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2008年3月31日 (月)

「そばの日」なのでお蕎麦の歴史

 

毎月、末日=30日か31日(2月は28日か29日)『そばの日』という記念日なので、今日は「お蕎麦の歴史」について・・・。

江戸時代の商人たちが、毎月の末日に、何事も、細く、長く、という願いを込めた縁起物として、そばを食べていた事に由来して、日本麺業団体連合会が設定したのだそうです。

・・・・・・・・・・・

そばの原産地はアジア中央部と東部。
麺の形になった「おそば」を想像すると、日本独特のような気持ちになりますが、現在でも、インド北部の山岳地帯をはじめ、中央アジアの多くで栽培されているのだとか・・・。

リンゴのなる所にそばがなる・・・とも言われるそうで、日本では北海道九州信州戸隠妙高など真夏でも20度以下で、火山灰の土地に品質の良い物が育ちます。

どんな場所でもよく育つので、凶作の時には、麦や栗とともにお国推奨の生産物として、人々の飢えを助けてくれました。

そんな「そば」が、日本にやって来たのは、奈良時代のはじめの第44代・元正天の頃・・・あの大仏建立で有名な聖武天皇の一代前の天皇が元正天皇です。

『続日本紀』には、養老六年(722年)に初めて栽培された事が記録されています。

中国から朝鮮半島を経て伝わり、「ソバムギ」「クロムギ」と呼ばれていましたが、奈良時代中期から平安時代には、「そばがき」「そば練り」として食べられるようになりました。

やがて、江戸時代、そばは画期的な方法で変貌を遂げます。

それは、朝鮮からやってきた元珍という僧が、小麦粉をつなぎとして入れ、こねてのばして切る・・・いわゆる麺類としてのそばの作り方を、東大寺の僧に教えたのです。

これが、ちょうど醤油の発明(10月1日参照>>)と同調した形となって、そばつゆが作られた事により、「おいしい」「おいしい」と、江戸で大評判となるのです。

江戸「夜鷹(よたか)そば」として売り出されるのも、この頃・・・

ちなみに、京都大阪では、同時期に「夜泣きうどん」が大評判となってます。

やはり、すでに、「そば文化」「うどん文化」に分かれてますねぇ。

ところで、年の最後に食べる「年越しそば」の風習が始まったのも江戸時代です。

ただし、その意味や由来については諸説あり。

  • 寿命を長くのばし、家財を長く保って幸福を願う・・・というもの
  • 金細工の職人が、飛び散った金の粉を、そば粉を丸めて団子にした物でかき集めていたので、金が集まるように・・・というもの
  • そばは、細くナヨナヨしているが、風で倒れてもすぐ立ち上がるので・・・というもの

などなど・・・

引越しした時に、食べたり配ったりする「引越しそば」は、そばのように細く長~いおつき合いを・・・という意味が込められているのだそうです。

そばには、頭の栄養として重要なグロブリンがたくさん含まれているので、頭の回転が良くなるのと同時に、風邪にもかかり難くなるらしい・・・

さらに、そば湯には、体力増強や血圧を下げる効果もあり・・・それが、上記のように、痩せた土地でも栽培できるのだから、まさに、飢饉の救世主!

古代から、日本人は、そばに何度も救われてきたんでしょうね。

これからは、そんなこんなに感謝しながらおそばを食べる事にいたしましょう。
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2008年3月29日 (土)

秀吉の小田原征伐・開始~山中城落城

 

天正十八年(1590年)3月29日、羽柴秀次軍が山中城を、織田信雄らが韮山(にらやま)を攻撃し、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されました

・・・・・・・・・

天正十三年(1585年)に四国を平定し、翌・天正十四年から十五年にかけて九州を平定し、その間に、越後(新潟県)上杉景勝とも主従関係を結んだ豊臣秀吉は、天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年の12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布します。

この奥両国というのは陸奥(東北太平洋側)出羽(秋田・山形)の事で、つまりは、「関東から陸奥・出羽にいたる東北までの大名同士の私的な争いを禁止する」という物です。

当時の秀吉は関白、その関白の権限で、今まで戦国大名の間で繰り返されていた領地の取り合いを禁止するという事は、まさに、秀吉による豊臣政権の確立を意味していました。

この枠に属さなかったのが、小田原に根を張る北条氏

天正十七年(1589年)、以前から北条と真田の間で争われていた旧・武田の領地・沼田・・・それを、「もう、争いは禁止」とばかりに、秀吉が間に入って、沼田の地の3分の2を北条に、残りの3分の1を真田に分割したはずだったのですが、その同じ年の10月に、北条氏政の弟・氏邦の家臣・猪俣範直が、真田昌幸の物となったはずの名胡桃(なぐるみ)を奪い取ってしまったのです(10月23日参照>>)

明らかに先の『惣無事令』に違反していると同時に、それは、北条氏が豊臣の臣下には入らないという意思表示とも言える行動です。

これによって、北条の意思を確認した秀吉は、直ちに『小田原征伐』を決意・・・11月24日には、氏政宛てに宣戦布告の書状を送りつけ(11月24日参照>>)、続く12月10日には、最初の軍議を開きます(12月10日参照>>)

Tizuodawaracc 当然、北条側も秀吉が行動を起すことは百も承知。

秀吉軍が、東海道を東に進んでくると判断した北条は、本拠地である小田原城はもちろんの事、今や秀吉傘下に納まってしまった徳川家康の領地との国境を意識して、足柄城(神奈川県南足柄市)→山中城(静岡県三島市)→韮山城(静岡県伊豆の国市)のラインで大軍をくい止めようと、城郭の整備、土塁の構築、兵糧の準備に取り掛かります。

かくして先鋒の家康、続いて本多忠勝井伊直政ら、そして秀吉自身も3万の直属軍を率いて、3月1日に京を出発・・・その27日には沼津に入りました。

翌・28日に、家康とともに山中城を偵察した秀吉は、翌日に山中城と韮山城へ攻撃開始する事を決定します。

そして、いよいよ天正十八年(1590年)3月29日その火蓋は切られました。

北条の重臣・松永康俊が守る山中城へ向かうのは・・・
秀吉の甥・羽柴秀次を総大将に、中村一氏山内一豊田中吉政堀尾吉晴一柳直末ら、総勢・6万8千の軍団。

氏政の弟・北条氏規の守る韮山城へ向かうのは・・・
織田信雄細川忠興蒲生氏郷蜂須賀家政福島正則ら、総勢4万4千。

山中城は、障子堀という北条氏オリジナルの築城法を駆使し造りで、箱根という天然の難所を見事に利用した難攻不落の山城でした。

しかも、玉縄城主・北条氏勝や、有力旗本も助っ人に駆けつけ準備万端・・・のはずだったのですが、悲しいかな、籠城する兵の数が4千~5千とあっては、何とも・・・。

午後3時頃に始まった山中城攻防戦は、わずか2時間ほどで、その日のうちに落城してしまいます。

一方の韮山城は、約100mほどの丘の上に構築された平城・・・こちらも、籠城側3千6百というわずかな兵に対して、大軍の秀吉側は2重3重の包囲を張り巡らし、もはや、ねずみ一匹たりとも逃さぬ状態となりますが、こちらは、強固に包囲はされたものの、簡単には落ちず、約3ヶ月間粘り続け、6月24日まで持ちこたえています。

しかし、北条側にとって、難攻不落であったはずの山中城が、いとも簡単に落されたのは、かなりのショック。

逆に、落した秀吉側にとっては、士気が高まり勢いづく事となります。

秀吉軍は、その勢いのまま一気に進軍し、4月1日には箱根山に、翌・2日には箱根湯本まで進み、3日には小田原に到着・・・いよいよ小田原城の包囲にとりかかる(4月3日参照>>)事になるのです。

これから、3ヶ月とちょっと・・・城攻めのお天才・秀吉は、攻撃用の対の城・石垣山一夜城(6月26日参照>>)を構築し、籠城おまかせの北条との、それぞれの思惑&駆け引きが展開される事となります。

そして、一方では、(おし)(6月9日参照>>)八王子城(6月23日参照>>)など、小田原城以外でも、別働隊による秀吉VS北条の攻防戦が繰り広げられる事になります。

2010年3月29日の【小田原征伐・オモシロ逸話】のページもどうぞ>>
 

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2008年3月28日 (金)

家康×秀頼~二条城の会見で出された饅頭は・・・

 

慶長十六年(1611年)3月28日、上洛した徳川家康豊臣秀頼の、二条城での会見が行われました。

・・・・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)で勝利したとは言え、あれは、あくまで豊臣家内の武闘派と文治派による内紛・・・事実上の最高実力者ではあっても、未だ徳川家康は、豊臣家の一家臣でした。

Nizyouzyoukaikencc そんな中、家康は二条城の建設に着手します。

あの織田信長も、京都に二条城を建てましたが、後にニ条御所と呼ばれたその建物は、本能寺の変の時に息子・信忠とともに燃え尽きました。

豊臣秀吉も京都に、壮大な聚楽第を建てていますが、関白職とともに聚楽第を、甥・秀次に譲った後に、秀次を葬り去ったアノ一件(7月15日参照>>)があり、その存在を消すかのように聚楽第も壊してしまいました。

天皇のおわす京の都に、壮大な城を建設する事は、天下を掌握する男の証しとも言えますし、もちろん、天皇に睨みをきかすという意味もあります。

夢の二条城は、慶長七年(1602年)から数年がかりで建設されますが、その間に家康は、征夷大将軍に任命され(2月12日参照>>)、さらに、その将軍職を二代目の秀忠に譲り(4月16日参照>>)将軍職という物は徳川家が代々受け継いでいく物である事をアピールします。

しかし、諸大名の中には、未だ、家康より、先に大坂城の豊臣秀頼年始の挨拶をしに行く者なども多く、豊臣への気遣いが拭えない状態でした。

そんな諸大名に、徳川将軍家が豊臣に匹敵する力を持っている事を知らしめるためにも、家康は、自分が行くのではなく、秀頼に会いに来させようと、再三呼び出しをかけましたが、秀頼は・・・というよりは、母の淀殿が、家康に会う事を反対し続けていたと言います。

しかし、関ヶ原では家康に味方しながらも、秀吉の代から豊臣に仕えていた加藤清正池田輝政前田利長といった面々の仲立ちもあり、慶長十六年(1611年)3月28日、すでに完成していた二条城にて、家康と秀頼の会見が実現したのです。

一般的には、この席で家康は、先に杯を干し、その杯を秀頼に与え、次に秀頼が杯を干すという事を行い、豊臣が、徳川の一大名である事を、内外に知らしめたと言われます。
(*これには、異説もあります…くわしくは2014年3月28日のページで>>)

ところで、この会見の席で、お酒とともに出された物がありました。
それは、饅頭・・・

・・・注:この先は、あくまで噂話です・・・

その饅頭は2種類用意されていたのだとか・・・。

実は、家康が秀頼と会うのは、かなり久しぶりなのですが、そんな家康の耳に入ってきていた秀頼の噂も2種類・・・

「秀吉の才能と、淀殿の美しさを受け継いだイケメンで才気あふれる若武者ぶりだ」
というのと、
「オツムは淀殿で、お顔は秀吉のサル、身体だけが大きいウドの大木だ」
という物・・・

はたして、18歳になった豊臣家の当主は、どんな風に成長したのか?
家康はその目で、しっかりと確かめようとしていたのです。

もし、秀頼が前者のような優秀な若武者であったなら、危険な芽は早く摘んでおく事に越した事はありません。

秀頼に対する噂が2種類・・・饅頭も2種類・・・

家康は、そっと目くばせして、側近に合図を送ります。
おもむろに、秀頼の前に出された立派な饅頭。

秀頼は息を呑みます
もちろん、彼も、その危険には気づいています。

しかし、出された物に手をつけなければ、家康を信用していない事になり、この会見の意味も無くなってしまいます。

・・・かと言って、
目の前の饅頭がアウトなのか?
セーフなのか?

秀頼は意を決して、饅頭を手に取り、口に運びます。

そこへ・・・
「おぉ・・・ウマそうな饅頭や!」
・・・と、その秀頼の饅頭をひったくるようにして食べてしまったのは、あの清正・・・

「うまい、うまい」
と、大口を開けてパクパクと・・・あっと言う間に、丸ごと平らげてしまいました。

はてさて、家康の目には、秀頼はどのように映っていたのでしょうか?
それは毒饅頭だったのしょうか?

真相は、すべて、家康の心の中に・・・
今となっては、想像するしかありませんが・・・

はたして、家康と秀頼の間を取り持って会見を実現させるという大役を成し遂げた清正は、以前、【加藤清正・疑惑の死】(6月24日参照>>)で書かせていただいたように、この後、領国・熊本に帰る途中に命を落すのです。

やがて、その三年後、ご存知のように、大坂の陣の火種となる方広寺・鐘銘事件(7月21日参照>>)が勃発します。

う~ん・・・どうでしょう?
でも、饅頭を食べてから3ヶ月ありますからね~。

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2008年3月27日 (木)

信玄・強気の深沢城矢文~深沢城攻防戦

元亀二年(1571年)3月27日、武田と北条の間で、その所有を巡って争われた『深沢城攻防戦』が終結しました。

・・・・・・・・・・・・

今川氏真を破って、駿河(静岡県東部)を手に入れた武田信玄にとって、この深沢城(静岡県御殿場市)は、隣国・相模(神奈川県)国境を接する重要な場所でした。

それは、相模を本拠地とする北条氏政にとっても同じ事・・・。

何とか、この地を手に入れたい氏政は、信玄に蒲原(かんばら)を落され、薩埵(さつた)峠で手痛い敗北(12月6日参照>>)を受けた永禄十二年(1569年)以降も、たびたび深沢城に出兵を重ねていました。

そんな重要な城を守るのは武田方の駒井昌直

そして、いよいよ元亀元年(1570年)4月・・・氏政は、自らが出陣し、深沢城に総攻撃を仕掛けます。

2ヶ月間の攻防の末、深沢城は落城し、今度は氏政の重臣・北条綱成(つなしげ)(5月6日参照>>)が城の守りに着きました。

もちろん、信玄が、このまま城を奪われた状態を許すはずがありません。

その年の暮れには、自らが出陣し、翌・元亀二年の正月早々から深沢城を包囲し、城への攻撃を仕掛けます。

1月3日には、城内で籠城する綱成に対して、開城を要請する矢文が射込まれます。

これが有名な『深沢城矢文』と呼ばれる物ですが、その内容は・・・

「あの氏真のアホンダラは、伯父(母が信玄の妹なので)のワシを裏切りやがって、こともあろうに上杉謙信みたいなヤツと手を組んでワシに抵抗しよったさかいに潰したった。

相模は、この信玄に与えられた土地やっちゅーねん。
北条が邪魔するんやったら、いつでもやっったる。
ほら、さっさと城を明渡さんかい!

けど、何やったら、小田原に救援頼んでも、えぇんやで。
伝令を見つけても、見逃したる・・・いや、むしろ送り届けたるさかいに・・・。

ただし、こっちは、全軍で雌雄を決する用意ができてるんや。
よもや、あの三増峠の戦い
(10月6日参照>>)のブザマな戦いっぷりを忘れてないやろな。
今度も、あんな負け方したないんやったら、さっさと決断せんかい!
ええ返事、待ってるでぇ」

(大阪弁しかしゃべれないので、手紙の文章が大阪弁になってしまいました・・・けっして悪意はありませんので、お許しを・・・)

・・・てな感じの、とても矢で撃ち込んだとは思えない、実に長い文章だったらしい・・・。

しかし、綱成はこの矢文を一蹴・・・さらに籠城を続けます

そこで、信玄は作戦変更とばかりに、従軍していた金山衆に命じて、城塁を掘り崩し始めます。

・・・と、以前は、この後、武田の攻撃も空しく、綱成の強固な守りに阻まれ、信玄は兵を退いたとされていましたが、氏政が謙信と景虎(氏政の弟で謙信の養子になった)に宛てた手紙が発見され、それによると・・・

「綱成は、武田の猛攻により16日に開城した」とされている事から、現在では、その金山衆の堀り崩し攻撃のため、援軍を待ちきれなかった綱成が、1月16日に深沢城をあけ渡した・・・というのが通説となっています。

しかし、その後は、逆に、武田方の手に戻った深沢城を、北条方が再び奪回しようと、攻撃を仕掛けます。

その北条の攻撃は、元亀二年(1571年)3月27日まで続きますが、結局、北条が奪回するまでには至らず、その後は、勝頼の代になって武田が滅亡する(3月11日参照>>)まで、この深沢城は、武田の支配下となりました。

それにしても、先の矢文の中の、信玄の強気な発言・・・すでに、この時の信玄には、天下を狙う心の準備ができていたのでしょうか?

この後、北条との関係を改善させた信玄は、翌・元亀三年、満を持して上洛の途(10月3日参照>>)につく?(異説あり)・・・となるのですが・・・
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2008年3月26日 (水)

ヒット曲第一号・カチューシャの唄に寄せてヒット曲の歴史

 

大正三年(1914年)3月26日、東京の帝国劇場で島村抱月の脚色によるトルストイ『復活』が上演され松井須磨子の歌う劇中歌『カチューシャの唄』が大ヒットした事により、今日3月26日は『カチューシャの歌の日』という記念日なのだそうです

『カチューシャの唄』は、翌年レコードとして発売され、女優・松井須磨子は、日本の流行歌手・第一号となりました。

・・・・・・・・・・・

レコードとなって発売され、いわゆる、今で言うところのヒット曲という観点から言えば、このカチューシャの唄が第一号という事になるのでしょうが、それこそ、巷でのハヤリの歌の古い物という事になると、人類の歴史と同じくらい長い歴史があるでしょう。

ただ、悲しいかな、歌という物は、人の口から口へと伝わる物で、録音機がない時代では、なかなか記録として残り難いものです。

そんな中、はっきりとした記録として残る、一番古い流行歌と呼べるのは、平安時代に大いに流行した「今様」でしょう。

以前に、静御前の白拍子という職業(3月1日参照>>)のところで、少し書かせていただきましたが、静御前をはじめとする白拍子たちが、その歌に合わせて舞を舞った今様というのは、和歌と違って五・七・五のような決まりはなく、歌うための歌として作られた物で、リズミカルで語呂が良く、歌詞にも、当時の世相を盛り込んだ、まさに流行歌・・・今でい言うヒット曲=Jポップです。

少し例をあげますと・・・

♪仏は常に在(い)ませども 現(うつつ)ならぬぞ あはれなる
 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ♪

「仏は常にそばにいるのに、見ることができなくて悲しい・・・
 でも、人が目覚めぬ夜明けに、夢に見る事はあるよね」

このような、仏教的な歌詞もあれば・・・

♪舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものものならば
 馬の子や牛の子に蹴
(く)ゑさせてむ 踏み破らせてむ
 まことに美しく舞うたらば 花の園まで遊ばせむ♪

といった童謡っぽい物や、♪一つとせ~♪という歌詞で始まる「数え歌」「物づくし」なども、今様なのです。

この今様が現代に残るのは、あの後白河法皇の残した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)という書物のおかげ・・・

後白河法皇は、源平争乱の時代に、源氏と平家のハザマで、古だぬきのように暗躍し、人をたぶらかしてばかりいるようなイメージのある人ですが、こと今様に関してはかなりの熱の入れようで、現在のカラオケ好きのオッチャンさながらに、練習のしすぎで何度も声を潰したくらいだそうです。

そんな法皇が、「大好きな今様を後世に伝えたい」と書き残したのがこの書物。

「梁塵」とは、「歌の名人が歌えば、その響きによって家の梁(はり)に積もった塵(ちり)も震えた」という中国の故事から引用した物で、「秘抄」秘伝という意味です。

歌詞と楽譜で10巻、歌唱法などが書かれた口伝10巻からなってしましたが、そのうちの一部が現存する事で、ヒット曲のルーツである今様が、どのような物であったのかが、現代にも伝わっているのです。

この今様を元祖として、中世以降は、様々な歌へと枝分かれしていきます。

ある物は「わらべ歌」になり、また、ある物は民謡となり、室町や戦国の頃には・・・

♪面白の 海道くだりや 何とかたるとつきせじ
 鴨川しら川打ちわたり おもふ人に粟田口
(あわたぐち)
 四の宮河原に十禅寺 関山三里をうちすぎて
 人まつもと
(松本)に着くとの 見わたせば
 勢田のながはし 野寺
(路) しの原やかすむらん♪

・・・という、地方を旅する形式で地名を盛り込んだ当地ソングの元祖「海道下り」や、都の名所を紹介する「花の都」という小唄なども大流行します。

それが、江戸時代になって、端唄(はうた)都都逸(どどいつ)などに受け継がれ、やがて、それは、幕末・維新の頃に、民謡という物から近代的な流行歌へとさらに変化します。

皆さんよくご存知の「宮さん 宮さん」・・・これは、あの戊辰戦争(1月2日参照>>)の時に、錦の御旗をかかげて進軍した薩長の兵士たちが口ずさんだ、言わば「軍歌」の元祖です。

そして、今日の話題である大正三年(1914年)に大ヒットした恋愛ソングの元祖・カチューシャの唄・・・。

大正十年(1921年)には、お馴染みの「船頭小唄」が大ヒットしますが、こちらは、新人女優・栗島すみ子主演で映画化され、カチューシャとは逆に、歌のヒットによって映画化された第一号となります。

大正時代には中小企業だったレコード会社は、昭和に入って外国資本による大会社のビクターコロンビアポリドールなどが発足し、それまでの、あの「鉄道唱歌」(5月18日参照>>)のような、路上ライブ中心でヒットさせていく手法から、レコード会社による企画・宣伝によってヒットさせるパターンへと変わっていくのです。

そんな中、昭和四年(1929年)に大ヒットしたのが「東京行進曲」・・・これは、映画主題歌の第一号です。

雑誌・キングに連載されていた菊池寛の人気小説を、映画会社・日活入江たか子の主演で映画化し、ビクターがタイアップして主題歌を作って、ともにヒットさせる・・・もはや、現在と変わりのない手法ですね。

口伝えから、路上ライブ、そして、レコードからCDに変わり、今や、テレビやネットなど、あらゆるメディアを通じて配信されるヒット曲・・・はてさて、この先の未来は、どのような形でヒット曲が生まれていくのでしょうか?

 

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2008年3月25日 (火)

藤原一族最後の陰謀?「安和の変」

 

安和二年(969年)3月25日、左大臣・源高明が失脚する『安和の変』が勃発しました

・・・・・・・・・・・

この『安和(あんなの変』は、あの第45代・聖武天皇の即位によって、念願の外戚をゲットした藤原氏が、権力を維持するために他氏を排除し続けた中の、最後の事件となる物です。

何度も出てきてはいますが、もう一度、説明させていただきますと、この外戚(がいせき)というのは、母方の実家の事・・・。

天皇中心で政治を行っているこの時代は、政治の実権を握るためには、天皇により近い位置にいる事が重要ですが、ご存知のように、天皇家は男系男子が代々継承していくわけですから、当然、天皇のお父さんは絶対に天皇家

天皇家以外の人が実権を握るためには、娘を天皇の奥さんにして、その二人の間に生まれた子供が天皇になれば、天皇の母親の実家として、確実に政治に関与できる・・・これが外戚です。

聖武天皇の時に、皇族以外で初めて天皇の外戚となった藤原氏は、あの『長屋王の変(2月12日参照>>)以来、娘を天皇に嫁がせては、権力の座に近づこうとする他の氏族を抹殺し続けて、その位置をキープし続けていたわけです。

あの『応天門炎上事件』(9月22日参照>>)も、その一つであろうと思われますが、そんな中、今回の事件の発端は、第63代・冷泉(れいぜい)天皇に始まります。

この冷泉天皇という天皇は、なかなかのイケメンだったそうですが、病弱であるうえに、奇行が目立つ人でもありました。

それゆえ、冷泉天皇が即位した直後から、早くも次ぎの皇太子が模索される事になるのですが、その有力候補は、現在の冷泉天皇の弟である為平(ためひら)親王守平(もりひら)親王の二人・・・この二人の中では、兄であり、より優秀でもある為平親王が最有力でした。

当時の政界での実力者は、関白太政大臣藤原実頼(さねより)左大臣源高明(たかあきら)右大臣藤原師尹(もろただ)の三人・・・。

この中の源高明の娘が、実は為平親王の妻となっていたのです。

実頼も師尹も、現時点では、未だ外戚はゲットしていませんから、このままでは、高明にトップの座を奪われる!・・・はずでしたが、なぜか、康保四年(967年)9月、守平親王が皇太子に立つのです。

そして、その2年後の安和二年(969年)3月25日源満仲(みつなか)藤原善時(よしとき)という二人の人物が、橘繁延(しげのぶ)源連(つらね)が、守平親王の皇太子を廃し、為平親王を擁立しようという謀反の計画を立てている」と朝廷に密告します。

もちろん、謀反の企てをした二人は捕まりますが、この時の「守平親王の皇太子を廃し、為平親王を擁立しよう」という所から、高明にもとばっちりが・・・

早速、翌・26日には、高明邸が検非違使(警察)に包囲され、即座に「天皇を廃した罪により、大宰権師(だざいごんのそつ)にする」という命令が下されるのです。

大宰権師とは、九州・大宰府の長官である大宰師(だざいのそち)に次ぐ重要ポストではありますが、実際には、菅原道真の一件(1月25日参照>>)でおわかりの通り、地方への左遷以外の何物でもありません。

これが『安和の変』と呼ばれる事件・・・高明は、完全に中央がら排除される事になりました。

ところで、冒頭で「藤原氏が、権力を維持するために他氏を排除し続けた中の、最後の事件」・・・と書かせていただきましたが、そうは言っても、これらの事が、藤原氏の陰謀であるという確かな証拠はありません。

ひょっとしたら、守平親王が皇太子になったのも、謀反が発覚して、そのとばっちりで高明が罪に問われ失脚したのも、藤原一族のまったく知らぬ所で起こった事なのかもわかりません。

なんせ、その首謀者・中心人物となるべき人がまったくわからないのですから・・・。

実頼は関白という高位ではありますが、すでに年齢が70歳前後で、先にも書きましたように外戚でもありませんから、高明を失脚させても、自分が得になるのやら、ならないのやら・・・まして、謀反の一件の時には、まったく関与しておらず、後から報告を受けただけとなっています。

師尹は、まだ48歳・・・しかも、謀反の時には、公家たちを集めて、対応を協議していますが、彼も外戚ではないので、高明が失脚しても、権力が転がり込んで来るかどうかはわかりません。

その他、天皇の叔父にあたる藤原伊尹(これただ)藤原兼通(かねみち)藤原兼家(かねいえ)らは、守平親王が天皇になってからこそ摂政などになっていますが、この時点ではまだまだ下位の人物でした。

どれもこれも、大いなる陰謀の首謀者となるには、決定打がないような気がしますが、やはり藤原一族は、とてつもなくアヤシイ・・・。

個人的には、ひょっとしたら、アガサクリスティの推理小説のように、首謀者なしの全員が・・・てな感じがしないでもありません。

とにかく、この『安和の変』によって、脅威と呼べる勢力のすべてを、葬り去る形になった藤原氏・・・この先は、あの藤原道長の全盛期(10月16日参照>>)へと突っ走り、その後は藤原氏同士の権力争いへと突き進んで行く事になります。

 

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2008年3月24日 (月)

壇ノ浦合戦~潮の流れと戦況の流れ

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、源平争乱のクライマックス『壇ノ浦の合戦』がありました。

・・・・・・・・

一の谷の合戦鵯越の逆落とし>>忠度の最期>>青葉の笛>>)、
屋島の合戦嗣信の最期>>扇の的>>)と敗北を続け、
さらに、西へと逃れ、本州最後の下関(山口県)に近い彦島へと後退した平家

いよいよ源氏軍が迫ってきた知らせを受けた平家は、亡き清盛の三男・平知盛を総大将に、壇ノ浦での迎撃を決意します。

源氏の総大将・源義経八艘飛びや、哀れを誘う安徳天皇身投げのシーンなどが、ドラマなどで描かれる事が多く、しかも、ここで平家が滅亡してしまうという結果も相まって、何かと源氏の圧勝のように思ってしまうこの壇ノ浦の合戦・・・かく言う私も、昨年の今日のブログで、『先帝の身投げ』を書かせていただきましたが、実は途中までは、むしろ平家の圧勝で、本来なら平家が勝っていてもおかしくはない戦いだったのです。

・・・・・・・・・・

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、白々を明けた瀬戸内の海・・・。

東には、白旗をなびかせる源氏の軍船・3千余艘。
西には、安徳天皇の御座船を囲んで、赤旗たなびく平家の軍船・千余艘。

Dannourakassenzucc 壇ノ浦の合戦

この壇ノ浦という場所は瀬戸内の中でも、屈指の潮流の速度とその変化の激しい場所です。

この日の潮の流れを見てみると・・・
5時10分:高潮西流
8時30分:西流から東流に変化
11時10分:東流最速
15時:東流から西流に変化
17時45分:西流最速
20時30分:西流から東流に変化
・・・となっています。

この流れが変化するひとときは、ほぼ潮流がストップ事になるのですが、もちろん、海に強い平家は、この潮流の変化も計算しつくしての挑戦です。

・・・と、開戦の前に、早くも、平家と源氏の軍勢の違いが浮き彫りにされます。

屋島直前の時(2月16日参照>>)と同様、またしても、モメる源氏軍・・・

その日の先陣を願い出る梶原景時に対して、源義経は・・・
「アホか!一番は俺やっちゅーねん」
と、譲りません。

「大将軍が先陣をきるなんて、カッコ悪い事しなはんな」
と景時が言うと・・・
「大将軍は鎌倉におる兄貴(頼朝)やんけ!俺は、お前らと一緒・・・侍大将みたいなモンやっちゅーねん。」

「義経はんは、所詮小物やなぁ・・・リーダーには不向きや」
・・・と、景時。

「何やと!アホぬかせ!」
と、義経は刀に手をかけ、景時は景時で・・・
「大将軍が鎌倉殿(頼朝)で、義経はんが、俺らと格が一緒やねんやったら、遠慮する事ないワケやんな」
と、これまた刀に手をかける・・・

結局は、まわりの落ち着いた人々が止めに入り事なきを得ましたが、もう、二人とも大人なんだからぁ・・・と言いたくなるような光景です。

一方の平家は・・・
「どんな勇士でも、運命には逆らえんねから、負ける時は負けるかも知れん。
けど、東の田舎侍に、バカにされるようなカッコ悪い負け方はしたないしな。
後々の語りぐさとなるように、命惜しまんと戦おや」

と、知盛が言うと・・・

上総悪七兵衛が・・・
「あいつら、陸での戦いには慣れてるやろけど、船に関してはシロウトや。
魚が木に登ったようなモン・・・近づいて来たら海に投げ込んだるわ」

越中次郎兵衛も・・・
「どうせやったら噂の義経と・・・アイツは背ぇが低ぅて、色白の出っ歯やさかい、見つけやすいはずやけど、ごっつい甲冑着てると、見分けられるかなぁ」

「いや、大丈夫・・・あんなヤツ、俺が小脇に抱えて大阪湾に・・・いや、瀬戸内海に沈めたるっちゅーねん」
と、コチラは皆さん、チームワークばっちりです。

そうこうするうち、午前6時、平家の挑戦によって合戦が始まるのです。

そう、海を知り尽くした平家は、先ほどの潮の流れを考えての戦闘開始です。

この時点での潮の流れはゆっくりとした西向き・・・しかし、一時もすれば、流れは止まり、今度はゆっくりと東向きに、そして、戦況が山場に入った頃には、平家に有利な東流のピークとなります。

おそらく、平家の計算では、東流の最速を過ぎた正午頃には決着をつけるつもりだったでしょう。

船団を3隊に分け、先陣・500艘、第2陣・300艘、第3陣には平家の公達自らが乗り込む200艘が、整然と進軍します。

そこで、先陣に乗り込む兵藤次透遠(ひょうどうじひでとう)率いる山鹿勢は、弓の名手・500名を最前列に置き、一斉に矢を放ちました。

これには、結局ゴリ押しで、源氏軍の先陣となった義経も大慌て・・・たちまち窮地に追い込まれます。

この時、陸から見ていた源氏軍の和田義盛の軍勢が、慌てて馬に乗ったまま海に入り、そこから平家の船団に向かって必死で矢を放っているくらいですから、まさに、開戦直後にアブナイ場面が展開された事がわかります。

そして、終始、平家軍有利に合戦が展開される中、やがて、例の東流の最速の時間帯がやってきます。

源氏軍は、千珠満珠という小島のあたりに追い詰められ、もはや、絶体絶命・・・しかし、ここで、義経お得意のとっぴな発想のお出ましです。

義経は、味方の軍に、敵の戦闘員を無視して、船を操るこぎ手や舵取りを、矢で狙うように指示するのです。

それは、今まで誰もやらなかった作戦・・・思いつかなかったのではなく、掟破りの暴挙!
武士にあるまじき卑劣な作戦
です。

しかし、考えれば、合戦=戦争にルールを守る必要はないワケで、ズルイもクソもあるはずもなく、軍を率いる大将としては、当然と言えば当然です。

この義経の作戦は、見事成功!

なんせ、潮の流れは、東向きのピークに達しようとしているわけですから、こぎ手と舵取りを失った船は、勝手に源氏軍の待つ東に向かって、ひょろひょろと流れてくるのです。

そこを一気につかれたなら、平家にとってはひとたまりもありません。

またたく間に、先陣と第2陣は総崩れとなり、戦況は源氏有利に変わったのです。

やがて、午後3時頃・・・潮の流れは、ピタリと止まり、今度は源氏の進攻を助けるかのように、ゆっくり西へと流れを変えていきます。

この時、平家の運は尽きた・・・という事になります。

それは、この合戦に参加していたすべての武将が感じとった事・・・これを境に、九州や四国から、平家の呼びかけに答えて参戦していた武将たちは、次々と源氏へと寝返るのです。

もちろん、平家の総大将・知盛にも、この戦況の変化は痛いほどわかりました。

Kikuningyouyositunedannoura1000a
2005年枚方菊人形・義経~壇ノ浦の場面

この後、昨年のブログで書かせていただいた通りの知盛が、安徳天皇の乗った御座船へと戦況を伝えるシーン(2017年3月24日参照>>)へと展開していく事になります。

 

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2008年3月23日 (日)

京都・四条大橋から五条大橋を歩いてみませんか?

 

大正二年(1913年)3月23日、京都の四条大橋が開通しました

・・・という事で、今日は、四条大橋をスタートして、あの義経と弁慶の出会いの場である五条大橋まで、のんびりと京都の町を歩いてみましょう。

のんびりと・・・というのも、今回は、少しマニアックな・・・いえ、ツウなほうの道をご紹介します。

Sizyougozyoucc 祇園の界隈を、四条から五条へ散歩すると言えば、一般的には八坂神社から「ねねの道」を通り、高台寺へ・・・そして、二年坂・産寧坂から清水寺へというコースをたどります。

もちろん、そちらも京都らしい・・・いえ、むしろ、京都を代表するような場所・・・華やかで雅な京都が楽しめますが、今日ご紹介するのは、その道から二本西の道(小さい路地が何本かありますが・・・)

こちらは、静かで渋い、落ち着いた京都が楽しめます。

では、参りましょう。

条大橋を東へ・・・四条通りを進むと、どんつきが八坂神社の楼門。
その少し手前を右(南)に曲がったところの道が花見小路です。

Sizyougozyouhanamikouzicc_2 お茶屋さんが並ぶ石畳の道は、まさに京都・・・舞妓さんが歩いて来そうな雰囲気満載!

やがて、左側に京都甲部歌舞練場が見えて来ると、正面には建仁寺の門。

門をくぐると、禅寺らしい境内が広がります。

建仁寺は、日本にお茶を伝えたと言われる栄西(10月31日参照>>)が中国の百文山の殿堂を模して建立した臨済宗のお寺・・・日本最古の禅寺です。

Sizyougozyoukenninniwacc 建仁寺の潮音庭

あの俵屋宗達風神雷神屏風や襖絵が有名ですが、何と言っても落ち着くのは、潮音庭をはじめとするお庭の数々・・・。

Kenn_2 お庭が眺められる場所には、赤い毛氈が敷かれていたり、椅子が置かれていたりと、「じっくり眺めて下さい」と言わんばかりの配慮・・・誘われるまま、のんびりとした時間を過ごせます。

方丈、法堂、三門を巡って、南側の門から出ると、正面にある【←六波羅蜜寺】の看板に従って、さらに南へ進みます。

一本めの交差点・・・六波羅蜜寺へは、さらに南へまっすぐですが、ひとまず(東)に曲がって少し行くと、左手に六道珍皇寺があります。

Sizyougozyoutinnoucc 六道珍皇寺

実は、この珍皇寺の前の道がかつての五条通り、平安の昔は、この五条通りをさらに東に行ったところに鳥辺野と呼ばれる埋葬の場所がありました。

人が亡くなると、棺おけに入れ、この珍皇寺のあたりまで野辺の送りをし、ここで亡くなった人とお別れをするのです。

ここから、先は僧侶の手によって鳥辺野へ運ばれ、埋葬されました。

ここは、あの世とこの世の分岐点=冥界への入り口とされ、六道の辻と呼ばれます。

この珍皇寺には、以前ブログでご紹介した小野篁(たかむら)が、毎夜、冥界へ通ったという井戸(12月15日参照>>)も残されています。

珍皇寺を出たら、もとの道を戻って、先ほどの交差点を(南)に、六波羅蜜寺へと向かいます。

このあたり一帯は、かつて栄華を誇った平清盛以下、平家の人々の邸宅があった場所。

最盛期には、その数が5200軒もあったと言いますから、その繁栄ぶりも凄い・・・。

やがて、見えて来る大きな門が六波羅蜜寺です。

Sizyougouzyourokuharacc 六波羅蜜寺

ここには、有名な空也上人(9月11日参照>>)の立像、平清盛の坐像があり、踊り念仏でも知られています。

熱病に犯されてその生涯を閉じた清盛・・・その遺言通り、清盛のお墓という物は存在せず、塚とよばれる供養塔だけが、この六波羅蜜寺にひっそりと残されています(2月4日参照>>)

六波羅蜜寺からは、中学校の横の細い路地を通って、五条通りへ出ます
このあたりは、京都らしい細い路地が入り組んでいますが、南に向かって進めば、大抵の路地は五条通りに出ます。

5zyoucc 五条通りへ出たら(西)に向かって、五条大橋・・・
鴨川を渡ったところに、義経と弁慶の出会いの記念として、かわいい銅像が立っています。

 
四条大橋からここまで、建仁寺でのまったり度にもよりますが、サッと廻れば2時間程度。

なんなら、このまま清水寺へ行って、メジャーな産寧坂やねねの道を通って、四条まで戻る事も可能です。

一度目の京都で、メジャーな祇園を歩かれたかた・・・
ぜひ、次は、建仁寺~六波羅蜜寺を歩いてみてくださいね。
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2008年3月22日 (土)

出歯亀事件・発生

 

明治四十一年(1908年)3月22日、東京西大久保で、女性が殺害される事件が発生し、後日、逮捕された犯人のあだ名から、この事件は『出歯亀事件』と呼ばれ、以来、「デバガメ」という言葉が、女性の裸をのぞき見る行為の代名詞となりました。

・・・・・・・・・・・・

明治四十一年(1908年)3月22日の夜、東京・西大久保の空き地で、口に手ぬぐいを押し込まれ、窒息死している女性の遺体が発見されます。

被害者の女性は27歳の人妻で、銭湯からの帰り道に事件に遭遇・・・口の手ぬぐいは銭湯で使用したと思われる濡れ手ぬぐいでした。

当時、この事件は、新聞紙上で大きく報道され、読者の反響の大きさから、警察は、その威信を賭けての大捜査を行います。

結果、3月31日になって、植木職人池田亀太郎という男が逮捕されます。

この時の、犯人逮捕の新聞報道で、職人仲間の話として、亀太郎が「出ッ歯の亀と呼ばれていた」事や、「銭湯の女湯のぞきの常習犯だった」と書かれてた事から、「のぞき行為」の事を「デバガメ」と言い、この言葉が大流行したのです。

最初は、「死刑か無期か」と騒がれたこの事件ですが、やがて4月も半ばに入った頃から、亀太郎の弁護士が「彼は真犯人ではない」という証言をした事で、その様子が徐々に変化し始めます。

・・・というのも、亀太郎の言い分によると・・・
「警察での取調べの時に拷問があり、刑事の圧迫に屈して、心にもない自白をしたが、実際には、まったく知らない事である」というのです。

亀太郎の自白と鑑定結果のくい違いもあり、また、自白以外の証拠がない事もあり、その後、事件は裁判の場で争われる事になるのですが、亀太郎は一環して無実を主張していました。

しかし1年後の3月の東京地裁の結果は、強姦致死を認定し、亀太郎には無期徒刑の判決が言渡されます。

もちろん、亀太郎は上告しますが、大審院は、それを却下。
判決は確定し、亀太郎は服役したのです。

わたくし事ですが、つい最近、テレビで「それでも僕はやってない」というのを見たばかり。

また、知人の女性と組んでの「美人局(つつもたせ)的な痴漢事件」発覚のニュースもありました。

そういう話を聞くと、明治の時代だったとは言え、自白だけでの逮捕&有罪というのに、不安を感じてしまいますね。

結局、亀太郎が、無実だったのか?真犯人だったのか?

今となっては、知るよしもありませんが、もし、無実だったとしたら、「出歯亀」という言葉が、最近はめっきり使われなくなった事で、天国の亀太郎さんも、少しは、心休まる時を過ごしていらっしゃるのではないでしょうか。
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2008年3月21日 (金)

秀吉の紀州征伐と根来寺の数奇な運命

 

天正十三年(1585年)3月21日、羽柴(豊臣)秀吉が、紀伊に進撃!・・・『紀州征伐』を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・

織田信長の死後、孫の三法師を後継ぎに祭り上げ、その後見人となって実権を握る羽柴(豊臣)秀吉は、賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で織田家重臣・柴田勝家を破った後、信長の三男・神戸信孝を自刃に追いやり(5月2日参照>>)次々とライバルを消去していきます。

その勢いに脅威を感じた信長の次男・織田信雄(のぶお・のぶかつ)が、徳川家康を頼った事によって、天正十二年(1584年)3月に秀吉VS家康+信雄小牧・長久手の戦いが勃発した事は、つい先日、書かせていただきました(3月13日参照>>)

その小牧・長久手の戦いの時に、家康や信雄とともに、秀吉を悩ませたのが、当時、未だ手付かずで自治区のような状態になっていた紀伊(和歌山県)でした。

合戦の時には、根来寺の雑兵を中心とする根来衆と、紀伊に根を置く雑賀(さいが・さいか)太田党といった者たちが、家康の呼びかけに答えて、大坂でゲリラ的なテロ行為を行ったり、羽柴方の岸和田城を襲ったり(3月22日参照>>)という事を繰り返していたのです。

ところが、その後、合戦の決着がついていないにも関わらず、秀吉の誘いに乗ってしまった信雄が単独で講和をしてしまい、小牧長久手の戦いは、勝敗がウヤムヤのまま一連の合戦の幕は下ろされてしまいます(11月11日参照>>)

翌年になって、安芸(広島県西部)毛利輝元小早川隆景の参戦を取り付けた秀吉は、その報復とばかりに、紀伊へ手を伸ばすのです。

天正十三年(1585年)3月21日、輝元と隆景の水軍が紀州沖で構える中、秀吉は6万(10万とも)の大軍を率いて進撃を開始・・・その日のうちに泉州千石堀城を落します。

この知らせを聞いた根来衆は、自ら、和泉畠中城に火を放ち退却・・・羽柴軍は、その勢いに乗って、次々を砦を落して進軍していきます。

その間に、もともと内紛を抱えていた雑賀衆を寝返らせ、23日には、根来衆の本拠地・根来寺を焼き討ちするのです。

坊舎2700、僧侶6千人・・・当時、全盛期であった根来寺は、一山ことごとく焼き払われ、学頭の玄宥(げんゆう)僧正は、命からがら高野山へと身を隠します。

雑賀党が寝返り、根来が焼け、残ったのは太田党のみ・・・。

太田党の武士千人と心を寄せる領民・・・合わせて3千が籠る紀伊太田城を、いよいよ羽柴の大軍が取り囲みます。

以前から度々書かせていただいているように、城攻めは秀吉の得意分野・・・ここで慌てて力攻めに走るような事はいたしません。

秀吉にとって幸いな事に、太田城は紀ノ川べりに構築された平城。

そうです。
あの備中高松城攻め(4月27日参照>>)で行った『水攻め』を決行するのです。

秀吉から、その命を受けた明石則実(のりざね)は、3月25日から堤防の構築を開始し、高さ3m~5m、延長6kmにも及ぶ堤防を、わずか6日間で完成させ、4月1日には川をせき止めて水が入り始めます。

おりからの雨も相まって、またたく間に太田城は湖中の孤立状態となってしまいました。

そこへ、船で押し寄せる羽柴軍と、ゲリラ的に船底に穴を開けて転覆させる太田党・・・。

しかし、孤立した城の籠城という物には、やはり限りがあります。

長引けば長引くだけ、城内の士気も低下し、餓死者の数も日を追うごとにどんどん増えていくのは必至。

やがて4月22日、太田城主・太田左近は降伏・・・左近ら主要メンバー50人余りが自刃し、太田城は開城され、秀吉の紀州征伐は終了しました(3月28日参照>>)

ところで、秀吉によって焼き尽くされてしまった根来寺・・・。

秀吉の後に天下を取った家康は、大坂夏の陣(5月8日参照>>)で大坂城を落城させたすぐ後、生前の秀吉が幼くして亡くなった愛児・鶴松を弔うために建立した祥雲禅寺を、そっくりそのまま、根来寺の復興のために寄進します。

祥雲禅寺は、その名を五百仏頂山(いほぶつちょうざん)根来寺智積院と改められる事になります。

そう、現在、京都の七条通りに東の端に位置する智積院(ちしゃくいん)です。

幾度かの火災に遭い、金堂などを失ってしまいますが、その美しい庭園には、一部、祥雲禅寺時代に造られた部分も残っていて、華やかな桃山文化の面影を今に残しています(2月24日参照>>)

Tisyakuinnegorocc ↑智積院の庭園(祥雲禅寺時代のあたり)

秀吉から家康へのバトンタッチで、歴史の波に消えたお寺が、再び歴史の波で浮上する・・・その数奇な運命は、まさに、戦国の世を痛感させられます。
 

智積院への行き方や地図はHPでどうぞ→
 

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2008年3月20日 (木)

幕末遣欧使節・池田団長が日本人で初めてした事は?

 

元治元年(1864年)3月20日、池田筑後守長発を団長とする第二次遣欧使節団がフランス外相と会見しました。

・・・・・・・・・・・・・・

先日、書かせていただきましたように、あちらこちらで珍道中を繰り広げながらも、スフィンクスの前で楽しく記念撮影なんぞして、旅を続けていた池田筑後守長発(いけだちくごのかみながおき)団長以下34名の第二次遣欧使節団(2月23日参照>>)

その後、いよいよパリに到着し、元治元年(1864年)3月20日フランス外相と面談しました。

さすがに、この遣欧使節団の一番の目的であった横浜港の閉鎖については、受け入れてはもらえなかったものの、その一年前に起こった攘夷派浪士による「フランス軍士官殺害事件」については、被害者の遺族に扶助金を支払い、幕府に成り代わり正式に謝罪するという大役を立派に果たしました。

27歳の若き団長・池田長発さん・・・とりあえずはホッと胸をなでおろしたことでしょう。

そして、血気盛んなお年頃にヨーロッパの実態を目の当たりにした彼は、むしろ開国の重要性に気づく事になります。

先の、横浜港閉鎖の話し合いは、失敗に終ったと言うよりは、むしろ、彼が途中で打ち切ったと言ったほうが良いでしょう。

「日本は開国すべきだ」
彼の考えは、日本を出る時とは180度変わったのです。

そんな彼が、いかにフランスに好意を持ったかが垣間見えるエピソードがあります。

実は、このフランス旅行の中で、日本人で初めて名刺を使った人が彼なのだとか・・・。

Ikedameisicc_2 それまで、日本人が使っていた名刺というのは、中国から伝わった物で、竹や木を削った物に名前などを書いた木札のような物でした。

それを、現在の私たちが思い描くような、いわゆる名刺と呼ばれるシロモノを作ったのは、この長発さんが第一号なのだとか・・・。

フランスの現地の印刷屋に注文して作らせたのですが、そのデザインは、池田家の揚羽蝶の紋の下に、自分の姓名を書いた物・・・紙製で銅版印刷だったと言います。

もちろん、当時は、外国人との公式な場で使用する物で、一般の人が社交辞令で使用するようになるのは、明治も30年代に入ってからです。

・・・て事は、長発さん、今日のフランス外相や、ナポレオン3世に謁見した時にも、サッと揚羽蝶の名刺を差し出したりなんかしたんでしょうかねぇ・・・かっこいいなぁ(*゚ー゚*)。

逆に、現在の日本ではビジネスの場で名刺を乱発するようになりましたが、外国では今でも正式な場所でしか名刺を出さないんだそうです。

そんなフランス文化にどっぷりハマッた長発さん・・・たくさんの本をお土産に帰国した彼は、すっかり開国派になっていて、その事を幕府に申し立てますが、逆に、石高を減らされるという処罰を受けてしまいます。

慶応三年(1867年)には、許されて、軍艦奉行に任ぜられますが、結局、彼は故郷に帰って、後輩の育成に力を注ごうと学問所の建設を計画します。

自ら「心学館」と名付け、たいへんな思い入れようだったそうですが、残念ながら志半ばの43歳で病に倒れ、その夢が叶う事はありませんでした。

ところで、以前の使節団の記事をupした時に、相互リンクしていただいてる【徳川将軍家と大奥のブログ】清正さんに、池田長発さんが、なかなかのイケメンである事を教えていただいて、「これは一つ、そのご尊顔を拝見しなければ・・・」とネットで探したところ【東京大学附属図書館のHP】で見る事ができました。

追記:現在はwikiで見られます↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%99%BA

なるほど・・・
なかなかの男前・・・と、いうか、今風のイケメンですね。
もこみちタイプ・・・(*゚ー゚*)

幕末の頃の写真って、武士らしく見せようと、かしこまって踏ん張ってる感じの人が多い中、ポーズと雰囲気まで今風です。

これなら、日本初の名刺の話も、うなづける気がします。
28歳の頃の写真のようなので、まさに、この遣欧使節団の頃ですね。

知性と教養を持ち、大いなる希望を抱いた人が、年若くして・・・まして、志半ばで亡くなってしまうというのは、どうしても心を傾けてしまいますね。
 

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2008年3月18日 (火)

宇都宮釣天井の仕掛け人・亀姫のド根性

 

永禄三年(1560年)3月18日、徳川家康長女・亀姫(後の加納御前・盛徳院)が誕生しました。

・・・・・・・・・・

とかく戦国の姫君というのは、自らの意思とは関係なく、同盟や駆け引きのための道具として政略結婚の果てに、非業の死を遂げたり、寂しい晩年を送る事が多い・・・。

先日書かせていただいたばかりの、おつやの方(3月2日参照>>)は、「城と民を守るか」「同盟を重んじるか」のはざまで揺れ、最後には、甥・織田信長の手で悲しい最期を迎えます。

そんな信長が大事にしていたお市の方(4月24日参照>>)でさえ、戦国の波に翻弄される事となります。

そんな中で、この徳川家康の長女・亀姫は、独特な生き方をした女性・・・それは、ひとえに彼女の負けん気の強さ、したたかさ、執念深さ、そしてド根性のなせるワザ!

彼女が生まれたこの永禄三年(1560年)3月18日とは、そう、桶狭間の戦い(5月19日参照>>)の2ヶ月前・・・彼女はわずか生後2ヶ月にして、歴史の渦中に飲み込まれる事になります。

もちろん、彼女のお母さんは、この時、桶狭間に散った今川義元の姪・瀬名姫(後の築山殿)です。

奇しくも、義元の死によって人質生活から開放された父・家康(元康)でしたが、今川衰退の後、駿河(静岡県東部)に手を伸ばした武田信玄と、一旦は同盟を結んでいたものの、やがて起こった三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)では手痛い敗北を喰らってしまいました。

やがて、成長した亀姫に縁談の話が舞い込んできます。

三河北部に位置する長篠城主奥平貞能(おくだいらさだよし)の嫡男・貞昌・・・。

長篠は、その頃、武田の傘下にありましたが、家康としては是非とも手に入れておきたい守りの要所です。

当時の家康は、まだまだ三河(愛知県東部)の田舎大名でしたが、奥平は、さらにその下の土豪に毛の生えたような身分・・・完全に格下の家に長女を嫁に出すとは、いかに、家康が、長篠を手に入れたかったかがわかります。

逆に、奥平からすると、願ってもない良縁・・・一も二もなく、この縁談を承諾する貞能でしたが、それは、イコール武田から徳川に寝返るという事になります。

当然の事ながら、武田がこの事態を見過ごすわけがなく、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼が、大軍を率いて長篠城を包囲します。

もう後へは退けぬ奥平も、天下の武田の騎馬隊相手に、自分たちだけでは、到底、防ぎようもありませんから、早速、貞能は、家康に救援を要請(5月16日参照>>)・・・さらに、桶狭間以来、全国ネットに躍り出た頼れる信長も救援に駆けつけ、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)が勃発するのです。

家康と信長が到着するまでの間、未だ若き21歳の貞昌は、勝頼の攻撃に耐えに耐え、見事、長篠城を守り抜きます。

ご存知のように、長篠の合戦は、織田・徳川連合軍の勝利に終るのですが、これには、武田方からの再三の開城要求に応じなかった貞昌の力に負うところも多く、信長は大いに喜び、貞昌に自分の一字を取って信昌という名前を与え、彼は、美濃加納10万石の大名へと大出世を果たします。

貞昌改め信昌の妻となった亀姫は、その後、加納御前と呼ばれるようになります。

しかし、彼女の試練はこの4年後・天正七年(1579年)にやってきます。

そう、謀反の疑いをかけられた兄・信康と、母・築山殿が、父・家康の手によって死に追いやられる(8月29日参照>>)という悲劇が起こってしまうのです。

戦国の世とは言え、亀姫の心情はいかばかりであったでしょうか・・・と、これなら、戦国女性の典型である政略結婚させられた他の姫君と同じやん!っと思ってしまいますが、ここからが、彼女の他の姫君とは少し違うところです。

ここで、悲しみに打ちひしがれ、ヨヨ・・と泣き崩れるような女であったなら、おそらくは多くの名も無き戦国女性の中に埋もれていた事でしょうが・・・そうはならなかった・・・

きっと彼女は、この試練によって、一段と強くなったに違いないのです。

「世は戦国・・・だからこそ、自分を守れるのは自分だけ。
何としてでも勝ち抜いてみせる」
と心に誓った・・・亀姫はそんな女性だったのです。

彼女の本領は、徳川の世となって発揮されます。

元和元年(1615年)、夫・信昌の死とともに、彼女は、すでに独立して、宇都宮10万石の城主となっていた息子・家昌のもとに身を寄せます。

しかし、その家昌が若くして亡くなってしまい、その息子・・・亀姫にとっては孫に当たる奥平忠昌が、わずか7歳で家督を継ぐ事になり、かわいい孫を盛りたてるおばあちゃんとしては大いに腕の見せどころとなったのですが、なにぶん当時の宇都宮は、徳川にとっては東北の玄関口となる重要な場所。

2代将軍となった異母弟の徳川秀忠から「やはり幼い領主では・・・」との提言があり、結局、江戸に近い古河へのお引越しとなります。

もちろん、それは亀姫も理解していました。

宇都宮が要所なのもわかっていましたし、お引越しに際しては、1万石の加増もされ、納得して引越し準備に当たっていたのです。

ところが、そんな彼女のもとに、とんでもないニュースが飛び込んできます。

「宇都宮城の後任に入ってくるのは、亡き家康に寵愛された本多正純で、しかも15万石に加増されての宇都宮入りである」と言うのです。

実は、彼女の娘の嫁ぎ先であった大久保忠常の父・忠燐(ただちか)が、少し前に不可解な改易を言渡され、娘が寂しい思いをしていたのですが、その一件には、大久保家のライバルだった本多正信正純親子が、関与しているとのもっぱらのウワサだったのです。

「そんな、うっとうしいヤツが、しかも15万石の加増で、後任に入るなんて!」

はらわたが煮えくり返る思いの彼女は、宇都宮城の植木や畳、建具のいっさいがっさいを持って引越しを決行します。

奥さん怒ってます!

家出した奥さんが、家具のいっさいがっさいを持って行き、夫が帰宅した家には、電話だけがポツンと・・・そんな光景が目に浮かびます~。

しかし、さすがにこの時は国境で見つかり、返すように要求され、一応、もとに戻しました。

なんせ、国替えの場合、一般的には私物以外は、すべて、そのまま後任に引き継ぐのがルール(総理官邸orホワイトハウスみたいな物ですから)でしたから、将軍の姉とは言えど、そのルールには従わざるを得なかったのでしょう。

しかし、彼女の怒りが収まったわけではありません。

いや、むしろ収まるどころか、さらに燃え上がる事に・・・なんせ、ルールを盾に、将軍の姉が家臣に注意される格好になったワケですから・・・

ほんに、オバハンの怨みは恐ろしい。
その後、彼女はず~っと、その仕返しのチャンスを待っていたのです。

そして、ある時、将軍・秀忠が日光東照宮に参拝する事になるのですが、この将軍の東照宮参拝のおりには、将軍は岩槻古河宇都宮に泊まるしきたりになっていました。

城主としては、腕の見せどころ・・・「ここは、一つ警備に念を入れ、しっかりと城兵を管理して将軍様の味方として心強いところを見ていただかねば・・・」

と、正純は城を修復し、鉄砲を準備し・・・と、イロイロやりはじめます。

本来なら、こういった事は先に幕府に届け出るべきところなのですが、正純としては、「おぉ・・・スゴイ!」と、秀忠にびっくりしてもらいたいという思いがあったのと、本多家は父の代からの側近中の側近だし・・・という、おごりとも言える甘い考えが相まって、彼は、幕府に無許可のまま準備を整えるのです。

常にチャンスをうかがい、日頃から相手の情勢を探るスパイを派遣していた亀姫には、彼らの行動はお見通し。
「キターーーーー(・∀・)ーーッ!」
と、ばかりに、行動を開始します。

参拝を終えて帰る秀忠に、そっと密使を遣わし
「宇都宮は、無届けで鉄砲などを買いそろえ、城を修復し、仕掛けを講じて、何やらたくらんでいるかも・・・危ないから行かないほうが良いんじゃない?」

この報告を聞いた秀忠は、急遽、予定を変更し、宇都宮へは寄らずに江戸に帰ります。

そして、当然、この一件について、後日、真実かどうか正純への詰問が行われます。

もともと、よかれと思っての様々な準備ですから、正純は否定する事なく、城の修復や鉄砲の買い入れを認め「将軍様の御ために・・・」と弁明しますが、それこそ「ルールはルール」です。

城の公共物を持ち逃げしたのとは、ワケが違います。

取りようによっては、謀反とも取れる無届の改修工事と武器調達・・・必死の弁明は一蹴され、正純は失脚する事となってしまいました。

これが、有名な『宇都宮・日光釣天井事件』です。

もちろん、これには、幕府内の権力争いも絡んではいたんでしょうが、ひょっとしたら亀姫は、そんな権力争いも計算に入れていたのかも知れません。

やがて、成長した忠昌とともに、5千石の加増を受けて、実際には釣天井など存在しなかったであろう宇都宮城に、見事、返り咲く亀姫・・・

釣天井は、将軍の頭の上ではなく、本多正純の上に仕掛けられていた・・・まさに、亀姫こそが釣天井。

戦国の女のド根性を見せて、見事、思いっきり落としてやりましたね!亀姫さん!
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2008年3月17日 (月)

森長可の屈辱~小牧長久手の戦いの中盤・羽黒の戦い

 

天正十二年(1584年)3月17日、織田信雄徳川家康連合軍VS羽柴(豊臣)秀吉で行われた小牧・長久手の戦いの一連の合戦の中で、『羽黒の戦い(八幡林の戦い』が繰り広げられました。

・・・・・・・・・・・

天正十二年3月12日の亀山城攻防戦(3月12日参照>>)を前哨戦に、羽柴秀吉の命を受けた岐阜城主・池田恒興犬山城・攻略で幕を開けた小牧・長久手の戦い(3月13日参照>>)

居城・清洲城のすぐそばまで迫られた織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)は、早速、連合を組んでいる徳川家康と軍儀を開き、家康は2日後の3月15日に小牧山城に布陣します。

しかし、家康が陣を敷いたこの小牧城山は、信雄を落すにはもってこいの場所・・・秀吉傘下の森長可(ながよし・森蘭丸の兄で池田恒興の娘婿)も、その場所を狙っていました。

3月16日、小牧山城を落すべく、犬山城西方に当たる羽黒に陣を敷いた長可でしたが、その動きは、家康もお見通し。

天正十二年(1584年)3月17日、まだ、夜も明けぬ頃・・・家康は、酒井忠次ら5000の兵を、羽黒へ進ませ、密かに長可らを囲みます。

そして、夜明けを合図に、周囲の森林へ放火をすると同時に、一斉に攻撃を仕掛けました。

不意の襲撃に慌てふためく長可の軍勢・・・しかし、何とか態勢を立て直して反撃に出ようとした矢先、その軍の移動を敗走と勘違いする者が続出!

われ先にと戦場を逃げ出す者たちに、必死に声をかけ、自ら槍を振るって踏ん張る長可でしたが、軍の混乱には、歯止めがかからず、諸兵の戦場離脱も後を絶ちませんでした。

そうこうするうちに四方を囲まれ、もはや逃げ場も失ってしまいます。

万事休す!
「ここで、命尽きたか・・・」と、思った瞬間、重臣・野呂助左衛門(のろすけざえもん)が長可に近づき・・

「ここは、私が何とかします・・・どうぞお逃げ下さい」
と、言うと、助左衛門は、自分が大将だと言わんばかりに、これ見よがしに戦場を駆け抜け、長可の身代わりとなって討ち果てました

そのドサクサに紛れて、何とか戦場を離脱する事に成功した長可・・・しかし、この屈辱は、彼の心に大きな傷となって残ります。

一方、この羽黒での有様を、秀吉が聞いたのは大坂でした。

本来なら、秀吉自ら、もっと早くに出陣するつもりでいましたが、先日の犬山城攻略のところで書かせていただいたように、家康が、「ともに戦おう!」と声を掛けた紀州雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)らの、ゲリラ戦法による度々のテロ行為によって、未だ大坂を離れる事ができずにいたのです(3月22日参照>>)

しかし、この敗戦は、そうも言っていられません。

秀吉は、直ちに兵を率いて尾張に向けて出発し、羽黒よりもさらに小牧寄りの楽田(がくでん)に陣を構えます。

この時点では、羽柴方が数万、徳川・織田方が1万5千・・・数だけで言えば羽柴方の勝ちですが、そう簡単には行きません。

実は、あの羽黒での戦いから、秀吉到着のわずかの間に、家康は、小牧城山の守りを固めるべく、その周囲に砦や土塁を築いていました。

それは、もちろん羽柴方の諸兵も同じ・・・双方ともに、強固な守りを造ったものの、そのために、おいそれと手出しができない状態となり、大軍を率いて参上したわりにはにらみ合いが続きます。

お互いに約2kmという近い場所に陣を構えていましたが、この間、最前線で大声を張りあげての悪口の言い合い(←この状況でこんなん効き目があるんかいな?)や、ちょっとした小競り合いに終始し、主力同士のぶつかり合いには至りませんでした(3月28日参照>>)

そして、月が4月に変わろうとする頃、シビレを切らしたのは、あの長可です。

彼の心に深く刻まれた敗北の屈辱が、「名誉を回復したい!」とばかりに、家康の本拠地・三河への奇襲作戦へと駆り立てるのです

それが、この一連の戦いの後半戦の開始となる長久手の戦いです。

長可は、運命に糸に引かれるがごとく、その合戦へと突入していくのですが、そのお話は、昨年の4月9日【天下は何処・長久手の戦い】ノペーでどうぞ>>

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2008年3月16日 (日)

三浦按針・漂着す~そしてヨーステンの名は・・・

慶長五年(1600年)3月16日、二年前にオランダを出航した東インド会社の船・5隻が暴風雨に襲われ、そのうちの1隻・リーフデ号が豊後(大分県)に漂着しました。

・・・・・・・・・・・・・・

慶長五年3月と言えば、あの関ヶ原の合戦の半年前・・・

このニュースを聞きつけて、早速、乗組員たちと会見した徳川家康は、天文学や造船にくわしいイギリス人航海師ウイリアム・アダムスと、海外事情にくわしいオランダ人ヤン・ヨーステンの二人を外国・貿易顧問に任命し、手厚く迎えます。

そのうち、ウイリアム・アダムスは、三浦半島に250石の領地をもらい、日本人妻と結婚し、三浦按針(あんじん・羅針盤を使う人の意味)と名乗り、この後も、江戸長崎を行き来し、日本が鎖国へと向かう情勢の中、イギリスの平戸商館の設立など、外交での大きな役割を果たす事になるのですが(5月12日参照>>)、もう一人のヤン・ヨーステンのほうは、同じように優遇されながらも、あまり、その名を聞きませんよね。

私の持ってる「日本史人物事典」(受験研究社)にも、アダムスは載ってますが、ヨーステンは載ってません。

日本では、耶楊子(やようす)と名乗り、江戸城の近くに家を与えられ、通訳などしていたそうですが・・・

どうやら、彼は、オランダでもかなりの名家の生まれで、その育ちのせいか、ちょっと高飛車なところがあって扱い難かったとか・・・結局、2代将軍・徳川秀忠とも、側近の老中たちとも、あまりウマくいかなかったようです。

しかし、人間、どこで、どう転ぶか、わからないものです。

「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」と言いますが、確かに、人物事典に載っている以上、アダムスさんは「歴史に名を残した」事になります。

そして、彼・・・ヨーステンさんは、別の形で名を残しました。

アダムスさんが住んでいた日本橋に近い一角は、江戸時代を通じて「按針町」と呼ばれていましたが、残念ながら、この町名は昭和七年(1932年)に無くなり、現在は日本橋室町一丁目となってしまいました。

そう、有名な話なので、ご存知のかたも多いでしょうが、ヨーステンさんは、地名として、その名が残っているのです。

ヨーステンさんの邸宅のあったその場所は、当時、彼の名前をとって「耶楊子河岸(やよすがし)と呼ばれていました。

それが、「八代河岸」「八重洲河岸」と変化。

江戸の初めの頃は、現在の日比谷あたりが入り江となっていて、船が発着する河岸となっていました。

明治の初め頃の地図には、現在の丸の内の南半分のあたり一帯が「八重洲町」となっているそうです。

当時、その東側にあたる外堀には、呉服橋鍛冶橋という二つの橋が架かっていて、その橋を渡らないと、堀の外へ出る事はできませんでした。

やがて、明治十七年(1884年)に、その二つの橋のまん中に八重洲橋という橋が架けられ、さらに、明治の末、鉄道が通って、そこに東京駅ができると、東京駅の八重洲橋方面へと出る出口の事を「八重洲口」と呼ぶようになります。


大きな地図で見る

結局、堀は埋められて外堀通りとなり、八重洲橋も姿を消し、東京駅の西側に位置していた、もともとの八重洲町という町名も廃止され、丸の内になってしまいますが、東京駅の八重洲口という呼び方は変わる事なく、逆に駅の東側に八重洲という地名が生まれました。

都市の成長とともに、別の位置に変わってしまった八重洲ですが、この平成の世にも、しっかり、その名を残す事になりました。

ヤン・ヨーステンさん、おめでとうございます。
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2008年3月15日 (土)

日本初の靴製造工場~靴の記念日にちなんで・・・

 

明治三年(1870年)3月15日、東京・築地に日本初の西洋靴の製造工場・「伊勢勝造靴場」が開設され、西洋靴の製造が開始されました。

その事を記念して、今日、3月15日『靴の記念日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

「ザンギリ頭をたたいて文明開化の音がする」
と言われるように、江戸から明治に変わって、政治・経済はもちろん、何もかもが西洋を目標とした新しい物へと変わっていきますが、江戸の時代から続いた一般庶民の風俗や生活といった物は、そう簡単に変えられる物ではありません。

服装もそうです。
今まで、長年、着物で生活をして来た日本人が、洋服を身に着けるようになるのに時間がかかるのは当然の事でしょう。

そんな中、まず、変わったのは軍隊です。

一般男性のほとんどは、近代化を図る軍隊で採用された西洋式の軍服で、初めて洋服という物を体験する事になります。

もちろん、服とセットで西洋式の靴も初体験します。

実は最初の軍隊用の靴というのは、徳川幕府がフランスから輸入したものの、戊辰戦争(1月2日参照>>)に間に合わず、未使用のまま大量に倉庫に保管されていた物を、元佐倉藩士で、後に御用商人となった西村勝三という人が、一足1円で引き取り、陸軍の創始者であるあの大村益次郎(11月5日参照>>)1円50銭で売りつけ、大儲けしたシロモノだったのです。

しかし、これが、やっぱ当時の人は履き慣れていなかったのか、日本人の足には、まったく合わなかったのだそうで、すべて廃棄処分にされてしまいます。

・・・で、「日本人の足に合った靴を自前で製造しよう」という事になって、その益次郎の勧めによって、その西村勝三さんが「伊勢勝造靴場」なる工場を設立して、西洋靴を製造する事になったわけです。

ただし、最初の段階では、一足作るのに数日間もかかるうえ、完成した数千足のうち、使えるのは300くらいだったという悲惨な状態だったそうですよ。

そして、その翌年・明治四年には、女性をターゲットに、「横浜ローズマンド洋服屋」がオープンします。

「本国からお取り寄せしたホンモノの反物を使い、ご注文に合わせて洋服から手袋、手ぬぐいに至るまで、すべてホンモノの流行をお届けします」との売り文句でしたが、やはり、これは、かなりの高級な商品・・・とてもじゃありませんが、一般庶民の手に入るような物ではなかったようです。

Bunnmeikaika_2 その後、明治五年に、政府が公式の礼服に洋服を採用した事により、多くの男性が着物から洋服へと変わりますが、明治六年に、外国人記者がロンドンに発進した記事によれば・・・

「日本人・・・特に女性は、服装を変えていないし、すべての人が変えるには、まだ時間がかかるだろう」との事・・・

やはり、生活習慣を変化させるのは、そう簡単にはいかなかったようですが、そんな日本は足踏みしながらも、一歩一歩、着実に文明開化へと進んでいったのでしょう。
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2008年3月14日 (金)

刃傷・松の廊下~事件を目撃した松はどんな松?

 

元禄十四年(1701年)3月14日、江戸城内の松の廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家筆頭・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に斬りかかり負傷させるという傷害事件が起こりました

お馴染み、赤穂浪士の討ち入りの原因となった『刃傷・松の廊下』です。

・・・・・・・・・・・・

あの忠臣蔵が、判官びいきで仇討ち物の大好きな日本人に、大いにウケる痛快なお芝居となったために、長年いじわるジジイの汚名を着せられていた吉良さんですが、最近では、この傷害事件は、浅野内匠頭のいきなりブチ切れる性格による逆恨み的犯行だったのではないか?という意見が一般的になりつつあります。

浅野さん本人も、自分でその事に気づいていて、心を落ち着かせる薬なんかを飲んでいたようですが、こればっかりは、そう簡単に治せる物ではありませんからねぇ・・・

浅野さんは、この時、初めての朝廷の接待役を任され、長年、それをこなしてきた吉良さんに、イロイロ教えてもらってたわけですが、何もかもご存知の吉良さんから見れば、危なっかしくて見ちゃおれない・・・「あぁしろ、こうしろ」とつい口を挟みたくもなりますわなぁ。

それで、最終的に刀を振り回されちゃぁ・・・
吉良さんとしても、おそらく、通り魔にでも遭ったような感覚だった事でしょう。

ところで、この傷害事件の舞台となった江戸城の松の廊下・・・

今年の大河ドラマ篤姫でも、高橋英樹さん演ずる島津斉彬のバックに、時々、松の廊下らしき長~い廊下が写り込んでいますが、その大河ドラマに限らず、最近の時代劇に登場する松の廊下と、以前の時代劇・・・あるいは、お芝居で忠臣蔵が演じられる時などに登場する松の廊下と、何となく雰囲気が違う事にお気づきでしょうか?

江戸城の松の廊下という呼び名は、長い廊下に、松がいっぱい描かれた襖が並んでいた事から、そう呼ばれるようになったという事ですが、私の子供の頃の印象ですと、松の廊下の襖に描かれている松は、金ぴかの背景にゴツゴツした幹の太いガッチリした松が描かれていたような気がします。

いわゆる能舞台の後ろに書かれているような松・・・
Matunorokaacc イメージとしては、こんな感じ↑でしょうか・・・

それは、長年、この松の廊下に描かれていた松を、勝手に想像して、時代劇などのセットが造られていたからなのでしょう。

しかし、大いなる発見は偶然起こります。

それは、今から20年前の昭和六十二年(1987年)11月の事・・・

東京国立博物館でも、時代の波に乗って、いよいよコンピュータが導入される事になり、今まで、把握しきれていなかった様々な所蔵の品を、一つ一つ入力して、調査整理する作業が行われていました。

以前から、地下倉庫の奥深く、江戸時代の木箱の中に、「何やら絵が書かれた巻物らしき物がある」という事は、一部の関係者には知られていたそうですが、いざ、その木箱を開けてみてびっくり・・・。

縦が45cmほど、長さが5m前後の巻物が、合計で260巻余り・・・それをつなぎ合わせると1300mにもなります。

「これは何だろう?」「ひょっとしたらスゴイ物かも知れない」
と、早速、識者による調査チームを発足して、本格的な調査に乗り出します。

この東京国立博物館には、もう一つ、幕末に活躍した狩野養信(おさのぶ)という絵師の日記もあったのですが、実は、これも、それまでは、あまり注目されていなかった資料だったのです。

しかし、それには、江戸城の「どこにどんな絵を書いたか」などという事が細かく書かれていたので、発見された絵と照らし合わせてみたところ、何と、その巻物は、江戸城の本丸・西の丸・二の丸など、主要建築物の襖や壁や杉戸の下絵である事がわかったのです。

つまり、施工の前に、「こんなデザインで、どうでっしゃろ?」と、注文主に見せて確認するための絵だったって事です。

江戸城の建物自身に関しては、平面図が何枚か残っていて、間取りなどは比較的想像しやすく、平面図を見比べる限りでは、江戸城が完成した初期の頃から、多少の違いはあるものの大きく変えられた事は無いのだそうです。

しかし、内部の障壁画に関しては、それまではまったくの無・・・真っ白な状態で、「松が描かれていたので松の廊下」と言われても、どんなデザインの松が描かれていたのかは、まったくわかっていなかったのです。

ですから、先ほどのように、時代劇のセットなどでは、想像して描くしかなかったんですねぇ。

・・・で、調査の結果、本丸や西の丸と言った、いわゆる公邸に当たる部分には、『唐様』という、しっかりとした立派な感じの絵が描かれ、大奥などの私邸の部分には、やさしい感じ『大和絵』が描かれていた事がわかりました。

ならば、松の廊下は公的な場所であるので、唐様・・・と、思いきや、なぜか、ここにはやわらかタッチの大和絵が描かれていたんだそうな。

しかも、想像していたようなデカイ松がボ~ン!というのではなく、広々とした感じの松原に浜千鳥が遊ぶ・・・という、何とも爽やかな図柄。

Matunorokabcc もちろん、素人の私に同じ絵は描けませんが、雰囲気はこんな感じ↑です。

そして、やはり、なぜ、松の廊下が、公的な場所なのに大和絵なのかは謎です。

おそらくは、松の廊下はものすご~く長かったので、長い廊下にズデ~ンとゴツゴツの松の絵を連ねると、それこそ、圧迫感ありすぎだったので、やさしい絵にしたのでは?と考えられていますが・・・あくまで、おそらくです。

しかし、理由がわからなくても、下絵が存在するのは事実・・・それで、最近の時代劇のお城のシーンでは、襖絵が何となくやわらかい感じに描かれているんですね。

でも、ドラマはドラマですから、絶対に史実の通りにしなければならないわけでもありませんし・・・できれば、浅野内匠頭の場合には、ゴッツイ松の前で大暴れしてもらいたいですね。

刃傷沙汰のバックに、ホッとする絵があると、何か力が抜けてしまうような気がしますからね。

そのほうが、浅野内匠頭の気性の激しさが、グゎンと迫って来て、ドラマも盛り上がりますよね。

赤穂浪士の討ち入りについては・・・
【大石の綿密計画~赤穂浪士の討ち入り】>>
【忠臣蔵のウソ・ホント】へどうぞ>>
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2008年3月13日 (木)

秀吉VS家康~犬山城攻略戦by小牧長久手の戦い

 

天正十二年(1584年)3月13日、豊臣秀吉に促された池田恒興が尾張・犬山城を攻略!
『小牧・長久手の戦い』と総称される一連の合戦の火蓋が切られました。

・・・・・・・・・・・・

天正十二年(1584年)3月13日、この日、徳川家康尾張に入り、清洲城織田信雄と会見しています。

そう、この『小牧・長久手の戦い』は、織田信長亡きあとの羽柴(豊臣)秀吉に脅威を感じた信長の次男・織田信雄が、徳川家康と連合軍を組んで挑んだ戦いです。

1ヶ月後の4月に起こる長久手の戦い(4月9日参照>>)と、さらに、その2ヶ月後の6月から7月にかけての蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)の、すべてをひっくるめて『小牧・長久手の戦い』と呼ばれますが、その中で3月に行われたこの前半戦は『小牧の戦い』と呼ばれます。

ただし、これは、家康が小牧山城に陣を構えた事による呼び名で、実際に小牧で合戦が行われたのではなく、今日3月13日の犬山城攻防戦と、3月17日の羽黒での戦い(3月17日参照>>)、そして、3月28日からの小牧の対峙(3月28日・小牧の陣>>)の事を言います。

そもそもの発端は、明智光秀の謀反によって、あの信長が、本能寺で突然亡くなった事に始まります。

信長の死の25日後に行われた後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)で、秀吉の推すわずか3歳の信長の孫・三法師が、その後継者に決定されてしまいます。

しかし、これは幼い三法師の後見人となって、事実上の実権を握ろうとする秀吉の思惑がミエミエ・・・納得がいかないのは、織田家で一番の重臣だった柴田勝家です。

勝家が推していたのは、信長の三男・神戸信孝・・・。

その信孝は、あの山崎の合戦(6月13日参照>>)にも参戦して、秀吉とともに光秀を討っているわけですから、信孝自身も、当然、納得がいきません。

しかし、そんな勝家が賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で秀吉に敗れ、居城・北ノ庄城で自害した時、秀吉の人たらしのワザにまんまと乗せられたのが信長の次男・織田信雄・・・彼は、この時、異母弟である信孝を攻め、失脚させてしまいます。

その後、信孝は秀吉に怨みをつのらせたまま自刃に追い込まれます(5月2日参照>>)が、当然天下を狙っているのは、秀吉自身・・・信雄のところに後継者の席が回ってくるわけがありません。

そんなこんなで、秀吉と信雄の関係がギクシャクする中、信雄は、自らの重臣・浅井田宮丸ら三人の家老を、秀吉に内通したとして暗殺してしまいます(3月6日参照>>)

この事によって、信雄と秀吉の関係は、ますます冷え切ってしまい、信雄は、秀吉に対抗できる実力者・徳川家康を頼る事になるのです。

家康としても、このまま秀吉の天下取りを、指を加えて見ているわけにはいきませんから、信雄を迎え入れると同時に、未だ秀吉の傘下とはなっていない土佐(高知県)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や、紀州(和歌山県)雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった者たちに声をかけ、東と西から、羽柴方の拠点・上方を挟み撃ちすべく計画を練りはじめます。

早速、この動きを知った秀吉が、自ら、伊勢に向かって進撃を開始!
(3月12日:亀山城の戦い>>)

その時、羽柴軍を迎え撃ったのは、信雄から伊勢の援軍として派遣されていた犬山城主・中川定成・・・しかし、不運にも定成は、この時の戦いで戦死してしまいます。

早速、秀吉はその定成を失った犬山城を攻略すべく、美濃・岐阜城主・池田恒興(信長の乳兄弟)を向かわせます。

恒興は、天正十二年(1584年)3月12日深夜、鵜飼いの小舟を一箇所に集め、木曽川を渡り、背後から犬山城に奇襲をかけ、明けて3月13日この城を攻略しました。

これは、信雄にとっては一大事。

なんせ、信雄は尾張(愛知県西部)伊勢を領地とし、清洲城(愛知県清洲市)を居城としているのですから、テリトリーの範囲内に入ってこられた・・・どころか、もう、目の前の場所を落された事になります。

そして、冒頭に書いた清洲城での、家康と信雄の会見です。
もう、これは会見というより、軍儀です。

この先、秀吉の進撃をどうやって食い止めるか?

そして、家康は、かつて信長が一時期居城としていた小牧山城に陣を張り、決戦の場所・羽黒へと向かいます。

天下に轟く両雄・・・秀吉と家康が相まみえた『小牧長久手の戦い』の幕が、いよいよ上がりました・・・と、この先を進めていきたいところですが・・・・

今日のお話の続き、羽黒での合戦のお話は、やはりその日・・・3月17日のページでどうぞ>>

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2008年3月12日 (水)

あをによし奈良の都のお水取り

 

奈良・東大寺のお水取り・・・

♪水取りや 瀬々のぬるみも この日より♪
と言われるように、お水取りが終ると奈良に春がやって来る・・・待ちに待った春を呼ぶお祭りです。

・・・と、こんなウキウキ気分は、見る側だから言える事・・・

この「お水取り」という名前で親しまれている行事は、毎年3月1日から14日まで行われる東大寺・二月堂修二会(しゅにえ)という物で、「お水取り」「お松明(たいまつ)も、その修二会の中の一つの行法にすぎないのです。

しかも、この修二会には、僧侶が世の中の罪のすべてを一身に背負い、一般の人々に代わって苦行に挑戦する事で国家の安泰を願うという厳しいコンセプトがあり、実践する僧にとっては、「春を呼ぶお祭り」なんて生易しい物ではないのです。

修二会の起源は、実忠(じっちゅう)というお坊さんが、笠置山の山奥で、菩薩様が行っていた天上界の行法を見て、「これを地上でも行いたい」と考え、そのための建物として二月堂を建立した天平勝宝三年(751年)に始まります。

その年から、今年、2008年で1257回・・・一度も欠かす事なく続けられているのです。

もともとは、旧暦の2月1日から14日まで行われていた行法で、修二会という行事の名前も、二月堂という建物の名前もそこからきているのですが、現在は太陽暦になおして3月1日からになりました。

しかし、この行に参加する僧侶11名は、すでに2月の半ばから、その準備に入ります。

特に、その年に初めて行に参加する僧侶は、新人として、他の僧侶より5日早い2月15日から準備と練習のために別火坊に入ります。

日常使っている一切の火と別れるためにその名が付いたと言われていますが、その日から本行までの2月末まで、本番の声明や行法などを、すべて暗記で行うための練習をするわけです。

この期間の前半を試別火(ころべっか)、後半を総別火(そうべっか)と呼ぶそうですが、総別火に入るとしゃべる事も、外に出る事も許されず、厳しい規律の中、ただひたすら本行の準備をするのです。

2gatudoucc_3 もちろん、準備は先ほどの練習だけではありません。

法要に使う造花や生け花・・・お餅などは1200個以上作らなければならないそうです。

そして、3月1日・・・いよいよ修二会が始まります。

それまで使っていたすべての火を消し、火打石で新たな火を灯し、これが一年間大切に使う火となります。

もちろん、お松明の火もこの新たな火が使われ、これからの14日間、様々な修行が毎日行われるのです。

  • 作法や戒めを常に確認し、破らない授戒(じゅかい)
  • 食事は一日1食で、昼食の後は一日の行が終るまで水は1滴も飲まない食堂作法(じきどうさほう)
  • 一日を六つに分けて、その時間に合わせて6回の法要を行う開白法要(かいびゃくほうよう)
  • 松明を掲げて、二月堂の階段を3度駆け上がり駆け下りる三度の案内

・・・などなど、しかも、堂内は、常に走って行動しなくてはなりません。

それは、先に書いたように、これは、もともと天上界で行われていた行法・・・天上界の一日が地上の400年なので、とにかく走って時間を縮めなくてはならないのです。

そして、いよいよ3月12日深夜・・・厳密には、日付が変わって13日の午前3時頃、二月堂下にある若狭井戸からご本尊にお供えする香水を汲み上げます。

実は、この行事が「お水取り」です。

翌日、汲み上げられた香水は、香水壷という壷に入れられますが、この香水壷は、二つあって、ず~っと昔からの香水が入った壷と、今回の新しい香水の入った壷・・・新しい香水の壷に古い香水を少し注ぎ、古い壷には新しい香水が補充されます。

これで壷の中身は、ともに1200年の時を生きてきた香水となって、また次ぎの年に受け継がれていくのです。

Otaimatucc そして、夜空を彩るお松明の炎によって、修二会はクライマックスを迎え、14日間、二月堂にて本行を成し遂げた僧侶は、15日の朝に満行を迎える事になるのです。

ところで、お松明の見物のポイントですが・・・

12日は、お水取りの本番という事で、たいへん混雑します。
14日も短い間隔で次々とお松明が連続して上がっていくので、これまた混雑します。

12日=お水取りという感覚が強いので、「お松明は12日しか見られないのでは?」と思ってるかたが多いようですが、お松明は1日から14日までの午後7時から、毎日見られるので、初めてのかたは、この12日と14日は避けて行かれたほうが賢明です。

慣れてくれば、それなりに人の少ない場所を見つける事ができますので、本番と最終日には、マイ・ベストポイントを見つけてからにしたほうが良いかと思います。

もちろん、火の粉をかぶるくらいの舞台の真下が一番でしょうが、やはりかなりの人の数で覚悟が必要です。

ワタクシ個人的には、表参道より裏参道のほうが好きなので、いつも裏参道から行きます。

2gatudouurasandoucc崩れかけた築地塀が連なった坂の向うに二月堂が見える姿は大変美しい・・・。

裏参道は、比較的まっすぐなので、けっこう遠くからでもお松明を見る事ができ、ポジションを確保するのも容易かも知れません。

二月堂と大仏殿のちょうどまん中あたりに、車の通れる道と裏参道が交差する場所があるのですが、ここは木が少なく、ちょっとした広場になっているので、少し距離はあるものの、人も少なくてよく見えます。

望遠付きのカメラを持っていれば、人の多い近くより、案外コチラのほうがベストポジションかも知れません。 

お水取りが終れば、いよいよ桜の季節・・・
♪あをによし 奈良の都は咲く花の・・・♪
待ち遠しいですね。
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2008年3月11日 (火)

武田勝頼、天目山に散る

 

天正十年(1582年)3月11日、織田・徳川の両軍に追い詰められた武田勝頼が、妻子とともに甲斐・天目山にて自害しました。

・・・・・・・・・・・・

天正三年(1575年)5月に起こった『長篠の合戦』(5月21日参照>>)

一般的には、織田信長徳川家康の連合軍が、勝頼率いる武田軍に圧勝したかのように描かれる有名な合戦ですが、もし、この合戦が、伝説のような鉄砲の三段撃ちが行われていて、織田・徳川連合軍の楽勝であったなら、武田軍も早々に撤退を開始していたに違いありませんが、合戦が8時間にも及んだという事は、伝え聞くよりは、はるかに一進一退の激戦であったであろうと思われますが・・・。

とは言え、この戦いで馬場信春山県昌景内藤昌豊といった、信玄の代からの重臣たちがことごとく散ったのも事実・・・その点では、やはり、武田の大敗と言える合戦でした。

とにかく、偉大な父・信玄を超えようと奮戦する勝頼ですが、果敢に攻めれば無謀と言われ、用心して退けば臆病と言われる・・・結局、亡き信玄を神のように崇める家臣たちと、運命の巡り合わせで後継者となった勝頼との大きな溝は、長篠の敗戦経て、ますます大きくなってしまうのです。

その溝を埋めようと、長篠で戦死した武将たちの家族や親戚に家督を継承させ、武田軍団の再編成に力を注ぐ勝頼ですが、あの無敵と言われた頃の軍団のレベルには、どうしても近づく事はできません。

そして、一方の信長と家康の勢力が、ますます強大になっていく中、勝頼はそれに対抗すべく、越後上杉謙信相模北条氏政と同盟を結ぶと同時に、守備固めとして新たな居城・新府(しんぷ)(山梨県・韮崎市)の構築を開始します。

しかし、配下の国人や領民にとって、それまで甲斐の国には無かった本格的な城郭を構築するという事は、その分、大きな負担を強いられる事となり、結局は、家臣や領民の指示を失い、反発を生む結果となってしまうのです。

そんなこんなの天正九年(1581年)、信玄亡き後の勝頼が必死の思いで奪取した(5月12日参照>>)遠江(とうとうみ・静岡県西部)高天神城家康に落されてしまい(3月22日参照>>)、ますます家臣の離反が相次ぎます。

その頃には、すでに北条と結んだ同盟も崩れてしまっていて、先代の信玄があの今川から奪った駿河(静岡県東部)の地は、家康と氏政の前に風前のともし火となってしまいます。

そして、いよいよ天正十年(1582年)1月・・・信濃(長野県)南部の武将・木曾義昌が、信長に寝返るという事件が発生します。

義昌の正室が勝頼の妹・真理姫(真龍院)であった事から、この寝返りでの動揺は武田氏を揺るがします。

怒った真理姫が、木曽の山中に隠れてしまう事でも、その影響度がわかろうという物・・・。

もちろん、勝頼としても、義兄弟の寝返りを見逃すわけがなく、すぐに兵を差し向けますが、結局、討伐に失敗・・・さらに、これは絶好のチャンス!とばかりに、織田・徳川・北条が動きます(2月9日参照>>)

まずは、信長の長男・織田信忠信濃南部から、家康が駿河から、そして氏政は関東から、武田配下の信濃高遠城に狙いを定めます。

3月2日・・・この高遠城攻めで先陣を切ったのは、あの森蘭丸の兄・森長可(ながよし)・・・高遠城の屋根に登り、彼が屋根を剥がして鉄砲を撃ち込むと同時に、重臣・各務元正(かがみもとまさ)が、降り注ぐ矢をかいくぐって城内へ殴りこみ!

長可らの奇襲作戦を進行させると同時に、開城を促する使者を高遠城主・仁科盛信(勝頼の弟)に送る信忠・・・しかし、盛信は、この開城要請を突っぱねて、壮絶な自害を遂げます(3月2日参照>>)

この高遠城は、次々と敵方に寝返る武田の武将の中で、唯一、その信念を貫き通した城でもありました。

しかし、一方では、この前日に、武田氏の一族である穴山梅雪(信君)が、家康を通じて織田方に寝返るという出来事も起こっています(3月1日参照>>)

世は戦国・・・主君と運命をともにするも武士、先を読んで有利に進むも武士
どちらが正しいとは言えないのが戦国です。

やがて、梅雪を案内人に、甲斐の領内へと進攻する家康・・・。

結局、勝頼は継室(2番目の正室)桂林院や息子・信勝らとともに、新府城に火を放ち、重臣・小山田信茂の居城・岩殿山城(山梨県大月市)へと逃走・・・

織田・徳川を防御する目的で構築された新府城は、その役目を一度も果たす事なく、炎に包まれる事になってしまいました。

この時点での勝頼ご一行は、約500名・・・しかし、この中には、奥さん子供はもちろん、侍女までもが頭数に入っていますから、もはや、ワラをもすがる思いで、何とか態勢を立て直そうとたどりついた岩殿山城で、彼らは思いも寄らぬ仕打ちを受ける事になります。

城に近い笹子峠を行く彼らに、何と矢玉が射掛けられたのです。
頼みの信茂も、すでに織田方に寝返っていました。

もはや、行く当てを失い、武田氏の先祖が自害したと伝えられる天目山を目指す勝頼たち・・・。

その道すがら、一人減り、二人減り・・・とうとう、その人数が50人ほどになってしまった頃、天目山を目前にした田野の地で勝頼一行を射程距離に納めたのは、信長配下の滝川一益でした。

「主君を討ち取られてはならぬ」とばかりに、追いすがる敵に立ち向かうは、信玄の頃からの重臣・土屋昌恒・・・この時、急な崖を背に戦う昌恒は、片手でツタを握りしめ、片手で奮戦した事から、「片手千人斬り」という伝説も生まれました。

そして、もう一人、主君の不利を聞きつけて急遽天目山に参上した小宮山友晴・・・実は、友晴は、長篠の合戦の後、そのズバズバと包み隠さず物を言う性格が災いして、勝頼から咎めを受け、その主従関係を切られていたにも関わらずの参戦です。

自身の身を盾にして、主君の最後の花道を造り出そうとする昌恒・・・。

見切りをつけて去って行った家臣が数多くいる中、勘当をものともせず戻って来た友晴・・・。

勝頼の心情はいかばかりであったでしょうか。

天正十年(1582年)3月11日・・・そんな二人の、壮絶な最期と前後して、武田勝頼は桂林院・信勝らとともに自刃します

この勝頼の継室・桂林院は北条氏康の娘・・・そのまま実家に戻れば、その命を永らえる事ができた物を、彼女はここで、夫と運命をともにし、わずか19年の生涯を閉じるのです(2010年3月11日参照>>)

ここに、戦国屈指の大名・武田氏は滅亡しました。

この後の出来事としては、信長による論功行賞をとともに、新領地に関する訓令を発布(3月24日参照>>)・・・武田の旧臣が脱げ込んだ恵林寺への攻撃(4月3日参照>>)と続きます。

Kozakuraasiodosicc_2 今日のイラストは、
武田家代々の家督継承の証しであった源義光伝来の『小桜葦威鎧(こざくらあしおどしよろい)の紋様を、春らしい色合いで描いてみました。

楯が無くてもやりや刀を通さないという意味で、別名『盾無鎧(たてなしのよろい)とも呼ばれるこの桜模様の美しい鎧・・・敵に奪われる事を案じた勝頼は、天目山に向かう途中、この鎧を外して近くのお寺に隠したという事です。
 

現在、その小桜葦威鎧は、甲府市の菅田天神社の国宝として大切に保存されています。

補足:『常山紀談』をベースにした2012年3月11日【天目山~武田勝頼の最期】もどうぞ>>
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2008年3月10日 (月)

日本の火葬の習慣はいつから?

 

文武四年(700年)3月10日、法相宗の僧・道昭が亡くなり、その遺言通り、ご遺体が火葬にされました・・・これが、日本で最初の火葬の記録です。

・・・・・・・・・・・・・

法相宗は奈良時代に栄えた南都六宗のうちの一つ・・・中国から、この道昭が伝えたもので、以前ご紹介した行基(2月2日参照>>)道鏡も、この法相宗です。

火葬はインドでは古くから行われていて、あのお釈迦様も火葬にされていて、その遺骨を納めるための舎利なる建物がある事もご存知でしょう。

そんな事から特に仏教徒の間で広く行われた火葬という葬り方は、仏教の広がりとともに、アジアの各地に伝わっていくのです。

日本でも、第一号のこの道昭さんを皮切りに、この2年後の大宝二年(702年)には、第41代・あの持統天皇(12月22日参照>>)が、やはりその遺言で火葬にされた事から、その後の文武天皇元明天皇元正天皇なども火葬にされ、天皇家の間に普及していく事になります。

それは、大化二年(646年)に出された薄葬令によって、葬儀の方式を簡素化しようとの考えが広まっていた事も相まって、徐々に貴族たちの間でも行われるようになり、万葉集の中でも「火葬る(やきはふる)という言葉が登場したり、火葬の際のたなびく煙に亡き人を思う歌が詠まれるほど、日本人の中にしっかりと根付く事になります。

ただし、この火葬の浸透のスピードが、思いのほか速いところから、ひょっとしたら、仏教伝来以前から、日本でも火葬が行われていたのではないか?という見方もあります。

もちろん、スピードだけではなく、大阪府堺市陶器千塚古墳群の中のカマド塚からは、粘土槨(かく)という棺を入れる外箱の中から、火葬された人骨が発見されているという事もあります。

この人骨は、一緒に出土した副葬品から、7世紀初めの頃の物ではないか?と推測されますが、仏教的な思想から来ている物かどうかというのは、未だ研究中との事です。

ひょっとしたら、道昭に始まって、その後、天皇家や貴族の間に広がりを見せる仏教由来の火葬とは別に、古くからの葬法の一つとして、日本では、土葬とともに火葬も行われていたのかも知れません。
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2008年3月 9日 (日)

金沢御坊・落城~加賀一向一揆の終焉

 

天正八年(1580年)閏3月9日、織田信長・配下の柴田勝家佐久間盛政が、加賀一向一揆の拠点・金沢御坊に突入!・・・ここに、約100年間続いた加賀一向一揆が終わりを告げました

・・・・・・・・・・・・

天正元年(1580年)に、越前朝倉(8月6日参照>>)近江浅井(8月27日参照>>)を倒してノリノリの織田信長・・・。

このまま、北陸を東へと進攻したいところですが、そこに大きく立ちはだかるのは、あの上杉謙信です。

ちょうどこの頃、信長に担いでもらって第15代・室町幕府将軍に君臨できると喜んだものの、大いに当てが外れた足利義昭(7月18日参照>>)が、「打倒!信長」の密書を各地の諸将に乱発していた事もあって、それに答える形で、天正五年(1577年)に謙信は、兵を西に向け、本願寺を味方につけながら、能登・七尾城(石川県)を手中に収め、上洛を決意します(9月13日参照>>)

万事休す・・・信長の勢いもここまでか!・・・と、思いきや、わずか半年後の天正六年(1578年)3月13日に、謙信は急死してしまうのです。

実子がおらず、後継者も決定していなかった上杉家は、すぐさま、上杉景勝(謙信の甥で謙信の養子)上杉景虎(北条氏政の弟で謙信の養子)・・・この二人の養子の間での後継者争い・「御館の乱」が勃発します(3月17日>>)

約二年間に渡って繰り広げられたこの後継者争い・・・当然の事ながら、上杉傘下の北陸の諸将たちは、ぶつかり合いがある度に出陣要請を受け、自身の城を離れては越後に赴く事が多くなります。

当の景勝と景虎ら自身も、己の事で精一杯・・・外敵に気を配る余裕もありません。

こんな絶好のチャンスを信長が指を加えて見ているワケがありません。

御館の乱の勃発後、わずか1ヶ月後の4月には、もともと越中(富山)の出身であった神保長住佐々長秋の支援を得て、飛騨の山中を通って越中に侵入

さらに8月には、謙信によって七尾城を追われていた長続連(ちょうつぐつら)の三男・長連龍(ちょうつらたつ)柴田勝家の支援を受けて進撃を開始します。

そして、いよいよ10月には、信長直属の忠臣・斉藤新五(斉藤龍興の弟とされ、後に本能寺で信長に殉死する)尾張・美濃の軍勢を率いて進攻(9月24日参照>>)・・・次々と、越中の支城を落していくのですが、実は、合戦らしい合戦があったのは、この最初の頃だけ・・・。

明けて天正七年(1579年)3月には、景虎の自刃により、ようやく御館の乱が終焉を見せ始め、謙信の後継者も上杉景勝に落ち着きますが、時すでに遅し・・・ウチワモメしてる間に越中の諸将の上杉離れが相次いだ事も手伝って、ほとんど戦う事なく、越中の大半を手中に収めてしまうという、織田勢にとっては、このうえないラッキーな展開となりました。

やがて、その年の末になって、あの十年に及ぶ石山本願寺との合戦(8月2日参照>>)が、正規町(おうぎまち)天皇妙向尼(みょうこうに・森蘭丸の母)が入る形で、講和に向かい始めた事で、未だ占拠され続けている加賀一向一揆の討伐に本腰を入れようと信長は考えます。

先ほどの越中に展開する軍勢に加え、柴田勝家佐久間盛政ら1万5千を、加賀(石川県南部)へと進攻させる信長・・・・。

ご存知のように加賀は、長享二年(1488年)に守護であった富樫政親(とがしまさちか)が籠る高尾城本願寺門徒が取り囲み、自刃に追い込んで(6月9日参照>>)以来、あの蓮如(2月25日参照>>)の息子たちである蓮悟(れんご)蓮綱(れんこう)蓮誓(れんせい)らを中心とする一向一揆の国となっていたのです。

その本拠地・金沢御坊は、その名を尾山御坊金沢坊舎とも呼ばれているものの、後に金沢城として生まれ変る事でもわかるように、その造りはまるで城と呼ぶにふさわしい物でした。

しかも、その強固な城砦に、松永丹波をはじめ、鈴木出羽守親子や富樫氏鏑木(かぶらぎ)といった面々が詰めているのですから、もはや農民相手の決戦ではありません。

勝家・盛政らは慎重に、周囲の拠点を一つ一つ崩して行き、徐々に金沢御坊を孤立させていきます。

そして、いよいよ天正八年(1580年)閏3月9日、織田勢が金沢御坊を包囲する中、盛政の軍勢が突入を開始し、一気に落城させます。

この日の戦いぶりを評価した信長は、この金沢御坊を盛政に与え、盛政はこれを尾山城と改め、ここを拠点に、この日逃走した一揆の残党を、さらに討伐する事となります(11月17日参照>>)

この後も、翌年の天正九年(1581年)の10月頃までは、一揆の残党がくすぶり続けますが、この金沢御坊の落城をきっかけに、高尾城の攻防戦以来、100年近く続いた本願寺門徒の国は、この世から消滅する事になったのです。
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2008年3月 7日 (金)

最後の将軍・慶喜の弟がパリ留学の間に・・・

 

慶応三年(1867年)3月7日、徳川幕府・名代としてフランスに派遣された徳川昭武がパリに到着しました

・・・・・・・・・・

徳川昭武(あきたけ)は、第9代水戸藩主・斉昭(なりあき)18番目の子供・・・つまり、徳川幕府の最後の将軍=第15代将軍の徳川慶喜の弟という事になります。

嘉永四年(1851年)に、ロンドンで第一回が開催されたあの万国博覧会・・・日本がその世界的イベントに初めて参加したのが、慶応三年(1867年)のパリ万博でした。

ちなみに、EXPO博覧会と訳したのは、当時の外国奉行・栗本鋤雲(じょうん)(8月13日参照>>)だと言われていて、フランスからのお誘いに応じた幕府・薩摩藩も、多くの美術品などを出品しましたが、刀や漆器といった日本文化はヨーロッパの人々にも目新しく刺激的で、大絶賛を浴びたそうです。

おりしも幕府は幕末の動乱の真っ只中でしたが、だからこそヨーロッパ諸国との親善も重要であり、結びつきをより強固にしておかねばならない状況でもありました。

そんなパリに親善大使・幕府名代として派遣されたのが昭武だったのです・・・なんせ、彼は将軍の弟ですから・・・。

時に昭武、15歳・・・親善大使としての大役を終えた後は、先の世を見据え、そのままパリに留学する手はずになっていました。

慶応三年(1867年)正月に横浜を出立した昭武くんご一行が、パリに到着したのは3月7日の事でした。

早速、フランス皇帝・ナポレオン3世と謁見し、幕府の代表として国書を読み上げる昭武くん・・・しかし、彼はまだ15歳の少年です。

緊張のあまり、手は奮え、足はガクガク・・・
冷や汗タラタラで、声を出そうにもどのトーンで第一声を発してよいものやら・・・

しかし、さすがは昭武くん、しばらくの沈黙の後、大きく息を吸って、何とか国書を無事読み終えました。

そんな昭武くんも、招待された歓迎パーティでは、ゆっくりと落ち着いていたようで、ヨーロッパのセレブたちの舞踏会の様子を・・・

「音楽に合わせて、男女入り乱れて踊る事が、こちらでは丁寧な歓迎らしいけど、なんだか、田舎の祭りでの酒盛りのようだった」
と、冷静に観察しています。

厳格なお家柄のお坊ちゃまは、やっぱ厳格な雰囲気で、いつもお酒を召し上がってたんでしょうか?

そして、パリの後にはイギリスなども訪問して親善大使の役を終えた後、再びフランスに戻って授業を受けたり、乗馬の練習をしたりなどの留学生活を経験したお坊ちゃま

しかし、その頃、日本では大変な事が起こっていました。

そう、兄貴の慶喜さんが大政を奉還しちゃってました(10月14日参照>>)

しかも、その後、鳥羽伏見の戦いも勃発!(1月2日参照>>)

結局、彼が帰国した翌年の11月は、すでに会津戦争(9月22日参照>>)も終結した後だったのです。

ギリギリセーフのところで、昭武は、第11代・水戸藩主を継ぎますが、お兄さんと同様、彼は最後の水戸藩主となってしまったのです。

せっかくの留学経験・・・この先、彼は活かす事ができたんでしょうか?

留学経験のある人が少ない時代であるだけに、できれば活かしてて欲しいなぁ・・・。
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2008年3月 6日 (木)

幕府公認の借金踏み倒し!永仁の徳政令

 

永仁七年(1297年)3月6日、鎌倉幕府が日本初の徳政令となる『永仁の徳政令』を発布しました。

・・・・・・・・・

徳政令というのは、一言で言うと『借金をチャラにする法令』・・・つまり、「借りた物を返さなくても良い」という事なのです。

こんな、ムチャクチャな法令を、御家人の救済だとかなんとか言いながら、よくもまぁ、出してくれたモンです。

この日本初の永仁の徳政令・・・いくつかの条かあったようですが、現在のところ3条のみが確認できます。

  1. 越訴(おっそ)を禁止する
    越訴とは、裁判で負けた人がもう一度訴える事・・・条文では、「一旦、負けたくせにしょーもない事でまた訴えんな!そんなんするから、裁判ばっかり増えんねん」的なニュアンスの事が書かれてます。
  2. 所領の質流れと売買を禁止する
    以前に買った物は、すみやかにもとの持ち主に返すべき・・・なんて言っておきながら、「御家人は、幕府の許しがある物と20年を経過してる物は返さなくて良い」のだそうです←自己中にもほどがある!
  3. 金銭貸借の訴訟はしない
    つまり、「こんなん困りますわ~」って庶民が訴えても聞いてもらえないって事ですね。

この徳政令発布の16年前と23年前の二度に渡ってやってきたフビライ蒙古襲来10月19日:文永の役>>6月6日:弘安の役>>))・・・たくさんの兵を出して日本を守った御家人に対して、幕府は充分な恩賞を与える事ができませんでした。

なんせ、相手は外国ですから、その敵地を占領して恩賞にする事ができませんので・・・。

その後、御家人たちの生活はどんどん苦しくなり、結局は所領を担保に借金地獄に陥るハメになってしまいます。

その救済のための徳政令です。

先ほどの条文の2番は特にヒドイですが、1番・3番も訴えられてる側がほとんど御家人ですから、完全に御家人だけが得するようにできてる令という事になります。

だいたい、この令を出してるのが、御家人の親玉の幕府ですからたまったもんじゃないですね。

しかも、一時的な救済にはなったものの、御家人の貧乏が解消されたわけではありませんので、根本的には何の救いにもなりませんでした。

・・・で、わずか一年後に、訴えを聞いてもらえないとなると、誰も御家人にお金を貸してくれないので1番は廃止され、御家人は借金しないとやっていけませんし、借金するには質札がいるのは当然の事なので2番も廃止・・・という事になってしまいました。

ここに始まった徳政令は、やがて年月を経て室町の頃になると、土一揆のスローガンとして、惣村の農民たちが一致団結して徳政を要求するという形に変わっていきます(9月18日:正長の土一揆参照>>)が、それも、戦国時代の後半以降、諸大名による守護の体制が整ってくる事によって、徳政令が出される事は、ほとんど無くなりました。

逆に、一揆は徳政を要求する手段ではなく、自治や独立を手にする手段として、山城の国一揆(12月11日参照>>)加賀の一向一揆(6月9日参照>>)のような形へと発展していくのです。

そんな、徳政令に関して、おもしろいエピソードを一つ・・・。

京都三条で宿屋を経営する主人が、ある日、「今日か明日にでも徳政令が出る」という噂を耳にします。

「よ~し、これは良い事を聞いたゾ!」
と、その主人は、宿に戻るなり早速、泊まっている客から、「用心のため大事な物をお預かりしますよ」と、金目の物を預かりまくります。

当時の宿と言えば、基本、相部屋ですから、無用心と言えば、かなり無用心・・・何も知らない客は、「これは、親切なご主人さん」とばかりに、快く預けます。

かくして、2~3日後、いきなりの徳政令の発布と相成りますと、その主人は、客たちの前で高らかに・・・

「さぁ、さぁ、徳政令が出ましたでぇ~。
これは、将軍様が天下の平等を考えてお出しになる御命令どす。
借りた物は、借りた者のモンになるっちゅー事で、皆さんからお預かりした品々は、皆、ワタシの物となりましたよって、どうも・・・」

客たちは、「しまった!」と思ったものの後の祭り・・・徳政令とあらば、もうどうしようもできません。

ところが、その場にいた客の一人がススス~ッと立ち上がり・・・
「そうかい、そうかい、将軍様のご命令とあっちゃ、こっちは聞くしかねぇよな。
でもよ、俺たちもアンタからこの宿を借りたんだから・・・って事は、この宿は、もう、俺たちの物って事だよな」

ハタと気が付いて、慌てふためく宿の主人・・・早速、お上に訴えますが、当然、聞き入れてもらえるわけもなく、欲を出した主人は宿を明け渡すしかなくなったという事です。

そりゃ、こんな法令、度々出されちゃぁ、人々も混乱しますわな。

ところが、一旦、戦国の世に消えたにも関わらず、江戸時代には、またまた、大名や旗本が借りたお金をチャラにする『棄損令(きえんれい)なんてのを、出したりなんかして、もう、いい加減にして!って感じですね。

でも、未だに、お上にはウヤムヤにされちゃってる気が・・・
一連の年金問題で「これは、泥棒ですからね!」っと大臣が高らに叫んでたけど・・・ちゃんと、解決してくださいよ~平成の政治家さん。
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2008年3月 5日 (水)

ミス日本に選ばれて退学処分~日本初のミスコン

 

明治四十年(1907年)3月5日、この日、日本初の美人コンテストが開催され、「ミス日本」が決定した事を記念して、今日3月5日は『ミスコンの日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

・・・といっても、現在のように、美人が一箇所に大集合して、水着やウォーキングを行っての審査ではなく、写真による審査のみではありますが・・・。

それは、アメリカシカゴ・トリビューンという新聞社が「世界一の美女を決めるコンテストを開催するので、日本代表を決めてくれないか?」と、日本の新聞社・時事新報に頼み込んできた事から始まりました。

とは言え、優勝賞品は18金のダイヤモンド指輪=300円相当と超豪華!

しかも審査員は、彫刻家の高村光雲、歌舞伎役者の中村歌右衛門、新派の河合武雄などなど・・・各界の一流どころがズラリと勢ぞろいです。

女優・芸妓その他、容色を売る者は除外とされ、あくまで素人の未婚の女性が対象・・・まさに、ミス・コンテストです。

そして、いよいよ明治四十年(1907年)3月5日、その第一位が発表されました。

栄冠に輝いたのは・・・ドゥルドゥルドゥル・・・ジャ~ン!

小倉市長末弘道方さんの娘さん・末弘ヒロ子さん、当時16歳!

本人にはナイショにして、姉の夫が勝手に送った写真で、見事一位を獲得したというオーディションの王道ともいうパターンでの当選でした。

しかし、今時のアイドル・オーデションと違って、どうやら彼女の場合は、本当に知らなかったようで、一位に決まった時は本人もかなりとまどった様子でした。

しかも、彼女は当時、学習院中等科に在学中のお嬢様・・

友人などは、わざわざ新聞の切り抜きを学校に持参して、彼女に見せつけながら・・・
「ごきげんよう、あなたの写真が、新聞に載っておりますわよ」
「いえいえ、これはワタクシではございませんワ、ごきげんよう」

・・・てな、庶民にはあり得ない雰囲気で大騒ぎとなってしまいます。

騒ぎを警戒した学校側は、「美人投票など校風にそぐわず」として、彼女に自主退学を迫ります

なんせ、その時の校長は日露戦争で第三軍を指揮した、あの伝説のカタブツ・乃木希典(9月13日参照>>)さんですから・・・。

主催者側の時事新報は、その新聞紙上で「退学要請とは厳しすぎる!」と学校側を強く批判しますが、学校の姿勢は変わる事なく、とうとうヒロ子さんは、自ら退学を申し出る事になってしまいました。

お気の毒に・・・

ただし、さすがは乃木大将・・・公には、否定しておきながらも、影ではちゃんとフォローしてます。

今は必ずしもそうとは言えなくなりましたが、この時代のお嬢様の最高の幸せと言えば、素晴らしい相手との結婚・・・

この時代の女性にとっては、学校に行くのも、知識を磨くと同時に、ある意味、嫁入り道具みたいな物ですからね。

しかし、これだけ大騒ぎをして中途退学してしまった彼女には、この先、良縁が舞い込んで来ることは、まずありません。

希典さんは、そっと、戦友の野津道貫侯爵に、「息子・鎮之助の嫁にどうだ?」と彼女の写真を見せるのです。

そりゃぁ、日本一の美女の写真を見せられちゃぁ、もう、野津家は二つ返事でOK!

ヒロ子さんは、めでたく侯爵夫人に納まって万々歳!といったところでしょうか。

Hirokosuehirocc_2それにしても、カワユイ・・・
今、見てもかなりの美人!

若き日の大原麗子さんのようだワ・・・「少~し愛して、長~く愛して」

昔の、美人と言われる女性の場合、「当時の美人の尺度は、今とは違うな」と思う事が時々あったりするのですが、彼女の場合は、もう別格です~。

今だと、写真審査のみなら、騙される確立高いですが・・・特に写メとプリクラは・・・

でも、これなら、そりゃ、一位になりますワ

長~く愛されて、幸せになったのなら良かった良かった・・・。
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2008年3月 4日 (火)

加藤清正らが石田三成を襲撃~家康・天下へのシナリオ

 

慶長四年(1599年)閏3月4日、加藤清正ら豊臣家・家臣の武闘派7名が石田三成を襲撃しました

・・・・・・・・・・

最終的には関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)にまで及んでしまう豊臣家・家臣の内部分裂の火種は、豊臣秀吉の晩年の頃から、すでにくすぶっていました。

その一番の標的となった石田三成・・・彼は、もともと近江(滋賀県)土豪の息子でした。

それは、天正二年(1574年)、まだ木下藤吉郎と名乗っていた秀吉が、初めて与えられた近江の領地をくまなく見て回っていた時の事・・・。

はりきって遠くまで出かけた秀吉は、疲れてノドが渇き、お茶でも貰おうと、ふと見つけたお寺に入っていきます。

すると、一人の小僧が、ぬるいめのお茶をたっぷりと、茶碗にてんこ盛り入れて持って来ました。

ノドが渇いていた秀吉は、すぐさまカブカブと飲み干し、「も~一杯!」とおかわりを要求。

すると、今度は、少し熱めのお茶を、茶碗半分くらい・・・

ふと、何かに気づいた秀吉が、それを確かめようと、もう一度、お茶のおかわりを頼みます。

すると、最後に持ってきたのは、さらに熱いお茶を、ほんの少しの・・・「これは・・・!」と、秀吉は確信します。

お茶は、熱いのをじっくり味わってこそおいしい物・・・しかし、人間、ノドが乾いている時には、飲みやすいぬるめのお茶をガブッといきたいものです。

その心理を見計らっての行動に感心した秀吉は、すぐさま、寺の住職に頼み込んで、この小僧を家来にします。

それが、石田三成・・・その人でした。

そんな、三成のほうも、一介の小僧から家臣に取り立ててくれた秀吉の恩に報いようと、忠義を尽くします。

特に、晩年、秀吉が天下を掌握してからは、中央集権的な政治を目指して、その片腕となって働きますが、昔から、合戦での武功を武器に出世してきた武闘派の家臣たちから見れば、たいした武功もない官僚の文治派が、出世をして実権を握っていく事が、どうも気に入らないワケです。

その、モヤモヤした分裂があからさまになるのは、秀吉の側室・茶々の懐妊のニュースが駆け抜けた頃から・・・。

長年、待ち焦がれていた後継ぎの誕生に有頂天の秀吉は、京都伏見淀城を建て、茶々にプレゼントします。

淀城の城主となって、淀殿と呼ばれるようになった茶々・・・彼女は、あの織田信長の妹・お市の方と近江の浅井長政の娘ですから、当然のように彼女の周りには、近江の出身者が集まる・・・そのトップが三成です。

一方、尾張(愛知県)出身の武将たちは、やはり、尾張の頃からお世話になってる北政所(正室のねね)を中心に結束・・・この代表格が加藤清正福島正則といった武闘派の面々です。

・・・と、ここに、この豊臣家の分裂を、じっくりと観察する男が一人・・・あの徳川家康です。

家康にとっては、文治派も武闘派もありません。

見据えているのは、豊臣家のその先の天下・・・あっちに同調し、こっちに味方しながら、更なる分裂の糸口を見つけようとしていたに違いありません。

そんな分裂に拍車をかける出来事が起こります。

文禄・慶長の2回に渡って行われた秀吉の朝鮮出兵です(4月13日参照>>)

この時、三成たち文治派は、秀吉の名代として在陣奉行という役を任され、各武将たちの戦いぶりを、日本にいる秀吉へと伝える役回りだったのです。

「あそこがいけなかった」「ここがどうだった」と、鋭く指摘する三成・・・もちろん、これも三成からすれば、秀吉の恩に報いる忠義の現れなのですが、武闘派の面々から見れば「なんで、お前に評価されなアカンねん!」ってなモンです。

結果的に、痛手を被っただけの戦いになった朝鮮出兵・・・武闘派たちは、「三成らはウソの報告をして、俺らが惨敗した事になってる」と怒り、文治派は、「監督の俺らの言う事を全く聞かないから戦いがうまくいかなかった」と反発し、更なる亀裂が広がるのです。

・・・と、ここで、またまたラッキーな家康さん。

関東から兵を率いて、九州までやって来てはいたものの、たまたま現地への出兵が無かった事で兵力は温存されたまま(1月26日参照>>)更なる豊臣家の分裂というオマケまでいただいて、おそらく、心の中では笑いが止まらなかった事でしょうが、そこは大笑いは避けて、含み笑い程度に保ちつつ徐々に本性を現しはじめます。

やがて、訪れる一大転機・・・慶長三年(1598年)8月、秀吉の死去です(8月18日参照>>)

秀吉亡き後の家康は、その遺志に背いて、他の大名との婚姻を結んだり、家禄を加増したりして自分の地盤固めを始めるのですが、そんな中で、慶長四年(1599年)閏3月3日、秀吉亡き後の大黒柱だった前田利家が亡くなる(3月3日参照>>)と、その夜、武闘派の面々の不満が爆発するのです。

日付が変わった慶長四年(1599年)閏3月4日・・・加藤清正福島正則黒田長政細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明7名が、兵を率いて三成の屋敷を襲撃したのです。

直前にこの襲撃を知った三成は、清正らが到着する前に、かろうじて脱出して逃走します。

そして、彼が逃げた込んだのは・・・なんと家康のところ。

実際に屋敷に逃げ込んだとも伏見城に逃げ込んだとも言われますが、いずれにせよ家康を頼ったか、もしくは、暗殺しようとして侵入したか・・・

利家が亡くなり、自分も命も危ないとなれば、この先、家康を止められるような者がいなくなりますから・・・。

しかし、そんな三成を家康は助けるのです。

家康の意図ははっきりしてします。
ここで、三成に、死なれちゃ困ります。

おそらく、すでに家康には、関ヶ原への構図が出来上がっていたはずです。

豊臣を潰して天下を取るためには、合戦で勝利して自分が一番強いところを見せなければなりませんが、実質的に一番の実力者とは言え、現在の自分はあくまで豊臣の家臣の一人ですから、単に豊臣家に合戦を仕掛ければ、主君に謀反を起した事になり、他の全員を敵に回す事になります。

ここは、一つ、豊臣家の内部分裂を利用して、豊臣家内で、誰かと誰かが戦う構図を作り出し、その先頭を切って合戦を仕掛ければ、自分が謀反人となる事なく合戦を行う事ができます。

せっかく、今まで、チャンスの度に、徐々にクサビを打ち込んで、分裂を広げて来たのですから、ここで三成が清正らに討たれて、事態が終息してしまっては元もこもありません。

かくして三成は、家康の息子・結城秀康に守られて、無事、佐和山城へ帰還・・・ただし、武闘派たちの手前、奉行からは引退し、謹慎の処分に・・・。

こうなると、天下は豊臣家の物であるにも関わらず、実質的には、家康がほとんどすべての実権を握る事になるのですが、その状況を三成が我慢できない事も、ひょっとしたらお見通し・・・だったのかも、ですね。

そして、翌年、「再三の上洛要求に従わない会津(福島県)上杉景勝を討つ」という口実で、伏見城をあとにする家康・・・この時の家康の主治医・板坂卜斎の日記によれば、「家康は超ゴキゲンで、笑いが止まらなかった」との事です。

「自分が、主要メンバーを連れて畿内を離れれば、三成は必ず攻めてくる。
そうすれば、合戦を仕掛ける口実ができる」
・・・それを、確信しての高笑いだった事は間違いないでしょうね。

果たして・・・おっと、この続きは、すでに書いております『7月19日:伏見城攻防戦と養源院の血天井』のページでどうぞ>>>
 

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2008年3月 3日 (月)

意外に新しい?雛祭りの起源と歴史

 

今日は3月3日・・・ひなまつりです。

定番ではありますが『雛祭りの起源』なんぞ書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・

雛祭りには、「上巳(じょうし)の節句」「桃の節句」「重三(ちょうざん)」「元巳(げんし)などという別名がありますが、これらは、はじめ、3月の最初の巳の日の事を、節目の日として、こう呼んでいましたが、いつしか3月3日の事を言うようになりました。

中国では、この日に水辺で禊(みそぎ)をして、身を清めて邪気を祓う「上巳」という習慣がありました。

一方の日本では、1月・3月・5月・9月などの節目の日に、人の形をした紙で身体を撫でて、邪気をその紙に移した後、川や海に流すという習慣がありましたが、中国での「上巳」の事が伝わったのと、3月のはじめという季節が、農作業開始の直前という農耕民族にとって重要な節目であった事から、いつしか、この行事が3月にのみ行われるようになっていったのです。

その日は、女性や子供たちが野山に出て、花見などを行って邪気を祓う「タマフリ」(1月31日参照>>)という儀式も行われていましたが、あくまでこの行事に使用する人形は『呪具』・・・けがれを祓うための呪術的な人形でした。

そして、その行事とは、まったく別のところで、平安時代に貴族階級の女性の間で『ひいな』という人形を使って人形遊びをするのが流行していて、人形やお道具なんかもすでに存在していました。

室町時代には、公家の間で、この雛人形や道具を若い女性に贈るという習慣がありましたが、それは、その3月3日の行事とは関係の無い物だったのです。

その雛遊びに使用する人形が、3月3日に飾られはじめるのは、江戸時代に入ってからです。

はじめは、紙でできた人形を、屏風の前に2~3対並べ、それにお餅やお酒をお供えするだけの簡素な物でしたが、それが、江戸中期に入って、武家や裕福な町人たちの間に広まるとともに、人形制作の技術が飛躍的に発達し、人形飾りはどんどんと豪華な物になっていき、やがて、皆さんが目にするような公家装束の雛人形が登場し、美術品としての価値も高まります。

以前、『針供養の起源』(2月8日参照>>)で書かせていただいた淡島願人(あわしまがんじん)というお坊さんたちの祭文(歌の形をした語り物)にも、雛祭りの話が出てきましたが、これも江戸時代のお話です。

江戸後期になると、内裏雛に加えて、三人官女や五人囃子といった主要メンバーが加わりはじめ、それとともに段数も増えていく事になりますが、この頃になって、やっと女の子の初節句を祝う行事という意味が定着し、セレブの間で盛んに、雛人形が贈答されるようになるのです。

このような「3月3日に雛人形を飾って女の子の成長を願う行事」としての雛祭りが、一般庶民の間にも定着するのは、明治に入ってからの事・・・以前、書かせていただいた『七五三』(11月15日参照>>)同様、以外に新しい行事だったんですね。
(古代からの行事のような印象があったので…)

そんなおひなさまの、並び順ですが・・・
最初は、向かって右に男雛(おとこびな)が飾られていました。

それは、日本に古くからあった左尊右卑という考えから、宮中での儀式がその並びであったと言われています。(京雛は今もそのままです)

それが、現在のように、男雛が向かって左になるのは、武士の結婚式の並び方だったから・・・という説もありますが、ホントのところは昭和天皇が皇后陛下と並ばれる時に、西洋式を取り入れて、向かって左にお立ちになった事で、東京の人形協会が男雛を向かって左に定めた事をきっかけに定着したのだとか・・・。
{めっちゃ最近やん!)

Dscn0624

ちなみに、雛祭りを桃の節句と呼ぶのは、桃の季節だからではなく古事記イザナギノミコトのピンチを救った事から、桃には邪気を祓う力があるとされていた事によるものだそうですよ。

わが家は、今年も飾るの遅れたよ~
でも、最近は「結婚=幸せ」とは限らないから・・・まぁ、いいか。
 

「なるほど」と思っていただけましたら
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2008年3月 2日 (日)

岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断

 

元亀三年(1572年)3月2日、武田信玄の重臣・秋山信友に攻められながらも、籠城を続けていた岩村城が開城されました。

・・・・・・・・・・・・

岩村城は、現在の岐阜県恵那市岩村町にあった山城です。

戦国時代、ここは美濃(岐阜県南部)の国の南東部にあたり、東は信濃(長野県)、南は三河(愛知県東部)に接する場所で、交通の要所であり、軍事的にも、とても需要な位置にありました。

その事は、あの信長の父・織田信秀(信長の父)もいち早く気づいていたようで、鎌倉時代からこの地を守る遠山氏の末裔・岩村城主の遠山景任(かげとう)に、妹のおつやの方正室として嫁がせ、その傘下に取り込んでいました。

*注:おつやの方は、通常、岩村殿と呼ばれていて、その名前にはおゆうの方お直の方など諸説ありますが、今日のところはおつやの方と呼ばせていただきます。

さらに、景任とおつやの方の間には、子供がいなかった事から、信秀の息子・織田信長も、わが子・御坊丸(ごぼうまる・信長の四男か五男で後の勝長または信房)を、夫婦の養子として岩村城に送り込んでいました。

しかし、当然の事ながら、この地を重要視するのは織田ばかりではありません

甲斐(山梨県)武田信玄も、この地に目を着け、何とか岩村城を手に入れようと永禄年間から、たびたび攻撃をしかけていました。

・・・が、しかし、岩村城は、日本三大山城に数えられるほどの天然の要害・・・その上、景任もなかなかの智将で、その巧みな防御に悩まされ、城を落とす事はできないでいました。

そんなこんなで、何とか守り抜いていた岩村城でしたが、元亀二年(1571年)の12月3日、突然、その景任が病死してしまうのです。

この死に関しては、再三再四、武田に攻められていた事で、討死という話もありますが、今のところ病死の説が強いようです。

とにもかくにも、城主の死は一大事です。
なんせ、この時、後継者であるはずの御坊丸はまだ6歳ですから・・・。

事実上、正室のおつやの方が、女の身で城主となり、城の防御に努めますが、その異変はすぐに武田方の知るところとなります。

この時、主君の命を受けて、岩村城攻めにあたっていたのは、信玄の重臣・秋山信友(晴近・虎繁)

信友は、即座に、今までの力攻めを中止し、秘密裏に密書を送り、遠山方の重臣たちを順々に寝返らせるジワジワ作戦に切り替えます。

3ヶ月以上にわたる籠城・・・そして、徐々に寝返りはじめる家臣たち・・・敗戦の色濃くなって、不安な空気に包まれる岩村城内。

そのころあいを見計らって、信友は、開城の話を持ちかけはじめます。

その条件は、なんと!未亡人となったおつやの方を自分の妻にする事・・・。

父・信秀の妹という事は、信長にとって叔母にあたるわけですが、このおつやさん・・・年齢的には、まだまだ若く、しかも、かなりの美人だったというウワサ。

『巌邑府誌』によれば・・・信友はおつやの方に、
「若守孤城将為誰耶、人生如白馰過隙青年若守、通婚媾之好」
 
「これ以上、誰のために城を守るんや?
人の人生なんか一瞬の事や…君はまだ若い。
俺と結婚してくれへんか?」

と言ったのだとか・・・
(*v.v)。くぅ~こんなん言われたいやおまへんかぁ❤戦場やと萌えるゼ!

いつの時代も美人は得~と、言いたいところですが、このなりゆきは得なのか?損なのか?

彼女の心情がわからないだけにビミョーですが、信友がめっちゃイケメンなら得かも(←顔で決めんな!)

もともと、遠山景任さんに嫁いだのも政略結婚なわけですし、この時代の武家の姫の結婚に、本人の心情がからむ事は、はなから無いわけで、現代の常識で物を言う事はできないですから・・・。

彼女は彼女なりに悩んだに違いありませんが、それこそ夫も亡くなり、家臣たちも寝返り、籠城の中、誰にも相談する事もできず、自らの意思で、その答えを導き出したのでしょう。

そして、元亀三年(1572年)3月2日、彼女は、信友の条件を呑んで岩村城を開城したのです(第一次攻防戦)

彼女が信友と結婚するという事は、つまりは、信友が城主という事になり、岩村城は武田の傘下となるのです。

信長の息子・御坊丸は、表向きは養子、実質的には人質となって甲斐へ送られます

当然ですが、この一件に関して信長は激怒です。

特に、息子を人質に出された事は、許し難く、早速、この年の12月には、長男の信忠を大将に、岩村城を攻めさせますが、最初に書いた通り、天然の要害である城は、そう簡単には落とせません(第二次攻防戦)

そんな中、翌年には信玄が亡くなり、3年後の天正三年(1575年)には、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)で、武田は織田・徳川の連合軍に手痛い敗北を受けてしまい、この岩村城は孤立状態となってしまったのです。

それを機に、再び岩村城を奪回しようと、攻め寄せる織田軍(第三次攻防戦)

しかも、今度は、力攻めばかりではなく、策略も張り巡らせます。

実際には、武田の援軍が近くに来ているにも関わらず、その事を岩村城内に悟られないよう開城を持ちかける信長・・・。

「縁者の城が炎に包まれる姿を見たくない」なんて、心の扉を開かせるようなセリフもあり、信友らは、助命の約束を信じて開城に踏み切りました。

しかし、信長が助命を許したのはその他の人々・・・城主・信友と主要メンバー5名は、長良川の河川敷で、逆さ磔(はりつけ)の刑となり、命を落とす事になります。

その5名の中には、おつやの方も含まれていたとか・・・。

同盟の証しとしての意味合いが大きく、本人の意思とは無関係に家同士が決める戦国女性の結婚・・・そんな中、今回の彼女の結婚は、おそらく彼女自身が決断した結婚だった違いありません。

しかし、おつやの方の決断は、信長にとって裏切り行為以外の何物でも無かったようです。

ならば、どうすれば良かったのでしょう?

城に残った者たちとともに、自害すれば良かったのでしょうか?
それとも、死ぬまで籠城を続ければ良かったのでしょうか?

そうすれば、信長は喜んだのでしょうか?

いずれにしても、戦国時代の女性の生き方を考えさせられるお話です。

Iwamuraotuyasakuracc 今日のイラストは、
おつやの方の、はかないような、悲しいような・・・

彼女のイメージと、少し早いですが・・・来るべき春に思いを寄せて『流水に散る桜』を描いてみました~

*この時に武田の人質となった御坊丸が信長のもとに戻るのは天正九年(1581年)頃とされています(4月4日参照>>)
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2008年3月 1日 (土)

陸軍禁野火薬庫大爆発~未来への記憶・枚方平和の日

 

昭和十四年(1939年)3月1日、当時、大阪・枚方にあった陸軍禁野火薬庫で、爆発事故が起こり、多くの犠牲者が出ました。

・・・・・・・・・・

Kinyakayakukotizucc 大阪府枚方市・・・京阪電車枚方(ひらかた)市駅から京都方面へ向かうと、次ぎの駅は御殿山(ごてんやま)になります。

平安の昔、枚方一帯は交野(かたの)ヶ原と呼ばれていて、京の都に近い遊猟地として栄え、多くの貴族たちが、この地で鷹狩りや花見などを楽しみました。

特に、この枚方市駅から御殿山駅にかけてのあたりは、天皇家をはじめとする高貴な身分の人しか狩りをする事が許されず、禁野(きんや)と呼ばれていました。

第55代・文徳天皇の第1皇子だった惟喬(これたか)親王は、時の実力者・藤原良房の娘が生んだ、わずか生後8ヶ月の弟(後の清和天皇)に皇太子の座を奪われた悲運の皇子ですが(12月4日参照>>)、その惟喬親王の別荘・渚の院が、この近くにあり、親王はその寂しさを紛らわすため、あの在原業平(ありわらのなりひら)とともに、よく、この地で狩りをしたと言われています。

今でも周辺には、という地名や禁野という地名が残っています。

現在、この枚方市駅から御殿山にかけての高台一帯には、中宮団地という大きな団地が建っていますが、かつては、この団地の一帯が軍の用地でした。

中宮団地のお隣には、小松製作所があるのですが、この小松製作所の前身が『陸軍枚方製造所』です。

枚方製造所は、当時、100万㎡の地に、9つの工場が建ち並び、1万人を超える工員が砲弾の製造に携わっていました。

その枚方製造所の西側の広大な敷地を占めていたのが、『禁野火薬庫』です。

日清戦争の真っ只中の明治二十七年(1894年)に買収を開始した用地に、急ピッチで建設が進められ、火薬庫が完成したのは明治二十九年(1898年)の事でした。

あの伊藤博文ハルピンで暗殺された明治四十二年(1909年)には、ダイナマイトの自然発火による爆発事故を起こし、10名の負傷者と周囲の家屋・約1500戸が半壊する事態となり、火薬庫の危険性を感じた周辺住民からは、再三再四、反対の声が寄せられますが、戦争の足音とともに、むしろ火薬庫は、どんどんと拡張されていったのです。

その拡張に伴い、危険を感じた住民は自ら移転をしたり、あるいは、高台にあった家などは、「火薬庫内部が覗けるのではないか?」と疑われ、軍によって強制的に転居させられた家もあったそうです。

家だけなら、まだしも、先祖代々のお墓まで移転させられたのだとか・・・当時はまだ土葬だったという事なので、いったいどうしたのか?・・・さぞかし、大変だった事でしょうね。

現在、香里団地の建つ香里ヶ丘には、当時、日本有数の火薬製造所・香里製造所があり、そこから運ばれた火薬が、枚方製造所で砲弾に詰められ、禁野の火薬庫に運ばれるシステムになっていたのです。

砲弾の輸送には、旧国鉄の片町線(学研都市線)が使用され、津田駅からと星田駅から、製造所への鉄道の引き込み線が敷かれていました。

工員の輸送には京阪電車が利用され、周辺には10棟もの寮も完備されていたようで、その規模の大きさがわかるという物です。

しかし、規模が大きければ大きいほど、その危険性も高くなるのは当然の事・・・。

そして、とうとう、昭和十四年(1939年)3月1日、当時、枚方周辺で、最も大きな建物であったであろう禁野火薬庫が、未曾有の大事故を起してしまうのです。

Kinyakayakukoenzyoucc 原因は砲弾解体中の発火。

第15号倉庫で燃え上がった火は、保管されていた爆薬に次々と引火し、5時間の間に、29回もの爆発を繰り返し、炎は2日間燃え続けました。

死者・96名、負傷者・604名、家屋への被害は、全半壊含め中宮で300戸以上、禁野で70戸、渚・17戸、磯島・6戸・・・その爆発音は、京阪一帯に響き渡り、爆弾の破片は半径2kmに渡って飛び散ったと言います。

結局、この事故で全焼してしまった禁野火薬庫は、同じ地に再建築される事なく、翌年、少し離れた三山木(京田辺市)に、禁野火薬庫を引き継ぐ形で建設された施設へと移行されたのです。

やがて、昭和三十一年(1956年)、この地は、高度成長期を象徴するかのようなマンモス団地として生まれ代わったのです。

現在の、中宮団地には、火薬庫を囲っていた土塁が、一部、石垣のように残されたいますが、当然の事ながら無くなっていく物もあります。

鉄道の引き込み線は、今は道路となっています。
かつては、渚から禁野に抜ける川で、一部砲弾を船で運んでいた船着場も、今や跡形もありません。

いつしか、禁野火薬庫は人々の記憶から消え去ってしまうのでしょうか・・・。

現在、枚方市は、今日3月1日『枚方平和の日』とし、かつて引込み線が走っていた道路を『中宮平和ロード』と名付け、未来へと伝えようとしています。

確かに、火薬庫の爆発は事故です。
誰も、わざと爆発させようと思って爆発させたわけではありません。

しかし、日本が太平洋戦争へとまっしぐらに走っていた時代・・・おそらく、この仕事に従事していた労働者には、学徒動員された少年少女や、働き盛りを失った家を守るお年寄りが数多く含まれていたと思われます。

戦地に散った兵士でもなく、空襲で命を落としたわけでもない・・・そんな戦争の犠牲者もいた事を、記憶にとどめておく事も必要なのではないでしょうか。
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