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2008年2月 2日 (土)

弾圧の小僧・行基~大出世のウラ事情

 

天平勝宝元年(749年)2月2日、奈良・東大寺の大仏造営に尽力した大僧正・行基が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

大仏造営は、乱が勃発したり、天然痘の大流行で身近な人が次々と亡くなったりした事で、恐怖におののいた聖武天皇が、何とか国家の安泰を願って、天平十五年(743年)発案した一大事業です(10月15日参照>>)

この頃と言えば、以前書かせていてだいた『橘奈良麻呂の乱』(7月4日参照>>)に見えるように、藤原不比等以来、朝廷の実権を握る藤原氏と、その強大になりすぎた藤原氏に反発する古くからの名族たちとの反目が繰り返されていた時代です。

奈良麻呂の事件は、乱の勃発こそ大仏建立の後ですが、その火種はすでにあり、天平元年(729年)には、藤原氏に反発した長屋王(天武天皇の孫)自殺に追い込まれる悲劇もありました(2月12日参照>>)

大仏開眼の時には、すでに娘の孝謙天皇に皇位を譲っていた聖武天皇ですが、その藤原氏の勢いを警戒して、皇位を譲る際に、あえてトップの左大臣に橘諸兄(たちばなのもろえ)を据えるという事を行っています。

当時の藤原氏のトップは、光明皇后と孝謙天皇の信頼を受けて、事実上朝廷の実権を握りつつあった藤原一族の若きエース藤原仲麻呂(恵美押勝)です。

しかし、そんな反目し続ける諸兄と仲麻呂が、めずらしく意見が一致し、ともに行った事がありました。

それが、弾圧を受け、小僧(つまらない僧)のレッテルを貼られていた行基(ぎょうき・ぎょうぎ)を、いきなり大僧正に任命し、大仏造営の総指揮をまかせる事だったのです。

行基は、奈良時代に栄えた『南都六宗』の中の『法相宗』の僧・・・それまでの、彼の布教活動は民間伝道とも言うべき物でした。

それは、貧困にあえぐ人々や浮浪の民へ向けての布教で、もともと、渡来系氏族の出身であった行基は、土木技術にも長けており、地方を巡っては、そこに橋を架けたり、堤防を築いたり、福祉事業のような事をやりながら、人々に仏教を説いていたのですが、これがお上には気にいらなかったのです。

当時の仏教のありかたは、「国家安泰」「天皇家の繁栄」を願う物であって、決して民間を対象にすべき物ではなかったのです。

養老三年(717年)には、聖武天皇自らが「小僧・行基とその弟子たちは、往来に出て、みだりに罪業や福徳の事を説いて歩き・・・人民を惑わしている」との(みことのり)を発表し、国家をあげての弾圧に踏み切っています。

ところが、その30年後の天平十七年(745年)1月21日、先に書いたように、弾圧から180度の方針転換・・・大僧正任命です。

もちろん、諸兄と仲麻呂の意見で、そうなったわけですが、実際に任命したのは、30年前、弾圧をした聖武天皇、その人です。

しかも、それまで、大仏造営の主導権を一手に引き受けていた僧正・玄昉(げんぽう)を、大宰府に左遷してまでの大抜擢・・

この朝廷の方針転換は、いったい何なんでしょう?

教科書等の定説では、「弾圧されても、それにくじける事なく、地道に布教活動を続けていた行基の姿に、朝廷も感銘を受け、その「徳」を評価するようになったからだ」とも、「仏教に熱心だった光明皇后の助言を受けて・・・」などとされていますが・・・。

いやいや、そんなキレイ事では納得できませんゾ~!

そうです、これには、朝廷の必死の思惑が絡んでいるんです。

そもそも、大仏の造営には、莫大な費用がかかります(4月9日参照>>)

朝廷は、全国の貴族や豪族はもちろん、民間に向けてもその寄付をつのり、金品のある者はそれを・・・、無い者はその労力を提供するように呼びかけていましたが、もともと、「この大変な時に、何でそんなデカイもん造るんじゃい!」と思っている国民(またまた10月15日参照>>)が、積極的に協力してくれるわけもありません。

そこで、目を着けたのが行基の絶大な人気です。

貧困層に、地道な活動を続けていた行基は、一般庶民にかなりの人気があったのです。

もともと、朝廷が彼らを弾圧したのも、その人気が怖かったからですが、「今はこの人気にあやかる他は無い」・・・おそらく、朝廷は、そう考えたのではないかと・・・

案の定、「行基様がなさるのなら・・・」と、あちこちから協力の申し出・・・貧しい庶民たちも、貧しいながら、惜しみなく協力をするようになるのです。

今なら、さしずめ、低迷気味の政府が、人気タレントを議員に・・・と、これは、政治の話になるので、ここでは、やめておきましょう。

Gyoukidaibutucc_2 とにもかくにも、行基の協力で、大仏造営の一大事業は成功を収める事になるのです。

ただ、当の行基は、残念ながら、大仏開眼を見る事なく、その3年前の天平勝宝元年(749年)2月2日82歳で、この世を去ります。

 
彼の死後も、その恩恵に預かった人々は、彼の事を「行基菩薩」と呼び、役行者・聖徳太子・弘法大師と並ぶ仏教界のスターとして崇拝し続け、各地には様々な伝説が今も生き続けているのです。
 

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