年)2月14日、両者は上田原にて激突するのです。

この時、武田方の先鋒を務めたのは、父・信虎時代からの重臣・板垣信方(のぶかた)

戦況は、武田有利に運び、この先鋒の信方の手勢だけで、150以上もの首をあげ、陣中は勝利に沸きかえりました。

しかし、ここで信方は、重臣らしからぬミスを犯してしまいます

初戦の勝利に酔ったのか、まだ戦闘が継続中であるにも関わらず、首実検を始めてしまのです。

床机に腰をかけ、おもむろに敵の首を見聞する信方・・・。

そこへ、静かに忍び寄った村上方の一隊が、一気に突入し攻撃を開始。

哀れ信方は、馬に乗る間もなく、そのままの状態で討ち取られてしまい、信方勢は壊滅状態になってしまいます。

しかも、これに勢いづいた村上勢は、逆襲に転じ、あちらこちらで武田方を圧倒します。

しかし、そこは武田軍・・・窮地に追い込まれたまま終らせるわけにはいきません。

栗原左衛門佐(さえもんのすけ)飯富虎昌(おぶとらまさ)小山田昌辰(おやまだまさとき)といった歴戦の武将たちが敵陣の切り崩しを・・・諸角虎定(もろずみとらさだ)真田幸隆らが、その崩した敵を追撃するという形で、徐々に挽回をはかります。

『甲陽軍艦』では、この時、原昌俊山本勘介の作戦を実行し、わすか300の兵で鉄壁の防御を敷き、武田軍の大勝利に終った事になってますが、これは、どーも怪しい・・・。

確かに、記録されている死者の数を見れば、武田方・700余、村上方・2900と、武田の勝利に思えますし、最終的に午後4時、上田原において勝鬨(かちどき)をあげたのは信玄の方ですが、

武田方は、この合戦で、信方同様、父の代からの重臣中の重臣・甘利虎泰(あまりとらやす)を失っていますし、信玄自身も太刀をあび負傷・・・勝鬨をあげる時も、周囲に促され、やっとあげたという事ですから、どうやら、本人から見てもギリギリの勝ち方で、納得のいかない物だったようですね。

現に、信玄は終戦後もいっこうに甲斐に戻ろうとせず、上田原に留まり続け、心配した母・大井夫人説得によって、3月3日にやっと陣を引き揚げています。

よっぽどくやしかったんでしょうね。

死者の数はともかく、重臣クラスの大きな人材を失った事を考えれば、信玄にとっては、この上田原の合戦は負け戦に思えたのかも知れません。

そして、ここで一旦、信濃東部への進攻を白紙に戻す信玄でしたが、ご存知のように、巡り巡ってその2年後の天文十九年(1550年)、武田・村上の両軍は、再び戸石城で激突する事となります(続きは、9月9日参照>>)

それにしても、昨年の大河の千葉サニー信方さんの最期のシーンはカッコよかったですね~。
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